ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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本当の崇敬

アメリカ映画だと思うが、昔、テレビで、その1シーンを見て、非常に強い印象を持ったことがある。
西部劇を思わせるような雰囲気の広い酒場の中で、庶民風の男達が大勢、酒を飲んでいた。
その中で、つまらない理由に違いないが、小競り合いが発生し、殴り合いになると、それがどんどん伝播していき、店中の男達が殴り合いをする。
ところが、やや年配のバンドマン達は、平気な顔で淡々と演奏をしていたが(喧嘩などありふれたことなのだろう)、アメリカ国歌『星条旗よ永遠なれ』の演奏を始める。
すると、国歌が演奏されていることに気付いた男達は喧嘩をやめ、直立不動になると、右手を胸に当てた。

これを見て私は、この男達は国家に洗脳されているのではないかとも少し思った。
しかし、男達は、国歌を聴くと、恐怖感を伴った強制的なものを感じたわけでは全くなく、自主的に崇敬の形になったのだ。
恐怖感どころか、安心感を感じたように思えるのだ。
このように、恐れのない、自由意志による自主的な行いは洗脳とは無縁である。
彼らはアメリカ合衆国建国の歴史・・・独立戦争、憲法制定を知り、それを成した者達を心から尊敬しているのである。
(ちなみに、アメリカ国家『星条旗よ永遠なれ』が作られたのは1896年で、西部劇の舞台である西部開拓時代は1860年代から1890年までなので、その映画は西部劇ではないと思われる)
一方、高圧的な声で「天皇陛下バンザーイ!」と声が上がると、こわばった顔で庶民達が「天皇陛下バンザーイ!」と言ってバンザイをするのは、自主的な行いではなく洗脳の可能性がある。
無論、全く恐怖感がなく、自主的にそうするなら、国家に対するかどうかはともかく、天皇への崇敬であり、そんな人達も大勢いたことだろう。
どこかの独裁国家では、庶民達は、我々から見たら、いかにもわざとらしい顔や声や動作で独裁者を讃え、死ぬと必死で鳴き真似をするのは、やはり恐怖による強制を露骨に示すが、似たことをする地位の高い人達には、恐怖と言うよりは、「そうした方が得」という打算の方が大きいかもしれない。その場合、その行いは、ある意味、自主的と言えば自主的だが、不誠実に、不正直に、心にもないことをやっているのである。

我々も同じだ。
強制されて、真言、念仏、祝詞、あるいは、聖書の言葉を唱えても、何の意味もないし、まして、「得だから」という思いでそれをやれば、心が穢れ、卑しい人間になり、力を得られず、持っている力も失う。
完全にとは言わないまでも(多少の欲やエゴがあっても)、崇敬の気持ちと共に行えば霊的に浄化され、霊的な穢れによる不幸や不運が解消したり、それに打ち勝つ力が起こるのであると思う。








スベスベなお尻になれば願いは叶う

イエス・キリストは庶民に「お祈りの仕方を教えて下さい」と請われると、「主の祈り」を教えた。
「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ」から始まる有名なものだが、なぜ、イエスは、こんなお祈りをするように言ったのだろう?
キリスト教の信仰者にとっては浅はかに思えるかもしれないが、こんな考えもありではないかと思う。
それは、「主の祈りを唱えながら悪いことは考えない」ということである。
少々、心の歪んだ人間、道徳的に問題がある人間でも、「主の祈り」を唱えながら、「あの野郎を殴ってやる」とか「あの家のものを盗んでやろう」とか「あの美人の奥さんを何とか出来ないものか」といったことを考えたりはしないものである。
ひょっとしたら、そうではない極悪な人間もいるのかもしれないが、ほとんどの人間はそうではない。
ならば、「主の祈り」を唱えている間だけでも、少しでも善い心を持てるのなら、そうでないのと比べ、時が経てば大変な違いになる。
それなら、祈る回数は、多ければ多いほど良い。
ただし、無理矢理祈らされて、嫌々祈るのではなく、自主的に祈るのでないと、善い心を起こし、悪い心を抑える効果は少ない。
だから、自主的に祈る限り、理屈で考えても、「主の祈り」は、自分にも社会にも良い影響を与えることは間違いないと思う。
また、「主の祈り」を見れば、心にも潜在意識にも良い影響を与える・・・つまり、浄化する働きのある内容であることは、割と明白と思う。
そして、おそらくは、心だけでなく、霊も浄化する目的で作られたのであろうと思う。

念仏も同じと思う。
「南無阿弥陀仏」と唱えながら悪いことを考えることは出来ないか、少なくとも、邪悪さは軽減されると考えて間違いないだろう。
ただ、ほとんどの人は、念仏とか他のお題目や、それに類したことを唱えないから、悪いこと、邪なこと、自己中心的なことを考えまくるのである。
だから、少しでも、自分が敬虔な気分になるもの・・・念仏、真言、お経、祓詞、祝詞を唱えると、潜在意識が深い部分から浄化され、人生は良いことだらけになっていくと思うのである。

ところで、こんなことも言える。
人間は、本当に「気持ちが良い」と感じた時には、決して悪いことを考えない。
ただ、美味しいものを食べたり、酒を飲んだり、性的な快楽を得たり、麻薬でハイになるといった、欲望と共にある気持ち良さは苦痛でもある。
そのようなものではなく、自然の美しい風景を見たり、爽やかな風が頬を撫でたり・・・などといったものである。
私は、昨年(2021年)12月30日から今日まで20日弱、毎日、井本邦昭氏(井本整体主宰。医学博士)の本に習い、蒸しタオルによる熱刺激療法を行っているが、適度な温度の蒸しタオルを、例えば、首の後ろに当てた時の気持ち良さは素晴らしく、こんなに気持ちが良い時は、人間は悪いことは考えないものだと思った。
だから、蒸しタオルによる熱刺激療法は、肉体だけでなく、潜在意識も癒すし、霊的にも良い影響があるのだと思う。
私の幼い時からの皮膚病が、先月5日くらいから猛威を振るっていたが、驚くべき治癒を見せている。
昨日、気が付いたが、自分のお尻を触ってみると(笑)、これがもう、赤ん坊のお尻のようにスベスベなのである。
人間は、足の裏に続き、お尻の肌の角質化が進み易く、いくら若い女の子でも、ある程度の歳になれば、ケアしないと、お尻にザラザラな部分が多くなる。
私も別に、蒸しタオルをお尻に当てたわけではないが(笑)、気持ちが良いと思う部分に当てれば、私のようにスベスベお尻になれるのである(笑)。
逆に言えば、お尻がスベスベになれば、潜在意識、そして、もしかしたら霊的にも癒されているのであり、それなら、幸運にも恵まれるのだと思う。








霊的疾病に挑む

私は、昨年(2021年)10月以来の厳しい皮膚病のおかげで、いろいろ分かってきて本当に良かったと思っている。
知識としては、昔から、超人的な人々から少しは教わっていて、病気には、

・物質レベル
・潜在意識レベル
・霊的レベル

があり、もちろん、下に行くほど深い。
そして、重要なことは、

・物質レベルの病気は潜在意識の障害から起こる。
・霊的な障害があると、潜在意識が侵され、結果、必ず、物質レベルの病気になる。

ということだ。

医療は、物質レベルの治療しかせず、一時的には良くなることもあるが、根本的には病気を治せないと私は思っている。
一方、アレクサンダー・ロイド博士の「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」は、潜在意識レベルの治療であり、ほとんどの病気を治せると思う。
ただし、「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」は、霊的レベルの病気には効果がない。
とはいえ、潜在意識レベルの治療を行えば、肉体レベルには必ず効果が現れるので、ロイド博士の療法が、ほぼ100%効果があることは疑っていない。ただ、霊的レベルの障害を持つ者には、限定的な効果しかなく、治ったように見えても再発する。

私が昨年末(2021年12月30日)から取り組んでいる、井本邦昭氏(井本整体主宰。医学博士)の蒸しタオルによる「熱刺激療法」は、一見、肉体レベルの治療であるが、同時に、潜在意識レベルの治療である。
「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」でエネルギーを送るような身体の部分を、蒸しタオルで熱刺激すれば特に効果が高いのは、そこが潜在意識に関係する中枢であるからだ。
例えば、額、首の後ろ、喉、胸、腰などである。
また、「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」は、肉体に対する作用が少ないので、祈りなどの精神的作用を加えないと、即効性が得られない。
しかし、「熱刺激療法」は、肉体にも抜群の効果があるので、潜在意識と肉体の同時治療を行える場合が多く、非常に即効性がある。

私の身体に最近、猛威を振るっている皮膚病は、霊的レベルである。
2021年10月初め頃から、2021年12月初め頃までの、潜在意識レベルの「アレルギー性皮膚炎」の場合は、「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」を一度行うごとに軽減した。
しかし、私の場合は霊的レベルである乾癬(かんせん)に対しては(乾癬のほとんどは霊的レベルからのものと思う)、「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」では効果は低かった。
だが、「熱刺激療法」は、肉体と潜在意識を同時に癒すので、驚くべき効果が感じられたが、もう一か月以上、毎日2時間の治療をしても、かなり楽ではあるが、霊的レベルの病気が治ることはない。
そこで、普段、なるべく、阿弥陀如来真言、観世音菩薩真言、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」などの念仏を唱えていた。
正直、これらの真言や念仏に現実的効果があるというエビデンス(根拠)はない。
しかし、私の場合、これらの真言、念仏に少しは宗教的雰囲気を感じるのだが、宗教的雰囲気は、精神を悪いものに向けることを抑え、僅かかもしれないが、意識を霊的中心に向ける効果がある。
それで、確かに僅かかもしれないが霊的にも良い効果があることは間違いないと思う。
ただ、霊的に最も効果があるのは、霊的な障害による苦しみに耐えることである。
尚、私の場合、仏・菩薩の真言や念仏を使ったが、人によっては、聖書の言葉に、より強い宗教的敬虔さや信仰を感じる人もいるし、アメノミナカヌシノカミやアマテラスオホミカミといった、神道の神様の名や、祓詞、あるいは、祝詞にそれを感じる人もいるだろう。
だから、自分に合ったやり方を選べば良いのである。
邪霊が入り込まないよう、これらの言葉を、心の中で(好きなら、周囲の迷惑にならない範囲で声に出して唱えても良い)、なるべく多く唱えると良いと思う。








真言はどれも同じ

よく、「アジマリカン」と「トホカミエミタメ」のどっちが上だとか、般若心経と大祓祝詞でどちらが優れているとか、下らないことを言う者がいる。
あらゆる真言、念仏、神の名、聖句・・・どれも同じである。
もし、偽物がいるとしたら、自分(あるいは自分の団体)が勧めるものが一番であると言う者で、そんな者達からは距離を置いた方が良い。
当たり前に考えたら、どれが上でどれが下なんてあるはずがないことは、簡単に分かるだろう。
そして、効果は唱える者次第だ。
「トホカミエミタメ」なら十万回で幸せになれるが、「アジマリカン」なら一万回だなんていったことを言う者は嘘つきと思って良いが、言うまでもないと思う。
(昔なら、無知な庶民を導くため、ただ1つの言葉を教えることがよくあった)
昔から知られているものなら、どれも間違いない。
これと決めたら、少なくとも10万回唱えると良い。
腕振り運動や四股でも構わないと思う。

2020年の米国大統領選挙、そして、新型コロナにより、この世界がどんな状況にあるのか、はっきり分かってしまった。
その中で生き、世界を正しいものにするためには、各自が本当の自分に帰るために無になる自主的な試みが必要と思えるのである。

ラマナ・マハルシが教えたと言われる、次の方法が、自然でよく考えられていると思う。

1.息を吐きながら、心で「私はこれではない」と唱える(私は、肉体や心ではないという意味)。
2.息を吸いながら、心で「私は誰か?」と唱える。
3.呼吸の流れを止め(喉を筋肉で閉ざさず、息の流れだけを止める)、心で「私は神である」と唱える。

本当は、マハルシは、サンスクリット語の真言として教えたのだと思うが、別に、普通の言葉で良い。
「3」では、インドの古い流儀に従って「私は彼である」あるいは「私はそれである」としているが、普通に、「私は神である」で良い。
もし、どうしても「神」に抵抗があるなら、あるいは、こちらの方が好きなら、「至高の実在」「宇宙の活力」「宇宙エネルギー」などでも良い。
言葉は、いずれも、心の中で、ゆっくり丁寧に唱える。
回数は、出来るだけ多くで、特に決まってはいないが、一度に10回から20回以上やると良い。
長い期間、続けると、唱えた通りになる。








人間社会で最強の能力

人間が生きていく上で、一番重要な能力は何か?
いろいろな考え方はあろうが、おそらく、間違いのない答は、「誰とでも仲良くなれる能力」だ。
ある村が、ゲリラ(不正な民兵)部隊に占領されたことがあった。
そんな場合、その村の人々には、悲惨としか言いようのない運命しか待っていない。
ところが、その村の中に、人付き合いの達人がいて、ゲリラ達と言葉が通じたことも幸いだったが、その人付き合いの達人は、かなりの苦労や危険はありながら、ついに、ゲリラのボスと仲良くなり、村は最小限の被害で済んだのだった。
また、こんな話もある。これは日本の話だ。
ある若者が、若気のいたりで調子に乗ってしまい、ヤクザの組長を怒らせることをやってしまった。このままでは、どんな「落とし前」を付けさせられるか分からない。最悪、命を取られることもあり得る。
その若者は、気も狂いそうな状況で、普段、あまり付き合いはないが、兄貴と慕う男に相談した。
黙って話を聞いていた兄貴分の男は、「分かった。心配するな」とだけ言い、出かけていった。
しばらくすると、兄貴分の男から電話があった。
電話の内容は、今から、その組長たちと飲みにいくが、もう何の心配もいらないということだった。
つまり、この兄貴分の男は、ヤクザの組長と、僅かな時間で仲良くなってしまったのだ。

ここまでいかなくても、誰とでも仲良く出来る能力があれば、どんな時代になっても生きていける。
学校だろうが、会社だろうが、その他、いかなる職場、さらには政治の世界・・・いかなる場所でも、誰とでも仲良くなれる者は、苦労せずに済み、適切な能力があれば、大きな目標を達成する可能性も高いのである。
平凡で大した能力がなくても、誰とでも仲良く出来さえすれば、楽々と必要な獲物を得られる。
逆に言えば、人と仲良くすることが苦手であれば、優れた能力を持っていても、苦労し、神経をすり減らし、ストレスを溜めながら大変な奮闘をした挙句、最低限のものすら得られないということも十分あり得る。
人付き合いが苦手だと公言する人は多いし、アニメのヒーローやヒロインにも、そんなタイプが多い。
しかし、そんな者は、惨めな目に遭った挙句、敗者になる可能性が大きいのである。

人と仲良くなる能力は、どうすれば得られるのだろう?
まず、訓練法などない。
人と仲良くやっていかざるを得ない環境に放り込まれて、自然に能力を得るしかない。
だから、子供は、小さい時から、心配もあろうが、知らない人達の中に放り込んで放置しなければならない。
それは、早ければ早いほど良い。
4つ5つになるまで、母親がべったり構っていたら、もう遅い。
しかし、特に日本では、子供が、中学生や高校生、あるいは、それ以上になるのに、親が必要以上に世話を焼いていることが多いが、それは、子供にあまりに大きな不幸を与えているのである。
特に、母親が息子に過剰に構い、もう、どうしようもない駄目な男にしてしまっていることが、なんと多いことか。

つい先日、私は、初音ミクさんの大きなライブコンサート(マジカルミライ2021)に行ったが、そこに、中学生くらいの男の子が、母親と一緒に来ていて、コンサート中、母親が世話を焼く形で、ずっと2人で仲良くしていた。
言っては悪いが、この息子はロクなものにならないし、下手をすれば、悲惨な未来しかないだろう。

しかし、人と仲良くする能力は、子供の時に身に付けないと、それを得るのは、もうかなり難しいのである。
だが、その能力を身に付けることに失敗した者が、なんと沢山いることだろう。
そんな者は、いまさら、誰とでも仲良くなれるようになるのは不可能だ。
だから、自分が、そんな人間だと分かったら、出来るだけ大物の特定の人物に気に入られることに全力を尽くすことだ。
その大物を崇め奉り、決して、一瞬でも、尊敬の態度をなくしてはならない。
せっかく、大物に気に入られ、可愛がってもらっていながら、ほんの少し、大物の意に沿わないことを言うような馬鹿をやったら、それで一貫の終わりだ。
日本には、昔から、「お客様は神様です」という言葉があり、それはそれで貴いが、それよりもっと「ボスは神様です」ということを忘れてはならない。

だが、もしも、それがうまくいかない場合、神様、仏様に頼ることだ。
「南無阿弥陀仏」というのは、阿弥陀如来に絶対的に頼り、すがることを宣言する言葉なのである。
念仏でなくても、好きな神仏の名や、あるいは、神仏の真言を、無限に唱えることだ。
あるいは、神仏の力を肯定する言葉を唱えることである。
「神様の奇跡が起こる」
「神に出来ないことはない」
「私を強くして下さる方(神のこと)によって、私はどんなことでも出来る」
「もし神が私の味方であるなら、誰が私に敵対出来ようか」
「私は神を信頼する」
などである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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