ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

愛と誠

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

超大物を跪かせる少女

経験豊かな人間とか、生きた知識が多い物知りな人がいる。
一方、冒険的行動が少なければ、経験や生きた知識は少ない。
現代は、40代、50代以上でも、ほとんど就労したことがない引きこもりや、働いているとしても1つの会社にずっと勤めていて世間が狭い者が多いが、そんな者達も、経験や生きた知識が少ない。
当然だが、試験の点を取るためだけの知識が多い者は、本当に大切なことは何も知らない。

ところで、いかに経験豊かな者でも、全く未経験で見当もつかないことや、いかに物知りでも、全く知らずに恥をかくことはいくらでもある。
事業で大きな実績がある人は、経験や生きた知識が大きく、そういった人間的な厚みの点でも、人々から称賛され、畏敬の目で見られることもあるが、1人の人間が経験出来ることや、知ることが出来ることは、たかが知れている。
世界一級のビジネスマンや軍人、革命家も、ニートの引きこもりと大した違いはない。
老子、荘子の老荘思想(「タオイズム」と言うこともある)では、そのように考えるのだと思う。
『荘子』には、「生まれてすぐ死ぬ赤ん坊も、800歳生きたと言われる彭祖(ほうそ)という伝説の人物も同じである」とあり、さらに、「一本の指もまた天下である」と記されている。

『愛と誠』という古い漫画で、こんな興味深い場面があった。
座王与平(ざおうよへい)は、実業界も政界もヤクザ社会も影から操る超大物である。
また、与平は、若い時は、中国大陸で馬賊を率いていたと言い、拳銃を撃てば今でも百発百中の腕前という、どこまでも凄い人物で、貫禄も半端ではない。
ところが、与平は、なぜか、主人公の、高校1年生である早乙女愛に対し、まるで冴えないオッサンか、シャイでダサい大学生のように低姿勢で接する。
愛の父親も相当な大物であるが、与平は全く各違いと言えるほど上で、愛の父親に対しては与平は完全に見下した態度で接し、逆に、愛の父親は与平に対し、王様に対する家臣のようにビクビクしながら接していた。
それなのに、与平は、愛に対してはだらしないほど「負けている」。確かに愛は超がつく美少女であるが、別に、与平が若い子好みの好きものというわけでもない。
与平が愛に対し、慇懃(いんぎん。丁寧で礼儀正しい)である理由の1つは、与平の亡くなった内縁の妻が愛に似ている(ただし、目だけ。愛とは月とスッポンというほど大して美人でなかったと与平は言う)ことだが、それだけではあるまい。
愛に、年齢や経験を超えた深いものがあるからだ。
それで思うのだが、与平とて、自分が何でも知っていると己惚れているのではない。むしろ、自分はほとんど何も知らないと思ってるに違いない。だからこそ、超大物なのだ。

つまり、いかに経験豊かで知識が豊富であるとしても、「俺に分からないことはない」と思っているなら、大したことはないのである。
大事業家になれば、周りが持ち上げるので、ついつい己惚れてしまって、「世界には自分に分からないことが沢山ある」ことを忘れ、ただのモウロク爺さんになることが多いのはそのためである。
逆に、経験や知識が少なくても、自分が無知であることを本当に自覚していれば、若くても大物である。
それに対し、若い人で、天才的な能力があっても、(特に外見も良い場合にそうなるが)もてはやされてしまい、それで己惚れてしまえば、見苦しい雑魚に過ぎないだろう。
ソクラテスは「私が知っている唯一のことは、私が何も知らないということだ」と言ったらしいが、自然にそう思うなら、いかなる相手も恐れないだろう。
ここまでは指摘する者は多いが、では、どうすれば、そうなれるかを単純に言う者は少ない。
その方法は、ナーマスマラナ(神仏の名を心で唱えること。純粋な念仏もその1つ)である。
もし、早乙女愛のような者がいるとしたら、その者は、人間を超えた存在を感じているはずである。
それを無意識に行えるほどであれば、天使や菩薩のようなものであり、小説や漫画であれば、そのような人物を描くことも出来るが、実際には、ナーマスマラナを行うより他、そのようになるのは難しい。
ナーマスマラナは、ナーマ(名前)をスマラナ(心で唱える)というように、必ず、心の中で唱えなければならない。それも、丁寧に数多く。
声に出して唱えると、宗教に巻き込まれる恐れがあるし、他者の存在や反応により、成果が少ないか、逆に、負の影響を受けかねない。
心の中は宮殿のようなものだ。そこに静かに引きこもって、敬虔に神仏の名を唱えれば、神仏と親しく交わり、融合して一体となるのである。
「神と和らぎなさい。そうすれば平安を得るだろう」(旧約聖書、ヨブ記より)。








打算と損得には実は何の関係もない

梶原一騎氏原作の漫画『愛と誠』(1973-1976)で、政財界を影から操る超大物、座王与平(ざおうよへい)の一人息子、座王権太(ざおうごんた)は、知的障害を持ち、高校2年ながら、小さい子供と同等以下の知的能力しか持っていなかった。
その権太が、こんなことを言う。
「ワイ(私)がいくらアホやかて、人間は損得で動くということくらいは分かってるで」
それを聞いて、父、与平は言う。
「大抵の人間はそうだ。しかし、損得で動かない人間もいる」

面白いことに、最新のアニメ『かぐや様は告らせたい』で、資産二百兆円の大財閥の令嬢、四宮かぐやは、座生権太と正反対で、頭脳明晰な上、何でも出来る超優秀な、そして、超美少女であったが、権太と同じ観念を持っていた。
人間は、損得で動く・・・つまり、「打算で動く」と確信していた。
子供の時から、それを信じて疑わないかぐやは、外見が美しいこともあって、「氷のかぐや」と呼ばれる、感情を見せない冷たい少女に育った。
それで、皆がかぐやを怖がって近寄ってこない中で、藤原千花という女の子だけは、ずっと近くにいてくれたのだが、かぐやには、それが不思議だったかもしれない。
藤原千花は天然無垢な女の子で、単にかぐやが好きなだけであったのだが。
かぐやは、高校に進学し、ほとんどが小学校からエスカレーター式のこの私立の名門校の中で、高校から入ってきた、白銀御行(しろがねみゆき)という男子生徒に出会う。
白銀は、学年1の秀才でありながら、誰にでも親切で、困っている人を放っておかない。
その姿を見て、かぐやは、白銀も打算でそんな善行をしていると疑わず、いつか、化けの皮が剥がれると確信していた。
だが、そうはならなかった。
そこで、かぐやは気付く。打算なしで動く人間もいるのだと。
それで、かぐやは、ずっと友達でいてくれる藤原千花にも、何の打算もないことが、やっと分かる。

ええ話や(笑)。

ところで、スピリチュアル(霊的。超自然的)な思想・哲学を持つ人には、
「一見、損に見えても、実は、打算なしでいることが一番得なのである」
と言う人が多い。
そう言う人物が、売れていて儲かっているインフルエンサーである場合には、それを信じて、「得するために打算的でないよう振る舞う」という超打算的なことをやる変な人が増えて困るのである。
「打算なしの皮を被った打算」ほど悪いものはないからだ。

ところで、やっぱり損得の話になってしまうかもしれないが、「打算あり」と「打算なし」では、どっちが「お得」だろうか?
答は、実は、「打算と損得は関係ない」である。
損得と言ったら聞こえが悪いので、幸運・不運などと言うことも多いが、同じことだ。
打算と損得、打算と運は何の関係もない。
損得、運を決めるのは「気分」だけだ。
この宇宙の仕組みは、
「気分が良ければ、さらに気分が良くなること(得なこと、幸運なこと)が起こり、気分が悪ければ、さらに気分が悪くなること(損なこと、不運なこと)が起こる」
だけである。

打算があっても、気分が悪ければ、悪いことばかり起こる。
打算がなくても、気分が良ければ、良いことばかり起こる。

合わせて言えば、

打算のあるなしに関わらず、 気分が悪ければ、悪いことばかり起こる。
打算のあるなしに関わらず、 気分が良ければ、良いことばかり起こる。

ただし、こんなことは言えると思う。
打算も決して悪いとは限らず、必要なこともあるが、打算だけで動いていると、魂が傷付く・・・結果、気分は悪くなる。
打算も時には必要であるが、なるべく打算なしで動くと、魂が解放され、気分が良くなる。
マザー・テレサですら、世の中でやっていくためには、打算も必要と痛感したと述べている。
いかに聖女でも、世間的駆け引きは必要なのだ。
しかし、必要がない限りは、なるべく打算なしで動いた方が、結局は、気分が良くなり、良い出来事が起こり、良い状況になる。
ただし、いかに打算のない高貴な人間であっても、気分が悪ければ、ロクな目に遭わない。
我々は、打算のない人間を目指すべきかもしれないが、まずは、気分を良くすることが第一である。
そして、自分の気分は、自分で責任を持つしかなく、他者が自分の気分を良くしてくれることを期待するのは幼稚な人間である。
まずは、笑顔になり、ガッツポーズをすることから始めても良い。それで、必ず気分は良くなる。
さらに気分を良くするには、今持っているものに感謝すること、さらには、未来に持ちたいものを、既に持っていると思って感謝すれば、幸運を引き寄せる力はますます強くなるだろう。

ちなみに、1st PLACE社のボーカロイド、IAをデザインしたのは、『かぐや様は告らせたい』の漫画著者、赤坂アカ氏である。








痛みを感じなくなるには

末期癌による臨死状態から蘇生し、宇宙の真理を悟ることで癌が治ってしまった女性が書いた本が世界的ベストセラーになり、彼女は講演や対談に大忙しになったが、世界中の人々が彼女に切実に尋ねるのは、「どうしたら私も幸せになれるか?」だ。
その女性は、「こうしたら幸せになれますよ」とずっと言い続けているに関わらず・・・だ。
人々が求めているものは、「これを押せば幸せになれますよ」というボタンだ。
だが、そんなものを提供してくれるのは新興宗教だけだ。偽物のボタンしかくれないが、しばらくの間は大喜びしていられる。

人々は何を言いたいのだろう?
「まだ私のところに、少なくとも資産一千億円の王子様がプロポーズに来ません」
「15歳の美しい処女が『私を食べて』って言ってきません」
くるかバーカである(笑)。
偉大なミュージシャンが言ってたものだ。
「街角でハーモニカを吹いてるだけで満足出来るようなやつじゃないとミュージシャンになんてなれないんだ」
ところが、いるんだよね、駅の近くでハーモニカの音を響かせているにーちゃんが。
どのくらい上手いのか、私には分からないが、まあ、煩いことは間違いない。
地獄少女ではないが、みんな「いっぺん死んでみる」ことが必要だ。

だけど、真実はやはり、上のミュージシャンが言った通りだ。
「はい、その通りです。僕は毎日、コンビニの玉子サンドが食べられたら満足です。それだけで満足出来るんです。満足です・・・だけど・・・」
まあ、これが凡人ってやつだ。全然満足してないのだ。
本当に満足してるなら、ある日、その玉子サンドが売り切れで買えなくても、さして気にしないものだ。

最初に取り上げた、臨死体験の女性は、「ただ自分を愛することだけが大事」と言ったが、1つ抜けている。
自分を愛するためには、捨てるものが必要なのだ。
彼女は、なぜかくも幸せになったかというと、ほとんど捨てたからだ。
あのミュージシャンは何を捨てたのだろうか?

『愛と誠』という漫画で、全身に鞭を受けながら平気な顔でいる太賀誠に、その鞭を振るっている、感情が全くないような冷血非道な男すら怖れを感じる場面がある。
誠は言う。
「ちっとも痛くねーんだよ。痛いなんてのは欲しがり屋の言うことだ」
不満、屈辱、心の痛みを感じる間はまだまだである。
つまり、必要なだけ捨てていない。
捨てられないなら、それと心中することだ。玉子サンドとね(笑)。

最近の若者は、すぐに「ムカつくう!」と言うが、ムカつく間はムカつかされることばかり起こるのである。









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さあ、ご一緒に。地を這う君達。

今朝の朝日新聞の一面は、右上に、兵庫県加古川市の中学2年生の女子生徒がいじめを訴えながら学校が相手にせず、女子生徒が自殺したという記事が。
その下に、女子フィギュアスケート全日本選手権で優勝した宮原知子さんがオリンピック代表に決定したという記事があった。
この2つを同じ面で取り上げる朝日新聞の感覚も何だが、同じ人間でありながら、こうも違いがあるという現実に私は呆然としていた。

仲間であるべきクラスメイトや、頼りにすべき教師に虐げられ、遠ざけられて排除され、孤独と無力感の中で無念を道連れに自死した少女と、喝采を送る大観衆に笑顔で手を振る宮原さん。
もちろん、私には、いずれも分からないが、断然親近感を感じるのは前者だ。
栄光とか称賛には縁がないが、世界の隅っこにしか居場所がないというのは、分からないでもない。
この少女は、世界の隅っこも与えられなかったのだろうが。
私の栄光らしきものを探せば、昔、セールスコンテンストで新人の身で奇跡の逆転優勝をしたことがあるが、所詮、押し売りのチャンピオンになっただけのことで、世界の中央近くに居場所のある立派な人なら決してやらないことだ。
考えてみれば、思い出せば首が縮み、恥ずかしい思い出だというのが本当だ。

それはともかくだが、新聞では、教師や学校が、女子生徒のいじめの訴えを無視し、何もしなかったことを問題視していたが、確かにそれは良いことではないが、問題はそこではないのだ。
教師や学校に、問題を解決する能力なんてハナからない。
必要なことは、問題を解決する能力のある者が、女子生徒の要請に応じて出動出来ることなのだ。
黄金バットのようにね。
例えば、それがこの私でも良い。
だが、校長以上の権限は必ずいただく。私は校長より優れているのだから当たり前である。

まあ、何の問題解決にもならない仮定の話はやめるが、私が望むことは、弱い者が自力で力を得ることである。
それはきっと、全然きれいな力ではないし、醜悪で邪悪かもしれない。
それでも、力を持たねばならない。
宮原で何となく思い出したが、昔、梶原一騎さん原作の漫画『愛と誠』に登場した、高原由紀といういわくのある美少女女子高生がいた。
捨て子で、孤児院で育つが、反抗的なこともあり、孤児院の運営者にいじめられ、殺されかけたこともある。
さらに、その中で大きな裏切りに遭い、すっかり心がねじれ、やがて女子少年院に入れられるザマとなるが、そこでも、なまじ可愛いのでいじめられ、酷い目に遭う毎日だった。
だが、由紀は闘志を燃やし、ナイフ投げの修行を始める。
きっと、とり憑かれたように、狂気となって練習したのだろう。
その様は、練習の鬼で屈指のメジャーリーガーであったテッド・ウィリアムズ並か、それ以上かもしれない。
そして、由紀のナイフ投げが達人級になった時、彼女をいじめていた者達は、皆、彼女に平伏した。嗚呼、愉快だ!
原作者の梶原一騎さんは、おそらく、伝え聞く通り、人間的にいろいろ問題はあったかもしれないが(実際に逮捕、投獄されている)、酷い屈辱とか人間の深い恨みについてはよく知っていたのだと思う。自身も少年院に入っていたようだ。そんな暗い経験や、世間に対する復讐心がエネルギーになり、才能を発揮して大作家になったのだろう。
まあ、ナイフ投げというのは漫画の世界のお話だし、仮に本当にそんな技芸があったとしても、今の時代には合わないだろうが、やるべきことは、高原由紀と同じである。

堀辺正史さんという格闘家は、喧嘩の修行のために、ヤクザの出入り(集団の決闘)を見学させてもらっていたというから、大したものだと思う。
そんな中、堀辺さんが見た、小柄で歳を取った、少しも強そうでないが、名の知られた喧嘩の名人のオッサンの技とは、突っ込んでくる相手の足元にスライディングしてキックを放ち、相手の脚を折るというものだった。
なんと馬鹿な、ダサい、最低の技だが、そのオッサンは、この技を磨き抜き、恐れられていたのだ。
私は、こんなクズ野郎が大好きだ。
私には、そんな技もないのだから、敬意すら感じる。
そのヤクザのオッサン、そう遠くなく、殺されるか、不具者になるまで叩きのめされ、いずれにしても野垂れ死ににしたのだと思う。
それで、満足したとは言わないが、まあ、やるだけやったとは、ちょっとは思えたのではないだろうか?
自分に与えられた才能や居場所はその程度で、それだけは使ったのだから。
私は、一応はプログラミングの能力を磨いたが、そのヤクザのオッサンや高原由紀ほどではない。
死ぬ時に後悔したくなくば、何か、死ぬ気で磨かねばならない。
さあ、ご一緒に。世界の隅っこの、ちっとも立派でない方々よ。










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いじめと弱者の論理での対抗法

大手新聞に、いじめられている子供に向け、毎日、有名人達のメッセージが出ているのだが、これが実に下らない。
彼らの言うことは、いかに慎ましさを装っていても、強者の論理、上から目線である。何の役にも立たない。
私は、こんな時こそ、梶原一騎さんに何か言って欲しかったものだと思う。
梶原一騎さんは、1987年に50歳で亡くなった漫画原作者だが、いまだ、『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』といった作品の人気は衰えず、作品の映画化、漫画の再連載やリニューアル連載、キャラクターのCM採用などが、永遠に続くような雰囲気だ。
梶原一騎さんは、人間的には問題のある人だった。
アントニオ猪木さんをやくざと共謀して監禁脅迫し、刑務所に入れられたこともあるが、そういったあからさまな悪事だけでなく、誰も逆らえないほど売れていた頃の傲慢横暴振りも凄いものだったらしい。
ところが、彼の作品の登場人物達は、よく見ると、弱者の論理で生きている。
いや、タイガーマスクや矢吹丈なんて凄い強いじゃないかと言われるかもしれないが、そうではない。彼らは、最も弱い立場でいじめられたから、やむなく強くなったのだ。
だが、そうはいっても、我々がこれら漫画の主人公達のように、思うように強くなることは出来ない。
しかし、弱者の論理の中に、得るべきものは必ずある。
梶原一騎さんの漫画には少年院がよく出てくる。彼自身が少年院に入れられたことがあるので、リアリティは抜群である。そこでのいじめは、凄惨である。現在はともかく、昔であれば、公表されていないだけで、大怪我や身体的・精神的障害や、ひょっとしたら死に至ったケースなんて結構あったと思う。
その中で梶原さんとて、相当「やられた」経験もあるような気がする。
そんな梶原さんの作品に、『愛と誠』というものがある。
その中で、高原由紀という名の、高校2年生の絶世の美少女が登場するが、これがまた、いわくのある人物だった。
彼女は捨て子で、孤児院で育つが、反抗的な性格で、園長らに殺されそうになる。
小学生の時、ひどい裏切りに遭い、人間不信に陥った彼女は、ますます心を閉ざすことになる。
平坂読さんの『僕は友達が少ない』で、同じ高校2年生の美少女、三日月夜空は、エア友達という架空の友達を作って「トモちゃん」という名前をつけ、そのトモちゃんが唯一の友達という、なんとも哀しい(今流には「残念な」)子だが、彼女が「トモちゃんは、可愛くて優しくて、そして・・・絶対に裏切らないのだ」と言うところに、何か高原由紀と通じるものを感じる。人間とは、容易く裏切るものだ。
やがて、女子少年院に入れられることになった高原由紀であるが、そこでひどいいじめに遭う。その理由には、なまじ顔が可愛いからというものがあった。
さて、そこで、彼女が何をしたかだが、ナイフ投げの特訓だった。
「そのナイフ、どうやって手に入れたの?」なんて聞いてはならない。志あれば道あり・・・と言っても説得力はないが、まあ、そんなものである。
彼女は、ナイフ投げに打ち込み、百発百中の超人的な腕前になった時、支配者に君臨し、実社会(彼女にとっては普通の高校)に戻ってからもそうだった。
ここらは、『あしたのジョー』で、矢吹丈が、独房室で、丹下段平に教わった左ジャブ(ショートパンチ)の特訓に明け暮れていたのとも通じる。
別に、ナイフ投げやボクシングをやれというのではないが、要は、世間の価値評価に関係なく、これはと思うものをやればいいのである。ちなみに、私はナイフ投げを本当にやったものだ。五寸釘を大量に買ってきて、お尻のところを金槌で潰したり紐を巻いたりし、先端を鉄ヤスリで鋭利に磨き、手裏剣よろしく7メートル先の木版に投げ、かなりビシリと刺さるまでになった。幸い実戦で使うことはなかったが、危ないヤツである。まあ、中学生の時のことだ。使いたかった相手は、いじめっこ達よりは、教師であった。
実際に使うかどうかはともかく、いざという時の手段を持っていたり、自分にしか出来ない何かを持っていると、精神的にも違う。
武道家で喧嘩のスペシャリストである堀辺正史さんの本を読み、敵のテンプル(こめかみ)に掌底(しょうてい)を打ち込む攻撃もかなり練習したものだ。力道山が木村政彦をKOしたのもこれであった。
世間でどう言われるかなど気にせず、自分の気に入ったものを毎日磨き上げることである。
また、別にいじめや暴力的被害でなくても、まずい状況になれば、呪文を唱えると良い。
威力のある呪文は「アジマリカン」である。「アーン」だけでも悪を祓う。声に出さなくても、心で唱えても効果は同じである。
『エメラルド・タブレット』にも、力の呪文、「ジーン・ウール」が教えられている。
もしよければ、『古事記』を読むことだ。最初のあたりに、神様の名前が沢山出てくる。面倒臭がらずによく見ると、その名前一つ一つに霊妙な響きがあることが分かる。これについては、霊覚のある人の書を読んで研究しても良いが、理屈ではなく、ただ『古事記』を読めば、自然に分かるだろう。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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