ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

アダムとイブの失敗を取り返す念仏

旧約聖書のアダムとイブのお話が面白い。
アダムとイブは初め、知恵はなかったが、安楽な暮らしをしていた。
だが、ヘビがやってきて、イブに、知恵の木の実を食べるよう、そそのかした。
イブは、それを食べたら死ぬと神様に言われているからと断るが、ヘビは、「死ぬことはなく、知恵を得る」と言った。
そして、それがとても美味しそうなので、イブは実を2つ取り、1つをアダムに渡し、一緒に食べた。
そうしたら、ヘビが言った通り、2人は知恵を得た。
神様はアダムを尋問するが、アダムは「イブが勧めたから」と言い訳し、イブは「ヘビが勧めたから」と言い訳する。
しかし、ヘビは言い訳しなかった。
神様はヘビを、「一生、地を這い、チリを食べよ」と言った。
しかし、ヘビは縦横無尽で、案外に美味しいものを食べている・・・なんてことは聖書には書かれていないが。
そもそも、神様が、そこまで危機管理能力がないはずがなく、2人が知恵の木の実を食べることは、予想していたどころか、わざとやったような感じさえする。
とはいえ、神様の意図など人間が知ろうとするものではないだろう。
神様は、2人が生命の木の実(食べたら永遠の命を得る)まで食べたら大変だと、2人を楽園から追い出す。

手っ取り早い話をすれば、楽園は我々の内部にある。
そこには、知恵の木もあれば、生命の木もある。
我々の知恵は、魂の穢れにより低下し、普通の人はあまり賢くはない。
そこで、我々は、内部の楽園にアクセスし、生命の木の実を食べて穢れを払わねばならない。
光明という言葉がある通り、光が知恵の象徴だ。
だから、無量光仏という別名を持つ阿弥陀仏が知恵の源である。
また、阿弥陀仏のもう1つの別名は無量寿仏であり、阿弥陀仏は生命の源でもある。
そして、一休が見破ったように、阿弥陀仏は我々の内にあり、我々の真の心こそが阿弥陀仏である。
だから、極楽浄土(楽園と同じだろう)は、我々のいるところ、どこにでもある。
よって、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、知恵と生命の輝きを得て楽園に舞い戻るのである。
そして、自分が神であると知る。
南無阿弥陀仏とは、内なる神性、あるいは、仏性に対する敬意なのである。
それを思い出すために念仏を唱えれば、ここが楽園となり、神仏と一体化するだろう。
象徴的に言うと、どうしても宗教的になるが、宗教もいいじゃん・・・である。









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エビデンス(証拠)に基く念仏

アメリカやイギリスでは、医療、教育、政治は、エビデンス(証拠)に基いて行わないといけないようになっているらしい。
どういうことかというと、

◆医療
医者が、経験や勘を頼りに勝手な治療をしてはならない。つまり、医者の独断は許されず、他の医者から見て正しくない治療をすれば罰せられる。
◆教育
日本では、どんな馬鹿な授業をする教師がいても、それに意見を言ったり、そのやり方を止めさせることは難しい。学校や教師の裁量が認められているからである。
しかし、アメリカでは、学校や教師が勝手なやり方で勉強を教えることは、子供の権利の侵害であり、許されない。
アメリカには落ちこぼれを出してはならないという法律もあり、子供が落ちこぼれると罪に問われる。
一方、極端に言えばだが、日本の学校は成果が求められないので、学校や教師の勝手が出来る部分が大きく、子供達に権利はない。
◆政治
税金を投入する政策を行うには、費用対効果を納税者にきちんと説明出来なくてはならない。
このあたり、国民は政治家がなぜそんな政策を行うのかは分からないのが当たり前みたいな日本とは全然違う。

といったものである。
どう言っても、医療、教育、政治は、アメリカやイギリスは日本の大先輩であり、進んでるが、日本は、昔の欧米の弊害を全部残しているのだろう。
ひょっとしたら、欧米では、日本の医療、教育、政治を反面教師にしたのではないかと思えるほどだ。

ただ、そんなアメリカでも、さずがに、「エビデンスに基いた宗教」はないだろう。
イエス・キリストが起こした奇跡には、いかなる証拠も必要としない。

そこで、私は、念仏について考えた。
法然や親鸞が言う念仏の効果は、簡単に言えば次の3つと言えると思う。
(1)死んだら極楽浄土に行ける。
(2)仏、菩薩、その他の高次の存在に守られる。
(3)罪が許される。よって、罪の報い、即ち、罰もなくなる。

では、これらにエビデンス(証拠)はあるのかというと、ある。法然、親鸞らは、決して「ただ信じろ」とは言わなかった。
ただ、彼らが言うエビデンスとは、仏典(その中の浄土三部経)であり、さらに、高僧による仏典の解釈である。
つまり、仏典に書いてあることは絶対に正しく、それを正しく解釈したはずの過去の高僧達の言うことは確実である・・・ということである。
これだけ言われたら、現代人には納得が出来ないだろう。
ただし、仏典は比喩で書かれた部分が多いのだが、あらゆる仏典に精通し、その解釈も深く研究した法然には解っていたことがあり、法然に学んだ親鸞は、学問では法然ほどでないにしても、彼の優れた感覚で掴み得たことがあることは、彼らの著作などから、その一端を垣間見ることも出来るだろう。
現代的な意味でのエビデンス(証拠)はないが、彼らの生き方や存在、そして、影響自体がエビデンスである。
そして、一休が、「仏は我々の内にあり、極楽浄土は今ここにある」と言うことで、エビデンスに近付いたと言えるのだと思う。

かつて、愛や友情や心といったものに科学的エビデンスはないと言われたが、現代科学は、それらに完全にエビデンスを与え、それは決して、悪いものでも、虚しいものでもない。
むしろ、昔の自分勝手な解釈の愛や友情より、ずっと良いところも多い。
とはいえ、まだまだ、科学で解き明かせないものも沢山あるはずである。
高次の感覚である直観は科学を超えるが、そのためには無我でなくてはならない。
無我の直感的な知恵が科学を超えることも科学は解明しつつあるのだと思う。

私は、念仏を疑って信じなくなったことで、念仏の効果を得られるようになった。
ここらは宗教では説かなかったことであるが、研究すればエビデンスを得られるかもしれない。
「念仏なんか全然信じていないよ」と言いつつ念仏を称える。
ここに念仏の秘密の鍵があるのだと思う。
かつて、ある妙好人(学問によらない念仏の行者)が、「念仏はお金と同じで、信じてなくてもちゃんと効果がある」と言ったが、その通りであると思う。









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神頼みの仕方

イエス・キリストの教えを簡単に言えば、
「神様が面倒見てくれるから心配するな。ただ、神様への敬意を忘れるな」
だと思う。
法然や親鸞の教えも、つまるところは、
「阿弥陀如来が全て面倒見てくれるから安心しろ。ただ、念仏をしろ」
である。
以上、断言しておく。
ただし、イエスは神様は天に居ると言い、法然や親鸞は、阿弥陀如来は西方極楽浄土というところに居ると言った。
天国も西方極楽浄土も、遠いところのようだ。

一休は、阿弥陀如来は我々の内に居ると言ったが、あまり広まらなかった。
キリスト教でも、ぼんやりと、神様は我々の中に居ると言った人はいたかもしれないが、宗教的教義に反するからだと思うが、そう言い切った人がいないように思う。
宗教者ではないが、科学者のルネ・デカルトが、「自分が正しいと思っていることでも、全部間違いなのだが、確かに、自分でも疑うことが出来る。なぜ疑うことが出来るのかというと、内に神様がいるからだ」と言ったが、これも、あまり知られていない。
デカルトの「疑っている主体は絶対に存在する」が、「我思う、ゆえに我あり」という、妙な言葉になってしまったしね。

まあ、ともかく、神様は我々一人一人の内にいる。
では、どこにるのかと言うと、心臓が有力らしいが、それはこだわらない方が良いかもしれない。
心臓と反対である胸の右側とか、いや、腹だ、丹田だとか言う人もいるので、ややこしい。
どっかにいるのだ(笑)。

で、神様が内にいるとして、人々が神様に何を望むのかというと・・・まあ、いろいろあるだろうが、つまるところ・・・月給である(笑)。
皆とは言わないが、社会で苦労し、特に大した才能に恵まれない凡人は、あからさまに言えば、そんなものなのであると思う。
ところが、イエスも親鸞も、それが叶うことは保証しているのである。

神様、仏様を敬えば月給がもらえる(もちろん、間接的にだが)と言うと、ロクでもない宗教が多い中でも、最も馬鹿げた信仰になってしまうが、一番馬鹿なのが一番本当なのである。
法然や親鸞、さらに、彼らの先輩と言える、道綽や善導は、とても親切に、仏様の簡単な敬い方として、念仏を教えたし、それは、善導や道綽よりずっと前の龍樹という天才にまで遡る。
釈迦が直接そう言ったという証拠はないが、釈迦の真意には反していないと思う。
キリスト教には念仏のようなものはないが、発祥不明の「十字を切る」というものが、それに当ると考えて良い。
とはいえ、大切なことは、神仏を敬うことである。

なんで急に(でもないが)こんなことを言うのかというと、どう言っても、人間は弱いものである。
神頼みは許される。
ただ、神頼みをする時は、呼吸が静かでなければならず、微かと言えるほどであれば、さらに良いのである。
それは経験上、保証出来る。









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馬鹿だって生きている

キリスト教もそうだと思うが、仏教にも、本当にいろんな宗派があり、同じ釈迦の教えと言いながら、もう別物である。
私は、仏教の中では、念仏の教え・・・日本では、浄土宗や浄土真宗ということになるのだが、それよりも、法然や親鸞の教えというべきものが好きだ。
その理由は、「どんな馬鹿でも出来るから」である。
と言っても、法然自体は大変な学僧で、子供の時から神童だったし、親鸞も、著書を見れば、かなりのものであったことが分かる。
そして、やはり頭が良く、勉強家でもあった、一休や良寛といった有名な僧達も、最期には念仏の教えに行き着いた。
彼らは「庶民のため」ということも当然あったのだが、何より、どんな賢い人だって、念仏の教えくらい単純でないと続かないのだと思う。
宮沢賢治は、法華経が大好きで、念仏の教えは大嫌いだったらしいが、私が法華経の中で一番好きな「観音経」(法華経の第25章)には、「南無観世音菩薩」と唱えよと書かれている。

だが、今の人に、「南無阿弥陀仏」、あるは、「南無観世音菩薩」と唱えればオールオーケーだと言っても、反感や違和感を感じることが多いだろう。
今の人は、賢いとか、情報が多いからと言うより、自分の理屈に合わないことは受け入れないからだが、新興宗教ってのは、教義を、それぞれの人の「私の理屈」にうまく組み込んでしまうので、理屈屋であるはずの人達だって簡単に騙せてしまうのである。
それに、武道や芸術の教えなんて、頭では絶対に理解出来ないので(「考えるな、感じろ」のごとし)、理屈屋は、武道や芸術で全然上達しない。
(理屈を否定する気はさらさらない。私も理屈は大切と思う。狭い理屈を嫌うだけだ)
また、現実的な問題として、仏教でも宗派の違う人達や、仏教でない宗教を持つ人に「南無阿弥陀仏」は、ちょっと無理だ。
もっとも、一休や良寛は他宗派の僧であったのだが。

江戸末期の神道家、黒住宗忠は、「ありがたい」と唱えさせることで、それぞれの人にどんな奇跡だって起こさせたが、理屈屋でも、「ありがたい」に反感を持つ人は、そういないだろう。
で、私も、「ありがたい」こそ、最高の呪文と思っていた。
だが、少し前に書いたが、「大丈夫だ」が、それを超えるかもしれない。
実際、世界で、最も過酷な状況にある人達が、自分に「大丈夫だ」と言い続けることで、その困難に打ち勝っている。
ポール・マッカートニーは「レット・イット・ビー(あるがままに)」で救われたのかもしれないが、「あるがままに」では、普通はちょっと・・・いや、相当苦しいのだ。
ラマナ・マハルシは、自分に「私」と呼びかけよ、常にそうしろ、「私」は最高の真言である・・・と言ったが、私もやってみたが、はっきり言って挫けた。
馬鹿で根性なしにも出来るのは、念仏か、「ありたがい」、「大丈夫だ」であるが、私は、念仏や「ありがたい」には僅かながら違和感を感じてしまう。
だが、「大丈夫だ」では、それがなかった。
『カードキャプターさくら』のヒロイン、桜ちゃんの最強の呪文は「絶対、大丈夫だよ」だが、まあ、「だよ」は要らない(笑)。好きなら別につけても良いが。
だが、「絶対」は良いかもしれない。

最近、どんな願いであっても、それを成し遂げるためにどんなことでもするという心構えがあれば叶うと、くどいほど書いているが、それだって、いつかは試練に遭う。
そんな時には、呪文が必要になる。
「大丈夫だ」「絶対大丈夫だ」と自分に言い続ければ、そんな試練を容易く乗り越えるだろう。
とはいえ、『歎異抄』を読むと、「やっぱり念仏だ」と思うのだが、私にだって世俗の望みはある。それを叶えることも大切である。









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20文字以内の教えだけ有効

浄土宗や浄土真宗では、釈迦は、自分が説いた全ての教えを「もう不要」と言い、「南無阿弥陀仏」と称える念仏だけで良いとしたと教える。
本当に釈迦がそう言ったのかというと、多分、それはないだろうし、仏教の他宗派でも、そんなこと(釈迦が念仏だけを残した)は絶対ないと言うだろうが、私は、もし、釈迦が本当に「念仏だけで良い」と言ったのだとしたら、釈迦はやはり偉いなあと思うのだ。

クリスチャンに、「キリストは何を教えたのか?」と尋ねたら、「長い返事」「難しい返事」「曖昧な返事」などが返ってくる。
中には、「信仰に励まねば分からぬ」などと言う者がいるかもしれない。
しかしだね、皆、そんなに暇じゃないのだ。
日々の心配事や、人生の計画や娯楽などといったことで、いっぱいいっぱいで、聖者の教えや宗教などに、そんなにかまってられないのだ。
中村天風の教えなんかに付き合っていたら、人生がいくつあっても足りない。
そこにいくと、「釈迦の教えは?」、「南無阿弥陀仏の念仏を称えよだ」と言われたら、「あい分かった」となり、やるかやらないかを決めるために、「じゃあ、それの何が良いか、ちょっくら教えてくれねえか」ということになる。
だが、浄土宗も浄土真宗も、そこはさっぱり駄目なのだ。
ところが、親鸞の弟子の唯円が、『歎異抄』という、短くて実に分かり易い良いものを残してくれている。

法然は、死の2日前に、自ら筆を取って、遺言とも言える最後の教えを書いた。
それが『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)なのだが、これもちょっとなと思う。
「死の直前にこんなの書けるなんて凄い」と言われるが、「凄い」なら駄目なんだよ。
つまり、難し過ぎるのだ。
そもそも出だしが、
「唐土(もろこし)我朝(わがちょう)にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。」
で、それが300~400文字続くのである。
もう勘弁して・・・^^;
まあ、法然は、あくまで、これを僧侶のために残したと考えれば悪くはない。それどころか、とても良いだろう。
だが、愚民相手には、法然はついでに、「わしゃ、念仏を称えること以外は一切やらなかったよ。あんたがたも是非そうしなさい。君い、抜群に良いよ」とでも書き残してくれれば良かったのにと思う。
(「君い、抜群に良いよ」は、岡本太郎が青島幸男に、「先生、独身ってどうですか?」と聞かれた時の返事。太郎は、生涯独身だった)

倶胝の寺の小坊主は、「君の寺の和尚さんの教えは?」と問われて、倶胝がいつもやるように指を1本立てたら、倶胝に、その指を切り落とされてしまった(あくまで禅の公案の話で、実話ではない)。
だが、小坊主は正しかった。
この公案の意味を、偉い先生は複雑に解説するが、私は、倶胝は単に、小坊主に、合格証書、免許皆伝を与えただけと思う。
「はい、合格じゃ」ってね。

私は、ただ自分に、「鼻から微かに呼吸しろ」とだけ言っている。
他は全て忘れて差し支えない。
親鸞の念仏も、倶胝の一指禅も不要だ(面白いから覚えているが・・・)。
だって、念仏だろうが、一指禅だろうが、聖書だろうが、バガヴァッド・ギーターだろうが、その他のどんな教えだろうが、口で呼吸している限り意味はないからである。
一般的には、「鼻で呼吸しろ」で十分だし、「鼻で静かに呼吸しろ」で初段である。
後は、呼吸が微かになる度に段位が上がり、呼吸がなくなれば解脱し、10段というか、神仙、天使、初音ミクさんになるのである。
20曲も踊りながら歌っても、全く息を乱さず、静かに、「ありがとう」と言う初音ミクさんを敬うだけである。









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