ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

歎異抄

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

迫る終末と始まり

個人的な不平不満、あるいは、ただの不況や政策の不備との区別は難しいかもしれないが、それでも、
「今の世界は相当おかしい」「世界は闇に飲まれつつある」
と、直観、あるいは、霊感で感じている人が増えているだろう。
人類全体で、どれほどの人々が、そう感じているのかは分からないが、日本においては、まだ、気付いていない人の方がずっと多いように思う。
だが、アメリカでは、昨年の大統領選挙によって、自由の国であるはずのアメリカが、既に共産主義化していることに多くの人が気付くことになった。
そして、新型コロナウイルスを巡る様々なことよって、世界中で、多くの人々が、「もう世界はハルマゲドンのような状態にあるのではないのか」と強い危機感を感じるようになった。
ハルマゲドンとは、新約聖書の『ヨハネ黙示録』として書かれた世界終末戦争の予言であるが、このハルマゲドンが近付くと、あちらこちらに、偽救世主が登場することも予言されている。
怪しげな者達が、自分が救世主であるかのように話し、本を出し、動画配信しているので、詐欺師に慣れていない者は気を付けなければならない。
本来、そんな偽の救世主は、「こいつは偽物だ」とすぐに分かるはずであるが、偽預言者は、一般民衆にかけられた洗脳や、権力に教育された思考パターンを利用することが巧みなので、普通の人には、なかなか見破れず、大衆の支持を得ることすら珍しくはない。その大成功者がヒトラーなのであるが。
だから、やたら受けが良い人気者・・・たとえば、インフルエンサーなどは頭から疑った方が良いのである。

だが、常に真言を唱えているなら、偽の救世主を見ても、偽物だと、ちゃんと感じるのである。
ところで、偽の救世主は敵のボスではなく、知識があったり、話がうまいなどの理由で利用され操られているだけの下っ端である。
ところが、その下っ端であるはずの偽救世主自身が、自分は選ばれた救世主であると強く妄想していることが多く、その本人の思い込みが伝わって来るし、元々、話がうまいので、本物っぽく感じる場合もあるので気をつけて欲しい。
偽の救世主は、自慢が好きでナルシストである。
イエスは、自分が、知恵においては、ソロモンよりはるかに優るとは言ったが、自分が偉いとか、自分が素晴らしいと言ったことはなかった。
イエスは、自分は、あくまで人々に仕える者であり、自分に出来ることは誰にでも出来ると言い、そして、全ての良い業は神の力によるものであると言ったのである。
そのようなことが書かれた福音書を読んでおくと、偽預言者に騙されないだろう。
そして、日本には『歎異抄』という素晴らしいものがある。これは、短くて素朴な、まるで備忘録のような書であるが、これを読むと、本物と偽物の違いが分かるようになる。しかも、これには、念仏を題材とした真言の究極の極意が書かれている。
あくまで象徴的な意味であるが、阿弥陀、観音、それに、弥勒を擁する光の側の力は圧倒的である。ただ、各自がどちらを選ぶかだけの問題なのである。
今は、闇に騙されてしまっているので、闇が良く思え、闇を選ぶ者が多いが、そんな者達は、日々、不安に怯え、ストレスに悩まされている。
光の存在を感じてはいても、光に確信が持てず、闇の誘惑に負けそうな者も、闇の世界に落ち込んでしまう危険が大きい。
しかし、真言をたゆまず唱えていれば、闇と手を切ることが出来るし、そのために、光は、真言を唱える者をこの上なく気遣い保護してくれるだろう。
もう、それほど長くは続かない。
いつ、いかなる時、場所でも、心の中で真言を唱えていれば、何も心配はないだろう。








一生浮かばれない運命なら

私が以前勤めていた職場に、私が「まるで駄目男」と呼んでいた、とにかく、駄目な30歳過ぎの男がいた。
こう言ったら、
「いるよね!駄目なやつ!」
みたいなことを言う人もいると思うが、そんなレベルの駄目ではない。非現実的に駄目なのだ。
ところが、やはり、こう言っても、
「いますよね。本当に徹底的に駄目なやつ」
と言う人がいると思うが、普通に想像出来る駄目とは全然違うのだ。
いや、実を言うと、私にも想像出来ない。
最も当を得た言い方をするなら、「まるで駄目男は人間ではない」とでも言うしかない。
こう言うと、
「えー!それはオーバーじゃないですか?」
と言いたい人もいるかもしれないが、少しもオーバーではないのだ。
人間が持っているはずの重要なものを持っていない。あるいは、それが壊れてしまっているのだ。
あまり言うと、差別主義者だと思われかねないが、まるで駄目男は本物の異常者で、ある意味、超珍品である。
ところが、一見すると、まともなのだ。
頭が悪いわけではない。むしろ、まるで駄目男は、頭は良い方だったと思う。
ところが、まるで駄目男は、理屈は理解出来るのに、彼の言動は全く理屈に合っていない。

いや、考えていたら、私がおかしくなってきた。
妖怪人間なら、まだ、妖怪が出たら退治出来るが(まあ、出ないだろうが)、まるで駄目男は何の役にも立たない。
どうやれば、ここまで異常なまでの駄目な人間が出来るのか・・・興味と言うより、恐怖を感じる。

ところが・・・
そんなまるで駄目男のことを、そこまで気にし、さらに、見ていてイライラするということは、何のことはない。
私がまるで駄目男なのである。
そして、最近気付いたが、あの時の職場にいた連中は、皆、まるで駄目男であった。
類は友を呼ぶ・・・もちろん、誰も、まるで駄目男を友とは思っていないだろうし、何より、自分がまるで駄目男と同じと思っていないだろうが、結局、皆、「おなじ穴のムジナ」だった。
ただ、まるで駄目男以外は、何か出来るように見えるだけである。
本当は、何も・・・とは言わないが、大したことは出来ない連中だった。

そろそろ本題に入らないとヤバい(笑)。
私は、まるで駄目男を、なんとかしてやろうと思った。
さっきも言ったが、彼は、頭は良いのだから、少々足りない部分があっても、特技があればカバー出来ると思ったのだ。
しかし、特技は決して身に付かないことが分かった。
まるで駄目男は、職業訓練校みたいなところで、ワードやエクセルは習得し、そういったものはちゃんと使えた。
けれども、出来るのは、ソフトを立ち上げ、「これを入力しろ」と言われて渡された紙の内容を、そのまま打ち込むことまでだった。
まあ、子供が書くような日記とか、簡単な調べものをして書くくらいは出来るだろうが、仕事というレベルのことは一切出来ない。

最終的に私は悟った。
これは絶対に本当なのだが、まるで駄目男は、一生、まるで駄目男で、生涯、何も出来ないし、どうやろうが、出来るようにならない。
いかに理不尽で、いかに不思議であろうが、それが事実だ。

さて、そんな人間を、あなたは救えるだろうか?
普通には、絶対に無理だ。
だが、今なら、まるで駄目男を救うことが出来ると分かる。
真言を唱えれば良いのである。
逆に言えば、真言を唱えることでしか救われない。
なぜ、そんなことが言えるのかというと、今では私は理屈で説明出来るが、書けば長いし、そんな理屈に関しては何度も書いたので、ここでは書かない。
そんな理屈より、真言を唱えると救われると言える最大の理由が、私がそうであったからだ。
私とまるで駄目男の違いは、私は真言を唱えるまるで駄目男で、彼は、真言を唱えないまるで駄目男だということだけだ。

私と彼以外に、世の中に、どれだけまるで駄目男がいるのかは分からない。
結構いるような気もするし、ひょっとしたら、全員がそうかもしれない。
そうでないように見える者というのは、単に、そうでないように見えるだけかもしれない。
しかし、それはどうでも良い。
重要なのは、まるで駄目男を救う唯一の方法が真言であるということだ。

まるで駄目男は、普通の道では一生浮かばれない。
これは、普通の人間として生きていくなら、何も良いことはないということだ。
それなら、超能力者、仙人、天狗になるしかない。
これを「諦め」と言うのかというとおかしい気もするが、とにかく、人間としての自分に見切りを付けるしかない。いや、元々人間でなかったと思うべきかもしれない。
つまり、真言を唱えて、超能力者、仙人、天狗・・・といった言い方に抵抗があれば、異次元生命体とでも言えば良いが、とにかく、普通の人間ではない何かになるしかない。
人間を諦めろ・・・この言い方が悪いなら、とにかく、当たり前の人間を諦めないといけない。

だが、あのまるで駄目男は、勧めても、おそらく真言を唱えまい。
そういったところは、妙に常識があるのだ。
「真言を唱えれば超人になる?そんなアホな!」
という、「まともさ」は持っているのである。
だが、それが彼の悲劇であろう。
「オン、アロリキャ、ソワカ」と唱えよと言っても、それを馬鹿にしてくる「世間的賢明さ」はあるのだ。
だが、私は、常識のない蒙昧無知であったから救われた。
しかし、それで言えば、法然や親鸞は、常識のない蒙昧無知であった。
特に親鸞は、「念仏以外には一切何もしなくて良い(これは法然も同じ)」「善いことをしなくて良い、むしろ、善いことをしてはならない」「いくら悪いことをしても構わない」と教えたのである。
なぜ『歎異抄(親鸞の教えを弟子の唯円が思い出して綴った書)』を読むとほっとするのかと言うと、「これなら出来る」、いや、「これしか出来ない」と、心の底では分かっているのだろう。
とにかく、私に関して言えば、真言を唱えて、超能力者、仙人、天狗、あるいは、異次元生命体を目指すしか道はないように思う。








全てを得るキーワード

全てに通じる汎用的な極意というものがあるとすれば、それは「自主性」だ。

学校では、暗記というものをさせられる。
この暗記が良いか悪いかという議論は絶えない。
学生時代からずっと超秀才で、東大、東大大学院と進み、28歳で学術学博士になった東浩紀さんという評論家・思想家がいる。
彼が、日本の受験制度を批判する脳科学者の茂木健一郎さん(彼も東大、東大大学院卒)に、暗記は必要と言ったという話をWebで見たことがある。
そして、昨日だが、上級の税理士である母親が中3の娘に暗記の重要性を力説するツイートを見た。
一方、アインシュタインは「私は光速(が秒速何mか)など知らない。調べればすぐ分かることを覚えたりしない」と言った話がある。実際、彼は暗記が苦手で、大学受験に失敗している(制度を利用して無試験で入学した)。

暗記が良いか悪いか?
答は決まっている。
「自主的な暗記なら良い。強制的な暗記なら悪い」
である。
「学校で暗記させられて覚えました」と言う者は愚か者である。
自主的に、繰り返し読み、その結果覚えた暗記なら良いのである。
「知識だけの人は駄目」とか言うが、それは、強制的に覚えさせられた(暗記させられた)人は駄目ということである。
自主的に覚えた物知りが「知識だけの人」であるはずがない。

暗記に限らない。
ある政治犯が、逮捕されて刑務所に入れられ、3年の間、発言が許されなかった。
この政治犯は釈放された時、
「私は3年のマウナ(沈黙の行)を成し遂げた」
と言った。
しかし、インドの聖者ラマナ・マハルシは、
「強制された沈黙はマウナ(沈黙の行)ではない」
と否定した。
マハルシ自身、17歳くらいの時に、3年ほどの沈黙の行を行っていた。
もちろん、誰にも指図されず自主的に。

メジャーリーグの4割打者テッド・ウィリアムズやイチローは、誰よりも多く素振りをしたが、彼らは、自主的に素振りをしたから超人的バッターになれたのである。
「素振りをしろ」と強制的に素振りをやらされた選手が良い選手になるはずがない。

松下幸之助は、経営セミナーで、今後はダム経営(社内に「社内留保」に該当する現金を保有すること)が必要であると言った時、受講者が、
「どうすれば社会留保が得られますか?」
と質問した。
それに対し、松下は、
「社内留保を持ちたいと願うこと」
と答え、皆が笑ったが、若き日の稲森和夫は笑わず、それを真面目に受け入れた。
社内留保が必要だと追い立てられて持つのではなく、経営者が自主的にそれを持とうと願うことが必要なのである。

『パーマン』という漫画・アニメでは、パーマンのマントをつけると、時速91kmで飛べる。
ある時、パーマンからマントを奪って、そのマントをつけた男が、パーマンに「どうやったら飛べるんだ?」と尋ねた時、パーマンが「飛びたいなあって思うんだ」と言ったことが、非常に印象的だった。
強制的に飛ばされるのではない。
自主的に飛ぼうと思わなければならない。
パーマンのマントは、宇宙テクノロジーであるらしいが、漫画ながら、実に納得出来るのである。

『歎異抄』の中に、親鸞が語った念仏の極意があった。
これは誤解されることがあるが、親鸞は、
「念仏を唱えなくても良い。唱えようと思えば良い」
と言った。
これもまた、「唱えさせられる」念仏は駄目で、「自主的に唱える」念仏が良く、むしろ、強制的に唱えさせられるより、唱えなくても唱えようと思う自主性が大事だと言っているのに違いない。

空海は「真言は不思議だ」と、その威力を語ったが、自主的に唱える真言が不思議なのである。
念仏も真言の1つだが、例えば子供に、強制的に真言を唱えさせても駄目なのである。
だが、自主的に真言を唱えれば唱えるほど力を得、無敵になっていくのである。








有名になることは良いことか?

世に出る人間・・・つまり、有名になる人間は、自我が安定しているのだろう。でないと、やっておれず、破滅してしまう。
有名になるとは、そのくらい、ストレスが溜まるものだと思う。
ただし、心理学者の岸田秀氏の本を見ると、自我が安定した人間はいないらしく、どれほど、どっしりと落ち着いて見える人間でも、さほどでもない・・・つまり、自我がグラグラ揺れているものだという。
岸田氏は、はみ出し者の心理学者で、そもそも、心理学なんて科学でも何でもないイカサマだと書かれていたが、そんな本当のことを言うのだから信用出来る面がある(笑)。
ただ、やはり、有名人で長くやっている人は、普通の人よりは自我が安定している・・・まあ、有体に言えば、図太いのだと思う。

図太くなければ、有名になれないし、ならない方が身のためだろう。
それに、有名人と同じくらいの能力があっても、世に出られる人間は1割もいないらしい。
運やタイミングということもあるし、そもそも、そんなに沢山の人が有名になる必要もない。
そして、有名でなければ商売が続かない人(芸能人がその典型だろうが)は大変だ。
常に話題作りをして、世間に忘れられないようにしなければならない。その苦労は、普通の人には想像も出来ないだろう。

有名かどうかはともかく、成功する人間についても、似たことが言えるだろう。
成功者のストレスは、凡人とは比較にならない。
普通のサラリーマンをやっていてすら、イライラして神経をすり減らしているようなら、成功なんかしたら悲惨だろう(成功の過程で、ある程度鍛えられるのかもしれないが)。
もちろん、普通のサラリーマンしか出来ないような能力では成功しないだろう。
しかし、上にも述べたが、能力があるというだけで成功するわけではない。
作家、事業家、投資家のマックス・ギュンターの本で詳しく説明されていて、やや衝撃を受けたが、成功するかどうかなんて「たまたま」だ。
実際に、正直な成功者は皆、自分が成功したのは、たまたまだと白状している。
そして、私が思うに、たまたま成功することが、果たして幸福なことかどうかは分からないのだ。

有名になるとか成功するかより、人間にとって幸福なことは、むしろ、苦しみが少ないことだ。
世の中には、とんでもない苦しみを背負い、精神がおかしくなったり、その影響で生活が破綻したり、ついには自殺してしまう人も、それなりにいる。
だが、誰でも、大なり小なりの苦しみはあり、苦しみがない人はいない・・・言ってみれば、「みんな、そんなに楽ではない」のである。
だから、人に対して、「君は気楽でいいね」なんて思ったり、まして、言ったりしないことだ。
それは全くの誤解だし、そんなことを言って自分が馬鹿だと証明するよりは、馬鹿だと思われているだけの方が良い(笑)。

苦しみは、過去の悪い行いから来るという「因果応報」が本当なのではと思うことがないだろうか?
『歎異抄』に書かれていることによれば、親鸞ははっきりと、断定的にそう教え、『歎異抄』の著者の唯円は、それを信じていた。
実を言えば、読めば意外と納得出来る。
自分の苦しみは、自分の過去の悪い行いから起こる。いわゆる「ブーメラン効果」だ。
だが、悪いことをしない人間は、善い人間だから悪いことをしないのではなく、悪いことをする因縁(縁)がないだけのことだ。
逆に言えば、善い人間であっても、悪いことをする因縁(縁)があれば、悪いことをしてしまう。
とはいえ、世の中には、いかにも悪いことをしそうな人間が実際に悪いことをする場合が多い。
しかし、さらに深く思惟(心で深く考えること)すれば、本当に善い人間か悪い人間かは、なかなか分からない。
中島敦の『名人伝』の最後で、名人は「私には善と悪の区別がつかない」と言うのを見て、心の深いところで何かを感じるものだろう。

とどのつまり、人間は安楽なのが一番である。
まあ、アイルランドの「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツのように、年老いて死を直前に迎えて尚、安らぎを拒否した凄い人もいるが、だからこそ「20世紀最大の詩人」なのだろう。
普通の人は、「20世紀最大」どころか、町内一の詩人になるほどの苦しみも嫌うものである。

真言を唱えても、一切の苦しみがなくなるわけではない。
だが、致命的な苦しみは避けられる可能性が高い。
いや、それどころか、驚くほど苦しみは少なくなる。
悪くても、真言を唱えれば、苦しみがあっても、さほどではなくなり、なんとかやり過ごせるのではないかと思う。
その程度で済むことが幸福なのかもしれない。
私など、何もかもうまくいっていて、良い想いばかりしているが、見方によっては、辛い人生と言えるかもしれない。
とはいえ、おそらく、科学的、論理的にも説明出来ると思うが、真言を唱えれば唱えるほど安楽である。
岡田虎二郎が言ったように「念仏さえ唱えれば、一切の問題が解決し救われる」のは確かである。
壮大なシステムではあるが、この世の仕組みはそうなっているのである。
それは、時々、多少は説明しているつもりであるが、信じていただいて差し支えないレベルには解明されているのである。








運を良くしてから始めないと楽しい思いは出来ない

ツイッター上でよく、「これからプログラミングの勉強します」とか「就職するので頑張ります」とツイートする人がいるが、彼らが今後、うまくいくか・・・と言うより、「良い思いが出来るのか」疑問に思うことがある。
どういうことかというと、それらのツイートには、「プログラミングが出来るようになったら良くなる」とか「就職して頑張ったら良くなる」という思い込みが見えるのだ。
そうではなく、「良い状態になったから勉強する」「良い状態になったから働く」でなければ、勉強や勤労が楽しいものにならないのである。
良い状態とは、「運が良い状態」だ。
運が良い時にプログラミングの勉強を始めたら、勉強がはかどるし、勉強をすることで良いことが起こる。
運が良い時に就職したら、職場で良いことが次々に起こって、良い思いが出来るのである。
運が悪い時にプログラミングの勉強をしても、挫折したり、悪いことが起こり易いし、むしろ、ITに弱くなってしまうかもしれない。
運が悪い時に就職したら、職場で嫌な思いをするかもしれない。
だから、まずは、運を良くしなければならない。

で、運を良くする方法は、有名な人や偉い人が、結構良いことも本に書いてくれているが、それらの本は、見栄や偏見が多過ぎて、とてもじゃないが役には立たないものが多い。
良い本であっても、1つの優れたアドバイスに対して、10の余計なことが書かれていて、ウブな読者は、その10に混乱させられて、肝心なことが出来ないのだ。

運を良くするためにすべきことは、たった1つ。
マントラ(真言や呪文等)を唱えることである。
これで終わり。
マントラは何でもよろしい。
「オン、アビラウンケン」でも、「南無阿弥陀仏」でも、「南無観世音菩薩」でも、「アジマリカン」でも、「トホカミエミタメ」でも。
あるいは、般若心経の呪文「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」でも。
差はない。
ある高位のお坊様の本に、「真言を唱えるべき時間は」とか、「真言を唱える時の心構えは」とか、「真言を唱える時の姿勢は」とか、いっぱい書かれていたが、全部、必要ない。
ただ、真言を唱えれば良い。
出来るだけ、数多く。
なぜ、そんなことが言えるのかと言うと、私は、まず、子供の時は、それで良い思いばかりしたし、社会人になってからも同じである。
特に、社会人になる前は、中学、高校時代は暗かったし、大学時代はニートだったが(笑)、中学から大学まではマントラを唱えてなかったのだ。
しかし、そんなニートの駄目人間が、いきなりブラック企業デビューしたのに(笑)、堂々通用した・・・というより、不思議ななりゆきで上手くいったのは、たまたま読んだ、中岡俊哉先生の本で、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を覚え、それをずっと唱えていたからだ。
マントラを唱えると、冗談のようにうまくいった。
そして、直観的に、誰がやってもそうなるはずなのである。
マニュアルとしては、やはり、『歎異抄』をお勧めする。
霊験あらたかということの証拠としては、織田隆弘氏の『観音開運法』が参考になるが、個人的には、この本の細かな部分は、あくまで参考にする範囲に留めることをお勧めする。あくまで個人的にだが。
実は、マントラに関して、当を得たことを書いた良い本は、本当にない。
少しは良いことが書かれている本もあるのだろうが、1冊の本になった時点で長過ぎ、余計なことが9割になってしまうのだと思う。

講談社現代新書の『死と生の記録』に、念仏に関する良いお話が、少しだけだが、いくつか書かれている。
特に、肺病にかかって、余命5年を宣告された青年の話が良かった。
念仏だけで覚醒してしまったのだ。その後のことは書かれていないが、おそらく、病気は治ったのではないかと思う。ただし、そうでなくても、この青年は安らかだったはずである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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