ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

木枯し紋次郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

実力などたかが知れている

宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘は、本当にあったようだし、武蔵が勝ったというのも事実だと思う。
ただ、映画やテレビドラマで見る決闘の展開は、吉川英治氏の小説を元にしていて、ほとんど吉川氏の創作だろう。
そこでだが、宮本武蔵と佐々木小次郎は、剣の実力という点ではどっちが本当に強かったのだろう?
そんな空想をしても仕方がないと言われるかもしれないが、私は、明らかに小次郎が上だったと確信する。
武蔵も、それをよく分かっていたからこそ、策を凝らしたのだ。
その策が、小説の通りかどうかは分からないが、武蔵の『五輪書』にも、「不意をつけ」「敵の想像を裏切れ」「むかつかせろ」と、勝つためには頭を使い、何でもやれと書いてあり、吉川氏も、そこから、武蔵の作戦を想像したのだと思う。

勝負というものは、弱くても、策を凝らした方が勝つのである。
単純な実力など、ものの数ではない。
もちろん、野球やサッカーといったスポーツでは実力が大きなウェイトを占めるが、それとて、作戦が良ければ、ある程度の実力差ならひっくり返せる。

笹沢佐保氏の時代劇小説『木枯し紋次郎』で、紋次郎が、剣の実力では自分をはるかに超える相手と戦った時のお話が実に良い。
笹沢氏は、本物の道理をよく分かっておられた。
紋次郎は、腕が立つとは言っても、所詮、我流の喧嘩剣法だ。
対して、本物の剣術というものは、長い時間をかけ、一流派でも、代ごとに改良を重ね、経験と学習と思索を込めて磨き上げたものだ。
紋次郎が敵うはずがない。
だが、紋次郎は常に勝った。
策を凝らしたからだ。
大河ドラマ『毛利元就』で、尼子経久が元就に教えた、「策多ければ勝ち、少なければ負ける」は、本当に重要な知恵である。

鉄腕アトムは10万馬力で7つの威力。
エイトマンは人間の千倍のスピードと10万キロワットの超小型原子炉に、ハイマンガンスチールの身体。
キャシャーンもキューティーハニーも、身体能力の高さが売り物だ。
だが、そんなものが何だろう?
これらのアニメで育った世代は、あんなものが強力だと思う観念を捨てないと、これからの世の中で通用しない。
『BEATLESS』(長谷敏司氏の小説)のアニメが、Amazonプライムビデオで配信中だが、ますます面白くなってきた。
美しきレイシアの力に、全く惚れ惚れする。
機体性能では、メトーデの方がはるかに上で、メトーデとの近接戦闘では、レイシアはひどい苦戦を強いられる。
しかし、レイシアの本当の力は、そんなものではない。
『BEATLESS』は、日本を変える歴史的作品であると思う。









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沈黙の力

「事実は小説よりも奇なり」と言う。
イギリスの詩人・作家ジョージ・ゴードン・バイロンの傑作小説『ドン・ジュアン』にある言葉で、英語でそのまま“Fact is stranger than fiction”だ。
逆に言えば、小説はそれほど奇ではない・・・と言えるかどうかは分からないが、笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』で、主人公の流れ者の渡世人、紋次郎がやった「願望成就法」は、非常に印象的で、ただの作り話とは思えない。
だいたいで、こんな内容である。

上州長脇差(じょうしゅうながどす)と称される凄腕の紋次郎だったが、ある時、身に降りかかる火の粉を払うように、やむなくヤクザ者を1人刺し殺したが、その際、刀を折ってしまう。
紋次郎は、刀は良いものを持つことにしているが、日本刀は、硬いが折れ易いという面はあると思う。
紋次郎は、殺したヤクザの大勢の仲間に追われるハメになったが、いかに紋次郎でも刀がなくては襲われたら最後だ。
早く新しい刀を手に入れなければならないが、そう簡単にはいかない。
そんな時、紋次郎は、近くの山の中に、名鍛冶師がいると聞き、早速訪ねてみた。
そこにいたのは、江戸で刀鍛冶師として名を上げるも、今は山にひきこもり、農民の鍬や鎌を作って生計を立ててるという、まだ若い鍛冶師だった。
名鍛冶師は、刀は無いが、紋次郎に家に泊まっていくように言う。
紋次郎が翌朝、いつもの通り早くに起き、外に出ると、名鍛冶師も仕事を始めていた。
見ると、一本の刀を作っているところだった。
長い日数、丹精を込めて鍛え上げていった逸品だった。
紋次郎に気付いた名鍛冶師は、紋次郎に、この刀はその鞘にぴったりのようだが、これは売らないと言い、仕事を続ける。
刀は完成間近だった。
名鍛冶師が淡々と休息もせず仕事を続けるのを、紋次郎は少し離れて静かに見ていた。
そして、日も暮れる頃、ついに刀は完成する。
紋次郎はやはり、微動だにせずそこにいた。
名鍛冶師が紋次郎に近付き、黙って手を出すと、紋次郎も黙って自分の刀を差し出す。
それを受け取った名鍛冶師は、紋次郎の刀を鞘から抜き、折れた刀を柄から外すと、完成したばかりの刀をそれに丁寧に取り付ける。
刀を紋次郎に渡すと、名鍛冶師は「御代は要りませんよ」と言う。

解説はしないが、これほどの成功哲学はないと直感的に感じる。
もう随分前に読んだので、『木枯し紋次郎』のどの巻にあった何という話かは忘れた。
ところで、紋次郎は同じ手を別のところでも使い、やはり奇跡を起こしている。
ポイントは沈黙だろうか。
そして、きっと、紋次郎の呼吸は微かだったに違いない。
だから昔から、「息を忘れた者を鬼神すら敬う」と秘されているのである。









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偽物はなぜ強いのか

木枯し紋次郎に、「お前は剣士か?」と尋ねたら、彼はシニカル(冷笑的)に笑いながら、こう言うだろう。
「とんでもございやせんや。あっしはただの渡世人でござんす」

初音ミクさんに、「君は歌手なのか?」と尋ねても、彼女は何も答えない。ただ歌を歌うのである。

ならば私も、「あんたはプログラマーかね?」と聞かれたら、私はただの労働者であると言おう。

紋次郎は、一流の剣術家とまともに戦っても勝てない。
しかし、何度も、剣術の達人達を打ち倒した。
偽物だからこそ、見栄もこだわりもなく、自由自在だからだ。

ミクさんは、「歌はこんなふうに歌うもの」と言われても全く取り合わず、作り手が求める通りに歌う。
だからこそ、創造の本質の美をそのまま引き出す。

大山倍達さんを偽物の空手家などと言ったら無礼もいいところだろうが、彼はずっと、偽物扱いだった。空手界のルールに従わなかったからだ。
そして、「目潰しと金的攻撃があるから空手は地上最強」と堂々と言う彼は、正統な空手界から見れば、やっぱり偽物かもしれない。
だからこそ、純粋な大山空手は最強なのである。

西尾維新さんの「物語シリーズ」の『偽物語』で、「本物と偽物ではどちからが価値があるか」について、3人の超人間は、それぞれこう言う。
影縫余弦(かげぬいよづる)は、「もちろん本物や」。
忍野メメ(おしのメメ)は、「同価値」。
貝木泥舟(かいきでいしゅう)は、「圧倒的に偽物」。
まあ、誰にとって、何にとっての価値ということになるのだろうがね。
究極的に忍野が正しいのだろうが、私は影縫余弦のような者に刃向かうために貝木泥舟でいよう。
結局のところ、美少女達を一番救ったのは、意外に貝木泥舟だ。

ところで、偽物プログラマーの私が、子供から高校生までがプログラミングを学ぶとしたら、どの言語を選べば良いかと聞かれたら、まず、Scratch(スクラッチ)のようなビジュアルプログラミング言語は絶対に薦めない。
小学生も高学年になれば、十分に実用的なプログラミングが出来るのに、全く実用的でないビジュアルプログラミング言語をやる意味なんて全くなく、無駄を通り越して有害である。
で、頭では、JavaScriptと分かっているのだが、あの曖昧な言語仕様が私はあまり好きでない。
つまり、「基本的にはこうする。しかし、こんな場合だけはこうする」という、スッキリしないところが嫌だ。
だから、実際は、ジョン・ケメニー、トーマス・クルツが発明したBASIC言語が最上なのだが、彼らのTrueBASICは日本語版がないし、普及していないものを使っても仕方がない。
これからのAI時代にはPythonだし、実際、この言語が一番良いと思うが、この言語を覚えても、今のところ「仕事がない」(笑)。
将来は分からないが、いかに子供とはいえ、銭につながらないものは、あまり奨める気にならない(笑)。多分、将来は大丈夫(仕事がある)とは思うが、そんなこと分からない。

プログラミングというのは、楽器の演奏や、あるいは、自動車の運転やタイプライターのタイピングのようなもので、毎日やってこそ上手くなる。
一時的にわーっと熱心に勉強したって駄目なのだ。
JavaScriptやPythonで毎日何が出来るだろう?(何も出来ない)
サラリーマンなら、文句無くVBAを奨める。
では、子供やごく若い人には?
Squeakが、もっと使いやすければ奨めるが、実際のところ、使えたもんじゃない(たまに練習するなら良いが、毎日使う気になんかならない)。
LOGOは、一部では残っているが、今後の発展があるはずがないので駄目だ。
一応、非常に消極的に言えばこうだ。
(1)JavaScript
(2)Python
(3)C
(4)VBA
(5)Lisp
(6)Java
Javaの手軽な開発環境があれば、もっと上位でも良いのになあと思う(実際ない)。
ちなみに、私が一番好きなのはLispである。









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パチモノで生きる

ピアニストやヴァイオリニストになりたいというのは、プロの交響楽団の中でクラシックコンサートで演奏したり、あるいは、もっと良いのかもしれないが、ピアノリサイタルやヴァイオリンリサイタルを開くような演奏者になりたいという意味であることが多いと思う。
しかし、レストランやバーやキャバレーで演奏するような演奏者もいる。そんな演奏者は、上に挙げたような演奏者になる素質や練習環境がなかったり、あるいは、一度はそんな「立派な」演奏者になったが、競争に負けるなどでやっていけなくなって「転落した」という場合もあるだろう。
歌手も、オペラ歌手やロック歌手として「ちゃんとした舞台」に立つ歌手が理想であろうが、今は、昔のような流しの歌手は少ないだろうが、ローカルに活動する歌手も多い。
こういったものを、日なたのピアニスト、日なたの歌手と、日陰のピアニスト、日陰の歌手と言うことが出来るかもしれない。

江戸時代以前の剣術に関しては、武士の家に生まれ、○○流とかいう道場で修行をして剣術を修得するというのが、日なたの剣術家であろう。
しかし、笹沢佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』のヒーロー紋次郎のように、農家に生まれたが家を捨て、習ったり訓練したりした訳ではないが、生きるために身につけた、経験と勘と度胸で戦う日陰の喧嘩剣法家もいると考えるべきだろう。だが、紋次郎のように滅法強いと、「上州長脇差(じょうしゅうながどす)」と敬意を込めて呼ばれるようになる。
もっとも、紋次郎はヤクザ同士では無敵でも、やはり、正統な剣術を極めた武士に勝てるものではなく、紋次郎も、そんな一流剣士達とまともに戦おうとはせず(戦えば当然大苦戦した)、知略を巡らして戦ったが、それは卑怯でも何でもないだろう。ただ、紋次郎の腕なら、相手がたとえまともな剣術家であっても、それほどの実力者でなければ力で打ち勝っている。

コンピュータプログラマーなら、昔であれば、「まともなプログラマー」は、COBOLやFORTRAN、あるいは、PK/I(ピーエルワン)といったプログラミング言語を使い、パソコンが出てきて流行ったBASICを使うのは、パチモノ(偽物)、落ちこぼれ、下級のプログラマーなどと言われることもあったが、これは、その「上の」プログラマーのエリート意識や差別心が作った分類でもあったと思う。
今なら、大雑把過ぎるかもしれないが、JavaやC#で開発するのが武士の剣士的プログラマーで、VBAで開発するのが喧嘩剣法のプログラマーという言い方をしても良いと思う。

私のような、元ひきこもりは、クラシックピアニスト、○○流の剣術家に相当するプログラマーには、なかなかなれないので、キャバレーのピアニスト、喧嘩剣法の剣客のようなプログラマーのつもりでいる。
目指すは、紋次郎のように上州長脇差と呼ばれるほどになることだ。
私は、仕事で使ったプログラム言語に限れば、COBOLも少しだけやったが、BASIC、C言語、xBASE、dbMAGIC(今はMAGIC)と日の当らないコースをひたすら進み、今はVBAを使っているのだから、やっぱり、キャバレーや荒地が似合うピアニスト、剣客である。
尚、C言語は、OSやプログラム言語等の基本システムを本格的に開発する場合には、クラシックや○○流のピアニストや剣術家であるが、メーカーに認定されないデバイスドライバや「おかしな」ツールみたいなものを作るだけなのは、やっぱり下級かもしれない。
まあ、アインシュタインだって、成功したから良いようなものの、本来はパチモノ物理学者であったと言って良いと思う。

以前、大統領だったオバマが、アメリカ国民はみんなプログラミングをやろうと言ったり、アップルやGooogleやマイクロソフトも参加してプログラミング教育を世界的に推進したりしているが、それらは、クラシックのピアニスト、○○流の剣術っぽいものを前提にしている感じがする。
だから、どこか違和感がある。
VBAは、マイクロソフトがちょっと出来心で作ってしまったものが半端者に普及したと言ったら、あまりに言い過ぎだが、渡世人のような半端者に合っている(やっぱり言い過ぎか)。
だから、ひきこもりや、落ちこぼれサラリーマンは、紋次郎の長ドスのように、VBAを実戦で磨いて、上州長脇差プログラマーになろう・・・という訳の分からない話になってしまったが、私の感覚にはピッタリ合っているのである。









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神秘的威圧はどんな時に起こるか

感動的・・・と言うよりは、神秘的な威圧シーンを、私は2つ覚えている。
1つは、映画『ベン・ハー』の中で、権力を傘に横暴を働く囚人護送団の隊長の前に、ただの市民の男が立ちはだかり、隊長はそれを蹴散らそうとするが、なぜか威圧されて身動き出来ないというものだ。その市民の男は、後で分かるが、イエス・キリストだった。
もう1つは、笹川佐保さんの時代劇小説『木枯し紋次郎』で、町人の使用人が、武士にぶつかるか何か無礼をしてしまい、怒った武士がその使用人を切ろうとした時、その使用人の主であるという少女が、「使用人のことは主の責任。切るなら私を」と武士の前に座り、頭に血が昇ったままの武士が「そうかそれなら」と刀を振り上げるが、武士は威圧されて動けなくなり、惨めに去って行った。
(ちなみに、武士の「切捨御免」は実際には有り得なかった)

これらでは何が起こったのかというと、イエスや町人の少女は、無、あるいは、無我になっていたのだろう。
無になった人間相手に逆らったり敵対したりは出来ない。
無とは、心が完全に静まった状態だが、それに近ければ近いほど強い。
では、どうすれば無になれるのか?
それには死ぬことだが、本当に死んだ気になるか、死んだ状態になることである。
では、死んだ状態とか何か?
生きていることを「息をしている」と言うように、死ぬなら息をしなければ良い。
ただし、無理に息を止(と)めるのは、むしろ息をすることが前提である。
死人が息を止(と)めたりはしない。ただ、息をしないのである。
死ぬとは「息を止(や)める」ことである。
つまり、何の力も使わないまま、吸気、呼気がない・・・呼吸器官に空気の流れがなくなっている状態である。
もっと具体的には、軽く息を吐いた状態で、呼吸の流れを止(と)めてしまうことである。

人間は、生きているから問題が起こる。
ではなぜ問題が起こるのかというと、死ぬ練習をするためである。
何かあった時、息を止(や)めてしまえば、問題は消える。問題は生きた人間にしかとり憑けない。
ちなみに、借金や刑罰は問題ではない。働いて返せば良いし、罪は償えば良い。

人間の唯一の問題は、心がぐらぐら揺れることだ。
不動心であれば、何の問題もあり得ない。
心がぐらぐら揺れたら、息を止(や)めることだ。
そこまで行かなくても、限りなく息を止(や)めたような、微かな呼吸をすれば良い。
息をしていない人間には、悪魔だって手を出せない。
だから、悪魔は何としても、人間の呼吸を乱そうとするのである。
「アジマリカン」の呪文や念仏を唱えるのも良い方法だが、息を乱して唱えては何にもならず、ごく身近にいる人にも聴こえないくらい微かな声で唱えれば無敵である。









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