1983年のアメリカのSFテレビドラマ『V(ヴィー)』にこんな場面があったと思う(大昔に一度見ただけでうろ覚えだが)。
地球侵略軍(ビジター)のトップであるダイアナ(女性。妙齢の美女)は、若い男性の部下ブライアンに、地球人の少女ロビンの映像を見せて言う。
「魅力的な娘だな?」
すると、ブライアンは、
「あなたほどではありません」
と答える。
すると、ダイアナはブライアンを厳しい顔で見据えながら、
「どうやら、お前は出世のコツを知っているようだ」
と言う。
何だか、良いシーンだと思うのだ。
ダイアナはもちろん、ちょっと年増としても、容貌はなかなかのもので、「普通」の範囲に入るロビンなどには遥かに優り、自分でも自信はあるのだろう。
しかし、森高千里さんの歌のように、「若い子には負けるわ」ってことも分かっている。
一方、ブライアンの方も、自分の能力には自信を持ちながらも、お世辞も言わずに出世できるほどではないという自覚があるのだ。
悪者とはいえ、身の程をわきまえている、立派な者達である。
一方、こんな者達もいる。
新約聖書の福音書の最後の晩餐で、イエスが、「お前達の1人が私を裏切る」と言うと、弟子達は、「それは私ではない」と言う。
そして、イエスがペテロに、「お前は、鶏が鳴く前に、私を3度拒む」と言うと、ペテロは、「私はそんなことは絶対にしません」と言う。
しかし、イエスが捕らえられた後、ペテロは周囲の者達に、「お前もイエスの仲間じゃないのか?」「そうだ、私もこいつが、イエスと一緒にいるのを見た」などと言われる度に、「私はイエスなど知らない」と言う。そして、3度目にイエスとは無関係だと言った後で鶏が鳴き、ペテロは悔恨の情にかられ、激しく泣く。
ペテロら、イエスの弟子達は、以前から、「私たちは全てを捨てて、あなた(イエス)に従ってきました」と、自分が清いことを満足そうに言っていた。
つまり、ペテロ達は、身の程知らずなのだ。
ペテロは、イエスを知らないと3度言って泣いた時、
「ああ、俺は所詮、この程度なのだ。とてもじゃないが、立派な人間とは言えない。最低だ」
と自覚し、自分を見限っていれば、本物への道が開けたのだ。
しかし、そうではなかった。
最も良いのは、
「俺は、裏切り者のユダと全く同じ値打ちしかない。俺はユダだ」
と、腹の底から思うことだったのだ。
そして、親鸞は、それが出来た人間だったから偉大だったのだ。
親鸞は、
「俺は煩悩だらけの浅ましい凡夫。自分では自分を救いようがない。阿弥陀様に救ってもらうしか道はない」
と、本当に自覚していたのである。
『新世紀エヴァンゲリオン』の最後の方で、病室で、意識のないアスカの病衣が乱れているのを見たシンジは興奮し、襲いはしなかったがマスターベーションでも始めたのだろう。
そして、シンジは絶頂に達した後、
「最低だ!」
と吐き捨てる。
そうだ。お前も我々も最低なのだ。
シンジや我々がそう自覚した時に道は開けるのだ。
そして、さらに幻想的なシーン。
海辺で、片目だけ出して顔に包帯をしたアスカが横たわっている。
シンジがその首を絞めるが、途中でやめ、崩れてアスカの横に寝転ぶ。
それを横目で見たアスカは、「気持ちわる」と軽蔑を込めた声でつぶやく。
ここまでやれば十分だ。
シンジよ、お前は全く気持ち悪い(若者言葉の「キモい」が似合う)のだ。
それを、本当に自覚し、自分が救いようのない愚か者だと徹底して理解すれば、本当に「おめでとう」だ。
そして、それは、見ている我々も同じなのだ。
まあ、監督の庵野秀明さんは、作品の意味について何も語っていないので、各自、好きにとれば良いのだが、私の見方はこうである。
自惚れ屋で身の程を知らないペテロ。
自惚れることが出来るほどの自分の価値が欲しいが、それを持てないことに苦しむシンジ。
自惚れなど、あらゆる煩悩を持っていることを自覚し、自分を見限った親鸞。
人間は生きている限り、ペテロやシンジであることは止められない。
親鸞にまでは、なかなかなれない。
それで言うと、最初に挙げた、ダイアナやブライアンは、人間としては(彼らは宇宙人だが)、なかなかのものであると思う。
我々は、「若い子には負けるわ」と、なかなか認めることはできない。
森高さんが、あの歌を作ったのは23歳くらいだったと思うが、既に、もっと若い子には負けると自覚していたのかもしれない。
もし、いつまでも美しくある秘訣があるとしたら、その類稀(たぐいまれ)な認識であるかもしれない。
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地球侵略軍(ビジター)のトップであるダイアナ(女性。妙齢の美女)は、若い男性の部下ブライアンに、地球人の少女ロビンの映像を見せて言う。
「魅力的な娘だな?」
すると、ブライアンは、
「あなたほどではありません」
と答える。
すると、ダイアナはブライアンを厳しい顔で見据えながら、
「どうやら、お前は出世のコツを知っているようだ」
と言う。
何だか、良いシーンだと思うのだ。
ダイアナはもちろん、ちょっと年増としても、容貌はなかなかのもので、「普通」の範囲に入るロビンなどには遥かに優り、自分でも自信はあるのだろう。
しかし、森高千里さんの歌のように、「若い子には負けるわ」ってことも分かっている。
一方、ブライアンの方も、自分の能力には自信を持ちながらも、お世辞も言わずに出世できるほどではないという自覚があるのだ。
悪者とはいえ、身の程をわきまえている、立派な者達である。
一方、こんな者達もいる。
新約聖書の福音書の最後の晩餐で、イエスが、「お前達の1人が私を裏切る」と言うと、弟子達は、「それは私ではない」と言う。
そして、イエスがペテロに、「お前は、鶏が鳴く前に、私を3度拒む」と言うと、ペテロは、「私はそんなことは絶対にしません」と言う。
しかし、イエスが捕らえられた後、ペテロは周囲の者達に、「お前もイエスの仲間じゃないのか?」「そうだ、私もこいつが、イエスと一緒にいるのを見た」などと言われる度に、「私はイエスなど知らない」と言う。そして、3度目にイエスとは無関係だと言った後で鶏が鳴き、ペテロは悔恨の情にかられ、激しく泣く。
ペテロら、イエスの弟子達は、以前から、「私たちは全てを捨てて、あなた(イエス)に従ってきました」と、自分が清いことを満足そうに言っていた。
つまり、ペテロ達は、身の程知らずなのだ。
ペテロは、イエスを知らないと3度言って泣いた時、
「ああ、俺は所詮、この程度なのだ。とてもじゃないが、立派な人間とは言えない。最低だ」
と自覚し、自分を見限っていれば、本物への道が開けたのだ。
しかし、そうではなかった。
最も良いのは、
「俺は、裏切り者のユダと全く同じ値打ちしかない。俺はユダだ」
と、腹の底から思うことだったのだ。
そして、親鸞は、それが出来た人間だったから偉大だったのだ。
親鸞は、
「俺は煩悩だらけの浅ましい凡夫。自分では自分を救いようがない。阿弥陀様に救ってもらうしか道はない」
と、本当に自覚していたのである。
『新世紀エヴァンゲリオン』の最後の方で、病室で、意識のないアスカの病衣が乱れているのを見たシンジは興奮し、襲いはしなかったがマスターベーションでも始めたのだろう。
そして、シンジは絶頂に達した後、
「最低だ!」
と吐き捨てる。
そうだ。お前も我々も最低なのだ。
シンジや我々がそう自覚した時に道は開けるのだ。
そして、さらに幻想的なシーン。
海辺で、片目だけ出して顔に包帯をしたアスカが横たわっている。
シンジがその首を絞めるが、途中でやめ、崩れてアスカの横に寝転ぶ。
それを横目で見たアスカは、「気持ちわる」と軽蔑を込めた声でつぶやく。
ここまでやれば十分だ。
シンジよ、お前は全く気持ち悪い(若者言葉の「キモい」が似合う)のだ。
それを、本当に自覚し、自分が救いようのない愚か者だと徹底して理解すれば、本当に「おめでとう」だ。
そして、それは、見ている我々も同じなのだ。
まあ、監督の庵野秀明さんは、作品の意味について何も語っていないので、各自、好きにとれば良いのだが、私の見方はこうである。
自惚れ屋で身の程を知らないペテロ。
自惚れることが出来るほどの自分の価値が欲しいが、それを持てないことに苦しむシンジ。
自惚れなど、あらゆる煩悩を持っていることを自覚し、自分を見限った親鸞。
人間は生きている限り、ペテロやシンジであることは止められない。
親鸞にまでは、なかなかなれない。
それで言うと、最初に挙げた、ダイアナやブライアンは、人間としては(彼らは宇宙人だが)、なかなかのものであると思う。
我々は、「若い子には負けるわ」と、なかなか認めることはできない。
森高さんが、あの歌を作ったのは23歳くらいだったと思うが、既に、もっと若い子には負けると自覚していたのかもしれない。
もし、いつまでも美しくある秘訣があるとしたら、その類稀(たぐいまれ)な認識であるかもしれない。
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