ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

秘法の書『歎異抄』

親鸞(1173-1263)の言葉を、親鸞の死語かなり経って、弟子の唯円が書き綴った『歎異抄(たんにしょう)』という書物は、仏教書の中でも並外れた人気があり、「無人島に住むとして、本を1冊持って行けるとしたら『歎異抄』」と言う人は多いらしい。
仏教学者のひろさちやさんの本で見たが、海外の、仏教以外の宗教を信仰する人々の中にも、『歎異抄』の愛読者は多いという。
歎異抄は、短く、平易な書物である。
もちろん、今の人が原文を読むのは簡単ではないが、現代語訳なら、すぐ読めると思う。

『歎異抄』の最も有名な文章は、現代語で書けば、
「善人でさえ極楽浄土に行けるのだから、悪人が極楽浄土に行けるのは当然だ」
というものだろう。(極楽浄土は、天国と同じと思って良い)
いや、文章の間違いではない。
だが、この文章を難しく解説する「センセー」が多い。まあ、それはそれで良いが。
実際は簡単な話なのだ。
世の中の常識で言えば、極楽浄土に行くには、善いことをすれば良く、悪いことをすれば地獄に落ちる・・・だろう。
しかし、極楽浄土に行けるほど善い人などいないのだ。
だが、いかなる人間でも、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、極楽浄土に行ける。
それなら、最初から、
「俺のような悪いやつが極楽浄土に行くのは無理だと思っていたが、念仏さえ唱えれば行けるらしい。では、念仏を唱えて極楽浄土に連れていってもらおう」
と思う悪人の方が、極楽浄土に行きやすいのである。
一方、自分が善人であるとか、善人になろうと思っている者は、そういう割り切りが出来ないので、厄介なのである。

ところで、私が、『歎異抄』の中で、もっと重要だと思うのは次のものだ。
「善いことはしなくて良い」
「悪いことはして良い」
いや、そんなこと言ったら、社会秩序が乱れ、ロクでもない世の中になる・・・と思うのが普通だろう。
だが、世の中は、建前は、
「善いことをしろ」
「悪いことをするな」
であるが、実際のところ、世の中を見れば、社会秩序は乱れ、ロクでもないことになっているではないか。

では、親鸞が、
「善いことはしなくて良い」
「悪いことはして良い」
と言った根拠を付け足して書くと、こうだ。
「善いことはしなくていい。念仏以上に善い行いはないからだ」
「悪いことはして良い。念仏の力を妨げるほどの悪い行いなどないからだ」
つまり、念仏さえ唱えれば、OKなのである。

ただ、今の時代に、「南無阿弥陀仏」もないだろう。
いや、「南無阿弥陀仏」が、「阿弥陀様に完全におまかせする」という意味で、それが納得出来れば良い。
しかし、いまどき、阿弥陀仏という、あくまで偶像である存在を信じ切る人は、実際にはいない。
阿弥陀仏というのは、全知全能である宇宙の力の象徴であるのだが、やはり、「そこから一気に分からない!」って人が多いだろう。
分かるに越したことはないが、分からなくても良い。
ただ、良い気分(GOOD FEELING)でいることが、宇宙の力にまかせるということなのだ。
実際のこととして、「良い気分でいれば、良い気分になることが起こり、悪い気分でいれば、悪い気分になることが起こる」。
だから、自分や他人、あるいは、世の中について、それを確認して納得するしかない。
あるいは、そんな検証、いちいちしなくても、直観でそれが正しいと分かれば、いつも良い気分でいれば良いのである。

つまり、『歎異抄』というのは、阿弥陀仏や念仏を方便として、良い気分になるように書かれているのである。
いや、親鸞の教えが、人々を良い気分にするよう工夫されたものだったのだ。
だから、親鸞は偉大なのだと思う。
実際、『歎異抄』の中に、親鸞自身が、「阿弥陀仏というのは、仏典に書かれているようなものではないよ。あれは、あくまで、人間がイメージし易くするための喩え」と言ったということも書かれているのである。
だから、我々のやるべきことは、気持ちを切り替えて、良い気分になることだけである。
尚、極楽浄土に行くというのも象徴的なもので、一休が、「極楽浄土は、遠いところにあるものではなく、いま、ここに作るもの」と言ったように、早い話が、「極楽浄土に行く」とは「幸福になること」であると言って良い。
良い気分でいれば、良い気分にさせられる状況が作られ、それが即ち、幸せである。
良い気分になる効果的な方法は、笑顔になることと、ガッツポーズであると思う。少なくとも、これらを自主的にやって悪い気分になることはあるまい。








呪文の選び方、使い方

たまには呪文の話をしようと思う。
本来は正しくないのだろうが、口や心の中で繰り返す言葉・・・念仏、真言(マントラ)、祈り、アファーメーション、唱え言葉なども、全て呪文とする。

どんな言葉を唱えるか、そもそも、呪文を唱えるか唱えないか?
それをどうやって決めるかというと、唱えて気分が良い言葉を選べば良いし、呪文を唱えて気分が良くならないなら、唱えなければ良い。
呪文は義務でも責任でもない。

法然という人は、1日中、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えていたらしいが、これは、修行なんかではなく、法然は念仏を唱えれば気分が良かったのだと思う。
ところが、弟子の親鸞は、念仏を肯定し、人にも薦めながらも、実のところ、自分は念仏を唱えても、そんなに気分は良くなかったのだと思う。
だから、親鸞は、「一度唱えれば良い」とか「唱えようという気があれば、唱えなくても良い」と言って、法然に怒られているらしい。
結局、親鸞というのは、「人間は元々救われている。それに気付けばOKだ」と言ったのだと思う。
これは、実に現代的で科学的だ。実際、その通りなのだからだ。
だから、念仏というのは、救われていることへの感謝であり、それは、必ずしも念仏でなくて良い。
つまり、「無限の力に守られ救われている。ありがたいなあ」と思えば良いのである。

YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の『LOTUS LOVE』には、「呪文」が出てくる。
それは、“I LOVE YOU”だ。
実際、この歌を聴いていると、“I LOVE YOU”が気分の良い呪文になるかもしれず、そう思ったら、どんどん唱えると良い。
ちなみに、『LOTUS LOVE』の初音ミクさんが歌うHMO(初音ミク・オーケストラ)バージョンが実に素晴らしく(YMO公認だそうだ)、これを聴くと、もっと、“I LOVE YOU”が気分の良い呪文になるかもしれない。

ベアード.T.スポールディングの『ヒマラヤ聖者の生活探求』では、築5千年というある寺院は、昨日建てられたかのように完全なのだが、どこか壊れても勝手に直ってしまうという。
その秘密は、その寺院の中では「生命、愛、平和」という言葉しか使われないからだそうで、その言葉の波動に満ちると、そのようになるのだと思う。
よって、「生命、愛、平和」、あるいは、その中の1つでも良いが、気分が良ければ呪文にすれば良いと思う。
とこで、『波動の法則』(1995)の著者の足立育朗さんの2014年の著書『波動の法則 実践体験報告』によれば、「愛」より「調和」の方がずっとレベルが高いそうだ。
ただ、日本には、「和」という言葉があり、この一文字で「調和」「平和」の意味を持つし、これこそが「愛」であり「生命」であると言えるかもしれない。
「和」は「輪」(あるいは「環」)に通じ、円を意味するが、円は完全の象徴である。
だから、日本には「和を重んじる」「和をもって貴しとする」という言葉があり、「和」というものが、いかに重要であるかが解る。
松下幸之助も、「日本は和の国。和を忘れたら会社は倒産する」と言ったようだ。
そして、「和」一文字で日本を意味するが、日本という国自体が、元々「和」という名前であったらしい。
「和」だけで優れた呪文である。

アメリカの啓蒙家のクレメンストーンは「我々は豊かだ、我々は健康だ、我々は素晴らしい」という言葉をアファーメーションにしていたという話を、自己啓発ビジネスをしている社長から聞いたことがある。
アメリカの会社の中には、この言葉を皆で唱えているところがあり、多くは、なかなか盛り上がるのだそうだ。
それで気分が良くなるなら、大いに唱えれば良いと思うし、気分が良くないなら、遠慮なく、場を離れれば良い。
「豊かだ」「幸せだ」という言葉を呪文にしている人もいる。
アラン・パーカーの『小さな恋のメロディ』(これを原作とする映画が有名)の主人公ダニーは、「天国」という言葉が大好きなようだ。このように、人それぞれである。
唱えなくても、気分が良くなるなら、何かの時に思い出せば良い。
呪文とは、そんなものである。
「アジマリカン」と唱えて気分が良ければ唱えれば良いのであり、「これを唱えれば良いことがあるぞよ」と強要するようなものではない。








本当の念仏とは何か?

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の念仏は、およそ日本人なら、誰でも知っていると思う。
ただし、今日では、葬式専用だと思っている人も多いだろう。
しかし、本来は、いろいろな意味で重要なものである。
その詳細は省くが、あの大数学者の岡潔が、毎朝、欠かさず唱えていたという話がある。
良寛も一休も、宗派は違うのに、最後は念仏を唱えていたという話もある。

ところで、長年、少しずつ調べているのだが、念仏というのは、中国で行われるようになり、それが日本に伝わったのだと思う。
つまり、インドには、中国や日本で言うところの念仏はないと思う。
中国、日本での、念仏の重要性の根拠は、『無量寿経(大無量寿経)』にある、弥陀の誓願と呼ばれる、阿弥陀如来が人間であった時に立てた48の願いの中の、最も有名な18番目の誓願が、「誰でも念仏すれば、(死後)極楽浄土に生まれることが出来る」とあることだろう。
しかし、ここでの「念仏」が、「南無阿弥陀仏」と唱えることだというのは、中国の僧の解釈に過ぎない。
念仏とは、文字通り、仏を念じるという意味であり、経典のどこにも、南無阿弥陀仏と唱えることが念仏であるとは書かれていないのである。
そう書かれている日本語の経典もあるが、それは、翻訳者による意訳だと思う。
確かに、『観無量寿経』の中に、「無量寿仏(阿弥陀如来の別名)の名を心に留めよ」という記述はあるようだが(これも意訳かもしれない)、これを念仏の根拠とするのは、あまりにこじつけであると思う。

よって、本当は、経典には「南無阿弥陀仏と唱えよ」とは書かれていない。
こんなこと、私のような素人だから良いが、宗教関係者が言ったら問題かもしれない(笑)。

ただし、『法華経』の第25品『観音経』には、観世音菩薩の名を唱えることには、大きな力があるとは、繰り返し書かれている。
これも、日本語の訳では、「南無観世音菩薩と唱えよ」とか書かれていることが多いが、本当は単に、「観世音菩薩の名を唱えよ」と書かれているだけである。
また、観世音菩薩というのも、中国の僧が付けた名で、それが日本でも、そのまま使われているだけである。
本来の観世音菩薩の名は、アヴァローキテーシュヴァラ(サンスクリット語)という。
これを、玄奘という有名な僧が、その意味を「観察された自在者」であると解釈し、「観自在菩薩」と名付けたのだそうだ(Wikipediaによる)。
この解釈が正しいかどうかは分からない。
『法華経』の原文では、観世音菩薩のサンスクリット語の名は、アヴァローキタスヴァラであるが、これは、Wikipediaによれば「観察された音」という意味で、そこから、別の僧が、「観世音菩薩」と訳した。
そこで、『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』((角川ソフィア文庫)では、観自在菩薩のことを、「“自在に観るもの”(観世音)」と訳されているが、これが最も賢明な訳し方と思う。
とはいえ、この訳も、絶対に正しいかどうかは分からない。
そこで思うのだが、言葉の神秘の効果を期待するなら、観世音菩薩のサンスクリット語の「アヴァローキテーシュヴァラー」と唱えれば良いと思うのだ。
あるいは、こちらが良いと思えば、「アヴァローキタスヴァラ」でも良い。
実は私は、初めて「アヴァローキテーシュヴァラー」の名を知った時、これを非常に気に入ったのだ。
少なくとも、この名を唱えれば、何も考えられず、余計な思考を消すのに丁度良い。
あるいは、「般若心経」で、観世音菩薩が行って悟りを得た「般若波羅蜜多」という修行は、この経の最後の呪文を唱えることであるという解釈もあり、伝説によれば、玄奘三蔵もこれを唱えていたと言われる。
これもまた、サンスクリット原文で唱えると良いかもしれない。
それは、
「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。
これだと、さらに思考が消える。
叡智(神仏そのものとも言える)と通じる方法は、思考を消し、無になることと思う。
そのために、観世音菩薩の名を唱えたり、般若心経の呪文を唱えることは有効かもしれない。













当ブログオーナー、KayのAI書。
普通の人にとって、機械学習・ディープラーニング型AIの本が面白くない理由は、次の2つと思います。

(1)そもそも難しい。数学やAIの専門用語が、解る以前に抵抗がある。Pythonプログラムが出来ない。
(2)扱う問題がとんでもなくつまらない。あるいは、特定の業務に特化し過ぎてピンとこない。

そこで、私の本では、次のことを目指しました。

(1)数学、プログラミング、AI理論不要で、ちゃんとAIを作れる。
(2)他書にない面白い問題を、学術的な難解で回りくどい言い方を避け、普通の言葉で扱った。

ほぼ全ての実習のためのデータを作れるシミュレーションプラム(Excel VBAで記述)を無料でダウンロード出来ます。シミュレーションプログラムの理解は不要ですが、興味のある方のため、なるべく簡単に書きました。

手本は我が胸の内に

道徳や正義というものは、言葉だけで教えられるものではない。
言葉だけで、上から目線で偉そうに教えたら、それはもう正義ではなくなる。
権威ぶって道徳を語れば、いろいろ余計なものが混入し、本当の道徳と正反対のものになる。
それで、「人間には、本当は道徳や正義はいらないのだ」と、一見、賢そうなことを言う者もいるが、まさか、そんなことはあるまい。
そりゃ、『荘子』や『列子』、それに、『列子』を、基に書かれた中島敦の『名人伝』では、道徳を卑小なものと書いているようにも見える。
例えば、『名人伝』の主人公が、究極の弓の名人になり、神人の境地に至るが、その名人が、「我と彼との別、是と非の分を知らぬ」と言い、「全ては等しい」という悟りの境地を語るが、どっこい、我々凡人は、是と非の区別はつかないといけない(笑)。

キリスト教には、イエス・キリストという手本がいるが、これはなかなか高度過ぎて、時に理解不能に思えるのは、単に、ギリシャ語の福音書を訳す時に誤訳をしたという説もある。
それでも、ギリシャ神話や古事記、あるいは、コーランの神に比べれば、まともかもしれない。
まあ、古事記の中でも、大国主神(おおくにぬしのかみ)は善良でファンも多いかもしれないが、あまり賢くも強くもないように思える。
人によっては、宮本武蔵を尊敬し、彼が著した『五輪書』を指針にしているらしいが、「昭和の武蔵」と言われた空手家の大山倍達氏によれば、「武蔵は山師。勝てる相手としか戦わなかった」であるらしく、実は、あまり良い手本ではないかもしれない。
親や教師は反面教師にはなるが(笑)、まずは、反面ではなく、模範が欲しいところだ。

宮沢賢治は、『雨にもまけず』に、理想の人間像を描写し、そこに描かれた人物は、私も個人的には好きだが、あれでは生きられぬ。あれは、家がお金持ちで、生活の心配のなかった宮沢賢治ならではの理想だろう。

つまり、外部に本当の手本などいない。
手本は、心の内にあり・・・だ。
だが、心の奥の手本を無視し続けると、それとどんどん遠ざかる。
仏教では、その心の中にある真の手本を仏性と言い、それこそが仏であるのだと言う。
だが、現代人は、仏である内なる声を無視し、時には否定し、全く見えなくなってしまっている。
しかし、一休によると、「南無阿弥陀仏」の念仏は、内なる仏を引き出す力があるらしい。
その根拠は割と単純で、阿弥陀仏というのは、あちら(インド)の言葉で、無限の光のことで、つまり、内なる仏のことだ。
南無阿弥陀仏とは、その内なる仏を信用するといった意味で、別に、言葉は何でも良い。
それこそ「内なる英知を信じる」と言うのが、現代的な念仏だと思う。
だから、何でも好きな言葉で言えば良い。
そこに意識を向けていれば、説明が面倒なので省くが(出来なくはない)、あらゆる願いが叶うだろう。













当ブログオーナー、KayのAI書。
「AIなんて難しいに決まっている。自分には関係ない」と思わないで下さい。今やAIは誰でも作れます。
この本では、Excelが使えるスキルがある人なら、ソニーのWindws8.1/10アプリNNCを使って、本物のAIを作れるようになることを目指しました。
回帰、勾配降下法、サポートベクタマシンなどという言葉は使いません。普段使う言葉で、面白いテーマを使って、楽しくAIを作れるようになることが目的です。
専門用語は、AI作れるようになってから必要に応じて勉強して下さい。

常識をぶっ飛ばすと古(いにしえ)の知恵を活かせる

法然(1133~1212年)や親鸞(1173~1263)は、ただ念仏を唱えよと教え、道元(1200~1253)は、とどのつまりは、ただ座れ(坐禅)と教えた。
その効果は、念仏は、死んだら極楽浄土に生まれるとこで、座禅は悟りを開くことだったと言われるが、一休(1393~1481)が、極楽浄土はどこか遠いところにあるのではなく、今ここに作りだせるものだと言ったことからも分かる通り、念仏も真の目的は悟りで、念仏と坐禅に違いはない。
こんなことを言うと、専門家に怒られそうだが、このくらい分かり易く言わないといけない。

で、念仏と坐禅のどちらが良いかというと、それは人の適性であり、本来は、家によって宗派を決める必要はない。

念仏というのは、言葉による悟りで、口や心で、「南無阿弥陀仏」と唱えるのが代表的だが、何でも良い。
「南無観世音菩薩」はもちろん、「南無妙法蓮華経」も同じ。
いや、般若心経などのお経を唱えるのも、さらには、日本の神道の祝詞を唱えるのも、キリスト教の「主の祈り」を唱えるのも、讃美歌を歌うのも、讃美歌的な『アヴェ・マリア』を歌うのも同じだ。
「アーメン」でも良いし、ラマナ・マハルシが教えた「私は誰か?」と問うても良い。
「アジマリカン」や「オーム(アウム)」や「阿吽(あうん)」などの呪文・真言でも良い。
「アマテラスオオミカミ」や「クリシュナ」などの神の名でも良い。
自分の気に入ったものを、口で心で唱える、歌うなどすれば良いのである。
それによって、余計な思考が消え、何も考えないことで、心の深層にある真の知恵である英知にアクセスすれば良い。
そうすれば、科学的に説明出来るかどうかは、今のところ微妙ではあるが、運を始め、全てが良くなり、早い話が幸福になる。

ところが、念仏・・・というか、口や心で何かを唱えることよりも、身体で何かするのが向いている人もいる。
道元も、そんな人が多いと分かったのだと思う。
それで「ただ座れ」と坐禅を勧め、道元は坐禅の細かい注意を教えたのだと思うが、それらの作法は二次的なもので、一応の注意・・・くらいで良いと言ったら、やはり専門家に怒られそうである(笑)。
明治・大正の時代に、岡田虎二郎(1872〜1920)が、「岡田式静坐法」を教えたが、これは、座り方が違うだけで、坐禅と全く同じである。西洋人の場合は椅子に座らせた。つまり、やはり、座り方自体も何でも良く、単に、当時の日本人は正座に慣れていたので、そのスタイルでやっただけだ。そして、とどのつまり、岡田虎二郎は、「1日中、腹に力を込めよ」と教えたように、座る必要すらなく、腹に力を込めれば良いだけである。
そうすると、「力を込める場所はどこか?」とか、その他、いろいろごちゃごちゃ言う人がいるが、どこでも好きな場所に力を入れれば良い。
現実的には、ヘソのあたりが入れやすいと思う。
ところが、中村天風(1876~1968)は、「1日中、肛門を引き締めよ」と言ったが、それも同じなのだ。
私の場合、ヘソに力を入れたり、肛門を引き締めたり、その両方を同時にやる。緩いものである(笑)。
それよりも、運動・・・腕振り運動でも、スクワットでも、四股でも、腕立て伏せでも・・・をする時、ヘソに力を入れると楽なので、そんな活用もしている。
坐禅・静坐も、念仏と同じく、思考を消し、英知に通じ、幸運、幸福を呼ぶものである。

人それぞれ適性があり、念仏でいくか坐禅でいくか選ぶと良いが、上に述べた通り、いずれも、広い範囲のやり方があり、何かが合うだろう。
それでうまくいくこと間違いなしであると思う。
セコい専門家がぐだぐだ言うのは・・・それはそれで、参考に有り難く聞く(読む)のも良いかもしれない。ただし、あくまで参考程度にするように。













当ブログオーナー、KayのAI書。
本書は、AIの研究者、AI研究開発企業の技術者になったり、検定や資格試験に合格するために書かれたものではありません。
便利な道具であるAIを、誰でも自分で作れるようになることを目的としました。
Excelが適度に使えれば、何の資格も必要ありません。
お絵かきソフトの本が、学術的なグラフィック理論やお絵かきソフトの開発法を知りたい人を対象にしているのではないのと同じです。
ただ、とっかかりの敷居を下げ、なるべく面白いテーマで、AIを作るコツを掴めればと思います。
AIは、もう誰でも作れる時代で、Googleが検索能力で人間を拡張したように、AIは推測能力で人間を拡張するのです。
プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


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