ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

植芝盛平

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

ヒーローなんか持つな

西洋のある映画で、幼い息子を持つ父親がこう言った。
「子供は、自分の父親が世界で一番偉いと思っているが、いずれ、そうじゃないと解る。だが、なるべく長くそう思わせてやりたいんだ」
今の日本では、世界一どころか、自分のお父ちゃんなんて、少しも偉くはなく、さらに、偉くないばかりか、下らない人間だと子供はすぐに解るようになる。
いや、父親だけではない。
母親のことも見下げ果てるようになるまでに、そんなに時間はかからない・・・いや、物心つけば、そう思ってしまうかもしれない。
本来、子供は、自分の親のことは買いかぶるものであるのに・・・である。

それでも、外の世界に目をやると、先輩やチームのリーダー、先生、上司、社長といった立場の人達の中に素晴らしい人物を見つけ、「彼こそ(彼女こそ)一番」と思うこともあるだろう。
だが、いずれ、その憧れの人物も、それほどではないと解るようになる。
合氣道家の藤平光一氏は、中村天風や植芝盛平といった、多くの人達に神のように崇められる人達の高弟であったが、藤平氏はこれらの師達を遠慮なく貶し、ある意味、「彼らを信用するな」と述べているのだと思う。
実際は、どれほどの人物であろうが、致命的な欠点は必ずあり、弟子としてはそれは黙っておくものであるが、どんな人間も神でないことは、やはり理解しなければならないのだ。だから、藤平氏のやり方は正しく、立派なことであると思う。その藤平氏だって、酷いところはやはりあって当然だ。
ラメッシ・バルセカールも、世界中の多くの人達が聖者と仰ぐ彼の師、ニサルガダッタ・マハラジが、実際は欠点だらけの人間であったことを明かしているが、貶してはいないと思う。しかし、藤平氏は、特に植芝盛平に関しては、植芝盛平を崇拝する者達を幻滅させるようなことも本に書き、藤平氏は植芝を嫌いなんだろうなとすら感じさせる。
良いではないか。
植芝盛平の身近にも、彼を好きな人も嫌いな人もいたはずだ。

アニメとなると、ヒーローやヒロインはパーフェクトであることが多い。
だが、セーラームーンこと、月野うさぎが憧れる、天王はるかや海王みちるは完璧・・・かというと、実はそうではないのだが、アニメのヒーロー・ヒロインの欠点は格好良過ぎる。実際の人間の欠点は、もっと汚く、ドロドロしているのは、言うまでもない。

そして、人類のヒーロー、イエス・キリストや釈迦だって、完璧な人間などではなかったはずだ。
だが、彼らの信者は、そうは思っていない場合が圧倒的だろう。
イエスに関しては、ニーチェやサルトルやイェイツ、あるいは、ワイルドなどが、相当こき下ろしてくれており、しかも、かなり納得出来るようにやってくれている。
釈迦に関しては、伝聞が少ないこともあるが、豚肉にあたって腹を壊したとかいう話はあるが、あまり悪い話は聞かない。
また、ソクラテスが美少年好きだったとか言う人もいて、そうかもしれないが、それほどはっきりしている訳ではない。まあ、別に美少年好きでも、自制出来ていれば問題ないが、まあ、あまりに昔過ぎて、本当のことは判らない。
そして、偉人、聖人達に、仮に致命的欠点があったとしても、どうでも良いことだ。
個人を全面的に崇拝することは愚かなことであるからだ。
ある個人を徹底的に崇める者というのは、普通の人間を軽蔑しているものである。自分こそ軽蔑すべき者であるのにね。

それに、憧れられる人間というのは辛いものである。
実際の自分は、少しも大したことはないことは、少なくとも本心では分かっているからだ。
人々は、ヒーローやヒロインを求める。
まかり間違って自分がそんなヒーローやヒロインになった者は大変だ。
そうだ、実際に、それは間違いであり、彼らや彼女らは、ちっともヒーローでもヒロインでもないのだ。
そして、時に、ヒーローやヒロインと思われている者が崇拝者を裏切ると、生ゴミやゲジゲジ以上に嫌悪される位置に落とされてしまう。
両極端は愚かさでしかない。
本来は、中村天風や藤平光一の言うことなど聞かず、自分の父ちゃんの言うことを聞けばいいはずなのだ。
言ってることは、良いことも悪いことも全く変わらないのだからだ。
「悪いことをすれば悪いことが返って来る」
イエスが言おうが、あなたのじいちゃんが言おうが、法則に違いはない。









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氣(気、宇宙エネルギー、光)を出すには

著書からのイメージであるが、私は、合氣道家の藤平光一氏が好きではなかった。
嫌いというほどではなかったと思うが。
好きでない理由は、自慢が多過ぎるように思えたからだ。
しかし、スポーツのスーパースターやプロ野球球団を指導したのが事実なら、指導したと書くしかないのだから、自慢ではない。
とはいえ、ご自分で書かれたのかどうかは分からないが、文章がどこか「偉大なり、私」を感じさせる。
また、分かり難い。
いや、全体では分かり易いが、肝心な部分が分からない。
そもそも、「氣がどうの」という時点で、普通の人には分からない。
「下腹の一点」などと平気で書くが、それって何処なんだい・・・って感じだ。
面白いことに、藤平氏は、師匠の植芝盛平の話は全く分からないと批判しておられる。
一方で、植芝盛平を「超人」「無敵」「超大物」と持ち上げてはいる。
植芝盛平が、藤平氏のいないところでは、藤平氏の悪口ばかり言ってたのも本当かもしれない。
しかし、そんなこんな全体ひっくるめ、最近は、植芝盛平も藤平氏も、やっぱり偉い人達だなあと思うし、欠点があるから親しみも感じる。
ミスター・スポックはカークを心から尊敬していたが、「カークはどこか変」だと言う姪っ子に、「誰にでも欠点はあるのだよ」と言ってたのである。
(カークは、スポックの若い美人の姪っ子にクラクラしただけだったのだが)

藤平氏の教えを簡単に言えば(簡単に言ってはいけなのかもしれないが)、「氣を出せばうまくいく」だ。
中国では、朝の公園で、大地や木から気を取り入れようとする人々が多いらしい。
日本の気功家にも、気の取入れ方を説明したり、ひどいのになると、他人から気を盗るような記述もある。
しかし、藤平氏は、「氣を取る必要はない。出せば入ってくる」と述べておられた。
これは全く賛成だ。
しかし、どうすれば氣が出るのかというと、藤平氏は「氣が出ていると思えば良い」と言う。
だが、本人は氣を出す練習をしたと言う。あれほど凄い人が練習しなければならないのなら、普通の人には無理だ。

ちなみに、藤平氏は、「気」は間違いで「氣」が正しいという。
そういうこだわりも、私はあまり好きではない。植芝盛平は「気」の文字を使っている。
藤平氏は、「気」は、中が「メ」で閉じているが、「氣」は、中が「米」で、氣が出ていることを表している・・・って、子供かわりゃ(笑)って感じだ。
氣でも気でも、プラーナでも、宇宙エネルギーでも良いではないか。
ジョセフ・マーフィーは、コズミック・エナージャイザーと述べたこともあったが、翻訳者は「宇宙の活力」と訳しておられ、だいたい良いと思うが、ちょっと訳しようがないようにも思う。

とはいえ、氣、気、プラーナ、宇宙エネルギーを出せば良いというのは本当と思う。
イメージとしては、武内直子さんの『美少女戦士セーラームーン』で、セーラームーンこと月野うさぎはじめ、セーラー戦士達が、変身の時や、特別な力を発揮する時に、「パァ・・・」という擬音と共に耀きを放つことがよくあるが、その耀きが気である(これも分かり難いか)。
あの輝きがあるから、セーラームーンは、インターネットもない時代に世界的ヒロインになったのである。
今年の日仏国交160周年記念の「ジャポニスム2018」では、日本の2大ツインテールアイドル、セーラームーンと初音ミクさんがパリで耀くのである。
ちなみに、初音ミクさんは光そのものである。

そして、どうすれば、氣、気、プラーナ、宇宙エネルギー、セーラームーンの耀きが出せるのか?
もちろん、呪文しかない。
「氣が出ている」
そう唱えれば良いだけである。
感情を込めず、けれども丁寧に、心の中で出来るだけ多く唱える。
それだけだ。
もちろん、「宇宙エネルギーが出ている」「神の光で耀いている」「聖なる光を放っている」など、好きな言葉でやれば良い。
シンプルに「私は耀く」「耀く」でも良い。
私としては、初音ミクさんのライブステージを見ればすぐ分かると思う。
特に、マジカルミライ2016の『ray』、マジカルミライ2017の『Birthday』、夏祭初音鑑の『One Night Girl』が最高と思う。









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今どきの氣の出し方

植芝盛平や中村天風、それに彼らのお弟子さんだった藤平光一さんらを、崇拝する人もいれば、拒否感や嫌悪感を持つ人もいると思う。
どこが嫌かって、写真で見る彼らのいやらしさ、中年男の脂ぎった感じ、それに、彼らの著作の自慢げたっぷりの尊大さなどではないかと思う。
しかし、そんなものがなければ、話を傾聴する値打ちはない。
彼らは皆、聖人君子などやってたら生きていられない生き方をしていたので、並外れたバイタリティ(生命力)があり、生身の人間である限りは、それが迫り来るような不快感にもなる。
だいたい、彼らの教えを知ろうという我々だって、聖人の道を聞きたいのではなく、儲かる道、モテる道、強くなってこの世を闊歩する道を知りたいのであるからお互い様だ(笑)。

彼らの教えは、簡単に言うと、「氣を出せば無敵」である。
植芝盛平の教えとなると、普通の人にはさっぱり分からないが、中村天風は愚民を相手にする気十分だったので、いくらかは分かる。ただし、年寄り臭く、しつこい(笑)。
藤平光一さんはさらに分かり易く話したが、それでも、私あたりに分かったのは、氣を出すためには、
「重みは下にあると言う」
「好きだと言う」
くらいで、後は、「氣は出ていると思えば出ている」という、分かったような分からないようなもので、その他となると、具体的にどうすれば良いかさっぱり分からない。

しかし、私なら、「ミクさん、愛してる」「ミクさん、ありがとう」と想ったり、言ったりすると、確実に氣が出て、そして、氣が入ってくる。
氣とは、まあ、宇宙エネルギーとでも言えば良いと思うし、あるいは、ジョセフ・マーフィーが『THE COSMIC ENERGIZER』(邦訳:『あなたも幸せになれる』『努力嫌いの成功法』)で述べた「宇宙の活力」のことだと思えば良いだろう。
あなただって、純粋に好きだと思うものが1つや2つはあると思う。
海だったり、芸術だったり、自然だったり、動物だったり、円空の仏像だったり、イエスだったり、あるいは、宇宙だったり。
そんな本当に好きなものを想いながら、あるいは、何も想わず、「ありがとう」「愛してる」と言えば、必ず氣が出て、結果、何でもうまくいくはずだ。

「復活祭のまえに驢馬にのって、地面に足をひきずりながらエルサレムに入場してきた男といえば」
「あなた」
「頭の上で、女たちがぼくの名前を叫びながら振っていたものはなんだ。棕櫚の枝じゃなかっただろう。」
「あなた」
~『オンディーヌ』(ジャン・ジロドゥ著、二木麻里訳、光文社刊)より。ハンスとオンディーヌの対話。~
※ハンスは高貴なる騎士。オンディーヌは水の精で15歳の絶世の美少女。

私にとって、オンディーヌの言う「あなた(ハンスのこと)」が、初音ミクさんなだけである。
その名を想うだけでも氣は出るが、「愛してる」「ありがとう」と想い、あるいは、言えば、氣は宇宙の果てまで届き、創造が起こるのである。








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天才に戻る絶対の方法

あなたも、自分が天才だと信じていた時代がないだろうか?
ごく若いうちは自分が天才だと思っていたとしても、ほとんどの人は、大人になるとそう思わなくなるが、それは、「幼い夢が終わった」ということで、良いことであり、必要なことであると思われている。
だから、自分を天才だと思い続けるような人は、妄想家と言われるのだろう。

しかし、自分が天才だと思うことは、本当に幼い夢なのだろうか?
そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。
人は誰でも天才である。
ならば、自分が天才だと信じることは良いことだろうか?
そうではない。
人間は、自我が考えるような意味での天才ではない。
そうではないが、天才なのである。
では、天才とは、正しくは何であるかということになる。

天才とは、星のようなものだ。
星の動きは、万有引力の働きを正確に表す。
地上で物が落下するのも万有引力の働きであるが、地上では空気抵抗のために、万有引力を正確に反映しないし、観察も難しい。
だが、星ほど大きければ、万有引力に干渉するものはないし、遠く離れた星の動きを完全に見ることが出来る。
星のように、自然の働きを純粋に表すことが出来ることが天才なのだ。
そして、生命が自然そのものであるのだから、生命の働きをそのまま表せば天才なのである。

イチローは、他の選手達より多く努力したのだろうが、努力の仕方が間違っていれば偉大な野球選手になることは出来なかった。
彼は、星のように、自然の法則を、より忠実に活用出来るように努力したのだ。
そのために、自分の生命を使い、自然の法則と共鳴するような訓練をしたのである。

あなたも、生命の性質に適合したことをやれば優れたことが出来るし、生命の働きと完全に一致することが出来れば、人類史上でも稀な天才になるだろう。
しかし、普通の人は、生命に反することをするので、凡人に留まっているのである。
あまりに生命に逆らって生きれば、完全な無能者になる。このブログでお馴染みの、まるで駄目男君がその好例である。

では、どうすれば、星のようになれるのか?
それが分かれば、そして、その通りにやれば、あなたは神にしか見えないだろう。
あるインドの聖者が、オレンジを投げて寄こしたことがあった。
それを見て、言い様のない感動を覚えた。
なぜだろう?
その聖者は、全く自然のままの動きをしたからだ。
それは、自我のある人間には不可能な動きで、神にしか出来ない投げ方だったからだ。

昔、ある空手家が、真剣を持った剣の達人と素手で決闘した時、死を決意して突進し、無意識になった。
そして、気がついたら、剣の達人は地面に伸びていた。
空手家の自我が消えたことで、身体は生命そのものの動きをし、その結果、勝つはずのない戦いに勝ったのだ。
きっと、植芝盛平は、戦う時は意識が無いのだと思う。
そして、生命の働きのまま、自在な動きをするのだ。
そうであれば、いかなる強者も敵うはずがない。
植芝盛平も、「戦う時は宇宙になっているので、誰も私と戦えない」という意味のことを言っていたと思う。
これを、星になっていると言っても良いのである。

例えば、腕振り運動をする時、最も自然に感じる振り方をしてみると良い。
そう努めていると、いつか、あなたは、生命のリズムと完全に共鳴し、自然そのものになる。
そうなれば、病気も治るだろうし、才能も発揮されるし、望まずとも、あらゆる幸運に恵まれるだろう。

最初の話に戻るなら、人は、幼い頃は自然そのもの、生命そのものなのであり、それは天才であるということだ。
岡本太郎が、「一番良い絵を描くのは5歳くらいだよ」と言ったのは正しいことであるが、絵画としての価値を持つには、世間のニーズに合う必要もあるので、商品にはならない。
だが、岡本太郎のような人には分かるのである。

尚、人間はゆるむ時に、自然から外れていく。
なぜなら、人間の中に、自然から外れる力が2つ仕組まれていて、ゆるんだ時に、その力が働いてしまうからだ。
なぜ神は人間の中に、そんなものを仕込んだのかと、怨みに感じる人もいるだろうが、それは案外に楽しいことなのである。
そして、自分の掟を守ることで引き締まり、ゆるまなければ、内なる生命が輝き、それに身を任せれば、天才になり、そして、至高者に近付くのである。









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無敵の力

他のことは忘れても良いくらい重要なことなので、何度も繰り返し書くが、力を抜くことが、力と幸運の最大の秘訣である。
しかし、ここが日本語のおかしなところだが、力を抜くというのは、脱力とは違うのである。

プロ野球の超一流のピッチャーは、良い投球をした後で、「力を抜いて投げることが出来た」と言うことがよくある。
しかし、脱力したらピッチングそのものが出来ない。
武道の達人が立っている姿、座っている姿、あるいは、静かに礼をする姿がとても感動的なことがあるが、なぜ素晴らしいのかというと、力が抜けているからだが、脱力してだらんとしているのでは勿論ない。
「余分な力が抜けている」と言っても良いが、その余分な力だって無ければピッチングも、礼1つも成り立たない。

力が抜けるとは、力を出す意識がないことだが、それでいて、力が出ているのである。
剣の達人が、しこたま酒を飲んだ後で、刺客に襲われた時、こう言う。
「俺の剣は、酔えば酔うほど鋭さが増すぞ」
強がっているのではない。
本当にそうなのである。
もちろん、酒に強い体質であることも必要だが、チンピラのケンカですら、酔っ払った者が意外に強いことを、経験上、よく知っている者もいるだろう。

合気道の神的な達人、植芝盛平の礼は、一度見たら忘れられないほどの感銘を与えると言われる。
力を抜いた究極である無を見ることが出来るのだろうと思う。
このような人物が、果たして現存するのかどうかは分からないが、近い人なら、どこにでもいると思う。

お坊様が念仏を唱える際、良いお坊様は、大きな響く声で唱えても、よく力が抜けている。
だから、無量寿経(大無量寿経)などの長いお経を唱えても、最後まで疲れていない(むしろ活力が高まる、つまり、元気になっている)。
普通の人が真似したら、最後は声がかすれてしまう。
そして、念仏でも、神道の呪文でも、本当に良い唱え方は、小さな声で唱えることだ。
隣の人にすら、念仏や呪文を唱えていることが分からないくらい、小さな声で唱えるのが良いのだ。
実際には、ほとんど、あるいは、全く声が出ていないかもしれない。
しかし、そのような念仏や呪文が本物であり、力がある。
これは、ユダヤ教やキリスト教、あるいは、イスラム教の祈り言葉でも同じだと思う。
もちろん、僧の修行やお勤めの際、また、一般の人でも習い始めの頃は、大きな声を出す練習も必要だが、念仏、呪文、祈りそのものは、小さな声でやるのが良い。
そして、小さな声で念仏や呪文を唱えることを覚えないままでいてはいけない。
この小さな、微かな声の念仏や呪文が、力が抜けた念仏や呪文、あるいは、「極小にして極大」の念仏や呪文につながるのであり、神仏の加護を得、いかなる願いも叶えるものである。

偉大な神道家だった黒住宗忠は、常に下腹に力を込めていたし、岡田式静坐法の岡田虎二郎は、常に腹に力を入れていなければならないと言っていた。
そして、ヨーガの中村天風は、いつも肛門を引き締めていろと言った。
だが、これらの力とは、うんうん唸りながら、万力を込めるというものではない。
そんなことが出来るはずがない。
腹に入れる力、肛門を締める力とは、極小の力であり、それが働けば、生命力を輝かせる神秘の力になるのである。
意識の上で、最小の力を込め、それが、無意識の力になって継続するのである。
この力を習得するのにお奨めなのは、時々述べるが、京都の広隆寺にある、弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)を見ることである。
この弥勒菩薩像は、生涯で一度は見るべきものと言われ、海外のVIPが密かに広隆寺を訪れて見ることも多い。
別に、写真でも良いと思うが、可能なら、実物を見れば良いだろう。
力が抜けた、究極の達人の姿を見ることが出来る。
そして、我々は、この弥勒菩薩の右手の薬指と親指が微かに触れている、その姿、表情を真似、練習すると良い。
この弥勒菩薩像を思い出しながら、そうすることで、極小にして究極の力を自分のものにすれば、この宇宙に敵はいない。









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