ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

手塚治虫

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

経験・キャリアに大した意味はない

スポーツでも武道でも音楽でも、キャリアを積んで実力をつけるのではない。
思考を消すことで実力をつけるのである。
「キャリア20年のベテラン」とか言っても、その者がコツとか金科玉条としているものは、案外に駆け出しの頃に身につけたものである。
キャリアがそんなに良いものなら、大ベテランが若い選手に勝つはずだが、やはり、若くて力がある方が勝つことが圧倒的である。
人気漫画家も、代表作は20代の時に書いており、石ノ森章太郎氏の、今でも映像化される代表作『サイボーグ009』や『仮面ライダー』がまさに20代の時の作品で、音楽家でも、坂本龍一氏の代表作は、やはり20代の時に作った『BEHIND THE MASK』である。
これは、20代の時の感性が高度であるということもあるが、彼らは何らかの理由で、若い時に思考を消すことが出来たのである。
だが、歳を取り、地位も名誉も得ると、なかなか思考を消せない。
それでも、自分が一音楽家、一漫画家であるという自覚があれば、歳を取っても思考を消して(即ち無になって)良い作品を作るが、やはり、偉くなると、考えることも多くなり、若い時ほどのことは出来ないのである。
手塚治虫氏がある程度の年齢になって『ブラックジャック』のような傑作を書けたのは、その頃、手塚氏は他の漫画家の台頭で見向きもされなくなったり、あまりに多忙だったり、また、その他の手塚氏の独特の思想性などが重なり、思考を消すことが出来たのである。
手塚氏は実に複雑で個性的な人物で、極端に思考することと思考を消すことを繰り返していたことが、彼の自伝的著書を見ても感じる。

一指も万物
AIアート113
「一指も万物」
Kay


ところで、武道で、歳を取って思考を消すことが出来れば老達人になるが、実際は、恰好だけ無になったフリをしているが、内実は我の塊(つまり、思考が多い)である者が多く、そんな者は力のある若い者に全く敵わない。
こういったこともまた、思考を消す(無になる)ことの価値が認められない原因になってしまっているので困ったものである。
一方、本物の武道家であった塩田剛三や佐川幸義は老齢になっても思考を消すことが出来、ずっと達人であった。
だが、ビジネスや工芸などの世界でよくあるように思うが、歳を取って思考を消す術を見い出して力をつけた者に対し、それが経験の力であるかのように言われたり、本人すらそう思っている場合がよくあるのが残念である。

情熱や修行を否定するのではなく、基礎は大事であるが、逆に言えば、基礎が出来ていれば、思考を消すほど力は果てしなく高くなる。
確かに、10年20年やっているのに基礎がさっぱりという者もいるが、それは、そもそも熱意がなく・・・というよりは、好きなことをやっていないことが原因だ。
一方で、「こいつ、思考さえ消せば無敵なのだが」という者は多いのである。
だが、金銭欲、名誉欲に囚われると、無への扉・・・つまり、思考を消すことから遠ざかってしまう。
とはいえ、「私は誰か?」と自分に問えば思考を消すことが出来ることが確実であることは分かっている。
だが、これを出来ない者が多いのである。
あるいは、肝心の「私は誰か?」の問いや探求に励まず、「私は誰か?」を思想的、哲学的に考えたがるのは自我(これが思考の塊である)が強い者に多い。
それこそ、余計な思考をせずに、ただ問えば良いのにである。

とはいえ、こんな簡単なことが分からない者が多いし、ある程度分かっていても、十分に「私は誰か?」と問えない者が多い。
悪霊なのか、超高度なテクノロジーで作られたマインドコントロール装置の影響なのかは分かり難いが、人間が思考を消し、神のようになることを強力に邪魔する何かはあるように思える。
それに打ち勝つ機会に恵まれた者は幸いであり、歳を取ってもそうあり続けることが必要であるが、現代人でそれが出来る者は稀である。








お金を引き寄せられない本当の理由

手塚治虫の『バンパイヤ』という作品の中で、クールな極悪人ロックは、 お金というものを見たことがないトッペイという名の少年に十円硬貨を渡して言う。
「これを沢山集めた者が勝ちなんだ」
これを読む読者は、全面的ではないにしろ、いくらかは同意するだろう。
全面的に否定する者は、まず、いないと思う。
ところが、面白いのは、ロックが言うことが正しいかどうかの判断がつかないはずのトッペイが、否定はしないながらも、怯えた表情をすることだ。
まさに、トッペイは、読者の心情を反映して見せているのである。
お金を沢山得た者が勝ちだと、信じたくはないが、否定も出来ないという苦しい気持ちを、読者はトッペイの表情に見るのである。
同時に、トッペイの反応は、お金が一番大切なものではないということも示しているのである。
実際、誰もが、お金が一番大切だとは思っていない。
たとえ口では「お金ほど大切なものはない」と言う者ですら、心の底からそう思っているわけではない。
お金が一番ではないことは、お金を一度も見たことがないトッペイですら分かることだと、手塚治虫は言いたいのだろうと思う。

だが、お金が一番大切なものではないことが、本当にはっきり分かるのは、お金の良さと悪さをたっぷり味わってからのことだろう。
ある経営者が「お金の苦労は知らない方が良い」と言っていたが、その経営者は、お金で苦労しており、それもあって、現時点では、お金の価値を非常に高く評価していると思う。
そんな時期があるからこそ、ずっと後で、「お金はそれほど大切なものではない」と分かる可能性がある。
早い話が、「お金の苦労は知らない方が良い」とあえて言うのは、「お金の苦労は知っておいた方が良い」と分かっているから言うのである。
ただし、自分の子供には、そんな苦労はして欲しくないといったところから、そんな言葉が出て来てしまうのだろう。

だが、お金の苦労を知らないと、きれいごとばかり言うようになる。
邱永漢という有名な事業家が、「地元で商売をするな」と本に書いていたことがあった。
どういうことかと言うと、金儲けというのは、地元では出来ないような、恥ずかしい面があるということだ。汚いとは言わないが、きれいごとでは済まないことが多いのである。邱永漢は、そんなことを嫌というほど知っているのだ。
じゃあ、地元で商売をして成功している人がいないかというと、そんなことはない。だが、そんな人だって、馬鹿でない限り、何らかの後ろめたさは感じている。
世界2位の富豪ジェフ・ベゾスは、アメリカ全部が地元のようなもので、Amazonでアメリカ中の小売店を潰してしまったが、一方で人類文化を大きく向上させたのである。だが、普通の人なら、膨大な数の、不幸にしてしまった人達に対する後ろめたさに耐えられない。ベゾスだって、良い面がなければ平気ではないだろう。
ずっと長く世界一の富豪だったビル・ゲイツも、自分の会社が作ったパソコン用OSを全世界に圧倒的に普及させることで、もっと良いOSを潰してしまったことは分かっているだろう。とはいえ、全ての人がコンピューターを所有し、便利に活用して、仕事や学習や生活の質を、以前は誰も想像しなかったほど向上させたのも確かで、その点は、ゲイツほどうまくやれる人はいなかったと思える。
世界一の富豪イーロン・マスクは、最近、政治的な活動が目立つが、それはまさに、正義のヒーローのような行いだ。
マスクは、少年時代に『銀河ヒッチハイク・ガイド』を読み、人類を救う使命に目覚めたというが、それがあるからやってこれたのであり、これからもやっていけるのである。
あまり言ってはならないのかもしれないが、ヤクザやマフィアは、当然、悪い面もあるが、儲けているなら、普通の人や団体では不可能な大きな善も成しているのである。
規模に関わらず、金儲けには、それに見合う善を行う必要があるのである。

引き寄せの本や自己啓発の本にはよく、お金に対する悪いイメージがあるからお金を得られないのだといったことが書かれている。
だが、お金や、お金儲けには、悪い面、恥ずかしい面も、事実としてある。
それを埋め合わせる善を持てば持つほど、得られるお金の規模も大きくなる。
サラリーマンの場合は、せいぜい、自分や家族が、人様に迷惑をかけないという善の分だけのお金が得られるのである。
ほとんどの引き寄せの本には、そんなことが書かれていないので、読んでもお金を引き寄せることが出来ない者が多いのである。








ジョークが通じない相手

昨日、ツイッターの中で、だいたい、こんな感じの発言を見て胸が痛んだ。
「ジョークが通じないやつは始末に負えない。俺はそんなやつと友達になれない」
それで思い出したのが、以下のことだ。

手塚治虫の漫画には、よく、ロックという名の悪役が登場する。
それぞれの作品で、全く別人なのだが、名前だけでなく、容姿や性質は、全くと言って良いほど同じである。
つまり、ロックは、若く、超美男子(今流には超イケメン)で、超絶頭が良く、そして、極悪非道冷酷非情な大悪人で、今流行りの言葉で言えばサイコパスにも該当するだろう。
手塚治虫は、ロックというキャラクターに、何か深い思い入れがあるのだと思う。しかし、私は、手塚さんの自伝的著作を少しは読んだことがあるが、それ(手塚さんのロックへの想い)が何かは、まだ分からない。

手塚作品で、ロックという名の男が人間的感情を見せることはない。
ところが、私が知る範囲でだが、ただ1つの大きな例外がある。
つまり、ロックが全く普通の人間のような心を見せたことがあり、まるで、その作品に関して言えば、ロックは生まれつきのサイコパスではなく、大悪人になった理由があったと思えるのだ。
ただし、あくまで、その1つの作品に関してだけである。
その作品は『バンパイヤ』(連載:1966~1969)だ。
バンパイヤ村という、何かのきっかけで動物に変身してしまう人々が住む村があり、その村の15歳の少年であるトッペイ(月を見ると狼に変身する)がロックと出逢う。

※以下、『バンパイヤ』のネタバレを含む。
ロックは、生まれつき頭脳が超優秀だったこともあり、普通の子供とは違っていたのだろう。
それで、他の子供達からは異物として排除され、学校でも孤立し、友達がいないばかりか、頭は良くても肉体的には普通なので、いじめの標的にされていた。
そんな辛い日々を送っていたが、風介(ふうすけ)という名の、頭は悪いが純朴で、正義感と、そして身体が強い少年が、いじめっ子達からロックを守り、友達になってくれる。
時が流れ、生来の悪魔であったように、悪の限りをつくしていたロックだが、そこに、不意に風介が訪ねて来た。
風介との再会の瞬間、ロックは喜びに打ち震えるように相好を崩した。まるで、自分が悪党であることを忘れてしまったかのようだった。
だが、ロックに悪いことをやめさせ、まともな人間にしようとする風介は、ロックには邪魔だった。
ロックの投げたナイフが風介の胸を貫き、ロックが「悪く思わないでくれ」と言うと、風介は「悪くは思わないが、びっくりしたなあ」と言って息絶える。
最後まで風介は、心でもロックを裏切らなかった・・・つまり、ロックを信じていたのだ。
ううう・・・(筆者の泣き声。笑)

最初の「ジョークが通じないやつとは友達になれない」と言った者の話に戻る。
頭のレベルや趣味や主義などが違えば、ジョークは通じない。
ある者にはジョークであっても、別の者は、その発言で怒ったり、悲しんだり、時には深く傷つく。
世の中では、上流の人間がジョークで言ったことが、下流の人間には、とても笑えないことがあり、上流の人間である政治家や偉い先生などの有名人が、そんなジョークで糾弾されることがある。
すると、上流の人間が、自身の発言を「失言」として謝罪するが、彼は、本当は自分の発言がなぜ悪いのか理解していないことも多い。
本当にモラルに反しているなら、責められても仕方がないかもしれないが、発言した当人にしてみれば、配慮には欠けたかもしれないが、本当にただのジョークのつもりだった場合もあるだろう。
しかし、人間の種類が違えば、ジョークは通じない。
だが、偏見を捨てれば、分からないはずのジョークでも「笑ってあげられる」かもしれないし、ジョークが通じなくても、仲良くなれるかもしれない。
ロックや風介がジョークを言ったかどうかは分からないが、もし、言ったとしても、お互いにジョークが通じなかった可能性が高い。
それで、一時的に彼らの友情が崩れることもあるかもしれない。
しかし、友情であれ、愛情であれ、それが本物であれば、そんなことがあっても、むしろ、絆は強くなる。
いや、そんなことがなければならない。
異なる者同士が理解し合うことが本当の友情や愛情だ。
今の人類は、まだまだ、そのレベルに達しておらず、似た者同士でくっつきたがり、すぐに対立、異物の排除といったことが起こる。
だが、起こっても良い。限度をわきまえる知性や理性があればだが・・・
人間には、時にぶつかり合いも必要である・・・と、『美少女戦士セーラームーンS(スーパー)』で、タキシード仮面も言ってたなあ(笑。セーラームーンが、ウラヌス、ネプチューンと戦う時)。

◆KayのTwitterホーム








現実創造ツールとしての漫画

非常に沢山の賢者達が、世界を思うがままに創造することが出来る精神を持つために最も有効な訓練は「自己観察」だと述べている。
これは、「自分を他人のように観察する」訓練だ。
自分が、空に浮かぶ大きな目にでもなったつもりで、あるいは、壁の目とか、自分の身近にいる幽霊にでもなったつもりで自分を観察するのである。
冷徹な科学者のように、ただただ、無批判に自分を観察する。身体も思考も行動も反応も全てである。

このような話を見たり聞いたりした人は多いと思う。
そりゃ、賢者の本には、大抵書かれているからね。
やってみたことがある人もいるだろう。
でも、誰も、超人にも、魔法使いにも、神様にも、無敗のナンパ師にも(笑)なっていない。
なれるはずなのに。

19世紀のスイスで、教師であり、作家であり、政治家であり、そして、画家であったロドルフ・テプフェールは、1枚の紙を4つほどのコマに分け、各コマに簡易な絵と説明を書く、新しい形の表現を発明した。
小説では、文章の中に挿絵があるが、それをひっくり返し、絵の中に「挿文」を入れたのだ。
漫画の誕生である。
漫画は「絵画言語」とも言われる。つまり、「語る絵」なのである。
テプフェールは、今日では一般的な、吹き出しの中にセリフを書く手法は使っていないが、テプフェールこそが漫画の発明者と考えて良いと思う。
セリフの吹き出しは、誰が始めたのかは分からないと思うが、日本で初めて、セリフの吹き出しが使われたのは、画・樺島勝一、作・織田小星の『正チャンの冒険』と言われている。
そして、漫画は、宿命的に低俗なものと蔑まれることも多い中で、世界的に人気を得、さらに発展している。
私は、漫画ほどに、人類を前に進めた発明は滅多にないと思う。

「漫画の王様」と言われる手塚治虫の、漫画への貢献は偉大であった。
その手塚治虫は、漫画の絵は記号であるとよく言っていた。
手塚治虫が中学時代に描いた絵を見たら「天才か」と思うほどの腕前であるが、その腕を敢えて隠し、シンプルな線で描いた記号である漫画絵は極めて雄弁である。
人間の創造力ゆえに、読み手の数だけの宇宙が創造されるのだ。

賢者達が勧める自己観察の行は、自分を漫画のキャラクターと考えるとうまくいく。
なぜなら、人間の脳は、まさに、そのやり方に適合しているからだ。
つまり、シンプルなものに対してこそ、深く多様な想像力を発揮するのが脳なのである。
自分の状況を、心の中で、漫画の1コマに変換して眺めると、その瞬間が生き生きと浮かび上がり、的確な観察が出来るだけでなく、ストーリーの流れまで読める。
例えば、自分は面白くない学生生活や会社員生活を送る平凡なつまならい人間というコマがここにある。
その中で、自分が、どんな気持ちでいるかも分かる。
例えば、クラスの中や、会社の同じ部署の中に、可愛い女の子がいて、何とか彼女と仲良くなれないものかと考えているキャラクターとしての自分が存在する。
それなら、続きは、彼女と仲良くなって、あんなことやこんなことをしている(笑)漫画にすれば良い。
漫画なんだから。

『ザ・シークレット』、あるいは、DVDの『THE SECRET』で、世界的作家のニール・ドナルド・ウォルシュは、同じことを「神の黒板」を使って説明している。
現状が、例えば、「21世紀の初頭、ニール・ドナルド・ウォルシュというハンサムな男がいた」と、黒板に書かれていて、後は、自分の好きなように書けば良いと言うわけだ。
しかし、よほど想像力がないと、黒板では、ちょっとやり難いのである。
だが、最も優れた「想像の道具」である漫画を使えば簡単だ。
まずはあせらず、自分の現状を、心の漫画として、絵、説明文、必要なら、セリフの吹き出しを使って表現し、客観視することだ。
そして、望む展開を、絵や説明文やセリフで思い描くと良い。
ただし、いきなり、可愛いあの子と、あんなことやこんなことをしているコマを考えると、なぜかうまくいかない。
なぜなら、現実という漫画は確かに心が作るが、心は魂から生まれたものであり、魂は生命であり愛であるからだ。
だから、モラルや良心のないコマは、生命力を持たない。
確かに、宇宙には、マイナスの魂という存在もあり(『エメラルド・タブレット』参照)、その力を集めてインモラルな欲望を叶えた者もいるが(ヒトラーやスターリンなど)、その代償は自分の魂であり、しかも、叶う夢も春の世の夢のごとく儚いものである。








世界の創造主に愛されるには

この世界が漫画で、自分が漫画のキャラクターだと考えると、私の知る範囲の哲学、思想、宗教、科学、その他のあらゆることに説明が出来てしまうことが分かった。
これは驚くべきことだ。
作者は神であり、主要な登場人物は、作者と意識を共有する、あるいは、作者の意識の一部を持つ。
モブキャラ(群衆キャラ、背景キャラ)は意識を持たないが、自分が意識を持っていることを自覚出来るなら、モブキャラではない。
また、主要な敵キャラには、作者の変質された部分の意識を持つことが多いが、その意識が、大きく、強くなることもある。いわゆる、「偉大な敵」である。

さて、今回は、主要キャラである我々が、この漫画の世界で幸福になる・・・願いが叶い、自己実現し、人生に満足する方法について述べる。
漫画のメインキャラが不幸な結末に終わることはなく、もし、そうなった(バッド・エンドになった)と思われる場合でも、メインキャラの魂は救われ、少なくとも楽しんでいる。
キャラクターの死亡、あるいは、作品の終了と共に、キャラクターの意識は消えるのであるが、それは、単に、作者の意識の中に吸収されるだけである(それを恐れるのは勘違いであるが、ここでは説明しない)。
そして、漫画の読み手が現れた時に、別次元でキャラクターの意識が生まれるのである。
読み手が途中で読むのを止めたり、途中から読み始めても同じことである。漫画の一部は全体である・・・一部が全体で、全体が一部であるホログラム構造になっている。
まあ、細かいことは考えなくても良い。
要は、どうすれば、ハッピーでいられるかだ。
それには、神に愛される者がハッピーであるように、作者に愛されるキャラがハッピーである。
作者が、そのキャラを好きなことは、読んでいれば分かるだろう。
不屈の心を持ち、信念があり、自分の正義を貫く・・・まあ、なかなかそれを完全には出来ないが、それをやろうとする。
そして、その根本にあるのは、「魂の声を聞く」ということである。
魂の声を聞いていれば、不安はない。
だから、主役級のキャラは、言い訳をしないし、泣き言を言わないし、欲張らない。

ただ、言葉で書けば、あまりに「ご立派なキャラ」でついていけないと思うかもしれない。
だが、作者は、弱いキャラを慈しみ、守ってやりたいのだ。神が人間に対して、この上なく慈悲深いように。

手近治虫の『マグマ大使』という古い漫画がある。
地球を作った、神にも等しい存在であるアースは、ロケット人という、人間とロケットの合(あい)の子(混血。中間)の夫婦である、マグマ(男性)とモル(女性)を作った。
人間でいうところのアダムとイブだが、高度な知性と正義の心を持ち、自分の創造主であるアースを心から敬ってはいたが、自立的で独立した存在でもあった。
アースとマグマ、モルが住むところに、人間の少年である、まもる(小学校の高学年だろうか)が連れてこられた。
アースとマグマ、モルが、まもるとやり取りをし、要件が片付いた後で、マグマは「アースさま、お願いがあります」と言う。
そして、マグマは、「私は、この坊やが好きになりました」と言い、アースを驚かせる。
つまり、マグマとモルは、まもるのような子供が欲しいと言うのである。
マグマは、まもるの勇気に惚れたらしい。きっと、自分の正義を貫く勇気だ。
モルは、単にまもるを可愛いと感じたのだが、マグマが感じた勇気の部分もあるのだと思う。
そこで、アースは、まもるとそっくりのロケット人を作り、マグマとモルは大喜びし、モルはこのロケット人の子供に「ガム」と名付けた。
マグマのようなメインキャラに愛される、まもるは、作者に愛されていると言って良い。
よって、我々は、まもるをモデルにしたキャラクターになれば、作者に愛されるのである。
一方、この漫画の中には、地球侵略をたくらむ、ゴアという怪物宇宙人が登場する。
そして、ゴアもまた、主要キャラであり、作者に分け合らえられた意識がある。
いや、実は、ゴアは作者の投影ですらある。もちろん、作者の人格全体の投影ではないが、分身であることも確かだ。
読者もまた、ごく一面かもしれないが、ゴアを好きになるかもしれない。
私に関して言えば、ゴアに共感し、ゴアとの一体感を感じたので、ある意味では、作者と融合したのである。

幸福になりたいなら、作者に愛されるキャラクターになることで、どんなキャラクターになれば良いかは、いろいろな漫画作品を見れば分かって来ると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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