saraさんのコメントについて考えたいので、全文を引用させていただく。
ところで、これを機に、コメントに対する私の方針を述べておく。
まず、私への全くの私信と受け取って良いと思われるコメントは、悪意は無いが、公開しないことにしている。一行コメントも基本的に公開しない。
また、無記名の投稿、あるいは、「通りすがり」「名無し」といった名前での投稿は原則、見ないし、公開しない。一応はそれなりの名前であっても、自分のことを「俺」と称するようなコメントも同様である。
それから、時々、全く個人的な内容、例えば、自分のプロフィール等を延々と書かれる方もいる。自分のことしか考えられない可哀想な人と思いつつ、やはり公開しない。
そして、記事の趣旨と全く外れたコメント、曲解も過ぎると思われるものは公開しない。その判断は私が行う。独断もあるだろうが、そこはご容赦いただく。
Twitterではないのだから、何でも公開されると思わないでいただきたいと思う。
とはいえ、公開されないコメントは、せいぜが数パーセント以下であり、ありがたいことに、ほとんどが素晴らしいコメントであることは、非常に珍しいブログなのではあるまいかと思う。

【ご質問】
あること無いこと人の悪口を社長や部長に言いつけて、自分より先に出世した人は汚い手を使ってでも蹴落として、上っている女性がいます。
彼女にとって人は手段でしかなく、私も非もないのに今彼女の策略によって窮地に立たされています。
彼女は言っていました。「人の幸せなんか嫌い。みんな不幸になればいい」「この会社にいる人間みんな嫌い。好きなやつなんか一人もいない」
彼女は人の夫を奪ってその妻と子供を不幸のどん底に落とし、それを誰彼かまわず自慢げに言う、そういう人間です。それでも社長のお気に入りで上っています。
なぜそんな人間が得をするのでしょうか?

【ご質問への返答】
物質的で、一時的な利益という意味では、彼女は得をしていると言えるのだろうが、物質よりはるかに大きな精神的なもの、そして、はるかに長期なスパン(時間の幅)で考えれば、恐ろしい損失である。彼女は、おそらく、来世にまで及ぶ大変な苦痛を味わうだろうが、既に彼女が苦悩のどん底にあることは賭けても良いほどである。
ただ、「みんな嫌い」という彼女の気持ちは分からないでもない。私もそうだからである。だが、嫌いなのは、人間の自我であり、人間の本質ではない。私だって、自我の薄い人間であれば好きになるのである。そんな人間は、今は滅多にはいないが、少しはいるのである。そして、そんな自我の弱い人間であれば、彼女だって、心の奥では好きになると思う。ただ、彼女は、他人の自我を嫌悪することを避けることのできない、知恵と強さに欠けた人間であるのだ。それは、私も同様ということになる。
尚、自我が薄い、あるいは、弱いことは、意志や信念の弱さを表しているのではなく、全く反対で、自我の強い人は信念が無いのである。
彼女のような人はどこにでもおり、誰でも、状況や深刻さの違いはあっても、そんな人に被害を被っているのである。
私もそうである。そんな人には、私もかなり迷惑をかけられたもので、その時は憤懣やるかたない気持ちであったし、現実的にも被害があって深刻に困っていた。
大袈裟に言えば、丁度、『忠臣蔵』の吉良上野介に対する浅野内匠頭のような気分だった。
ところが、そんな時、斎藤一人さんの『変な人が書いた成功法則』という本を読んだのだが、その本の主題が、「困ったことなんか起こるはずがない」だった。
私は、困ったことが起こるはずがないことを理解し、納得したのだが、そうすると、本当に、ちっとも困らなくなった。

彼女のような人は、1人消えても、次々に現れる。
しかし、今は、「いくらでも来なさい。まとめて面倒見ちゃる」の心境である。
何といっても、それが宿命なら、真っ直ぐ胸張って受け止めるだけである。
これは、私の好きな歌である、『愛あるかぎり』の中の一節「真っ直ぐ胸張って、受け止めてやるさ、俺の宿命」が私のポリシーになっていることもある。
この歌は、アニメ『新破裏拳ポリマー』のエンデイング曲で、作詞は、昨年、創立50周年を迎えた、このアニメ作品の制作会社であるタツノコプロの当時の社長、九里一平氏による。
この歌は、演奏も一流で、ボーカルの杉山真理さんの中性的な美声が素晴らしい(いまだ、杉山さんが男か女か私は分からない)。
ちょっと話が剃れたが、絶えることなく現れるそのような人がいたら、今は念仏を唱えるだけである。
自分ではどうにもできないが、仏も菩薩も神も竜も、そして、魔王すら護ってくれるからである。
繰り返すが、そんな人は、不幸なことに、知恵と力に欠け、物質しか信じることができず、惨めな苦しい状態にあるのである。
そんな人を嫌うべき道理はなく、さりとて、自在に救ってやる力も無いのであるが、私が神になった暁には救ってやることもできるだろう。
スーフィー(イスラム教神秘主義)にこんなことわざがある。
「彼は神を探しに行って、神になって戻ってきた」
求めよ、さらば、与えられんという。聖霊を求めれば聖霊を得られるのであり、神を求めれば、神になるのである。









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