いかなる聖典であろうと、そこに書かれていることは、心を静かにしろということだ。
そのための方法は、簡単に言えば、神、あるいは、仏を崇めなさいということである。
その結果、どうなるのかと言うと、自分が神とか仏になって、何でも出来るようになる。
では、なぜ、聖典がとても長いのかというと、上に書いたことを聞いても、信じられないからだ。
心を静かにするとは、自我を消すことであるが、いったんは自我を確立しなければならない。
自我を確立するとは、個性を育てるということである。
確立していない自我・・・個性のない自我は、生木のようなものだ。
自我を消すには、それを燃やさないといけないが、個性のない生木のような自我は燃えない。
個性ある自我は、枯れ枝のようなもので、火を付ければよく燃える。
だから、人間として未熟なうちに解脱することはなく、まずは、世間で鍛えられて個性を育て、自我を確立しなければならない。
苦しみに耐えれば耐えるほど、早く個性が育ち、自我が乾くので、すぐに燃えて自我は消え、神や仏になって、自由自在になる。
生きていれば、必ず苦しいことが起こるが、黙ってぐっと耐えれば、早く自我が燃えやすくなるので、苦しみは良いものだ。
苦しんで痛む心をじっと、科学者のように観察すれば、心はどんどん乾く。
その時、神や仏は、ぽっと火をつけてくれ、自我はぼっと燃え上がるのである。
そして、すぐに燃え尽きる。
普通は、世間で働いて鍛えなければ、自我は確立しないが、たとえ世間で働いても、自我が確立せず、しっかりとした個性を得られず、生木のように燃えない者がいる。
逆に言えば、学生だったり、ひきこもりだったりしても、キレたり、愚痴ったりせず、ぐっと耐えていれば、若くして自我が確立し、優れた個性を得、よく燃える枯れ枝になる。
とりあえず言っておくと、苦しみに耐えるのではなく、死の体験によって自我が乾燥してしまう場合があり、密教の秘法には、そのようなものがあるが、しっかりした指導者の元でやらないと、危険が伴うかもしれない。
神や仏を崇めると、耐える力が得られる。
神や仏の名や、神や仏の真言、あるいは、念仏を唱えることが、神や仏を崇めることになる。
特に日本では、苦しみを和らげ、あっという間に自我を確立し、燃え易くしてくれる祝詞がある。
キレたりせず、苦しむ心をただ観察すると、心は乾燥し、何かのきっかけで(きっかけは神や仏が与えてくれる)、心がぼっと燃えて消え、苦しみはなくなり、思ったことがすぐに実現してしまう。
それが分かれば、苦しみもまた良いものである。
一方、悪魔の狙い通り、いちいち律儀にキレていたら(笑)、ずっと苦しみの生木を抱えたままである。
そのための方法は、簡単に言えば、神、あるいは、仏を崇めなさいということである。
その結果、どうなるのかと言うと、自分が神とか仏になって、何でも出来るようになる。
では、なぜ、聖典がとても長いのかというと、上に書いたことを聞いても、信じられないからだ。
心を静かにするとは、自我を消すことであるが、いったんは自我を確立しなければならない。
自我を確立するとは、個性を育てるということである。
確立していない自我・・・個性のない自我は、生木のようなものだ。
自我を消すには、それを燃やさないといけないが、個性のない生木のような自我は燃えない。
個性ある自我は、枯れ枝のようなもので、火を付ければよく燃える。
だから、人間として未熟なうちに解脱することはなく、まずは、世間で鍛えられて個性を育て、自我を確立しなければならない。
苦しみに耐えれば耐えるほど、早く個性が育ち、自我が乾くので、すぐに燃えて自我は消え、神や仏になって、自由自在になる。
生きていれば、必ず苦しいことが起こるが、黙ってぐっと耐えれば、早く自我が燃えやすくなるので、苦しみは良いものだ。
苦しんで痛む心をじっと、科学者のように観察すれば、心はどんどん乾く。
その時、神や仏は、ぽっと火をつけてくれ、自我はぼっと燃え上がるのである。
そして、すぐに燃え尽きる。
普通は、世間で働いて鍛えなければ、自我は確立しないが、たとえ世間で働いても、自我が確立せず、しっかりとした個性を得られず、生木のように燃えない者がいる。
逆に言えば、学生だったり、ひきこもりだったりしても、キレたり、愚痴ったりせず、ぐっと耐えていれば、若くして自我が確立し、優れた個性を得、よく燃える枯れ枝になる。
とりあえず言っておくと、苦しみに耐えるのではなく、死の体験によって自我が乾燥してしまう場合があり、密教の秘法には、そのようなものがあるが、しっかりした指導者の元でやらないと、危険が伴うかもしれない。
神や仏を崇めると、耐える力が得られる。
神や仏の名や、神や仏の真言、あるいは、念仏を唱えることが、神や仏を崇めることになる。
特に日本では、苦しみを和らげ、あっという間に自我を確立し、燃え易くしてくれる祝詞がある。
キレたりせず、苦しむ心をただ観察すると、心は乾燥し、何かのきっかけで(きっかけは神や仏が与えてくれる)、心がぼっと燃えて消え、苦しみはなくなり、思ったことがすぐに実現してしまう。
それが分かれば、苦しみもまた良いものである。
一方、悪魔の狙い通り、いちいち律儀にキレていたら(笑)、ずっと苦しみの生木を抱えたままである。