『悪魔の花嫁(デイモスのはなよめ)』(あしべゆうほ著。池田悦子原作)という漫画作品がある。
1975年から連載が開始され、Wikipediaによれば、最後の掲載は2014年で、さらに再開の話もあったという。
現在、あしべゆうほ氏72歳、池田悦子氏84歳で、今後の再開は難しいかもしれない。
この作品は、2000年時点で1100万部が発行されたらしいが、ストーリーの面白さも、作画の美しさも抜群で、悪魔や神、あるいは、妖精といった存在を通して浮き彫りにした人間心理の描写には秀逸なものがあると思う。
現在も、Kindle版だけでなく、紙の本も新品で買える。
この作品の中で、コミックスの第10巻(1980年初版)に『ギロチンが招いた女』という、印象深い作品がある。
フランス革命(1789~1795)の時のフランスの話で、『ベルサイユの薔薇』の知識があれば、非常にピンと来るお話だ。
以下、完全ネタバレであるが、ストーリーを知ってから読んでも面白いと私は思う。
フランス革命が起こり、フランス国民は封建制の王政支配から自由になったと言われるが、大勢の貧しい人々にとって、すぐに何か良くなるわけでもない。
その中で、一人の貧しい庶民の娘がいた。
両親は、飢え死に同然に死に、この娘は、生きるために、盗みも身体を売ることも、何でもやるしかなかった。
容貌に恵まれた美しい娘ではあったが、頼る人も、親身になってくれる人もいなかったのだろう。
この娘がある時、貴族の馬車から盗みを働いたが、それを馬車の所有者の従者に見つかり、掴まってしまう。
そこに戻ってきた馬車の持ち主である貴族の青年を見て、娘は、この青年貴族の美しさ、高貴さに呆然とし、強い憧れを感じた。
だが、貴族の青年もまた、娘を見て驚く。
この青年は、フランス王妃マリー・アントワネットの愛人である、ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵(『ベルサイユの薔薇』ではフェルゼン)だったが、娘がマリー・アントワネットに似ていたからだった。しかし、よく見れば、気品が違い過ぎ、さほど似ていないとも思った。
フェルセンは従者に、娘を見逃すよう命じ、娘に小銭を投げつけて去る。
娘は、所詮、自分は小銭を投げ与えられるだけの卑しい女であることを改めて自覚したが、「あんな美しい男がひざまずいて愛を誓うのはどんな女なのだろう?」という強い想いを抱いた。
(私は、この娘の「自分とはあまりに違う」存在への想いに共感したのだった。)
娘は、革命で殺伐としてきたパリを離れ、ある晩、川辺にいると、貴族の女が1人で居るのを見て、襲い掛かり、刃物を突き付けて金を出すよう言ったが、女は「金は持っていない」と言う(貴族の女が自ら金を持ち歩くはずがない)。それならと、娘は、貴族の女に、服を交換するよう命じ、貴族の女の服を着ると、近くにいた、その貴族の女が乗っていたに違いない馬車に、貴族の女のフリで乗り込む。そんなことが出来たのも、娘と、その貴族の女がよく似ていたからだった。
ところが、その貴族の女は、何と、逃亡中のマリー・アントワネットで、国王ルイ16世も一緒だった。
だが、彼ら(国王一家と家来達)は捕まり、娘は、マリー・アントワネットとして、国王一家らと共に、古い城に幽閉される。
そんな娘のところに、あのハンス・アクセル・フォン・フェルセンが危険を冒してやって来る。
予期せぬ再会に驚く2人だが、娘はとにかく、自分がマリー・アントワネットではないことを議会に証言するよう、フェルセンに頼んだ。
しかし、心は正しくても、今や自分もお尋ね者であるフェルセンには、そんなことは出来ない。
そんなフェルセンは、つい、娘の前で、高貴なマリー・アントワネットと、こんなどこの馬の骨とも知れない泥棒女との区別もつかない者達をなじった。
すると、あれほどまでに憧れたフェルセンにそこまで言われた娘は、屈辱に悶える。
だが、フェルセンはやはり立派な貴族で、「私の良心にかけてお前を助ける」と約束するが、それがさらに娘の心を傷つける。卑しい者ほどプライドは高いものだ。
娘は、フェルセンに、一晩だけ、自分をマリー・アントワネットに対するのと同じように愛を捧げれば、自分はマリー・アントワネットの身代わりになると言う。
娘は、偽物の愛でも何でもいい。あれほど憧れた、これほど美しい男に愛を捧げられる女に一晩だけでもなれるなら幸せだと思ったのだ。
フェルセンには屈辱であったが、愛するマリー・アントワネットのために断ることは出来なかった。
そして、1793年10月16日12時15分。娘は最後まで毅然とした態度で、マリー・アントワネットとしてギロチンで処刑された。
私は、この娘に、共感なんていうものを超え、一体化を感じる。
この娘の魂は、今、何を想うのだろうと想う。
『悪魔の花嫁』10巻は私のバイブルである。
尚、私は昨日、腕振り運動を10300回行った。
1975年から連載が開始され、Wikipediaによれば、最後の掲載は2014年で、さらに再開の話もあったという。
現在、あしべゆうほ氏72歳、池田悦子氏84歳で、今後の再開は難しいかもしれない。
この作品は、2000年時点で1100万部が発行されたらしいが、ストーリーの面白さも、作画の美しさも抜群で、悪魔や神、あるいは、妖精といった存在を通して浮き彫りにした人間心理の描写には秀逸なものがあると思う。
現在も、Kindle版だけでなく、紙の本も新品で買える。
この作品の中で、コミックスの第10巻(1980年初版)に『ギロチンが招いた女』という、印象深い作品がある。
フランス革命(1789~1795)の時のフランスの話で、『ベルサイユの薔薇』の知識があれば、非常にピンと来るお話だ。
以下、完全ネタバレであるが、ストーリーを知ってから読んでも面白いと私は思う。
フランス革命が起こり、フランス国民は封建制の王政支配から自由になったと言われるが、大勢の貧しい人々にとって、すぐに何か良くなるわけでもない。
その中で、一人の貧しい庶民の娘がいた。
両親は、飢え死に同然に死に、この娘は、生きるために、盗みも身体を売ることも、何でもやるしかなかった。
容貌に恵まれた美しい娘ではあったが、頼る人も、親身になってくれる人もいなかったのだろう。
この娘がある時、貴族の馬車から盗みを働いたが、それを馬車の所有者の従者に見つかり、掴まってしまう。
そこに戻ってきた馬車の持ち主である貴族の青年を見て、娘は、この青年貴族の美しさ、高貴さに呆然とし、強い憧れを感じた。
だが、貴族の青年もまた、娘を見て驚く。
この青年は、フランス王妃マリー・アントワネットの愛人である、ハンス・アクセル・フォン・フェルセン伯爵(『ベルサイユの薔薇』ではフェルゼン)だったが、娘がマリー・アントワネットに似ていたからだった。しかし、よく見れば、気品が違い過ぎ、さほど似ていないとも思った。
フェルセンは従者に、娘を見逃すよう命じ、娘に小銭を投げつけて去る。
娘は、所詮、自分は小銭を投げ与えられるだけの卑しい女であることを改めて自覚したが、「あんな美しい男がひざまずいて愛を誓うのはどんな女なのだろう?」という強い想いを抱いた。
(私は、この娘の「自分とはあまりに違う」存在への想いに共感したのだった。)
娘は、革命で殺伐としてきたパリを離れ、ある晩、川辺にいると、貴族の女が1人で居るのを見て、襲い掛かり、刃物を突き付けて金を出すよう言ったが、女は「金は持っていない」と言う(貴族の女が自ら金を持ち歩くはずがない)。それならと、娘は、貴族の女に、服を交換するよう命じ、貴族の女の服を着ると、近くにいた、その貴族の女が乗っていたに違いない馬車に、貴族の女のフリで乗り込む。そんなことが出来たのも、娘と、その貴族の女がよく似ていたからだった。
ところが、その貴族の女は、何と、逃亡中のマリー・アントワネットで、国王ルイ16世も一緒だった。
だが、彼ら(国王一家と家来達)は捕まり、娘は、マリー・アントワネットとして、国王一家らと共に、古い城に幽閉される。
そんな娘のところに、あのハンス・アクセル・フォン・フェルセンが危険を冒してやって来る。
予期せぬ再会に驚く2人だが、娘はとにかく、自分がマリー・アントワネットではないことを議会に証言するよう、フェルセンに頼んだ。
しかし、心は正しくても、今や自分もお尋ね者であるフェルセンには、そんなことは出来ない。
そんなフェルセンは、つい、娘の前で、高貴なマリー・アントワネットと、こんなどこの馬の骨とも知れない泥棒女との区別もつかない者達をなじった。
すると、あれほどまでに憧れたフェルセンにそこまで言われた娘は、屈辱に悶える。
だが、フェルセンはやはり立派な貴族で、「私の良心にかけてお前を助ける」と約束するが、それがさらに娘の心を傷つける。卑しい者ほどプライドは高いものだ。
娘は、フェルセンに、一晩だけ、自分をマリー・アントワネットに対するのと同じように愛を捧げれば、自分はマリー・アントワネットの身代わりになると言う。
娘は、偽物の愛でも何でもいい。あれほど憧れた、これほど美しい男に愛を捧げられる女に一晩だけでもなれるなら幸せだと思ったのだ。
フェルセンには屈辱であったが、愛するマリー・アントワネットのために断ることは出来なかった。
そして、1793年10月16日12時15分。娘は最後まで毅然とした態度で、マリー・アントワネットとしてギロチンで処刑された。
私は、この娘に、共感なんていうものを超え、一体化を感じる。
この娘の魂は、今、何を想うのだろうと想う。
『悪魔の花嫁』10巻は私のバイブルである。
尚、私は昨日、腕振り運動を10300回行った。