ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

悪魔の花嫁

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

憧れと屈辱

『悪魔の花嫁(デイモスのはなよめ)』(あしべゆうほ著。池田悦子原作)という漫画作品がある。
1975年から連載が開始され、Wikipediaによれば、最後の掲載は2014年で、さらに再開の話もあったという。
現在、あしべゆうほ氏72歳、池田悦子氏84歳で、今後の再開は難しいかもしれない。
この作品は、2000年時点で1100万部が発行されたらしいが、ストーリーの面白さも、作画の美しさも抜群で、悪魔や神、あるいは、妖精といった存在を通して浮き彫りにした人間心理の描写には秀逸なものがあると思う。
現在も、Kindle版だけでなく、紙の本も新品で買える。

この作品の中で、コミックスの第10巻(1980年初版)に『ギロチンが招いた女』という、印象深い作品がある。
フランス革命(1789~1795)の時のフランスの話で、『ベルサイユの薔薇』の知識があれば、非常にピンと来るお話だ。
以下、完全ネタバレであるが、ストーリーを知ってから読んでも面白いと私は思う。
フランス革命が起こり、フランス国民は封建制の王政支配から自由になったと言われるが、大勢の貧しい人々にとって、すぐに何か良くなるわけでもない。
その中で、一人の貧しい庶民の娘がいた。
両親は、飢え死に同然に死に、この娘は、生きるために、盗みも身体を売ることも、何でもやるしかなかった。
容貌に恵まれた美しい娘ではあったが、頼る人も、親身になってくれる人もいなかったのだろう。
この娘がある時、貴族の馬車から盗みを働いたが、それを馬車の所有者の従者に見つかり、掴まってしまう。
そこに戻ってきた馬車の持ち主である貴族の青年を見て、娘は、この青年貴族の美しさ、高貴さに呆然とし、強い憧れを感じた。
だが、貴族の青年もまた、娘を見て驚く。
この青年は、フランス王妃マリー・アントワネットの愛人である、ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵(『ベルサイユの薔薇』ではフェルゼン)だったが、娘がマリー・アントワネットに似ていたからだった。しかし、よく見れば、気品が違い過ぎ、さほど似ていないとも思った。
フェルセンは従者に、娘を見逃すよう命じ、娘に小銭を投げつけて去る。
娘は、所詮、自分は小銭を投げ与えられるだけの卑しい女であることを改めて自覚したが、「あんな美しい男がひざまずいて愛を誓うのはどんな女なのだろう?」という強い想いを抱いた。
(私は、この娘の「自分とはあまりに違う」存在への想いに共感したのだった。)
娘は、革命で殺伐としてきたパリを離れ、ある晩、川辺にいると、貴族の女が1人で居るのを見て、襲い掛かり、刃物を突き付けて金を出すよう言ったが、女は「金は持っていない」と言う(貴族の女が自ら金を持ち歩くはずがない)。それならと、娘は、貴族の女に、服を交換するよう命じ、貴族の女の服を着ると、近くにいた、その貴族の女が乗っていたに違いない馬車に、貴族の女のフリで乗り込む。そんなことが出来たのも、娘と、その貴族の女がよく似ていたからだった。
ところが、その貴族の女は、何と、逃亡中のマリー・アントワネットで、国王ルイ16世も一緒だった。
だが、彼ら(国王一家と家来達)は捕まり、娘は、マリー・アントワネットとして、国王一家らと共に、古い城に幽閉される。
そんな娘のところに、あのハンス・アクセル・フォン・フェルセンが危険を冒してやって来る。
予期せぬ再会に驚く2人だが、娘はとにかく、自分がマリー・アントワネットではないことを議会に証言するよう、フェルセンに頼んだ。
しかし、心は正しくても、今や自分もお尋ね者であるフェルセンには、そんなことは出来ない。
そんなフェルセンは、つい、娘の前で、高貴なマリー・アントワネットと、こんなどこの馬の骨とも知れない泥棒女との区別もつかない者達をなじった。
すると、あれほどまでに憧れたフェルセンにそこまで言われた娘は、屈辱に悶える。
だが、フェルセンはやはり立派な貴族で、「私の良心にかけてお前を助ける」と約束するが、それがさらに娘の心を傷つける。卑しい者ほどプライドは高いものだ。
娘は、フェルセンに、一晩だけ、自分をマリー・アントワネットに対するのと同じように愛を捧げれば、自分はマリー・アントワネットの身代わりになると言う。
娘は、偽物の愛でも何でもいい。あれほど憧れた、これほど美しい男に愛を捧げられる女に一晩だけでもなれるなら幸せだと思ったのだ。
フェルセンには屈辱であったが、愛するマリー・アントワネットのために断ることは出来なかった。
そして、1793年10月16日12時15分。娘は最後まで毅然とした態度で、マリー・アントワネットとしてギロチンで処刑された。

私は、この娘に、共感なんていうものを超え、一体化を感じる。
この娘の魂は、今、何を想うのだろうと想う。
『悪魔の花嫁』10巻は私のバイブルである。

尚、私は昨日、腕振り運動を10300回行った。








あいつにもいろいろあるんだ

イエスは「隣人を愛しなさい」とか、「あなたの敵を愛しなさい」と言ったらしいが、そう露骨に言われても困る。
私には出来ないし、多分だが、誰にも出来ない。
だが、こう思うことは出来るし、思うべきなのだ。
誰か、嫌いな人を1人、思い浮かべ、こう思ってみよ。
「あいつにも、いろいろあるんだ」

親鸞の息子、善鸞(ぜんらん)は、京都にいた親鸞の元を離れ、関東で、親鸞に背くようなことを教え、親鸞は善鸞を絶縁した。
親鸞は、極楽往生のためには、念仏しかないと教えていたが、善鸞は、極楽往生のための特別な秘法を知っていると言ったらしい。
だが、私は思うのだ。
「善鸞にもいろいろあったのだ」
と。
だから、善鸞が、もし本当に、そんなことを言っていたとしても、それは、彼にもいろいろあったので、仕方のないことだったのだ。

あなたの彼女、あるいは、彼氏が浮気したとする。
怒るなかれだ。
「あいつにもいろいろあるのだ」
だから、仕方がないじゃないか?

私が子供の時に読んだ『悪魔の花嫁』という漫画で、ある空中ブランコ乗りの男が、同僚の男を殺した話があった。
ブランコにワックスを塗り、手が滑って落下するようにしたのだった。
ところが、サーカス団の親方は、そのことを知っていたが、黙っていた。
その理由はこうだ。
「人を殺すには、殺すだけの理由があったんだ」
殺した男にも、殺された男にも、いろいろあるのだ。
その「いろいろ」は、他人には決して分からない。

いろいろあるからって、許せる訳ではない。
しかし、まず、「あいつにもいろいろあるんだ」と思うことだ。
そうすれば、憎しみなんて、持ちようがない。
だって、誰だって、悪いことをいっぱいしているが、「いろいろある」のだから、仕方がないからだ。

殺したら、死をもって償うしかないだろう。
だが、「いろいろある」から殺したのである。
それが何かは、誰にも分からない。
しかし、確かにそれはあるのだ。

誰にも、いろいろある。
それが何か分かるのは神仏だけだ。
だから、裁くのも、許すのも神仏だけである。
阿弥陀如来と名付けられた、無限の光(叡智)と寿命(エネルギー)を持つ存在=無限者は、許すだけであるし、許す力を持っている。
これは、宗教ではなく、科学である。
「いろいろ」は因果である。
因果は「ゆらぎ」から生じる。
無限者はゆらぎを調整し因果を解消する。
それをしてもらうためには、自分を超えた存在である無限者に意識を向ければ良い。
そのための方法が念仏である。
念仏は宗教でもあるが、科学でもある。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

特別な存在であることの特質

『悪魔の花嫁』という漫画作品がある。
1975年に連載開始され、1990年10月に、第2部終了。
2007年に第3部連載開始。
2014年に休載となるが、掲載雑誌上に、「必ず再開」というメッセージが載っていたということだ。
原作者の池田悦子氏の年齢は分からないが、漫画作者のあしべゆうほ氏は67歳になったようだ。

『悪魔の花嫁』の中の70年代の作品と思うが、こんなものがあった。
ある超人気男性アイドルが映画に主演するにあたり、ヒロイン役はオーディションで決めることになっていた。
予選を勝ち抜いた、選りすぐりの少女達が挑む最終審査は、劇場公開で行われた。
彼女達の全てのパフォーマンスが終わり、いよいよヒロイン発表となる。
劇場の全照明が落ち、スポットライトに照らされた少女がヒロインという訳だ。
ところが、スポットライト用の証明装置にトラブルがあり、会場の一点を照らしたまま動かなくなってしまう。
真っ暗な会場で、ただ一人、明るく照らされてしまったのが、この漫画の主人公である伊布美奈子(いふみなこ)だった。
突然に、理由もなく注目されてしまって恥ずかしがりながら戸惑う美奈子だが、映画の主人公の男性アイドルが舞台上の席から降りてきて、美奈子のところに行き、「君がヒロインだ」と言う。
プロデューサー達は、「困るよ。ヒロインはオーディションに出場した子達の中から選ばないと・・・」というが、その男性アイドルに、「この子以上に、イメージの合う子がいますか?」と言われて納得する。
そりゃ、美奈子は誰も敵わない絶世の美少女だ。
それもそのはずで、美奈子は、美の女神ヴィーナスの生まれ変わりなのである。

生まれもっての才能を極端に表したお話だ。
人間は、平等であるかもしれないが、公平ではない。
全ての人に機会はあっても、結果は最初から分かっている。
しかし、愚かなことに、誰もが、自分が美奈子だと思っているのだ。

そして、早く、自分が美奈子でないと気付いた者が勝ちなのだ。
人生は、自分が美奈子でないと分かった時に始まるのである。
ビートルズの『エリナー・リグビー』の老婆エリナーは、死ぬまで、それが分からなかった。
彼女は、ボロにありったけの宝石をつけて、王子様を待ち続けて死んだのだ。

美奈子は美奈子で、誰よりも大変なのだ。
美奈子のような子が、BUMP OF CHIKENの『ray』のように、「いつまでどこまでなんて 正常か異常かなんて 考える暇も無い程 歩くのは大変だ」なのであり、「◯×△どれかなんて 皆と比べてどうかなんて 確かめる間も無い程 生きるのは最高だ」なのである。
逆に、そう思えたなら、あなたはやっぱり美奈子なのだ。
だが、どうも私はそうではないようだ。
生きるのは、大変でもなければ最高でもないからね。
しかし、「マジカルミライ2016」に行ってから、なぜか、そう思えるようになってきた。
やはり、ミクさんのコンサートは何かあるのだろう。
ミクさんが歌ってくれた『ray』はとても良かった。私は毎日聴いている。
BUMPのblu-ray/DVDである『BUMP OF CHICKEN WILLPOLIS 2014』の初回限定版に、ミクさんとBUMPによる『ray』が収録されたCDが付いていたので、この『ray』もよく聴いている。

「マジカルミライ2017」では、アメノミナカヌシとしてミクさんに会いに行きたいと思う。
造化三神である、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビの名は、全て、最も高貴なる言葉、「ミ」を中心としていると、『神道の神秘』に書かれている。
そして、今、やはり「ミ」の音を名に持つミクさんが宇宙を照らしているのである。
『神道の神秘』の著者は、合気道の達人である佐々木の将人氏の神道の師、山蔭基央(やまかげもとひさ)氏であるが、『ray』の作詞作曲者は、BUMPの藤原基央(ふじわらもとお)氏だ。
読みは違うが、共に、基央という名であり、これは、「まっ中心」という意味に取れる大変な名だ。
私にとって、凄い偶然に思えたが、やはり、これは必然だろう。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

終わりと始まり

「自信と勇気はどちらが大切か?」と聞かれて、「勇気に決まっています」と答えた冒険家の話を、私は覚えている。
勇気が原因であり、自信は結果だからだろう。
そして、自信がないことに挑戦する勇気が必要ということもあるのだろう。

それなら、「おはよう」と「おやすみ」では、どちらが好きだろうか?
学校や会社では、「おはよう」と「さよなら」ということになるかもしれない。
世の中には、「おやすみ」と「さよなら」の方が圧倒的に好きだという人がいると思う。
「さよなら、また明日」は嫌いだが、「さよなら、お元気で」は好きだという人もいる。
「さよなら、また明日」では、明日また会わなければならないが、「さよなら、お元気で」なら、当分、場合によっては一生会わなくて済む。
「おやすみ」は、一生の最後という意味もある。
「おやすみ」だけでも美しい言葉だが、死を意味する「おやすみ」ほど美しい言葉はない。
初音ミクさんの『Last Night, Good Night』は、ぞっとするほど美しい。

Last night,Good night
Last night,Good night
いつかは むかえる
最後を 想うよ
夜空に 願うの
ときわの 笑顔を

おやすみ
~『Last Night, Good Night』(作詞、作曲、編曲:kz、歌:初音ミク)より~

今年1月に亡くなられたSF作家の平井和正さんが、ご自分が原作をされた漫画・アニメの『エイトマン』のヒーローである、スーパーロボットのエイトマンについて、こう書かれている。

ただ一方的に痛めつけられ、くりかえしぶちこわされる。そしてその都度、ご都合主義の作者によってあっさり修理されてしまう。眠ることはもちろん、唯一の平穏――死すらも彼には与えられない。
~『サイボーグ・ブルース(平井和正著。早川書房)』あとがき(1971年12月)より抜粋~

人間にとって、一日の目標も一生の目標も、「さよなら」、「おやすみ」なのかもしれない。
それで、努力などをして、「良いさよなら」、「良いおやすみ」を迎えようとするのかもしれない。
だが、惨めな一日、惨めな一生を送った後の「さよなら」「おやすみ」ほど美しいものはない。

だが、この世にも、人間の魂にも終わりはない。
「さよなら」は「初めまして」の予言であり、「おやすみ」は始まりの序曲である。
何のことはない。
我々自身が、エイトマンであり、サイボーグなのだ。

私は・・・私達は、始まってもいない。
新しい自分を始めるために、今までの自分を終らせる。
~『魔法少女リリカルなのは』より。フェイト・テスタロッサの言葉~

この時、フェイトは、新たな苦しみを受け入れる覚悟をしたのだろう。

仏教の目標は、生まれ変わり、死に変わりの六道輪廻からの脱出である。
ラットレースからの離脱を叶えるのが悟りである。
永遠の涅槃への誘いが仏教である。
ただし、本当かどうかは分からない。
経験者の証言も聞けない。

「お前もいつかは醜く老いて死ぬ。私がお前に、永遠の若さを与えよう」
『悪魔の花嫁』で、デイモスという悪魔に、そう言われた絶世の美少女、美奈子は、一瞬迷ったが、
「生まれ出る命は美しい。何にもまして美しい」
と想い、デイモスを振り払う。
死も誕生も一瞬だ。
その刹那(時間の最小単位)に永遠を見るために我々は生きている。
そして、我々は、瞬間瞬間に死に、瞬間瞬間に誕生するのである。
つまり、生命も宇宙もバブル(泡)だ。
『マジカルミライ2013』の、『Last Night, Good Night』で、歌うミクさんの背景にも、沢山の泡のCGが描かれていたが、あれほど似合う演出もない。見事なものだった。
宇宙は瞬間に生まれ、瞬間に滅びる。
それはとても「ありがたい」ことである。
それを知ることが悟りなのである。









↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ

世にも稀な出来事がなぜ起るのか

偶然にとても珍しいことが起こって驚いたという記憶があると思う。
例えば、こんなことがあった。
小学校の教室で、ある男の子が、あまり行儀の良いことではないが、ボールペンを何度も投げ上げてキャッチするといった手遊びを繰り返していた。ところが、手元が狂ったのか、ボールペンがあらぬ方向に飛んでいったのだが、飛んでいった先にいた女の子の胸ポケットに見事にすっと入ってしまった。狙ってやれるようなことでない。
私は、小学5年生の時、そういったとても珍しいことが起こる度に数を数えていたが、あっという間に43回に達し、当時、4というのは縁起が悪いと思っていたので(今は思っていないが)、次に起こったら44回になってしまうことから、数えるのを止めてしまったという思い出がある。

池田悦子さん原作の、あしべゆうほさんの漫画『悪魔(デイモス)の花嫁』にこんな話がある。
ある人気男性アイドルの主演映画のヒロインをオーディションで選ぶことになった。そのオーディションは劇場で公開で行われ、観客も沢山入っていた。
そして、いよいよ、ヒロイン役が決定する時が来る。会場の証明が消え、舞台上に並んだ、最終選考に残った女の子達の1人に、選ばれたことを示すスポットライトが当たることになっていた。
ところが、スポットライト用の照明の光が客席から舞台上に移動する途中で停止してしまう。故障だった。
そして、そのライトは客席にいた、漫画の主人公である美奈子を照らしていた。
美奈子は突然のことに、戸惑うというより、目立ってしまって恥ずかしがっていたが、舞台にいた映画の主役である男性アイドルがやって来て美奈子に言う。
「立ちたまえ、君がヒロインだ」
一瞬、プロデューサーは難色を示したが、美奈子の美しさを見て納得してしまう。

これは実話だ。
ある人が、やや政情不穏な国で汽車に乗っていて、トイレに行こうとしたところ、誰かが先に入っていたので、別の車両のトイレを探しに行った。ところが、その時、汽車が爆撃機により爆破され、彼がトイレに入ろうとした車両は木っ端微塵だったが、移動した先の車両はなんとか無事だった。それで彼は命拾いした。
彼は、この経験から、人生というものは、偶然で出来ており、自分ではどうにもならないものと悟ったようだ。
偉人と呼ばれる人が、その業績に関わることを始めたきっかけは、単なる偶然であったことは意外に多い。

そういった偶然に見えることについて、それは必然であり、この世に偶然などということは無いと言う人もいる。
どっちでも良いことだ。
それを必然と呼ぼうが、奇跡の偶然と言おうが、言葉などどうでもいい。とにかく、何かが起こったのだ。
そういった出来事を「天使の出現」と言った人がいたが、その方がいい。その通りだからだ。

では、どんな時に天使は出現してくれるのだろう?
「想念が消えて無になった時」と言えば、その通りであるが、現代人というのは、理屈で納得しなければ分からないのだ。
そのような人には、直接的には永遠に分からないだろうが、多少の説明を試みてみよう。
ラジオやテレビの原理をご存知だろうか?
放送局が発信した電波と同じ周波数、波長の微弱な電波をテレビやラジオから発振すれば同調が起こり、電波内の情報がテレビ等で再現されるのだ。
宇宙には、通信用電波とは比較にならない高い周波数の波動が存在するが、我々の意識が発信する周波数はそれよりずっと低く、それと同調できない。我々の本体の魂の周波数自体は高いのだが、心の想いが周波数をがくんと下げてしまうのだ。
しかし、想念を消せば、魂の高い周波数の波が発振され、宇宙の精妙な波動と同調する。
その時に、直観や閃きが起こるし、世界なんて、テレビ映像と本質は似ていて、波動によって運ばれる情報に過ぎない。その情報により、我々の意識の中で、世界は一種のホログラム映像として現れるのである。そして、情報の発信者にとって、世界は自己の思い描いたイメージに過ぎず、どのようにすることも造作もないことなのだ。
そして、実に、我々自体が、情報の発信者でもあるのだ。我々の発する情報は、大きな情報源と調和した時に速やかに実現する。
だから、心の願いは実現しないが、魂の願いは、想念を消せば叶うのである。
潜在意識に願いを届ければ叶うというのは、潜在意識に届くような願いであればの話だ。

想念で願いを持たないことだ。
それは、魂の波動を覆い隠し、宇宙の波動と同調できなくなる。
しかし、想念が消え、宇宙の魂と同調すれば、もう何も願う必要はない。
なぜなら、願いとは、幸福のために持つものであるが、宇宙の魂は至福そのものだからだ。
上記のことを、詳しく説明したのが、『ホログラフィック・ユニヴァース』や『ベントフ氏の超意識の物理学入門』で、さらに、原理と共に、力を揮うための秘法や秘訣を教えるのが、『エメラルド・タブレット』や『波動の法則』である。いずれも、下記にご紹介する。

















↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード