ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

新渡戸稲造

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

腕振り運動で超能力が高まったと言う理由

私は、毎日、数千回(直近の5日では平均9860回)の腕振り運動をやって、驚愕というのではないが、意外で興味深く思ったのが、自分が本当は、全くの無信仰・・・つまり、いかなる宗教も少しも信じていないことだった。
それが、純粋にして明晰・・・この上なく、はっきりしたのだが、これは、本当に面白いことだ。
仏教も、キリスト教も、神道も、私は信じていない。
かと言って、別に宗教が嫌いなわけでもなく、また、法然や親鸞や黒住宗忠らは、非常に優れた、しかも、善意の人であったとは思っているのだ。

さて、信仰がないとなると、新渡戸稲造がキリスト教徒の婦人に言われたように、「宗教なしで道徳を持てない」というのが、少しは気になるところである。
新渡戸は、「それなら(日本に宗教がないなら)、日本には武士道あり」として、英語で『武士道』を書いたが、私は日本人とはいえ、明らかに武士道も持っていない。
新渡戸の言う武士道は、私は、映画(原作は小説)の『鉄道屋(ぽっぽや)』(1999)みたいなものと思う。
とはいえ、私は、『鉄道員(ぽっぽや)』の映画を観てないし、小説も読んでいない。
だが、次の話だけで十分だ。
幌舞(ほろまい。北海道内)駅の駅長であった佐藤乙松(映画では高倉健が演じた)は、鉄道員一筋で、愚直に業務を行った。
乙松は、結婚後17年を経てようやく授かった生後2カ月の娘が死んだ日も、その直後に妻が死んだ日も、仕事から抜けられず、業務を全うし「異常なし」と言う。
なるほど、壮絶な話ではあるが、日本では、それほど特殊とは思えない(実際は世界でも)。
いかなる状況でも、冷静に責任を果たす・・・これが、新渡戸の言う武士道で、新渡戸は、『ぽっぽや』より、さらに数段、壮絶な話を事例にしている。だから、読むと疲れる(笑)。あんなもの、日本人の精神だと思われたら迷惑である(笑)。
ただ、新渡戸は、武士道は『葉隠』あたりから学んだと思うが、私は、『葉隠』は、もっと中庸な精神が描かれているのだと思う(私はあまり真面目に読んでいないが)。
しかし、三島由紀夫のような変人(笑)が『葉隠』の大ファンだったのだから、どこか変わったところがあるのかもしれない。

いずれにせよ、宗教も武士道も、良い面はあるが、悪い面もある。
アインシュタインは、自分が信仰する宗教(ユダヤ教)のために、量子力学が正しいことは分かっていながら、これを認めるわけにはいかなかったようなことを言っていたらしい。
それなら、彼は、極めて冷静で、宗教が自分に偏見を持たせたと理解しているところは凄い。しかし、それでも、その偏見を脱することは出来なかったのだ。
ところが、私は、日本人らしく、表向きは仏教(浄土真宗)、内的には神道を、少しは信仰していたはずだが、それがきれいさっぱり消えた。
アインシュタインも腕振り運動をすべきであった(笑)と、半分冗談だが、半分真面目にそう思う。
(いつも言うが、別に腕振り運動でなくても、延々反復するものなら何でも良い)

クリシュナムルティが「私は何も信じない」と言ったらしいが、彼は相当な宗教教育をされ、教団の教祖だったこともあったと思う。
では、彼も、宗教を信じなくなった出来事があったのだろうか?
少し興味はあるが、結果的にめでたく宗教から解放されたのなら、とりあえずそれで良いだろう(笑)。

とはいえ、私は、神は信じているが、もちろん、私が言う神は、いかなる宗教が言う神とも違う。
なぜ神を信じるのかというと、この世界が偶然で出来たと考えることには無理があり、何らかの強い意思の働きがあったことは確実だからだ。
スティーブン・ホーキングやレイ・カーツワイルらは、神は存在しないと言ったが、彼らが間違っているとは思っておらず、むしろ、私は、考え方としては、少なくとも、宗教よりは彼らに近い。

私が昔から、『荘子』を「超能力養成書」だと言ってきたのは、『荘子』は何か信仰や信念のようなものを得るための書ではなく、信仰や信念という名の偏見を壊すための書であるからで、人間は偏見・・・つまり、固定観念をなくすほど、ある意味、超能力者になる。もちろん、この「超能力」は、世間的な偏見に満ちた「超能力」とは異なる。
私は何も信じないと言っても、物理法則がほぼ正確に事象の経過を推測出来ることは知っているし、科学的には不明でも、ミルトン・エリクソンが知っていた精神の法則のようなものがあることも確かと思う。
ただ、ガモフが言うように、我々が知る物理法則が成り立たない世界も存在するのかもしれない。

つまり、腕振り運動のおかげで超能力が高まってきたかもしれない(笑)。
昨日の私の腕振り運動の回数は1万回だった。








武士道が大切になってきた

私は、武士道というものが好きではなかった。
武士道と言えば、新渡戸稲造(1862~1933)の『武士道』(原文は英語)と、江戸中期の書物『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」が有名と思う。
新渡戸が『武士道』をニューヨークで出版したきっかけは、アメリカに留学していた時、アメリカ人の女性に、「日本人は宗教を持たずに、どうやって子供に道徳を教えるのか?」と問われて困り、それなら、日本には宗教の代わりに武士道があるとして、この武士道を紹介するために英語で書いたのだったと思う。
しかし、そこに書かれているのは、日本人も知らない、高邁・難解な哲学や思想だった。

特に、新渡戸のというのではなく、『葉隠』も合わせ、武士道とは何だろう?
私は、最近まで、武士道とは、「武士の言い訳」程度に考えていた。
どういうことかというと、こういうことだ。
武士は特権階級で、働かなくても食べていける。
だが、戦争になった時には、領民を護るために命をかけて戦うのであるから、それも当然と言えた。
しかし、徳川の世になり、戦争など起こらなくなった。
だが、それでも、武士は働かず、のうのうと特権を謳歌している。
武士にも頭が付いている者がいたらしく、生まれながらの特権で遊んで暮らせることに後ろめたさを感じる者もいたようだ。
そこで、「せめて立派な、お手本になる人間になろう」と思って、「立派な人間とはこうである」という暇なことを考える人がいたが、その中にはなかなか頭の良い人もいて、そんな武士により、それなりに立派な武士道というものが出来上がったのだろう。その代表的なものが『葉隠』で、これは、佐賀藩士の山本常朝(やまもとつねとも)が口述したものである。

私は、「遊んで暮らせることが後ろめたいなら働けよ」と思い、あくまで特権を手放さない言い訳として考えられた武士道に批判的だった。
ところが、現代人には、武士のように、働かない者が増えてきた。
サラリーマンの多くは、毎日出勤していながら、大して働いていないし、中には、実質、ほとんど働いていない者もいる。
その代表が私だった。
確かに、良い会社とは、社員が働かなくても儲かる仕組みが出来た会社である。
しかし、その仕組みとは、賃金の安い工場労働者など、福沢諭吉の言う簡単な仕事とされる「力役(りきえき。肉体労働者)」に負っている。
さらに、ほとんど意識されないが、途上国の、子供を含めた貧しい人々の厳しい労働に、大いに依存しているのである。
我々が食べる美味しいチョコレートのために、貧しい国では、子供達が買われて親から離され、過酷な労働を強いられ、危険な仕事も多く、それで指を切断してしまっても、医者に診てもらえないなど普通である。
そういったことから考えると、特に、大手企業のサラリーマンや公務員等は、たまたま豊かな家に生まれたおかげで、良い大学を出て、楽に高い給料をもらっているのだから、武士と変わらない。
けれども、かつての武士のように、後ろめたさなどは持たず、もっと金や地位が欲しいという欲望だけで生きている。
だから、「立派な人間になろう」なんて考えは全くなく、そんなことを言ったら、「それ、何の役に立つの?」「コスパ、悪くね?」と言われることになるだろう。
たとえ、後ろめたさを感じても、自ら肉体労働者になることも出来ないのだから、せめて立派な人間になろうという、かつての一部の武士の心意気は良かったなあと思うのである。

自己啓発本を読むのは、かつての武士に匹敵するような身分の人が多いのだと思う。
ただし、立派な人になろうと思って自己啓発本を読むのではなく、引き寄せの法則などで、自分が豊かで幸せになるために読んでいる場合がほとんどと思う。
ところが、個人的な欲望のために自己啓発本を読んでも、成果が出ず、引き寄せも起こらない。
そして、気付くのである。
自己啓発本自体は、立派なものが多いが、それを読んで成果を出せるのは、「立派な人間」だけなのである。
それは事実である。
程度の低い人間が、いくら立派な自己啓発本や引き寄せの方法が書かれた本を読んでも、全く何も得られない。
もちろん、聖人君子になれと言うのではなく、どんな人間にも欠点はある。
しかし、自分に恥じないだけの立派な人間になろうと思わない限り、天や神や宇宙や潜在意識は味方をしてくれないことは確実である。
これには反発したい向きもあろうが、短期的にはともかく、その者の長期に渡る状況が示してくれているはずである。








なにごとも、ほどほどに

「過ぎたるは猶及ばざるが如し」は、論語にある言葉であるが、これと似たことを、徳川家康が遺訓の一つにしている。
それは、「及ばざるは過ぎたるより勝れり」である。
いずれも、「やり過ぎは良くない」という意味で、特に、家康は、「やり過ぎるよりは、足りない方がマシ」と言っているのだと思う。

新渡戸稲造が、何か行を1つ、必ず毎日やろうと思い、それを何にするか、よくよく考えた結果、水ごりと決めた。
毎朝、必ず、桶の水を頭から被るのである。
順調に続いていたが、極寒の冬の朝、新渡戸はひどい風邪をひき、かなり熱もあった。
しかし、新渡戸は、「決めたからには、何があっても断固やる」という鉄の意思で、その朝も決行したが、風邪が悪化し、医者に診てもらう際に事情を言うと、医者にひどく怒られた。当然である。
新渡戸が鉄の意思の持ち主ということは分かるが、やはり、ものには限度がある。
まあ、戦場など、どんな無理でもやるしかないこともあるだろうが、そういうことは少ない方が(出来れば無い方が)良く、少なくとも、好き好んで、そんな世界に近付いてはいけない。
ビジネスや政治は戦争ではなく、やり過ぎないよう、ルールを守るべきなのだ。
自然界では、雄が雌を取り合って戦う時も、決して相手に大怪我をさせることはない。下等と思われている生物でさえ、やり過ぎを避けているのである。

少食粗食は非常に良いことだが、やり過ぎはやはり良くないのである。
しかし、過激な少食粗食が称賛されることがある。
1日に青汁一杯しか食べないという人がいるが、その人自体は良いのかもしれないが、真似してはならない。
誰かが、その人をもてなそうと御馳走を出し、その人が食べたら、ショック死する可能性もあると思う。
私が、一頃、かなり極端な少食だったが、その時の名残で、長い間、極めて少ない種類の食べ物しか食べずにいたら、長く食べずにいた食物を食べたら、強いアレルギー症状を起こし、気を失いかけたことがある。大袈裟ではなく、命の危機を感じたほどだ。

『バガヴァッド・ギーター』にだって、特に少食を勧めてはおらず、「食べ過ぎるな」と書かれてあるに過ぎず、しかも、「少食過ぎるのも良くない」と書かれているのである。

「なにごとも、ほどほどに」
これが、孔子と徳川家康の共通の教えである。

私も、今年の8月31日の初音ミクさんのお誕生日から、毎日500回のスクワットを欠かさないと決め(他にも多くのトレーニングをしている)、ずっと続けていたが、昨日の初音ミクさんのライブの途中で体調不良に陥ったのは、「もっとほどほどに」という天の注意と思った。
ただ、真言やナーマスマラナ、念仏、アファーメーションなども、確かに、ほどほどでも良いのだが、ほどほどにも出来ない者が多いのである。
こういったことに関しては、多少の無理をするつもりでやっても良いと思う。
それで失うものはないが、報いは無限であるのだからだ。

※本日も、インテックス大阪での「マジカルミライ2021」に行くので、午後の分の更新はお休みする。








最低人間が救われる道

私は高校生の時、ゲーテが彼のどれかの詩で、「どんな立場の人間も、所詮は人格が一番大事だ」といった意味のことを書いているのを見て、完全に同意した鮮烈な思い出がある。
良い人生になるかどうかは所詮人格で決まる。
高い人格とは、人間性が磨かれて出来るもので、人間性を磨くには、少々、厳しい面もある。
ただし、「若い頃の苦労は買ってでもしろ」と言うように、確かに、苦労は人間性を磨き、人格を高めることが多いが、必ずしも、苦労が人格を高めるわけではない。

ところで、アニメや漫画では、中学生や高校生の男女が素晴らしい恋愛をする話が多い・・・いや、ほぼ全てがそうだと言えるだろう。
だが、素晴らしい恋愛には、ある程度の人格が必要なのである。
そして、アニメの主要な登場人物達は、欠点はあるにしても、よく考えたら、あの若さで信じられない人格を持っていることに、私は啞然とするのである。
(『カードキャプターさくら』の小学4年生のヒロイン、木之元桜は中身は50代以上と思っている)
素晴らしい容姿を持っている者は、恋愛がし易いかもしれないが、それが素晴らしい恋愛になるには、必ず、それなりの人格が必要なのである。
確かに、恋愛が人格を磨くという面もあるが、最初から、ある程度の人格がなければ、そもそもが、まともな恋愛にはならない。
中学生や高校生で、彼氏彼女がいて、それなりに幸福にやっている者というのは、人間的に大したやつらなのであることは疑いない。

ところが、20代はおろか、30代やそれ以上でも(老齢でも)、良い恋愛に足る人格を持っていない者が多い。
現在、未婚が多いことに対し、肯定的な解釈がされることも多くなったが、実際は、単に、恋愛に必要な人間性、即ち、人格がないだけなのだ。
その証拠に、未婚が高いに関わらず、離婚が多い。
人間性の低い者同士(片方の人間性だけが低い場合もあるかもしれないが)結婚しても、うまくいくはずがなく、離婚にいたるのは当然で、離婚しない場合には家庭が崩壊する。
家庭崩壊の原因も、単に、夫婦の人格の問題である。

人格は道徳に表れ、道徳は普通、伝統やしきたりの中で教えられるが、伝統やしきたりを効率的に教えられるのは宗教だ。
新渡戸稲造が『武士道』を書いたきっかけは、キリスト教徒の婦人が新渡戸に、「日本では宗教を教えずに、どうやって道徳を教えるのか?」と非難混じりに問うたからで、新渡戸は、日本には武士道ありと言いたかったのだろうが、はっきり言って無茶苦茶である。
武士道にも良い面、あるいは、非常に優れた面もあるだろう。
しかし、早い話が難し過ぎるし、それ以前に、曖昧過ぎる。これで道徳を教えるなど、スポーツ教育を竹馬競争に限定するようなものだ。
新渡戸稲造に、日本人が宗教教育をしないことを批判した婦人は、宗教が道徳教育になると考えているのだろうが、必ずしもそうではないだろう。
とはいえ、敬虔なキリスト教徒の家庭であれば、かなりの割合で、子供は必要な人格を備えることになるのではないかと思う。
少なくとも4割、ひょっとしたら、6~7割以上かもしれない(あくまで「敬虔な」キリスト教徒の家庭)。
今日、キリスト教圏の人々の人格が貧しく、離婚が多いのは、宗教が廃れたからという面もあると思う。
こう言うと、極端論者が「宗教を教えれば人格が良い人ばかりになるのですか?」などと馬鹿を言うかもしれないが、極端論もまた、人格の低さの現れなのである。

なぜ、人格の話を長々としたのかというと、人格が人生を決めることが確実だからだし、それはもう、周囲を見ても、世界を見てもだが、何より、自分を見れば痛いほど分かる(笑)。
人生がロクでもなかった原因は、人格が低いこと以外の何物でもなかったことは、純粋にして明白である。
そして、私のように人格が低ければ、所詮、何をやっても駄目で、人生は苦労続き、困難続き、落胆続き、不条理続きで、生命力を失い、やがて、地面に這いつくばるしかない。
キリスト教・・・というより、信仰者は少ないが、本来のユダヤ教は、人間性を磨くのに優れたものだったし、キリスト教も、まずまずなのであると思う。
日本では、ユダヤ教にとても良く似た神道(神道はユダヤ教が元になっているという説もある)が、やはり、人格を育てる良いものだった。
イスラム教も、本当のものはそうかもしれない。
一方で、仏教というのは、人格を得損なった哀れな人間の救済のためにあるのだと思える。
いや、正しくは、仏教も2通りあり、子供に人格を与えるというところも確かにあるが、今日の主流は欠陥人間救済である。
それで、本来は、浄土仏教(浄土宗、浄土真宗)の定番であった、念仏や、念仏的な真言が多くなってきたのである。
念仏、真言は、欠陥人間・・・そのままでは、人生の敗残者になる哀れな駄目人間を救うのである。
逆に言えば、念仏、真言、あるいは、それに類したものでしか、堕落した駄目人間を救えない。
念仏、真言に類したものとは、例えば、ナーマスマラナ(神仏の名を心で唱える行)や、聖句のようなアファーメーションである。
私がいつも述べているのは、欠陥人間救済法であり、人格が優れた人間・・・中学生や高校生の時に良い恋愛が出来た者には笑えるものだろう。
とはいえ、かつては人格高かった人間も、こちら側に来る場合が多く、きっとお役に立てるだろう。








日本人は幸福に近い

新渡戸稲造の『武士道』は、元々、英文で書かれたもので、日本語のものは翻訳されたものだ。
新渡戸は、明治時代に、アメリカやヨーロッパに留学し、アメリカ人の女性と結婚している。
『武士道』が書かれたきっかけは、私のうろ覚えであるが、アメリカのご婦人に、
「日本人は宗教を持たず、どうやって子供に道徳を教えるのか?」
と言われ、それで、新渡戸は、「日本には武士道あり」、つまり、武士道精神が道徳になっていると言いたくて、欧米人に読ませるために英語で『武士道』を書いた・・・そんな経緯だったと思う。
だが、これが本当なら無茶な話であると思う。
なぜなら、武士道は、あくまで武士のためのものであり、しかも、当時としても、もう昔の、しかも、一部の特権階級のためのものであり、それを一般の子供に教えるということはあり得ない。
そして、まさか武士道のおかげではないが、日本人は高い道徳性を持っていて、それは、宗教教育がしっかりしているはずの欧米人を驚かせることもあったほどだった。

日本人がなぜ高い道徳を持っているかについては、神道のためだという指摘もある。
神道は、キリスト教や仏教のように、あまり表には出て来ないが、空気のように自然に存在している宗教である。
空気のように普段は意識されないが、年始には神社にお参りに行ったり、七五三のお祝いをごく自然に行う。
ルドルフ・シュタイナーは、「良い教師は空気のようなもの」と言ったが、良い宗教も同じようなものなのかもしれない。
日本では一時、国家神道として、国家が国民を子供の時から洗脳するために利用されたが、それでも、一定は、神道の良い部分が伝わっていたかもしれない。

ところで、上に述べた、アメリカのご婦人が「日本人は宗教を持たず、どうやって子供に道徳を教えるのか?」の疑問に、私は以前は反発を感じていた。
宗教がなくても道徳は教えられるし、むしろ、宗教が道徳を歪めることが多いのではないかと思ったからだ。実際、世界には、そんな例もあるかもしれない。
しかし、やはり、宗教によって道徳を教えるのが、理想かどうかはともかく、その方が確実なのである。
また、そうでなければ、やはり、道徳を教えるのは難しい。
宗教がなければ、子供が道徳を理解するのが難しいという面と、大人が子供に道徳を教えようとする動機が起こらないという面があり、宗教がこれらを解決するのである。
よって、歪んだ宗教でなければ、あるいは、歪みの少ない宗教であれば、教えた方が良い面が多い。
ところが、神道は、「教えようとしないのに教えている」ことで、非常に理想的な宗教や道徳教育になったのではないかと思う。
人間が意図的にやることには、自我が作用し、それはいつもロクな結果を生まない。
しかし、神道にはそれがないのだからだ。

道徳が必要かというと、間違いなく必要である。
それは、社会のためにも当然必要だが、個人の幸福のためにも必要なのである。
そして、現代は、海外もそうかもしれないが、日本人は道徳心が非常に弱くなっている。
その結果、皆が不幸になっている。
道徳と言うかどうかはともかく、正しい精神性がなければ、正しく生きることが出来ず、自然や他の人々と調和出来ないと共に、人間本来の優れた能力を発揮出来ない。
闇の道徳とでも言える悪魔的な教義により、大きな力を持つこともあり、それで一時的には強者になっても、それは、悪魔に魂を売ることなのであるから、いずれ、悲惨な結果となるしかない。
それなら、良い宗教を持てば、自然や人々と調和していけると共に、生まれ持った能力を発揮し、さらには、神の助けも確かに得られる。
本来の日本人はそうであったのだと思う。
それは、神道だけのおかげであると言うのではなく、日本では長い年月をかけて仏教も取り込んでおり、神道とも融合させてきた。
だが、専門家の宗教の方が怪しくなっている。
幸い、宗教の正しい道理は、日本人のDNAの中に良い形で保管されているので、スイッチを入れるだけで良いのだと思う。
そのために、『古事記』を読んだり、仏教の庶民向けのお経を唱えるのは良いことだが、お経に関しては、専門家の悪い手垢がついてしまっているのが残念である。
だが、探せば良い情報があるし、シンプルに、念仏を上げるとか(南無阿弥陀仏だけでなく南無妙法蓮華経でも良い)、祝詞を上げるとか、仏・菩薩の真言を唱えるだけで良い。
それで、神や仏の援助も得られるシステムが、確実に存在すると、今では堂々言って良いのではと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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