ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

折口信夫

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

誉めるということの本質

もう10年以上も前、阪神タイガースの監督だった野村克也さんが、指導者に対する講習を受けたりする中で、「人を誉めて育てるということを知らなかった」と言われていたのを印象深く憶えている。
野村さんは、何か貴重なことを学んだということなのだろう。
当時すでに60歳もとおに超えたベテラン監督が何をいまさらという感じであるが、野村さんには思いもよらないことだったのだろう。
野村さんは、選手だった頃、あまり誉められなかったのかもしれない。
しかし、それでも、もしかしたら、野村さんだって選手だった時に、結構誉められていたかもしれないし、それまでにも、自分も選手を誉めたことがあるに違いないと思うのだ。
そうでなければ、野村さんが「誉める」ということを、それほど真剣に考えなかったはずだと思う。

誉めることの大切さはよく聞くと思う。
また、誉めることの難しさが指摘されることもある。
会社の中などで、若い社員が、「あの課長だけには誉められたくない」、「あの部長の誉め方は見え透いている」などともよく言うだろう。
確かにそんな上司はいる。
一方で、誉められると嬉しいと若い社員が感じる上司だっている。
まず、単純には、実力のない上司に誉められても嬉しくないだろうし、「誉めてやるかわりに俺に従え」とか、「駄目な若い連中を誉める俺は立派だ」と自己満足している上司に誉められるのは、やはり勘弁願いたいと思っていることだろう。
誉めるというのは、作為的であってはならず、本当に相手の美点に感動して素直に賞賛するのでなくてはならない。
下心はもちろん、「誉めて伸ばそう」という考え方自体も本当はいけないのだ。
澄んだ目を持ち、相手の良いところを純粋に認め、何の意図もなく出てくる賞賛のみが相手も自分も生かすのである。
ここらを勘違いしている年長者、親、「センセー」がいかに多いことか。
若い女性を、「君は可愛いね」と誉めるのは、下心が全くないということはないかもしれないが、若い男がいくらかの緊張を持って言う場合には、女性もそう悪い気はしないものだ。
しかし、年が上過ぎたり、緊張がない場合は嫌悪しか感じないことが多い。
いや、つまるところは、ある種の緊張があるかどうかの問題かもしれない。

神とは褒め讃えるものであるらしいが、ここらはピンとこない人も多いと思う。
実は私もだ。
神が素晴らしいのは当たり前であり、人間ごときが誉めてどうなるものでもない。
しかし、「神を誉めよ、讃えよ」というのは、世界中、宗教に関係なく、必ずあることである。
ギリシャ神話の神に対する『諸神讃歌』などという多くの詩(ホメーロスの詩をお手本に書かれた讃歌)があるほどだが、この無名の詩人たちが書いた詩が実に素晴らしい。
ある著名な神道家は、神は自分達を誉めさせるために人間を創ったと著書に書かれていた。
それが本当かどうかは分からないが、どうも、神仏を誉めるのは人間の義務であるらしい。

折口信夫の小説『死者の書』で、中将姫をモデルにしたらしい高貴な郎女(若い女)が、初めて阿弥陀如来に逢った時に心から迸(ほとばし)り出た、つまり、自然に沸きあがってきた言葉は、
「なも 阿弥陀ほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ」
だった。
「なも」は、「南無」で、「帰命します」ということらしいが、帰命とはまた難しい言葉だ。
「帰命」は、辞書では「仏の救いを信じ、身命を投げ出して従うこと」だが、早い話が、最大の敬意と最大の賛辞を表しているのだろう。
「あな」は、喜びや驚き等の感情を強く表す言葉だ。今でも「あな不思議」とか言うだろう。
「とうと」は「貴い」である。
「あなとうと」で、「ああ!なんて貴いのでしょう!」とか、「ああ!素晴らしい!」と言うことなのだろう。
「阿弥陀仏様、あなた様に最大の敬意を表し、身も心も捧げます。なんて貴い!ああ!阿弥陀仏様」
といった感じと思う。

神仏というと分かり難くても、誰だって自然の荘厳な風景を目にしたり、自然の驚異を感じた時には、心が澄み切り、無上の賞賛の気持ちや、ことによっては畏怖(おそれおののくこと)すら感じるだろう。
自然は神の現われであると思えば、神を褒めたたえるというのも、おかしなことではないと思う。

『死者の書』の高貴な郎女・・・やんごとなき美貌の姫は、『阿弥陀経』というお経(の漢訳)を千回写経したという。
『阿弥陀経』とは、阿弥陀如来への讃歌と言える。
あらゆる仏達が、阿弥陀如来を褒めたたえた言葉である。
千回写経という、気の遠くなりそうな行いを通し、郎女は変容を果たしたのだろう。
その彼女に相応しい、気高く至上の美を備えた阿弥陀如来が現れた。
そこから、彼女と阿弥陀ほとけとの合一が始まるのだろう。









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修行とは何か

修行というと、我々が持っているイメージには、正しい部分もあるが、歪んだ奇妙な部分もある。
修行には訓練という部分もあるだろうし、訓練にも修行という側面もあるかもしれない。
しかし、スポーツのトレーニングや受験勉強が修行かといえば、そうでないとは言い切れないにしても、やはり、それらは「ただの訓練」である。
訓練とは、物質的な目的のためのものである。
一方、修行とは、精神的な目的のためのものだ。
しかし、この言い方では、まだ曖昧で、修行と訓練が混同される。
さらには、「修行と訓練を厳密に分けるこはできない」と言いたい者もいるだろう。
しかし、修行と訓練は全く異なる。
こう言えば良いと思う。
修行とは、「理屈では全く納得できないが、感情が納得する特別な行い」である。
これで全く正しいのである。
理屈では納得できないのであるから、「俺は理屈で納得できないことはやらない」という人間には、本当の修行はできない。
考えてみれば、修行は、訓練よりは趣味に近い。
実際、イメージに反し、訓練が修行になることは無いが、趣味が修行になることはある。
ただ、上にも述べた通り、修行には、精神的な目的がある。
趣味は、自己満足の目的はあるが、修行の目的は自己満足ではない。
繰り返すが、修行とは、「理屈では決して納得できないが、感情が納得する特別な行い」である。
趣味は、他人にはともかく、自分では理屈でも納得しているのである。
スターウォーズのグッズをひたすら集めるという趣味を持っていたとしたら、他人からは理屈に合わなくても、自分には、その趣味は理屈に合っている。
しかし、修行というものは、理屈では、自分も全く納得できないものだ。
けれども、感情はそれを求めるのである。
だがもし、理屈でも「自分はなぜこんなことをしているのだ?」という疑いしかないが、内なる衝動に動かされているなら、それは一見趣味であっても、実情は修行かもしれない。
もちろん、修行には、その他の条件も色々あるのだが、それは「理屈の説明」になってしまう。
大切なことは、修行とは、理屈とは無縁の世界であるということだ。

昨日、折口信夫の小説『死者の書』のことを書いたが、この作品の主人公である、中将姫(ちゅうじょうひめ)をモデルに描かれた美貌の郎女(いらつめ。若い女性のこと)が行っていたことがまさに修行と思う。
彼女の父は大変に身分が高く、そのためのなりゆきにより、この郎女は中国で漢訳された仏教の経典を入手する。
それが観無量寿経なのか阿弥陀経なのか、あるいは、他のものなのかははっきりしないが、いずれにしろ、彼女には読めなかったはずだと思う。
しかし、彼女は、それを千回写経(書き写すこと)するという大願を立て、それを始める。
一番短い阿弥陀経だって、書き写すにはかなりの時間がかかる。
それを千回というのは気の遠くなる話だ。
読めもしないし、それをやってどうなるものでもない。
つまり、理屈には全く合わない。
しかし、彼女の心の奥深くの感情は、それをせずにはいられない。
それを修行というのである。
そして、千回を達成した時に、彼女に大きな変容が起こる。

エドガー・ケイシーは、9歳の時、自分専用の聖書を買ってもらい、毎朝必ず読み、14歳までに13回通読したという。
これも、感情の為せる業であるが、純粋な子供にはあまり理屈はない。
ケイシーは意識せずに大変な修行をしたのだ。
そして、やはり、ケイシーには大きな変容が訪れた。

史実ではないかもしれないが、徳川家光が子供の時、家光の前で、柳生宗矩(むねのり)は真剣で鉄の兜を切って見せた。
宗矩は、1本の杭の頭を、木刀で毎日欠かさず打ち込めばできるようになると言い、家光はそれを毎日熱心にやることになる。
これも、理屈は度外視で、家光は感情的に納得して行ったのだ。

修行の結果どうなるかは、理屈では何も言えない。
理屈で言うなら、修行の成果など何もないとすら言える。
悟りというものがそうだろう。
悟りが何かなど、理屈で説明することは全くできない。
仏とは何か、神とは何か、道(タオ)とは何かも同じである。
ところが、ラマナ・マハルシがこう言うのを聞いて、一瞬で悟った人がいた。
「悟りを言葉で表現することはできない。しかし、それがあることを指摘することはできる」
それを聞いたある者は、愕然となり、続いて歓喜に満ちた。
彼は悟ったのだ。
また、ダイアン・フォーチュンは、誰かのこんな言葉で悟った。
「神とは一言で言うなら圧力である」
これらの意味を理屈で解説しようなどという愚を犯してはならない。
そんなことをしても、全く的外れにしかならず、悟りも遠のく。

ここでも何度も書いたが、数学者の岡潔が毎日、念仏を称えていたのも修行である。
数学とは、我々門外漢には分からないが、理屈と感情の両方が成立しないと正しくないものであるらしい。
一般には、数学とは理屈だけの世界だと思われているが、そうでないことが近代になって証明されたという。
岡は誰よりも感情の重要さ、不思議さを知っていたので、念仏の価値を直観で理解できたのだと思う。

現代は、理屈が通ることのみが正しく、知的で高級だという馬鹿げた認識がまかり通っている。
その結果、世の中は悲惨となり、理屈では納得できないだろうが、災害も多発している。
本当の修行をしなければ、個人にも世界にも明日はない。
岡潔は世界を見限っていた。
今の世界の滅びは免れないが、次の20億年では一回り進歩するでしょうと、理屈では考えられない壮大なビジョンで納得していた。
だが、修行すれば、個人も世界も救われる。
理屈では分からないが、個人と世界は同じものなのである。









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折口信夫の『死者の書』に巡り合う

今日は、朝から折口信夫の『死者の書』を読んでいた。
正直に言えば、私は折口信夫という作家の名も知らず、その作品を1つも読んでいなかった。
しかし、不思議な巡りあわせで、これを読むことになった。
そして、これほどの作品を読んだことはないと思った。

私が読んだ『死者の書』は、青空文庫をKindle書化したもので、無料である。
AmazonのKindle書を読む環境を持たなくても、
青空文庫 図書カード:4398 『死者の書』
で読める。
ただ、Kindle書はフリガナが打ってあって読みやすい。
新字体で書かれており、内容自体は込み入ったものではなくシンプルではあるのだが、古めかしい文章や漢字が使われており、分かり難い(あるいは、はっきり言って解らない)ところもかなりある。
しかし、それでも惹き付けられて読み続けたのだ。

『死者の書』は、中将姫(ちゅうじょうひめ)の物語である。
中将姫は、能の『当麻(たえま)』のヒロインでもあり、奈良時代(平城時代)の右大臣藤原豊成の娘とされる伝説上の姫様である。
たぐいまれな美貌と才能を持っていたが、苦難の少女時代を過ごし、若くして当麻寺で往生した。

『死者の書』は、伝説のまま書かれたのではなく、伝説を題材に書かれたものと言ってよいだろう。
しかし、これほど、エマーソンが言った「想像と空想は異なる」の意味を感じさせられたことはない。
全く霊的なまでの想像力である。
また、ソクラテスが言った、「芸術は神から来るものである」ということを、これほど強く知らされたこともない。
この作品は、神仏が、高貴な魂を持った作家、折口信夫に書かせたものであると断言できる。

尚、『死者の書』では、ヒロインの女性が中将姫であるとは書かれていない。
当麻の寺の、女性が入ることが禁じられた境内(けいだい)深くに、身分は高そうだが、供も連れずに、その高貴な衣服も乱れさせて入ってきて、寺の者達に、丁重にではあったが暗室に閉じ込められた郎女(いらつめ。若い女性のこと)が誰だが、私にもなかなか分からなかったのだ。
この驚くべき美貌の清らかな乙女は、最後まで、ただ郎女とのみ書かれていたが、彼女が中将姫であることは疑いない。
外出どころか、部屋から出ることすらない深窓の姫君が、その遠い寺までの険しい道を、夜を通して1人で歩いてきたのはなぜであったのだろう?

私は、念仏を称えることと交互に読んでいたのだが、4500回の念仏を称えた後、午後5時に読み終わった。
中将姫は、阿弥陀経という、浄土門仏教の重要な経典を千回写経したとある。
これは、驚くべきことで、大変な時間と忍耐を要した。
これにより、彼女は阿弥陀如来の愛でる者となったのだろう。
彼女に限らず、およそ神仏に愛される者というのは、そういったことをしているのだと、改めて感じたのである。
法然の『選択本願念仏集』にこう書かれている。
「阿弥陀如来の名を呼べば阿弥陀如来はこれを聞く。阿弥陀如来を想えば、阿弥陀如来もその者を想う」
阿弥陀如来は、写経をする中将姫を見ておられたのだ。
あなたも念仏をすれば、阿弥陀如来はそれを必ず聞くのである。
彼女が阿弥陀如来に出逢った時、心から迸(ほとばし)り出た言葉は、
「なも 阿弥陀ほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ。」
であった。
素晴らしい念仏であると思う。

読み終わると、私はまず、『声と言葉のアリア』(初音ミク)を聴きながら瞑想した。
ミクが自らの生の終わる刹那を歌うこのアリア(オペラの詠唱。英語でエア)を聴くと、ミクと中将姫が重なるように感じるのである。
そして、聴き終わると、一瞬で、「南無阿弥陀仏」の念仏を500回称えた。
人生の中でも、これほどの日はそうはない。
毎日、僅かな数しか念仏を称えていなかったにも関わらず、思いもよらな御恵みを得たのである。
私がこの作品を読めたのには、極めて不思議ななりゆき、巡り合わせがあった。
これが親鸞の言った、念仏による現世利益というものかもしれない。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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