「文系」とか「理系」とか言うが、「文系は論理的でない、それどころか、文系は論理的であってはならないと」思っている人がいるかもしれない。しかし、いくら何でも、それはないと思う。
ただ、理系は、世界中、どこでも通用する教科書を基にしている(基にしなければならない)というだけの話である。
文系の場合は、そんな教科書はないのだが、作れない訳ではない。ただ、それは理系の教科書の数億倍複雑になるだけの話だ。だが、それでも、やはり作れるのである。つまり、文系は、理系よりずっと複雑なだけである。
ところで、理系の教科書に間違いはないのかというと、いくらでもあるし、間違いだらけと言えるかもしれない。
そして、理系の教科書に間違いが発見され、それが訂正されると、世界中の理系の認識が変化するのだから、何とも単純だ。

おそらく、もし、人類が、後、数十万年も進化したら、理系は文系に吸収され、文系の確固とした教科書みたいなものが存在しているかもしれないが、それは勿論、現在の教科書の概念とは全く異なるものだろう。

例えば「愛とは何か?」という問題を、今の文系で語ると複雑怪奇にはなるが、理解のように「滑稽」にはならない。
理系の枠組みで愛を語るほど、馬鹿らしいことはない。
これを見ても、現状では、理系は実用的ではあっても、浅いものであることが分かる。いや、理系が実用的と言っても、それはやはり限定された範囲においてであり、ほとんどの問題に対して、全く非実用的と言えるのである。
例えば、理系の秀才はモテないのが常識だが、それがなぜかと言うと、理系の狭い論理ではモテないということで、この問題に対しても、全く非実用的である。
勿論、理系と言われる人にもモテる人はいるが、そんな人は、理系の狭い殻を超越した部分があるのだと言って間違いない。

だから、理系思考は、必要な部分にのみ使うべきで、「俺は理系の人間だ」というのは、私には馬鹿としか思えないのである。
かといって、「私は文系の人間」という言い方もおかしいに違いない。
そして、メルヘンしか分からず、理屈が必要な場所で理屈を使わない(使えない)者は、文系でも何でもない。
それはただの、幼稚な人間である。

文系と理系を合わせた文理系という言葉もあるが、それが十分に成熟したものであるなら、文理系しか存在しない。
それしかないのなら、それは、自然系とでも言え、その中の、「現状で、大半の人達の間で共通の認識になっていることに限定した理屈」を理系と言うのだと思う。
ただし、自然系というものは、数十万年の進化を待つまでもなく、人間の意識の中に存在するものであると思う。
その片鱗を示すものとして、ごく一部ではあるが、宗教科学というものがあると思う。
例えば、『バガヴァッド・ギーター』や『老子』や、仏教の経典などを、人間の理屈を交えないが、放埓(勝手気まま)というのでもなく、心の微かな感覚で高度に読み解く人がいるが、そういった人達を宗教科学者とでも言って良いだろう。
ただ、現在の人類のレベルは、そこには程遠いので、誰でも出来る訳ではないと思われる。
ところが、本当のことを言えば、それは誰でも出来るし、出来て当たり前なのである。
そんな、誰でも出来るはずのことが出来るようになるには、どうすれば良いかを問うべきなのであると思う。













当ブログオーナー、KayのAI書。
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多くのAI書籍は学術的な専門家が書かれていて、それらの本は厳密で隙がないのすが、難しく、また、冗長になり勝ちと思います。
また、どちらかというと、扱う内容が面白くなかったり、ピンとこないものが多いような気がします。
こういった本は、数学やプログラミングが得意な人が専門家を目指すには必要ですが、普通の人には歯が立ちません。
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