ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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神様に責任を取ってもらうには

私は、人生に行き詰まった時・・・まあ、それほど行き詰まったことはないのだが・・・夏目志郎さんのやり方に倣うことにしている。
人真似・・・前に倣えは駄目だが、これは唯一、真似て良いことだと思っている。
中国のお金持ちのボンボンだった夏目さんが、戦後、高級車と大金を持って日本でビジネスを始めたが、詐欺に遭って膨大な借金を背負い、事故で脚を折り、まだ35歳なのに頭も禿げてきたという、散々な状況の中でやったことだった。
まあ、やったことと言っても、実際は何もしていないので「心で決めた」というだけのことである。
上のような、何もかも失敗続きの人生の中で、夏目さんは敬虔なクリスチャン(キリスト教徒)になったのだから、ある意味、宗教にハマったと言えなくもないが、あくどい新興宗教でなかったのが良かったのだろう。
夏目さんは、神様に、こんな感じで祈った。
「神様、これまでの私の人生の責任は私にあります。だけど、これからの人生の責任は、あなたに取って欲しいのです」
主旨はこれだけである。
そして、失業中の夏目さんは、具体的なお願いを1つした。それは、
「私はもう35歳です。生涯をかけられる、これはという仕事を下さい」
だった。
すると、翌日、百科事典を扱う外資系企業がスカウトに来て、夏目さんは百科事典のセールスマンになったのだった。

つまり、神様への全托である。
これは、ラマナ・マハルシや、ラメッシ・バルセカールといったインドの聖者達も「神への人生の完全な明け渡し」として推奨していることだった。
マハルシは無職だったが、バルセカールは銀行の頭取だった。
ちなみに、バルセカールの師匠は、小さなタバコ屋だった。
日本でも、江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠が、神様に「丸ごと」まかせてしまう「まること」の教えを説いている。
宗忠もまた、病気で長年寝込み、もう駄目(もう死ぬだろう)という状況で、神様(天照大神)に祈ったのだった。

神様に全托するにはどうすれば良いかというと、別に何もない。
「まかせた」と思えば良いのである。
ただ、日本やインドでは、神様の名を唱えることが習いになっている。
キリスト教やユダヤ教では、神の名を口にしてはいけないということがあるらしいが、夏目さんのように「責任取って下さい」と言うのも分かり易い(笑)。
まあ、神様は全托すれば、必ず責任を取ってくれる。
人間のチャラい男と違って力があるからね(笑)。
「南無阿弥陀仏」という念仏は、「阿弥陀様に全ておまかせします」という意味で、念仏を唱えれば、阿弥陀様(あるいは阿弥陀仏が象徴する万能の力)が責任を取ってくれるわけである。
日本にも、「十言の神呪(とことのかじり)」と言って、天照大神の名「アマテラスオホミカミ」と唱える神呪(まじない。真言)がある。
天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)の名を唱えることや、造化三神を含むという「サムハラ」を唱えるというものもある。
自分が好きな名を選んで唱えると良い。
要は、まかせたということを自覚すれば良いだけである。

神様にまかせたら、怠惰になるかというと、そういうこともあるかもしれない(笑)。
以前は、そんなことはないと思っていたが、どうなるかは神様次第だ。
ただ、まかせたからには、どうなっても文句を言ってはならないのだと思う。
しばらくは散々な目に遭い、いわゆる「試される」かもしれない。
まあ、不純だったり、甘かったりすると、試されるのかもしれない。
あるいは、大物になる素質があれば、大いに試されるかもしれない。
だが、あまり苦しくなく、楽が出来るように(笑)、十言の神呪を熱心にやろうかと思う。








自分に向いた行で楽に超人になる

法然や親鸞は念仏を唱えることを勧め、彼らよりほんの少し後に生まれた道元は「ただ座れ」と坐禅を勧めた。
昔であれば、ただ巡り合わせで念仏をやったり坐禅をやったりしたのだが、法然や親鸞と道元のどっちが好きかで、念仏か坐禅かを選ぶこともあるだろう。
だが、もっと重要なことは、自分が、念仏に向いているか坐禅に向いているかである。

近代のインドの聖者ラマナ・マハルシは、真我を実現する(簡単に言えば神になるという意味と思う)には、「私は誰か?」と問う以外にないと言い、多少のバリエーションとしては、「常に、自分に対し『私』と呼びかけよ」と教えた。
2011年に亡くなられたサティヤ・サイババは、いろいろなことを教えたと思うが、『ナーマスマラナ』という本では、やはり、「神の名を唱えることだけが人生の問題を解決する」と述べている。

宗教的、あるいは、霊的な修行を、俗っぽいこと・・・健康はともなく、お金や恋愛を目的とするのは卑しいとする向きもあるが、欲張らない限り、上に述べた行は全て、欲しいものを得る最も効果的な方法なのである(大抵の人は欲張って失敗するが)。

私も昔、ニート明けの時、最も務まりそうにない厳しい仕事である完全歩合制セールスの仕事をやったが、阿弥陀如来真言や観世音菩薩真言を唱えていたおかげでバンバン売れ、ベテランセールスマンを押しのけてセールスコンテストで優勝したりした。
その後も、良い方向にしかいかず、サラリーマン時代は全く仕事をせずに高い給料をもらっていた。
だが、考えてみれば、真言を1日平均では10分も唱えていなかったと思う。
それでも、私としては奇跡的なほどうまくいったが、それだけの時間しか出来ないということは、向いていないという面もあるのだと思う。

中村天風や岡田虎二郎は、それぞれ、常に肛門を引き締めよとか、常に腹に力を入れろというし、『気功革命』で著者の盛鶴延氏は、「1日トータルで1時間肛門を引き締めろ」と書いていたが、1日1時間でも私には全く無理で、私は「そんなこと出来るやついないだろう」と思っていたが、私が向いてないだけで、向いている人なら、常にというのはともかく、1日1時間なら出来るかもしれない。

それで、私は、3日前から、今度こそ本格的に腕振り運動を始めたが、こちらは私に向いているようである。
腕振り運動も、坐禅とは違うが、禅の一種で、「動禅(どうぜん)」と言えるものだと言える。つまり、坐禅のようにじっとしてやるのではなく、動きながらやるのである。
腕振り運動もまた、念仏や坐禅、ナーマスマラナ(神の名を唱えること)、あるいは、ラマナ・マハルシの真我の探求と同じく、簡単に言えば、神や仏になる方法で、実際に神や仏にはなれないまでも、人間を超えた力を得、(普通の)人間を超えることが出来る。

岡田虎二郎の弟子だった柳田誠二郎氏(日本航空社長、日本銀行副総裁その他の要職を歴任した)は、講演で、「私の場合は岡田虎二郎先生に教わった静坐だったが、何でもいいから心を締める鍵を持て」と言った。「心を締める鍵」とは難しい言い方をするが、分かり易く言ってしまえば、やはり人間を超えた力を得て、人生の問題を解決するための行のことなのである。
柳田氏は、自身は岡田式静坐法を百歳を過ぎて亡くなるまで続けたが、人々には「何でもいい」と言ったのである。
つまり、自分に向いたことをやれば良いのである。

ちなみに、私は、腕振り運動を、3600回、4700回、4700回と続けている。
1年365日、1日も欠かさず実施し、毎日の回数をExcelの表にでも登録しようと思う。
そのExcelに、その他の情報も登録すれば、機械学習で分析して、自己分析が出来るが、まあ、データやAIより、魂の声を信じようと思う。








本当の崇敬

アメリカ映画だと思うが、昔、テレビで、その1シーンを見て、非常に強い印象を持ったことがある。
西部劇を思わせるような雰囲気の広い酒場の中で、庶民風の男達が大勢、酒を飲んでいた。
その中で、つまらない理由に違いないが、小競り合いが発生し、殴り合いになると、それがどんどん伝播していき、店中の男達が殴り合いをする。
ところが、やや年配のバンドマン達は、平気な顔で淡々と演奏をしていたが(喧嘩などありふれたことなのだろう)、アメリカ国歌『星条旗よ永遠なれ』の演奏を始める。
すると、国歌が演奏されていることに気付いた男達は喧嘩をやめ、直立不動になると、右手を胸に当てた。

これを見て私は、この男達は国家に洗脳されているのではないかとも少し思った。
しかし、男達は、国歌を聴くと、恐怖感を伴った強制的なものを感じたわけでは全くなく、自主的に崇敬の形になったのだ。
恐怖感どころか、安心感を感じたように思えるのだ。
このように、恐れのない、自由意志による自主的な行いは洗脳とは無縁である。
彼らはアメリカ合衆国建国の歴史・・・独立戦争、憲法制定を知り、それを成した者達を心から尊敬しているのである。
(ちなみに、アメリカ国家『星条旗よ永遠なれ』が作られたのは1896年で、西部劇の舞台である西部開拓時代は1860年代から1890年までなので、その映画は西部劇ではないと思われる)
一方、高圧的な声で「天皇陛下バンザーイ!」と声が上がると、こわばった顔で庶民達が「天皇陛下バンザーイ!」と言ってバンザイをするのは、自主的な行いではなく洗脳の可能性がある。
無論、全く恐怖感がなく、自主的にそうするなら、国家に対するかどうかはともかく、天皇への崇敬であり、そんな人達も大勢いたことだろう。
どこかの独裁国家では、庶民達は、我々から見たら、いかにもわざとらしい顔や声や動作で独裁者を讃え、死ぬと必死で鳴き真似をするのは、やはり恐怖による強制を露骨に示すが、似たことをする地位の高い人達には、恐怖と言うよりは、「そうした方が得」という打算の方が大きいかもしれない。その場合、その行いは、ある意味、自主的と言えば自主的だが、不誠実に、不正直に、心にもないことをやっているのである。

我々も同じだ。
強制されて、真言、念仏、祝詞、あるいは、聖書の言葉を唱えても、何の意味もないし、まして、「得だから」という思いでそれをやれば、心が穢れ、卑しい人間になり、力を得られず、持っている力も失う。
完全にとは言わないまでも(多少の欲やエゴがあっても)、崇敬の気持ちと共に行えば霊的に浄化され、霊的な穢れによる不幸や不運が解消したり、それに打ち勝つ力が起こるのであると思う。








スベスベなお尻になれば願いは叶う

イエス・キリストは庶民に「お祈りの仕方を教えて下さい」と請われると、「主の祈り」を教えた。
「主の祈り」は、「天にまします我らの父よ」から始まる有名なものだが、なぜ、イエスは、こんなお祈りをするように言ったのだろう?
キリスト教の信仰者にとっては浅はかに思えるかもしれないが、こんな考えもありではないかと思う。
それは、「主の祈りを唱えながら悪いことは考えない」ということである。
少々、心の歪んだ人間、道徳的に問題がある人間でも、「主の祈り」を唱えながら、「あの野郎を殴ってやる」とか「あの家のものを盗んでやろう」とか「あの美人の奥さんを何とか出来ないものか」といったことを考えたりはしないものである。
ひょっとしたら、そうではない極悪な人間もいるのかもしれないが、ほとんどの人間はそうではない。
ならば、「主の祈り」を唱えている間だけでも、少しでも善い心を持てるのなら、そうでないのと比べ、時が経てば大変な違いになる。
それなら、祈る回数は、多ければ多いほど良い。
ただし、無理矢理祈らされて、嫌々祈るのではなく、自主的に祈るのでないと、善い心を起こし、悪い心を抑える効果は少ない。
だから、自主的に祈る限り、理屈で考えても、「主の祈り」は、自分にも社会にも良い影響を与えることは間違いないと思う。
また、「主の祈り」を見れば、心にも潜在意識にも良い影響を与える・・・つまり、浄化する働きのある内容であることは、割と明白と思う。
そして、おそらくは、心だけでなく、霊も浄化する目的で作られたのであろうと思う。

念仏も同じと思う。
「南無阿弥陀仏」と唱えながら悪いことを考えることは出来ないか、少なくとも、邪悪さは軽減されると考えて間違いないだろう。
ただ、ほとんどの人は、念仏とか他のお題目や、それに類したことを唱えないから、悪いこと、邪なこと、自己中心的なことを考えまくるのである。
だから、少しでも、自分が敬虔な気分になるもの・・・念仏、真言、お経、祓詞、祝詞を唱えると、潜在意識が深い部分から浄化され、人生は良いことだらけになっていくと思うのである。

ところで、こんなことも言える。
人間は、本当に「気持ちが良い」と感じた時には、決して悪いことを考えない。
ただ、美味しいものを食べたり、酒を飲んだり、性的な快楽を得たり、麻薬でハイになるといった、欲望と共にある気持ち良さは苦痛でもある。
そのようなものではなく、自然の美しい風景を見たり、爽やかな風が頬を撫でたり・・・などといったものである。
私は、昨年(2021年)12月30日から今日まで20日弱、毎日、井本邦昭氏(井本整体主宰。医学博士)の本に習い、蒸しタオルによる熱刺激療法を行っているが、適度な温度の蒸しタオルを、例えば、首の後ろに当てた時の気持ち良さは素晴らしく、こんなに気持ちが良い時は、人間は悪いことは考えないものだと思った。
だから、蒸しタオルによる熱刺激療法は、肉体だけでなく、潜在意識も癒すし、霊的にも良い影響があるのだと思う。
私の幼い時からの皮膚病が、先月5日くらいから猛威を振るっていたが、驚くべき治癒を見せている。
昨日、気が付いたが、自分のお尻を触ってみると(笑)、これがもう、赤ん坊のお尻のようにスベスベなのである。
人間は、足の裏に続き、お尻の肌の角質化が進み易く、いくら若い女の子でも、ある程度の歳になれば、ケアしないと、お尻にザラザラな部分が多くなる。
私も別に、蒸しタオルをお尻に当てたわけではないが(笑)、気持ちが良いと思う部分に当てれば、私のようにスベスベお尻になれるのである(笑)。
逆に言えば、お尻がスベスベになれば、潜在意識、そして、もしかしたら霊的にも癒されているのであり、それなら、幸運にも恵まれるのだと思う。








霊的疾病に挑む

私は、昨年(2021年)10月以来の厳しい皮膚病のおかげで、いろいろ分かってきて本当に良かったと思っている。
知識としては、昔から、超人的な人々から少しは教わっていて、病気には、

・物質レベル
・潜在意識レベル
・霊的レベル

があり、もちろん、下に行くほど深い。
そして、重要なことは、

・物質レベルの病気は潜在意識の障害から起こる。
・霊的な障害があると、潜在意識が侵され、結果、必ず、物質レベルの病気になる。

ということだ。

医療は、物質レベルの治療しかせず、一時的には良くなることもあるが、根本的には病気を治せないと私は思っている。
一方、アレクサンダー・ロイド博士の「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」は、潜在意識レベルの治療であり、ほとんどの病気を治せると思う。
ただし、「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」は、霊的レベルの病気には効果がない。
とはいえ、潜在意識レベルの治療を行えば、肉体レベルには必ず効果が現れるので、ロイド博士の療法が、ほぼ100%効果があることは疑っていない。ただ、霊的レベルの障害を持つ者には、限定的な効果しかなく、治ったように見えても再発する。

私が昨年末(2021年12月30日)から取り組んでいる、井本邦昭氏(井本整体主宰。医学博士)の蒸しタオルによる「熱刺激療法」は、一見、肉体レベルの治療であるが、同時に、潜在意識レベルの治療である。
「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」でエネルギーを送るような身体の部分を、蒸しタオルで熱刺激すれば特に効果が高いのは、そこが潜在意識に関係する中枢であるからだ。
例えば、額、首の後ろ、喉、胸、腰などである。
また、「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」は、肉体に対する作用が少ないので、祈りなどの精神的作用を加えないと、即効性が得られない。
しかし、「熱刺激療法」は、肉体にも抜群の効果があるので、潜在意識と肉体の同時治療を行える場合が多く、非常に即効性がある。

私の身体に最近、猛威を振るっている皮膚病は、霊的レベルである。
2021年10月初め頃から、2021年12月初め頃までの、潜在意識レベルの「アレルギー性皮膚炎」の場合は、「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」を一度行うごとに軽減した。
しかし、私の場合は霊的レベルである乾癬(かんせん)に対しては(乾癬のほとんどは霊的レベルからのものと思う)、「ヒーリングコード」や「エネルギー療法」では効果は低かった。
だが、「熱刺激療法」は、肉体と潜在意識を同時に癒すので、驚くべき効果が感じられたが、もう一か月以上、毎日2時間の治療をしても、かなり楽ではあるが、霊的レベルの病気が治ることはない。
そこで、普段、なるべく、阿弥陀如来真言、観世音菩薩真言、「南無阿弥陀仏」や「南無観世音菩薩」などの念仏を唱えていた。
正直、これらの真言や念仏に現実的効果があるというエビデンス(根拠)はない。
しかし、私の場合、これらの真言、念仏に少しは宗教的雰囲気を感じるのだが、宗教的雰囲気は、精神を悪いものに向けることを抑え、僅かかもしれないが、意識を霊的中心に向ける効果がある。
それで、確かに僅かかもしれないが霊的にも良い効果があることは間違いないと思う。
ただ、霊的に最も効果があるのは、霊的な障害による苦しみに耐えることである。
尚、私の場合、仏・菩薩の真言や念仏を使ったが、人によっては、聖書の言葉に、より強い宗教的敬虔さや信仰を感じる人もいるし、アメノミナカヌシノカミやアマテラスオホミカミといった、神道の神様の名や、祓詞、あるいは、祝詞にそれを感じる人もいるだろう。
だから、自分に合ったやり方を選べば良いのである。
邪霊が入り込まないよう、これらの言葉を、心の中で(好きなら、周囲の迷惑にならない範囲で声に出して唱えても良い)、なるべく多く唱えると良いと思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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