ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

歎異抄

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

賢い人は悪口を言わない

アメリカ大統領選挙の、候補者同士の猛烈な中傷合戦には、アメリカ国民にも、うんざりしている人も多いようだ。
とはいえ、やっぱり、相手候補を言葉で貶めることは有効な戦法なのだろう。
他人を、特に敵を誹謗(そしること)しない者が優秀であることを理解出来る年齢はいくつなのだろう?
アメリカに限らず、日本の国会討論なんかを見ても、それは70歳でも難しいという感じだが、本来は、賢い人で10歳、遅くとも、20歳ではないかと思う。
ヒラリー・クリントンや、日本の野党第1党の党首の、口角泡を飛ばすして敵対候補や与党の誰かをこき下ろす時の顔の醜悪さを見れば、この者達は信用ならないと思わないだろうか?
ヒラリーや、野党のその人が悪口を言う時の顔を見て、
「嗚呼、下級悪魔って、こんな顔してるんだろうなあ」
と思うのである。

こんなことを言うと、「お前もヒラリーや蓮舫を中傷しているじゃないか」と言う暇な者もいるが、そりゃ、私は下級悪魔にも及ばないからねえ。
まあ、政治家なら、現状、やむをえないところもあるのかもしれないが(ないと思うが)、宗教家となると、これはもうお話にならないはずだ。
つまり、他の宗教、あるいは、同じ宗教の中の他宗派の教えを執拗に批判するような宗教者や教団は、相手にしない方が良い。
これは絶対に間違いない。
そんなこと(他の悪口を言うこと)をする宗教者は、人格がどうと言う以前に、やっぱり馬鹿なのである。
だって、こっちが争いをしかければ、自分も攻撃され、それを続ける限り、無限の争いになるという理(ことわり)は、よほどの馬鹿でない限り分かるはずだからである。
『歎異抄』でも、念仏の教えを攻撃されても、決してやり返してはならない、賢くかわしなさい・・・といったようなことが書かれている。しかも、こう言っている唯円は、自分は知恵のない愚か者だと言っている。つまり、馬鹿でも、このくらいは出来るはずなのだから、これすら出来ないのは、本当に救いようがない馬鹿で、そんな救いようがない馬鹿の宗教がロクなものであるはずがない・・・という訳である。

優秀でありたければ、忍耐を持って、他を批判することを止めることだ。
愚かな自分が批判しなくても、悪い者は必ず自滅するから放っておけば良いのである。
そもそも、馬鹿にかまうというのは暇なのである。
私も暇で、優秀じゃないが、念仏を称えているので、実入りは大きいのである。
つまり、馬鹿でも、暇でも、低級な何かでも構わないから、念仏を称えれば良い。
すると、暇ではないが、あまりに能力が高いので、余裕たっぷりの阿弥陀如来が、全て面倒見てくれる。

そう遠くなく、人間の脳の1兆の1兆倍の能力を持つコンピューターが角砂糖1個の大きさになるらしい。
その能力とは、100億人の人間が300万年かかって考えることを1秒で考えることが出来るというものだ。
しかし、そんな能力すら、阿弥陀如来(宇宙の叡智といった意味だが)から見れば、宙を舞う1つの埃のように他愛ないものに違いない。









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笑う「大天才」親鸞

いつもそう思っているのかは定かではないが、本を1冊というなら、私なら『歎異抄』を挙げる。
「ついでにこの本」なんてのは無いし、全く迷いもしない。
全18章というのは『バガヴァッド・ギーター』と同じだが、各章は、81章ある老子並に短いので、全体でもかなり文章量は少ない。
何の本かというと、親鸞の弟子の唯円が書いた、「正しい念仏のあり方」だ。
『歎異抄』は人気があるので、現代語訳や解説書等は大変な数が出ている。
ひろさちやさんなんて、一人で10冊も書いている。
そのひろさんが、多分、一番最初に書いた歎異抄の本である、『入門 歎異抄の読み方―この現代を心豊かにおおらかに生きぬくために』(1982年)が私が最初に読んだ歎異抄の本だった。
だが、この本で良かったのは、現代語訳だけで、それは誰が書いても、大体同じになる。
ひろさんは面白い本を書く人だが(だから何百冊も出している)、この本のひろさんの解説や自己主張は、私には楽しいものではなかった。
こんな話が書かれていたと思う。
当時、小学生だったひろさんの息子の友達が死に、息子がとても悲しんでいた。
そこで、心を痛めたひろさんが提案し、家族で一緒に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えた。
それが、ひろさんが歎異抄の本を書こうと思ったきっかけだったと思う。
まあ、そんな「いい話」から入るのだが、私は、妙な違和感、深い反感・・・ほとんど嫌悪感を感じたのだが、昔は、その理由が分からなかった。
だが、今なら解る。
私には息子も嫁も妾もいないが、間違いなく、息子の友達が死んでも、悲しくもなんともないだろう。
息子そのものが死んだら、何らかの理由で動揺はするかもしれないが、悲しい訳ではないだろう。
現役クラスメイトが死んだという経験はないが、元クラスメイトが死んでも何とも思わないし、おそらく・・・と言うより、間違いなく、学校時代にクラスメイトが死んでも悲しくはなかっただろう。
実際のこととしては、親や友人(私は勝手に親友と思っていたが)が死んでも、悲しいという感情は起こらなかった。

ひろさんや、その家族のような、「まともな人間」に歎異抄は必要ない。
だから、ひろさんが書く歎異抄の本は、現代語訳や学問的解説以外は的外れなのである。
『歎異抄』は、私のような、良心も共感も持たないサイコパスに一番相応しい本だ。
だが、ひろさんのはまだ「マシ」で、その他の『歎異抄』に関する自説を述べた本を読むと、大抵ヘドが出るか、「うざ」と思うのである。
『歎異抄を読む』なんていう書名を見ただけで吐き気がするようになってしまったほどだ(そんな内容に決まっているからね)。
しかしね、やっぱり、みんなどこかサイコパスなのだ。
共感や良心を、私はほとんど持たないとしても、普通の人だって、必要な量の10~20パーセントも持っていないのではないだろうか?
まあ、今の地球では、そうでないと生きていけない。
資本主義社会では特にそうだが、社会主義では国家が存続出来ない(強力なサイコパスがリーダーをやっている間はなんとかなるかもしれないが、それだって無理がある)。

極悪非道のサイコパスでも、阿弥陀如来は守ってくれる。念仏さえ唱えればね。
とはいえ、私は極楽浄土に行くことには興味はないが、『歎異抄』を書いた唯円の先生の「大・大・大天才」親鸞は、念仏を唱えれば、「この世の利益は無限」と、『現世利益和讃』で明言している。
親鸞は、赤い舌を出しているとまでは言わないが、肩をすくめる位のことはしてくれて良いと思う。

ドクター=ファンクビート 夢を見た
誰もが幸せになるコドモ騙しの妄想SHOW
誰もが不幸なのだ その巫山戯(ふざけ)たディストピアの中では
~『ドクター=ファンクビート』(作詞・作曲・編曲:nyanyannya、歌:KAITO)より~

親鸞はドクター=ファンクビートかもしれない。









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自分のストーリーを作る

「思い込みは大切だ」と言われたら、あなたも、少しは同意するのではないだろうか?
いわゆる「出来る人」には、これを全面的に肯定する人が多いと思う。
しかし、確かに、思い込むことでうまくいく人もいれば、思い込んではいるのだが、ただ「おかしな人」「困った人」「危ない人」という人もいる。
その違いは何かというと、ストーリー(物語)を持っているかどうかだ。

スティーブ・ジョブズって人は、経営理念なんて持ってなかったが、ストーリーを持っていたのだ。
彼は有名なスピーチで、「今やっていることが未来につながると信じるしかないんだ」と言っていたが、どうやればつながるかは言わなかった。多分、自分がやったことに気が付かなかったのだろう。
ストーリーを作ることで、沢山の点がつながり、線になり、円になるのだ。
このあたりは、初音ミクさんの世界的に有名な歌『Tell Your World』にある通りだが、そもそも、「Tell Your World(君の世界を教えて)」っていうのは、「君のストーリーを語って」ということだ。
初音ミクさんが、レディー・ガガの全米ツアーコンサートのオープニングで歌っていた『Story Rider』では、「私達はストーリーライター。全ては自分で作るの」と、ミクさんが美しく歌ってくれている。

著名な心理学者の河合隼雄さんも、物語を持つことは、生きる上で最も重要なことだと、よく言っておられたと思う。
河合さんの、どれかの著書に書かれていたが、ある小学生の女の子が、人間は死んだら月に行くと信じていたが、それは妄想とかではなく、「自分が死んだら、おばあちゃんなど、好きな人に、また月で会える」というストーリーを持っているのである。河合さんは、そんな子は強いのだと言う。

仏教の『無量寿経』という経典には、極楽浄土に行く方法が書かれている。
作り話ではあるが、恐るべき作り話だ。
頭の良い僧達が、この経典の解釈書を書いたが、それは、根本の経典を、その時代や文化に合ったストーリーに脚色したってことだ。
中国の道綽や善導の解釈を元に、日本の大天才僧であった法然が優れたストーリーである『選択本願念仏集』を作り、それを元に、さらに、弟子の親鸞が親しみ易いストーリーを、プロ向けには『教行信証』を、一般向けには、沢山の和讃にして見せたが、そのエッセンスは『歎異抄』に現れている。
さすがに、彼らのストーリーを、そのまま使うには時代が違い過ぎるし、そもそも、ストーリーは自分で作るものだ。
彼らの素晴らしいストーリーを生かして、自分のストーリーを自分で作れば良い。
そのために、分かり易い、法然の『選択本願念仏集』や親鸞の(正確には弟子の唯円が書いた)『歎異抄』を読めば、自分向きの物語を作ることが出来るだろう。

聖書だって、そのまま信じたり、宗教者の解釈をマジで受け入れたら馬鹿を見る。
ジョセフ・マーフィーなんて人は、明らかに、聖書を基に自分でストーリーを作り、それが良かったので、自分や多くの人を幸せにした。しかし、ストーリーが合わなかった人は、ちょっと拙いことになった。
マーフィーのストーリーをそのまま受け入れるのではなく、それを基に、大胆に自分だけのストーリーを作るのだ。
ミクさんが、『Tell Your World』で、「教えてよ 君だけの世界」と歌っていたように、そして、『Story Rider』で、

writing page after page
I found you so bright
(1ページ書いていくごとに、君が輝いていく)

と歌ったように、自分で自分の物語を作っていくのである。

















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自分だけの真言を持て

合気道家の藤平光一氏の本に、「重みは下にある」と言えば、氣が出ると書かれていた。
これは、氣を出す1つの方法が、真理をあえて口に出すこと・・・というものだったと思う。
そして、重みが下にあるのは、確たる真理だということだろう。
「氣」は、普通、気功などで言う「気」と同じだが、藤平氏は「氣」の字に大変にこだわっておられた。

ところで、私は、「重みは下にある」という言葉には抵抗があった。
重みが下にあるのではなく、重みがかかる方向を下と言うとしか思えなかったからだ。
「地球には重力がある」と言うなら、まだマシだが、それなら、月や火星にだって重力はある。
結局のところ、真理というなら、万有引力があるということになるが、これとて、万有引力があるというよりは、万有引力の原因があるということだと思う。
別に、私が特別にひねくれていると言うのではなく、理系・・・と言うほどでなくても、現代的に考える癖があれば、私のように思うのではないかと思う。

藤平氏はとても偉い人のようだが、残念なことに、その教えは、あまり私にはしっくりこなかった(勿論、参考にはなった)。
そして、彼が言う、「下腹の一点に想いを沈める」なんてのは、分からないものは分からないのであり、それを分かったフリをするのは馬鹿だと思うのである。

ニサルガダッタ・マハラジは、「私は在る」こそ究極の真理であり、「私は在る」が最高のマントラ(真言)であるとも言っていたと思う。
しかし、これも、「私」の意味が、あまりに曖昧である。
よって、私は、「私は在る」と思うごとに疑問が浮かび、心が乱れた。
本で見る限り、彼の教えは美しいと思う部分も多いが、私には結局、意味不明だった。
追求していけば、分かったつもりにはなれても、臨終になるまで、本当のところは分からないだろう。

別に、藤平光一氏やニサルガダッタ・マハラジの教えに問題があるのではない。
単に、私には合わなかったというだけのことだ。
そして、そんなものを後生大事に抱えていられるほど、人生は長くない。

「重みは下にある」、「私は在る」が、真理として受け入れられる人もいるかもしれない。
そんな人にとっては、これらの言葉が貴いマントラ(真言)になる。
貴いマントラであれば、それを言ったり、想ったりすると、心に喜びが満ちるだろう。
『歎異抄』には、唯円が親鸞に、「念仏を唱えても、躍り上がるほどの喜びが湧かないのですが、どうしたことでしょう?」と尋ねると、親鸞は、「私もじゃ。それは煩悩のせいなのだが、煩悩の深い凡夫を救うのが阿弥陀如来様の意思なのだから、ますます往生確実じゃ」とうまいことを言ったことが書かれている。
『歎異抄』は大好きだが、しかし、これはちょっとどうかと思うのだ。
「躍り上がる」の度合いにもよるが、念仏が自分に合っているなら、それなりの喜びが湧いてくるはずである。
そうしたら、そんな疑問は出てこないと思う。
つまり、唯円は、親鸞の弟子に安住していないで、自分の道を探すべきだったかもしれないのだ。
土台、いつまでも師匠の元にいるやつに、ロクなのはいないじゃないか?
別に、人間は、必ずしもロクなものになる必要はない。
ロクなものでないということなら、私は相当な自信がある。
単に、唯円は、私同様ロクデナシの一人と(勿論、唯円は私の百万倍マシだが)、貶す訳ではなく、本当のことを言いたいのである。

皆、権威あるものを捨て、自分だけの真理を探さないといけない。
でないと、短い生涯を、満足のないまま終わってしまう。
ましてや、会社のポリシーを崇めるなんてことは、会社や経営者には都合が良いかもしれないが、そんなことをいつまでも続けたら、死ぬ時に後悔するぞと言っておく。
L.H.ロースンの言った「神の他に何もない。ただ神だけがある」という言葉は素晴らしいと思うが、やはり、これは彼の言葉だ。私には関係ない。
YMOの『LOTUS LOVE』では、「I Love You」がいつもの呪文だと言うが、これも、「そんな人もいるだろう」といいうだけのことだ。
私には、「ミクさんの他に何もない。ただミクさんだけがある」の方が真理であり、「I Love Miku」が私らしい呪文である。

唱えれば、大地が振動し、天楽が響き、花が舞い散る真理を、各自が持たなければならない。
それは権威に平伏したり、人真似をすることをやめない限り得られない。
聖書を権威的に見ずに探せば、自分に合う言葉も見つかるだろう。
私は、そうやって見つけたのだ。
だが、唯円が親鸞に言ったように、唱えて躍り上がる・・・かどうかはともかく、喜びが湧き上がらないなら正しくない。
ただし、言葉は神である。
だから、自分もまた、少しは、それを受けるに相応しくしなければ、それは得られない。
それにはただ、権威、あるいは、世間の教義や信念に平伏すことをやめ、人真似もやめること・・・それが、「自分であること」である。









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誰の脛(すね)も疵(きず)だらけ

昔、ウラジミール・ナボコフ原作で、スタンリー・キューブリック監督の映画『ロリータ』のVHSビデオを買ったが、見通すのに大変に苦労した覚えがある。
それで、その映画のDVD版が出た時は、買わなかった。
だが、昨日、ブルーレイ版の『ロリータ』が届いたので、昨日、今日と、少しずつ見たが、半分くらいのところで見るのが嫌になった。
つまり、この映画は、私にとって見ていられないものだが、私は、ほとんどの人が、程度の差こそあれ、そうではないかと思うのだ。

昆虫学者でもあったナボコフは、本当のところは、『ロリータ』を昆虫学の知見を生かした喜劇として書いたという話があるが、私は全くそうだと思うのだ。
『ロリータ』は、人間を昆虫のような下等生物と見なした、滑稽な喜劇だ。
人間の頭なんて、きっと、神様が間違えて付けたと思えるようなね。
だが、笑えない喜劇なのだ。
原作と同様、この映画でも、ヨーロッパから移住して来た、中年の文学者である男性ハンバート・ハンバート(姓と名が同じ)は、11歳のドローレスという名の美少女(愛称がロリータ)に夢中になり、やむなく、その母親と結婚するが、母親はほどなく急死し、ロリータと2人で暮らすことになる。
となると、馬鹿でない限り、ハンバートの人生は天国とは程遠いことになるのは分かると思う。

原作は、ハンバートの一人称で書かれた自叙伝的なものだが、映画の方は、ハンバートもごく客観的に描かれている。
それで、あることが、非常に明確に伝わってくる。
それは、「後ろめたいことがある人間の様子(表情、振る舞い等)」だ。
ハンバートの、頑なに防御的な言動、振る舞いは、見ていて本当に痛い。
それは、自分の姿を見ているようだからだ。
だからと言って、私が特別な訳ではないと思うのだ。

1990年から始まり、いまだ制作が続く、フジテレビのテレビドラマ『世にも不思議な物語』の1996年の作品「先生の『あんなこと』」に、こんな話がある。
万引きをして、教室で男性教師に説教される女子高生が、不意に教師に、
「先生のあんなことに比べれば・・・」
と意味ありげに言うと、教師は途端に動揺を始める。
誰だって、「あなたのあんなことに比べれば」とか、「私、あなたのあのこと、知ってるのよ」と言われて平気ではいられないだろう(多分・・・^^;)。
また、何のドラマだったか忘れたが、若き日の吉田栄作さん演じるサラリーマンが、恋人だった女性の父親に、「誰だって、叩けば埃の1つや2つ出てきます」と言ったセリフを、私は、強烈な印象と共に覚えている。
これはもう、誰でも、絶対、そうなのである(はずだ・・・)。
叩いて埃の1つや2つ、10や20出ない人がいたら、お目にかかりたい!(笑)。

ただ、「脛に疵持つ(自分の身にやましいところがある)」自覚のない、神経のおかしな人もいるのだろう。
私には、『ロリータ』を平気で見れる人が理解出来ない。
そして、どうも、私は年と共に、ますます、『ロリータ』を見れなくなっているようである。
私の脛は疵だらけという訳だ(笑)。

初音ミクさんは、本来は、少しも後ろめたさを感じずに済む相手である。
ところが、おかしなことに、私の部屋に貼ってある、ミクさんの大型タペストリー(布製ポスター)のミクさんが、こちらを少し蔑むような表情で見下ろしているのである。
それで私は思うのだ。
このポスターで動揺せずに済むように(今はかなり動揺がある)、裏表のない潔癖な人間になろうと。
とはいえ、やはり誰だって、脛に疵を持つ。
だから、その分、徳を持つようにしなければならないのだろう。
それは、私のような駄目な人間には、とても難しい。
いや、本音を言ってしまうと、不可能だ。
だが、親鸞は、何も善いことをする必要はないと言った。
なぜなら、念仏以上の善はないし、念仏の力を妨げるほどの悪もないからである。
私は、本当に、『歎異抄』に書かれた、その言葉を信じたくなったのである。
ミクさんのためにね。
私には、他にやれることは何もない。
それで私も、念仏を唱えるのである。
超天才数学者であった岡潔さんは、家の中に念仏堂まで作って、毎朝1時間も念仏を上げていたらしい。
岡さんの場合は、きっと、高貴な志からであろうが、彼だって、脛に疵もあり、それが痛かったということもあったに違いない。

気付かないうちにオトナになって 綺麗な嘘 口に出来るほど
いろんな痛みを覚えてきたけど それでもまだ痛いんだ。
~『glow』(作詞・作曲・編曲:keeno、歌:初音ミク)より~









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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