ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

強さの秘密

アメリカ合衆国の公式なモットーが「我々は神を信頼する(In God We Trust)」であることは意外に感じる人も多いと思う。
初めて聴くと、びっくりするかもしれない。
1956年に、法的に正式なモットーとして承認されたが、事実上は、それより少なくとも百年以上前からのもので、1800年代から硬貨にこのモットーが刻印され、その後、全ての硬貨と紙幣に表記されていると思う。

この“In God We Trust”の意味を、私は、「神の存在を信じる」という意味だと思っていたが、アメリカ人にとっては神が存在するのは当たり前で、trustという単語は「信頼すること」であり、いわば、神が我々、あるいは、自分を愛し、気遣っている、良いことをしてくれるという意味で、これは、新約聖書でイエスも明言している。

こういったことは、科学時代、物質主義、貨幣経済全盛の時代の人々にとっては、違和感を感じる部分もあるかもしれないが、新興国で歴史の浅いアメリカがかくも強力な国家になり、なんだかんだ言っても、今でもアメリカの国力が他国を圧倒することは、トランプ大統領の強気な言動や施策で改めて思い知らされるが、その強さの秘密が、このモットーにあるのかもしれない。
だが、かつてのアメリカはもっと強力だった。
それは、時代が進むにつれて、アメリカでも、このモットーを軽んじる人々が増えているせいではあるまいか。

ところで、「南無阿弥陀仏」という念仏の「南無」とは、「帰依する」という意味らしいが、「帰依」については、「拠り所にする」とか「信従する」といった、普段使わない言葉で勿体ぶって説明されることが多い。
しかし、つまるところ、「帰依する」とは「信頼する」という意味と言って間違いあるまい。
「南無」とは、信頼することで、英語のtrustであると、はっきりさせておきたいのである。
だから、In God We Trustは、「南無神」であり、「南無阿弥陀仏」は、イン・アミダ・ウィー・トラストである。
そして、阿弥陀こと阿弥陀如来は、「無限の光」「無限の生命」という意味で、この光は知恵のことであり、生命とは意思あるエネルギーである。
だから、阿弥陀如来とは、ジョセフ・マーフィーが言った、万能の宇宙の活力のことで、アメリカ人の神の概念と変わるまい。
そして、阿弥陀如来の我々に対する心遣いの大きさは、むしろ、アメリカ人の神がそうであることの観念をかなり超えるように思うのである。

アメリカがかくも強大であり、その秘密が、アメリカのモットーにあるなら、個人としても、それを活用するべきかもしれない。
現在、人々は金しか信用しないかもしれないが、インターネットの時代になり、金よりも、「好かれること」「信用があること」「一目置かれること」に力があるようになってきている。
その中でも、信用されることの重要度は高い。
ところで、Googleだって、インターネットを神と見なし、信頼したから発展し、そう思っていなかったビル・ゲイツとの協同を拒んだのだ。
信頼(あるいは信用)されれば信頼で返すのが、我々の中にある神仏の属性であり、神仏も信頼に対して報いてくれると考えて間違いあるまい。
それで、例えばだが、「南無阿弥陀仏」と称えることの、現世を含めた恵みに対して、法然も親鸞も、実は完全に保証しているのである。









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本物の修行はどれも、ただ1つのことをしている

太古から伝えられてきた、悟りを得たり、潜在能力を引き出したり、超人に近付くための修行や訓練は全て、「繰り返し注意を引き戻す」の一言で言い表せる。
得られる成果は神秘であっても、修行や訓練には、何ら謎や秘密はない。
呼吸に繰り返し注意を引き戻したり、不断に呪文や念仏を称えようとしたり、常に肛門を引き締めるよう努力したりは、ただ、「繰り返し注意を引き戻す」ことをしているだけなのである。
だから、やり方は無限にあり、大事なことは、ただ純粋に、「自分がやり易いかどうか」だけだ。
全く、気が抜けてしまうような事実だが、もはや、「3000年の歴史」だの「権威ある伝統の技法」、あるいは、「特別な人間のみに伝えられた門外不出の秘法」なんて馬鹿なことを、真に受ける必要はない。
それに、せっかく修行しても、教団のやり方では熱意がもてないために成果を得られない・・・なんて者は多いはずなのだ。
その場合は、熱意が持てる別のやり方を採用すれば良いのである。

何でも良い。
「オーム(アウム)」を称えながら、額に意識を集中する訓練はとても良い。
しかし、称えるのは「オーム」でも「アウム」でも良いし、声に出して称えても、心で称えても構わない。
ただ、確かに、「オーム」「アウム」は称え易い。人間が称え易い言葉を選んだからだ。その称え易さの中には、何らかの意味はあるかもしれないが、いずれにせよ、大切なことは、称え易いということである。

念仏には欠点があるかもしれない。
「南無阿弥陀仏」と称える時、西方極楽浄土が遠いどこかにあり、阿弥陀如来はそんな遠いところにいると思えば、心が外に向き、注意が飛んで行ってしまうからだ。
それで、一休は、「極楽浄土は西にあるのではない南にある」と言ったが、この「南」とは、「皆身」であり、全ての人の内にあるのだという意味だ。
極楽浄土は自分の中にあり、純粋な心が仏であることは、経典(無量寿経)に、はっきり書かれているのである。

「しかし、注意を引き戻す訓練をしたって、実際に戦わなければ強くなれないし、仙人にもなれない」
と言うならその通りだが、注意を引き戻す訓練を続ければ、冒険のためのエネルギーを得られるし、それがなければ、戦う気にもなれないだろう。

腕振り運動は身体の機能を整える優れた効果があると共に、数を数えることが大切だ。
腕を振りながら数を数えることで、注意は効果的に引き戻される。
「あれ、今260だっけ?いや、まだ160かな」なんて言っているようではだめだ。
意識を持ってやらなければならない。
それを、自分で数を数えず、音楽をかけて、それが終わるまでやるという者もいるが、その場合は、腕を振る動作をよく意識してやらないと、心がさ迷ってしまうことになる。
自分の呼吸を意識する訓練だって、禅では、数息観と言って、呼吸を1から10まで数えることを繰り返すものがあるが、それでも、うっかり50や100まで数えてしまうことがある。
まして、数を数えないと、止め処ない想いや妄想が広がってしまうことになる。
数息観だけでも、しっかりやれば、解脱に近付いたり、超能力が身に付いたりするのである。

後は、やるかやらないかだけである。
現代的で科学的な方法を望むなら、元Googleの技術者のチャディー・メン・タンが研究開発したSIY(サーチ・インサイド・ユアセルフ)のやり方を取り入れると良いだろう。









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教育と修行の根本原理

呪文、マントラ、念仏、坐禅、静坐・・・これらは、同じことをやっているのだと思う。
それは、「注意を引き戻す」ことだ。
他にも、自分の思考に注意したり、自分が存在していることを意識するという方法もあるが、それらもやはり、「注意を引き戻す」訓練なのである。

元Googleの技術者であったチャディー・メン・タンは、SIY(サーチ・インサイド・ユアセルフ)という、マインドフルネスの訓練でEQ(心の知能指数)を高める技法を開発したが、その実習の中にも、自分の呼吸を意識するというものがある。
自分の呼吸を意識するというのは、古くから、様々な修行や心の訓練で採用されているが、その意義について、タンは、『サーチ・インサイド・ユアセルフ』の中で、アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズの最適な言葉を引用している。

そして、さまよう注意を自発的に繰り返し引き戻す能力は、分別や人格、意思の根源にほかならない。それなしでは、いかなる者も自分の主とは言えない。この能力を育む教育は卓越した教育だろう。
『サーチ・インサイド・ユアセルフ』(チャディー・メン・タン著。Kindle電子書籍の25%あたり)
James,The Principles of Psychology(翻訳『心理学の根本問題』)より引用されている。

法然のように、いつでもどこでも、常に念仏を称えたり、黒住宗忠や岡田虎二郎のように常に腹に力を込めることも、これである。
ラマナ・マハルシは、常に自分に対し「私」と呼びかけよと、また、ニサルガダッタ・マハラジは、常に存在の感覚にしがみつけと教えた。
どれも良い教えだが、その原理を、ウィリアム・ジェイムズやチャディー・メン・タンがやっと示してくれたのだと思う。
そして、原理さえ分かれば、やり方は自分で自由に選べる。
どんな方法が良いかは、人それぞれだ。
子供の時に、念仏や、何かの真言に馴染んだ者には、念仏や、その真言がやり易い可能性が高い。
どれが良いか分からないなら、自分の呼吸を意識する方法が最良と思う。
呼吸をコントロールするのではない。ただ、呼吸を観察するのだ。冷徹な科学者のようにね。

ラマナ・マハルシは、「私は誰か?(私とは何か?)」という問いを、呪文にしてはならないと言ったらしいが、真面目に丁寧にやるなら、呪文のようにやって良いと思うし、マハルシ自身が、常にそう問えと言っているのであるから、やはりそうであるはずだ。
ベアード.T.スポールディングは、「神」という言葉を口や心で称えることが最上だと述べているが、やはり、これを呪文にしてはならないとも言っている。しかし、やはり、真摯に行う限り、常に行うのが良いと私は思う。









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弱者のための最強の武器

強いヤツって、必ず、お決まりのパターン(型)を持っている。
ポリシー(方針)という言い方の方がピッタリする場合もあるが、同じことだ。
逆に言えば、パターン、ポリシーのない者は、非効率で弱い。

トヨタ自動車の車にも、単純な言葉で語ることが出来るパターンがある。
売れる音楽家の音楽、売れる小説家の小説にも、見え難い場合もあるが、やっぱり、パターンがあるものだ。

格闘技の名門グレイシー柔術も、多彩な攻撃があるようでいて、「グレイシーのパターン」というものがある。
もちろん、プロの格闘家なら、それがどんなものか知っているのだが、分かっていても負けてしまうのは、そのパターンが優れていて、しかも、磨き上げられているからだ。

私は、セールスマンとして社会人を始め、かなり熱心にやったが、超一流セールスマンの著書と、身近にいる強いセールスマンで必ず共通していたのは、彼等のセールストークがワンパターンだということだ。
売れないセールスマンのセールストークほど多彩なのである。
一流中の一流であった夏目志郎さんともなると、助手の女子大生が、「いつ同じことを言ってばかりの夏目さんが可哀想」と言って泣き出したほどだ。
夏目さんは、セールストークは同じものを繰り返し使うことで威力が増すのだと著書に書かれていたと思う。

ナンパだって、上手いヤツはワンパターンだが、下手なヤツはナンパする度にアピールの仕方が違い、口説きに力がないのである。
ナンパもセールストークも同じと言ったら、セールスマンの方々に怒られるかもしれないが、1つのパターンが力を発揮するところは共通している。

私のようなプログラマーというかシステムエンジニアだって、システム開発のパターンを持っている人は有能だ。
優秀なシステムエンジニアは、いくつかのパターンを使い分けているように見えるが、それでも、結局は1つのパターンが基になっているのである。
そんなパターンがなく、いろんなことをやりたがる者が作るシステムは、必ずトラブルを起こしたり、完成に時間がかかる、あるいは、完成すら出来ない。
私の実感としては、よほどの天才のことはいざ知らず、人間の能力は、1つのパターンを使いこなすのがせいぜいなのだ。

1つのパターンを選び、鍛え、繰り返し実践で磨けば無敵に近付く。
坐禅なら坐禅、念仏なら念仏と決め、それに徹すれば、必ず神仏の加護がある。不思議だが本当だ。
しかし、坐禅をやってみて、良いことがないので念仏に変え、それも駄目ならTM(超越瞑想)をやってみる・・・とフラフラしている者は、いつまで経っても、あまり良い思いをしていない。
成功法則も、ジョセフ・マーフィーと決めれば脇目もふらずにマーフィーの本を読み、しかも、同じ1冊を数百回も読む者は、必ず、驚くほどいつも好調だ。
中畑清さんなんて、巨人の4番を打っていた頃は、冗談でなく、いつも「絶好調」と言い続けていたのではないかと思う。彼がそうでないにしろ、普通の人なら、それで十分だ。
長州力さんは、リキラリアットとサソリ固めの流れのワンパターンなので、60歳をとおに過ぎても現役でやれるのだ。

法然の名著『選択本願念仏集』も、まさに、念仏というワンパターンを「選択」し、他は捨てろというものなのである。
宗教書としては、弟子の親鸞の『歎異抄』と並ぶ最高のものだが、『歎異抄』の主張も、極めてワンパターンである。

あなたも、1つのパターンを選び、それに専念し、後は捨てるのだ。
2つのパターンを選んでうまくいくには、宇宙人並の能力が必要だ。
だが、ワンパターンに徹すれば、宇宙人にだって勝てるさ。









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人間の値打ちは一目で分かる

人間の値打ちを表すのに、人格、品格、理性、道徳性、人間性等といったものがあるが、それは全て知性であるのだと思う。
知性は、試験の成績とも大いに関係するが、イコールでは全くない。
それよりも、人間の知性は、座り方に完全に現れると思わないだろうか?
私は、例外を見たことはないし、見ることが出来るとも思わない。
就職の面接などでは、誰だって背筋を伸ばしてしゃんと座るかもしれないが、所詮、知性の低い人間がそうしても、無理があって不自然なのである。
スティーヴン・ホーキングは、普通の意味ではきちんと座れないが、それでも、彼の座り方には知性が現れていると思う。
どんな座り方が知的であるかは、いちいち言うまでもないと思う。
見れば分かる。
もし、分からないとしたら、それこそ知性に問題がある。
もちろん、立っている姿にも知性は現れるが、座っている姿の方が、圧倒的に現れると思う。

逆に、意識的に知的に座れば、知的になるのだと思う。
だが、知性があまりに低いと、立派な座り方をしようと思わない。
そもそも、それほど知性が低いと、知的であることに価値があると思っていないだろう。
そして、かなり知性が低いと、知的な座り方を続けられない。
だが、意識の奥には、誰だって知的でありたいと願う意思があるのだと思う。
なんとかそれに従い、きちんと座れば、知性は向上するだろう。

他に知性を表す重要なものに、表情がある。
これもまた、どんな表情が知的で、どんな表情が愚か者のそれかは、説明するまでもなく、見れば分かるはずだ。

我々は何も、知的でない人の座り方や表情を馬鹿にして喜ぼうと言うのではない。
面白いことに、鏡を見なくても、自分の座り方や表情は分かるものである。
しかし、無理に、自分より優れた人間の座り方や表情をするのは難しい。
だが、立派なことをしながらだと、それは容易い。
つまり、仕事を熱心にやったり、トレーニングをしたり、良い本を読みながらだと、良い座り方や表情を維持しやすい。
だが、一番優れた座り方や表情を出来る行いは、念仏を称えることだ。
念仏を理屈で言えば、自分より高い存在に意識を向けることである。
親鸞は念仏に優る善はないと言ったらしいが、間違いではないと思う。
初音ミクさんは、あまり座らないが、立っている姿勢や表情に知性が現れている。









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