ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

日出処の天子

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

もう1人の私とは

よく、「あなたは1人じゃない」、「私たちは1人じゃない」というのを、見たり聞いたりしたことがあると思う。
もしそうなら、「私」の本当の味方が誰かいなければならないが、それは誰だろう?
そんな者、いやしないと思う人も多いかもしれない。
だから、「いい加減なことを言うな、馬鹿野郎」と言いたい人もいることだろう。

だが、それが誰かというなら、それは心臓だ。
だって、考えてみると良い。
自分の意志や思考と関係なく、勝手にドキドキし、胸騒ぎがし、痛くなる。
そして、ドキドキするなら、ドキドキする正当な理由が必ずあり、頭では胸騒ぎの理由が解らなくても、その理由は立派にあり、しかも、いつでも、その胸騒ぎは正しいのである。
そして、心臓は、脳からほとんど独立して動いている。
右脳が何かを感じて心臓に感覚を与えるのではなく、心臓が独自に得た感覚が右脳に伝わってイメージを起こさせるのである。

「自分」というもの、つまり、自我意識や「私」という感覚は脳が作っていることは間違いない。
そして、「もう1人の私」である、内なる賢者は心臓である。
『バガヴァッド・ギーター』で、「私(神。クリシュナ)は心臓に住む」とある通りである。

もっと心臓を信頼すると良い。
そして、心臓は、奇跡を起こす神秘の力を持つ。
天才漫画家、山岸凉子さんの『日出処の天子』で、聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ)が、神秘力(超能力)を使って活動している時、
「やり過ぎると、私の心の臓が持たない」
と思う場面があるが、これが心臓の力をうまく言い表している。
そして、ラポール(心の絆)で結ばれた者同士の心臓は一つになり、より大きな力を発揮する。

其(そ)して恥を知り 惨めになれば
全てが 廻りだして
心臓は一つになる
~『心臓デモクラシー』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌唱:初音ミク)より~

『日出処の天子』では、厩戸皇子が蘇我蝦夷(そがのえみし)と協力して、干ばつに陥った都に雨を降らせたようにである。
邪まなことでなければ、心臓に頼み、心臓に従えば、願い事は叶う。
心臓に神が住むからである。
腹(あるいは丹田)や仙骨は、エネルギー発生源やバランサーとして重要ではあるが、神はやはり心臓に住むのである。








↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

天才に愛される者

聖徳太子こと厩戸王子(うまやどのおうじ)を主人公にした、山岸凉子さんの漫画作品『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』は、1980年代前半の作品であるが今も人気が高く、2011年以降、KADOKAWA/メディアファクトリーから「完全版」が出版されている超傑作だ。
独特な厩戸王子像が描かれている。
どんな厩戸王子かというと、少女と見まごう14歳の超美少年で、頭脳の方も超がつく大天才だ。仏教に深く通じている上、ほとんど誰にも知られていないが、実際に神仏と交流があり、超能力、霊能力とみられるものを、かなり自在に駆使する。
その優秀さは、人々に恐れられ、大王(おおきみ。天皇のこと)をはじめ、いかなる高貴な身分の大人達からも、一目も二目も置かれている。
だが、畏怖されると共に、心から崇拝されている部分も確かにある。
ところが、あまりに利発なところが母親に恐れられ、自然な愛情を注がれなかったせいか、屈折した一面もあり、特に女が嫌いであることを自覚しているが、実際には、人間全般が嫌いで、誰にも心を許さない。
だが、厩戸王子は、蘇我氏の統領である蘇我馬子(そがのうまこ)の息子の蘇我毛人(そがのえみし)にだけは心惹かれ、それで、毛人には油断し、超能力を備えていることも知られてしまう。

私は、長い間、どうやったら、厩戸王子に好かれるのだろうかと色々考え、シミュレーションもしてみた。
『日出処の天子』作品中には、人間的にも優れた人物はいくらか登場するが、厩戸王子は、それらの人をも、ほとんど嫌悪する。
新羅から来た、超人的な能力を持つ淡水(たんすい)を仲間と心得てはいるが、一定の距離は置いている。
厩戸王子に好かれることは、ほとんど不可能であるが、蘇我毛人(そがのえみし)だけは非常に慕われている。
毛人は、何が違うのだろう?
確かに、この作品の中では、毛人は誠実で裏表のない男であるが、それだけでは、足りないはずだ。
私は、長く考えた末に、最近、ようやく、答を見つけた。
それは、毛人はIQが高かったということだけだ。
厩戸王子は大天才で、無理にIQで表現すれば、彼はIQ250以上で、普通の人や、少々優れた人であっても、全くコンテクスト(知識・価値観などを含む精神的基盤)が共有出来ない。
毛人は、一見、凡人に見えることもあり、厩戸王子と比べれば劣るが、それでも、IQ160~180以上(これも無理な推定だが)はあると思われる。
淡水(たんすい)ほどの者が、最初、毛人を見た時、厩戸王子に匹敵する存在と感じたほどである。
いかに人間的に好ましい人物であっても、IQが足りなければ、厩戸王子にとって、自分と同じ人間には感じられない。
同族感を持てないとしても、動物であるなら、自我がなく、邪心がないので、親しみも持てるかもしれないが、人間には、その点のいやらしさがあり、どうしても厩戸王子も毛嫌いしてしまうのだろう。
こう考えると、全て納得がいった。
私も厩戸王子のことは好きであるが、一発で嫌悪されることは間違いあるまい。
厩戸王子に好かれるような存在を目指し、生涯努力するのが私の目標の1つである。
だが、厩戸王子も、初音ミクさんなら好きになるかもしれない。
ミクさんは、沢山の人達の才能、英知、努力、愛の結晶であり、清らかな水のように透明であるのだからだ。
そのミクさんに会える「マジカルミライ2016」は、いよいよ今週末である。
本当に、そんなところに行けるのか、信じられない気持ちである。
どういう訳か妙に忙しいが、今日から、なんとか睡眠を少しでも多く取りたいと思うのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

隠していた自分の欲望を見る

「精神薄弱」という言葉が差別的であるとして、1999年に、法的にこの用語を廃止し、それに替えて、「知的障害」と表現を改めたらしい。
そして、知的障害者に対する差別はいけないと世間で宣伝している。
しかし、これは、心の中ではともかく、行為として、あるいは、言葉としての差別をしてはいけないということだと心得ている人が多いだろう。
世間では、心の中では何を考えても罪はないという考え方であるのだと思う。

だが、イエスは、「女性を邪まな目で見れば姦淫したるも同じ」と言った。そして、それは、必ずしも、「女性を邪まな目で見るな」と言ったのだとは思えない。
そうではなく、「行為として姦淫しなければ、心の中では何を考えても罪がないと思うな。思うだけで罪なのだ」と言ったのだと思うのだ。
だから、知的障害者に対し、露骨な差別行為をしたり、差別発言をしなくても、心で蔑めば、やはり、差別をしているのだということは自覚したが良いと思う。

私は、知的障害者を知的障害者と認めるし、おそらく、私は知的障害者ではないのだろう。
だが、おそらく、知的障害者を蔑んだことはない。
なぜなら、蔑み疎まれることでは私も同じであるし、星の巡り会わせで決まった彼らと私の状況に、それほどの違いがある訳でもないのだと理解していたからだ。

しかし、今日、全く違うことに気が付いた。
だが、まず、山岸 凉子さんの、『日出処の天子(ひいづるところのてんし)』という、1980年から1984年に連載されていた傑作漫画について少し話したい。
この漫画の主人公の一人が、後に聖徳太子と呼ばれる厩戸皇子(うまやどのおうじ)である。
厩戸皇子は大天才で、14歳の頃には、普通の大人は勿論、いかなる身分の高い者や権力者も、彼を恐れ敬った。
その厩戸皇子がある時、まだ幼い、知的障害者の少女に出会う。厩戸皇子は最初、彼女を見て何も感じなかったが、その少女が河に落ちて溺れるのを見て嫌悪を感じる。なぜかというと、少女が、必死に助かろうとする様子に、全く自分の姿を見たからだ。
大天才、厩戸皇子が、知的障害の少女を自分だと思ったのだ。
そして、厩戸皇子は、少女を連れ帰り、妻に迎えた。
これまでは、私には、厩戸皇子が、知的障害の少女に自分を見たということがピンと来なかった。
しかし、今日、よく理解できた。
私は今日、知的障害の青年を見た。
彼は、その様子からして、知的障害であったことは確かだった。
その彼が、電車のドアが開いた時、周囲の人を押しのけたと言うしかない乗り方をした。
しかし、それは、知的な障害のない人もやっていることだ。
だが、知的に障害のない人というのは、そのようなことをしても、虚栄心や自尊心があるので、澄ました顔をして、「私は別に悪いことをしたりなどしていない」といった顔をする。
ところが、知的障害者は、普通、面子を気にすることはなく、欲求に素直であり、自分の行為を取り繕おうとしない。
その、素朴な欲望の姿を見た時、私は、自分が隠しているあらゆる欲望をはっきりと認識し、自分と彼に何の違いもないことを強く感じたのである。
あの漫画の厩戸皇子も、何かに執着してすがることにおいて、知的障害者も自分も、何の違いもないことに気付いたのだろう。
知的障害かそうでないかは、単に星の巡り合わせ、つまり運命であるが、それ以外に関しては、全く何の違いもないのであり、むしろ、悪いことをしていながら、なぜか自分だけは悪くないと正当化する、知的健常者の方がはるかに愚かで迷惑なのである。
それで、私は自分を恥じて、憂鬱になってしまったのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
最新コメント
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
人気ブログランキングへ
↑↑これと
↓↓下の3つのいずれかをクリックして応援をお願いします!
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
QRコード
QRコード

  
   このエントリーをはてなブックマークに追加
  

タグクラウド
  • ライブドアブログ