江戸時代の観想(顔や身体の相から運命を鑑定する占術)の大家、水野南北が、膨大な数の鑑定を行いながら人々と対話し観察した末、万に1つの外れもなしと断言したことは、「食が少なければ幸福、食が多ければ不幸」ということである。
彼の鑑定の信頼性は比類なく、全国から鑑定依頼者が押し寄せて、南北は7つの蔵を持つ長者となり、弟子は孫弟子等も含めると千人を超えた。また、牢屋敷(刑務所)に入れられた元チンピラヤクザであった彼が、天皇により貴族にまで序せられた。皇室からも鑑定の依頼があり、そして感服させたからだ。ついでに言っておくと、当時の牢屋敷は、生きて出られるかどうかなど全く分からないようなところで、それが、江戸の治安維持に役立っていた。そこに入れられるのは、余程のことであった。
少食・粗食なら健康で幸運、大食・美食であれば、不健康で衰運というのは確かと思う。
ただし、十分な食欲を持った上での食の慎みであることが大切だ。
病気や精神的な問題で、いわば強制的な少食、粗食を強いられている場合は、食を慎んでいることにはならないのだ。
ある国で、政府により、数年間の沈黙を強制された政治活動家が、「完全なマウナ(沈黙の行)を達成した」と宣言したことについて、ラマナ・マハルシは「強制された沈黙はマウナではない」と指摘したことがあったのと同様である。
マハルシ自身は、16歳で悟りを開いた後、3年以上のマウナを行った。実際は、マハルシは生涯に渡って、ほとんど会話をしなかったと言われる。彼は、最も重要なことは沈黙をもって教えたのである。だが、それでは伝わらない平凡な人間を哀れんで、会話でも教えたのだ。それが現在も書籍で伝わっている。
即ち、健康で幸運に恵まれたいなら、ただ食を慎めば良いということになる。
ただ、誰もが思うままに食を慎むことが出来るわけではないのだ。
これは、根性とか品性の問題ではなく、食を慎むよう運命付けられていなければ、決して食を慎むことは出来ないということなのだ。
美味しいものを沢山食べることが人生の目的と心得る者に、いくら食の慎みを説いても無駄である。
また、昨今は、テレビその他で、人々に飽食・美食の欲望を煽るものが非常に多いが、これもまた必然であり、それに乗せられている多数の人々は悲惨な状況に落ち込む運命を果たさなければならないのだ。
私は、2008年7月までは、大食、肉食で、しかも、甘いものに目がなく沢山食べていたが、ある日突然、1日1食の菜食主義者となり、間食の一切をしなくなった(現在は、朝に甘いものを少し摂る)。別に病気で食欲が無くなった訳ではない。ほとんど気紛れのようなものだった。それが4年近く、全く問題なく続いており、その間、健康度は飛躍的に上がり、エネルギーに溢れるようになって、毎日1日も欠かさず肉体トレーニングを行い、幸いにして、美的で強靭な肉体の持ち主になった。
少食と健康・幸運の秘密はこうである。
宇宙を動かす至高の英知を神と呼ぶなら、人の生涯の運命は、神によって、生まれる前に完全に決められている。それは、決して変更されることはなく、まして、人がそれに影響を与えることは絶対に出来ない。
そして、神によって、健康で恵まれた状況で過ごすよう運命付けられた人間というのは、同時に、神によって、食を慎む性質が与えられているのである。
水は高いところから低いところに流れるし、熱は熱いところから冷たいところに移動するが、それがこの世の法則である。それと全く同様に、食を慎めば肉体は活性化して完全になり、衣食住の獲得は簡単になり、社会生活も安楽になるのが、この世の法則なのである。
だから、健康で幸運になるよう定められているなら、食を慎むようになることが、神によって運命付けられているのである。
では、食を慎むよう運命付けられていない者はどうすれば良いのであろう。
若い間は、比較的、大食であっても健康や運勢に影響は無いのであるが、ある程度の年齢になれば、そんな食生活のままでは、肥満して醜くなり、健康は損なわれ、社会的な状況も厳しくなるのである。それは避けられない。
水が低いところから高いところに流れないように、大食、美食であって、健康で安楽であることはない。
だが、真の幸福である平安に関しては別なのだ。
食を慎み、健康で社会的にも恵まれていても、必ずしも幸福で平安だとは限らない。
一方、美食、大食で、健康状態が悪く、借金にまみれ、家族に見捨てられた状態であっても、平安を得て幸福であることも有り得る。
もっとはっきり言えば、健康や社会的経済的状況など、真の幸福とはあまり関係が無いのだ。
真の幸福とは、いかなる状況であろうが、それを自分でどう意味付けるかの問題なのだ。
人の思考や感情もまた、神によって全て決められているのである。つまり、何を考え、どう感じるかも、神の意思によるのであり、人間に自由意志というものはない。これは既に、科学的にも解明されていることと言って差し支えないと思う。
だが、自働的に浮かんだ思考や感情に執着するか、そうではなく解き放つかだけは自分で決められるのである。
そして、いかなる出来事や精神活動に対しても、執着せずにいれば、平安が得られるのである。そうあるためには、子供の姿が素晴らしい教材になる。
子供は、遊んでいる間は夢中になっているが、終わってしまえば忘れてしまう。ラマナ・マハルシが、賢者はある意味で子供に似ていると言ったのは、そのようなところである。
イエスが、「幼子のようでなければ天国に入れない」と言ったことは、よく知られていると思う。
子供は、浜辺で熱心に砂の城を作っても、帰る時間になれば、それをあっさり蹴飛ばして壊してしまう。まるで神様だ!
大人のように、それがいつまでも残ることを望んだりしない。
レイ・ブラッドベリの短編小説『みずうみ』で、死んだ12歳の美少女タリーは、浜辺にやってきて砂の城を作った。かつては、ハロルドと一緒に何度も作り、何度も壊したのだ。それを今は、彼女をさらった波が壊していく。私は、そこに何かを感じるのである(小説と、萩尾望都さんによる漫画を下にご紹介しておく)。
出来事や感情に執着しないためにはどうすれば良いかというと、自分が完全に無力であることを受け入れ、全てを神の意思に完全に、無条件に委ねるしかない。
同じことを荘子は、一切をあるがままに受け入れ、思慮分別を捨て、全てをなりゆきに任せれば、永遠の道(タオ)と一体となることができると述べたのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、「まること(まるごと一切を)神に任せてしまえば、嬉しいこと、面白いことばかりだ」と常に教えた。
ただ、この嬉しい、面白いというのは、自我にとってのことではない。自我から見れば、辛かったり、不満であるかもしれないが、その辛さを感じる自我が消えるのであり、そうなれば、嬉しいこと面白いことばかりなのである。なぜ、そう言えるかというと、真の自己とは、存在、意識、至福であることが、聖典によって保障されると共に、悟りを開いた聖者達によって体験されているからである。
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彼の鑑定の信頼性は比類なく、全国から鑑定依頼者が押し寄せて、南北は7つの蔵を持つ長者となり、弟子は孫弟子等も含めると千人を超えた。また、牢屋敷(刑務所)に入れられた元チンピラヤクザであった彼が、天皇により貴族にまで序せられた。皇室からも鑑定の依頼があり、そして感服させたからだ。ついでに言っておくと、当時の牢屋敷は、生きて出られるかどうかなど全く分からないようなところで、それが、江戸の治安維持に役立っていた。そこに入れられるのは、余程のことであった。
少食・粗食なら健康で幸運、大食・美食であれば、不健康で衰運というのは確かと思う。
ただし、十分な食欲を持った上での食の慎みであることが大切だ。
病気や精神的な問題で、いわば強制的な少食、粗食を強いられている場合は、食を慎んでいることにはならないのだ。
ある国で、政府により、数年間の沈黙を強制された政治活動家が、「完全なマウナ(沈黙の行)を達成した」と宣言したことについて、ラマナ・マハルシは「強制された沈黙はマウナではない」と指摘したことがあったのと同様である。
マハルシ自身は、16歳で悟りを開いた後、3年以上のマウナを行った。実際は、マハルシは生涯に渡って、ほとんど会話をしなかったと言われる。彼は、最も重要なことは沈黙をもって教えたのである。だが、それでは伝わらない平凡な人間を哀れんで、会話でも教えたのだ。それが現在も書籍で伝わっている。
即ち、健康で幸運に恵まれたいなら、ただ食を慎めば良いということになる。
ただ、誰もが思うままに食を慎むことが出来るわけではないのだ。
これは、根性とか品性の問題ではなく、食を慎むよう運命付けられていなければ、決して食を慎むことは出来ないということなのだ。
美味しいものを沢山食べることが人生の目的と心得る者に、いくら食の慎みを説いても無駄である。
また、昨今は、テレビその他で、人々に飽食・美食の欲望を煽るものが非常に多いが、これもまた必然であり、それに乗せられている多数の人々は悲惨な状況に落ち込む運命を果たさなければならないのだ。
私は、2008年7月までは、大食、肉食で、しかも、甘いものに目がなく沢山食べていたが、ある日突然、1日1食の菜食主義者となり、間食の一切をしなくなった(現在は、朝に甘いものを少し摂る)。別に病気で食欲が無くなった訳ではない。ほとんど気紛れのようなものだった。それが4年近く、全く問題なく続いており、その間、健康度は飛躍的に上がり、エネルギーに溢れるようになって、毎日1日も欠かさず肉体トレーニングを行い、幸いにして、美的で強靭な肉体の持ち主になった。
少食と健康・幸運の秘密はこうである。
宇宙を動かす至高の英知を神と呼ぶなら、人の生涯の運命は、神によって、生まれる前に完全に決められている。それは、決して変更されることはなく、まして、人がそれに影響を与えることは絶対に出来ない。
そして、神によって、健康で恵まれた状況で過ごすよう運命付けられた人間というのは、同時に、神によって、食を慎む性質が与えられているのである。
水は高いところから低いところに流れるし、熱は熱いところから冷たいところに移動するが、それがこの世の法則である。それと全く同様に、食を慎めば肉体は活性化して完全になり、衣食住の獲得は簡単になり、社会生活も安楽になるのが、この世の法則なのである。
だから、健康で幸運になるよう定められているなら、食を慎むようになることが、神によって運命付けられているのである。
では、食を慎むよう運命付けられていない者はどうすれば良いのであろう。
若い間は、比較的、大食であっても健康や運勢に影響は無いのであるが、ある程度の年齢になれば、そんな食生活のままでは、肥満して醜くなり、健康は損なわれ、社会的な状況も厳しくなるのである。それは避けられない。
水が低いところから高いところに流れないように、大食、美食であって、健康で安楽であることはない。
だが、真の幸福である平安に関しては別なのだ。
食を慎み、健康で社会的にも恵まれていても、必ずしも幸福で平安だとは限らない。
一方、美食、大食で、健康状態が悪く、借金にまみれ、家族に見捨てられた状態であっても、平安を得て幸福であることも有り得る。
もっとはっきり言えば、健康や社会的経済的状況など、真の幸福とはあまり関係が無いのだ。
真の幸福とは、いかなる状況であろうが、それを自分でどう意味付けるかの問題なのだ。
人の思考や感情もまた、神によって全て決められているのである。つまり、何を考え、どう感じるかも、神の意思によるのであり、人間に自由意志というものはない。これは既に、科学的にも解明されていることと言って差し支えないと思う。
だが、自働的に浮かんだ思考や感情に執着するか、そうではなく解き放つかだけは自分で決められるのである。
そして、いかなる出来事や精神活動に対しても、執着せずにいれば、平安が得られるのである。そうあるためには、子供の姿が素晴らしい教材になる。
子供は、遊んでいる間は夢中になっているが、終わってしまえば忘れてしまう。ラマナ・マハルシが、賢者はある意味で子供に似ていると言ったのは、そのようなところである。
イエスが、「幼子のようでなければ天国に入れない」と言ったことは、よく知られていると思う。
子供は、浜辺で熱心に砂の城を作っても、帰る時間になれば、それをあっさり蹴飛ばして壊してしまう。まるで神様だ!
大人のように、それがいつまでも残ることを望んだりしない。
レイ・ブラッドベリの短編小説『みずうみ』で、死んだ12歳の美少女タリーは、浜辺にやってきて砂の城を作った。かつては、ハロルドと一緒に何度も作り、何度も壊したのだ。それを今は、彼女をさらった波が壊していく。私は、そこに何かを感じるのである(小説と、萩尾望都さんによる漫画を下にご紹介しておく)。
出来事や感情に執着しないためにはどうすれば良いかというと、自分が完全に無力であることを受け入れ、全てを神の意思に完全に、無条件に委ねるしかない。
同じことを荘子は、一切をあるがままに受け入れ、思慮分別を捨て、全てをなりゆきに任せれば、永遠の道(タオ)と一体となることができると述べたのである。
江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠も、「まること(まるごと一切を)神に任せてしまえば、嬉しいこと、面白いことばかりだ」と常に教えた。
ただ、この嬉しい、面白いというのは、自我にとってのことではない。自我から見れば、辛かったり、不満であるかもしれないが、その辛さを感じる自我が消えるのであり、そうなれば、嬉しいこと面白いことばかりなのである。なぜ、そう言えるかというと、真の自己とは、存在、意識、至福であることが、聖典によって保障されると共に、悟りを開いた聖者達によって体験されているからである。
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