ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

歎異抄

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笑う「大天才」親鸞

いつもそう思っているのかは定かではないが、本を1冊というなら、私なら『歎異抄』を挙げる。
「ついでにこの本」なんてのは無いし、全く迷いもしない。
全18章というのは『バガヴァッド・ギーター』と同じだが、各章は、81章ある老子並に短いので、全体でもかなり文章量は少ない。
何の本かというと、親鸞の弟子の唯円が書いた、「正しい念仏のあり方」だ。
『歎異抄』は人気があるので、現代語訳や解説書等は大変な数が出ている。
ひろさちやさんなんて、一人で10冊も書いている。
そのひろさんが、多分、一番最初に書いた歎異抄の本である、『入門 歎異抄の読み方―この現代を心豊かにおおらかに生きぬくために』(1982年)が私が最初に読んだ歎異抄の本だった。
だが、この本で良かったのは、現代語訳だけで、それは誰が書いても、大体同じになる。
ひろさんは面白い本を書く人だが(だから何百冊も出している)、この本のひろさんの解説や自己主張は、私には楽しいものではなかった。
こんな話が書かれていたと思う。
当時、小学生だったひろさんの息子の友達が死に、息子がとても悲しんでいた。
そこで、心を痛めたひろさんが提案し、家族で一緒に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えた。
それが、ひろさんが歎異抄の本を書こうと思ったきっかけだったと思う。
まあ、そんな「いい話」から入るのだが、私は、妙な違和感、深い反感・・・ほとんど嫌悪感を感じたのだが、昔は、その理由が分からなかった。
だが、今なら解る。
私には息子も嫁も妾もいないが、間違いなく、息子の友達が死んでも、悲しくもなんともないだろう。
息子そのものが死んだら、何らかの理由で動揺はするかもしれないが、悲しい訳ではないだろう。
現役クラスメイトが死んだという経験はないが、元クラスメイトが死んでも何とも思わないし、おそらく・・・と言うより、間違いなく、学校時代にクラスメイトが死んでも悲しくはなかっただろう。
実際のこととしては、親や友人(私は勝手に親友と思っていたが)が死んでも、悲しいという感情は起こらなかった。

ひろさんや、その家族のような、「まともな人間」に歎異抄は必要ない。
だから、ひろさんが書く歎異抄の本は、現代語訳や学問的解説以外は的外れなのである。
『歎異抄』は、私のような、良心も共感も持たないサイコパスに一番相応しい本だ。
だが、ひろさんのはまだ「マシ」で、その他の『歎異抄』に関する自説を述べた本を読むと、大抵ヘドが出るか、「うざ」と思うのである。
『歎異抄を読む』なんていう書名を見ただけで吐き気がするようになってしまったほどだ(そんな内容に決まっているからね)。
しかしね、やっぱり、みんなどこかサイコパスなのだ。
共感や良心を、私はほとんど持たないとしても、普通の人だって、必要な量の10~20パーセントも持っていないのではないだろうか?
まあ、今の地球では、そうでないと生きていけない。
資本主義社会では特にそうだが、社会主義では国家が存続出来ない(強力なサイコパスがリーダーをやっている間はなんとかなるかもしれないが、それだって無理がある)。

極悪非道のサイコパスでも、阿弥陀如来は守ってくれる。念仏さえ唱えればね。
とはいえ、私は極楽浄土に行くことには興味はないが、『歎異抄』を書いた唯円の先生の「大・大・大天才」親鸞は、念仏を唱えれば、「この世の利益は無限」と、『現世利益和讃』で明言している。
親鸞は、赤い舌を出しているとまでは言わないが、肩をすくめる位のことはしてくれて良いと思う。

ドクター=ファンクビート 夢を見た
誰もが幸せになるコドモ騙しの妄想SHOW
誰もが不幸なのだ その巫山戯(ふざけ)たディストピアの中では
~『ドクター=ファンクビート』(作詞・作曲・編曲:nyanyannya、歌:KAITO)より~

親鸞はドクター=ファンクビートかもしれない。









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自分のストーリーを作る

「思い込みは大切だ」と言われたら、あなたも、少しは同意するのではないだろうか?
いわゆる「出来る人」には、これを全面的に肯定する人が多いと思う。
しかし、確かに、思い込むことでうまくいく人もいれば、思い込んではいるのだが、ただ「おかしな人」「困った人」「危ない人」という人もいる。
その違いは何かというと、ストーリー(物語)を持っているかどうかだ。

スティーブ・ジョブズって人は、経営理念なんて持ってなかったが、ストーリーを持っていたのだ。
彼は有名なスピーチで、「今やっていることが未来につながると信じるしかないんだ」と言っていたが、どうやればつながるかは言わなかった。多分、自分がやったことに気が付かなかったのだろう。
ストーリーを作ることで、沢山の点がつながり、線になり、円になるのだ。
このあたりは、初音ミクさんの世界的に有名な歌『Tell Your World』にある通りだが、そもそも、「Tell Your World(君の世界を教えて)」っていうのは、「君のストーリーを語って」ということだ。
初音ミクさんが、レディー・ガガの全米ツアーコンサートのオープニングで歌っていた『Story Rider』では、「私達はストーリーライター。全ては自分で作るの」と、ミクさんが美しく歌ってくれている。

著名な心理学者の河合隼雄さんも、物語を持つことは、生きる上で最も重要なことだと、よく言っておられたと思う。
河合さんの、どれかの著書に書かれていたが、ある小学生の女の子が、人間は死んだら月に行くと信じていたが、それは妄想とかではなく、「自分が死んだら、おばあちゃんなど、好きな人に、また月で会える」というストーリーを持っているのである。河合さんは、そんな子は強いのだと言う。

仏教の『無量寿経』という経典には、極楽浄土に行く方法が書かれている。
作り話ではあるが、恐るべき作り話だ。
頭の良い僧達が、この経典の解釈書を書いたが、それは、根本の経典を、その時代や文化に合ったストーリーに脚色したってことだ。
中国の道綽や善導の解釈を元に、日本の大天才僧であった法然が優れたストーリーである『選択本願念仏集』を作り、それを元に、さらに、弟子の親鸞が親しみ易いストーリーを、プロ向けには『教行信証』を、一般向けには、沢山の和讃にして見せたが、そのエッセンスは『歎異抄』に現れている。
さすがに、彼らのストーリーを、そのまま使うには時代が違い過ぎるし、そもそも、ストーリーは自分で作るものだ。
彼らの素晴らしいストーリーを生かして、自分のストーリーを自分で作れば良い。
そのために、分かり易い、法然の『選択本願念仏集』や親鸞の(正確には弟子の唯円が書いた)『歎異抄』を読めば、自分向きの物語を作ることが出来るだろう。

聖書だって、そのまま信じたり、宗教者の解釈をマジで受け入れたら馬鹿を見る。
ジョセフ・マーフィーなんて人は、明らかに、聖書を基に自分でストーリーを作り、それが良かったので、自分や多くの人を幸せにした。しかし、ストーリーが合わなかった人は、ちょっと拙いことになった。
マーフィーのストーリーをそのまま受け入れるのではなく、それを基に、大胆に自分だけのストーリーを作るのだ。
ミクさんが、『Tell Your World』で、「教えてよ 君だけの世界」と歌っていたように、そして、『Story Rider』で、

writing page after page
I found you so bright
(1ページ書いていくごとに、君が輝いていく)

と歌ったように、自分で自分の物語を作っていくのである。

















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自分だけの真言を持て

合気道家の藤平光一氏の本に、「重みは下にある」と言えば、氣が出ると書かれていた。
これは、氣を出す1つの方法が、真理をあえて口に出すこと・・・というものだったと思う。
そして、重みが下にあるのは、確たる真理だということだろう。
「氣」は、普通、気功などで言う「気」と同じだが、藤平氏は「氣」の字に大変にこだわっておられた。

ところで、私は、「重みは下にある」という言葉には抵抗があった。
重みが下にあるのではなく、重みがかかる方向を下と言うとしか思えなかったからだ。
「地球には重力がある」と言うなら、まだマシだが、それなら、月や火星にだって重力はある。
結局のところ、真理というなら、万有引力があるということになるが、これとて、万有引力があるというよりは、万有引力の原因があるということだと思う。
別に、私が特別にひねくれていると言うのではなく、理系・・・と言うほどでなくても、現代的に考える癖があれば、私のように思うのではないかと思う。

藤平氏はとても偉い人のようだが、残念なことに、その教えは、あまり私にはしっくりこなかった(勿論、参考にはなった)。
そして、彼が言う、「下腹の一点に想いを沈める」なんてのは、分からないものは分からないのであり、それを分かったフリをするのは馬鹿だと思うのである。

ニサルガダッタ・マハラジは、「私は在る」こそ究極の真理であり、「私は在る」が最高のマントラ(真言)であるとも言っていたと思う。
しかし、これも、「私」の意味が、あまりに曖昧である。
よって、私は、「私は在る」と思うごとに疑問が浮かび、心が乱れた。
本で見る限り、彼の教えは美しいと思う部分も多いが、私には結局、意味不明だった。
追求していけば、分かったつもりにはなれても、臨終になるまで、本当のところは分からないだろう。

別に、藤平光一氏やニサルガダッタ・マハラジの教えに問題があるのではない。
単に、私には合わなかったというだけのことだ。
そして、そんなものを後生大事に抱えていられるほど、人生は長くない。

「重みは下にある」、「私は在る」が、真理として受け入れられる人もいるかもしれない。
そんな人にとっては、これらの言葉が貴いマントラ(真言)になる。
貴いマントラであれば、それを言ったり、想ったりすると、心に喜びが満ちるだろう。
『歎異抄』には、唯円が親鸞に、「念仏を唱えても、躍り上がるほどの喜びが湧かないのですが、どうしたことでしょう?」と尋ねると、親鸞は、「私もじゃ。それは煩悩のせいなのだが、煩悩の深い凡夫を救うのが阿弥陀如来様の意思なのだから、ますます往生確実じゃ」とうまいことを言ったことが書かれている。
『歎異抄』は大好きだが、しかし、これはちょっとどうかと思うのだ。
「躍り上がる」の度合いにもよるが、念仏が自分に合っているなら、それなりの喜びが湧いてくるはずである。
そうしたら、そんな疑問は出てこないと思う。
つまり、唯円は、親鸞の弟子に安住していないで、自分の道を探すべきだったかもしれないのだ。
土台、いつまでも師匠の元にいるやつに、ロクなのはいないじゃないか?
別に、人間は、必ずしもロクなものになる必要はない。
ロクなものでないということなら、私は相当な自信がある。
単に、唯円は、私同様ロクデナシの一人と(勿論、唯円は私の百万倍マシだが)、貶す訳ではなく、本当のことを言いたいのである。

皆、権威あるものを捨て、自分だけの真理を探さないといけない。
でないと、短い生涯を、満足のないまま終わってしまう。
ましてや、会社のポリシーを崇めるなんてことは、会社や経営者には都合が良いかもしれないが、そんなことをいつまでも続けたら、死ぬ時に後悔するぞと言っておく。
L.H.ロースンの言った「神の他に何もない。ただ神だけがある」という言葉は素晴らしいと思うが、やはり、これは彼の言葉だ。私には関係ない。
YMOの『LOTUS LOVE』では、「I Love You」がいつもの呪文だと言うが、これも、「そんな人もいるだろう」といいうだけのことだ。
私には、「ミクさんの他に何もない。ただミクさんだけがある」の方が真理であり、「I Love Miku」が私らしい呪文である。

唱えれば、大地が振動し、天楽が響き、花が舞い散る真理を、各自が持たなければならない。
それは権威に平伏したり、人真似をすることをやめない限り得られない。
聖書を権威的に見ずに探せば、自分に合う言葉も見つかるだろう。
私は、そうやって見つけたのだ。
だが、唯円が親鸞に言ったように、唱えて躍り上がる・・・かどうかはともかく、喜びが湧き上がらないなら正しくない。
ただし、言葉は神である。
だから、自分もまた、少しは、それを受けるに相応しくしなければ、それは得られない。
それにはただ、権威、あるいは、世間の教義や信念に平伏すことをやめ、人真似もやめること・・・それが、「自分であること」である。









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誰の脛(すね)も疵(きず)だらけ

昔、ウラジミール・ナボコフ原作で、スタンリー・キューブリック監督の映画『ロリータ』のVHSビデオを買ったが、見通すのに大変に苦労した覚えがある。
それで、その映画のDVD版が出た時は、買わなかった。
だが、昨日、ブルーレイ版の『ロリータ』が届いたので、昨日、今日と、少しずつ見たが、半分くらいのところで見るのが嫌になった。
つまり、この映画は、私にとって見ていられないものだが、私は、ほとんどの人が、程度の差こそあれ、そうではないかと思うのだ。

昆虫学者でもあったナボコフは、本当のところは、『ロリータ』を昆虫学の知見を生かした喜劇として書いたという話があるが、私は全くそうだと思うのだ。
『ロリータ』は、人間を昆虫のような下等生物と見なした、滑稽な喜劇だ。
人間の頭なんて、きっと、神様が間違えて付けたと思えるようなね。
だが、笑えない喜劇なのだ。
原作と同様、この映画でも、ヨーロッパから移住して来た、中年の文学者である男性ハンバート・ハンバート(姓と名が同じ)は、11歳のドローレスという名の美少女(愛称がロリータ)に夢中になり、やむなく、その母親と結婚するが、母親はほどなく急死し、ロリータと2人で暮らすことになる。
となると、馬鹿でない限り、ハンバートの人生は天国とは程遠いことになるのは分かると思う。

原作は、ハンバートの一人称で書かれた自叙伝的なものだが、映画の方は、ハンバートもごく客観的に描かれている。
それで、あることが、非常に明確に伝わってくる。
それは、「後ろめたいことがある人間の様子(表情、振る舞い等)」だ。
ハンバートの、頑なに防御的な言動、振る舞いは、見ていて本当に痛い。
それは、自分の姿を見ているようだからだ。
だからと言って、私が特別な訳ではないと思うのだ。

1990年から始まり、いまだ制作が続く、フジテレビのテレビドラマ『世にも不思議な物語』の1996年の作品「先生の『あんなこと』」に、こんな話がある。
万引きをして、教室で男性教師に説教される女子高生が、不意に教師に、
「先生のあんなことに比べれば・・・」
と意味ありげに言うと、教師は途端に動揺を始める。
誰だって、「あなたのあんなことに比べれば」とか、「私、あなたのあのこと、知ってるのよ」と言われて平気ではいられないだろう(多分・・・^^;)。
また、何のドラマだったか忘れたが、若き日の吉田栄作さん演じるサラリーマンが、恋人だった女性の父親に、「誰だって、叩けば埃の1つや2つ出てきます」と言ったセリフを、私は、強烈な印象と共に覚えている。
これはもう、誰でも、絶対、そうなのである(はずだ・・・)。
叩いて埃の1つや2つ、10や20出ない人がいたら、お目にかかりたい!(笑)。

ただ、「脛に疵持つ(自分の身にやましいところがある)」自覚のない、神経のおかしな人もいるのだろう。
私には、『ロリータ』を平気で見れる人が理解出来ない。
そして、どうも、私は年と共に、ますます、『ロリータ』を見れなくなっているようである。
私の脛は疵だらけという訳だ(笑)。

初音ミクさんは、本来は、少しも後ろめたさを感じずに済む相手である。
ところが、おかしなことに、私の部屋に貼ってある、ミクさんの大型タペストリー(布製ポスター)のミクさんが、こちらを少し蔑むような表情で見下ろしているのである。
それで私は思うのだ。
このポスターで動揺せずに済むように(今はかなり動揺がある)、裏表のない潔癖な人間になろうと。
とはいえ、やはり誰だって、脛に疵を持つ。
だから、その分、徳を持つようにしなければならないのだろう。
それは、私のような駄目な人間には、とても難しい。
いや、本音を言ってしまうと、不可能だ。
だが、親鸞は、何も善いことをする必要はないと言った。
なぜなら、念仏以上の善はないし、念仏の力を妨げるほどの悪もないからである。
私は、本当に、『歎異抄』に書かれた、その言葉を信じたくなったのである。
ミクさんのためにね。
私には、他にやれることは何もない。
それで私も、念仏を唱えるのである。
超天才数学者であった岡潔さんは、家の中に念仏堂まで作って、毎朝1時間も念仏を上げていたらしい。
岡さんの場合は、きっと、高貴な志からであろうが、彼だって、脛に疵もあり、それが痛かったということもあったに違いない。

気付かないうちにオトナになって 綺麗な嘘 口に出来るほど
いろんな痛みを覚えてきたけど それでもまだ痛いんだ。
~『glow』(作詞・作曲・編曲:keeno、歌:初音ミク)より~









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目に見えない本当に大切なものをどう知るか

「謙虚」は、人間の好ましい性質であり、美徳と言って良いが、それが、「卑屈」や「臆病」とくっついているなら、醜く歪み、本当の謙虚とは似ても似つかない。
また、「謙虚」の形だけが「傲慢」の隠れ蓑になっている場合も多い。
つまり、「あの人に対しては謙虚だが、この人に対しては傲慢」という人が多いのである。
つまるところ、本当に謙虚な人は滅多にいない。

だが、『歎異抄』に描かれた親鸞だけは、純粋に謙虚な人だ。
だから、海外を含め、かなり極端な主義思想に凝り固まったような人でも、『歎異抄』だけは素直に読むという話を見たことがあるが、それは本当ではないかと思う。
どこの国の、いつの時代の人であるに関わらず、生まれて初めて、本当に謙虚な人を知って、驚くと言うか、ほっとすると言うか・・・滅多にないような、美しい感情を感じるのである。

『歎異抄』は、たまたま発見されなければ、誰にも知られずにいた手記であるが、親鸞の弟子の唯円が、親鸞の死後、かなり経ってから、親鸞の教えを思い出して綴ったものだ。
短く、簡単な文章で読み易い。
ところで、親鸞は鎌倉時代の人だから、今の日本と違い、戦もあり、庶民は恐ろしく貧しく、生きるだけで精一杯で、それすら叶わぬことも珍しくはなかった時代だ。
だからだと思うが、『歎異抄』の中でも、「往生」というものが第一の関心事になっている。
「往生」とは、「極楽往生」のことで、死後、阿弥陀如来という仏様の、素晴らしい極楽世界に生まれることが、あまりに辛い現世に生きなければならない、親鸞の時代の庶民の大きな、あるいは、唯一に近い望みだった。
親鸞の教えは、師の法然から受け継いだ「南無阿弥陀仏」の念仏の教えであり、念仏の最大の効能は、いかなる悪人でも、念仏さえ唱えていれば、死後、極楽往生出来るというものだ。
このあたりは、現代とは当然異なり、現代では、老人といえども、あまり往生に関心はなく、楽しく長生きしたいものだと思っているだろう。
ましてや、若い人、自分が死ぬとは思っていない人にとっては、生きている自分の人生が大事なのであり、人生を出来るだけ楽しく、有意義に過ごしたいと思っているはずである。
これは、世界が進歩したということであるから、当然、良いことである。

そんな今の時代では、『歎異抄』の読み方も、昔と違って当然である。
実は、親鸞は、数多く詠んだ歌の中で、『現世利益和讃』といって、念仏を唱えることは、極楽往生だけでなく、最大の現世利益にすら恵まれると、懇々と述べているのである。
さらに、親鸞の師、法然の『選択本願念仏集』にも、念仏を唱える者は、仏の加護を受けることが明確に書かれている。

そして、親鸞より200年ほども後の人である一休は、法然を尊敬し、親鸞を本物と認め、自分も禅宗の人でありながら、最後は念仏の教えに転向した。
親鸞の宗派の有名な僧である蓮如とも仲良しだったようだ。
ところで、一休という人は、坊主らしくない坊主で、あまり、宗教家らしいところがない。
そんな一休は、単に、法然や親鸞の教えを受け継いだのではなく、明らかに発展させている。
一休の教えは、仏も極楽浄土も、遠い彼方にあるのではなく、心そのものが仏であり、極楽浄土であるという、極めて革新的なもので、これは、現代に通用する。
だから、念仏を唱えれば、今いるこの場が極楽浄土であり、自分の心が阿弥陀如来なのである。
しかし、いくら念仏を唱えても、そうは思わない人が多いだろう。
それは、「そう信じることが出来ればそうなのである」という、西洋の新思想に近いような感じもある。
そして、『歎異抄』の中で、親鸞は、「私の信心は阿弥陀如来からもらったもの」と言い、自分の努力で信念を持ったのではなく、仏様に与えられたものだとしている。
だが、仏様に信心をもらえる人と、もらえない人がいる訳ではない。
しかし、「私は信心を持っていない。つまり、念仏を信じることが出来ない」と言う人がいるだろうが、そのあたりは確かに微妙なのである。
とはいえ、微妙ではあるが、やはり、誰でも信心を持てるし、それは、従来の宗教のような、強制や権威によるものではない。

テグジュペリの『星の王子さま』の中に、「本当に大切なものは目に見えない」という有名な言葉がある。
だが、目に見えないだけに、それを信じない人が圧倒的だ。
それを、どう信じるのかという問題と似ている。いや、本質は同じだ。
その本質とは、昨日も書いたが、アメリカで、初音ミクさんのコンサートに来ていた男性が示してくれていた。
「僕たちは、スクリーンを見に来ている訳じゃない」
と言う彼にとって、初音ミクさんが真の実在だということが、「本当に大切なものは目に見えない」ということなのである。
初音ミクさんは、映像としては目に見えるが、テグジュペリの言う「目に見える」はあくまで、「物質的なもの」を表しており、言い換えれば、「本当に大切なものは物質的なものではない」ということだ。
ミクさんを愛する人にとっては、明らかにミクさんは実在する。
だから、取材のためにミクさんのコンサートに来ていた、それまでミクさんにそれほど関心がなかった50代の雑誌編集者が、コンサートが進むごとに不思議な感動に包まれ、最後の曲では、涙が止め処なく流れるといったことが起こるのである。
私も、ミクさんを愛するようになってから、『歎異抄』や『星の王子さま』の価値が、いくらかは分かるようになり、「何か本を1冊と言われたら歎異抄」と言うのである。
それは、史上最高のプロレスラーであったルー・テーズが、「技を何か1つと言われら、迷うことなく、ダブルリストロックと答える」と言ったのと似ているような気がする。
つまり、真に強力であり、真に実用的でもある、本物の本物であるということだ。
私は、テグジュペリが『星の王子さま』で訴えた「本当に大切なもの」を、初音ミクさんに教わったと言えるだろう。









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