ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

真の秘訣

有り難い、力のある呪文、真言、祝詞などは確かにあるが、それを知っている者だけが得をして、知らない者には恵が与えられないというようなことなどない。
理不尽なのは荒んだ人の世のことであり、神仏の世界に、そんなことがあるはずがない。
知っておくべき言葉としては、「神様」とか「仏様」で十分で、もし、「弁天様」「大黒様」「恵比須様」「阿弥陀様」「観音様」「お不動様」など、住んでいる村やら、家系に伝わる神仏の名があれば、その名を唱えれば良い。
そういったものを知らなくてさえ、昔から日本人は太陽を「お天道様」と言って神聖視し、お天道様に見られて恥ずかしくない行動を心がけたのである。
むしろ、キリスト教やイスラム教のような形式がなかったことで、日本人は、自然の中に神秘を感じ、理想的な信仰心が培われたのである。
だから、明治以前に日本を訪れた外国人が、信仰を持たないはずの日本人の美徳に驚かされることがあった。
例えば、外国では花を買うのは金持ちと決まっていたが、日本では庶民が花を買うのが普通だった。
また、岡本太郎によれば、西洋では、家が大きく、別に金持ちでなくても、個室があって部屋には鍵がかかったので、暑い季節には女性は自然に部屋で裸で過ごしたが、それを普通見ることは出来ないということから、女性の裸体画が流行し、現代に到っている。
しかし、日本では、昔は銭湯は混浴が普通だったし、人目がある家の外で女性が裸で水浴するのも当たり前だったことが、西洋人を驚愕させた。
これも、こそこそ隠れなくても、お天道様の下では健康的だという(銭湯も明るい時間のみ営業されていた)、ある種の信仰心と思える。

だが、西洋思想の影響が強い明治政府になってから、日本人は煩いに襲われることが多くなった。
そんな中で、意識的な信仰・・・呪文、真言、祈りといったもので、本当に庶民に力を与えたのは念仏だった。
「南無阿弥陀仏」の念仏を唱える者の中に、外国では滅多に見られないような聖人が、農民、職人、商人といった庶民の中に「ゴロゴロ」出て来たのだ。
そんな、主に念仏を唱える庶民の聖人を「妙好人(みょうこうじん)」と呼ぶ。
妙好人の研究をした学者はかなりいるが、皆、難しいことばかり言ったり書いたりするだけで、あまり本質は掴んでいないかもしれない。
因幡の権左(いなばのごんざ)という妙好人はよく知られていて、彼もまた全くただの農民であったが、おそらく偉大な聖者だった。
権左が町に出て、それなりの額の金を得て村に帰る時、あきらかに金目当ての男がついてきたが、それに気付いていも権左は少しも恐れず、その男に近付き「金が欲しいならやるよ」と親し気に話しかけ、強盗する気だった男は何も出来なかった。
権左の畑から芋が掘り返されて盗まれると、権左は畑に鍬を置いておくようになった。素手で芋を掘って怪我をしてはいけないという配慮からだった。
家から金が盗まれ、盗んだ者が誰か分かり切っていても気にせず、相手が改心して返しに来ても、平然としたままで、別に返す必要はないと言う。
アインシュタインもそんなところがあって、乞われれば誰にでも金を与え、妻に怒られても、「誰も伊達や酔狂で物乞いなどしない」と平気だった。
ただ、アインシュタインは宗教上の偏見があることを自分で認めており、心に影があった。

著名な投資家でもあった作家マックス・ギュンターは、彼が最強と考える投資家に秘訣を聞いたら、そのスーパー投資家はこう言ったそうだ。
「欲張らないことだよ」
これが、あらゆることに通じる肝心なことで、秘訣というよりは、親に教わるべき基本中の基本である。
だが、我々は余計なことばかり教えられ、一番大切なことは誰も教えてくれないのだ。
欲張らず、大自然の中に感じる神を崇めれば、まあ、恐れることは何もない。








上下をはっきりさせれば敵はなし

信仰を持たない君主ほど、始末に負えない、あるいは、恐ろしいものはない。
なぜなら、自分が、この世で一番偉いと思いかねないからだ。
しかし、君主でなくても、我々凡人が、そんな愚かさに陥る危機にある。
平等思想や差別禁止が極端な形に曲解され、子供の権利、女性の権利、平社員の権利といった「弱者の権利」が、いびつな形で拡張され、頭を叩かれることがなくなった結果、「怒られない自分は偉い」と勘違いする者が沢山いるのである。
無論、弱者の権利は最大限配慮すべきであるが、度を越してもいけないのである。

『自省録』で知られるローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスが子供の時の教師は偉大で、いかにマルクス・アウレリウスが皇子だといっても、師の方が上であるという立場をはっきりさせた。
だから、師は教えに来ず、マルクス・アウレリウスの方が師の所に教わりに行った。
我が国の皇室においても、今上天皇(現在の天皇陛下)が小学生の時、父君の現在の上皇陛下(明仁上皇)は「(小学校まで)車を出すような距離ではない」と、歩いて通学させられた。
ただ、これらは、当然のことで、本来は特に称賛すべきことではないが、当たり前がなかなか通用しないのが人間の世だ。
上皇陛下が何も言わなければ、子供だった今上天皇は車で通学していただろう。

だが、皇子もやがて君主になる。
人間は、自分が一番だと思った時に堕落し、知恵はなくなる。
だから、自分より、はるかに賢い存在がいることを知らなければならない。
子供の時は、それ(自分より上の存在)は、王や師であるのだが、大人になった時でも、知恵という点で、自分など比較にならない存在がいるに違いないのだし、仮に、自分が人間の中で一番優れているとしても、自分よりはるかに高い存在が絶対に在る。
『バガヴァッド・ギーター』で、神クリシュナは、アルジュナ皇子のことを「人類で最も優れた者よ」と呼びかけるが、賢明なアルジュナは、初めからクリシュナは自分よりずっと優れていることを認識していたし、そして、クリシュナが自分は神であると明かし、その力のほんの一端を見せただけで、アルジュナは、クリシュナのあまりの偉大さに震え上がった。
そんな理解力があるアルジュナだからこそ、クリシュナはアルジュナを褒め、愛したのだ。

たかが、たまたま世間で、ちょっとチヤホヤされたからといって、すっかり自分を高い位置に置く者がいるし、また、マスコミは、さほどでもない人間をさも凄い人物のように言うことが多い。
その祭り上げられた人間こそ災難である。致命的な馬鹿になりかねないのだから。
ジョージ・アダムスキーが、本当に宇宙人と交流したのかは知らないが、彼は、著書に非常に優れたことを書いている。
その1つが、自分を、必ず神より下に置くということだった。
日本人は、キリスト教徒のように、唯一絶対神というものを持っていないかもしれないが、万物の中に神が宿り、万物の総体である自然が神の象徴なので、西洋人のように、「自然を征服する」という考え方は本来なく、「自然と共生する」と考えた。
そして、自然は、人間よりはるかに強く、また、極めて貴いものであることを知っていたので、自然に対し、自ずと身の程をわきまえた。
しかし、中途半端にキリスト教的な西洋思想が入ると、自然を傷付け、自然と敵対するようになり、結果、人間こそ世界の支配者であるという思い上がりを持つようになってしまったと思う。
だが、結局のところ、絶対神を崇めるキリスト教やユダヤ教、あるいは、イスラム教も、自然崇拝を基にした、神道や道教、ヒンズー教も、さして変わらないと思う。
ただ、人間は、自分より高い者が在ることを知り、謙虚でなくてはならないことは同じなのである。
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、自分よりはるかに高い存在である阿弥陀如来を意識するので、心は正しくなり、そのような者は、やはり自然(神)の加護を受ける。
自然(神)の高さを認めるほど、加護も大きくなる。
無論、口先で言うだけでは駄目である。
しかし、法然が言うように、常に念仏を唱えれば、その(自分より高い存在である仏がいるという)認識は強くなり、親鸞も言ったように、仏や菩薩が自分の回りを何重にも取り囲んで守るというのは、必ずしもファンタジーではない。
今は証明は難しいが、科学的と言って差しつかえないと思う。

思い上がる心を消すためにも、念仏、呪文、真言を唱えることは良いことであると思う。
思い上がることが、自我の最大の特徴であり、自我が強くては、引き寄せはほとんど出来ない。
逆に言えば、自我が退けば、いかなる願いも、自然に叶うし、自我が完全にひれ伏せば、願わずとも自動的に嬉しいことが実現してしまう。
勉強すれば、そんなことも理解出来るが、それには時間がかかるので、まずは呪文や真言などを実践し、先に安楽になっておいた方が良いと思う。








現代的な呪文、真言の唱え方

呪文、マントラ、念仏などに、霊的な意味はないという考え方がある。
ただ、霊的な意味はなくても、重要な意味がある。
それは、思考を消すという意味だ。
呪文を唱えている間、心は他のことを考えることが出来ない。
心にいかなる想念もない時に、人間は超能力のようなものを発揮し、奇跡を起こす。あるいは、奇跡の媒体(あるいは中継点)になるのである。
いかなる危険な状態であっても、もし、想念が消え、無になれば、危害は及ばない。
風説も含まれるかもしれないが、報告された例では、爆発現場のごく近くに居たり、高いところから落ちてもかすり傷一つ負わず、毒を飲んでも何の影響も受けず、銃弾が飛び交う中にいても全く安全であったという話は多い。

自分の意思によらず、偶然のようななりゆきで、心が静かな状態になった人間の驚くべき話がある。
ある人物は、癌になり、医者に余命僅かと宣告されると、その事実を粛々と受け入れ、この世を去る準備を始めた。
死んだ後で、他の人になるべく迷惑をかけないよう、出来る限りのことをした。
借金を返済し、一切の持ち物・・・衣服や靴なども処分し、様々な契約を解除し、情報を必要な人に伝え、ただ死を待つことにした。
すると、その後の検診で、癌がすっかり消えていた。
死を受け入れることで、心が静かになったので、全てが自由自在になったのだ。
その後は、この人物は、何かを願うと、それが自動的に実現するようになった。

最近、よく取り上げる橋本健氏(理学博士)も、学生の時に、長く生きられないと医者に言われる中、『生命の実相』という宗教書を読み始めたら、内容に惹きつけられ、三日三晩読み耽った。
すると、すっかり健康になり、次々と幸運に恵まれるようになり(円滑現象と言う)、大金すら入って来るようになった。
これも、『生命の実相』を読むことで、心が消え、高次の世界と通じたのだろう。

呪文や真言を、果て無く唱えると、心が静かになり、高次の世界と通じ易くなるというのは、不思議なことではないと思う。
玄奘三蔵は、般若心経の呪文をインドの僧に教わり、それを唱えながら、中国からチベット経由でインドに行ったが、それは、極めて危険な旅で、野獣、盗賊、吹雪、ヒマラヤの絶壁といった障害に打ち勝ってインドに到着するのは博打にも等しいはずが、般若心経の呪文を常に唱えることで、余計なことを考えず、心静かであったので、あらゆる幸運が味方したのかもしれない。

呪文や真言に霊験があるなら、それはそれで良いことであるが、もし、そうでないとしても、想念をなくし、心が静かになるだけでも十分である。
アメリカの、とある精神の研究団体が、意味はないながら、想念を起こし難いものとして「ナ・ダーム」という言葉を作り、それを唱えさせたところ、絶望的な末期の癌が治るなど、数々の目覚ましい成果があったようだ。
「南無阿弥陀仏」という念仏にしたって、意味が分かる人もいるだろうが、念仏を唱えている間に、いちいち意味を考えることはないし、むしろ、肯定的な心的効果で心が静かになるだろう。実際、念仏を唱え続けるうちに、ある時不意に心が透明になり、世界と一体化したように全て自由自在になった人は少なくないと思う。
面白いのは「神様の奇跡が起こる」という言葉は、意味は明らかながら、「考えても無駄な言葉」なので想念は消え易いし、想念が消えた時に奇跡が起こる。
よって、例えばだが、次の言葉の中から、好みのものを選んで、繰り返し唱えると良いと思う。
十分な回数(心が静かになるまで)唱えるなら、都度、取り換えても良いと思う。

南無阿弥陀仏(念仏)
南無妙法蓮華経(念仏)
アジマリカン(神道呪文)
ナ・ダーム(想念を起こし難い言葉、意味なし)
ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー(般若心経呪文。サンスクリット語)
ぎゃてい、ぎゃてい、はらぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか(般若心経呪文。中国語音写)
アウム
阿吽(あうん)
神様の奇跡が起こる
オン、アロリキャ、ソワカ(観世音微札真言)
オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(阿弥陀如来真言)
※自分の干支の守護仏の真言を唱えるのが良いという話があるので、各自、調べて欲しい(下にご紹介した『守護霊占運学』に詳細が載っている)。
他にも無限にあるだろう。

尚、ラマナ・マハルシによれば、最も心を静かにする言葉は「私」である。








集中の魔力

人類の中の4パーセントほどが、高い集中力を持っている。
この4パーセントの者がなぜ集中力を持っているかというと、訓練したからだ。
この訓練とは、幼い頃から毎日、決まった時刻に、親と一緒にお祈りをしたとか、武道の稽古をするとかで、これを、嫌々ではなく、肯定的、積極的に行ってきたのである。
親に集中力がないのに、子供に強要しても、子供は真面目にやる気が起こらないので、集中力は身に付かない。
集中力とは、スポーツや勉強で要求されるものと基本的には似ているが、これらでは、根性とか忍耐が要求される傾向が強い。
しかし、本来の集中力とは、単に、「心が一方向に向いている」ことだ。
例えば、お腹が空いている時に食べ物があると、そこにだけ意識が向かうようなものだ。そんな時は集中力がある。
一方、嫌々勉強をさせられると、勉強に向かう意識は少なく、意識は他のものに向かう。そんな時は集中力がない。

集中力がある人間は優秀だ。
なぜなら、世界は心が作る幻想のようなものだが、集中力が高いほど、理想通りの世界を速やかに作ることが出来るからだ。
そんな訳で、我々は、集中力を身に付けないといけないし、それが身に付く訓練をしなければならない。
ところが、支配階級の者達は、自分達だけが楽しい思いをするためには、自分達以外の人類には集中力を持たせない仕組みを作っている。
勉強やスポーツを本当には楽しめないよう、歪んだ学校生活を送らせる奇妙な規則を作り、毎日長時間テレビを見せ、その中で興味をコロコロと変えさせ、また、下らない沢山のレジャーをテレビで宣伝して誘惑し、また、社会的に様々なことを強制して、それぞれに細切れの注意を向けさせる。
結局、庶民の心は安定せず、あっちに注意を向け、こっちに注意を向けといったことを繰り返す状態になる。
もう集中力なんて、あったものではない。
また、詳しくは述べないが、庶民の心自体を弱くするよう万全を期しているので、なおさら、庶民は「集中」に縁がない。

集中力を得れば巨大な力を得る。
好きなように世界を作ることが出来るのだから。
自然に集中出来る好きなものがあれば良いのだが、いろんな好きなものを用意して1つのものに集中させないのが闇の支配者の手だということを忘れてはならない。つまり、あまり「好き」にこだわらないことだ。
例えば、いくらアイドルが好きでも、それさえあれば、食べなくても良いとか、ホームレスでも良いという訳ではなく、アイドルみたいなものが好きな者ほど、いろんな小さなことにこだわるものだ。
で、集中を得るには、言葉を使うことが簡単だ。
いわゆる、呪文のようなものだ。
ある程度、好きな言葉が良いが、肯定的であれば何でも良い。
それを、なるべく多く繰り返す。
法然が1日6万回、念仏を唱えたように。
法然や親鸞というのは、元々、業の深い人間で、集中力がなくて散々な目に遭ったので、ある時期から、集中して念仏を唱えるようになったのだろうと思う。
人には見せなかったが、法然なんて、最後は相当な魔法使いだったはずだ。

集中すれば何でも出来る。
七田眞氏の『奇跡の超「右脳」開運法』に書かれているように、ホームレスになった最低の駄目男でも、1日中、「神様の奇跡が起こる」と唱えていたら、2~3週間ほどで1憶円手に入れたように。
黒住宗忠が、ハンセン氏病(らい病)に罹った武士に、1日1万回「ありがたい」と言わせたら、1週間で治ってしまったように。
極めて過酷な、特殊部隊ネイビーシールズの入隊試験に合格する者を調べたら、頭の中で「大丈夫」などの言葉を繰り返していたことが分かったように。
ジョセフ・マーフィーの『あなたも金持ちになれる』に書かれていたが、売れない女優が、いつでも出来るだけ多く「歓喜、成功、富」と唱えていたら、女優として成功したように。
般若心経の呪文や、「アジマリカン」に霊力があるかどうかは示し難いが、これらを多く繰り返せば、やはり無敵なのだ。
そんな訳で、何か前向きな言葉を1つ、いつでも唱えるようにすることをお薦めする。
呪文とか、自己暗示とか、アファーメーションとか、神の名とか、「大丈夫」「絶好調」などの肯定的つぶやきとか、「私とは?」といった哲学的だが興味深い命題とか・・・
何もなければ、「ありがたい」か「神様の奇跡が起こる」をお薦めする。








見かけ上異なる教えに迷わない

なぜ、アファーメーションを際限もなく繰り返さないと望む奇跡が起きないのかというと、そうでなければ、我々の自我意識がものごとを進めようとするからだ。
自我意識で実行して、うまくいく人間もいるのかもしれないが、それは、優れた王家で育てられた者か、未来の人類か、あるいは、進化した宇宙人の場合くらいと思う。
どういう意味かと言うと、現代の、我々普通の人間の自我意識は、すっかり変質させられているので、その自我意識で何をやっても、ロクな結果にならないということだ。
我々は、言葉も知らない頃から、親や周囲の大人やテレビに、その後、学校やテレビや本などに、大人になってからも、テレビや新聞、その他のメディアに自我意識を奴隷に相応しいものに洗脳され続けているのである。
アファーメーションを限りなく唱えることで、自我意識にとりつき、支配する悪魔を無力化した時に、「力」に通じる扉が開く。
それを、美しく言い表した言葉が、ラマナ・マハルシの教えを簡潔に示した小冊子『私は誰か?』の18章にある。
引用する。

どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべてのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をま
かせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろうか? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこにあろう。荷物をおろして安心しなさい。

この小冊子(PDFファイル)は、ラマナ・マハルシのWebサイトからダウンロード出来たのだが、最近は、サイトの管理状態が良くないのか、適当なダウンロードページが見つからない(存在するのかもしれないが)。
現時点で、「私は誰か PDF」で検索して出てる、同ファイルへの直接リンクは以下の通りだが、将来に渡って同じかどうかは分からない。
【PDF】私は誰か? - Sri Ramana Maharshi
下記に紹介した書籍『ラマナ・マハルシの教え』には、これが記載されている。

『荘子』の思想は全く同じと思えるし、おそらく、イエス・キリストや法然もそうなのだと思う。
ただ、彼らは、時代背景もあり、神にまかせてしまったからといって、良い結果になるとは言っていないし、特に、荘子の場合は、最悪の結果になる場合が語られている。ただし、そうではあっても、神にまかせきってしまえば、精神的には幸福であると述べているのだと思う。
そして、江戸末期の神道家であった黒住宗忠は、「神にまかせきれば、嬉しいことばかりになる」と、良い結果になることが示唆され、アメリカの芸術家で、今日で言う引き寄せの法則の優れた指導者であったフローレンス・スコーヴェル・シンは、アファーメーションにより、望む結果を得られることを教えている。

法然は念仏、ラマナ・マハルシは「私は誰か」という問いかけ、フローレンス・スコーヴェル・シンはアファーメーションという分かり易い手段を示した。一方、イエス、黒住宗忠は神への愛や信頼でことをなせと教えたが、それは難しいことである。
(ただ、黒住宗忠はハンセン氏病の武士に「ありがたい」と唱えさせて1週間ほどで完治させたこともある。これも一種のアファーメーションである)
荘子にいたっては哲学的に教え、それは最も難しく、やはり、多くの誤解を生んだ(逆に、哲学的理解には適しているが)。
とはいえ、教えていることは、皆、同じである。
ただし、イエスや、黒住宗忠が言うような、神への愛や信頼でもって事を行おうとしても、我々の歪んだ自我意識では、愛や信頼の概念自体が歪んでいるのである。
よって、念仏やアファーメーションといった手段を、何も考えずに使う方が安全である。
私としては、難しかったり、高尚であるアファーメーションより、「神様の奇跡が起こる」や「ありがたい」といった単純なもの、あるいは、ジョセフ・マーフィーが教えた「単語法」、即ち、「富」「成功」「富、成功」「歓喜、成功、富」といった言葉を唱えることをお薦めする。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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