ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

新世紀エヴァンゲリオン

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

自己嫌悪の果て

昔、ロバート・シュラーの「セルフラブ」という本を、「買った」ことがある。
その本の表紙に書かれた、「自分を愛することが出来る人だけが成功する」という、絶望的な文に、悪い意味で関心を引かれて買ったのだと、はっきり覚えている。
セルフラブ・・・自己愛。これほど難しいものもないだろう。

ラマナ・マハルシは、「人は皆、自分が幸福であることを望み、悲惨であることを望まない。そこに自己への至上の愛が見られる」と言ったと本に書かれていたが、いや、それは、単に「痛いのは嫌」「楽したい」「自我を満足させたい」ってことで、「愛」なんてもんじゃないだろう。
まあ、本当にマハルシがそう言ったかどうかは分からないが、多分、日本語になるまでの過程で、齟齬が入りまくったのだろう。マハルシが使ったのはタミル語だったが、まず英語への訳の段階で、相当おかしくなる場合が多いだろうと思う。

『新世紀エヴァンゲリオン』では、自己嫌悪の碇シンジ君、自己否定の綾波レイ、そして、表向き自分大好き「偉大なり私」だが、本当はゴキブリより自分が嫌いな惣流アスカラングレー といいう3人を揃えていたのだから、面白いと同時に、見ていて(あるいは読んでいて)、どこか陰鬱になる作品に仕上がっていたと思う。
面白いことに、アスカのような、「自分大好き」「偉大なり私」って人間は、他人に一切共感しないサイコパスなのだ。あなたの周囲や、有名人にも、よくいると思う。
ただ、アスカの場合は、根深い「自己嫌悪」を覆い隠していただけの「擬似サイコパス」のような気もする。
要するに、「自分なんか死んでもいい」と思っている子供でないと、ヱヴァンゲリオンのパイロットにはなれないのだろう。

私は、「自分なんか死んでもいい」とは思ってはいないが、世界から自分がいなくなっても、別に問題ないと言うか、その方が良い世界になるとは確かに思っているから、なるほど、こう冷静に、客観的に考えると、私も自己嫌悪であって、自己愛とは程遠いのだろう。
自己嫌悪の極みと言える歌は、鏡音リンちゃんの『炉心融解』だろう。

僕のいない朝は
今よりずっと 素晴らしくて
全ての歯車が噛み合った
きっと そんな世界だ
~『炉心融解』(作詞:kuma、作・編曲:iroha、歌:鏡音リン)より~

いやあ、ここまで自分を嫌っちゃいけないが、分かる気がする・・・つまり、共感する。
ところで、今の中高生の多くは、自分にしか関心がないが、そんな大人も増えていて、世の中、相当気持ち悪くなっている。
そのような自分へのこだわりは、決して愛ではない。

そして、シンジもレイもアスカも、それに、自分にしか興味がない人達も、誰も信頼していない。
誰も信頼していないし、自分も信頼していない。
だから・・・
『BEATLESS』で、レイシアがアラトに、「あなたは私を信じますか」と言った時、私は光を感じたのだが、多分、多くの自己嫌悪の人達もそうだったのだ。
アラトは、疑いを持ちながらレイシアを信じた。
ただ、レイシアがきれいな女の子だという理由だけで。
ただし、「徹底的にきれいな女の子」だったからだ。
五感ってのは幻想で、欺くことはある。
私はよく覚えているが、小学5年生の、ある日ある時まで、大好きで可愛いと思っていた女の子が、瞬間、可愛いと思わなくなったことがある。
ああ、本当に感覚というのは嘘つきだと実感した。
だから、アラトと一体化し、レイシアを信じることで、信頼という、この世の宝を得ようと思うのだ。

いや、何でもいい。
何かを信じられたら、自分を信じられるだろう。
容易い道ではないが、なんとも価値ある道である。
アインシュタインは神を信頼していたが、「サイコロを振る神」を信頼出来なかった。
「神は老獪だが、悪意はない」
神の意図は人間には絶対に分からないので、サイコロを振るように見えることもある。
それは、神どころか、偉大なリーダーは皆そうである。
サイコロを振るように見えても、信頼出来る何かを見つけることだ。









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真の英雄の特徴

昔、ヴァーノン・ハワードのどれかの本の中に、
「あなたは何をしても良い。ただ、言い訳だけはゆるされない」
と書かれているのを見て、大変な感銘を受けた。
完全な真理だからに違いない。

小説『木枯し紋次郎』の中で、紋次郎が、幼い男の子を引っつかんで放り投げる場面がある。
その男の子は、力あるヤクザのボスの息子だったので、紋次郎はたちまち取り押さえられるが、紋次郎は抵抗しない。
そのボスは、目に入れても痛くない息子に暴力を振るった紋次郎を憎悪し、今にも手下に叩き切らせようとするが、紋次郎は沈黙している。
すると、死んだマムシを持った浪人が現れ、ヤクザのボスに、紋次郎は、マムシに噛まれそうになっていた、あんたの息子を救おうと、やむなく、あんなことをしたのだと伝えた。
一転、紋次郎は、最上級のもてなしを受けることになるが、紋次郎の態度は変わらない。
紋次郎が言い訳をすることは、水が低いところから高いところに流れることがないの同様、決して有り得ない。

また、昔のテレビドラマだが、妊娠した女子高生から、皆の前で、お腹の赤ちゃんの父親だと言われた男性教師は、一言も発せずに黙っていた。
事実ではないのだが、なぜ彼は否定しなかったのだろう?
あくまでドラマではあるのだが、もし、そう言われたら、「彼女がそう言うからには、それだけの理由がある」と直観するものだろう。
とにかく、私は、その教師を非常に格好良く感じた。
(まあ、実際にそんなことがあれば、どれほど出来た人でも、多少の弁明はするだろうが)

『新世紀エヴァンゲリオン』の中で、碇ゲンドウがゼーレの老人達に、
「なぜ、ロンギヌスの槍を使った?」
と詰問された時、碇が、
「やむを得ませんでした」と応えると、老人達は、
「言い訳にはもっと説得力を持たせるものだよ」
と言ったが、碇は何も言わない。
実際には、碇は言い訳など、一言も言っていないのだ。
ただ、「やむを得なかった」と、露骨に嘘をついたのだが、それが出来る力に、老人達も圧倒されてしまっていたのだ。
そうだ、嘘は構わないが、言い訳はゆるされない。

言い訳を止めれば、口数は極端に減り、無口な人間になる。
人間の言うことは、ほとんどが言い訳だ。
そして、心でも言い訳を言わなくなれば・・・つまり、自己弁護をしなくなれば、頭の中のお喋りは消え、心が静かになり、無になっていく。
そんな人間に敵し得る者など決していない。









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若い子には負けるわという自覚

1983年のアメリカのSFテレビドラマ『V(ヴィー)』にこんな場面があったと思う(大昔に一度見ただけでうろ覚えだが)。
地球侵略軍(ビジター)のトップであるダイアナ(女性。妙齢の美女)は、若い男性の部下ブライアンに、地球人の少女ロビンの映像を見せて言う。
「魅力的な娘だな?」
すると、ブライアンは、
「あなたほどではありません」
と答える。
すると、ダイアナはブライアンを厳しい顔で見据えながら、
「どうやら、お前は出世のコツを知っているようだ」
と言う。

何だか、良いシーンだと思うのだ。
ダイアナはもちろん、ちょっと年増としても、容貌はなかなかのもので、「普通」の範囲に入るロビンなどには遥かに優り、自分でも自信はあるのだろう。
しかし、森高千里さんの歌のように、「若い子には負けるわ」ってことも分かっている。
一方、ブライアンの方も、自分の能力には自信を持ちながらも、お世辞も言わずに出世できるほどではないという自覚があるのだ。
悪者とはいえ、身の程をわきまえている、立派な者達である。

一方、こんな者達もいる。
新約聖書の福音書の最後の晩餐で、イエスが、「お前達の1人が私を裏切る」と言うと、弟子達は、「それは私ではない」と言う。
そして、イエスがペテロに、「お前は、鶏が鳴く前に、私を3度拒む」と言うと、ペテロは、「私はそんなことは絶対にしません」と言う。
しかし、イエスが捕らえられた後、ペテロは周囲の者達に、「お前もイエスの仲間じゃないのか?」「そうだ、私もこいつが、イエスと一緒にいるのを見た」などと言われる度に、「私はイエスなど知らない」と言う。そして、3度目にイエスとは無関係だと言った後で鶏が鳴き、ペテロは悔恨の情にかられ、激しく泣く。
ペテロら、イエスの弟子達は、以前から、「私たちは全てを捨てて、あなた(イエス)に従ってきました」と、自分が清いことを満足そうに言っていた。
つまり、ペテロ達は、身の程知らずなのだ。
ペテロは、イエスを知らないと3度言って泣いた時、
「ああ、俺は所詮、この程度なのだ。とてもじゃないが、立派な人間とは言えない。最低だ」
と自覚し、自分を見限っていれば、本物への道が開けたのだ。
しかし、そうではなかった。
最も良いのは、
「俺は、裏切り者のユダと全く同じ値打ちしかない。俺はユダだ」
と、腹の底から思うことだったのだ。
そして、親鸞は、それが出来た人間だったから偉大だったのだ。
親鸞は、
「俺は煩悩だらけの浅ましい凡夫。自分では自分を救いようがない。阿弥陀様に救ってもらうしか道はない」
と、本当に自覚していたのである。

『新世紀エヴァンゲリオン』の最後の方で、病室で、意識のないアスカの病衣が乱れているのを見たシンジは興奮し、襲いはしなかったがマスターベーションでも始めたのだろう。
そして、シンジは絶頂に達した後、
「最低だ!」
と吐き捨てる。
そうだ。お前も我々も最低なのだ。
シンジや我々がそう自覚した時に道は開けるのだ。
そして、さらに幻想的なシーン。
海辺で、片目だけ出して顔に包帯をしたアスカが横たわっている。
シンジがその首を絞めるが、途中でやめ、崩れてアスカの横に寝転ぶ。
それを横目で見たアスカは、「気持ちわる」と軽蔑を込めた声でつぶやく。
ここまでやれば十分だ。
シンジよ、お前は全く気持ち悪い(若者言葉の「キモい」が似合う)のだ。
それを、本当に自覚し、自分が救いようのない愚か者だと徹底して理解すれば、本当に「おめでとう」だ。
そして、それは、見ている我々も同じなのだ。
まあ、監督の庵野秀明さんは、作品の意味について何も語っていないので、各自、好きにとれば良いのだが、私の見方はこうである。

自惚れ屋で身の程を知らないペテロ。
自惚れることが出来るほどの自分の価値が欲しいが、それを持てないことに苦しむシンジ。
自惚れなど、あらゆる煩悩を持っていることを自覚し、自分を見限った親鸞。
人間は生きている限り、ペテロやシンジであることは止められない。
親鸞にまでは、なかなかなれない。
それで言うと、最初に挙げた、ダイアナやブライアンは、人間としては(彼らは宇宙人だが)、なかなかのものであると思う。
我々は、「若い子には負けるわ」と、なかなか認めることはできない。
森高さんが、あの歌を作ったのは23歳くらいだったと思うが、既に、もっと若い子には負けると自覚していたのかもしれない。
もし、いつまでも美しくある秘訣があるとしたら、その類稀(たぐいまれ)な認識であるかもしれない。









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永遠の生命

漫画やアニメのヒーロー、ヒロインに共通する特質は、殺しても死なないというほどの生命力である。
『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジは、一見、悟り済ました弱々しい少年のようだが、いざとなった時の爆発力は、やっぱり漫画、アニメのヒーローに相応しい。
それは、20年もの間、日本中の多くの男性の理想のタイプの女性で有り続ける、綾波レイとなると、さらにそうで、普段は氷のように冷たいのに、内に秘めた神秘的な情熱が感じられ、そこがファンにはたまらないのだ。
『あしたのジョー』の矢吹丈は、最後、確かに死ぬが、普通の人間なら、とっくの昔に死ぬか、それ以前に、ボクサーとして駄目になっているはずなのに、世界王者のホセ・メンドーサと、当時の世界タイトル戦である15ラウンドを、激闘という言葉で言い表せない、ほとんど神秘的とも言える最後の生命力を燃やして戦い続け、そして、燃え尽きた。

ところが、古代から、聖者達は、全てを諦め、静寂になることを教えるが、それは、これら、漫画、アニメのヒーロー達には有り得ないことである。
だが、それは、漫画やアニメのヒーロー、ヒロイン達は、押し並べて若く、ほとんどが少年、少女で、その若い生命力が、少々の無駄や非効率も補ってしまうという面もあるのだろう。
『シティー・ハンター』のヒーロー、冴羽 りょうは、年齢不詳で、一時、かおりから、30歳と指定されたが、年齢以上に大人であると同時に、子供っぽさも丸ごと残しているようなキャラクターで、そのことが彼に、無限のエネルギーを与えているようだ。
だが、人間、いつまでも若くはない。
漫画、アニメのヒーロー、ヒロインのその後が語られることもあるが、大抵の場合は、普通のおじさん、おばさんになっていて、ヒーロー、ヒロインだった頃の影(おもかげの意)はない。
それを見て、ファンは、寂しく感じると共に、「そんなもの」という醒めた納得もするのだろう。

だが、抱朴子による、中国の神仙思想によれば、老子などの仙人は、静かであることで精力を温存し、それによって、永遠の、そして、無限の生命力を持つとされている。
また、『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、人間は、本来は永遠の青春を持つのであり、それは、老木に新芽が芽生えることに現れている。
枯れ葉も、新芽も、それを構成するのは同じ分子、原子、素粒子であり、全ては精神が決定する。
ヒマラヤの大師達は百数十歳を超えても50歳のように見えるだけでなく、その母親となると、美少女にしか見えない。また、800歳を超えて外見が少女である女性も登場する。
また、大師達は、老衰で死んだ者を、青年の姿で蘇らせたことがある(その蘇った者は、大師まであと一歩というレベルに達していたからという理由があり、誰彼となく、そうするのではない)。
今は、美魔女とかいって、40代、50代になっても若く見える女性がいるらしいが、実際はさほどでもなく、冷静に見れば、やっぱり、老けている。
そういったものと違い、神仙や大師達は、本当に、若い生命力に満ち溢れている。

人類の夢である永遠の若さを、人類はいつか得ることが出来るのだろうか?
科学技術の進歩でそれが実現するという説もあるが、その場合は、「それは本当は幸福なことではない」という意見が同時に出てくるものである。
つまり、こういうことだ。
超自然(スーパーネイチャー)ではなく、異常(アブノーマル)な手段で永遠の若さを実現したとしても、それは不自然なことであり、そこには悲惨しかなく、決して幸福にはなれないということなのだ。
ここで、超自然は、自然の延長であることにご注意願いたい。
それは、人類がまだ知らない、自然が秘めた潜在力の領域であるが、そういったものはいくらでも存在するのである。
よって、人類がスーパーネイチャーに相応しい精神的進歩を遂げれば、自然に、永遠の若さを得ることになる。
これは確実なことであるが、現代の人々の観念では理解し難い。
だから、「いえ、私はそうは思いません。なぜなら・・・」といった、個人的意見を言い出す人もいる。
だが、それは、セミに1年を説いても分からないように、小さなものには大きなもののことが分からないだけなのだ。
ましてや、自分だけ永遠に若くあろうとする卑しい心構えで、無限の生命力を得ることなどは出来ない。

ヒントは、漫画やアニメ、そして、それを見る人々の反応の中にもある。
それは、今はまだ、日本、欧米、アジアでかなり異なっている。
しかし、現代は、インターネットによって、世界が狭くなった・・・というのではないが、共感の連鎖は生まれ易くなっている。
共感の連鎖の象徴が初音ミクさんで、現代の世界、特に、ITの流れは、初音ミクさんを見れば分かるし、また、根本的なITの思想は、初音ミクさんを見なければ分からない。
羽生喜治さんのような特別な人は、ご自分の世界を探求することで、ITの本質を完全に理解しているが、それでも、初音ミクさんを見ると、より豊かに広がるはずだ。

永遠の生命の理念やノウハウすら、実はもう分かっている。
しかし、現代社会は障害が多いのである。
『ヒマラヤ聖者の生活探求』を書いたベアード.T.スポールディングすら、長命で、老齢になっても驚異的な活動を行ったとはいえ、やはり90代で亡くなっている。
ヒマラヤの大師達と違い、文明社会の中に身を置く限り、それは免れない。
だが、経済が、従来の限りある資源を奪い合うものから、創造経済に移りつつあり、社会も代わろうとしている。
永遠の生命が許容される時代がいつになるのかは分からないが、準備はしておくと良い。
でないと、救われない可能性もある。
ヨハネが黙示録で語ったのは、そのようなことであると思うのである。









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人類補完計画の切り札

自信に満ち、誇り高かった人が、しばらくしたら、卑屈で惨めったらしく変わってしまっている。
ツルゲーネフの『初恋』は、主人公の少年が慕っていた、太陽のごとく輝いていた年上の女性は、少年の父親を好きになって愚かな女に堕落した。
ビートルズの『ヘルプ!』では、「僕」は、子供の頃は自信があって、何でもできたが、今はすっかり駄目になって自信をなくしているという。
そして、そんなこと(自信をなくすこと)は多いだけでなく、自信のある者は、やがては皆、そうなるのだ。
逆に稀なことかもしれないが、以前は自信がなくて、誰かに尻尾を振ってばかりだった者が、今は力に満ち溢れて怖いものなしだ。

自信のあった子供も、現実を知った時にそれを失う。
人間は、身体が弱く、暑さ、寒さ、空腹、疲労に耐えられないのだ。
そして、人間は心が弱く、自我を揺さぶられると、恐怖が大きくなって、抗うことができない。
信仰、信念のある人間は、一見強いが、限度を超えた現実の困難が襲って来ると、たちまちうろたえ、どうにもならなくなる。

フロイトによれば、自我は幻想の上に立脚しているのだから、人間である限り「誰もが皆」弱いのだという。
これは面白い論である。
人間以外の動物は、根本的には恐怖を感じない。恐怖を感じているように見えても、それは単に、生命の危機に対処しようとしているだけだ。
人間と動物の違いは、次のようである。
動物は本能が完全なので、本能のプログラム通りに動ける。
一方、人間は、フロイトによれば、本能が壊れているので、それを補完するために、自我という幻想を作ったが、自我は自然に立脚しておらず、本能のように、単純で完璧なプログラムではなく、不完全なので、揺らいでばかりで安定しない。よって、自信が持てない。

『新世紀エヴァンゲリオン』で「人類補完計画」というものがあったが、これも、不完全な自我同士が補い合い、完全な1つの自我にしてしまおうというものだと考えれば、なかなか理に適っている。
しかし、人間は1つに融合するのが難しい。
エヴァンゲリオンの作者も、その方法までは思いつかなかったかもしれないが、着想は優れている。
綾波レイも、「絆」を求めて傷付いたのは、シンジと1つになる方法が分からなかったからだろう。

そして、今のところ、人間同士が融合する有力な方法が「共感」だということが分かっている。
それは何を見れば分かるかというと、色々あるのだが、初音ミクを見ていると分かることなのである。
初音ミクを、「オタクが好きなアニメキャラ」と見下している者には分からないことである。
だが、日本の力強い、新しいリーダー達は、本当に、皆、初音ミクが好きなのである。
それは不思議なことではなく、当然のことだと思う。
もちろん、初音ミクの表面的なものを見ている限りでは重要なことは分からないかもしれないが、直感を頼りに「何が起きているか」を感じれば、共感の力に速やかに触れることができるだろう。
岡本太郎が言ったように、感性というのは一瞬であり、一瞬にエネルギーを集めて火花を散らすと、感性が湧き上がり、全てが分かる。
初音ミク以外にも共感を感じるものもあるだろう。
例えば、インドの『ラーマーヤナ』は、単純な子供向けと思える物語である分、邪念なくその中に入り込めば、大きな1つの心に溶け込むことができる。

しかし、いずれにしても、想像力が必要だ。
神話や芸術や初音ミクは想像力を高めてくれる。
想像力は、適切なものを見つけると、自我を共感に導き、大きなものの中に溶け込ませてくれる。
個我であれば怖くて怯(ひる)むことも、大きな心と一体化していれば、あるいは、それに近ければ、何も恐れない、あるいは、さして恐れない。
これが原理である。
このような言い方で分かるだろうか?









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・ソフトウェア開発技術者
・サイコパス
・初音ミクさんを愛す


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