ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

歌舞伎

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超歌舞伎『花街詞合鏡(くるわことばあわせかがみ)』について

「ニコニコ超会議2017」で、昨年に引き続いて公演された「超歌舞伎」である、『花街詞合鏡(くるわことばあわせかがみ)』は、ニコニコ生放送で1回だけ視聴した。
私は、ニコニコ動画の、プレミアム会員ではない一般会員なので、画質も悪く、光回線を使っているに関わらず通信状態も悪かったので、まあ、1回見れば十分だった。

今回の初音ミクさんの役どころは、「傾城初音太夫(けいせいはつねたゆう)」である。
「傾城(けいせい)」とは、遊女のことで、特に、「太夫(たゆう)」という高級遊女を指す。
だから、「傾城初音太夫」の「傾城」と「太夫」は、同じ意味を重ねている。
つまるところ、ミクさんは、高級遊女・・・娼婦役ということになる。
当時の太夫というものが、どんな存在であるか、現代の我々には計り難い点もあるが、娼婦は娼婦だ。
ただ、太夫と呼ばれる最高級の遊女となると、そう簡単に遊ぶことは出来ず、一説では、太夫と寝るためには、その遊郭に毎夜通って豪遊し、大盤振る舞いをし、切符の良いところを見せなければならないそうだ。

私は歌舞伎は全く分からない。
多分、歌舞伎の見せ所の1つに、伊達男の粋さというものがあるのだろう。
この舞台でも、斬り合いの喧嘩をする時にも、「喧嘩」や「斬り合い」などという野暮な言葉は遣わず、「今宵も男を磨かせてもらおうか」と言い、その朗々たる台詞は、命のやり取りの場面でも、少しも動揺しない剛毅さをアピールしていて、実際、見ていて実に格好良い。
それを見るだけでも、歌舞伎に興味が湧いてきたほどだ。
中村獅童さん演じる八重垣紋三(やえがきもんざ)と、澤村國矢さん演じる蔭山新右衛門(かげやましんえもん)が、今や斬り合いを始めるその時に、重音(かさね)テトさん演じる仲居重音が止めに入ると、2人の男は、「重音さんの顔を立てて」、儀礼に則り仲直りするその姿にまたシビれる。
歌舞伎って、いいなあ。

ただ最後、燃え盛る遊郭の中、初音太夫は、紋三の刀「小狐丸」を、「この世のしがらみを断ち切る刀」と言い、所詮は鳥かごの鳥である自分を自由にしてくれること、そして、人々が自由であることを願ったのはどうか?
私は言っておく。
この世のしがらみは、魔力で断ち切れたりはしない。
我々は、しがらみを利用して、男、あるいは、女を磨き、磨き切った暁に、しがらみは自然に消えるのである。

では、私は、住み難いこの世で、男を、女を、人間を、磨かせて、あ、もらおうかなあ~。









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敵と味方は1つ

私は、ニコニコ超会議の中で行われた「超歌舞伎」と銘打たれた(「称した」の意)歌舞伎の舞台『今昔饗宴千本桜(はなくらべせんぼんざくら)』で、初めて歌舞伎を見て、歌舞伎の面白さについて気付いたことがある。
それは、「敵と味方、善と悪との協調、調和、融合」である。

敵の青龍が、初音ミクさん演じる美玖姫に、恨みを忘れて味方になれ、そうすれば、闇の妃(きさき)・・・つまり、我が嫁にしてやると言うと(スケベな妖怪だ)、美玖姫は、私の願いを叶えてくれたら・・・と応える。
青龍が、
「その願いとは?」
と尋ねると、美玖姫は、すぐには答えず、
「その願いとは・・・」
と返し、さらに青龍が、
「その願いとはあああああ?」
と尋ねるその様子は、まさに息が合っているのである。
このように、敵と味方が強力し合って舞台を作り上げていく様子もまた、歌舞伎の美しさであるのだと思う。

そして、戦いのシーンになると、それがさらにはっきり現れる。
まさに、敵味方が呼吸を合わせ、調和してこそ舞台は最高になる。
佐藤忠信に大勢の敵が襲い掛かるも、忠信の手足の動きに絶妙に応じて敵は美しく倒れ、さらに、敵達が持つ梯子の上に忠信が昇り、敵達は忠信を高々と掲げて忠信が見えを切る。
まさに、敵味方が協力し合って物語を作り上げていく中に、役者はもちろん観客も、「良い戦いとは協調なり」と悟るのである。

『燃えよドラゴン』で、ブルース・リー演じる少林寺のカンフーの達人リーは、
「良い戦いは、少人数で真剣に演じる舞台に似ている」
と言ったのも、それに通じ、本物の戦いでさえ、本質は歌舞伎と同じなのである。
だから、特に日本の武道では、礼に始まって礼に終わることを重んじ、それは、まず敵を敬うことであるはずが、最近は、日本人の柔道選手がオリンピックで、勝った時、敵に見せ付けるようにガッツポーズを取るようなのがいるのは残念に思う。そして、そんな選手は、その後、ロクなことになっていない。
西洋のボクシングですら、倒した敵の前で派手なパフォーマンスをするような選手は、一時的には栄光を得ても、すぐに駄目になっている。
確かに、「勝負に情けは無用」というのは、その通りである。
情けはいらないが、敵と自分とは、どこかでつながっているのであり、きょうだいのようなもので、さらに突き詰めれば、敵と自分は同じである。
本当の武士の情けとは、相手にかけているようでいて、実は自分にかけているのである。
そういったことが、自分と矢と的が一体であるという弓道の究極の境地であるのではないかと思う。

そして、歌舞伎の最後の挨拶では、敵役と味方役、善玉と悪玉が区別なく次々登場し、敵役が笑顔でうやうやしく味方役を引き立てて舞台に導くし、逆に、味方役が敵役に同じようにする。
「全ては1つ」
初音ミクさんのコンサートで、ミクさんが「みんな1つに」とさりげなく言い、指を1本立てて見せることにも、その想いが込められている。
千二百数十年、絶えることなく毎年行われる東大寺二月堂の修二会(しゅにえ。お水取りとも言う)という厳粛な法要に参加された、著名な宗教人類学者で偉大な賢人である植島啓司さんは、その直後に、初音ミクさんのコンサートに行き、「お水取りと初音ミクコンサートは大きく違わない」と仰られたが、共に人々の幸福を祈る心に違いはないのであるから、全く納得出来るのである。

尚、敵との関係について、インドの古典『ラーマーヤナ』のラストに美しく描かれていることを記しておく。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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