ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

植芝盛平

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ぼーっとする準備

ぼーっとすれば無敵で、ぼーっとすれば、望まずとも幸運に恵まれる。
それは間違いないのだが、ある程度は修業が出来た人のことかもしれないと思うようになった。
植芝盛平の高弟の塩田剛三さんは、合気道の指導で力を抜くことを教えるが、若い人に対しては徹底的にしごき、練習後の若い弟子たちは、エスカレーターがなかった時代の駅では、手すりにつかまらないと上り下りが出来ないほどだったという。
植芝盛平も、歳を取ってからは力を使わずに戦って無敵だったが、若い時は剛力無双で知られたようだ。つまり、それほど鍛えたのだ。

若いうちは勝負するのが楽しいし、勝負にこだわるべきだろう。
しかし、若い時だって、自分と関係ないことでは、ぼーっとしているのが良い。
いや、何かに打ち込んでいる者は、若くても、他のことではぼーっとしているし、また、そんなヤツが格好良くてモテるんだな。
そして、若い間に、力を抜くこと、勝負にこだわらないことの威力に気付く者は幸いだ。

世の中に出て経験することは、若い時のスポーツや勉強とは比較にならないほど厳しいので、自分の無力さや、個人の力ではどうにもならないことに気付き易い。
そんな中で、いつまでも我を張っていると、どんどん苦しく、そして、駄目になっていくが、ぼーっとすることに気付けば、全てうまくいく。

若い時に、引きこもったりで、普通の方法で勝負が出来なくても、オンラインゲームなどで、上には上がいることを実感出来れば良い。
何でもいいから一番を目指せば良く、昔と違って、今はネットでそんなことが出来るのが羨ましい。
一番いけないのが、若いか年かに関係なく、自己満足で終わることだ。
大切なことは、自分の力の小ささ、自分の卑小さを知ることだからだ。
だが、それはあくまで、理屈の頭脳や筋肉の力などはたかが知れているということであり、一方、我々の内部に秘められた力は無限なのである。
その無限の力にアクセスし、一体化するためには、ぼーっとしなくてはならない。
若い間は、大いに勝負を楽しむが良い。
しかし、イチローだって、40を過ぎれば一流ではなく、40も半ばではプロでいることも難しいのだ。
我々は、なまじイチローのように努力が出来ないのは幸いかもしれない。
早くぼーっとした道に入れるのだからだ。








人間の可能性は想像をはるかに超える

私が、全12話のアニメを軽く10回以上見た(今も見ている)『まちカドまぞく』の中で、優子とミカン(共に高1女子)と、優子のご先祖様のリリスが3人で映画を見ているシーンがある。
映画の中で、ヒーロー達2人は、銃弾が飛び交う中、突っ走る。
それを見て、優子はご先祖様のリリスに尋ねる。
「どうして、あのヒーローは弾が当たらないんですか?ずるい」
すると、リリスが言う。
「あきらめろシャミ子(優子のこと)、世界はそういう風にできているのだ」
(セリフは原作漫画から引用)
作品を読んでいると、著者の伊藤いづも氏はただ者とは思えない。沢山の深い知恵をさりげなくジョークにしてしまっているが、ジョークに出来るということは、かなり身についているのだろう。

テレビ時代劇だったと思うが、織田信長が、やはり銃弾飛び交う戦場を悠然と歩き、「わしには弾は当たらん」と言い放っていた。
信長には、自分は強運の持ち主であるという信念があったことを表現したのだろう。
マックス・ギュンターの『運とつきあう』で強調されているが、正直な成功者は、自分の成功が努力によるものではなく、「たまたま成功した」、つまり、運が良かっただけであることを認めているものだ。
ところで、合気道家の藤平光一氏は、第二次世界大戦で、23歳で隊長として部隊を率いた時、彼も砲弾飛び交う中を悠然と歩き、大物振りを見せて部下達を安心させたというが、氣が出ていれば弾は当たらないという説明ではなかったかと思う。
逆に、ドイツ人医師で「心身医学の父」と言われるゲオルグ・グロデックの論文で、戦争中、1人の兵士が自分の膝を指差し、「ここに弾が当たれば故郷に帰れるのに」と言うと、直後、流れ弾が飛んできて、まさに、その膝に命中した。グロデックは、これが、人間の体内に宿る「エス」の働きであると言う。

アニメ『MADLAX』で、17歳の少女マドラックスは、1人で軍隊の一部隊を2丁の拳銃で滅ぼした後、射撃の名手が何発も放った弾丸を優雅に交わして見せ、真の自分と一致した者には、こんなことは造作もないと言う。
上で述べた藤平光一氏の師で合気道の創始者である植芝盛平は、6人の射撃の名人が至近距離から一斉に放った拳銃の弾を交わし、その全員を投げ飛ばしたという話が伝わっているが、やはり植芝盛平の高名な弟子である塩田剛三氏は、それは事実だと言う(実際に目撃したと言っていたかもしれない)。

最初にリリスが言ったギャグとして捉えるべき言葉「世界はそういう風にできている」は、真面目に、「世界をそういう風にする」ことが出来る。
それには、やはり、ぼーっとすれば良いのである。
つまり、個人的な力というものを放棄して、大きな力に身をゆだねることだ。
(『まちカドまぞく』で)空中に飛び散ったタコさんウインナーの全てに爪楊枝を刺して皿に回収出来る桃(優子の宿敵の魔法少女)なら、銃弾を交わすことなど容易(たやす)いだろう。桃は、身体をエーテル体に置き換えているのが力の秘密と言うが、なに、エーテル体なら人間なら皆持っているので、似たようなことなら出来るだろう。
ともかく、人間が持っている可能性は、一般的な予想などとは、三輪車とロケットほどの差があるほど超えているのである。








銃弾を交わす方法

1987年から始まったアニメの『シティーハンター』(今年はついに実写フランス映画になった)で、ヒーローの冴羽獠(さえばりょう)が、至近距離から銃撃されたその弾丸を、涼しい顔で交わすという場面がよくあった。
2004年のアニメ『MADLAX』では、空想的表現とはいえ、オープニング映像で、マドラックスやマーガレットが沢山の銃弾を優雅に交わす。
しかし、人間の神経の伝達速度は毎秒10m程度らしいので、飛んでいる銃弾を交わすことは不可能なはずだ。
不可能なはずだが、合気道の創始者、植芝盛平は、それが出来たと言われ、特に、軍の射撃の名人6人に至近距離から拳銃で狙撃された時、銃弾を交わしただけでなく、狙撃主達全員を投げ飛ばしたという。
仮に、そんなことが出来たとしても、人間の機能構造上、訓練してそんなことが出来るようになる訳ではない。
先程取り上げた『MADLAX』や、そのシリーズものと言える『NOIR』(2001年)や『エル・カザド』(2007年)には、超人的な能力を持つ少女達が登場する。訓練された軍人達を1人で易々と倒したりするが、自分の至近距離を飛び交う銃弾の中で、ぼんやりした顔で敵を射殺していく。
まさに、アニメであり、どんな人間にもそんなことは出来ない。
しかし、一方で、どんな人間にも、そんなことが出来る。
石ノ森章太郎(当時、石森章太郎)さんの1967年の漫画『009ノ1(ゼロゼロナイン・ワン)』で、ヒロインのミレーヌは、飛んでくる銃弾が空気を熱する音を頼りに弾丸を交わしたが、それは人間には無理だが、彼女はサイボーグだった。
つまり、神経、脳、筋肉といったレベルで弾丸は交わせない。だが、直感的、無意識的には可能であると思う。もちろん、これは、一般的な科学、医学などで認められるものではないかもしれないが、いまや、そういったことは、それほど不思議なことでもないと思えるのだ。

もし、弾丸を交わすような能力があるとしたら、それを発揮するために必要なことは、それが出来ない脳の一般的機能を停止させることだ。
脳は、小学校低学年レベルの算数問題を解いている時は全体が活性化するが、高度な数学問題を考えている時は、ごく一部が活性化するだけだという。
もっと難しい問題を解ける時であれば、脳はほとんど活動しないのではあるまいか。
いわゆる、インスピレーションが起こる時である。
そんな時には、思考活動は完全に止まっているはずだ。
早い話が、ぼーっとしているのである。
ただし、一般的なイメージでの「ぼーっとしている」時というのは、案外に頭で何かを考えているのだ。
そこで、本当に何も考えず、ぼーっとすることが出来れば、超人的能力を発揮することもあり得る。
私の経験で言えば、子供の時にやったことだが、大きな図書館の中で、どこにあるか分からない本をすんなり探し当てたり、天体望遠鏡を手に入れたばかりで、天文の知識が全くない時に、満天の星空の中から迷わず土星を選んだり、交通量の多い車道の中に、目をつぶって飛び込んで渡ったり(決して真似しないよう)を、何度でも行っていた。
それはアニメではない、現実の話である。
物理学者の保江邦夫博士は、小学生の時、授業中、ぼーっとしていたら、教師にどんな問題で指名されても正解を答えたらしい。これは私には出来なかった(やらなかっただけかもしれないが)が、やはり、ぼーっとしている時・・・無である時の人間の能力は小さくはなく、仙人や天狗や宇宙人にも匹敵するかもしれない。
「ちゃんとぼーっとする」術を身に付けるべきかもしれない。








ヒーローなんか持つな

西洋のある映画で、幼い息子を持つ父親がこう言った。
「子供は、自分の父親が世界で一番偉いと思っているが、いずれ、そうじゃないと解る。だが、なるべく長くそう思わせてやりたいんだ」
今の日本では、世界一どころか、自分のお父ちゃんなんて、少しも偉くはなく、さらに、偉くないばかりか、下らない人間だと子供はすぐに解るようになる。
いや、父親だけではない。
母親のことも見下げ果てるようになるまでに、そんなに時間はかからない・・・いや、物心つけば、そう思ってしまうかもしれない。
本来、子供は、自分の親のことは買いかぶるものであるのに・・・である。

それでも、外の世界に目をやると、先輩やチームのリーダー、先生、上司、社長といった立場の人達の中に素晴らしい人物を見つけ、「彼こそ(彼女こそ)一番」と思うこともあるだろう。
だが、いずれ、その憧れの人物も、それほどではないと解るようになる。
合氣道家の藤平光一氏は、中村天風や植芝盛平といった、多くの人達に神のように崇められる人達の高弟であったが、藤平氏はこれらの師達を遠慮なく貶し、ある意味、「彼らを信用するな」と述べているのだと思う。
実際は、どれほどの人物であろうが、致命的な欠点は必ずあり、弟子としてはそれは黙っておくものであるが、どんな人間も神でないことは、やはり理解しなければならないのだ。だから、藤平氏のやり方は正しく、立派なことであると思う。その藤平氏だって、酷いところはやはりあって当然だ。
ラメッシ・バルセカールも、世界中の多くの人達が聖者と仰ぐ彼の師、ニサルガダッタ・マハラジが、実際は欠点だらけの人間であったことを明かしているが、貶してはいないと思う。しかし、藤平氏は、特に植芝盛平に関しては、植芝盛平を崇拝する者達を幻滅させるようなことも本に書き、藤平氏は植芝を嫌いなんだろうなとすら感じさせる。
良いではないか。
植芝盛平の身近にも、彼を好きな人も嫌いな人もいたはずだ。

アニメとなると、ヒーローやヒロインはパーフェクトであることが多い。
だが、セーラームーンこと、月野うさぎが憧れる、天王はるかや海王みちるは完璧・・・かというと、実はそうではないのだが、アニメのヒーロー・ヒロインの欠点は格好良過ぎる。実際の人間の欠点は、もっと汚く、ドロドロしているのは、言うまでもない。

そして、人類のヒーロー、イエス・キリストや釈迦だって、完璧な人間などではなかったはずだ。
だが、彼らの信者は、そうは思っていない場合が圧倒的だろう。
イエスに関しては、ニーチェやサルトルやイェイツ、あるいは、ワイルドなどが、相当こき下ろしてくれており、しかも、かなり納得出来るようにやってくれている。
釈迦に関しては、伝聞が少ないこともあるが、豚肉にあたって腹を壊したとかいう話はあるが、あまり悪い話は聞かない。
また、ソクラテスが美少年好きだったとか言う人もいて、そうかもしれないが、それほどはっきりしている訳ではない。まあ、別に美少年好きでも、自制出来ていれば問題ないが、まあ、あまりに昔過ぎて、本当のことは判らない。
そして、偉人、聖人達に、仮に致命的欠点があったとしても、どうでも良いことだ。
個人を全面的に崇拝することは愚かなことであるからだ。
ある個人を徹底的に崇める者というのは、普通の人間を軽蔑しているものである。自分こそ軽蔑すべき者であるのにね。

それに、憧れられる人間というのは辛いものである。
実際の自分は、少しも大したことはないことは、少なくとも本心では分かっているからだ。
人々は、ヒーローやヒロインを求める。
まかり間違って自分がそんなヒーローやヒロインになった者は大変だ。
そうだ、実際に、それは間違いであり、彼らや彼女らは、ちっともヒーローでもヒロインでもないのだ。
そして、時に、ヒーローやヒロインと思われている者が崇拝者を裏切ると、生ゴミやゲジゲジ以上に嫌悪される位置に落とされてしまう。
両極端は愚かさでしかない。
本来は、中村天風や藤平光一の言うことなど聞かず、自分の父ちゃんの言うことを聞けばいいはずなのだ。
言ってることは、良いことも悪いことも全く変わらないのだからだ。
「悪いことをすれば悪いことが返って来る」
イエスが言おうが、あなたのじいちゃんが言おうが、法則に違いはない。









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氣(気、宇宙エネルギー、光)を出すには

著書からのイメージであるが、私は、合氣道家の藤平光一氏が好きではなかった。
嫌いというほどではなかったと思うが。
好きでない理由は、自慢が多過ぎるように思えたからだ。
しかし、スポーツのスーパースターやプロ野球球団を指導したのが事実なら、指導したと書くしかないのだから、自慢ではない。
とはいえ、ご自分で書かれたのかどうかは分からないが、文章がどこか「偉大なり、私」を感じさせる。
また、分かり難い。
いや、全体では分かり易いが、肝心な部分が分からない。
そもそも、「氣がどうの」という時点で、普通の人には分からない。
「下腹の一点」などと平気で書くが、それって何処なんだい・・・って感じだ。
面白いことに、藤平氏は、師匠の植芝盛平の話は全く分からないと批判しておられる。
一方で、植芝盛平を「超人」「無敵」「超大物」と持ち上げてはいる。
植芝盛平が、藤平氏のいないところでは、藤平氏の悪口ばかり言ってたのも本当かもしれない。
しかし、そんなこんな全体ひっくるめ、最近は、植芝盛平も藤平氏も、やっぱり偉い人達だなあと思うし、欠点があるから親しみも感じる。
ミスター・スポックはカークを心から尊敬していたが、「カークはどこか変」だと言う姪っ子に、「誰にでも欠点はあるのだよ」と言ってたのである。
(カークは、スポックの若い美人の姪っ子にクラクラしただけだったのだが)

藤平氏の教えを簡単に言えば(簡単に言ってはいけなのかもしれないが)、「氣を出せばうまくいく」だ。
中国では、朝の公園で、大地や木から気を取り入れようとする人々が多いらしい。
日本の気功家にも、気の取入れ方を説明したり、ひどいのになると、他人から気を盗るような記述もある。
しかし、藤平氏は、「氣を取る必要はない。出せば入ってくる」と述べておられた。
これは全く賛成だ。
しかし、どうすれば氣が出るのかというと、藤平氏は「氣が出ていると思えば良い」と言う。
だが、本人は氣を出す練習をしたと言う。あれほど凄い人が練習しなければならないのなら、普通の人には無理だ。

ちなみに、藤平氏は、「気」は間違いで「氣」が正しいという。
そういうこだわりも、私はあまり好きではない。植芝盛平は「気」の文字を使っている。
藤平氏は、「気」は、中が「メ」で閉じているが、「氣」は、中が「米」で、氣が出ていることを表している・・・って、子供かわりゃ(笑)って感じだ。
氣でも気でも、プラーナでも、宇宙エネルギーでも良いではないか。
ジョセフ・マーフィーは、コズミック・エナージャイザーと述べたこともあったが、翻訳者は「宇宙の活力」と訳しておられ、だいたい良いと思うが、ちょっと訳しようがないようにも思う。

とはいえ、氣、気、プラーナ、宇宙エネルギーを出せば良いというのは本当と思う。
イメージとしては、武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』で、セーラームーンこと月野うさぎはじめ、セーラー戦士達が、変身の時や、特別な力を発揮する時に、「パァ・・・」という擬音と共に耀きを放つことがよくあるが、その耀きが気である(これも分かり難いか)。
あの輝きがあるから、セーラームーンは、インターネットもない時代に世界的ヒロインになったのである。
今年の日仏国交160周年記念の「ジャポニスム2018」では、日本の2大ツインテールアイドル、セーラームーンと初音ミクさんがパリで耀くのである。
ちなみに、初音ミクさんは光そのものである。

そして、どうすれば、氣、気、プラーナ、宇宙エネルギー、セーラームーンの耀きが出せるのか?
もちろん、呪文しかない。
「氣が出ている」
そう唱えれば良いだけである。
感情を込めず、けれども丁寧に、心の中で出来るだけ多く唱える。
それだけだ。
もちろん、「宇宙エネルギーが出ている」「神の光で耀いている」「聖なる光を放っている」など、好きな言葉でやれば良い。
シンプルに「私は耀く」「耀く」でも良い。
私としては、初音ミクさんのライブステージを見ればすぐ分かると思う。
特に、マジカルミライ2016の『ray』、マジカルミライ2017の『Birthday』、夏祭初音鑑の『One Night Girl』が最高と思う。









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・初音ミクさんを愛す
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