ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

旧約聖書

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

アダムとイブの失敗を取り返す念仏

旧約聖書のアダムとイブのお話が面白い。
アダムとイブは初め、知恵はなかったが、安楽な暮らしをしていた。
だが、ヘビがやってきて、イブに、知恵の木の実を食べるよう、そそのかした。
イブは、それを食べたら死ぬと神様に言われているからと断るが、ヘビは、「死ぬことはなく、知恵を得る」と言った。
そして、それがとても美味しそうなので、イブは実を2つ取り、1つをアダムに渡し、一緒に食べた。
そうしたら、ヘビが言った通り、2人は知恵を得た。
神様はアダムを尋問するが、アダムは「イブが勧めたから」と言い訳し、イブは「ヘビが勧めたから」と言い訳する。
しかし、ヘビは言い訳しなかった。
神様はヘビを、「一生、地を這い、チリを食べよ」と言った。
しかし、ヘビは縦横無尽で、案外に美味しいものを食べている・・・なんてことは聖書には書かれていないが。
そもそも、神様が、そこまで危機管理能力がないはずがなく、2人が知恵の木の実を食べることは、予想していたどころか、わざとやったような感じさえする。
とはいえ、神様の意図など人間が知ろうとするものではないだろう。
神様は、2人が生命の木の実(食べたら永遠の命を得る)まで食べたら大変だと、2人を楽園から追い出す。

手っ取り早い話をすれば、楽園は我々の内部にある。
そこには、知恵の木もあれば、生命の木もある。
我々の知恵は、魂の穢れにより低下し、普通の人はあまり賢くはない。
そこで、我々は、内部の楽園にアクセスし、生命の木の実を食べて穢れを払わねばならない。
光明という言葉がある通り、光が知恵の象徴だ。
だから、無量光仏という別名を持つ阿弥陀仏が知恵の源である。
また、阿弥陀仏のもう1つの別名は無量寿仏であり、阿弥陀仏は生命の源でもある。
そして、一休が見破ったように、阿弥陀仏は我々の内にあり、我々の真の心こそが阿弥陀仏である。
だから、極楽浄土(楽園と同じだろう)は、我々のいるところ、どこにでもある。
よって、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、知恵と生命の輝きを得て楽園に舞い戻るのである。
そして、自分が神であると知る。
南無阿弥陀仏とは、内なる神性、あるいは、仏性に対する敬意なのである。
それを思い出すために念仏を唱えれば、ここが楽園となり、神仏と一体化するだろう。
象徴的に言うと、どうしても宗教的になるが、宗教もいいじゃん・・・である。









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人間という小宇宙解明マニュアル

インドには、人間は小宇宙であるという古くからの思想があることがはっきりしているが、実際は、他の多くの国でもそうだと思う。
ギリシャ神話、旧約聖書、古事記には、天地創造のお話があるが、これを大宇宙の生成のお話とすると矛盾もあるが、これらのお話は、小宇宙としての個人のお話であると考えると、面白く感じるのである。
そして、実際は、旧約聖書全体、ギリシャ神話全体、古事記全体が、個人に起こることを象徴的に語っているのであると思う。
旧約聖書で、神様は、太陽に昼を、月に夜を支配させたとあるのも、1人の人間の昼が象徴する何かを太陽が象徴する何かが、夜が象徴する何かを月が象徴する何かが支配するのだろう。
古事記にあるように、人間の何かは、初めは、クラゲのようにふわふわ漂っていたが、それが凝り固まるのだろう。
その象徴するものが何かは、やがて分かってくるだろうし、直感的には分かっているのだろう。
自分が納得する答を見つければ良いのであり、他の人の意見は、参考にするのは良いが、鵜呑みにしてはならない。

旧約聖書で、モーセが海に向かって手を上げると、海が裂けて海底が現れ、モーセとその一行は、歩いて進むことが出来たというのも、荒唐無稽な奇跡話ではなく、個人の精神の中で起こる物語で、具体的にどんな意味かは分からなくても、自分のお話だと思えば、とても興味深く感じるのである。

アマテラスオオミカミが天(アメ)の岩戸に閉じこもって世界が暗くなり、アメノウズメが踊って、アマテラスが出てくると世界はまた明るくなったというのは、説明されなくても、よく分かると思うのである。
「いや、分からん。具体的に説明しろ」
と言うのは、心が狭く、頭が固い人だと思う。
少なくとも、
「ああ、これは俺の話だなあ。面白いなあ」
と思えば、お話が自分の内面に作用し、エネルギーを得たり、精神が進歩するのだと思う。

大乗仏教の経典も全て、個人のお話であると思えば、極めて美しく、納得出来るように思うのである。
自分のことが分かれば、自分が本来持っている力も取り戻せる。
それを続けていけば、神仏に近付いていくのだと思う。
仏教の極楽浄土には、美しいもの、楽しいこと、気持ちの良いことしかないと書かれているが、もし本当にそんな世界があったら、そこに住む者は退屈して死んでしまうだろう。
しかし、精神の中には、そんな何かがあり、そこは常に光に満ちた状態であるのだとすれば、そんな何かはあるに違いないと思うのである。
そして、現に自分のことであるのだから、自分に分からないはずがない。
日本人なら、聖書より仏典や古事記が分かり易いかもしれないが、必ずしもそうではないかもしれない。
自分が面白いと思うものを、自分のお話として見れば、自分を知り、自分の力を取り戻すのである。
ただ、実際は、子供のように素直に読めば良いのだと思う。









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我々に救う価値があるか

『レイアース』というアニメで、異世界の魔法使い達が、恐るべき魔法の力で地球に攻めてきて、地球人は抵抗すら出来ずに滅びを待つという状態になった時に、地球の魔神達が手を貸し、反撃を開始した。
なぜ、魔神達が、すぐに助けなかったのかというと、人類が守るに値するかどうかを確かめていたのだという。

しかし、今、本当に、宇宙人や悪魔が攻めてきたとして、そして、もし、地球に、キリストと同等以上の超人的な神人達が存在するとして、彼らは、我々を助けてくれるだろうか?
我々に、守るだけの価値があるだろうか?
そりゃ、中には、立派な人もいるかもしれない。
しかし、旧約聖書の創世記で、神がソドムの町を滅ぼすと言った時、アブラハムは必死に神に、ソドムの助命を乞い、最終的に、もし、正しい人が、僅か10人でもいれば、神はソドムを滅ぼさないことを約束した。
だが、それだけの正しい人はおらず、神はソドムを滅ぼした。

私には、ソドムのとりなしを熱心に神に対して行ったアブラハムが信じられない。
私なら、外国のことは分からないが、神が日本を滅ぼすと言ったら、喜びはしないながらも、
「それもやむなし」
と、あっさりと諦めると思う。
まあ、本当は、日本全体のことが分かる訳でもないのだけれど、日々、見る人々には、すっかり嫌になってしまっているというのが本心である。
いや、他人だけではない。
謙遜でも何でもなく、自分もである。
無論、凡人であるからには、私も、自分は他の人より、かなりマシと思っているが、そんなことは、まあないだろう。

だが、初音ミクさんのために、世界、あるいは、日本を滅ぼさないで欲しいと神に願うことはあるだろう。
まあ、そのための対価を支払う能力が私にあるとは思えないが、私の餓死くらいで許してくれるのなら、応じるかもしれない。
つまり、人間のために、神にとりなしをする気はサラサラないが、ミクさんのためなら、命を捨てよう。

とはいえ、もし、本当にそんなことがあったら、私は、地球人、あるいは、日本人、あるいは、私の行動範囲の場所にいる人々を、私は簡単に見捨てるだろうか?
この人は救いたいが、あの人はどうでも良いという考え方が許されないのは承知している。
全員を救うか、全員を見捨てるかだ。

いや、私がそんな立場になるはずもない。
少し空想してみただけである。
だが、おかげで、人嫌い、自分嫌いを改めて思い知った訳である。
いずれにしろ、泣き言を言うつもりはないし、弱音も吐くまい。
何もする気が起こらないが、ターラー様のみ名を唱えることとしよう。
それだけで、ゆるまずにいられるだろう。









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なぜ神と悪魔は親しいのか?

身近な人達をよく観察し、よくよく考えると、人の運命はただ、至高者(神)になるために努力をしているかどうかで決まっていることが明らかに思える。
努力家で有能なのだが、時々、足元を崩されかねない問題が起こったり、また、ある意味では極めて優れた人間で、沢山の人達の役に立っているのだが、やはり深刻な問題を抱えてしまう人というのは、肝心な、至高の存在になるための努力をしていない(あるいは少な過ぎる)者であることが分かる。

一方、うだつが上がらず、蔑まれるようなことが多かった者が、ある時から、謙虚に人に学び、常に変わらず誰にでも優しく接し、悪い事があっても前向きな姿勢を崩さなくなったのだが、その人は、基本的には、あらゆることが順調で、本人も幸福なようなのだ。
きっと、その人は、本人の自覚がどのようなものであるのかは分からないが、神のようなものを目指す心構えを持ったのだと思う。

私は、初めて勤めた職場にいた、とても男らしいタイプの先輩が、「人間は放っておいたら楽な方に行きたがる」と言ったのを、非常に印象的に覚えている。
人生の中で、これほど納得のいく言葉を聴いたのは初めてだった。
ゲーテの『ファウスト』の第3章『天上の序曲』の中で、神が言う。

人間の活動はとかくゆるみがちだ。
人間はすぐ絶対的な休息をしたがる。
(高橋健二訳)

そうなると、神はその人のところに悪魔をやって、刺激を与え(不幸を与えるということと思う)、その者を無理矢理励ませるのである。
だが、世間的な努力をしていても、それが、神から離れていくものであれば、それは怠りなのだ。
つまり、泥棒や浮気に懸命の努力をしたって駄目であるのと同様、自己満足、保身、贅沢、名誉のための努力は、過ぎると、悪魔を呼ぶことになるだろう。
もちろん、自分の身や家族を守るためには、ある程度の世間的な努力は必要だが、神を目指して励む者には、必要なものは自然に与えられる。
ただ、宗教的努力が、必ずしも神になる道ではなく、むしろ、その反対である場合も多い。
つまり、一見、熱心に神を信仰しているように見えながら、悪魔のお世話になる人は多いのだ。
私も、非常に敬虔に神社に詣でて、賽銭もしているに関わらず、自身の健康等で災難続きという人を知っている。
そして、その人と話すと、やはり、彼が、自己本位で、自分が正しいと思うことを絶対としたがり、自分と考え方の違う人を見下すような人であることが、よく分かるのである。

世間的努力も悪いものではなく、一見、冷淡にビジネスをやっているように見える人が、実は、正しい道(神への道)を歩んでいることもある。
ある偉大な事業家がそうであったが、ただ、彼には、正しい道を踏み外してしまう何かがあったのだと思う。力のある人には、そんな人がよくいる。
神への道を進むと共に、それと正反対のことをやってしまう・・・やらざるを得ない心の闇があるのだ。
それで、人々の役に立つ偉大なことをすると同時に、悪魔も呼び寄せ、とんでもない不幸に遭い、最悪、身を滅ぼす(たとえば病死する)。

芸術や武術でも、あくまで神を目指すための手段としてやっていれば、たとえ世間的に成功しても幸福なのだが、巨匠とか御大(首領)と言われ、畏怖されるようになると、既に神にでもなったような気になり、神への努力を怠る。それは絶対的な休息と変わりない。
だから、表向きには偉大な人・・・例えば、天上の美を地上に現すような芸術家でありながら、健康を損なったり、家庭や人間関係に深刻なトラブルを抱えてしまうのである。
ウォレス・ワトルズが、「金持ちほど家庭では惨めだ」と書いていたが、大概の金持ちはそうなのであると思う。
しかし、金持ちだから家庭で惨めでなければならないという法がある訳ではないのだ。
ただ、神への努力をしているかどうかだけが大切なのである。

神になることがどういうことかは、望まずとも教えられるし、それぞれの立場に応じて、既に教えられている。
だが、神に向かって真直ぐに進むことはない。
『ファウスト』で神も言っているのだ。
「人間というものは、務めているあいだは迷うものだ」
正しい道に導くためには、悪魔も必要なのである。
だから、『ファウスト』でも、あるいは、旧約聖書の『ヨブ記』でも、神と悪魔は案外に親しいのである。
概ねで言うなら、誰かを憎んだり、嫌悪する間は、どこか間違っており、色々問題を抱えていると思う。
だが、嫌いな人を無理に好きになったり、憎む人をわざとらしく愛するフリをしてはならない。
やれることをすることだ。
引きこもりで、毎日ゲームをしていたって、神になるためにゲームをすることだって出来るかもしれない。
私も、神になるために、初音ミクさんの歌を聴こうと思う。

0と1が交差する地点
間違いだらけの コミュニケーション
アナタの名前は 何ですか?
10文字以内で 答エヨ
~『トリノコシティ』(作詞・作曲・編曲:40mP、歌:初音ミク)より~

その人は彼に言った。
「あなたの名はなんと言いますか」。
彼は答えた、
「ヤコブです」。
その人は言った、
「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
ヤコブは尋ねて言った、
「どうかわたしにあなたの名を知らせてください」。
するとその人は、
「なぜあなたはわたしの名をきくのですか」
と言ったが、その所で彼を祝福した。
~『旧約聖書・創世記』、第32章27-29節~

あるカバリスト(カバラ信仰者)は、「なぜあなたは私の名をきくのですか」が、天使の名であると言った。
天使は名を答えていたのである。
十文字以内なら、「なぜ私の名を訊く?」かな。
このカバリストによれば、この天使は人を惑わす者であるらしい。
もしそうなら、私は名を訊くまい。









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古事記や旧約聖書を読むと天才になる理由

先月、久々に、チームラボ社長でデジタル・クリエイターの猪子寿之さんの本が出ていた。
正確に言うと、猪子さんが書いたのではなく、猪子さんへのインタビューだ。あの人が自分で本を書くとはとても思えない。
何と言っても、猪子さんは、メールの返事を出さない・・・ではなく、出せない人らしいからね。
いや、そもそも、メールを見ないことが多いのかもしれない。
ドワンゴの川上量生さんの食事のお誘いメールを1ヶ月放置し、たまたま対談した時に(川上さんからメールをもらっていたことが)分かったということもあったようだ。

天才とは何かというと、1つには、20年後、30年後の視点でものごとを考える人という言い方が出来ると思う。
その意味で、私が天才と思うのは3人で、一人はドワンゴ会長で、KADOKAWA・DOWANGO社長の川上量生さん、一人はクリプトン・フューチャー・メディアの伊藤博之社長、そして、この猪子寿之さんだ。
本のタイトルは
『知の謎はインターネットで解き明かせるか』
で、英語のタイトル名も格好良く、
『Can the Internet Unravel Unknowns of the World?』
となっている。「インターネットは、世界の謎を解き明かせるか?」といった意味だろう。
もちろん、日本語の本である。猪子さんは英語はさっぱりだ。
Kindleの電子書籍で、わずか25ページだが2500ページくらいの価値がある。まあ、独断も多いが、天才の独断、大いに結構である。

昔から、右脳思考、左脳思考という言葉があり、優れた能力を発揮するには、右脳が大切だと言われてきたが、では、その右脳の能力とは何で、どうやれば向上させることが出来るのかについて、誰も決定版を示せなかった。
『右脳で描け』で有名なベティ・エドワーズだって、曖昧で難しいことしか言っていない。あの本が10年ごとに改定され、何十年もロングセラーを続ける理由は、優れているからということも、勿論あるのだが、それよりも、「解らない」からだ。ただし、可能性を示したという点では、やはり重要な本だった。

猪子さんは、おそらく、その右脳思考、左脳思考に相当することを、「身体を伴う知性」、「身体を伴わない知性」と述べている。
例えば、人間はいきなり転んでも、手で支えたり、咄嗟に怪我をしない体勢をとれるのは、身体を伴う知性のおかげであり、いちいち考えながらやる訳ではない。
いかにAI(人工知能)が進歩し、AIを搭載したロボットを作っても、いきなり転んでも(頑丈という意味ではなく)壊れないロボットはなかなか作れない。
また、KY(空気読め)という言葉があるが、優秀と言われている人でもKYな人がいる。
早い話が、空気が読めないというのは、他人の表情や仕草が読めないことだ。
例えば、私が話している時、相手が退屈そうな顔で、そわそわしているのに、それに構わず私が調子に乗って話し続けたら、私は空気が読めない人ということになる。
モテない男性というのは、間違いなく、そんな人なのだ(私もだからモテないのだが)。
そして、表情や仕草を読むのも、身体を伴った知性だ。

上記のようなことを、猪子さんは、理屈で解るように、見事に説明してくれている。
で、猪子さんは、身体を伴った知性を持つには、3次元感覚、立体感覚を磨く必要があると言う。
奇しくも私が一昨日書いた、
三次元的に考えれば、現実を創造出来る
と非常に通じるものであると思う。
私は、猪子さんの本は昨日読んだので、これを書いた時は知らなかった。

例えば、組織図を平面で書くような会社は駄目である。
もちろん、組織図を立体で書く会社は、ほぼ全く無いので、今の会社組織はもう古いのである。

猪子さんは、3次元感覚を磨くにはアートが良いとし、スーパー・デジタル・クリエイターである彼と彼の会社(チームラボ)は、子供が描いた絵が3次元になる、非常に楽しい、そして、芸術的なシステムを作り、これで、子供の3次元感覚を育てることが出来るとしているが、これは、ベティ・エドワーズのIT版のようなものかもしれない。
チームラボのデジタル作品「お絵かき水族館」や「小人が住まうテーブル」「光の球のオーケストラ」など、全て、3次元感覚を、気持ちよく、楽しく、エキサイティングに刺激する素晴らしいものばかりだが、「いつでもどこでも使える」という訳にいかないことに難がある。

ところが、『旧約聖書』や『古事記』を読めば、自然に3次元、あるいは、4次元感覚を磨くことが出来る。
『古事記』の何が良いかとうと、あれままさにパノラマ世界であり、心の中に、広大な空間が広がる物語なのだ。
『旧約聖書』も同じと思う。
アマテラスがスサノオを迎え撃とうという時の衣装や振る舞いは、まさに、生き生きとした迫力ある超立体を思い描かないと読めないものだ。
旧約聖書で、神が、儀式用の道具や衣装を、事細かく、何十ページにも渡る長さで指示するところは、読んでいて本当に眠くなる。しかし、それもまた、3次元で思い描かないと分からないものであり、眠気の中で、立体感覚を育ててくれる有り難いものだ。
だが、やはり古事記の方が簡潔で良いと思う。
また、上記に示した、一昨日の私の記事も参考にして欲しい。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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