ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

手塚治虫

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[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。
[2010/12/12]詳細なlivedoorプロフィール設置しました。[livedoorプロフィール]

同情はしないけど金は出す

宗教家などがよく、「寄付は喜んでしなければ駄目だ」、「惜しいと思って出すのでは駄目だ」と言う。
何が駄目なんだ?
惜しみながら出そうが、金は金だ。
私は、正直に言うと、喜んで寄付したり、惜しみなく寄付する者がいるとは信じられない。
もちろん、私がそう出来ないだけで、世の中には、それが出来る立派な人もいるのかもしれないが、私は全くそうではない。
私が、惜しみなく、喜んで寄付をしていたのは、お金を稼いだことがなく、生活の心配を一切していなかった高校生頃までのことだ。
今は、百円出すのでも、喪失感を感じる。
それでも、嫌々ながら、そこそこの額の寄付をしたいと思っているのだ。
それは駄目なのだろうか?
そんなことはないと思う。
宗教家の言う、喜んで、惜しみなく出さなければ駄目な理由は、そうでないと、神仏の報いがないということだろう?
もちろん、信仰ある者は、それを期待して、どんどん義援金を出せば良いが、私は期待しないことにした。
さらに白状するなら、私は、震災で被害に遭われた方に対し、これっぽっちも同情を感じていない。
だが、「同情するなら金を出せ」(テレビドラマ『家なき子』のセリフの改変)の方が合理的で、余裕のある者は義務として金は出すべきと思うのだ。
私にも、金を出す義務があるはずだ。

熊本地震では、Yahoo!が義援金の受付を行い、寄付してくれた同額をYahoo!が出す(つまり、金額は倍になる)という素晴らしいことをやっていた。
よし、みんな、Yahoo!を破産させるくらい寄付しようぜ・・・とか思ったが、2千万円が上限で、もう終了したらしい(義援金受付自体は行っている)。
では、ここは、ライバル関係にある、NTTやKDDI、あるいは、Amazonや楽天は、20億円くらいにして差をつけよう・・・と言いたい。
宣伝、大いに結構。
宣伝のために、でっかく寄付をしていただきたい。
そしたら、なるべく商品を買おうと思う。

手塚治虫さんの、沢山の短編からなる傑作ミステリー漫画『ザ・クレーター』の中に、『オクチンの奇怪な体験』という1つのお話がある。
オクチンとは、勉強は出来ないが、熱血漢で喧嘩の強い男子高校生だ。
そのオクチンが、30万円を作ろうと、なんでもひきうけ屋に精を出している。
懸命に頑張るが、1回の料金は、松100円、竹50円、梅30円の設定だから、毎日がんばっても、たかがしれており、
「これで2,260円か・・・あと29万7,740円!ヒャア、ぶっ倒れそうだな」
といった状態だ。
なぜ、オクチンが30万円作ろうと思ったのかというと、彼は新聞で、原爆に被爆して苦しんでいる女性の記事を見て、治すのに使ってもらおうとしたのだった。
この作品は、1969年12月発表のもので、当時の30万円がどれほどのものか分からないが、今の価値より低くはないだろうし、今でも、高校生にとって30万円は大金だ。
オクチンは最後、しれっと(ケロっと)30万円を渡すが、彼の願いは叶わないことが分かる。
オクチンは、高校生だから、生活とか明日の心配はないだろうが、逆に言えば、あのくらい、無感情に30万円出せる人は、大人でも、明日の不安はあるまい。
さっきも書いたが、私は、見栄でも張れるなら別だが、黙って出す寄付なら百円でも惜しがる。
「世界一貧しい大統領」ホセ・ムヒカ氏は、「いくら持っても満足しない人が貧しい」と言ったらしいが、私みたいなのは心は貧しい。
しかし、他の人は、私とは違うのだろうか?
分からない。
仕方がないから、私は惜しみつつ寄付をするが、初音ミクさんのご加護を賜り、せめて39万円を、オクチンのように平気で出したいものである。

私は惜しみながら寄付をするが、多くの人、あるいは、企業にそうしていただきたいと思う。
災害に遭われた人の命や安全を守るのは国の義務として当然、果たされるべきだが、その後に被災者の人々に必要なものは、断然、金であると私は思う。
その金は、嫌々でも義務として、あるいは、見栄で出せばいいじゃないかと私は思う。
「真実はいらない、偽りでいい」のである。
だが、大人が子供を守ったり、正しく導くことなどと同じく、義務は果たすべきである。

時間だけいつも 通り過ぎていく
1秒ごとに 崩れていく世界
歪んだ景色に 塗りつぶされた
真実(こたえ)はいらない 偽りでいいの
~『トリノコシティ』(作詞・作曲・編曲:40mP、歌:初音ミク)より~
※この素晴らしい歌を全然違う意味で引用したことをお断りしておく

尚、ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、寄付を求められても、信念によって断りたいと述べているが、進んで行う寄付まで否定はしなかったはずだ。









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古い欧米人が初音ミクを嫌悪する訳

いかにも確からしい論というものには気を付けた方が良い。
渡部昇一氏の1990年の著書『日はまだ昇る―日本経済「不沈」の秘密』に、私は長い間「洗脳」されていたことになる。
無論、渡部氏に悪意はないだろう。
また、あくまで昔の本で、渡部氏も今は考え方を変えているかもしれない。

簡単に言えば、こんなことが書かれている。

日本の産業が発展し、経済大国になれたのは、手塚治虫氏の漫画『鉄腕アトム』のおかげである。
なぜなら、日本の工場でロボットがスムーズに導入されたのは、鉄腕アトムのおかげで、日本人のロボットに対するイメージが良いからである。
西洋では、ロボットのイメージはフランケンシュタインであり、ロボットに対する抵抗が大きいので、ロボット導入がされなかった。
他にも、日本では松下幸之助氏のおかげで終身雇用が定着しているが、外国ではロボットで合理化されたら従業員がリストラされるという事情もロボット嫌いに拍車をかけていると書かれていたと思う。
私は、日本人が抵抗無くロボットを導入できたのは鉄腕アトムのおかげという論を気に入って信じてしまっていたのだ。
ずっとね。
しかし、「鉄腕アトムと工場のロボットは全然違うだろ」「フランケンシュタインとロボットは違うだろ」という疑問は感じていたが、それは抑え付けてしまったようだ。

渡部氏は、日本の大学で、あるカナダ人教授に学生が鉄腕アトムの歌を英訳で歌って披露した際、歌詞の「みんなの友達、鉄腕アトム」のところで、カナダ人教授が真っ赤になって激怒した話を述べている。
カナダ人教授が、「なんでロボットが友達なんだ!?バカを言うな!」と言って怒ったのだが、それは、西洋人にとってフランケンシュタインであるロボットが友達のはずがないから・・・という論理である。

もし、日本が、アメリカ等より産業ロボットがスムーズに導入されたのだとしたら、その理由は、おそらく、日本の多神教的なアニミズム(全てに神霊が宿るという考え方)の文化のためだろう。
日本人が、「ものを擬人化して愛好する」、「非実在を実在として捉える」ことは、今日のキャラクター文化を見ても明らかだ。
そのために、日本人は産業ロボットも擬人化して親しむことができたのだ(日本で、産業ロボットに人間のような名前をつけていたことは渡部氏の本にも書かれている)。
しかし、欧米では、そんなことはしないので、ロボットを「難しいもの。巨大で恐いもの。メンテが大変だ。初期導入やメンテのコストがかかる」と考えるし、何より、洋の東西を問わず、これまでと違ったやり方をするのは抵抗があるが、それは、工場の歴史が長く、作業スタイルが確立していたアメリカ等の労働者や管理者の方が大きかったと考えられるだろう。

私の主観だろうが、渡部氏はかなり偏った考え方をする人で、面白いと思うことはあっても、彼の本は奇異を通り越して滑稽に思えるものが多いと思う。
いや、もちろん、主観である。こう言う者が一番偏っているかもしれない。

ところで、カナダ人教授が、「みんなの友達、鉄腕アトム」で怒ったことに類似すると思われる話がある。
Youtubeで見たが、西洋の年配の人達に、初音ミクのコンサート映像を見せたところ、その人達が、露骨なまでの拒否、嫌悪の反応が見せるという、テレビ番組の企画のようなものがあった。
日本人は、非実在の初音ミクを、実在として捉えて愛するが、そのようなことは、従来の西洋人には考えられないことだろう。
カナダ人教授も、鉄腕アトムに、嫌悪までするかどうかはともなく、少なくとも、友達というのは受け入れ難かったに違いない。
日本人は、人形浄瑠璃においても、人形に対して人間以上に感情移入するが、これは西洋人には理解できず、実際、人形浄瑠璃は西洋ではあまり受け入れられない。
一方、『アナと雪の女王』などのディズニーアニメを見ても分かるが、人物が人間的に描かれていて、ヒロイン達もオバサンっぽい感じが強い。
日本のアニメヒロインのような大きな目、描かれない場合も多い小さな鼻と口、全くシワのない肌・・・というのは、ディズニーアニメにはない。
私は、ディズニーアニメのキャラクターの、人間の自我が表に現れた雰囲気が不気味で、好きではなく、実際、子供の頃から、無理に見せられたこともあったかもしれないが、そんな場合を除き、ディズニーアニメは1本も見ていない。
ミッキーマウスですら、人間的いやらしさに満ちた顔つきであり、私は昔から怖かった。
このように、西洋では、擬人化の際も、非実在のものを、実在にしっかりと近付けてから、「少し」擬人化するのだ。
西洋でも、妖精のような全くの非実在の(ものと考えられる)ものを実在と捉えることもあるが、そのようなものは、必ず、恐ろしい面を持っていて、日本人のように愛好したりはしない。
例えば、ホフマンの『砂男』(バレエ『コッペリア』の元になった怪奇小説)で、機械人形の少女オリンピアを熱愛する青年ナタナエルは、狂気にとりつかれていただけと見なされる。
フーケーの『ウンディーネ』や、ジロドゥの『オンディーヌ』でも、水の妖精の少女は、美しくてもどこか不気味で、彼女達を愛する騎士は、結局、悲惨な死をとげる。

だが、日本のアニメキャラは今や欧米の若い層に受け入れられ、初音ミクを愛する西洋人も増えてきている。
絶対的価値が支配しやすいリアルな世界は、一神教で客観的な西洋人的な考え方が合う場合が多いが、主観的価値観を持ったキャラクターとしての人物同士が交流して共感を生むネットは、多神教で主観的な日本人向きで、ネットの普及と共に、欧米人も日本人化する(している)という考え方があるが、それは当っていると思う。
だから、異なった価値観を持つ者同士が、お互いを尊重し、仲良くしていける世界観を、日本人は世界に示す必要がある。









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『魔法少女禁止法』と、チェーホフの『かもめ』

今は、「漫画の王様」手塚治虫さんは尊敬されているが、昔はそうではなかった。
現在でも、そんな傾向はあるかもしれないが、昔は、漫画やアニメは、低俗なもの、馬鹿な子の見るもの、立派な家庭では子供に見せないものと決められていた。
今でも、そんなふうに扱われるものは色々ある。
なぜそんなことがあるのかというと、「能力の無い人間ほど、他人を馬鹿にする理由を欲しがっている」というだけのことなのだ。
他の人が漫画を見ていたら、「漫画を見ない自分は偉くて、漫画を見る他所の子やその家庭はレベルが低い」ということにして、自己満足するのである。
可哀想に、そんな人は、堂々勝負できるようなものが何もないので、そういったことでしか自分を慰めることができないのだ。
今では、初音ミクやそのファンも攻撃目標になっている場合もあると思う。

だが、そういったことが理解できている者ですら、他人を見下したり、優越感を求める愚を犯すと、そんな惨めな連中と全く同じになってしまうのだ。
「私は、いかなる人も決して見下さない」と決意しておくことだ。
確かに、世の中には、良心を持たず、著しく、倫理感に欠ける人間もいるかもしれない。
しかしね、私だって、いつ、彼らと同じ状態にならないとは限らないし、ひょっとしたら、自分で分からないだけで、今でもそうなのかもしれない。
そして、おそらく、自分が非難したい相手というのは、少なくとも、自分と似ているのだ。
でなければ、怒りとか、蔑むといった感情が起こったりしない。
だから、極悪非道な犯罪者を見て、「死刑にしろ!」と声を荒げる者には注意しなければならない。
少なくとも、私には、犯罪者の中に、自分と似た何かは確かに感じるのである。

昔は、漫画やその読者が蔑まれていたということを書いていたら、ちょっとくどい話になってしまった。
申し訳ない。
ところで、私は、少し前に、『魔法少女禁止法』という本を気紛れに読み始めて、すっかり夢中になったが、この本やその読者が見下される可能性も、かなり高いかもしれない。
この本は、今でも、Amazonの電子書籍の、日本の小説・文芸部門の2位で、少し前は1位だった。
だから、人気はあるのだが、むしろその分、イロモノ、サブカルチャーの悪いイメージを背負うものだと思う。
この作品は、1960年代の『魔法使いサリー』や『秘密のアッコちゃん』から、70年代、80年代の魔法少女もの、そして、1990年代の『美少女戦士セーラームーン』等や、そして、現代の『プリキュア』シリーズまでの魔法少女ものを寄せ集めたパロディで、基本的に娯楽作品ではあるが、どこか一部に貴い何かを持っている・・・そんな作品だ。
この作品を頭から馬鹿にしてかかる者には決して分からない、貴重な何かが確実にあるのだと思う。
それは、こんなデタラメな作品でなければ発揮することができない、作者のどこまでも自由な想像の中からしか生まれないものだが、それでも、作者は、出版上という理由だけでなく、どこか厳しい制約を設けているのだと感じる。
その後で、私はチェーホフの戯曲『かもめ』を読み、現代の刺激的な小説と比べて、相当な退屈さがあったのは認めるが、それでも、この作品を創造した偉大な魂にすっかり打ちのめされるほどだった。
そして、『魔法少女禁止法』にしろ、『かもめ』にしろ、そこにある精神の力を感じることができない人が多いのだと思うが、「『かもめ』は素晴らしい作品だと思うが、『魔法少女禁止法』は馬鹿げた作品だ」と言うなら、おそらく、両方とも分かっていないのである。









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乞食にいて欲しいと思う

乞食を見なくなった。
海外にはまだまだ見られる国もあるのだろうが、日本で乞食をやってたら、連行されてしまうことだろう。
乞食がいたら、外国人に見られたら日本の恥という考え方もあるのかもしれない。
しかし、乞食は必要なものだと思うのだ。

手塚治虫さんの作品で、ある大会社の社長である、まだ若い(詳しく覚えていないが30代か)男性が、こっそり乞食をやっているというものがあった。
乞食をやっていると心が安らぐので、もうやめられないのである。
彼は、会社では、一番偉くて、敬われ、恐れられているのだが、乞食というのは、自分より下はないという存在だ。
どれほど蔑まれても仕方がなく、プライドなど持ちようがない。
しかし、考えてみれば、これほど理想的なものはない。
蔑まれることを受け入れる。
これは、実は人間として最強であることであり、老子もそのようなことを述べているはずだ。
釈迦もイエスも乞食だったのだと思う。

ところが、昔は、乞食を「お乞食さん」と言って、実際はそれほど蔑むこともなく、お金を恵む時も親しみを持って渡す人も多かったのだと思う。
また、職業としての乞食には、やはり、乞食のスキルというものがあるはずだ。
それは他の仕事と何も変わらない。
無能唱元さんの本で読んだが、アメリカの大金持ちの乞食や、アイルランドのジプシーの金持ちの乞食の女性の話がある。
有能な乞食なのだろう。
ただボロを着て、惨めそうに座っているだけでは、なかなか恵んでもらえないのだと思う。
一般の商売と同じで、サイフを開けさせる何かが必要なはずだ。
私が思うに、乞食だって、肛門が締まっている乞食は儲けが大きい上、楽しいとまでは言わないが、それなりに充実すると思う。
もっとも、常に肛門を締めることを意識すれば、金が入るようになり、別の仕事に就くかもしれない。

托鉢僧なら、たまには見る。
乞食と托鉢僧を一緒にしたら怒られるだろうが、ちゃんとした宗教の本にも、托鉢僧と乞食が等しいような書き方をしているものもあったと思う。
それに、私には乞食を見下す理由は何もないし、僧というだけでは崇める気もない。
元来、僧というのは、肛門を締める訓練をしているのだと聞いたことがあるが、どうも、肛門が締まってなさそうな雰囲気の僧が多いのではないかと感じるのである。

乞食が身近にいてくれたら、施しがし易いので助かる。
ネット上でも、いくらでも寄付を受け付けているが、私はネットでクレジットカードを使いたくないし、インターネットバンキングは、これも今は不安があるというのと、やや面倒だ。
かといって、募金箱は苦手で、あまり近寄りたくない。
募金箱での募金活動に子供を使ったところで、本気でやっているわけでないのだから、子供であることで、かえって近付くのに抵抗を感じさせられるのだ。
募金箱を持つことにだってスキルがある。
元気良く、「○○募金に協力をお願いしま~す!」ではいけないのだと思う。
それなら、じっと静かに立っていて欲しいと私は思うのだ。
「ありがとうございます」どころか、反応も不要である。
そうであれば、どんどん入れたいと思うのだ。

賽銭箱が置いてある神社はいくらかあるが、喜んで入れたいという雰囲気でない。
初詣などで大勢の人が賽銭を入れることがあるが、あのようなものに加わる気にはとてもなれない。
それに、賽銭が好ましい使われ方をしているのか、さっぱり分からない。
私としては、乞食か、惚れ惚れするような托鉢僧に渡したいのである。

施しとは不思議なもので、施せば、必ず運がよくなり、何百倍何千倍(あるいはそれ以上)にもなって金が戻ってくる。
時々気紛れに大金を寄付するより、常時、施しをすると、運命は恐ろしいほど好転する。
ただ、「一割献納」とかいって、収入の1割を寄付することを勧める者がいるが、これは多過ぎる。
月給の手取りが30万円として、一割の3万円を寄付できる人なんかいない。
この場合、収入の1~5パーセントの3,000円から15,000円が適当である。
お乞食さんがいたら、毎月、給料の中から施す分を最初から取っておき、それがなくなるまで施せば良いのだから簡単だ。
ニートで収入がなくても、親からもらう小遣いが月1万円なら、百円から五百円を施せば良い。
それで運命が好転し、良い仕事に就けるか、無職のままで収入を得るようになる。
肛門を締め、自分の願いが既に叶ったとして、たとえば、「私の月給は50万円だ」と自分に常に言い、そんなふうに振舞えば、それが現実になる。
昔から、乞食に規則正しく施す人は、一生豊かだったのだ。









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若き天才作家達の創造力の秘密

手塚治虫さんの『ジャングル大帝』や『リボンの騎士』、石ノ森章太郎さんの『サイボーグ009』や『仮面ライダー』など、歴史的な漫画作品のほとんどが、彼らの20代か、せいぜいが30代前半までの作品であるということは興味深い。
他の著名な漫画家の作品についてもほぼ同じようなことが言えると思う。
ちばてつやさんの『あしたのジョー』(原作は梶原一騎さん)もそうだし、武内直子さんは世界的ヒット作『美少女戦士セーラームーン』を23歳くらいで描き始めたと思う。
それでも、これらの作品は年配の人をも惹き付ける精神的な深さも充分にあるが、そんな作品を、そのような若さで描くことができたというのはやはり、彼らは天才なのであろうか?

漫画家になるような人は、例外なく、幼い頃から絵を描くことが好きで、しかも、その絵の上手さは普通の子とは比較にならず、「この子は大画家になるんじゃないだろうか?」と言われたような人ばかりであったと思う。
手塚治虫さんは、あまり絵が上手いとは認識されていないかもしれないし、私も割と最近までそう思っていた。
しかし、数年前に宝塚にある手塚治虫記念館で手塚さんが中学生の時に描いた写実画を見たが、「やっぱり絵だけでも天才だ」と思うほど素晴らしいものだった。
人気漫画家というのは非常に忙しく、1つ1つの絵にかける時間が厳しく制限されるのだということは、理屈では分かっていたが、改めてそれを思い知った気がしたものだ。
男性漫画家としてかなり繊細な描写をしていた楳図かずおさんも、やはり売れていた頃は殺人的な忙しさであったらしいが、それであれだけ描けるのであるから、その気になれば、画家やイラストレーターとしても相当なものであったと思う。
だから、漫画家で成功するには、絵を描く才能というのは絶対的条件と思う。
その上で、素晴らしいストーリーを創り、あるいは、たとえ原作が別にあったとしても、それを輝かせる創作力が必要であるのだろう。
だが、特に売れっ子作家の場合、ストーリーなどを考える時間、エネルギーも限られているはずなのだ。

そう考えると、思うのであるが、逆に、漫画家が20代で代表作を描くのは、その多忙さゆえではないかという気もするのだ。
もし、その時の彼らに十分な時間があって、お金の心配もなく、余裕を持って描いていたら、おそらく、今残っているような傑作を描くことはなかっただろう。
普通に考えるなら、若い作家の作品の致命的な欠点は、技術的なことよりも、自己主張の稚拙(幼稚で未熟であること)さであると思う。
だから、本当は、特に若い作家は、作品に自己主張を持ち込むべきでない。
ところが、上にも述べた大作家達の若い時の代表作には、むしろ、大いなる自己主張が見られるに違いない。
しかし、それは、彼らの個人的な自己主張ではないのだ。
ここが重要なところだ。
忙し過ぎて、私的な自己主張等などは考えている余裕はなかったはずなのだ。
作品の中にある精神的なものは、一見、彼らの個人としての思想、信念、情感のように見えて、実はそうではない。
多忙のために、普通に言う思考のようなものは飛んでしまっていて、彼らの心の奥深くにあるものが現れているのであり、それは、もはや、個人的な精神とは言えないのだと思う。

小説家の場合であるが、筒井康隆さんには素晴らしい作品が沢山あるのに、『時をかける少女』を代表作のように書かれることがよくあるのは、おそらく本人にとっては不本意であろうと思う。
この作品は、筒井さんにとっては、多分、さほどの思い入れはないのではないかと思うし、おそらく、それほど情熱を込めて書いたものでもないと思う。
しかし、だからこそ傑作になったのだということも、上に述べた漫画家の場合と似ているように思う。
実際、『時をかける少女』は、表面的に見れば、表現的には10代の若者向けに(元々、中学3年生の学習雑誌用に書いたものらしい)簡明に書かれ、ストーリーも比較的単純で、過去にも似たようなものがあると言えるかもしれないが、それでも、恐ろしいほどの傑作であると思う。

プラトンの『ソクラテスの弁明』に書かれているソクラテスの話の通り、いかなる職業であれ、優れた創造的活動は、作者とされる者が行っているのではない。
ソクラテスは、教師として自分が話すこと全てが、自分が考えて言っているのではないことに気付いていた。
自分の教えが自分の個人的なものではないことを知っていたという理由で、彼は自分を知恵者だと言った。
決して、自分の個人としての考え方が優れているから自分は賢いと言ったのではない。
むしろ彼は、自分自身は何も知らないのだと言ったし、それをはっきりと自覚していたのだ。

プラトンがソクラテスの言葉を書き写した、『ソクラテスの弁明』には、創造の偉大な秘密が明かされているのである。
ところで、個人的に制作したものだと思うが、Kindle電子書籍の藤田大雪さんの『ソクラテスの弁明』が非常に良いと思う。わずか150円なので、Kindkeが利用できる方は読んでみられてはと思う。
また、よろしければ、初音ミクがサファイア王女に扮して歌った、『イーハトーヴ交響曲』のアンコール曲『リボンの騎士』をご覧になられたい。









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