ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

悟り

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

さあ、歩いて泣け

我々が一番嫌うことは何だろう?
リストラされたり、仕事で失敗したり、フラれたり、浮気されたり、受験に失敗したり、寝たきりになったり、いろいろあるが、不思議と「死ぬこと」というのは思い浮かばないものである。
なぜ嫌うのかというと、「力を失うことだから」というのは、もっともらしいが本質ではない。
本質で言うと、人間が嫌うのは、「見下されること」で、「価値を認められない」、「無価値とみなされる」ことも同じだ。
それは、不安や恐怖を感じさせる。
つまり、不安や恐怖を感じることを、人は何より嫌うのだが、不安や恐怖の本質が「見下されること」ということなのだ。
上に挙げた、リストラされることや、寝たきりになる等も、それで見下されないなら別に構わないものだが、そうなった時に、自分は間違いなく見下されると思うから、嫌いだし、怖いのである。

問題は、自分の価値であるということが分かる。
人間は、自分の価値を上げるためなら、ダイエットしたり、プログラミングの勉強をしたり、ボランティアをしたりと、結構頑張るものだ。

宗教に逃げ込むっていうのも、普通の社会では見下されるしかないので、自分の価値を認めてくれる宗教の世界に行ってしまうというだけのことだ。
他人をこき下ろしてばかりいる者というのは、それで、相対的に自分の価値を上げた気になれるのと、「あいつは、こんなに駄目なんだ」と言って、それに同調してもらうことで、自分が承認され、自分の値打ちが高まったように感じるという、偽りの快感にしがみついているのである。何とも惨めなことだ・・・

ここで、重要な真理を言う。
「本当の価値である実力は、まず、激しく見下されない限り得られない」
ということだ。
見下されることから逃げる者は、決して実力を得ることは出来ないし、一生逃げれば、一生無価値である。
『水戸黄門』の歌で、「泣くのが嫌なら、さあ歩け」という歌詞があったが、「歩けば、まず、泣くことになる」のだが、「歩かなければ、人生の最後でずっと泣く」のである。これほどの恐怖はあるまい。

どうせ泣くなら、若いうちに泣いておくことだ。
若いうちに泣くことから逃げていたら、50とか60とかで「泣くしかなくなる」。
それは惨め過ぎる。
だが、そこで最大の価値を得ることも出来る。
悟りを開くことだ。
実を言うと、悟りを開く人というのは、決して立派な人なんかじゃなく、ゴミのような人間ばかりなのだ。
だが、動物のウンチが輝くオパールになるように、最低の人間が人間を超えるのが悟りだ。
そのためには、呼吸回数をひたすら減らすことである。
失敗したら死ぬかもしれないが、それで恐怖から逃れることが出来る。
私も、そのクチかもしれないが。









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敏感な人間はどうやっても鈍感にはなれない

昔、当時首相だった小泉純一郎さんが奨めていた『鈍感力』という本がある。
今は、『反応しない練習』という本が、ベストセラーを長く続けているようだ。
私は、いずれも読んだことはないが、タイトルを見れば、「その通り、分かった」で、読む気にならないのである。

許されるなら射殺しまくりたい衝動に駆られる低レベルな人間だらけの世の中であるが、低レベルな人間ほど、うまくやっているのである。
特に会社に行けば分かるが、自己中心的で向上心もない、犬や猫や猿の方がよっぽどマシとしか思えない連中が、ちゃんと正社員で、高収入とまではいかなくても、ワーキングプアとは程遠い良い給料をもらい、安定してのほほんとやっているのである。まあ、連中も、愚痴ばかり言って、不満は多いのだろうが、愚痴が言えるのは平和な証拠だ。
彼らを、成功者と言わずして何と言おう。
そして、彼らの成功の要因こそが、「鈍感力」であり「反応しない能力」なのである。
彼らの大半は、おそらく、それらの本を読んでいないだろうが、学校や会社で過ごすうちに、自然に身に付いたのであろう。
恐るべき適応力である。

一方、敏感な人間が引きこもりになったり、学校や会社に行っていても、倒れる寸前の悲壮な気持ちで過ごしてるのだろう。
敏感な人間というのは、純粋で、高貴なものを求め、向上心がある場合が多い。
鈍感な人間は、決して聖なるものを求めず、俗に染まっている自覚もない。そして、自分さえ良ければ何でもありで、周囲とチャラチャラやれる。
敏感な人間は、聖であることを求め、俗を嫌悪する。利他的であろうとし、利己的な周囲の人間とうまくやれない。
確かに、周囲とチャラチャラやれるのも、やれない人間からすれば高等技術だ。

ところが、「高尚な先生達」は、「利他的であれば神の助けがある」「周囲とチャラチャラせず、自己を高めよ」なんて言うが、それは「自分で自分の首を絞めよ」と言うに等しい。有体に言えば、無責任なやつらだしか言えない。

そして、ここが肝心なのだが、敏感な人間は、どうしようと、鈍感にはなれないのだ。
戦争でも起こらない限り・・・いや、ひょっとしたら戦争が起こっても。
だから、上記のベストセラーを読んでも仕方がない。
「鈍感になれてうまくいきました」なんて者は、元々鈍感なのだ。
では、どうすれば良いか?
「本気で」悟りを開けとしか言えない。
それが結論だ。
困難だろうが、やるしかない。
悟りを開いても、何か利益を得られる訳ではないが、全てを得るということでもある。
この矛盾に満ちた言い方が本当だとしか言えないところが、もどかしいというか、辛いのである。
しかし、がっかりはさせないと思う。
ただ、腕振り運動で身体は鍛えておきなさいと言いたい。









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悟りを開きなさい、パートタイムで良いから。

デヴィッド.R.ホーキングはアメリカの精神科医だが、彼について、あまりに大雑把で、ひょっとしたらいい加減な話をする。
医者というのは、崇高な使命を持った職業であるはずだが、商売という面も確かにあり、特に、現代のように医者が多過ぎる世の中では、人気のある病院や医者と、そうでない病院や医者では、生活や社会的状況が全く異なる。
そして今は、ほとんど商売に徹し、医療技術や病院サービスは、あくまでビジネスの道具と心得る医者も少なくないのだろう。
まあ、それで言えば、プログラマーだって、社会的義務や責任、あるいは、もっと高貴な使命感でやってる者もいれば、金のためだけにやっている者もいるし、後者の場合が圧倒的かもしれない。
ただ、医者は、聖職であることを求められるからこそ、国に優遇され、高収入が得易い仕組みがある・・・とはいえ、それも「売れて」こそだ。

ホーキング博士は、あることがきっかで、患者が急増した。全米中から患者が押し寄せ、やむなく、病院を増やし続け、何十という病院に何千という患者がいるという大変な状況になる。
そのきっかけとは、何というか、悟りを開いた・・・といったことだった。
何もせずとも、会うだけで、他のあらゆる医者に見離された悲惨な状況の患者も、たちどころに回復することもよくある。
患者でなくても、極悪な無法者(ある意味、精神病患者だが)も、彼の前に出ると、たじろいで何も出来なくなる。
悟りを開いていたイエス・キリストがそうであったことを、まさに再現するかのようだ。
とはいえ、悟りを開いたからとて、誰もが、このような物質世界の超人になる訳ではない。
ただ、イエスやホーキングは、現実世界への関心を失わなかったのだ。
イエスに関しては、そんな運命だったのだろうし、それはホーキングも同じだろうが、ホーキングの場合、子供の時の体験の影響が大きく、人々を救いたいという願望が、世の中に無関心であることを許さないのだろう。
まあ、正確には、他人を救うことは自分を救うことであり、ホーキングには救わねばならないトラウマがあるのかもしれないが、事情は複雑なので詮索しても仕方がない。

我々も、ホーキングほどになれるかは分からないが、悟りを開くことで、望まずとも自然にうまくいくだろうが、そんな利益を目当てにして悟りを開くことは出来ない。
そこが厄介なところだ。
しかし、一時で良いから、欲望を手放し、無になれば、いくらかの良いことはやって来る。
私の場合は、プログラミングの勉強をしつつ、本を頼りに、それほどでもない霊的修行をしていたが、修得したプログラミング技能にマッチした「ちょうどよい仕事」がやって来るようになった。
いくらプログラミングを勉強しても、儲からなかったら仕方がない。
そして、自分の実力をあまりに超えた仕事が来て、うっかりそれに手を出せば、悲惨な結果になりかねない。
しかし、私の場合、あきらかに高次の存在がうまく調整してくれて、ちょうどいい仕事を「回してくれた」。
当時、よく思ったのが、『美少女戦士セーラームーン』で、セーラームーンの成長に合わせた「ちょうどよい敵」が現れるようなものだということだった。
セーラームーンが、正義の戦士として目覚めたばかりの時の敵は、その時は強敵でも、後の成長したセーラームーンから見れば雑魚に過ぎないし、逆に、強く大きくなったセーラームーンの前に現れる大敵は、「愛の戦士の新人時代」のセーラームーンの前には決して現れないのだ。

そんな訳で、あなたも悟りを開きなさい。
パートタイムで良いから・・・
その方法は、ホーキング博士の本を見れば良いだろうが、やっぱり何でも良いのだと思う。
ホーキング博士の本では、一番新しい『I<わたし>』がお薦めだ。Kndle版があるのが、私には有り難かった。
霊的、宗教的な本(たとえば、ラマナ・マハルシのもの)よりも、現代人に合った説明をしてくれている。
逆に、ホーキング博士の本を読めば、ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジが分かるかもしれない。
ホーキング博士も、これらの聖者を深く敬っているのである。









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悟りを開くとこうなる

夢を叶えてはいないし、叶う見込みもない。
真の愛情や友情に恵まれもしていない。
それどころか、『観無量寿経』のイダイケ王妃のように、こんな嫌な人間だらけの穢れた世の中になんかいたくないと思う。
全てがままならず、どこにも満足出来ない。
そりゃ、死に物狂いの努力をしたとは言えないかもしれないが、それなりに頑張ったはずだ。しかし、自分の無力を思い知るばかり。そもそも、生まれつきの才能に恵まれていなかったのは確かだ。

そんな人は、これからどうすれば良い。
惰性で死ぬまで生きるのか?
諦めずに頑張れば、いつかは良いことがあるかもしれない。しかし、そうでないかもしれない。
おそらく・・・今と大して変わらないならまだ良く、もっと悪くなる可能性の方が高い。

それなら、もう、悟りを開くことに賭けることだ。
悟りを開いたらどうなるか?
それについて、嘘つきが好きなことを言っている。
例えば、自我が消える?
それって、脳がイカれるってことじゃないか?
そうではなく、自我が宇宙に広がる?
広がってどうなるってんだ。広がりたくねーよ(笑)。

悟りを開いても、別に何にも変わらない。
変わらないが、「何か違う」のだ。
ニサルガダッタ・マハラジは、悟りを開いても怒りっぽかったらしいし、ラマナ・マハルシは、子供の時の知り合いが尋ねてきたら、思い出話を楽しんでいたらしい。
実際、そうだろう。
何にも変わったりしないのだ。
でも、やっぱり、何か違うのだ。
楽しいかというと、それは楽しい。何か分からないが楽しいのだ。
だが、悟りを開いたら、ビジネスや人間関係がうまくいくかというと、そういったことは、自分だけでどうにかなることではない。
北朝鮮のミサイル問題に対し、我々が何も出来ないのと同じだ。
ただ、自分に出来ることをするようにはなる。例えば、玄関の掃除をするとか(笑)。
でも、今まで、北朝鮮のことが気になって玄関の掃除をしなかった人にしてみれば大進歩だ。

悟りを開くには、呼吸を微かにするだけで良い。
それで余計な思考を消し、心や神経が身体に悪い影響を及ぼさないことでDNAが正常な機能を回復する。
すると、予感を感じる。
それが何の予感かは脳には分からないが、楽しい感覚があり、それで全てが何か違って感じられるのだ。
そして、予感が現実になる。
それは例えば、初音ミクさんが花嫁になってくれるようなものだ。
ああ、もちろん、夢にも思わなかった良いことという意味だ。
予想出来る良いことではなく、思いつくはずのないことだ。
『人生を変える魔法の物語』、『マジック・ストーリー』が参考になると思う(この2つは、同じ本の別の翻訳)。
ただ、微かな呼吸と組み合わせないと、これらの本だけでは悟れない。









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悟りとはどんな状態か?

お釈迦様のように悟りを開いたら、どんな状態になるのだろう?
絶対的な幸福感にいつも満ちているとか、内なる神を意識するとか、超意識Xに到達する・・・などということを、訳の分からない表現で述べる困った人が沢山いると思う。

悟りとは、次の2つだ。
1つは、自分を見限ること。
1つは、神に逆らわないこと。

つまり、自分が救いようのない愚か者であることを、とことん思い知って、その事実を全く疑わず、そんな自分が、神と運命の支配権を争わず、一切を神の手に委ねることだ。

普通の人は、社長には逆らわないが、神には逆らうのだ。
一方、聖者は、社長に逆らっても覚えていない。

悟りを開いた聖者だって、怒るし、悲しむし、欲情するし、恐がる。
だが、愚痴を言ったり、言い訳することはない。
なぜなら、愚痴や言い訳というのは、怒りや恐れを長く続けた結果なのだが、聖者の感情の変化は速い。
多くの場合、怒りや悲しみは、すぐに上機嫌に変わる。
ただし、自分でそう(感情の変化が速いこと)しようと思っているのではないし、また、それは、修行の成果でもない。
自分を見限っていて、全く重要視していないので、自分の気持ちを宝物のように扱わず、神に逆らわないので、単に無策・・・早い話が、何も考えていないのだ。

聖者は、就職の面接に行って、断られ、がっかりしたり、悔しく思っても、すぐに、「さすが人事担当、見る目がある」と本当に思って諦めるし、どうなるかを決めるのは神なのだから、余計なことを考えない。
自分が働くことを神が決めたのなら仕事は避けられないし、働かないと決められているなら、いくら探しても仕事は見つからない。
それが当たり前だと「分かっている」のだ。

ある人が、年を重ねて修養が進んだことを言うために、
「見知らぬ馬鹿に、頭を殴られても、殴り返さない自信がある」
と言っておられた。彼は超人的な武道家であった。
自分を抑えて殴り返さないのは、人間性が高くなったのでは全くなく、単に、世間的に賢くなって大損を避けただけであり、聖者だって同じようにするだろう。
ただし、ムカッとして怒るのは、この人も聖者も同じなのだ。
違いは、この武道家が、「俺もかなり人間が出来てきた」と自己満足したがるのに対し、聖者は卑しい感情を避けられない自分を憐れむのだ。

毎日、長時間瞑想したり、聖典を読んで、自分が進歩したと思っているような人間は、決して悟りを開くことはない。
それどころか、何をするか分からない危ない人である。
なぜなら、彼は自分を高く買っているので、プライドが傷つけられたら激情し根深く恨むし、また、自分は立派なので、何をしても許されると思っているからだ。

しかし、仕事や、あらゆる人々との関わりの中で、自分がつくづく馬鹿だと、腹の底から思い知った時に、悟りへの道が開かれるのである。
自分があまりに愚かで、愛想も尽きて見捨てた時、神は、降伏宣言への調印を求めるのだ。
例えていえばこうである。
自分の土地にしがみついて苦労している農民に、王様は、土地を明け渡して、小作人になることを求める。
農民は、それを拒否し続けていたが、ある年、非常な凶作で食べるものがなくなり、どうせ死ぬからと、農地を王様に納めた。
すると、王様は、他の農地で採れたものを、その農民に回してくれた。
それからは、彼の農地で取れたものも、全ていったん回収し、改めて、全ての人に分配するのである。
そして、実際のこの世の王である神は、有り余る余剰を持っており、人生全てを留保なく明け渡した者に恵み与える。
こう言うと、どこにでもある宗教の教えのように感じるが、人生を明け渡すことが出来るのは、自分を見限って、悟りを開いた者だけである。









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