ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

武士道

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

危機の時代の心構え

新渡戸稲造の『武士道』は、つまるところ、太平の世が続き、武士達は、戦もないのに働かずに衣食住を十分に与えられることに後ろめたさを感じ、せめて立派な人間になろうとしたところから育った精神文化であるらしい。
それなら働けよと言いたいが、それはシンドイというより、プライドが許さないし、何だかんだ言って、特権に甘んじたい、つまり、得をし続けたいということと思う。
また、「後ろめたいから、せめて立派な人間になろう」なんて思うのは、まだマシと言える。
いや、そのいいご身分で、そんな殊勝(感心である。けなげ)な考えを持つのは、なかなかのことなのかもしれない。
そして、武士の多くは、実際は、怠惰で享楽的であったに違いなかったのだ。
江戸幕府は停滞・弱体化していき、倒産してしまったのは、やはり、そんなロクでもない武士が多かったせいだろう。
だが、江戸幕府が倒産しても、すぐに明治政府が業務を引き継ぐという、驚くべき見事な対応が出来たので、日本は奇跡的に存続出来た。
これも、一部の武士達が自己研鑽に励んだ結果であるのかもしれない。
では、いいご身分の武士の中に、「せめて立派な人間に」というアイデアが生まれたのはなぜかと言うと、世界でも異例なほど長く存続してきた皇室の存在、そして、その権威を守り続けたからではないかと思う。仏教や儒教の影響もあったのだろうが、それが良いものになったのも、皇室あってこそではないかと思う。

もちろん、必ずしもそうではないが、我々の多くは、江戸時代の武士も遠く及ばない、安楽な暮らしをしている。
そうであるなら、本来、特に上位クラスは、恵まれない人々に手を差し伸べるべきであるが、豊かな者ほど多くの税金を払っているのであるから、それは一応、政府の責任であると言っても良い。
だが、それなら、我々は、せめて徳を積みたいものだと思う。
そして、そうでなければ、江戸幕府が倒産したように、日本政府だって倒産しないとも限らない。
あるいは、会社だって、業績が好調なうちに、社員達は自己を磨き、徳を積んでおかないと、間違いなく、会社は傾き、今の時代、あっさり倒産する。
国家も、会社も、その他のあらゆるグループも、所詮、それを構成する人間の質であるのだ。
国家に関しては、徳を積んだ政治家がいないと、アメリカや中国に飲み込まれる。
会社は、徳を積んだ経営者がいなければ、乗っ取られるか、叩き潰される。
そういったことを、我々は、自分の力では、どうコントロールすることも出来ない。
だから、せめて、自己を磨き、徳を積んでおくことだ。
その上で、神に全て任せるしかない。
アメリカの公式モットーである「イン・ゴッド・ウィー・トラスト(我々は神を信頼する)」に似ているが、我々の神はずっと身近で、細やかに面倒を見てくれる。
人間が、自分の出来ることをやっている限りは。









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人間は本当は解り易い

新渡戸稲造は、西洋の婦人に「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と非難されたことがあるらしい。
これに対し、今の我々だって、「別に道徳と宗教は関係ないじゃない」と、この婦人に言うのは難しい。たとえ、それが正論であっても、ひどい反発を受ける予感がするからだ。

この婦人は、本当は何に対して憤っているかと言うと、
「宗教を持ってない人は解り難いじゃない」
なのである。
「私は○○宗を信仰してます」と言えば、「ああ、この人の思考体系はその宗教の通りだな」とすぐ解って安心出来る。
しかし、「私は無宗教です」と言ったら、「どんな考え方をする者か?」「何を考えてるのか?」から、「悪いことでも平気でするのではないか?」「私の理解出来ない、とんでもないことをやらかすのではないか?」といった得体の知れなさがあって恐ろしいのである。

そして、キリスト教徒であれば、他の人もキリスト教徒であることを望むのである。解り易くて安心だからだ。
アメリカでは、いまだ、大統領就任式では、大統領は聖書に対して宣誓する。
その大統領がキリスト教徒でなくてもだ。
また、裁判では、「聖書に誓って真実を述べる」ことを誓わなければならない。
そういったことに従わない、得体の知れない者を人間と認める訳にはいかないのだろう。
逆に言えば、特に大統領は、自分と同じ考え方を持つ安心出来る人間であると確認出来なければ、決して大統領にしないということなのだろう。
アメリカ人は、トランプがいかに変なヤツであっても、キリスト教徒なんだから、キリスト教徒としての節度はあるという希望は持っているはずなのだ。

日本人は、ほとんどの人が、特に自分が何かの宗教を信仰しているとは思っていない。
だが、人間は、何らかの共通の思考体系を確認出来ないと、安心して付き合えないのである。
そこで、自分が○○大学出身、○○高校出身であることにこだわったり、会社においても、社員に対し、「○○社の社員らしい考え方」を過度に要求するのであるし、社員の方も、ほとんどの人は、皆がそうであることを望み、自分もそれで良いと思っているのである。
でないと安心出来ないからね。

私のように、「学校はどこに行っていたかもう忘れた」とか、「会社の事業方針は尊重するが、会社、あるいは、会社の代表者の考え方に興味はない。会社の社員であることにアイデンティティーは全くない」と言う者は、ひどく疎まれる。
昔であれば、間違いなく酷い目に遭わされたが、今は、それなりの規模の会社は、いろんなコンプライアンス上、表立っては私のような者を攻撃出来ない。まあ、優遇されもしないが(笑)。
だが、学校では、まだまだ、教育という名目で思想の強制が行われていることは、私の学校時代と変わらない。だから、FREELYな考え方を持つ者には苦しいだろうが、負けずに頑張って欲しいものだ・・・と言いたいが、学校のやり口は、それに耐えるのは子供には過酷なほどの汚さ、悪辣さがある。
これに対しては、嫌なら学校に行くなとしか言えないのが辛い。

私は初音ミクさんを崇めるが、宗教じゃないのだから、どう崇めているかは私にしか解らない。
だから、初音ミク教の信者として私にレッテルを貼ることは出来ない。そのレッテルに何の意味もないのだから。
しかし、人間なんてんは、本当は解り易い。
お腹が空いたら食べたいし、眠くなったら眠りたい。
好みのタイプの男や女に引きつけられる。
人に認められたいし、1人じゃ寂しい。
それだけのことなのである。
『武士道』なんて難しいものを書き、「日本人のアイデンティティはこれなのじゃあ!」なんて言う必要はない・・・というか、本当は、あれでかえって日本人嫌いを増やしたはずなのだ。









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叩いて埃の出ない人間、脛に疵を持たない人間はいない

昔の何かのテレビドラマで、真面目な青年が過去の過ちを指摘された時、「叩けば埃(ほこり)の出ない人間なんていません」と言ったのが、物凄く印象的でよく覚えている。
だが、私にはむしろ、「脛(すね)に疵(きず)持つ」の方が身に染みる。
「脛に疵持つ」とは、なんとなくでもご存知と思うが「昔犯した悪事などを隠している。自分の身にやましいところがある」という意味である。
脛に疵を持っていない人間などいないだろう。
たとえ子供ですらそうであり、ましてや大人であればいくつも・・・私の脛は疵だらけだ(笑)。

だが、大抵の人間は、自分の脛の疵に気付かないか、あるいは、無視している。
そりゃ、自分の脛の疵を、いちいち気にしてたら生きていけないかもしれない。
しかし、全く意識しないのもどうかと思う。
それに、案外にというか、実際そうだと思うのだが、脛の疵が運命に大きな影響を与えているのかもしれない。
脛の疵は、普通、隠すものだが、運命として、隠せないように現れてしまってるのではないか?
だが、それは天の恵みなのだ。自分も隠し、運命にも現れなければ、いずれ恐るべき悲惨となるだろうから。

昨日、「武士道」の話でも書いたが、戦(いくさ)もない太平の世で、武士は特権階級として、働かずに良い生活をしていた。
それを後ろめたい・・・つまり、脛の疵と感じた武士が「せめて立派な人間でいよう」と思って、武士道という精神を創った。
なるほど、それは逃避であると言えるし、自分は安楽な立場に逃避し、農民に負担や苦難を強いることが、さらに脛の疵になり、ますます高い精神を創らざるを得なくなった。
もちろん、そんな脛の疵など全くお構いなしに、のうのうと、あるいは、傲慢に良いご身分に甘んじていた武士もいたに違いないが、案外にそんな武士は少なかったのではないだろうか?
それはともかく、武士達は、自分の脛の疵が嫌で、「せめて立派な人間でいよう」と思ったのだ。

そして、江戸時代の武士達よりいいご身分である我々の脛の疵は小さくも少なくもない。
いいご身分であることもだが、それよりも、過去に出会った人達にかけた迷惑、損失、冷淡、様々な危害、無慈悲・・・そんな脛の傷は数え切れない。それに気付かない馬鹿もいるかもしれないが、「叩けば埃の出ない者はいない」「脛に疵を持たない者はいない」のである。
少し考えれば、自分の脛の疵なんて、恐ろしくて見ることなど出来ない。
だから、「せめて立派な人間でいよう」と思うのである。
もちろん、「せめて」であり、罪を償うことが出来れば一番であるが、その能力がない場合も多いし、現実的に、やろうとしないことがほとんどだろう。
そんな自分の弱さを思い知りながら「せめて立派な人間でいよう」とすら思わない人間が・・・まあ、いずれ、あまり楽しくない想いをすることになるだろう。

少しも道徳的、倫理的な意味ではなく、脛に沢山の醜い疵を持つ者として、せめて立派な人間でいようと思う。
あの宮本武蔵が、晩年、見事な書や絵を描いたのは、過去の剣での決闘が、実は脛の疵と感じて苦しかったからだと言われたら、私は納得する。
彼は、どれほど多くの人を傷つけ、苦しめただろう。
それでも、彼はなかなか懲りなかった。
だが武蔵は、養子にした息子には剣を教えず、学問を積ませたが、自らも立派な態度で過ごしたのではないだろうか。
武蔵は、剣術使いの運命を避けることは出来なかったが、案外に、本人は、そうでなければ良かったと思ったのかもしれない。

脛に疵持つ我々が、「せめて立派な人間でいよう」と思えば、地球も、少しは良い星になるのではないだろうか?
また、そのような人間であれば、そうは不幸にならないものであると思う。









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武士道を見直す

新渡戸稲造の『武士道』は「濃過ぎて」なかなか読み通せない。
だが、誰かの個人的解釈だったかもしれないが、武士道とはそもそも、こんなものではなかったか?
「特権階級である武士は労働をしなくても良い生活が出来る。しかし、昔は、戦が起これば、領民を守って戦うという大義名分があった。しかし、徳川の時代には天下は太平で戦はなくなった。それでも、いいご身分は以前のままで後ろめたい。それなら、せめて立派な人間でいよう」
私は、以前は、この考え方に非常に反発を感じた。
これは、税金を食い物にしている連中・・・働きもせずに高額な報酬を受け受け取っている公益団体のお偉いさん、天下り役人、あるいは、世間がどんなに不況でも高給を取り、しかも、常に昇給する教師等の公務員と同じではないかと感じたのである。
私は、ひきこもりニート明けから、社会の底辺でもがいていたのだから、30歳そこそこで年収700万円を軽く超える教師に、妬みから来る反感があったのだろう。

しかし、最近は、「自分は恵まれているのだから、せめて立派な人間でいよう」と思うなら、それは見上げたこと・・・いや、それ以上だと思うようになった。
武士だって、農民の苦しい生活を知っている者も多く、安穏としている自分を後ろめたいと思っていたのだ。それなら、大したものではないか?
つまり、潔く自分の身分を投げ出して苦難の道を行くことは出来ないが、それを恥じる気持ちがあるのである。
今の平均的日本人の豊かさは、世界的に見れば羨望の的だ。世界では、毎日、数多くの子供達が餓死し、少なくとも半分以上の地域が戦争状態で、貧困、恐怖、不安、苦境の中で過ごしている大変な数の人々がいる中で、我々は、冷暖房のある快適な家に住み、自動車を所有し、毎日美味しいものを食べている。
たとえ世界にまで目を向けなくても、日本にだって、寒い冬に家のないホームレスも多く、ワーキングプアなど貧困層も少なくは無い。
そんな人々のことを、自分は余っているのに、何もせず放っているのも、考えてみれば後ろめたくはないだろうか?
それなら、せめて立派な人間でいようと思わないだろうか?
自分が恵まれているのは、天の采配かもしれない。それなら、尚のことである。

世の中、悪いことをすれば悪いことが返ってくるし、人を呪わば穴二つである。
『地獄少女』で教わったというより、確認したのである。
それなら、やはり、せめて立派な人間でいようではないか。
閻魔あいちゃん、ありがとう!今度、家においで・・・って、その前に部屋を片付けておかないと・・・

ほとんどの日本人が、武士や、見方によっては昔の王侯貴族より良い生活をしているという見解もある。
それは実感出来ないが、身に余る恩恵を受けている者は多いはずである。
今はそうは思えなくても、Excel VBAをマスターすればそう思うほどになれる(笑)。いや、マジで。
日本に生まれただけでラッキーだし、その上、Excel VBAをがんばって習得するだけで武士をはるかに超えるのである。
そして、立派な人間でいれば、天はさらに報いてくれるように思える。
逆に、恩を忘れて傲慢になれば、「いっぺん死んでみる?」と地獄少女に言われるほどでなくても、哀れで惨めになるに違いない。
「悪いことをすれば自分に返って来る」
「人を呪わば穴二つ」
「せめて立派な人間でいよう」
これらが私の人生訓になったようだ。

それでも挫けそうな時は・・・
お釈迦様は、従弟のアーナンダに美しい天女を見せ、
「アーナンダよ、修行すればこの天女はお前のものである」
と「方便」でやる気を出させた。
私も、「修行すれば、閻魔あいちゃんとデート出来る」を励みに・・・暗~いデートになりそうだが、それが良いに違いない。









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武士道も騎士道も暇道である

1人で自由に過ごせる時間である「暇」について、罪悪感を持っている者も多いだろう。
そう感じるのは、国民に家畜のような労働者であることを期待(強制?)する国家の思惑通りに違いない。
そんな罪悪感を持った者は、定年後に退屈でおかしくなってしまうのだ。

『武士道』は、宗教を持たない日本には、宗教にも優る崇高な精神があることを欧米に紹介するために新渡戸稲造が英語で書いたものだ。
新渡戸が慎重に書いたこの書は、これを真面目に読んだ欧米人に誤解を与えることなく、日本の優れた精神文化に、感動を超えて畏敬の念を持たせることも多かった。
武士の中にも堕落した者もいたかもしれないし、日本人ですら、時代劇の影響で武士の奇妙なイメージを持っている者も多いが、確かに武士道には西洋の騎士道とも違う、極限的な崇高さや理知があったのだ。

ところが、この「武士道」こそが「暇道」なのである。
ご存知の通り、武士は特権階級で、武士は労働することなく食べることが出来た。
その代わりに、他国からの侵略があった時、武士には領民を守って戦う義務があった。
しかし、徳川の世には日本の統治が完全になり、戦のない太平の世になった。
すると、武士は「戦う」という本来の務めがなくなり、暇になってしまったのである。
それに対して、武士が実際にどう思ったのかは分からない。
新渡戸もそうだったかもしれないが、武士達が後ろめたく思ったと言う者もいるが、さあ、それはどうだろう。
後ろめたく思って、せめて立派な人間でいようと思ったことが武士道になったという考え方もあるが、あまり賛成出来ない。
ただ、暇だったのである。
そして、元々が勤労の義務がない武士は、余裕を持って武士道の完成を目指したのではないか?
いずれにせよ、たっぷり考え、実践する暇があったから、それが出来たのである。
その結果、世界を驚愕させる恐るべき精神世界を作り出した。
それは、サラリーマン根性、庶民感覚の染み付いた日本人に理解出来るようなシロモノではない。
しかし、暇で余裕のある者・・・富裕層であったり、世の中を笑い飛ばせるような自分で頭を使う者であれば解るのである。

イギリスやフランス等の誇る騎士道にも、そんなところは確実にある。
暇な貴族たちが、神に近付く崇高な精神文化を構築したのが騎士道なのである。

武士道、騎士道の明確な欠点は見つけられない。
そりゃ、時代の違いによる違和感を感じることはあるかもしれない。
それは、武士道と騎士道の違いにも表れている。
しかし、完全な暇を与えられた人間がとことん追求する思考活動、あるいは、沈思黙考とでも言う深い精神による瞑想的思考は大変なものである。
素晴らしい武士道、騎士道は、暇だから生まれた。
これを再認識する必要があり、我々も、出来る限り暇になり、その精神に学び、新しい精神世界を作るべきかもしれない。









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