年を取ると・・・と言っても、現代では二十歳を過ぎると、その危険が大きいのだが、心が硬化しやすくなる。
1つの価値観・・・つまり偏見にしがみつき、固定観念に縛られ、ものごとを一面的にしか観なくなれば・・・いや、そもそも、子供の時から、そうなってしまうように教育されたとしたら、人生は懲罰になり、世界は牢獄でしかない。
だからというのだろうか、世間の精神的な指導者達は、「通勤路をたまには変えなさい」とか、「毎日、同じ店で昼食を食べているようでは駄目だ(出来るだけ違う店で食べなさい)」などと言うが、そんなことは「何の足し(補い)にもならない」。
そんな表面的なこと、形式的なことでは、何も変わらない。
また、自分を聖人と妄想していたような人が、「週に一度はびっくり体験をしなさい」とか言っていたが、それも悪いことではないだろうが、そんな人達は、金を使って、「びっくりさせてくれる面白いもの」を一生懸命に探すようになってしまう。世界は、どこもここも、びっくりだらけだっていうのにね。
毎日、福音書を読んでいれば、時に、イエスの言葉が心の奥に飛び込んでくることがある。
しかし、それは、イエスが一方的に偉かったり、聖書に絶対的価値があるからではない。
あくまで、自分とイエス、自分と聖書の共同作業なのであり、結局のところ、自分の気持ちが大切なのである。
だから、我々は、うつむいていては駄目で(たまには良いが)、顔を上げて微笑まなければならない。
我々は、心を揺り動かし、自分の価値観を疑い、壊していかなければならない。
だが、マスコミやネットで、「賢い」とか「良いことを言う」と評判のある人気者達の言動を追いかけていたら、ますます、心は固く閉ざされ、老化してしまう。
彼らはIQが高くて話が上手く、「賢い」と思わせるコツを知っているだけだ。
それで、心を揺さぶる方法であるが、一言でいえば、「高貴であること」しかない。
それがなければ、何をどうやっても・・・どれほど凄い本を読もうが、仕事やボランティアに精を出そうが、どうしたって心は固くなる。
高貴である方法は無限にあるが、例えば、初音ミクさんを大切に思う人は高貴であると思う。
イエスを真摯に敬い、何も求めないが、彼の言葉の真意に深い関心を持っている人も高貴である。
分かり難ければ、心臓を大切にすることだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナは「私は心臓に住む」と言い、それを知らない少女が、「神様なら私達のここにいる」と言って、手で胸を押さえることがある。
脳や腸や腹が大切だと言う者達も多いが、誰も、「脳に恥じない」とか「腸に恥じない」などとは言わない。
しかし、「心臓に恥じない」なら成り立つのである。
私は一頃、デカルトの『方法序説』を愛読し、繰り返し読んでいたが、心臓について書かれた章は苦しくて読めなかった。
さぞ、心臓に恥じる生活、生き方をしていたのだろうし、今も読めるか怪しい。
(『方法序説』の心臓に関する記述は、今日の科学的、医学的な知識とはかなり異なるが、重要な部分もあると思う)
それで、最近、初音ミクさんの『心臓デモクラシー』を聴いて、はっとして悟ったのだ。
全く、私の人生って、この歌の通り、「恥を知り、惨めになる」ものだったが、象徴的に言えば、やはり、この歌の通り、「心臓が1つになる」ことで、束縛を抜け出せる。
心臓を大切にしなさい。
そこには神が宿っている。
胸の痛みを感じ、それに対し、静かに瞑想すれば、世界は変わる。
なぜなら、世界はやっぱり、心が創っているのだからだ。
心臓を感じることは、神を感じることで、宇宙を感じることだ。
だが、何より、心臓を大切にすることだ。
木枯し紋次郎が38歳くらいで心臓が弱っていたというのが、象徴的だ。
彼は高貴な人間であったが、心を閉ざし過ぎたので、心臓の活力が弱まったのだ。
小説とはいえ、優れた作家の深い洞察や鋭い直観は素晴らしいものだ。
彼が顔を上げて微笑むことは不可能だったが、我々が代わりにそうすれば良いのである。
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1つの価値観・・・つまり偏見にしがみつき、固定観念に縛られ、ものごとを一面的にしか観なくなれば・・・いや、そもそも、子供の時から、そうなってしまうように教育されたとしたら、人生は懲罰になり、世界は牢獄でしかない。
だからというのだろうか、世間の精神的な指導者達は、「通勤路をたまには変えなさい」とか、「毎日、同じ店で昼食を食べているようでは駄目だ(出来るだけ違う店で食べなさい)」などと言うが、そんなことは「何の足し(補い)にもならない」。
そんな表面的なこと、形式的なことでは、何も変わらない。
また、自分を聖人と妄想していたような人が、「週に一度はびっくり体験をしなさい」とか言っていたが、それも悪いことではないだろうが、そんな人達は、金を使って、「びっくりさせてくれる面白いもの」を一生懸命に探すようになってしまう。世界は、どこもここも、びっくりだらけだっていうのにね。
毎日、福音書を読んでいれば、時に、イエスの言葉が心の奥に飛び込んでくることがある。
しかし、それは、イエスが一方的に偉かったり、聖書に絶対的価値があるからではない。
あくまで、自分とイエス、自分と聖書の共同作業なのであり、結局のところ、自分の気持ちが大切なのである。
だから、我々は、うつむいていては駄目で(たまには良いが)、顔を上げて微笑まなければならない。
我々は、心を揺り動かし、自分の価値観を疑い、壊していかなければならない。
だが、マスコミやネットで、「賢い」とか「良いことを言う」と評判のある人気者達の言動を追いかけていたら、ますます、心は固く閉ざされ、老化してしまう。
彼らはIQが高くて話が上手く、「賢い」と思わせるコツを知っているだけだ。
それで、心を揺さぶる方法であるが、一言でいえば、「高貴であること」しかない。
それがなければ、何をどうやっても・・・どれほど凄い本を読もうが、仕事やボランティアに精を出そうが、どうしたって心は固くなる。
高貴である方法は無限にあるが、例えば、初音ミクさんを大切に思う人は高貴であると思う。
イエスを真摯に敬い、何も求めないが、彼の言葉の真意に深い関心を持っている人も高貴である。
分かり難ければ、心臓を大切にすることだ。
『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナは「私は心臓に住む」と言い、それを知らない少女が、「神様なら私達のここにいる」と言って、手で胸を押さえることがある。
脳や腸や腹が大切だと言う者達も多いが、誰も、「脳に恥じない」とか「腸に恥じない」などとは言わない。
しかし、「心臓に恥じない」なら成り立つのである。
私は一頃、デカルトの『方法序説』を愛読し、繰り返し読んでいたが、心臓について書かれた章は苦しくて読めなかった。
さぞ、心臓に恥じる生活、生き方をしていたのだろうし、今も読めるか怪しい。
(『方法序説』の心臓に関する記述は、今日の科学的、医学的な知識とはかなり異なるが、重要な部分もあると思う)
それで、最近、初音ミクさんの『心臓デモクラシー』を聴いて、はっとして悟ったのだ。
全く、私の人生って、この歌の通り、「恥を知り、惨めになる」ものだったが、象徴的に言えば、やはり、この歌の通り、「心臓が1つになる」ことで、束縛を抜け出せる。
心臓を大切にしなさい。
そこには神が宿っている。
胸の痛みを感じ、それに対し、静かに瞑想すれば、世界は変わる。
なぜなら、世界はやっぱり、心が創っているのだからだ。
心臓を感じることは、神を感じることで、宇宙を感じることだ。
だが、何より、心臓を大切にすることだ。
木枯し紋次郎が38歳くらいで心臓が弱っていたというのが、象徴的だ。
彼は高貴な人間であったが、心を閉ざし過ぎたので、心臓の活力が弱まったのだ。
小説とはいえ、優れた作家の深い洞察や鋭い直観は素晴らしいものだ。
彼が顔を上げて微笑むことは不可能だったが、我々が代わりにそうすれば良いのである。
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