ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

新世紀エヴァンゲリオン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

若い子には負けるわという自覚

1983年のアメリカのSFテレビドラマ『V(ヴィー)』にこんな場面があったと思う(大昔に一度見ただけでうろ覚えだが)。
地球侵略軍(ビジター)のトップであるダイアナ(女性。妙齢の美女)は、若い男性の部下ブライアンに、地球人の少女ロビンの映像を見せて言う。
「魅力的な娘だな?」
すると、ブライアンは、
「あなたほどではありません」
と答える。
すると、ダイアナはブライアンを厳しい顔で見据えながら、
「どうやら、お前は出世のコツを知っているようだ」
と言う。

何だか、良いシーンだと思うのだ。
ダイアナはもちろん、ちょっと年増としても、容貌はなかなかのもので、「普通」の範囲に入るロビンなどには遥かに優り、自分でも自信はあるのだろう。
しかし、森高千里さんの歌のように、「若い子には負けるわ」ってことも分かっている。
一方、ブライアンの方も、自分の能力には自信を持ちながらも、お世辞も言わずに出世できるほどではないという自覚があるのだ。
悪者とはいえ、身の程をわきまえている、立派な者達である。

一方、こんな者達もいる。
新約聖書の福音書の最後の晩餐で、イエスが、「お前達の1人が私を裏切る」と言うと、弟子達は、「それは私ではない」と言う。
そして、イエスがペテロに、「お前は、鶏が鳴く前に、私を3度拒む」と言うと、ペテロは、「私はそんなことは絶対にしません」と言う。
しかし、イエスが捕らえられた後、ペテロは周囲の者達に、「お前もイエスの仲間じゃないのか?」「そうだ、私もこいつが、イエスと一緒にいるのを見た」などと言われる度に、「私はイエスなど知らない」と言う。そして、3度目にイエスとは無関係だと言った後で鶏が鳴き、ペテロは悔恨の情にかられ、激しく泣く。
ペテロら、イエスの弟子達は、以前から、「私たちは全てを捨てて、あなた(イエス)に従ってきました」と、自分が清いことを満足そうに言っていた。
つまり、ペテロ達は、身の程知らずなのだ。
ペテロは、イエスを知らないと3度言って泣いた時、
「ああ、俺は所詮、この程度なのだ。とてもじゃないが、立派な人間とは言えない。最低だ」
と自覚し、自分を見限っていれば、本物への道が開けたのだ。
しかし、そうではなかった。
最も良いのは、
「俺は、裏切り者のユダと全く同じ値打ちしかない。俺はユダだ」
と、腹の底から思うことだったのだ。
そして、親鸞は、それが出来た人間だったから偉大だったのだ。
親鸞は、
「俺は煩悩だらけの浅ましい凡夫。自分では自分を救いようがない。阿弥陀様に救ってもらうしか道はない」
と、本当に自覚していたのである。

『新世紀エヴァンゲリオン』の最後の方で、病室で、意識のないアスカの病衣が乱れているのを見たシンジは興奮し、襲いはしなかったがマスターベーションでも始めたのだろう。
そして、シンジは絶頂に達した後、
「最低だ!」
と吐き捨てる。
そうだ。お前も我々も最低なのだ。
シンジや我々がそう自覚した時に道は開けるのだ。
そして、さらに幻想的なシーン。
海辺で、片目だけ出して顔に包帯をしたアスカが横たわっている。
シンジがその首を絞めるが、途中でやめ、崩れてアスカの横に寝転ぶ。
それを横目で見たアスカは、「気持ちわる」と軽蔑を込めた声でつぶやく。
ここまでやれば十分だ。
シンジよ、お前は全く気持ち悪い(若者言葉の「キモい」が似合う)のだ。
それを、本当に自覚し、自分が救いようのない愚か者だと徹底して理解すれば、本当に「おめでとう」だ。
そして、それは、見ている我々も同じなのだ。
まあ、監督の庵野秀明さんは、作品の意味について何も語っていないので、各自、好きにとれば良いのだが、私の見方はこうである。

自惚れ屋で身の程を知らないペテロ。
自惚れることが出来るほどの自分の価値が欲しいが、それを持てないことに苦しむシンジ。
自惚れなど、あらゆる煩悩を持っていることを自覚し、自分を見限った親鸞。
人間は生きている限り、ペテロやシンジであることは止められない。
親鸞にまでは、なかなかなれない。
それで言うと、最初に挙げた、ダイアナやブライアンは、人間としては(彼らは宇宙人だが)、なかなかのものであると思う。
我々は、「若い子には負けるわ」と、なかなか認めることはできない。
森高さんが、あの歌を作ったのは23歳くらいだったと思うが、既に、もっと若い子には負けると自覚していたのかもしれない。
もし、いつまでも美しくある秘訣があるとしたら、その類稀(たぐいまれ)な認識であるかもしれない。









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永遠の生命

漫画やアニメのヒーロー、ヒロインに共通する特質は、殺しても死なないというほどの生命力である。
『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジは、一見、悟り済ました弱々しい少年のようだが、いざとなった時の爆発力は、やっぱり漫画、アニメのヒーローに相応しい。
それは、20年もの間、日本中の多くの男性の理想のタイプの女性で有り続ける、綾波レイとなると、さらにそうで、普段は氷のように冷たいのに、内に秘めた神秘的な情熱が感じられ、そこがファンにはたまらないのだ。
『あしたのジョー』の矢吹丈は、最後、確かに死ぬが、普通の人間なら、とっくの昔に死ぬか、それ以前に、ボクサーとして駄目になっているはずなのに、世界王者のホセ・メンドーサと、当時の世界タイトル戦である15ラウンドを、激闘という言葉で言い表せない、ほとんど神秘的とも言える最後の生命力を燃やして戦い続け、そして、燃え尽きた。

ところが、古代から、聖者達は、全てを諦め、静寂になることを教えるが、それは、これら、漫画、アニメのヒーロー達には有り得ないことである。
だが、それは、漫画やアニメのヒーロー、ヒロイン達は、押し並べて若く、ほとんどが少年、少女で、その若い生命力が、少々の無駄や非効率も補ってしまうという面もあるのだろう。
『シティー・ハンター』のヒーロー、冴羽 りょうは、年齢不詳で、一時、かおりから、30歳と指定されたが、年齢以上に大人であると同時に、子供っぽさも丸ごと残しているようなキャラクターで、そのことが彼に、無限のエネルギーを与えているようだ。
だが、人間、いつまでも若くはない。
漫画、アニメのヒーロー、ヒロインのその後が語られることもあるが、大抵の場合は、普通のおじさん、おばさんになっていて、ヒーロー、ヒロインだった頃の影(おもかげの意)はない。
それを見て、ファンは、寂しく感じると共に、「そんなもの」という醒めた納得もするのだろう。

だが、抱朴子による、中国の神仙思想によれば、老子などの仙人は、静かであることで精力を温存し、それによって、永遠の、そして、無限の生命力を持つとされている。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、人間は、本来は永遠の青春を持つのであり、それは、老木に新芽が芽生えることに現れている。
枯れ葉も、新芽も、それを構成するのは同じ分子、原子、素粒子であり、全ては精神が決定する。
ヒマラヤの大師達は百数十歳を超えても50歳のように見えるだけでなく、その母親となると、美少女にしか見えない。また、800歳を超えて外見が少女である女性も登場する。
また、大師達は、老衰で死んだ者を、青年の姿で蘇らせたことがある(その蘇った者は、大師まであと一歩というレベルに達していたからという理由があり、誰彼となく、そうするのではない)。
今は、美魔女とかいって、40代、50代になっても若く見える女性がいるらしいが、実際はさほどでもなく、冷静に見れば、やっぱり、老けている。
そういったものと違い、神仙や大師達は、本当に、若い生命力に満ち溢れている。

人類の夢である永遠の若さを、人類はいつか得ることが出来るのだろうか?
科学技術の進歩でそれが実現するという説もあるが、その場合は、「それは本当は幸福なことではない」という意見が同時に出てくるものである。
つまり、こういうことだ。
超自然(スーパーネイチャー)ではなく、異常(アブノーマル)な手段で永遠の若さを実現したとしても、それは不自然なことであり、そこには悲惨しかなく、決して幸福にはなれないということなのだ。
ここで、超自然は、自然の延長であることにご注意願いたい。
それは、人類がまだ知らない、自然が秘めた潜在力の領域であるが、そういったものはいくらでも存在するのである。
よって、人類がスーパーネイチャーに相応しい精神的進歩を遂げれば、自然に、永遠の若さを得ることになる。
これは確実なことであるが、現代の人々の観念では理解し難い。
だから、「いえ、私はそうは思いません。なぜなら・・・」といった、個人的意見を言い出す人もいる。
だが、それは、セミに1年を説いても分からないように、小さなものには大きなもののことが分からないだけなのだ。
ましてや、自分だけ永遠に若くあろうとする卑しい心構えで、無限の生命力を得ることなどは出来ない。

ヒントは、漫画やアニメ、そして、それを見る人々の反応の中にもある。
それは、今はまだ、日本、欧米、アジアでかなり異なっている。
しかし、現代は、インターネットによって、世界が狭くなった・・・というのではないが、共感の連鎖は生まれ易くなっている。
共感の連鎖の象徴が初音ミクさんで、現代の世界、特に、ITの流れは、初音ミクさんを見れば分かるし、また、根本的なITの思想は、初音ミクさんを見なければ分からない。
羽生喜治さんのような特別な人は、ご自分の世界を探求することで、ITの本質を完全に理解しているが、それでも、初音ミクさんを見ると、より豊かに広がるはずだ。

永遠の生命の理念やノウハウすら、実はもう分かっている。
しかし、現代社会は障害が多いのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いたベアード.T.スポールディングすら、長命で、老齢になっても驚異的な活動を行ったとはいえ、やはり90代で亡くなっている。
ヒマラヤの大師達と違い、文明社会の中に身を置く限り、それは免れない。
だが、経済が、従来の限りある資源を奪い合うものから、創造経済に移りつつあり、社会も代わろうとしている。
永遠の生命が許容される時代がいつになるのかは分からないが、準備はしておくと良い。
でないと、救われない可能性もある。
ヨハネが黙示録で語ったのは、そのようなことであると思うのである。









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人類補完計画の切り札

自信に満ち、誇り高かった人が、しばらくしたら、卑屈で惨めったらしく変わってしまっている。
ツルゲーネフの『初恋』は、主人公の少年が慕っていた、太陽のごとく輝いていた年上の女性は、少年の父親を好きになって愚かな女に堕落した。
ビートルズの『ヘルプ!』では、「僕」は、子供の頃は自信があって、何でもできたが、今はすっかり駄目になって自信をなくしているという。
そして、そんなこと(自信をなくすこと)は多いだけでなく、自信のある者は、やがては皆、そうなるのだ。
逆に稀なことかもしれないが、以前は自信がなくて、誰かに尻尾を振ってばかりだった者が、今は力に満ち溢れて怖いものなしだ。

自信のあった子供も、現実を知った時にそれを失う。
人間は、身体が弱く、暑さ、寒さ、空腹、疲労に耐えられないのだ。
そして、人間は心が弱く、自我を揺さぶられると、恐怖が大きくなって、抗うことができない。
信仰、信念のある人間は、一見強いが、限度を超えた現実の困難が襲って来ると、たちまちうろたえ、どうにもならなくなる。

フロイトによれば、自我は幻想の上に立脚しているのだから、人間である限り「誰もが皆」弱いのだという。
これは面白い論である。
人間以外の動物は、根本的には恐怖を感じない。恐怖を感じているように見えても、それは単に、生命の危機に対処しようとしているだけだ。
人間と動物の違いは、次のようである。
動物は本能が完全なので、本能のプログラム通りに動ける。
一方、人間は、フロイトによれば、本能が壊れているので、それを補完するために、自我という幻想を作ったが、自我は自然に立脚しておらず、本能のように、単純で完璧なプログラムではなく、不完全なので、揺らいでばかりで安定しない。よって、自信が持てない。

『新世紀エヴァンゲリオン』で「人類補完計画」というものがあったが、これも、不完全な自我同士が補い合い、完全な1つの自我にしてしまおうというものだと考えれば、なかなか理に適っている。
しかし、人間は1つに融合するのが難しい。
エヴァンゲリオンの作者も、その方法までは思いつかなかったかもしれないが、着想は優れている。
綾波レイも、「絆」を求めて傷付いたのは、シンジと1つになる方法が分からなかったからだろう。

そして、今のところ、人間同士が融合する有力な方法が「共感」だということが分かっている。
それは何を見れば分かるかというと、色々あるのだが、初音ミクを見ていると分かることなのである。
初音ミクを、「オタクが好きなアニメキャラ」と見下している者には分からないことである。
だが、日本の力強い、新しいリーダー達は、本当に、皆、初音ミクが好きなのである。
それは不思議なことではなく、当然のことだと思う。
もちろん、初音ミクの表面的なものを見ている限りでは重要なことは分からないかもしれないが、直感を頼りに「何が起きているか」を感じれば、共感の力に速やかに触れることができるだろう。
岡本太郎が言ったように、感性というのは一瞬であり、一瞬にエネルギーを集めて火花を散らすと、感性が湧き上がり、全てが分かる。
初音ミク以外にも共感を感じるものもあるだろう。
例えば、インドの『ラーマーヤナ』は、単純な子供向けと思える物語である分、邪念なくその中に入り込めば、大きな1つの心に溶け込むことができる。

しかし、いずれにしても、想像力が必要だ。
神話や芸術や初音ミクは想像力を高めてくれる。
想像力は、適切なものを見つけると、自我を共感に導き、大きなものの中に溶け込ませてくれる。
個我であれば怖くて怯(ひる)むことも、大きな心と一体化していれば、あるいは、それに近ければ、何も恐れない、あるいは、さして恐れない。
これが原理である。
このような言い方で分かるだろうか?









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空想的な小説、現実的な漫画

漫画的な小説、映画と言う場合、それは、面白くはあるが、空想的で現実味がないという意味だ。
一方、現実的な漫画というものもある。
シェイクスピアの戯曲は、ありえない話という意味では空想的、漫画的であるはずなのに、非常に現実味がある。
映画のスターウォーズ・シリーズもそうである。

漫画や小説、映画が現実味があるかどうかは、ヒーローやヒロインが「自惚れ」というものを持っているかどうかで決まる。
「自惚れ」は、自意識過剰、自尊心、プライド、自己愛、高慢、身の程知らず・・・などといろいろな言い方があるが、「自惚れ」の一言が最も適切と思う。
ヒーローやヒロインに自惚れがないと、漫画的・・・つまり、空想的で現実味のないものになる。
アメリカの作家カート・ヴォネガットは、「シェイクスピアは下手な作家だが、人間をよく知っている」と述べたが、人間をよく知っているシェイクスピアは、ヒーロー、ヒロイン達に自惚れを持たせることを忘れなかったのだ。
もちろん、スターウォーズ・シリーズの、ルーク・スカイウォーカーやアナキン・スカイウォーカーらは、自惚れの固まりであるし、そもそも、ヨーダのようなジェダイ・マスター以外はみんなそうであるところが、この壮大な空想映画を、どこか生々しいものにしている。
全く漫画的な『古事記』や『ギリシャ神話』がひどく現実的なのも、神々が自惚れを持っているからなのだ。

ところで、ヒーローやヒロインらが自惚れを全く感じさせないのに、妙に現実味がある作品がある。
それは、小説だけでなく、漫画やアニメにすらある。
そんな作品は、社会現象を起こすほどヒットすることがある。
例えば、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジや綾波レイである。
『木枯し紋次郎』のヒーロー、木枯し紋次郎もそうである。
なぜ彼らが、自惚れが全くないのに、空想的でないかというと、彼らが、根本的に自己否定しているところだ。
つまり、自分の出生そのものを悪いことと考えているのである。
シンジは唯一の肉親である父親に全く愛されていないと信じているし、レイは自分がただの使い捨てであることを明晰に自覚している。
紋次郎は、生まれてすぐ、親によって殺されるはずが、たまたま生き延びたことを知っている。
彼らは皆、自分というものに、全く存在価値を認めていない、いや、認めることができない。
ところが、そんな人間の姿は、神と紙一重のようなところがあるのだ。
だから、人々は深いところでは彼らに憧れるのだ。
綾波レイといえば、まあ、可愛いとしても、同等に可愛いアニメのヒロインはいくらでもいるのに、彼女が国民的なヒロインである理由は、そんなところにある。
ところで、意外な感じもするが、初音ミクは綾波レイをモデルにしているという話があり、それは本当であると思う。
もし、レイがミクのモデルだという話が本当でないとしても、深いところで、レイとミクは同じなのだ。
ミクはアイドルを演じ、人間味を出すほど、逆に、自我がないことを露呈する(さらけだす)。
そのあたりは、レイ以上だ。
だからミクは世界中で愛されるのだ。

政治やビジネスは、普通の漫画のようであれば滅び、普通の小説のようであれば苦悶するが、自惚れがなければ、人々に存在を感じさせないまま成功する。

釈迦やイエスは、人間としての自己と、ブッダ、あるいは、キリストとしての自己を厳格に区別した上で、人間としての自己を否定し、ブッダ、キリストとしての自己を賞賛した。
そこらは普通の人には難しい。
紋次郎、レイ、ミクから入る方が分かり易いのだが、こちらは誤解をし易い。
だが、上に述べたことを知りつつ、彼らをよく観察すれば、真理を知る。
真理はあなたを無敵にして解放し、自由を得させる。









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自分を軽蔑する

アファーメーションとかいうものをご存知かもしれない。
「私は偉大だ」
「私は素晴らしい」
「私はできる」
「私は社長だ」
といった感じで、自分に対して力強く、肯定的な宣言をするのだそうだ。
これは、惨めで不幸になる確実な方法である。
やっているなら、すぐに止めることをお薦めしておく。

なぜ不幸になるのかというと、わざわざ、虚偽、欺瞞、幻想の牢獄の中に自分を閉じ込めてしまうことになるからだ。
では、なぜこんなことを教える者がよくいるのだろう?
全部ではないかもしれないが(単なる無知も多い)、意図的にやってるなら、自分の信者、崇拝者を作り、そんな者達から金を搾り取り続けようとしているのだろう。
人間は、心地よい妄想を与えてくれる者にひれ伏すものだからだ。
このことを悪用して、悪い商売をしないように。
そんなことをする者もまた、例外なく、どん底に落ちているのだから。

これが究極とは言わないが、それと正反対の効果を上げる方法はこうだ。
あの聖ベルナデッタは、いつもこう言っていた。
「私は役立たずです」
他にも、
「俺は駄目だ」
「私は最低だ」
「僕があの子に相応しいはずがない」
「私の能力では全く話にならない」
「私なら首で当然だ」
「絶対に私が負けるだろう」
とかが良いだろう。

私が成功法則としては、世間にあるものの中では最上と思う、五島勉さんの『ノストラダムスの超法則 死活の書』にも、そんなことが書かれていた。
本の推薦者は、全盛時の竹村健一さんと舛添要一さんだ。
では、そんな言い方がなぜ良いのだろう?
五島さんも、そこらは書いていなかったと思う。
いや、神秘的には書いていたが・・・
しかし、もっと現実的に言うなら、そんなふうに自分を軽蔑すると、自分を見ることができるのだ。
だって、我々は最低だから。
あなただって、本心では、自分は駄目だと感じているから道を探しているはずだ。
だが、人間は、自分はなかなかのものだという自惚れを持っていて、自分をちゃんと見ることができない。
そこで、「俺は最低だ」と断言すれば、幻想が剥がれて自分を見ることができる。
自分を見さえすれば、自分の中にある光に気付く。初めはほんの少しだ。しかし、それで、初めて正しい道を進み始めるのだ。

『新世紀エヴァンゲリオン』のアニメで、こんなとんでもない場面があった。
病院で意識がなく眠っている14歳の美少女アスカの衣服が乱れ、興奮したシンジが、その場でマスターベーションをした直後のセリフが良かった。
それは勿論、「(僕は)最低だ!」である。
その通り、とんでもない最低男だ。
薄汚い下種野郎!
情けないにもほどがある。
しかし、あそこでシンジが、「誰も見ていない」と思って自分から逃げたり、「これくらい普通だ」と自分を誤魔化さずに、「最低だ」と正しい認識をしたことだけは救いだった。
それによって、彼は自分の真の姿をちゃんと見たからだ。
彼は幻想を壊し、やがて、光を見つけるだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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