ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

歎異抄

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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立派な少年はどう育てられたのか

子供に幸せな人生を送らせたいなら、他人と仲良くやれるように育てないといけない。
それと同時に、立派な人間になって欲しかったら、正義を愛するように育てないといけない。
この2つの両立が難しい。
というのは、他人と仲良くしようとすると、多少の不正には目をつぶらないといけないことが多い。
また、正義を愛すると、正義に背く者を軽蔑したり、攻撃するようになってしまい勝ちだ。
つまり、この両方を両立させようと思ったら、正義を愛しつつ、他人に対しては大目に見ないといけないが、意識して大目に見ようとすると、どうしても上から目線になり、また、正義を守らない志の低い者たちに対して憤慨するのを我慢しないといけないので、ストレスがたまる。
だから、他人に対しては、「許容する」というのではなく、「受容する」ことが必要で、それには、広い心が必要になる。
それは、特に子供には難しいことだ。
ところが、正義の味方でありつつ、広い心を持った子供というのは確実に居る。
いったい、どうやって、そんな子供に育てたのかと思うと、畏敬の念すら感じる。
ところで、言うまでもなく、これは子供だけの問題ではなく、親や、あるいは、親でない大人も、自分がそうでないと、自分が楽しい人生を送ることが出来ない。
つまり、正義を愛しつつ、広い受容性のある心を持つことだ。
ジョージ・アダムスキーの本によれば、宇宙人は受容性の高い心を持つ人間を求めているらしいが、それはつまり、そんな人間は多くはなく、なるのは難しいということなのだと思う。

引き寄せというのも、所詮、心が狭いと上手くいかないことが多い。
あるいは、狭量であると、一部のことでは引き寄せが出来ても、大きな豊かさとか、友愛といった、一番欲しいものが得られないものだ。

ところで、私が小学4年生の時、クラスに、正義を愛しつつ、誰とでも仲良く出来る素晴らしい少年がいたのだが、ある時、彼の家が、ある有名な仏教系の宗教法人の信者であるという噂を聞いた。
しかし、本人は、それについては話したがらない。なかなか複雑なようだが、宗教の教えは、良い作用を果たしていることは間違いないように思えた。
新渡戸稲造は、西洋の女性に、「日本では子供に宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのですか?」と、半ば詰問されたらしいが、確かに、宗教には良い面もあるのだと思う。
けれども、宮沢賢治は、仏教というより法華経の大変な信者であったが、浄土系仏教の教えを強く非難するという狭量な面を持ち、彼自身、優れたところが多い人間であったのは確かだが、決して幸福だったとは言えず、個人の人生としては、あまり実り多いものではなく、37歳で亡くなっている。

私はいまだ、自分が、あの小学生の時のクラスメイトの素晴らしい少年のようであればと思う。
宗教というなら、最も受容性の高い宗教は、浄土系仏教で、概ねで、法然、親鸞の教えであり、分かり易く限定すれば、『歎異抄』がそれを簡明に言い表していると思える。
早い話が、『歎異抄』に語られる仏様である阿弥陀如来ほど甘々の仏様や神様は、そうはいない・・・というか、類を見ない。
イエスは、優しい点はあるが、心の歪んだ人間には厳しいし、イスラム教の神様は超厳しい。
法華経の主役である、お釈迦様や、観世音菩薩のような準主役達は、結構優しいが、なぜか、宮沢賢治のように、どこか狭量になってしまい勝ちと思う。
いや、実を言えば、『歎異抄』の愛読者にも、案外に心の狭い者は多いのである。
一方で、キリスト教やイスラム教の信者に、受容性の高い人はいくらでもいる。
だが、広い心とは強い心である。
辛い現実を堪え、「しゃんとする」しかない。
コリン・ウィルソンの教えで見るべきところは、所詮、そこであったと思う。
そうすれば、幸運も引き寄せられると思う。








意外な最強の引き寄せ書とは

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、罰する神で、悪いことをしたら罰が与えられる。
ただ、イエスは、「人を許せば、神もあなたを許して下さる」と教えている。

映画『パピヨン』で、パピヨンが裏切ったら、自分が窮地に立たされる可能性があったドガが、「パピヨンが裏切ったら彼を罰したいか?」と尋ねられ時、穏やかに笑い、「罰するのは神の仕事だ(私の仕事ではない)」と感動的なことを言う。
ドガは、パピヨンへの神の罰を望んでいる訳でもない。
つまり、たとえパピヨンが裏切っても(結果、自分が死ぬことになっても)、ドガは許すつもりだった。
そして、パピヨンは、ドガを裏切らなければ死ぬほどの苦しみがある中でも、決して裏切らなかった。
ドガは大詐欺師で、多くの人に苦しみを与えたが、神に許されたかもしれない。

引き寄せがうまく出来ない原因に、罪悪感・・・つまり、罪の意識がある。
罪悪感にもいろいろあるが、特に多いのが、「自分には罪があるので、願うものを受け取るに値しない」といったものだ。
そう思わせるものは、心の中にある、過去に自分が行った悪いことに対する後悔だ。
もちろん、罪悪感は悪いものではなく、悪いことをしたなら、後ろめたい気持ちを持つのは必要なことである。
しかし、自分を許せないと、そのように、自分には良いものを受け取る値打ちがないように思えてしまい、そうであれば、願いは叶わない。

キリスト教をベースにした引き寄せでは、人の罪を許すことの重要性を訴えているが、それは、引き寄せを行う上で必要なことなのだろう。
しかし、実際にはそれは難しい。
凡人には、恨みがある相手、憎い相手をなかなか許せない。
だから、自分も許せない。
ところが、浄土仏教の場合は、非常に簡単なのである。
法然や親鸞の教えなのであるが、いかなる罪を背負っていても、念仏を唱えれば、無条件でたちどころに許されるのだ。
いや、罪が消えてしまう。
ただ、いきなりそう言われても、良心を持った人間は、なかなか納得出来ない。
だが、親鸞の教えを弟子の唯円が記した『歎異抄(たんにしょう)』を読むと、念仏で罪が許されることを受け入れられるのである。
それを考えると、親鸞は、『現世利益和讃』で、念仏を唱えれば、あらゆる利益を得られる・・・つまり、引き寄せも自在であると述べていることが、確かであると思われるのである。
ひょっとしたら、『歎異抄』こそ、最強の引き寄せ書かもしれない・・・と言ったら、浄土系仏教信者に怒られるかもしれないが(笑)。








神様には甘える

神仏は信じた方が良いとつくづく思う。
宮本武蔵は『神仏は貴いが頼らない』と書いているが、ノーマン・ヴィンセント・ピールが『積極的考え方の力』の最後に書いたように、神の力を求めた方が良い。
私は、ソクラテスが言ったように、神の力がなければ、人間に大したことは出来ないのだと思う。

では、神を頼ってばかりで自分で努力をしないのはどうかというと、さあ、それはどうだろう?(笑)
サミュエル・スマイルズは「天(神と同じだろう)は自分を助ける者を助ける」と言ったが、それは、スーフィー(イスラム教神秘主義)の格言にある通り、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
程度のことで良いのではないかと思う。
親鸞となると、「善いことをしなくて良い。悪いことをしても構わない」と言い、神仏は恐いものではなく、優しいものだと思った方が良い。
バランスの良い考え方としては、ジョセフ・マーフィーが述べたようなものが良いと思う。
どういうものかというと、
「神は年長のパートナー」
「神はあなたを可愛い息子や娘だと思っていると思いなさい」
ということで、こう考えている人で、悪い人生を送る人は、まずいないと思う。

人間の親というのは、現実的に、必ずしも素晴らしいものではないと思う。
だが、人類の真の保護者としての神の慈悲とか思いやりは途方もない大きさで、人間の想像の及ぶものではなく、これを西洋では愛と言うのだが、我々が思う愛とは、やはり、全く違うのである。
ここらは、アイルランドの「20世紀最大の詩人」ウィリアム・バトラー・イェイツは「愛は神の領域であり、人間に理解出来ない」と言ったが、あまり堅苦しく考えず、無制限に優しいのだと思っても良いと思う。
この「無制限の優しさ」を人間として最大に捉えたのが、親鸞の念仏の理念なのだと思う。
だから、親鸞のシンプルな教えである『歎異抄』は、世界でも愛読者が多いのであると思う。
念仏は、あらゆる現世利益ももたらすものであると親鸞は『現世利益和讃』で述べているが、この歌を難しく解説する「専門家」がいる。もっと素直に受け取れば良いのに、「念仏を唱えて利益があるなどという考え方はケシカラン」という思いが出てきてしまうのだろう。
だが、科学的に言ったって、念仏を唱えれば必ず願いは叶うのであると思う。
ただ、それは念仏に限らないというだけであり、自分より高レベルの存在に頼れば良いということで、それは、あらゆる本当に賢い人達の一致する見解であると言って間違いはあるまい。

余談
11月29日(日)、私は、インテックス大阪で開催された、初音ミクさんのライブ&企画展である「マジカルミライ2020」に行って来た。
ライブは、収容人数を50%に抑えたとはいえ、大変な人数であり、企画展も、特に物販などは開場前から長い行列が出来ていた。
こんな大規模イベントが行われることは、少し前は考えられなかったし、今でも慎重であるはずだが、「マジカルミライ2020」の、新型コロナウイルス対策は完璧で、実に感激したものだった。
開催者、スタッフの皆様の努力に深く感じ入った。
また、来場者の方も、ライブにおいては主催者の要請通り、皆、マスクを着け、声を出さないままで、いつもなら歓声を上げるところでは、ペンライトを離して拍手をした。
テーマは「夏まつり」であったが、馬鹿騒ぎするだけが祭ではなく、むしろ、この慎み深さ、敬虔さが、本当の祭なのではないかと感じた。
もちろん、ミクさん達、そして、バンドも、1日3公演で2日間というハードさの中でも、最高のパフォーマンスであった。
今月は、千葉県の幕張メッセで開催されるので、こちらも楽しみだ。








悪に情けを

親鸞聖人が、弟子の唯円に、「私の言うことを何でも聞くか?」と尋ね、唯円は「もちろんです」と答えた。
すると、親鸞は、「人を千人殺せ」と命じた。
だが、唯円は、「一人も殺せそうにありません」と言うしかなかった。
これは、唯円の著書とされる『歎異抄』に書かれていることだが、親鸞が、そんなことを命じた理由が素晴らしかった。
親鸞は、決して、「唯円よ、お前は善い人間だから、人殺しなんか出来ないのだ」などとは言わなかった。
そうではなく、親鸞は、
「唯円よ、お前に人殺しが出来ないのは、お前が善い人間だからではない。単に、人を殺す運命にないだけのことだ。殺す運命にあれば、私もお前も、人を殺してしまうのだ」
と言ったのだった。

我々も同じである。
いまどき、なかなか人殺しをやることはないが、そんな運命であれば、我々だって、殺人を犯すのかもしれない。
もう少し、深刻度が低いこんな話がある。
インドの聖者ラマナ・マハルシに、ある男が、
「隣の奥さんが魅力的でたまらない。間違いを犯しそうだ」
と相談すると、マハルシは何と、
「そうなっても悔やむな」
と言ったそうである。
どういうことかと言うと、彼が間違いを犯すか犯さないかは、彼の意思とは関係ない。
間違いを犯す運命であればそうなるし、そんな運命でなければ、間違いは起きない。
あるいは、マハルシは別の相談者に、
「働く運命にあれば、お前は働くことを避けられない。逆に、働く運命でなければ、いくら探しても仕事は見つからない」
と言ったらしい。

まあ、これらは、本当のことかどうかは分からないが、親鸞やマハルシが嘘を言うとも思えず、彼らはそう信じているのだろう。
そこで、こんなことを考える。
アメリカの、スーパー弁護士と言って良い凄い弁護士だが、リン・ウッド弁護士が、ツイッターに、
「バイデン、オバマ、クリントン(ビルとヒラリー)は、全員刑務所に入ることになる」
とツイートした。
これは凄いことだ。
こんなことを書いたら、名誉棄損で訴えられる危険があることは、ウッド弁護士は誰よりも知っている。彼は、特に人権弁護士として知られているのだ。
だが、これは、ウッド弁護士には、「訴えられるものなら訴えてみろ」という揺るぎない自信があることを示し、悪者に脅しをかけているのだ。
そうとしか考えられないではないか?
アメリカは正義の国であり、悪を許さず、断固として倒すことは、正しいことで良いことだ。
しかし、親鸞やマハルシからすれば、仮に、バイデンやオバマが、アメリカを滅ぼすような悪事を働いていても、ただ、彼らがそんな運命にあっただけで、彼らが悪人だからではない。
ウッドやトランプは、善い人間だからではなく、正義を行う運命であっただけだ。
無論、そうであっても、悪いことをすれば、確かに刑務所に入るしかない。
ならば、悪い運命を持ったことを同情する余地があるかもしれない。

確かに、そう思わないこともあるが、犯罪者のニュースを見れば、私は、「ああ、これ(犯人)は私だ」と思うことがある。
あるいは、犯罪でなくても、こんな話がある。
昔、ある剣豪がいて、ストイックに修行し無敵で、名声も高まっていた。
ところがある時、その剣豪と弟子達が宿泊している宿に、この剣豪の名を語り、高い講演料を取ったり、良家の娘をたぶらかす不埒ものが、たまたま泊まっていることが分かった。
剣豪の弟子達が、「行って懲らしめてきます」と言うと、剣豪は、「捨ておけ」と言う。
弟子達は困惑したが、剣豪は何も言わなかった。
剣豪は、こう考えたのだ。
「俺だって、あいつ(剣豪の偽物)のようなことをしたいのだ。あいつは、俺の代わりにやってくれている」
これは、あくまで時代劇ドラマであったが、なかなか感慨深かった。

イエスも言ったではないか。
「人を許せ。そうすれば、神もあなたを許してくれる」
自分の罪の大きさに自覚がないだけで、誰にも罪はある。
親鸞の教えでは、幸いにして、念仏さえ唱えれば、いかなる罪も許されるのだが、許されるとしても罪を犯すことは、実は、なかなか辛いことだ。
そして、人を許さなければ、自分もさらに罪を重ねることになるだろうと思う。








神罰はあるか

「正義は必ず勝つ」とか「悪が栄えた試しはない」と言うが、本当だろうか?
それは本当であり、ただ、正義が勝ち、悪が滅びるのに多少の時間がかかるだけだ。
だが、要するのは「多少の時間」に過ぎない。
だから、真理を言うなら、平家物語の冒頭にある通り、
「奢れる者は久しからず。ただ春の夜の夢のごとし」
である。

少しの間なら、悪いことをしても愉快に過ごせることはある。
だが、人間というのは、「本当の喜び」を欲しがるものだ。
それは悪人も同じである。
悪人であっても、自分の子供が可愛いと思うところを見ても、そんなことが分かる。
あるいは、悪人であっても、親友や恋人や妻や夫を愛するところは同じなのである。
だが、悪人は、それらを奪い去られる。
その惨めさは地獄のようである。

あるいは、悪人であろうと、健康を望まないはずがない。
大抵の悪人は、それを容赦なく奪われるし、仮にそうでないとしたら、数倍化した精神的苦痛が与えられる。
そして、やがては健康も完全に奪われる。
つくづく、悪にメリットはない。
少し長い目で見ればね。

テレビや新聞しか見ない、あるいは、ネットでも大手のポータルサイトしか見ない人は知らないと思うが、アメリカ大統領選挙は、今も続いているし、それどころか、ますます戦いは激しさを増している。
どちらが善で、どちらが悪とは言わないが、善と悪との戦いであることは間違いない。
バイデン側から見れば、トランプ側が悪であり、トランプ側から見れば、バイデン側が悪である。
主要メディア(CNNやニューヨークタイムズ等)はバイデン側であり、一部のオンラインメディア(エポックタイムズ等)がトランプ側であると言えるかもしれない。

バイデン側から言えば、選挙で負けたのに、敗北を認めず、アメリカを混乱されるトランプ側は悪である。
トランプ側から言えば、選挙で不正を働き、民主主義を奪うバイデン側や主要メディアは悪である。

だが、上に述べた通り、悪にメリットはないのだ。
少しの間は、悪いことをしても、贅沢で快楽に満ちた愉快な時間を送ることが出来る。
だが、末路の哀れさを考えれば、私なら、それほどの悪に手を染める気はない。

キリスト教、ユダヤ教、それに、イスラム教では、神や神の代弁者の教えに背くことが悪であり、神は必ず悪を罰する。
それは、善人も悪人も知っているはずなのだ。
そのせいか、神を畏れない振る舞いを続けていると、これらの宗教を信仰する悪人は、人相が悪くなる。魂の苦しさが顔に出てしまうのだ。

仏教の中でも、浄土仏教では、仏は悪人も救う。
ところが、キリスト教でも、深くイエスの教えを理解する者は、同じ結論に達するらしい。
神といい、仏といっても、本質は愛なのだから、どんな人間も憎まない。
だが、魂自体が神であり仏なのであるから、神仏の性質とあまりに違うことを続ければ、自分で悲惨を作ってしまうことは、逆に、神が人を罰する、一般的なキリスト教やユダヤ教の教えと一致してくるのである。
だが、浄土仏教を知る者には、念仏という手段があり、素早く悪の報いを免れることが出来る。
だから、海外でも、やむなく悪に加担し、魂を傷付けている者には、念仏の教えである『歎異抄』を愛読する者は多いのである。

いずれにしろ、イエスが言ったように、「隠されたものは、必ず明るみに出る」。
念仏を知らない悪人は、神の罰を免れることはなく、必ず悲惨に遭う。
「悔い改めよ」とか「神を畏れよ」という言葉は、快楽に目が眩んだ愚か者に対して効果がないことは、だいたい分かっている。
「念仏を唱えよ」が、最後の救いである。
ただし、「神よ、哀れみたまえ」も同じである。
悪人であることを止められないなら、「南無阿弥陀仏」あるいは「神よ哀れみたまえ」「主イエスよ、哀れみたまえ」と常に唱えるが良い。
それで、早くに悪を捨てる気になれば、痛みは少なくて済むかもしれない。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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