ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

手塚治虫

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ジョークが通じない相手

昨日、ツイッターの中で、だいたい、こんな感じの発言を見て胸が痛んだ。
「ジョークが通じないやつは始末に負えない。俺はそんなやつと友達になれない」
それで思い出したのが、以下のことだ。

手塚治虫の漫画には、よく、ロックという名の悪役が登場する。
それぞれの作品で、全く別人なのだが、名前だけでなく、容姿や性質は、全くと言って良いほど同じである。
つまり、ロックは、若く、超美男子(今流には超イケメン)で、超絶頭が良く、そして、極悪非道冷酷非情な大悪人で、今流行りの言葉で言えばサイコパスにも該当するだろう。
手塚治虫は、ロックというキャラクターに、何か深い思い入れがあるのだと思う。しかし、私は、手塚さんの自伝的著作を少しは読んだことがあるが、それ(手塚さんのロックへの想い)が何かは、まだ分からない。

手塚作品で、ロックという名の男が人間的感情を見せることはない。
ところが、私が知る範囲でだが、ただ1つの大きな例外がある。
つまり、ロックが全く普通の人間のような心を見せたことがあり、まるで、その作品に関して言えば、ロックは生まれつきのサイコパスではなく、大悪人になった理由があったと思えるのだ。
ただし、あくまで、その1つの作品に関してだけである。
その作品は『バンパイヤ』(連載:1966~1969)だ。
バンパイヤ村という、何かのきっかけで動物に変身してしまう人々が住む村があり、その村の15歳の少年であるトッペイ(月を見ると狼に変身する)がロックと出逢う。

※以下、『バンパイヤ』のネタバレを含む。
ロックは、生まれつき頭脳が超優秀だったこともあり、普通の子供とは違っていたのだろう。
それで、他の子供達からは異物として排除され、学校でも孤立し、友達がいないばかりか、頭は良くても肉体的には普通なので、いじめの標的にされていた。
そんな辛い日々を送っていたが、風介(ふうすけ)という名の、頭は悪いが純朴で、正義感と、そして身体が強い少年が、いじめっ子達からロックを守り、友達になってくれる。
時が流れ、生来の悪魔であったように、悪の限りをつくしていたロックだが、そこに、不意に風介が訪ねて来た。
風介との再会の瞬間、ロックは喜びに打ち震えるように相好を崩した。まるで、自分が悪党であることを忘れてしまったかのようだった。
だが、ロックに悪いことをやめさせ、まともな人間にしようとする風介は、ロックには邪魔だった。
ロックの投げたナイフが風介の胸を貫き、ロックが「悪く思わないでくれ」と言うと、風介は「悪くは思わないが、びっくりしたなあ」と言って息絶える。
最後まで風介は、心でもロックを裏切らなかった・・・つまり、ロックを信じていたのだ。
ううう・・・(筆者の泣き声。笑)

最初の「ジョークが通じないやつとは友達になれない」と言った者の話に戻る。
頭のレベルや趣味や主義などが違えば、ジョークは通じない。
ある者にはジョークであっても、別の者は、その発言で怒ったり、悲しんだり、時には深く傷つく。
世の中では、上流の人間がジョークで言ったことが、下流の人間には、とても笑えないことがあり、上流の人間である政治家や偉い先生などの有名人が、そんなジョークで糾弾されることがある。
すると、上流の人間が、自身の発言を「失言」として謝罪するが、彼は、本当は自分の発言がなぜ悪いのか理解していないことも多い。
本当にモラルに反しているなら、責められても仕方がないかもしれないが、発言した当人にしてみれば、配慮には欠けたかもしれないが、本当にただのジョークのつもりだった場合もあるだろう。
しかし、人間の種類が違えば、ジョークは通じない。
だが、偏見を捨てれば、分からないはずのジョークでも「笑ってあげられる」かもしれないし、ジョークが通じなくても、仲良くなれるかもしれない。
ロックや風介がジョークを言ったかどうかは分からないが、もし、言ったとしても、お互いにジョークが通じなかった可能性が高い。
それで、一時的に彼らの友情が崩れることもあるかもしれない。
しかし、友情であれ、愛情であれ、それが本物であれば、そんなことがあっても、むしろ、絆は強くなる。
いや、そんなことがなければならない。
異なる者同士が理解し合うことが本当の友情や愛情だ。
今の人類は、まだまだ、そのレベルに達しておらず、似た者同士でくっつきたがり、すぐに対立、異物の排除といったことが起こる。
だが、起こっても良い。限度をわきまえる知性や理性があればだが・・・
人間には、時にぶつかり合いも必要である・・・と、『美少女戦士セーラームーンS(スーパー)』で、タキシード仮面も言ってたなあ(笑。セーラームーンが、ウラヌス、ネプチューンと戦う時)。

◆KayのTwitterホーム








現実創造ツールとしての漫画

非常に沢山の賢者達が、世界を思うがままに創造することが出来る精神を持つために最も有効な訓練は「自己観察」だと述べている。
これは、「自分を他人のように観察する」訓練だ。
自分が、空に浮かぶ大きな目にでもなったつもりで、あるいは、壁の目とか、自分の身近にいる幽霊にでもなったつもりで自分を観察するのである。
冷徹な科学者のように、ただただ、無批判に自分を観察する。身体も思考も行動も反応も全てである。

このような話を見たり聞いたりした人は多いと思う。
そりゃ、賢者の本には、大抵書かれているからね。
やってみたことがある人もいるだろう。
でも、誰も、超人にも、魔法使いにも、神様にも、無敗のナンパ師にも(笑)なっていない。
なれるはずなのに。

19世紀のスイスで、教師であり、作家であり、政治家であり、そして、画家であったロドルフ・テプフェールは、1枚の紙を4つほどのコマに分け、各コマに簡易な絵と説明を書く、新しい形の表現を発明した。
小説では、文章の中に挿絵があるが、それをひっくり返し、絵の中に「挿文」を入れたのだ。
漫画の誕生である。
漫画は「絵画言語」とも言われる。つまり、「語る絵」なのである。
テプフェールは、今日では一般的な、吹き出しの中にセリフを書く手法は使っていないが、テプフェールこそが漫画の発明者と考えて良いと思う。
セリフの吹き出しは、誰が始めたのかは分からないと思うが、日本で初めて、セリフの吹き出しが使われたのは、画・樺島勝一、作・織田小星の『正チャンの冒険』と言われている。
そして、漫画は、宿命的に低俗なものと蔑まれることも多い中で、世界的に人気を得、さらに発展している。
私は、漫画ほどに、人類を前に進めた発明は滅多にないと思う。

「漫画の王様」と言われる手塚治虫の、漫画への貢献は偉大であった。
その手塚治虫は、漫画の絵は記号であるとよく言っていた。
手塚治虫が中学時代に描いた絵を見たら「天才か」と思うほどの腕前であるが、その腕を敢えて隠し、シンプルな線で描いた記号である漫画絵は極めて雄弁である。
人間の創造力ゆえに、読み手の数だけの宇宙が創造されるのだ。

賢者達が勧める自己観察の行は、自分を漫画のキャラクターと考えるとうまくいく。
なぜなら、人間の脳は、まさに、そのやり方に適合しているからだ。
つまり、シンプルなものに対してこそ、深く多様な想像力を発揮するのが脳なのである。
自分の状況を、心の中で、漫画の1コマに変換して眺めると、その瞬間が生き生きと浮かび上がり、的確な観察が出来るだけでなく、ストーリーの流れまで読める。
例えば、自分は面白くない学生生活や会社員生活を送る平凡なつまならい人間というコマがここにある。
その中で、自分が、どんな気持ちでいるかも分かる。
例えば、クラスの中や、会社の同じ部署の中に、可愛い女の子がいて、何とか彼女と仲良くなれないものかと考えているキャラクターとしての自分が存在する。
それなら、続きは、彼女と仲良くなって、あんなことやこんなことをしている(笑)漫画にすれば良い。
漫画なんだから。

『ザ・シークレット』、あるいは、DVDの『THE SECRET』で、世界的作家のニール・ドナルド・ウォルシュは、同じことを「神の黒板」を使って説明している。
現状が、例えば、「21世紀の初頭、ニール・ドナルド・ウォルシュというハンサムな男がいた」と、黒板に書かれていて、後は、自分の好きなように書けば良いと言うわけだ。
しかし、よほど想像力がないと、黒板では、ちょっとやり難いのである。
だが、最も優れた「想像の道具」である漫画を使えば簡単だ。
まずはあせらず、自分の現状を、心の漫画として、絵、説明文、必要なら、セリフの吹き出しを使って表現し、客観視することだ。
そして、望む展開を、絵や説明文やセリフで思い描くと良い。
ただし、いきなり、可愛いあの子と、あんなことやこんなことをしているコマを考えると、なぜかうまくいかない。
なぜなら、現実という漫画は確かに心が作るが、心は魂から生まれたものであり、魂は生命であり愛であるからだ。
だから、モラルや良心のないコマは、生命力を持たない。
確かに、宇宙には、マイナスの魂という存在もあり(『エメラルド・タブレット』参照)、その力を集めてインモラルな欲望を叶えた者もいるが(ヒトラーやスターリンなど)、その代償は自分の魂であり、しかも、叶う夢も春の世の夢のごとく儚いものである。








世界の創造主に愛されるには

この世界が漫画で、自分が漫画のキャラクターだと考えると、私の知る範囲の哲学、思想、宗教、科学、その他のあらゆることに説明が出来てしまうことが分かった。
これは驚くべきことだ。
作者は神であり、主要な登場人物は、作者と意識を共有する、あるいは、作者の意識の一部を持つ。
モブキャラ(群衆キャラ、背景キャラ)は意識を持たないが、自分が意識を持っていることを自覚出来るなら、モブキャラではない。
また、主要な敵キャラには、作者の変質された部分の意識を持つことが多いが、その意識が、大きく、強くなることもある。いわゆる、「偉大な敵」である。

さて、今回は、主要キャラである我々が、この漫画の世界で幸福になる・・・願いが叶い、自己実現し、人生に満足する方法について述べる。
漫画のメインキャラが不幸な結末に終わることはなく、もし、そうなった(バッド・エンドになった)と思われる場合でも、メインキャラの魂は救われ、少なくとも楽しんでいる。
キャラクターの死亡、あるいは、作品の終了と共に、キャラクターの意識は消えるのであるが、それは、単に、作者の意識の中に吸収されるだけである(それを恐れるのは勘違いであるが、ここでは説明しない)。
そして、漫画の読み手が現れた時に、別次元でキャラクターの意識が生まれるのである。
読み手が途中で読むのを止めたり、途中から読み始めても同じことである。漫画の一部は全体である・・・一部が全体で、全体が一部であるホログラム構造になっている。
まあ、細かいことは考えなくても良い。
要は、どうすれば、ハッピーでいられるかだ。
それには、神に愛される者がハッピーであるように、作者に愛されるキャラがハッピーである。
作者が、そのキャラを好きなことは、読んでいれば分かるだろう。
不屈の心を持ち、信念があり、自分の正義を貫く・・・まあ、なかなかそれを完全には出来ないが、それをやろうとする。
そして、その根本にあるのは、「魂の声を聞く」ということである。
魂の声を聞いていれば、不安はない。
だから、主役級のキャラは、言い訳をしないし、泣き言を言わないし、欲張らない。

ただ、言葉で書けば、あまりに「ご立派なキャラ」でついていけないと思うかもしれない。
だが、作者は、弱いキャラを慈しみ、守ってやりたいのだ。神が人間に対して、この上なく慈悲深いように。

手近治虫の『マグマ大使』という古い漫画がある。
地球を作った、神にも等しい存在であるアースは、ロケット人という、人間とロケットの合(あい)の子(混血。中間)の夫婦である、マグマ(男性)とモル(女性)を作った。
人間でいうところのアダムとイブだが、高度な知性と正義の心を持ち、自分の創造主であるアースを心から敬ってはいたが、自立的で独立した存在でもあった。
アースとマグマ、モルが住むところに、人間の少年である、まもる(小学校の高学年だろうか)が連れてこられた。
アースとマグマ、モルが、まもるとやり取りをし、要件が片付いた後で、マグマは「アースさま、お願いがあります」と言う。
そして、マグマは、「私は、この坊やが好きになりました」と言い、アースを驚かせる。
つまり、マグマとモルは、まもるのような子供が欲しいと言うのである。
マグマは、まもるの勇気に惚れたらしい。きっと、自分の正義を貫く勇気だ。
モルは、単にまもるを可愛いと感じたのだが、マグマが感じた勇気の部分もあるのだと思う。
そこで、アースは、まもるとそっくりのロケット人を作り、マグマとモルは大喜びし、モルはこのロケット人の子供に「ガム」と名付けた。
マグマのようなメインキャラに愛される、まもるは、作者に愛されていると言って良い。
よって、我々は、まもるをモデルにしたキャラクターになれば、作者に愛されるのである。
一方、この漫画の中には、地球侵略をたくらむ、ゴアという怪物宇宙人が登場する。
そして、ゴアもまた、主要キャラであり、作者に分け合らえられた意識がある。
いや、実は、ゴアは作者の投影ですらある。もちろん、作者の人格全体の投影ではないが、分身であることも確かだ。
読者もまた、ごく一面かもしれないが、ゴアを好きになるかもしれない。
私に関して言えば、ゴアに共感し、ゴアとの一体感を感じたので、ある意味では、作者と融合したのである。

幸福になりたいなら、作者に愛されるキャラクターになることで、どんなキャラクターになれば良いかは、いろいろな漫画作品を見れば分かって来ると思う。








願いを叶え易い漫画イメージ法

願いが叶った様子をイメージすれば叶うと言う。
イエスは、「願いがあれば、叶ったと思え。そうすれば叶う」と述べたと福音書に書かれている。
しかし、願ったことが実現したイメージとか、あるいは、叶ったという思いは、1つの願いであったとしても、複雑だったり、不明確だったり、気分によってコロコロ変わったりで、実際のところ、手に追えないのではと思う。

ところで、最近、私が気に入っている考え方は、「自分は漫画のキャラクターだ」というものだが、実際に、その通りだと思っても良いと思う。
もちろん、自分は、映画の登場人物だとか、アニメのキャラクターだと思っても良いし、「20世紀最大の詩人」と言われたW.B.イェイツは劇を演じている役者だと言った。
だが、これらの中で、漫画が格段に単純でイメージし易い。
映画やアニメや劇は、自分が望む情景を動きや、時間の推移の中でイメージしなければならない。
一方、漫画は、1コマの絵(静止画)で済んでしまうのだ。
そして、漫画をよく読む人なら、漫画の絵は動かなくても、心によって、音や動きを感じ、映画や、あるいは、現実世界より生き生きとしていることだってあると思う。
ならば、願いが叶った様子を漫画でイメージすれば良いのである。

例えば、高収入になった様子を、映画や、アニメや、劇でイメージしようとしたら大変だ。
1つの場面では意味をなさず、場面の移り変わりと動きの中でイメージしなければならず、そもそも、お金が沢山入って来ることを、どうイメージすれば良いか難しい。
しかし、漫画であれば、たった1コマで良いのだから簡単だ。
例えば、ポルシェの運転席に座ったり、飛行機のファーストクラスに乗ったり、高い服を着ている1コマの絵で十分だ。
そして、コマ内に、「高収入になり、ポルシェを買った」などと書いておけば、さらに明確になる。
あるいは、ゆったり落ち着いてソファに座っている自分を描き、「高収入になった」の一行を足せば良い。

私が、小学校5年生の時、学校の図書館で、シーラカンスの本を読んだことがあった。
その時、頭の中で、自分がテレビを付けたら、シーラカンスの映像が出る漫画の1コマを思い描いたことがある。
家に帰る頃には、そんなことは忘れていたが、家に帰った後、何の気なしにテレビを付けたら、何やら、大きな魚が泳いでいる映像が映っていたが、それはシーラカンスだった。
このようなことは、何度も書いたと思うが、頻繁に起こしている。
世界って、本当に漫画なのである。

手塚治虫は、漫画は絵ではない、記号だと言ったが、それはやはり、漫画では、ものごとを単純に表現出来るということだ。
そして、さっきも述べたが、想像力があれば、単純な記号であっても、十分にリアルなのである。
それは、空の雲がお菓子や動物に見えたり、壁のシミがオバケに見え、しかも、それが心を大きく動かすことと同じなのである。

上で述べた「漫画イメージ法」を使えば、世の中に大きな影響を与えることでなければ・・・つまり、個人の潜在意識の範囲のことなら簡単に叶う。
そして、やがて、世界を動かすことも出来るようになる。
その際に、重要なことは、欲張らないことと、モラルを持つことである。
なぜなら、欲張ると、自分が責任を負えないようなことを望み、もし叶ったら、大変な目に遭うからだ。
そして、モラルがないと、世界からの反発を受け、叩きのめされることになるのである。








あなたの顔も千年後は超イケメンかもしれない

自己肯定感とか自己重要感が欲しいという気持ちも分かるが、人工的な自己肯定感や自己重要感を持つと、それが壊れた時が大変だ。
そして、それは必ず壊れる。
岡本太郎のように、「俺が宇宙だ」とか「俺は親に生んでもらったのではなく、自分で生まれてきた」なんていう頭のおかしな人(笑)の真似をしても、普通はただの頭のおかしな人としか見られない。
では、精神病院の中には、「俺は宇宙の帝王だ」と主張する男や、「私はキリストの愛人よ」と言うオバサンが沢山いるのに、岡本太郎とどこが違うのだろう?
それは簡単な話で、精神病患者は優劣を立てるが、岡本太郎にはそれがない。
要するに、精神病患者は、「私はキリストの愛人だから偉い」という考えがあるが、岡本太郎にはそれがない。つまり、「俺は宇宙だ。だが、別に偉くない」というのが岡本太郎だ。
優劣を立てなければ、頭のおかしさだって偉大さになる。

何度か書いたことがあるが、私は小学4年生の時、クラス1、いや、学年1かもしれない美少女と、最底辺の女子を見比べ、
「同じ人間なのに、どうしてここまで違うのか?」
と真剣に悩み、自然に、「前世の行いのためだろうか?」と本当に思ったものだった。
でないと、理不尽過ぎる。
だが、私が、そのように、2人の女子に優劣をつける限り、私も自己肯定感、自己重要感を求め、自分が優れている理由を探さないといけないのだ。
その2人の女子は、全く等価なのである。
それが分からない者が、つまらない、作り物の自己肯定感、自己重要感を欲しがるのである。
だいたい、催眠術を使えば、この2人の女子の評価を反対に感じることは容易いのである。
手塚治虫の『ザ・クレーター』という作品の中の『巴の面』は、武士の時代のお話だが、巴姫という女は、心は優しいのに、ひどい醜女(ぶおんな)で不幸な生涯を送った。しかし、現在よりもずっと未来、若者の間では、巴姫のような顔が美女ともてはやされていた。
いや、そんな大袈裟なものでなくても、私は、アメリカなど、外国の映画のヒロインの中に、映画の中では美女ということになっていても、「金くれてもいらん」と思うようなのは珍しくもない。

『アラビアンナイト』のお話の1つに、この世の普通の男が、異界に行くと、そこでは、葬式でドンチャン騒ぎをして楽しんでいるのに驚き、「あなた方はなぜそんなに嬉しそうなのか?」と尋ねると、「葬式が楽しいのは当たり前ではないか」と言われてしまうお話がある。
ちなみに、私は、今なら、そんな世界に行っても、別に驚かない。
人の世の価値観は、場所により、時代により、あるいは、人により違うが、どれが優れているということもないのだ。

涼宮ハルヒが、普通でない人間を探していたのは、あくまで、この世界の価値観への反発で、本当は、普通の人間も、宇宙人も、未来人も、異世界人も、超能力者も、皆、同じである。
もちろん、好みというものはあり、好みの食べ物、好みの絵画、好みの音楽、好みの女、好みの男といったものはあるかもしれないが、自分の好みに合うことを「優れている」と勘違いすると、我々は力を失うのだ。
優等生は、「自分の点数は100点で、30点のやつより自分は遥かに優れている」と思った時から、超能力を失ったのである。
私は、手塚治虫の『ザ・クレーター』と、荘子(荘周)の『荘子』が、世間的発想を超え、超能力への扉を開く本と思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード