ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

水樹奈々

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

負け組の大逆転

結局、成功者というか、傑出した人間とは、何かのきっかけがあった時、道が開いた時、チャンスが訪れた時・・・そんな時から、1日24時間、無我夢中でがんばり続けた者だけなのだろうと思う。
そして、チャンスやきっかけは誰にでもやって来るのだ。
だが、ほとんどの者が、全ての時間を注ぎ込んで、粘り強くやり続けることが出来ない。
なぜ出来ないのかというと、遊びや快楽に時間とエネルギーを注いでしまい、成功に必要な時間とエネルギーが不足してしまうのだ。

結婚していたら成功は難しいが、売れていないけど実力はある画家や音楽家というなら可能性はあるのだと思う。
だから、実力もないのに結婚などすべきではないだろう。

だが、チャンスが来て、1日24時間がんばっても、すぐに成功するのではないし、いつ成功するかは分からない。
特に、実力そのものがないなら成功するはずがないので、その努力は、まずは実力をつけるためのものだろう。
そして、実力がついてからも努力は続くが、今度は、実力がなかなか認められないということになるかもしれない。
そういった不遇の中で、どこまで粘れるかで運命が決まるのだろう。

歌手の水樹奈々さんの自叙伝を読むと、誰でも物凄く参考になるだろう。
幼い頃から、美空ひばりを崇拝する父親に、演歌歌手になるための特訓(素人訓練だが)をされ、子供の時から、四国の田舎の喉自慢大会では常勝だった。
中学卒業後、一応、芸能事務所所属として単身上京し、堀越高校の芸能コースに入学するが、仕事はなく、珍しい皆勤卒業という屈辱を味わう。
事務所所属といっても、給料が出る訳ではなく、お金に苦労し、金持ちの子供ばかりの芸能コースの中では、かなり恥ずかしい思いもする。
高校を卒業しても進展は見られず、「勉強のために」と、声優学校に行かされる。
だが、それが道が開くきっかけだった。
声優学校で真面目に勉強し、ゲームの声の仕事も熱心にやっていたら、ゲームの歌も歌わせてくれるようになり、ゲームのイベントも笑顔で務めていたら、一応若くて可愛いので、ファンも出来る。
松下幸之助が、人間は、「運が良いことと愛嬌があること」を非常に重視していたが、運はともかく、愛嬌は努力次第、意思次第だ。
実際、駄目なやつというのは、いつもしかめっ面をしていて愛嬌がない。
その点、水樹奈々さんは、確実に愛嬌がある。
そんな小さな仕事を真面目にがんばって粘っているうちに、アニメ『魔法少女リリカルなのは』のヒロインの一人、フェイト・テスタロッサ役に抜擢され、オープニングソングの作詞と歌唱もすることになる。
これが良い歌で、上京から10年の苦労がなければ創れない、歌えない歌だったと思う。
この歌『innocent starter』は、オリコン週間チャート9位にまでなる。
アニメでも、フェイトは主人公のなのはと互角以上の人気となり、水樹奈々さんはフェイトの声の人としても人気爆発となる。
このアニメの第2シーズン『魔法少女リリカルなのはA's』のオープニングソングの作詞と歌も引き続き担当し、この歌『ETERNAL BLAZE』はオリコン週間2位まで上昇。
以降は現在にいたるも、出すCD、DVDなどはことごとにヒットし、東京ドーム連続単独コンサートはじめ、数万人規模のコンサートを多数成功させ、紅白は2009年からの常連といったトップ歌手となり、声優としても、多くの人気アニメの主役級を演じると同時に主題歌の作詞・歌唱と、まさに、シンデレラストーリーとは、彼女のようなことを言うのだろう。
水樹さんの自叙伝『深愛』ほど、凡人にとっても参考になるサクセス本は少ないと思う。

チャンスは誰にだって訪れる。
それは派手なものではなく、水樹奈々さんのように、声優学校に行くことになるといった、一見、チャンスと分からないことも多い。
しかし、「何か」あった時に、真面目に前向きに考え、取り組むことが大切なのだろう。

そして、昨夜、川上量生さんが、「引きこもりに大切なことは体力」と言い、道が開けても体力がなければ何もできないので、運動だけはしておけと述べておられたと書いたが、もちろん、引きこもりに限らず体力は最も大事なものの1つだ。
ただ、引きこもりは不健康になり易いので、特に注意しなければならないということだろう。
馬鹿みたいに運動する必要はないが、毎日、決まった時間に、決めただけの運動をするのが良いと思う。
私が常にお奨めする腕振り運動なら、場所もほとんど要らない。
この運動だけで、関英男博士は、90歳を超えても、健康、頭脳明晰で、世界中を飛び回っておられたのだ。ただし、関博士は、毎朝2000回やっていたらしい。
そして、腕立て伏せやスクワットも場所をとらないが、私は、これらは、神が人類に与えた偉大なトレーニング方法だと確信し、愛好している。
これらのトレーニングを全面採用しているプロレスラーは、やはり最強であると思う。
負け組が大逆転を果たすには、体力が不可欠であることは、くれぐれも忘れてはならない。
そして、健康や幸運のために重要なことは、食の慎みであることを言っておきたいと思う。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

特殊な個性を持つ人へ

個性的な人間というのは、珍しい経験を持った人のことだ。
大金持ちに家に生まれ、玄関から屋敷までたっぷり歩く必要があり、バスケットボールができそうな広い豪華な居間で、執事に給仕されながら贅沢な料理を食べてきた人間と、狭い部屋にちゃぶ台を置いて、毎日、サンマと大根卸しを食べさせられ、父親が時々ちゃぶ台返しをする家(今どき、そんな家は滅多にないが)で育った人間の個性が異なるのは当然だろう。
別に金持ちでなくても、幼い頃からピアノの厳しいレッスンを受けている子は他の子とは違うし、武道を叩き込まれた子はもっと個性的である可能性が高いかもしれない。
いずれにしろ、人間の個性なんて経験が作ったものだ。
そして、誰だって、ある程度は個性的なのである。
ところで、上に挙げたような、金持ちであるとか、ピアノを習った、あるいは、武道をやっていた等からくる個性というのは、まだ分かり易い。少数派ではあろうが、そんな子がいるってことは、不思議なことではないと一般的にも了解されているからだ。つまり、ある意味、そんな人間はまだ平凡なのだ。

だが、厄介なのは、あまり注目されないような部分で、変わった経験をしてきた(させられた)人間だ。そんな者は、非常に個性的であるが、それが誰にも理解されないのだ。
私はある人気歌手の自伝を読んだが、彼女の父親は底なしの演歌好きで、美空ひばりさんを崇拝していたが、昔のある美少女アイドルのファンでもあり、娘にそのアイドルと同じ名前を付けるという、言ってみれば我がまま勝手な男だった。そして、娘を歌手にすべく、彼女が幼い時から、歌の我流の猛特訓をさせる。
その歌手は、割合に平凡な人間を装っているが、実際は、恐ろしいほど個性的であるに違いない。
彼女の発言、表情には、ひどく不自然なものが感じられ、それが彼女にストレスを与えているように思われるのである。
5年連続で紅白にも出るし、売れているからいいじゃないかと言われるかもしれないが、それはたまたまだ。同じような経験を持つ人間には、悲惨な状況になっている者の方が圧倒的に多いのである。
ただ、いずれにしても、それぞれの人の運命であるし、私は決して否定的に考えている訳ではないことをお断りしておく。
その歌手とは、水樹奈々さんなのだが、私も、彼女が主演で主題歌を歌っているアニメのブルーレイやDVDの多くを揃えているほどのファンである。

あなたも、ひょっとしたら、目立たない部分で変わった経験をしてきて、普通の人には理解し難い個性を持っているかもしれない。
特殊な宗教を持つ家庭に育ち、セックスは汚らわしいものと叩き込まれたり、日本史の中で一番偉いのは坂本竜馬だと信じて疑わない父親を持ったりしたら、かなり困った個性を持つことも有り得るだろう。
もちろん、他にも、色々と問題のある経験をさせられてしまった人間は多いことだろう。
だが、そんな個性的な人間でも、他の平凡な人間については理解し易い。
そして、そんな時、単に理解され難い個性派であるという以上に困ったことが起こるのだ。
自分が、他の人間とは違うというのは気付いているし、それ自体は悪いことではないはずだ。
だが、自分が他の人間とかなり異なっていることで、「自分は高貴である」「自分は偉い」「自分は選ばれた人間だ」と思い込んでしまうことである。
そうではないのだ。
ただ、変わった経験を持っているというだけのことなのだ。
そのことを本当に受容できると、これまでの心の重荷がすーっと消えていくのだ。
「ピアノが弾ける」とか、「武道ができる」といった、世間でも分かり易い、そして、賞賛されることも多いこととは違う、表向きには誉められないばかりか、蔑まれるような個性を持った人間は、平凡な他の人間を軽蔑し、嫌悪するようになる場合が多い。
劣等感の裏返しで、自分は特別だという意識が強くなってしまうのだ。
いや、確かに特別かもしれない。
しかし、それがどんな形で特別であったとしても、他の人間に比べ、偉いわけでも、貴いわけでもないのだ。
単に、個性が異なるというだけで、それは、経験が異なっているというだけのことなのだ。
それを受け入れることができれば、そんな自己満足のケチ臭い自己価値ではない、自分の中にある、本当に貴い光を見つけることができる。

個性的な人間であっても、周囲の平凡な人間を軽蔑したり、嫌悪してはならない。
たとえ、周りにいる人間が、本当に蔑むべき性質を持っているように見えても、彼らはそんなふうになる経験を持っているというだけのことなのだ。
彼らから見れば、あなたの方が蔑み疎むしかない存在かもしれない。
しかし、そんなことはどうでも良い。
個性など、表面的なものだ。
何度も述べるが、それは、単なる経験の違いなのだ。
言ってみれば、個性は天気のようなものだ。
豪雨が降っていても、雲っていても、雲の上は太陽が輝き、星がきらめく。
そんな高いところに昇るのだ。
そのためには、自分の個性から起こる思考をただ静かに眺め、巻き込まれずにいることだ。
そうやっていれば、自分が本当は太陽であることが分かるだろう。

あくまで娯楽的にだが、こういった個性、人間性について扱った小説、アニメに『BLOOD-C』というものがある。参考になるかどうかは分からないが、まあ、面白いとは思う。
アニメでは、上にも述べた水樹奈々さんが、主題歌の作詞と歌唱、そして、ヒロインの声まで担当しているのが、何とも宿命的で興味深い。
小説は電子書籍も用意されているのが有り難い。
ブルーレイは安価な北米版が日本のほとんどのプレーヤーで再生出来、添付のDVD(!)は、PCでならリージョンコードを変更すれば再生できる(ただし、変更回数は普通5回に制限されている)。お金のある人は、面倒が一切ない国内版を買われたし。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

阿呆ほど愉快なことはない

何かに熟達したり、特別な情熱を持った時など、瞬間的な悟りに入ることは、よくあることである。
マイケル・ジャクソンが「歌っている時、僕は楽器になってしまう」と言ったのは、彼が悟りの状態を経験していることを感じさせる。しかし、それはステージ上のことではない。彼に限らないが、特に彼のステージは緻密な計算の上に成り立っているので、ステージの上では悟りを開いている暇はない。だが、彼が日本に来た時にも、床に敷いたマットレスに穴が空くほど練習していたのだが、彼は、練習中に入神状態・・・つまり、解脱し、悟りの状態になるのだ。
水樹奈々さんが本に書かれていたが、一心に歌の練習をしていた時、不意に、音楽と自分が一体になるという「奇妙な」体験をしたそうだ。これも一瞬の悟りの状態である。
宗教では、法悦といって、敬虔な信仰者が、特に情熱が高まった時に、悟りの状態になる。ベルニーニの彫刻『聖テレジアの法悦』は、そんな状態を示している。
『聖テレジアの法悦』画像

音楽は趣味でしかなかった一介の職業軍人が、ある夜、異常な情熱にとりつかれ、悟りの状態で作詞、作曲した曲が、名曲の誉れ高いフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』なのである。彼が天才音楽家になったのは、その一夜だけで、他に残っている彼の曲はない。

宗教は、常時の悟りを目指すものだと言って良いと思う。
しかし、それは難しい。
空海は、特別な身体の動きと共に口にマントラを唱え、心にマンダラのイメージを描く修行中には、確かに悟りに入ったが、彼ですら、それが終ると普通の人に戻ってしまった。
道元は、「ただ座れ」と言い、座っている時は悟りの状態にあったのだろう。あるいは、彼が書いた『正法眼蔵』は、明らかに人を超えた仏の世界の真理を示しているが、彼は、書いている時も悟りの状態になることが分かる。
日蓮も、『法華経』を読んでいる時は悟りの状態であったに違いない。彼は、その時の素晴らしさを知っていたので、法華経を読めと言ったが、そんなもの、普通の人、ましてや、その日暮らしの庶民に読めるはずがない。そもそも、当時は、法華経なんて、よほどの金持ちや権力者でないと入手できなかった。そして、日蓮ですら、日常は、やはり普通の人間(凡夫)であったのだ。
常時、悟りの状態にあったのは、釈迦とイエスくらいのものだった。
イエスは、40日の断食の後、「我が後方に退けサタン!」と言って、自我(=サタン)を真我(=神我)の下に置くことに成功した。
釈迦もまた、長期の断食の後、菩提樹の下で永遠の悟りに達した。
彼らのように完全な悟りに入らない限り、自我は常に戻ってきて、煩悩に苦しむことになる。
空海や道元、日蓮のような大天才達すら、それを免れることはできなかった。まして、我々凡人に望みはない。
しかし、法然は革命を起こした。「南無阿弥陀仏」の念仏を常に唱えることで、日常の意識を悟りに近付ける教えこそ、この、人類が堕落した時代のために釈迦が残した最終最大の教えであることを見抜いたのだ。もちろん、法然以前に、インドの龍樹、中国の善導といった、天才というものを超えた極めて優れた僧達がそれを解明していたが、法然以外にはそれが分からなかったのだから、それを理解し、弟子の親鸞に教えることができた法然は偉大であった。
全く教養がなく、文字すら読めないのに、ただ念仏を唱えることで、高僧を超える境地に達する人達が現れた。そんな人達を妙好人(みょうこうじん)と言うことがある。確かに、彼らとて、念仏に専念するために、多少の機縁を必要とはしたが、現代の、この情報時代には、誰でもそれは得られる。ただ、現代人は、物質主義に陥ってしまっていて、理屈の思考ばかり発達して直感の力を失っているので、ただ念仏を唱えれば良いということを、どうしても受け入れることができずに、馬鹿にしたり、見下したりしてしまうのだ。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、観相家に、「申し訳ないが、あなたは阿呆の相」と言われ、「これは嬉しい。私は阿呆になる修行に励んでおりますが、いよいよ成果が出たか」と喜んだように、我々も、阿呆になる修行に励まねばならない。ところが、念仏そのものが阿呆になる修行も兼ねる。有り難いことである。後は、やるかやらないかだけの問題である。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

いかなることにも平静な心で挑むために

我々日本人は、現状は戦争に関わっていないので、とりあえず、スポーツの試合に関して、戦術の楽な話をしたい。
野球やサッカーなどでは監督がいて、彼が戦術を組み立てるのであるが、テニスでは、試合中、コーチと接触できないので、試合中はそれを自分で行わないといけない。
ボクシングでは休憩時間ごとにコーチと接触し、コーチが選手に指示を出すのだが、こういった格闘技スポーツでは、選手は頭に血が昇っていて、あまりそれを聞いていないものらしい。
しかし、いずれも、戦っている者同士は条件が同じであり、いかに良い戦術を立て、選手達がそれをうまく行うかで、場合によっては、実力とは異なる結果を出すこともあるのだろう。

だが、この戦術が、選手へのプレッシャーになることがあるように思える。
高度な戦術では、選手に高い能力の発揮を求める。
無論、その選手の能力を買って、監督はその戦術を授けるのだから、選手にとっては名誉でもあろう。
一方、テニスで、苦しい状況を打開するために、新たな戦術を自らに課すこともある。
監督に指示された戦術では、監督の期待に応えられるだろうかとか、自分の失敗がチームに迷惑をかけないだろうかというプレッシャーがあるが、自分で課した戦術では、自分にそれが出来るかどうかの疑問があるかもしれない。「こんな難しいことをやろうなんて、私は自分を買い被り過ぎていないだろうか?」とね。

では、スポーツよりは深刻だが、戦争に比べるとそうではない武道、あるいは、武術の決闘ではどうだろう。
映画の話ではあるが、『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じる、少林寺の武道家リーは、これはおそらく、ブルース・リーの武道家としての信念であろうと思うが、「良い武道家は、緊張せずに戦いに挑む」と述べていたのが印象深い。
これは、非常に重要で、スポーツにも、戦争にも、そして、あらゆる対戦、対決に有益だ。
いや、戦いと言えないようなことでも、大切なことに違いない。

それほど重要なことなので、例を変えて話したい。

映画『007 カジノ・ロワイヤル』で、ボンドは巨額の金を賭け、フランスの工作員ル・シッフルと、富豪の遊びのために用意された高級カジノ(ギャンブル施設)でポーカーの勝負をする。ル・シッフルはポーカーの天才で、ボンドもMI6(イギリス情報局秘密情報部。正式には現在はSIS)では一番の腕だ。
だが、ボンドは戦術を誤って大きな損失を被り、ゲームの継続が不可能な状況になる。シッフルの戦術が優り、ボンドははめられた形であった。
そして、ボンドは激しく動揺していた。
ギャンブルで大切なことは冷静さだ。大勝負では、頭に血が昇った方が必ず負ける。

だが、武道家リーは、決して緊張せず、いつも冷静でいられる。
どうすれば、そんな風になれるのだろうか?
それは、こうなのだ。

勝負で戦術を誤り、敗北の屈辱を味わうとする。
その時、どんな反応をするかが、その者が、何事を前にしても、どれほど冷静でいられるかを知る鍵なのだ。
では、負けた時、どんな反応をする者が、常に心静かなのだろう?
それは、こうだ。
「負けるべくして負けた」
「神が私に、誤った戦術を選ぶことを望んだのだ」
「私という誰かに、敗北が起こったようだ」
もし、そんな者であれば、常に冷静に備えることが出来るのである。
上の『007 カジノ・ロワイヤル』で、大敗を喫したボンドは、バーテンに当り散らし、鋭利なフォークか何か(忘れた)を引っつかみ、シッフルを追った。もし、それを見つけたCIAの者が止めなければ、取り返しのつかない大失態を演じたはずだ。
つまり、ボンドは、すっかり頭に血が昇っていた。数百億円負けたのだから仕方がないだろうが、ボンドは最初から負けていたのだ。
武道家リーなら、「負けたものは仕方がない」とケロケロしていただろう。

我々は何をするにしても、良い結果を期待する。
勝負であれば、勝利を望む。負けを期待する者などいない。
しかし、勝つか負けるかなんて分からないのだ。
そして、我々には、その結果をコントロールすることは、決して出来ない。
結果は既に運命によって決まっており、我々は、その結果を受け取るだけである。
いかに勝ちたい戦いであっても、また、勝つべき戦いであっても、どれほどの準備をしていようが、それは変わらない。
このことを完全に受け容れることができるなら、我々は決して心乱されることはない。

現在、公開中の映画『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 2nd A's』の前作『魔法少女リリカルなのは The MOVIE 1st』(2010)で、なのは(魔導師の少女)と、レイジングハート(知性を持つ魔法の杖)がこんな会話をする。
(レイジングハート)「戦いに最も大切はものは何だと思いますか」
(なのは)「え…と、負けないって気持ちかな?」
※なのはは、小学3年生である。
(レイジングハート)「好ましい答ですが、もっと重要なことは知恵と戦術です」
なのはは、実力で優るフェイト(なのはと同い年の、金髪の魔導師の少女)に勝つために、優れた知恵と戦術が必要だった。
戦いが始まり、フェイトはなのはに優る力と技で優位に立つが、「負けない気持ち」を持つなのはの気力と粘りの前に、焦りを見せ始める。
フェイトは、母の期待に応えたいという気持ちと共に、心の奥では、なのはを傷付けたくない気持ちもあったのだろう。
しかし、予想を超えるなのはの優れた戦い振りの前に決意する。
「迷っていたら、私がやられる」
フェイトは遂に、必殺の切り札をなのはに向かって放つ。
しかし、勝っても負けても、その結果を受け容れられないフェイトから迷いが消えるはずがない。
一方、フェイトを救うためには絶対に勝たなくてはならないなのはは、勝利だけは受け容れることが出来る。
いや、なのはは、仮に負けても、結果を受け容れて次の手を打っただろう(生きていればだが)。
それが、なのはの明るさの秘密に違いない。彼女は、いかなる結果になろうと、それを受け入れるのである。
一方、フェイトには、なのはを慕うようになった後も、暗い影が付きまとう。だが、やがて、それを振り払えるに違いない。彼女もまた、どんな運命であろうと、それを受け入れるようになるだろう。

驚くべきことに、テレビシリーズの『魔法少女リリカルなのは A's』のオープニング曲で、フェイト役の水樹奈々さん自ら作詞して歌った大ヒット曲『ETERNAL BLAZE』で、それが見事に表現されている。彼女のコンサートでのクライマックスに欠かせない曲らしいが、人間が作詞したとは思えない歌だ。

運命は既に決まっている。
個々の状況で、嬉しい結果が出るかもしれないし、悲しい結末に泣くかもしれない。
しかし、全ては避けられない運命である。
「あれをすれば良かった」
「あれをしなければ良かった」
我々は、いつもそう思って後悔する。
しかし、自分がそれをしたのではないのだ。
釈迦も言ったのだ。「いかなる行為であろうと、行為者はいない」と。
その行為を思い付き、行ったのは、運命を創った神である。
仮に、あなたの行為が、望ましくない結果をもたらしたとしても、神はそうして欲しかったのだ。
いつかのオリンピックのサッカーの試合で、中田英寿がPKを外して負けたことがあったが、中田は、蹴るタイミングや角度を誤ったかもしれない。しかし、それが神の意思であり、神は中田に誤って欲しかったのだ。だから、彼は、決して後悔すべきでなかった(実際は、彼が後悔したかどうかは知らないが)。
あなたも、いかなることであれ、それがどんな結末に終ったとしても、何の後悔もなく、それを受け容れなければならない。
そして、それが出来るようになれば、いかなることにも、緊張せず、平静な心で挑めるのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

自我を屈服させてトランスに入った人達がやったこと

ベアード.T.スポールディングの『ヒマラヤ聖者の生活探求』という本の中に、アメリカの調査隊の人々が、ヒマラヤの超人的な聖者達と生活を共にするうちに、次のようなことが出来るようになったことが書かれている。
19世紀のことであるから、文字を書くには、手書きするかタイプライターを使うしかないのであるが、彼らが、古代インドの言葉を英語に翻訳するような仕事をする際、紙の上に文字が勝手に現れて、次々に仕上がっていったという。
なんとも荒唐無稽な話であるが、精神科医のミルトン・エリクソンも、講演で似たようなことを言っていたらしい。
エリクソンは、比較する者のいないほどの、あまりに偉大な精神科医だった。魔法を使って治しているのだと言われるほどだったが、そう思われるのももっともなことだった。

エリクソンの話とは、仕事をする時に、彼は自分をトランス(変性意識)状態にし、その後のことは憶えていないのだが、通常の意識が戻った時には、机の上には仕上がった仕事が置かれてあるといったものだった。
トランス状態とは、表層意識が消失した状態のことだが、宗教的、あるいは、神秘学的な法悦状態(入神状態)、すなわち、神懸り的な状態のことを指すことも多い。
催眠術でも、催眠状態のことをトランス状態と言うが、これは、通常の意識(表層意識あるいは顕在意識と言う)を微かにすることで、暗示を受け容れ易い状態になったことである。

催眠術の本を読めば、そういったトランス状態に人を導いたり、あるいは、自分をトランス状態にする方法が書かれているが、あまり上手くいった人はいないと思う。しっかりとした訓練が必要ということもあるが、資質の問題もあるのである。

それよりも、声優で歌手の水樹奈々さんが、自叙伝『深愛』に書かれていたエピソードの方が興味深い。
水樹さんは、元々演歌歌手を目指し、その訓練をしてきたこともあり、ロック調の歌がうまく歌えず、特訓をしていた時のことだ。とにかく、ひたすら歌いまくったようだ。その時、音楽と自分が一体化してしまったような不思議な感じがしたという。彼女も、これがトランス状態なのかと思ったようだ。
そう。まさにそれがトランス状態だ。
別の言い方をすると、エクスタシー(忘我)の状態である。文字通り、我(自我)を忘れてしまった、つまり、表層意識である自我が消えてしまった状態だ。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが、「芸術の目的はエクスタシー」と言ったのも頷けるのである。

酒の力でトランスに入れるだろうか?
確かに、アルコールでトランスに入れる人もいないでもない。
エドガー・アラン・ポーがそうだった。彼は、酒を飲むと、神懸り的に美しい言葉を語り始めるのだ。
画家の中にも、制作にアルコールが不可欠という者もいる。
ただ、普通の人は決してうまくいかないし、ポーらも、結局は悲惨な最期となっているのだ。
酒を飲んで、表層意識が無くなること自体は珍しくはない。しかし、脳が異常状態になっているので、深層意識と全く調和出来ず、結果、悪霊にでもとりつかれた感じになる。
いかにトランス状態と言っても、深層意識とつながるのは、あくまで脳なのだから、当たり前のことだ。
仮に、異常にアルコールに強い者でも、長期間に渡って飲み続ければ、最後には身体を壊す。ポーにしろ、若くして病死しているし、ロートレックは発狂した。
量子物理学者で神秘関係の知識や体験の豊富なフレッド・アラン・ウルフ博士は、アルコールを補助的に使うのは良いのではないかと述べている。また、コリン・ウィルソンも、音楽とウイスキーが自分を高次の意識状態に導くのに役立ったと述べていた。
しかし、それも人によるのであり、私はお薦めしない。尚、ルドルフ・シュタイナーはアルコールは一切禁止している。

トランス状態になるコツは、いかにして、考えない状態になるかだ。
表層意識あるいは自我とは、考えることがその本質だ。
言ってみれば、努力なしに、何も考えない状態がトランス状態である。
宗教やヨーガ、あるいは、修験道の修行では、呪文を唱えることで入神する、つまり、トランスに入るという方法がよく行われると思う。
般若心経というお経は、まさに、観音様が、呪文を唱えているうちにトランス状態になり、この世の真理を悟ったと書かれているのである。
しかし、呪文でトランスになるには、何時間唱え続けなければならないだろう?
般若心経には、観音様が何回「ギャテイ、ギャテイ・・・」と唱えたかとは書かれていないのである。
「もう嫌!」という気分になっても、後ろから、「やめたら刺すぞ」とナイフを突きつけられているような状態でなければ、とても無理だ。

まあ、一瞬でトランス状態になりたければ、ロシアン・ルーレットという方法もある。弾丸を1~2発込めたリボルバー型(回転弾倉型)拳銃の弾倉をデタラメに回転させた後で、銃口を自分のコメカミに突きつけて引き金を引くのだ。
うまくいけば、すぐにトランスに入れる。引き金を引く時には、思考なんて吹っ飛んでしまうからだ。だが、同時に死んでしまう可能性がある。
それ以前に、拳銃の入手が難しいし、入手すべきでないだろう。

そこで、エリクソンのことを述べよう。
彼は、それが運命だったのだろうが、彼にすれば、偶然にトランスに入る訓練をしてしまっていたのだ。
彼の子供の頃の愛読書は、なんと、辞書だった。
彼の家には、本は、聖書と辞書しかなかったのだが、彼はなぜか辞書を選んだのだ。
他に読むものもないので、Aから始めて最後まで読むということを、何年間も繰り返した。
おかしなことに、エリクソンは、学校に入って辞書を使うようになっても、索引を使うということを思いつかず、いつも先頭ページから順に見ていって調べたらしい。
気の遠くなるような話だが、これが素晴らしい訓練だったのだ。
単調なことを延々と、ただ、目的の単語があるかどうかだけを意識しながら行う。
考える意識である表層意識は消え去り、観照状態になっているのだ。
そして、エリクソンは17歳の時、ポリオに感染し、目玉以外を全く動かせなくなった。
そのような状態では、考えるだけ無駄であるので、何も考えずに、ただ見えるものを、あるがままに見るという観照状態になるのだ。
私は、これらのことが、エリクソンに、いつでもトランス状態になれるコツを身に付けさせたのだと確信している。結果、彼は超人になったのだ。

トランス状態に入るには、自我が屈服し、消えてしまうようなことをすれば良いのだ。
水樹さんが、延々とロックを歌ったように、エリクソンが辞書を淡々と読んだように。
超人的な合氣道家の藤平光一さんの本を読んでも、やはり彼は、一時期、同じ動作を1日中繰り返すような修行をかなりの期間やっている。
「プロレスの神様」カール・ゴッチが、毎日スクワット1万回をしたというのは、スポーツ医学的に見れば誤ったトレーニングと思うが、そんなことはものの数ではないのである。
関英男博士が腕振り運動を1日2千回やったのも、腕振り運動の効果と共に、やはり、その間にトランス状態になっていたのだと思う。だから胃癌も消えたのだろう。
法然上人が念仏を1日6万回唱えたというのは、自分だけでなく、誰もが法悦に至れる方法だったからだろう。
ラマナ・マハルシの弟子プンジャジも、至高神クリシュナの名を1日4万回唱えた頃があった。
日本の舞踊や武術には、必ずそんな修行がある。
しかし、今の学校やお稽古事では、西洋式の、「面白くなくちゃ勉強じゃない」「楽しくなくちゃ練習じゃない」の一般受けするポリシーに染まってしまい、結局、せいぜいが試験で点を取ったり、審査員という狭い範囲の人達に評価されるポイントだけを狙う賎しいことしか出来なくなってしまい、何の応用も効かないのである。

単調なことを、気が遠くなるような時間やることだ。
絶望的に感じるほど良いのだ。それを敢えてやることだ。
砂場の砂の数を数えるほどの覚悟をすることだ。
そうしたら、自我は屈服し、退くだろう。
それが恒常的にまでなれば、我々は運命に打ち勝ち、平安に至ることだろう。

















↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
最新コメント
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
人気ブログランキングへ
↑↑これと
↓↓下の3つのいずれかをクリックして応援をお願いします!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
QRコード
QRコード

  
   このエントリーをはてなブックマークに追加
  

タグクラウド
  • ライブドアブログ