ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

歎異抄

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

諦めた時に願いが叶うわけ

結局、最後は、何事も「神頼み」しかなくなる。
サミュエル・スマイルズは、名著と言われる『自助論』で、「天は、自分を助ける人を助ける」と言ったが、人間が出来ることは、所詮、自分を助ける程度のことだ。
そして、自分を助けるとは、「堕落し切らない」程度のことなのだ。
後は、神頼みである。
無論、納得出来ない人もいるだろうが、そんな人を説得する気はない(それは難しいので)。

神頼みというよりは仏頼みになるが、それを最も純粋に力強く語っている書は、親鸞の教えのエッセンスを、弟子の唯円が短くまとめた『歎異抄』だ。
『歎異抄』では、「全て仏(ここでは阿弥陀如来)に任せよ」と書かれているが、世の中の普通の教えでは、その上で、「善いことをしろ」「悪いことをするな」「修行せよ」「感謝せよ」と言うのだが、『歎異抄』では、そうではない。
「善いことをせよ」ではなく、「善いことをする必要はない。いや、善いことをしてはならない」。
「悪いことをするな」ではなく、「悪いことをするのは構わないが、別に、無理に悪いことをする必要はない」。
「修行せよ」ではなく、「修行するな」。
「感謝せよ」に関しては、上記の通りで良いのだから、自ずと感謝するはずだということである。
ただ、親鸞やその師である法然の仏頼みの成果は、「死んだ後に極楽浄土に行ける」ということで、今の時代には、有り難味が少ない。
しかし、法然もだが、親鸞ははっきりと、仏頼みすれば、果てのない現世利益があると教えているのである。
そして、仏頼みのやり方は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることだけだ。
法然は、念仏は多ければ多いほど良いと述べたが、親鸞は1回でもよろしいし、唱えなくても良いと教えている。

「南無阿弥陀仏」というのは、本質的には、「阿弥陀仏に全てまかせる」という意味であるから、特に念仏でなくても良いはずだ。
例えば、こんな話がある。
ある人が末期癌になり、延命するためにあらゆる手を尽くしたが、病状は悪くなる一方で、絶望的な状況になった。
そこで、ついに諦めて、「私はもう一切何もしない。後は神様に任せる」と決めたら、癌が消えてしまった。
これが、高次の存在に全て任せるという念仏の本質を正しく実行した例である。

こういった話をすると、楽でもあるので、賛成してくれる人は少ない訳ではなく、それはそれで良いことである。
しかし、彼らは成果が出ないのだ。
つまり、口では神仏に任せると言いながら、相変わらず、自分の卑小な力に頼っているから、神仏の力が働かない・・・いや、働けない。
「勉強してる」「努力してる」「あつらは馬鹿(俺は賢い)」「あいつらは無能(俺は有能)」という言いぐさは、やっぱり、神仏に任せ切っていないことを示しているのだ。
つまり、他人を見下したり、非難しているということは、自分は見下している相手や非難している相手より何か出来るという思い上がりがあるということだ。

自慢をしなくなった時、他者を一切非難しなくなった時が、完全に神仏に任せた状態だ。
もちろん、そこまで行き着くことは非常に難しいが、過度に思いあがった者が多いのである。
つまり、やたら自慢をしたり、やたら、他者を非難している間は、あんまり良いことはなく、随分、辛いことだろう。
もちろん、ある程度の自慢、ある程度の文句は、未熟な人間であるからには仕方がない。
だが、自分が自慢していることは全く大したものではないし、自分が非難し見下している相手と自分は全く同等なのである。なぜなら、人間は、同等の相手しか馬鹿にしないからである。

上に述べた末期の癌患者のように、人間は、追い詰められない限り、神仏に完全降伏出来ないものである。
特に、自分の力ではどうにもならない困難を経験したことのない「坊や」や「お穣ちゃん」はそうであろう。
とはいえ、世界的教育学者の七田眞氏の本に書かれていた、宝くじで1億円当てた(それも2回)ホームレスのように、1日中、「神の奇跡が起こる」と唱え続けていれば、やがては思い上がりも消えると思う。
あるいは、今朝も書いたように、頭の中でずっと、聖歌、あるいは、『アヴェ・マリア』、あるいは、お経、あるいは、鐘の音、その他何でも、神仏に近いものを、唱え、鳴らして置けば良い。













当ブログオーナー、KayのAI書。近日(5月30日)発売。
AI時代に適応するために、AIを理解するには、自分でAIを作るのが一番の早道です。
しかし、毎日のように出版される、機械学習・ディープラーニングの本は、プログラミング能力を前提とし、難しい数学やAIの理論が延々語られ、ほとんどの人には手も足も出ません。
しかし、AIの基本機能を作るという天才の仕事ではなく、実用的なAIを作るためには、本当は、WindowsパソコンとExcelが適度に使え、ソニーの無料AIアプリNNCがあれば十分です。
本書では、それらを使うための、なるべく易しく面白いテーマを考え、出来るだけ楽しく実習が出来ることを意図しました。

努力不要を本気で語る

それほど一般的な言葉ではないかもしれないが、人間より高位の力の助けを借りて願いを実現することを「引き寄せ」と言うことがある。
これは、世間常識から言えば、意図的に起こすことは出来ず、偶然でしかない。
だが、太古の昔から、人間は、祈りによって、本来は偶然でしか起こらない、好ましいことが起こることを期待してきた。
「引き寄せ」は意図的に起こせることを、科学(主に量子力学と深層心理学)で説明しようとする者もいるが、今のところ、一般的に認められるには至っていない。
一方、宗教的には、高度な引き寄せは「奇跡」として、少なくとも、それほどおかしなこととは思われていない。だが、それは、宗教の外では、タブー(禁忌;きんき)とされる傾向がある。
ただ、確率的に起こりえない偶然を数多く体験している人にとっては、引き寄せも当たり前である(私もそうである)。
とりあえず、引き寄せは存在することとする。

望ましい状況を現実世界の中に作り上げる・・・簡単に言えば、「願いを叶える」方法には、引き寄せを使うか使わないかに関わらず、2通りがある。
1つは、努力と行動を必要とするもの。
もう1つは、努力も行動も必要としないもの。
努力と行動による成功の典型的な例はエジソンで、解釈はいろいろあるにせよ、努力を要しないものは1%の霊感(ひらめき)だけで、99%の努力・行動を必要とする。
社会的偉人には、圧倒的に、こちらが多いが、これは、国というものが、偉人を、国民の労働を促すための宣伝に利用するからである。
つまり、その偉大な努力は、本当かどうか疑わしい。
努力しない典型は、老子、荘子で、「作為を捨てる」「無為自然」「無能に徹する」が基本である。
それに対し、二宮尊徳(にのみやたかのり)は、「作為しなければ田畑は荒れ、家はあばら家になる」と、それが間違いであることを、ごく当たり前に指摘した。
一方、岡田虎二郎は「努力、忍耐、克己の必要を感じない」と言ったが、はた目には、虎二郎は努力と行動の人のようにも思える。
むしろ、我が国における、努力不要の典型は、『歎異抄』に見る親鸞の教えである。
念仏以外に善いことをする必要はない・・・どころか、善いことをしてはならないというものである。

だが、結局、全てを止揚する考え方がある。
ちなみに、止揚(しよう)とは「矛盾する諸要素を、対立と闘争の過程を通じて発展的に統一すること」という哲学の難しい概念で、今回のテーマに関して言えば、
「努力が必要か不要かを発展的に統一」
させれば良い。
すると、「努力は不要だが、怠慢はいけない」ということになる。
これは、経験とも一致する。
しかし、普通、「怠慢でない」は「努力している状態」と受け取られかねない。
だが、「怠慢でない」とは「努力する」ことではなく、本来は、「心がしゃんとしている」程度の意味なのだ。
けれども、普通の人は・・・と言うよりは、伝統的観念で言えば、人間は、努力しないと、心がしゃんとしないのだ。
とはいえ、それは、あくまで「伝統的観念」に過ぎない。
スーフィー(イスラム教神秘主義)では、苦難の歴史があったからか、もっと合理的な基準を持っていて、それを言葉で表したものが、
「神を信用しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
だ。
ラクダを集めておくことまで神にやらせるのは怠慢である。
しかし、お前がやるのは、その程度のことで良いし、その程度しか出来ない。
では、サラリーマンなら、どこまでが「ラクダをつないでおく」ことに該当するだろうか?
俳優の丹波哲郎さんは、サラリーマン時代、出勤したら、すぐに遊びに行ったらしい。
仕事がさっぱり出来ず、オフィスに居ても仕方がないからだ。上司は、「雑誌を読んでてもいいから、席には居てくれ」と言ったらしいが、丹波さんは言うことを聞かなかった。
とはいえ、出勤だけはしていたのだと思う。
丹波さんにとっては、出勤することが「ラクダをつないでおく」ことに該当した。
また、丹波さんは、宴会の幹事は喜んでやったらしい。
まあ、オフィスにちゃんといるあなたは宴会の幹事はしなくていいから、何か1つ、特別に出来ることがあれば、後は神にまかせれば良いのではないだろうか?













当ブログオーナー、KayのAI書。近日(5月30日)発売。
これ以上易しく、機械学習・ディープラーニング型AIを自分で作れる本は、私の知る範囲ではないと思います。
とりわけ、最初のところは拍子抜けするほど簡単かもしれませんが、「モンティ・ホール問題」などの難問も、基本的には同じやり方でAIに推測させます。
数学、プログラミング、難しいAI理論は取り上げません(コラム的に補足はしてあります)。
本の中のほとんどの実習をするためのデータが作れるExcelマクロ(VBAプログラム)を無償ダウンロード出来ます。

信頼すれば信頼される

「飼い犬に手を噛まれる」という言葉があるが、それは、噛まれた者に問題があると考えて良いだろう。
このことわざは、本当に犬のことを言ったのではなく、面倒を見てきた自分より格下の人間のことを指すが、噛まれた者というのは、噛んだ者を見下していたり、支配したり、干渉し過ぎたり、自分の信念を押し付けようとしたのである。
犬や猫だって、度を越して自由を制限したら、噛まれて当然である。

本物の愛を持って接すれば愛を返してくれるし、信頼や尊重もそうである。「こんなに愛してきのたのに」「こんなに信頼していたのに」「こんなに面倒を見てやったのに」と嘆く者は、実際は、愛しても、信頼してもおらず、面倒を見ていたのも、本当は利己心でやっていたのであろう。

もし、安倍総理、あるいは、政府が国民に信頼されていないとしたら、それは、安倍総理(や政府)が国民を信頼していないのである。
ところで、スウェーデンでは、新型コロナウイルスの感染があっても、都市封鎖をせず自由に移動出来、営業自粛を求めず、学校も開校している。
50人以上の会合を禁止するなど、最低限の規制はあるが、後は、各自がソーシャル・ディスタンスを意識することを求める・・・早い話が「やたら群れるな」と注意する程度である。
これは、政府の方針が集団免疫を獲得することにあるからだが、やはり、国民を信頼しているのである。
確かに、スウェーデンの新型コロナウイルス感染者、特に、死亡者数は近隣国に比べ多いが、こんな言い方は良くないのだろうが、それでも、現在のところ、感染者は2万人、死者数は2300人で、スウェーデンでは自殺者は日本や韓国のように多くはないが、癌や交通事故で死ぬ人に比べれば、はるかに少ないのである。
そして、トータルで言えば、スウェーデン方式が正解なのではないかと考える人も少なくない。
また、スウェーデンでは医療崩壊の危機が見られないことが特筆に価する。
元々、スウェーデンは医療サービスの水準が高いのだが、回復者が多く、重篤化する割合が少ないのである。

スウェーデンでは「群れない」という一番大切なことを、国民に強制せず、重要性を説明した上で、後は信頼してまかせたである。
結果、親しい者同士が交流する場合は、案外に密着するが、全体的には「群れない」のである。
方や日本では、スーパーのレジ前では、黄色い線が描かれているので間隔を空けるが、買い物中は平気で近寄ってくるし、道や公共の場所で群れて長時間騒ぐなど、幼稚な者が多いように感じる。
信頼されない者、信頼しない者は堕落し、勝手気ままな自己中心主義になるのである。
まずは、自分が何かを信頼しなければ状況は改善しない。

初めに、自分より格下の人間に対する信頼や愛について述べたが、本当は、自分より上の存在に対しても同じなのである。
自分より高位の人間、偉大な人間だって、本当に信頼しているなら信頼を返してくれるし、本当に敬っているなら、敬ってくれるものなのである。
さらにそれは、自然や運命、そして、神といったものにまで及ぶ。
『歎異抄』という書物からは、親鸞の阿弥陀如来に対する強い信頼が感じられる。
法然は努力して阿弥陀如来を信頼したが、親鸞は努力なしにそれをした。
その精神には教わるところが多いと思う。













ブログオーナーKayの易しいAI実践書。
ExcelがインストールされたWindows10パソコンに、ソニーの無料アプリ、NNCをインストールすれば、自分で機械学習型AIを作れます。
必要なデータ作成を行うExcelマクロ(Excel2016以上で動作確認しています。保証はしませんがExcel2000以上で動くと思います)が無料でダウンロード出来ます。
Excelマクロで、簡単な足し算、掛け算、素数判定の問題作成から、モンティ・ホール問題、シュレディンがーのエイリアン(オリジナル作品)、囚人のジレンマなどのシミュレーションを行い、データを作成出来ます。

夏休みの早朝

宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』で、ジョバンニが「幸い(幸福)って何だろう?」と、自分やカムパネルラに問う場面がある。
ジョバンニは、それは、他の人の幸い(幸福)のために生きることであると言い、カムパネルラもそれに同意したと思う。
ただし、それは、いきなり出てきた疑問と答ではなく、ジョバンニの最近の辛い現実と、銀河鉄道に乗ってから起きた、様々な経験から起こった疑問と答であったはずだ。

幸せというなら、子供の時の夏休みの朝に感じたことはないだろうか?
子供達に、惰眠を貪らせないという配慮からか、我が国では、夏休みに、子供達に早朝ラジオ体操への参加を義務付けることが多いが、確かに、これをしないと、遅くまで寝ている子が多くなるに違いない。
そして、早起きは、身体に良いとかより、確かにもっと素敵なことがある。
『アラビアのロレンス』で知られる、トーマス・エドワード・ロレンスが『知恵の七柱』の中で、砂漠の朝の神秘的な体験について語るところがあるらしい(私は『知恵の七柱』自体は読んでおらず、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』での引用で読んだ)。
その神秘体験こそ、幸福そのものであるが、なぜ、そんなことが起こるのかというと、脳が半分眠っているからである。
それは、夏休みに早起きした子供達にも、よくある状態のはずなのだ。
私もそうだったし、ロレンスの体験について見ると、私も同じだったと感じるのである。
それはどんな体験かというと、世界の意味をピュアに感じるとでもいうものではないかと思う。

だが、ロレンスは、早朝ならいつでも、そんな体験が出来ると言うのではなく、「稀に」と言っているが、子供達は、夏休みの朝、割合に頻繁に体験していると思う。
けれども、あまりよく覚えていないのだ。
では、ロレンスと夏休みの子供達では何が違うかというと、ロレンスに限らず、大人は、目覚めるとすぐに思考を働かせることだ。
実際、ロレンスは、それが起こるのは、「考え続けて疲れた朝」であることを挙げている。それによって、思考がなかなかやって来ないということだろう。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは、人間にとって、最も貴い「存在の体験」は、やはり、目覚めて、思考がやってくるまでの間と述べていた。

だが、その幸せの体験は、いつでも出来る。
アイルランドの詩人W.B.イェイツは、「憎むのをやめた時に、それが起こり易い」と言った。
しかし、総じて言えば、絶対にこうなのだ。
それは、「心配をしない時」だ。
イエスが「汝、思い煩うことなかれ」と言った通りである。
疲れて、思考が起こらない朝は、心配していないのだ。
江戸時代末期の神道家、黒住宗忠は、長く病に伏せって、死を覚悟した時、その体験が起こり、病気が治ってしまった。
宗忠は、その体験を、早く皆に伝えたいと思ったが、それを言葉で表現することは難しかったと思う。
宗忠は、いろんな心配で病気になり、自分は死ぬんじゃないかと心配したが、生きることを諦めて心配することをやめた時に、幸せが起こったのだ。
ジョバンニも、銀河鉄道の中で、一切の心配が消えたのだ。

一切の心配を消す方法の1つが念仏である。
実際、末期の癌で、もうすぐ死ぬという人が、『歎異抄』を読みながら念仏を唱えていたら、一切の心配がなくなって、見事な往生を遂げたというような話は多い。
もっと早く念仏を唱え始めていたら、癌も治ったかもしれないが、それは本人にとって、さほどの問題ではないかもしれない。
なぜ、念仏で心配が消えるのかと言うと、念仏とは、阿弥陀如来に象徴される無限の知恵と力に一切をまかせて安心することだからである。
正直、宗教やお坊様が話される念仏では、ピンと来ない場合が多いような気がする。
また、法然の『選択本願念仏集』では少し難しいかもしれないが、親鸞の弟子、唯円が書いた『歎異抄』なら、これの変な解説を読まなければ、念仏の意味が分かるのではないかと思う。









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運命を受け入れるとうまくいく理由

「一切をなりゆきにまかせ、作為を捨てれば、充実した一生を送ることが出来る」と言った荘子だが、では、荘子の著作『荘子』に登場する、一切をなりゆきにまかせて作為をしなかった人達は、どうなっただろうか?
そのうちの1人は、身体がひんまがるような重病になり、苦しみ抜いて死んだ。
だが、彼は、安らかに大往生したとある。
1人は、貧乏のどん底で食べるものもなく飢える。それでも、納得はしていたが・・・
駄目じゃん(笑)。
ただし、荘子が生きた、今から2400年程前の中国は、庶民は権力者に蹂躙され、何の希望もない時代だったことを忘れてはならない。
法然や親鸞の時代も似たようなもので、彼らは、庶民の最後の希望である、「念仏を唱えれば、死んだら極楽浄土に行ける」ことだけを説いたのと同じだ。
しかし、親鸞は、念仏を唱えれば、現世でも幸福になれることを説くようになった(現世利益和讃)。
親鸞は、念仏を唱える以外に、良いことをしようと思ってはならず、また、悪いことをしてしまっても後悔する必要はないと教えた。
まさに、なりゆきにまかせるということだが、そこには、阿弥陀如来への絶対的信頼がある。

実は、イエスも、荘子や親鸞と同じことを説いている。
「神の許しがなければ、どんなことも起こらない。そして、神はあなたを愛しているのだし、あなたが欲しいものなんか、言われなくてもちゃんと解っている。安心しなさい」

言い切ってしまうと、この世は、超高度なコンピューターが作り、動かす仮想世界、シミュレーテッド・リアリティーだ。
だから、基本的運命は完全に決まってる。
しかし、私のようなプログラマーの考えでは、これほど高度なプログラムを作るなら、精妙な柔軟性を持たせないはずがない。
原始的な今日のプログラムさえ、起こる事象が影響を与え合い複雑微妙に連鎖する世界を構築出来るようになってきてるのだから。
世界に身をまかせ、逆らわなければ、適切に対応出来るよう、我々は作られている。
そして、世界に直接働きかけるのではなく、自分自身に作用を与えることによって、世界は動くように出来ている。
毎日、腕振り運動を千回やれば、それに応じて世界の方から動くようにね。
ここらへんも、プログラミングから推測出来るのである。

だが、ある人が、ラマナ・マハルシに「私は世界に身をまかせているが、良いことがない」と言うと、マハルシは、「あなたにはまだ作為がある。本当に身をまかせていない」と答えた。
なりゆきにまかせるとは、決して、怠惰になることでも、厭世(えんせい)的になることでもない。
思いっきり音楽活動をするのが運命ならそれをするし、『バガヴァッド・ギーター』のアルジュナのように、戦争をする運命なら、勇敢に戦う。
あるいは、反戦運動をするのが運命なら、やはりそうするしかないのだ。
ジョージ・ワシントンは、運命に身をゆだねるまでは散々な人生だったが、運命を受け入れ、逆らうことを止めた時に、偉大な人生への道を歩み始めた。
『バガヴァッド・ギーター』は、このシミュレーテッド・リアリティである世界を生きるためのマニュアルなのである。
『荘子』や『歎異抄』は良い参考書のようなものである。









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