ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

教育

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

日本の教育方針は無視しないと危ない理由

頭の良さとは、測定出来るものではない。しかし、次のような方法で、推測が出来るかもしれない。
我々は、よく、「(A)は、だいたい、(X)だ」という言い方をする。例えば、「挨拶がきちんと出来る人は道徳的な人だ」とかである。
実際は、挨拶が出来るからと言って、その人が道徳的であるという保証はないが、ほぼ合っていると考えて良い。
これを、「挨拶が出来ることと道徳的であることとは相関性がある」と言う。
頭の良さも、何かに相関性があるかもしれない。

「知識と知恵は違う」と言うことがある。
つまり、物知りだからと言って、必ずしも賢くないし、馬鹿である場合だって少なくないかもしれないということだろう。
ところが、知識量と頭の良さは、高い相関性があることは、分かっているらしい。
実際、「物知りだけど賢くない」というのは、むしろ例外で、知識が多ければ、思考力・問題解決能力も高い。
では、「試験の成績が良い人は頭が良いのか?」と問うなら、答は「ごく限定的にイエス」だ。
特に、学生の間は、試験の成績と頭の良さに、相関性はかなり認められると思う。
ただ、教科書の知識は、知識全体のほんの一部で、しかも、非常に偏った知識であることに注意しなければならない。
教科書に載っていることが、ものごとの基礎でも何でもないことは、多くの人が誤解している。
教科書に載っていることは、「1つの偏見」くらいに考えて丁度良いのである。
とはいえ、教科書の知識も1つの知識であることは確かで、多くの学生は、持っている知識の多くは教科書の知識なので、教科書の知識が多い方が、頭が良い可能性が高いのである。
しかし、ある学生が、教科書に書いてあることはあまり知らないが、教科書には載っていない何かに強い好奇心を持ち、多くの知識を得ていて、しかも、その知識量が非常に大きければ、学校の秀才よりずっと賢いかもしれない。
その代表がアルベルト・アインシュタインだった。
彼は、学校の試験の成績はサッパリだったが、科学の一般書に興味を持ち、沢山の知識を得ていた。
逆に、アインシュタインは知識を軽視していたという誤解もあるが、彼が軽視していたのは、教科書に載っているような知識だった。

社会人になると、学校での、教科書の知識量で優劣がついた頭の良さは容易く逆転する。
教科書の知識は、この世の情報のほんの一部で、しかも偏っているし、しかも、秀才だったとはいえ、いつまでも教科書の内容を覚えている訳ではないのだから、学校を終えてから知識を増やさないと、学校秀才も、あっという間に馬鹿になる。
だが、教科書をいつまでも覚えている者も問題なのだ。
教科書の知識を保持している大人が、教科書に載っていない知識も豊富であれば良いのだが、そんな(教科書の知識を保持している)者は、多くの場合、教科書に載っていること以外の知識に欠けている。
ところが本人は、教科書の知識が豊富な自分は、頭が良いと思っている滑稽なことが多いのだ。
学校や塾・予備校の先生には多いタイプと思う。
私の中学校の時の音楽の先生は、生徒に対しては、自分がいかにも大音楽家のように振る舞っていたが、大学や大学院程度で、しかも、専門分野しか知識がなければ、大人としては知識が少ない、つまり、馬鹿であるが、本人にその自覚がなく、自分は優秀だと思っている。面白かったのは、その学校に、本物の音楽家が善意で指導に訪れた時、その音楽教師の物凄く憮然とした顔が新聞に載っていたことだ。自分の馬鹿さを感じざるを得なかった教師の哀れな様子だったのだと思う。
専門馬鹿で、他のことをあまり知らず、しかも、その専門も学校レベルであるなら、そもそもが、世の中で通用しない。
よく、「教師はつぶしがきかない」と言われるが、広い範囲で知識豊富なら、そんなことは絶対にない。しかし、教師は偏った狭い知識しか持たない場合が多いのである。
だから、本当は、教師は子供に関わらせてはいけない人種なのである。

プログラマーでも、コンピューターやプログラミングの知識しかない者は、プログラマーとしても能力は低い。
ビル・ゲイツも、「優秀なプログラマーは、あらゆることを話題に出来る」と言っていたが、全く正しい指摘である。
学生のうちから、成績はそこそこでいいから、興味のあることをどんどん勉強し、本当に賢くなっておくことだ。
特に、これからの時代は、いくら「お勉強」だけは出来ても、学校の偏った狭い知識しかない者は全く駄目だ。
自分が好奇心を持てることをガンガン勉強する者が、ごく自然に上に立つ時代になった。だが、おかしなことに、日本は、世界で、この動きに最もついていけていない国なのだ。
だから、国の教育方針など、あまりに下らないだけでなく、危ないので、決して関わってはならない。








企業の開発者が教師をやるべき

インターネット高校のN高等学校では、プログラミングの授業で、ドワンゴの技術者が教えるらしい。
ドワンゴかどうかはともかく、プロの開発者が教えるのは良いことだ。
狩猟民族の子供に狩猟を教えるのに、狩猟学の権威の先生などお呼びでなく、実際に狩猟が上手い者が教えるべきなのと同じだ。
学校でプログラミングを教えるようになったら、日本のITレベルはぐっと「落ちる」(笑)。
学校の先生がプログラミングを教えられるかどうかなんて問題ではない。
プログラミングというのは、勉強ではなく、実用行為なのだ。
釣りが、勉強ではなく、魚を取るという実用行為なのであるのと同じだ。たとえ趣味の釣りであっても、実際に魚が取れるのでなければならないはずだ。
成績データベースを自分で作っている教師であれば、プログラミングの教師として「マシ」ではあるが、問題もある。
そんな学校プログラマは、周囲にライバルがおらず、自分の能力とかやり方を過大評価し勝ちだ。結果、生徒にプログラミングに関する厄介な欠点を植え付けることになる可能性が高く、それが生徒にとって、致命的欠陥になる場合もあるだろう。
教師というのは、最も、教えるのに向いていない人種ではないかと思う。

算数や数学の勉強が役に立たないなんて、恐ろしくもトンデモないことが言われるのはなぜかというと、学校の先生が役に立つ算数や数学を知らないだけのことだ。
教科書でしか算数や数学を知らず、科学技術の研究や開発で活用したことがないのだから、役に立つことを教えられるはずがない。ところが何と、学校の算数や数学は、教科書以外の勉強はしないことになってる。
世界では、進歩した教育では、そんな学校は無用だと堂々言われるようになってきたし、実際、消滅させる方向に動いているだろう。
以前、日本の小学校で、企業の技術者にテクノロジーの授業をさせ、生徒達は楽しくて喜んでいたし、役に立つ授業であったが、教育委員会が「そのようなことをやってはならない」と、その学校を戒めたらしい。
教師としては最高であったジョン・テイラー・ガット が書いた『バカをつくる学校』という名著があるが、まさに日本の学校はバカを作る学校である。

アメリカでは、大学の先生だって、企業と提携して儲けられないのは無能だから評価されないらしい。実際のことは知らないが、それが当たり前だろう。
実用で役に立たない、そして、実用で使ったことのない学問など、無用の長物である。
プログラミングもだが、数学や物理、化学だって、テクノロジー企業の開発者(企業の研究者は開発者でもある。開発の出来ない研究者など有り得ない)が教えるのが一番良いのは間違いない。
学校の教師はいらないし、おそろしく高い給料を払っている金を、もっと良いことに使うべきだが、教師にだって生活がある。
学校で教師によるアホなイジメのことが話題になっていたが、あんなの、いくらでもあるだろう。役に立つことをやっていない人間に思考力があるはずがないからだ。
もちろん、現場の先生は、問題のある子供のために多大な労力を使っているが、その労働の多くは、教師の仕事とは言い難い。
生徒に対する様々な対応をきちんとやる機関を作ったり運営する予算を使わず、それを安直に教師に押し付けているだけだろう。
だから、勉強の教師は、しかるべき人(企業の研究開発者)にまかせ、今、教師として勤めている人は、授業や生徒へのサービス要員にすれば良いのである。実際。真面目な教師達も、そう感じているのではあるまいか。
学ぶことについては、アメリカで起こりつつあるアンスクール(反学校。非学校教育)のように、学ぶことは子供達が自分で決める・・・そのために、生徒は広い世界と交流し、変態だらけの教師から解放すべきだろう。








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聖人の気高い行いに涙する者は偽善者である

「Aさんは無責任だ」と言う人で、Aさんと同じくらい無責任でない者は絶対にいない。
「Bさんは傲慢だ」と言う人は、万に一つの例外なく、Bさんと同等に傲慢だ。
それどころか、非難する度に、その欠点は大きくなる。
「C君は思いやりが無いね」といつも言う教師は、間違いなく、C君よりも思いやりがない。

傲慢、無責任といった欠点を感じる相手に対してどうすれば良いのだろう?
ただ大目に見ることだ。
「そんなことを言っていたら、教育や指導ができないではないか?」
と言うなら、そんなものしなくて良いと言っておく。
神を恐れよと言いたい。
相手と同じ欠点を持つ者が、どんな指導をしようというのだ?
教育ってのは、生きていくために必要な技術やルールを教えることであり、無責任を矯正する教育など、この世にも、どこの世にもないのだ。
良識は世界が教えてくれる。
良識がないと、悪いことばかり起こって苦しむだろう?
だが、良い教師は、そこにいるだけで苦しみを克服するための手助けができるのだ。

最近、「僕は何をやっても駄目なんです」と言われることがよくある。
そんな時、私は思うのだ。
「意気地がないな」
それは、自分に対してである。
教育というのではないが、そんな相手には何を言えば良いだろう?
アメリカの自己啓発プログラムでは、「あなたは本当は素晴らしい」とか言うのだろう。
逆効果も甚だしいことだ。
自分が駄目だと思っている相手には、
「君は少しも駄目じゃない。自分でそう思っているだけだ」
とだけ言ってやれば良い。

私は言われることはないが、「君は優秀だな」と言ってくる者がいたら、何か魂胆がある・・・とまでは言わないが(言ってるも同然だが)、まともな評価ではないから喜ばない方が良い。
本当に優れていると思っている相手に対しては、畏怖してしまって、そんなことは言えないものだよ。

相手の美点を無理に見る必要はない。
まして、相手の良いところを見つけようなんて寝言をほざく気は毛頭ない。
それほど馬鹿げたことはない。
同じ美点を持っていない限り、相手からそれを感じることは決してない。
純粋に、「あの人は優しいなあ」と思う者は、もうすでに同じくらい優しいのだ。
本当のことを言うと、誰でも全ての美点は最初から持っている。
しかし、他人の良いところを見ようなんて者は、人間の優れた性質に違和感を感じているのだ。
そんな人にとっては、良心というものが、変な色の傘のように、単に珍しいのだ。
人間の内に秘められた美しさを自然に感じられるなら、それをことさら問題にしないはずだ。
聖人の気高い行為に涙する者は、やっぱり偽善者だ。
その手の話に涙もろい私が言うのだから間違いないだろう。
聖者にとって聖者の行いは、水が高いところから低いところに流れるように自然なことなのだ。
そして、本物の聖者は、高貴な行いを笑う者のことは、そのまま受け入れるし、未熟な賢者であっても、愚か者を大目に見るのである。









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頭が悪くても人生を楽に泳げるようになる勉強法

人生は短く、貧弱な心と身体を持った人間は、正しい選択を行わなければならない。
どんな選択をすれば良いのかというと、最上のものを選び、後は捨てるのである。
よって、人間にとって、最上のものを選ぶ知恵が必要になる。
知恵は知識によって得られるものではない。
ましてや、妄想でしかない、世間の教義や信念では正しい選択は決してできない。

日本人の学力がなくなったのはゆとり教育のせいだと言って、授業時間を増やし、教科書のページ数を増やすことにしたのは、よほどの馬鹿か、良からぬ悪意を持った者達である。
ゆとり教育時代の教科書にしたって、我々は、その何割を知っているだろうか?
2割か?
3割か?
いや、そんなに多くはあるまい。
問題となっていることは、一流大学の学生が小学校の算数が分からないといった根本的なことなのだ。
そんなことが、教科書を厚くして、さらに余計な知識を詰め込んで解決するだろうか?
こんな簡単なことが分からない者が日本の教育を支配しているのである。

私が個人的に行ったことは以下のようなことだった。
まず、基礎的な学力は中学2年までで十分であり、中学2年生以下に、数学、国語、、英語、理科が普通に教えられると思えるなら、自分の勉強を始めるべきである。
尚、社会は中学以降の学校の学習は根本的に間違っていることが分かったので最初から無視した。教科書よりもっとためになる本を選んで読むべきである。

それ以降は、1人で学習できる。また、1人で学習できるような能力が、本当に必要な学力である。
以上の理由から、中学2年以降、私は授業に参加しなかった。
授業を聞いていないと、また、普段の、あるいは、夏休みの宿題を一切提出しないと、ナチスに捉えられたユダヤ人とは言わないが、まあ、そんなものを連想するような目に遭わされたが、正しいことをすれば、神仏が守ってくれた。
定期試験の試験範囲すら知らずに試験を受けたので、点数は推して知れるであろうが、どんな点数だったかは覚えていない。
まあ、テストの成績は10点満点なのかと考えて可笑しくなった思い出はある。

私は、丁寧に書かれた学習参考書を選び、数学、理科、英語だけを学習した。
私は、冷静に考えて、理解力や記憶力が高い方ではない・・・早い話が頭が良い方ではないので、それらの基礎を学ぶだけで精一杯であり、他のことをやっている余裕はなかった。
だからこそ、本当に大事なことをせず、それ以上の学校の勉強をするのは間違いだと確信し、それをしないことを決定した。
それが私の最上の選択だった。
英語に関しては、必要な実践をする機会がなかったので、実用レベルの能力はつかなかったが、数学と科学だけは、最低限の理解を得られた。
当然、それで試験や受験がうまくいくはずがなかったが、それらで最高の成果を出した人間が、どう考えても自分に優るとは思えなかった。
それどころか、試験や受験で成功した人々は、思考が著しく制限されてしまっていて、人間が本来持つ能力をほとんど発揮できず、特に、直観を完全に失っている。
私も公立大学の工学部くらいには入れたが、その学習のおかげでひどく馬鹿になってしまったのである。
一緒にしては悪いが、アインシュタインが試験のための学習のおかげで、長い期間に渡って創造的な思考ができなくなってしまったと嘆いていた意味がよく分かるのである。

私は、普通以上に学校の勉強をした人達よりは、おそらく少しはマシな能力を使ってやれる仕事として、コンピューターシステム開発の仕事を選択した。
それまでは、セールスや事務の仕事をしてみたが、それらの仕事は不合理な面が多く、あまりに疲労が大きかった。
コンピューターシステムの開発も、依頼者を選ばないとひどく不合理で疲れるものであるが、あらゆる仕事同様、必ずしも客を選べない。
(セールスや事務職は、依頼者を一切選べないという意味で不合理なのである。仕事自体が悪いのではない)
私も客は選べないのであるが、それでも・・・このような言い方をするしかないが、神仏の加護で、いつもうまく切り抜けてきた。
世間的な勉強をした者は、神仏の加護が得られ難い。
このことを「馬鹿な」と言うならそれで良い。
そんな考え方は私の知ったことではないからであり、私は確かに神仏の加護を受けているのだから。
正しい学習をしていれば、目には見えないこの世の流れに自然に乗ることができ、ほとんど苦労せずに、楽にやっていける。
しかし、利益や名誉を求めると、世間の人並になり、つまらぬ苦労を背負い込むことになる。
まあ、それも人間を理解する上で必要なことだろう。
だが、いつまでも苦労して苦しんでも仕方がないので、時々、荘子を読んで、世俗を超えることを思い出さねばならない。やはり私は馬鹿なのだろう。
一切の権威を受け入れず、決して個人を崇拝せず、世間の価値に対しては、それを眺めることはしても、決して重きを置かず、自分の内側にある真の自己に注意を向けるのである。
そうすれば、世間の中にあってさえ、魔法の力を得たように、悠々と生きて行けるだろう。
苦しみ多い人生であれば、間違いなく、家庭や学校で間違った教義や信念を叩き込まれ、それを背負い続けているのだ。
台所のゴミを捨てるのに、そのゴミを吟味する必要はない。
同様に、学校で押し付けられたものは、ただ捨てれば良いのである。
それはゴミなのだから。









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「どうしておなかがへるのか」と「どうして痴漢をするのか」は同じ

『おなかのへるうた』というのは、日本人なら誰もが知っている有名な歌だ。
「どうしておなかがへるのかな?」という歌詞で始まるのだが、そこにどんな心情が込められているのかは分からないが、1つの答は、
「そんな歌を歌うからだ」
である。
そして、根本的な答は、
「食べることを考えるからだ」
だ。

手塚治虫さんの『紙の砦』には、戦争中、食べるものがなくて、冗談でなく「お腹と背中がくっつく」のではないかという体験が語られている。その時、手塚さんは、米軍の爆撃で死んだ大勢の人々の死体を思い出し、あの死体の腕を1つ持ってくればよかったと本当に思ったらしい。
そんな時、食べ物のことを考えてもどうにもならない。最良のことは、食べ物のことを考えないことだ。

『おなかのへるうた』は、そんな悲惨な歌ではない。
だが、単に愉快な歌を装っているが、愚かな歌だ。決して子供達に歌わせてはならない。
音楽に興味を持たせるために、テーマを子供の関心事に合わせるという考え方であるかもしれないが、食欲を喚起させれば、音楽はどうでも良くなるのである。さらに、お腹がさほど空いていないのに、食べ物のことを思い出させ、食欲を煽るということは、子供達を醜い餓鬼にしてしまう。
さらに、本当に、今は食べたいと思っていない子供でも、歌はある程度の感情を込めて歌ものであることから、この歌により、食べたくない時でも食べる気を起こさせる悪しき習性を与える可能性が高いのである。
こう言われてもピンとこないなら、例えば、「スカートまくりの歌」なんてのを考えてみればいい。考えなくていいことを考えさせる愚かさが分かると思う。
ところで、ちょっと話を脇に逸らす。
かつては、教育者の中にも、「スカートをまくるくらいの元気がないといけない」と言う者もいたという信じられない話を聞いたことがあるが、子供であろうが、それは痴漢であり、犯罪である。だが、多くの教育者は、子供の性的欲望を煽るもののことを放っておいて子供を抑圧するという、教育の素人であることを暴露するようなことをした。抑圧されると、歪んだ形で噴出するというのは教育の基礎だ。それで、現在、変態的な大人が多いのである。
かといって、有害図書を隠すというのも下手なやり方だ。煙草を禁止すると隠れて吸う者が増えるのは当たり前だし、ナイフの所持を禁止するとナイフでの犯罪は増えるのである。それと同じだ。
かつてのアメリカで、禁酒法で酒の製造販売が禁止されると、闇酒屋、闇バーが爆発的に増えたようなものだ。
ちなみに、我が国でも、淫行条例とやらのために援助交際が急激に増えたのである。
2次元ポルノ規制とやらが本当に実施されたらどうなるかは馬鹿でも分かるはずなのだが、馬鹿とは少しはマシな者のことを言うようだ。

学校では教育は出来ない。我々は、自分で自分を教育しなければならない。
我々は、無駄なこと、不要なことを考えないという訓練をしなければならず、子供のうちからそんな習性を持つなら、彼は天才になる。
しかし、自由にものを考えるということと妄想するということの区別がつく大人がいない。
学校の授業中、子供が遠い惑星のことや深海のことを考えるのは、よそ事ではなく、中心的な考えである場合が多い。しかし、おやつやお弁当のことを考えているなら、余計な考えである。
子供が聖なる想像をしている時に、汚れた教師の言葉を聞かせてはならない。岡本太郎は、授業中、両手で耳を堅く塞ぎ、清浄な頭脳に教師の声が届くことを許さなかった。無論、教師の言うことなら、何でもかでも拒否すればいいというのではない。だが、聞くべきでないなら、断固、聞かないことだ。

まずは、仏教で日常の規律としていることもあるらしいが、歩いている時には歩き、食べている時には食べることだ。わざわざ、歩いている時に、「歩いている、歩いている」と唱えることもあるらしい。悪い癖の矯正には有効だ。風呂に入っていて、「あれ、もう頭洗ったっけ?」というようでは駄目なのである。そんなことが多いなら、「風呂に入っている」「頭を洗っている」と唱えることだ。
自分を教育するための最良の教科書は、至高の聖典である『バガヴァッド・ギーター』だと思う。『エメラルド・タブレット』もそうであるが、こちらはやや上級と言えるかもしれない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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