ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

方丈記

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

威風堂々になる秘訣

他人から軽んじられる、言い換えれば、重く扱われないという悩みを持つ人は多いと思う。
長年、修行をすれば、自ずと風格や貫禄が出てくるので、簡単に言えば修行不足ということだろう。
だが、長い間、苦労に苦労をしてきて、それが修行になっていると思うのに、ちっとも敬われないということが多いものだ。

『武士道』の中で、只者ならぬ雰囲気のある町人が出てくるが、その町人は、別に特別な人間ではない。
ただ、子供の頃からの臆病癖をなんとかしたくて、毎日、夕刻に必ず墓場に行くのだそうだ。
これがヒントになると思う。
楽しいことや、楽に出来ることではなく、ちょっと億劫なこと、ちょっと気後れすることを、毎日、決まった時刻にやることだ。
あまりハードルが高いことでは長続きしないので、ちょっとシンドイ程度のことを選ばなければならないが、そのハードルが低過ぎるのも良くないのである。

つまりね、心が静かであればあるほど、丁重に扱われるのである。
心を静かにするには、毎日、心を躾けねばならない。
毎日の修行に対して、心は、「今日はやめよう」と訴えるが、「そうはいかない」と言って、断固実行する。
それを繰り返せば、心を支配出来るようになるのだ。

『方丈記』の著者、鴨長明は、山の中で長年修行したつもりだったが、全然駄目であることに気付き愕然とする。
当たり前だ。
彼は、心が喜ぶことばかりやっているのに、それを修行だと大誤解していたからだ。
良いことだが、やりたくないこと・・・これが修行なのだ。

食いしん坊が少食をするのは、大いに修行になる。
だから、ちょっと苦しいという範囲で食の慎みに励めば、心を支配出来る。
心を支配するということは、自分を支配するということで、それは、世界を支配することでもあるのだ。

私の場合、初音ミクさんの歌を聴くのは、この上ない楽しみだが、修行もしなければならない。
修行不足なので、心がすぐにグラグラし、威風堂々としていない。
心が、「今日はやめようよー」と甘えたがることを、「じゃかましやー!」と一喝して断固やる。
それを1年365日、出来るだけ決まった時刻にやれば良いのである。
古い言い方だと、「己に勝つ」ということだろう。









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日本の陰湿ないじめを生み出したのは武士道である

いじめというものは自然なものではなく、本来は存在しないものだ。
いじめを作り出したのは、人間の思考である。
ところで、いじめる者には当然、責任があるが、いじめられる側にもある。
いじめられる側の責任を問うのは抵抗もあるだろうが、暗い部分を残していては何も解決しない。

子供の世界で起こるいじめは、大人のいじめのコピー・・・模倣である。
いじめる子供というのは、親や教師の真似をしているに過ぎない。
そんな子供のいじめを、教師や親が解決できるはずがない。
こう言うと、「なるほどそうである」と、自分が立派な人間になろうとする教師や親がいる。
「妙に謙虚」で真面目ではあるかもしれないが馬鹿である。

新渡戸稲造の『武士道』に書かれていたと思うが、日本は江戸時代には太平の世になり戦も起こらないので、武士は、「領民を守る」という大義名分を失った。
それなのに、特権階級である武士は、働きもせずに食べていることに後ろめたさを感じ、「せめて立派な人間になろう」と思って武士道を発展させ、これが、西洋の宗教に匹敵する高い倫理や道徳を日本にもたらしたという。
「新渡戸よ、馬鹿も休み休み言え」である。
つまるところ、日本式の陰険ないじめを生み出したのは武士道である。
武士は、働かずに食べ、立派な屋敷に住むことに後ろめたさなど感じていなかった。
厚遇されればされるほど傲慢になるのが人間であり、武士はその最たるもので、ある時代以降、立場が弱くなった貴族よりよほどひどかった。
だが、武士が立派な人間になろうと考えていたのは確かかもしれない。
高慢な者は見栄っ張りというのもまた、人間の性だからだ。
後ろめたさはないが、自分達は立派な人間だから、農民を働かせて、その年貢を取り上げてたらふく食べて良いのだと思っていた。
その結果、当然にして、武士社会は腐敗した。
武士達が本来やるべきだったことは、自分達は、農民を搾取しているということをしっかりと見ることだった。
武士達は、そこから目を背けていたのだ。
だから、もうどうしようもなく腐敗したのだ。
武士とは腐敗の象徴である。
スポーツの世界で「サムライジャパン」などと言っているが、無知、無恥とは恐ろしいものであると思う。

教師や親も同じである。
子供達にいじめの指南をしているのは教師や親、あるいは、社会である。
かといって、教師や親が、武士のように、自分を見ずに、立派な人間になろうとしたら、ただ傲慢な見栄っ張りになるだけだ。だが、そんな教師や親も多い。
だから、子供の世界にも、高慢ちきな見栄っ張りが多い。
まさに、子供は親の鏡、生徒は教師の鏡だ。
教師や親は、自分の自己中心主義、傲慢、虚栄心、心の狭さ、特定の好き嫌いへのこだわり・・・といったものによく注意しなければならない。
強い理想主義者の教師や親が一番恐いのだ。
ヒットラーは燃えるような、誰にも負けない理想主義者だった。
理想主義が強いほど狭量である。自分の好きなもの以外は憎まずにはいられないからだ。
しかし、人間の持てる理想なんてものは、その正体は、単なる偏見なのである。

一方、いじめられる者というのは、心に垣根を持っているものだ。
自分だけの世界を持っていて、それに触れられたくない・・・その傾向は誰にでもあるが、いじめられる者はそれが強い。
いじめる者は、理想主義者であり、自分を立派と思う教師や親のコピーなのだから、そんな自分の理想や主義や趣味に合わない者を排除せずにはいられない。
これがいじめの主な原因である。
ただ、いじめられる側も、やはり理想主義者であることが、いじめられる原因なのである。
いじめは理想主義者同士の争いなのであるが、いじめられる側は、単に少数派であるというだけのことである。

教師や親は、自分をよく観察し、自分が持っている理想を分析しなければならない。
理想とは、単なる個人的好き嫌いであり、外見は綺麗かもしれないが、腐って悪臭を放つものである。
ただ、自分が、シャネルが好きだとか、ガンジーを崇拝するという、個人的好き嫌いでしかない理想や偏見に気付いたとして、それらを否定せよと言っているのではない。
そんな偏見を持っていることに気付くことが大切なのだ。
美空ひばりは世界一の歌手だと思っている自分の偏見に鋭く気付かないといけない。そのような思い込みを持っている親やその子供は、状況によって、いじめる側といじめられる側に分かれるのである。

日本人にとって、まずは、武士とは腐敗した、いじめ集団、テロ集団であったことを認識することが必要である。
農民に働かせて、働いた者以上にたらふく食べることが、凶悪ないじめでないはずはなく、上に命令されれば他人や自分を殺すことができるロボットがテロリストでないはずはない。
武士ではないが、『方丈記』の著者、鴨長明は、特権階級であること自体は平気であったが、他の特権階級の者たちの腐敗振りに耐えられなくなった。
自分のことは棚に上げてね。
それで自分だけは立派な人間になろうとする愚行をやってしまった。
それで、山に入り、質素な小屋に済み、自給自足の、独りよがりの清らかな生活をした。
当然ながら、ますます自己の腐敗が進み、ますます硬直した、狭い狭い人間になっていった。
しかし、何年かして不意に、自分の真の姿に気付き、絶望したのだ。
聖者の真似をして、修行したり、斎戒(心身を清めること)しても、自由にはなれない。
必要なことは、自分に気付き、自分に注意し、よく観察し、あるがままの自分を知ることだ。

日本式の陰険ないじめを作った武士について、よく認識すべきかもしれない。
だが、それには、嘘ばかりが書かれている書物を見ても無意味であろう。
我々日本人は、自分の中に武士道があることに気付くだろう。
狭い狭い理想という偏見を持った、自分の好みに合わない者を排除せずにはおかない、悪臭を放つ腐敗したもの・・・それが武士道である。









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人間は時と共に進歩するのではなく、堕落することを思い知れ

誰しも、年齢と共に、「自分は進歩した」と感じる。
しかし、それは誤解でしかないかもしれない。
「いや、幼い子供の時や、苦労知らずの学生の頃よりははるかに上だ」と言うかもしれないが、子供には子供の、若者には若者の良さがあり、トータルでいえば、確実に堕落しているのである。

プロ野球の監督は40~60代が多いが、彼らは優秀だから監督をやっているのではなく、優秀でなくなったから監督なのだ。
昔、監督だった長嶋茂雄さんに、「監督の采配が勝利をもたらすことはどのくらいありますか?」という質問がされた時、彼は、「それは全くないですね」と即答したそうだ。
だが、それは本当は言ってはならないことだったのだろう。世間では、真実を言うのはタブーだ。
彼は監督になったばかりの頃は、非常に優秀だったから、戦力の割に勝てなかった。しかし、やがて優秀さを隠すことを覚え、さらに、本当に優秀でなくなった時には、かなりの監督になった。
そうだ。監督というのは、「勝ちに影響を与える」ことはないが、「負けに影響を与える」のだ。
野球監督が本を出せばよく売れるらしいが、そんなものを読む馬鹿さ加減を知った方が良い。それらの本の表紙には、最も間抜けた男の顔が見えているはずなのであるが・・・

ジョー・ジラードという、史上最高の自動車セールスマンだった男が、最高の名言を残している。
「誰でも優秀なセールスマンとしてスタートするのだ」
彼と同じフルコミッション(完全歩合制)のセールスマンを2年やった私には、笑い崩れるほどの真理であることが分かるのである。
そして、ジラードも今は優秀でない。今の彼の本を読む時は、彼の今の主張ではなく、昔の残光を見るよう務めるべきである。
そして、それはセールスマンだけではない。
どんな仕事でも同じなのだ。
では、ピアニスト等の演奏家の場合はどうだろう?若くて未熟な時より、経験を積んで磨き上げられた時の方が良いはずである。
しかし、それも差し引きだ。芸術というのは、ステージの上だけの問題ではない。
練習を始めたばかりの、純粋に無心で弾いていた頃の演奏を、神は最も好むのである。自分の下手さ加減を嘆きつつ、それでも賢明に弾く姿が最上の芸術である。
また、政木和三さんのように、ほとんど完全に無になれれば、練習を一度もしたことがなくても、最高のピアノ演奏ができる。
ある画家が、やはり不意にシンセサイザー演奏をするようになったが(やはり練習をしたことはない)、私は、彼が演奏旅行をしていた時に逢ったことがある。私は彼に、「私もアーチストになりかたかった」と言ったら、彼は、「一瞬でなれますよ」と言ったのだった。

『方丈記』の著者鴨長明は、54歳までエリート文化人として過ごしたが、世間や自分がすっかり嫌になり、山の中の小屋で自給自足の慎ましい生活をして、聖者のような生き方を始めた。実際、彼は、自己の穢れを祓い、神仏に近付きたかったのに違いないと思う。
しかし、それから数年経ったある日、長明は、自分が以前と全く変わらない煩悩具足の凡夫であることを思い知って愕然とし、絶望する。
いや、実際は、以前の出世争いをしていた時より、はるかに堕落していたはずなのだ。

人間は年を取るほど、進歩ではなく退化するのである。
ただし、子供や若者が、「そうだ、俺たちは年寄り共よりずっと上なんだ」」と思えば、たちまち老人以下になる。そして、その後の堕落しかない運命を考えれば、彼らに居場所はない。

人間は研究者でなければならない。
いや、実際に研究者だ。
何を仕事にしているとしても、それは、自分の心を通して行っているのであり、ただ、心を研究しているだけである。
ならば、もっと、心の研究者であることを自覚し、時と共にそれが劣化していることに早く気付くことだ。
そして、全てを、自分の心を超えた見えない存在に委ねてしまえば、心の問題は何でもなくなる。
それに気付いた法然や親鸞の結論が、ただ念仏を唱えることであった。
上に述べた、絶望した鴨長明の口から不意に、自然に出てきたのも、「南無阿弥陀仏」の念仏であったのだ。

政木和三さんの最上の書の1つである『精神エネルギー』が、Amazonで比較的安価に多数出品されているのを見たので、下にご紹介しておく(普段は5千円以上が普通と思う)。良ければ入手をお薦めする。









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若者の愚行は全て大人の真似である

子供、あるいは、幼い若者の「困った行為」の流行が引きも切らない(絶え間なく起こる)。
暴力、迷惑行為、いじめ、援助交際、そして、最近では、ネットの悪乗り投稿である。
それらに対し、毒にも薬にもならないことを述べる者達がいるのだが、問題の本質はただ1つで、そういった若者のやることは全て「大人の真似」であるということだ。子供や幼稚な若者のオリジナルなど1つもない。全部、彼らが目にする「普通の大人」の真似なのである。
彼らは、幼い分、限度を知らないところがあるが、実質、普通の大人のやることと何ら変わらない。

ネットでの悪乗り投稿にしても、本質では、普通のテレビCMやネット広告と何の違いもない。
その性質は、うけさえすればいい、つまり、注目を集めさえすれば何をやってもいいということである。
ただ、企業の場合は、違法であることを小賢しく避けるだけのことだ。
ネットの悪乗り投稿が求めるのは、注目を集める実力を何も持たない者が、実力のある者と似たような注目を集めたいことである。
まあ、何の実力もない者として、気持ちは分からないでもない。
ただ、私は、過ぎたものを求めると持っているものも無くすということを知っているだけだ。

例えば、英会話学校を例にすると、英会話学校としての注目に値する実力が何もないに関わらず、「ウケを取って」CM効果を上げなければならないのである。しかし、違法なことはしてはならないという狡(ずる)さは持っている。
すると、どんなことをするだろうか?
昔、経営破綻した大手英会話スクールのテレビCMで、こんなものがあった。英語を話す西洋人が、多少、冗談めかしていたとはいえ、生死に関わる状況にあるところに、日本人の若い女性がやって来るが、「私、英語できないから」と言って、見殺しにして去る。
いかなる意味の冗談にせよ、こんなCMを作ることは、私には信じ難いことだが、別段、問題にされることはなかったと思う。つまり、これが、世間の普通の大人のやることなのだ。
だから、深刻なネットの悪乗り投稿を見たら、我々大人は、「私はこれと同じどんなことをしているのだろうか?」と問わなければならない。
「誰が」ではなく、「私が」である。
馬鹿なことをやった若者に対しても、その損害は、彼らが1日中バイトをして1年や2年で払い切れる額ではないのだが、きっちりと、それに相当する償いをさせなければならない。まあ、数年、タダ働きさせることだ。それで少しは幼さを脱却できるだろう。
だが、大人の責任はもっと大きい。
いじめをやっている子供にしろ、援助交際をしている女子学生にしろ、自分が悪いことをしているという認識はまるでない。なぜなら、大人が普通にやっていることを真似しているだけなのだからだ。そもそも、子供のいじめは、教師の真似であることが大半であるし、援助交際も、きっかけは、教師など高慢な大人の側からの働きかけであるはずだ。
だからといって、大人が道徳的になれとか、モラルを持てといったところで意味もないことだ。
我々は、愚かな行いをやめることはできない。それが現実だ。
子供や若者が馬鹿なことをやるのを見て、「ああ、これは俺の真似だなあ」と認識しなければならない。
それが認識できれば、「俺は所詮、煩悩具足の凡夫。やめることはできない。ああ、どうしよう?」と思うようになる。
少しでも知的であれば、自分に良いことなどできないことは分かるはずである。
それが、ようやく、自分の恥ずかしさが分かった段階である。
すると、せめて身を隠して、慎むことができるだろう。
口を開くたび、何かを行うたびに、自分は恥ずかしいことを言い、恥ずかしいことをするのだということが分かってきたのだ。
しかし、それでも、愚かなこと、浅ましいこと、恥ずかしいことをやってしまうのだ。

鴨長明の『方丈記』を読むことだ。
彼は、54歳にもなって、自分がこれまでやってきた世俗の活動に嫌気がさしてきた。ほんの少しは、自分の恥ずかしさが分かってきたのだろう。
そこで、山の中に小屋を作り、清らかな生活をして、聖人ぶって暮らした。
しかし、何年かそんなことをした後、ある朝、不意に気付く。
自分は、何にも変わっていない。相変わらず、煩悩に穢れた、浅ましく愚かな醜い人間だ。以前から1ミリも成長していない。
すると、絶望する彼の口から、突然、「南無阿弥陀仏」の念仏が出てきたのである。
しかし、書かれているのはそこまでだ。彼が何を知ったのかは分からない。
だが、法然の『選択本願念仏集』や、親鸞の弟子であった唯円の『歎異抄』を読めば、少しは分かると思う。
人間は自分の力では何もできない。自分より高い存在に頼ることによってのみ救われるのである。
そして、私が知る限り、恥ずかしくない言葉、恥ずかしくない行いは念仏だけである。だが、1日中恥ずかしいことをする世間の人は、念仏の方を恥ずかしいと思うのである。









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念仏の壮大なメカニズムの概要

エドガー・ケイシーという人は、9歳の時に自分専用の聖書を買ってもらい、毎朝決まった時間に必ず読み、14歳までに13回通読したという。さらに、その後も、その習慣を一生続けたという。だが、彼は晩年、そのことについて、何を思っただろう?
本当かどうか知らないのだが、有名な事業家で著作も多い斎藤一人さんは、中学生の時に論語を千回読んだとか、彼のお弟子さんが、ジョセフ・マーフィーの『眠りながら成功する』という本を千回読んだという話をどこかで見たことがある。
また、これは私も憧れたが、MRTクリニックの創始者で霊覚者の内海康満さんは、竹内満朋さんの『ローム太霊講和集』を10年以上かけて、綴じ糸も取れてボロボロになるまで読んだという。
彼らは、その時、何を思ったのだろう?

彼らと比べると極めて卑小ではあるが、私は、ある時期、神道の祝詞である「大祓詞」を、休日は6~7時間、仕事のある日も2時間唱え、2~3ヶ月の間に5000回唱えたことがあった。その結果、何を思ったかというと、「煩悩の穢れは一ミリも消えなかった」である。
『方丈記』で、鴨長明(かものちょうめい)は、54歳で立派な地位を捨て、山の中に小さな小屋を建てて自給自足の慎ましい生活をし、煩悩の穢れを祓おうとした。しかし、数年経ったある朝、自分が以前と全く変わらず、煩悩にまみれた凡夫のままであることに気付いて愕然とした。

エドガー・ケイシーや斎藤一人さん、内海康満さんらは違うのだろうか?
親鸞は、現代人では想像もつかないほどの学問を積み、厳しく長い修行をした後、全てを捨てて法然の門下に入り、念仏行に専念し、衆生の救済を願い、熱心に教えを説き続けた。しかし、88歳にもなった時、「がんばってきたけど、全然駄目だ。清浄な心など夢の夢。心は蛇蝎(だかつ。蛇とサソリ)、俺には何の成果もなかったぞ」といった意味の文を書いてる。
しかし、それが当たり前ではないだろうか?
親鸞でさえ、人間である限りはそうなのだ。
ただ、ケイシーや斎藤さん、内海さんのようなことをすれば(出来れば)、仙人的力は得られるかもしれない。しかし、そうであっても、境地としては親鸞と変わらないはずなのだ。

だが、自分の本性を思い知った鴨長明の口からは、自然に「南無阿弥陀仏」の念仏が三度出てきた。その後、どうなったかは長明は記していない。
阿弥陀如来は、もちろん、絵で描かれたようなものでも、伝説に伝えられているようなものでもないのだろうが、明らかに、実際に存在する。姿を見ようと思えば、その人なりに見られるだろう。
法然や親鸞は、それをはっきり見たのだろうと思う。それで、凡夫のままで安心立命できていたし、ある意味では、やはり超人だったと思う。
私も想像もしなかったが、念仏というのは面白いものだ。それは、喩えてみれば、とんでもなく進歩した宇宙人の使う、機械ともエネルギーとも言えない、ただ不可思議としかいえない壮大なシステムの起動プログラムだ。神話全般がそうであるのだが、ユングの言う集合的無意識の深奥にある何かと共鳴するもので、しかも、最も高度なシステムに通じている。
もちろん、言葉で言えるものではないが、絶えず念仏を唱えると、意外に早く見えてくる思う。ただ、そのシステムとの縁のある者しか念仏を、必要な回数唱えることはできないということもあるかもしれない。しかし、これを見るほどの人なら、縁はあるのだろうと思う。このあたりは、いずれ宇宙人に教えてもらえるかもしれないが、とりあえず、いい加減な概要を述べておく。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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