ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

本当の念仏とは何か?

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の念仏は、およそ日本人なら、誰でも知っていると思う。
ただし、今日では、葬式専用だと思っている人も多いだろう。
しかし、本来は、いろいろな意味で重要なものである。
その詳細は省くが、あの大数学者の岡潔が、毎朝、欠かさず唱えていたという話がある。
良寛も一休も、宗派は違うのに、最後は念仏を唱えていたという話もある。

ところで、長年、少しずつ調べているのだが、念仏というのは、中国で行われるようになり、それが日本に伝わったのだと思う。
つまり、インドには、中国や日本で言うところの念仏はないと思う。
中国、日本での、念仏の重要性の根拠は、『無量寿経(大無量寿経)』にある、弥陀の誓願と呼ばれる、阿弥陀如来が人間であった時に立てた48の願いの中の、最も有名な18番目の誓願が、「誰でも念仏すれば、(死後)極楽浄土に生まれることが出来る」とあることだろう。
しかし、ここでの「念仏」が、「南無阿弥陀仏」と唱えることだというのは、中国の僧の解釈に過ぎない。
念仏とは、文字通り、仏を念じるという意味であり、経典のどこにも、南無阿弥陀仏と唱えることが念仏であるとは書かれていないのである。
そう書かれている日本語の経典もあるが、それは、翻訳者による意訳だと思う。
確かに、『観無量寿経』の中に、「無量寿仏(阿弥陀如来の別名)の名を心に留めよ」という記述はあるようだが(これも意訳かもしれない)、これを念仏の根拠とするのは、あまりにこじつけであると思う。

よって、本当は、経典には「南無阿弥陀仏と唱えよ」とは書かれていない。
こんなこと、私のような素人だから良いが、宗教関係者が言ったら問題かもしれない(笑)。

ただし、『法華経』の第25品『観音経』には、観世音菩薩の名を唱えることには、大きな力があるとは、繰り返し書かれている。
これも、日本語の訳では、「南無観世音菩薩と唱えよ」とか書かれていることが多いが、本当は単に、「観世音菩薩の名を唱えよ」と書かれているだけである。
また、観世音菩薩というのも、中国の僧が付けた名で、それが日本でも、そのまま使われているだけである。
本来の観世音菩薩の名は、アヴァローキテーシュヴァラ(サンスクリット語)という。
これを、玄奘という有名な僧が、その意味を「観察された自在者」であると解釈し、「観自在菩薩」と名付けたのだそうだ(Wikipediaによる)。
この解釈が正しいかどうかは分からない。
『法華経』の原文では、観世音菩薩のサンスクリット語の名は、アヴァローキタスヴァラであるが、これは、Wikipediaによれば「観察された音」という意味で、そこから、別の僧が、「観世音菩薩」と訳した。
そこで、『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』((角川ソフィア文庫)では、観自在菩薩のことを、「“自在に観るもの”(観世音)」と訳されているが、これが最も賢明な訳し方と思う。
とはいえ、この訳も、絶対に正しいかどうかは分からない。
そこで思うのだが、言葉の神秘の効果を期待するなら、観世音菩薩のサンスクリット語の「アヴァローキテーシュヴァラー」と唱えれば良いと思うのだ。
あるいは、こちらが良いと思えば、「アヴァローキタスヴァラ」でも良い。
実は私は、初めて「アヴァローキテーシュヴァラー」の名を知った時、これを非常に気に入ったのだ。
少なくとも、この名を唱えれば、何も考えられず、余計な思考を消すのに丁度良い。
あるいは、「般若心経」で、観世音菩薩が行って悟りを得た「般若波羅蜜多」という修行は、この経の最後の呪文を唱えることであるという解釈もあり、伝説によれば、玄奘三蔵もこれを唱えていたと言われる。
これもまた、サンスクリット原文で唱えると良いかもしれない。
それは、
「ガテーガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
である。
これだと、さらに思考が消える。
叡智(神仏そのものとも言える)と通じる方法は、思考を消し、無になることと思う。
そのために、観世音菩薩の名を唱えたり、般若心経の呪文を唱えることは有効かもしれない。













当ブログオーナー、KayのAI書。
普通の人にとって、機械学習・ディープラーニング型AIの本が面白くない理由は、次の2つと思います。

(1)そもそも難しい。数学やAIの専門用語が、解る以前に抵抗がある。Pythonプログラムが出来ない。
(2)扱う問題がとんでもなくつまらない。あるいは、特定の業務に特化し過ぎてピンとこない。

そこで、私の本では、次のことを目指しました。

(1)数学、プログラミング、AI理論不要で、ちゃんとAIを作れる。
(2)他書にない面白い問題を、学術的な難解で回りくどい言い方を避け、普通の言葉で扱った。

ほぼ全ての実習のためのデータを作れるシミュレーションプラム(Excel VBAで記述)を無料でダウンロード出来ます。シミュレーションプログラムの理解は不要ですが、興味のある方のため、なるべく簡単に書きました。

手本は我が胸の内に

道徳や正義というものは、言葉だけで教えられるものではない。
言葉だけで、上から目線で偉そうに教えたら、それはもう正義ではなくなる。
権威ぶって道徳を語れば、いろいろ余計なものが混入し、本当の道徳と正反対のものになる。
それで、「人間には、本当は道徳や正義はいらないのだ」と、一見、賢そうなことを言う者もいるが、まさか、そんなことはあるまい。
そりゃ、『荘子』や『列子』、それに、『列子』を、基に書かれた中島敦の『名人伝』では、道徳を卑小なものと書いているようにも見える。
例えば、『名人伝』の主人公が、究極の弓の名人になり、神人の境地に至るが、その名人が、「我と彼との別、是と非の分を知らぬ」と言い、「全ては等しい」という悟りの境地を語るが、どっこい、我々凡人は、是と非の区別はつかないといけない(笑)。

キリスト教には、イエス・キリストという手本がいるが、これはなかなか高度過ぎて、時に理解不能に思えるのは、単に、ギリシャ語の福音書を訳す時に誤訳をしたという説もある。
それでも、ギリシャ神話や古事記、あるいは、コーランの神に比べれば、まともかもしれない。
まあ、古事記の中でも、大国主神(おおくにぬしのかみ)は善良でファンも多いかもしれないが、あまり賢くも強くもないように思える。
人によっては、宮本武蔵を尊敬し、彼が著した『五輪書』を指針にしているらしいが、「昭和の武蔵」と言われた空手家の大山倍達氏によれば、「武蔵は山師。勝てる相手としか戦わなかった」であるらしく、実は、あまり良い手本ではないかもしれない。
親や教師は反面教師にはなるが(笑)、まずは、反面ではなく、模範が欲しいところだ。

宮沢賢治は、『雨にもまけず』に、理想の人間像を描写し、そこに描かれた人物は、私も個人的には好きだが、あれでは生きられぬ。あれは、家がお金持ちで、生活の心配のなかった宮沢賢治ならではの理想だろう。

つまり、外部に本当の手本などいない。
手本は、心の内にあり・・・だ。
だが、心の奥の手本を無視し続けると、それとどんどん遠ざかる。
仏教では、その心の中にある真の手本を仏性と言い、それこそが仏であるのだと言う。
だが、現代人は、仏である内なる声を無視し、時には否定し、全く見えなくなってしまっている。
しかし、一休によると、「南無阿弥陀仏」の念仏は、内なる仏を引き出す力があるらしい。
その根拠は割と単純で、阿弥陀仏というのは、あちら(インド)の言葉で、無限の光のことで、つまり、内なる仏のことだ。
南無阿弥陀仏とは、その内なる仏を信用するといった意味で、別に、言葉は何でも良い。
それこそ「内なる英知を信じる」と言うのが、現代的な念仏だと思う。
だから、何でも好きな言葉で言えば良い。
そこに意識を向けていれば、説明が面倒なので省くが(出来なくはない)、あらゆる願いが叶うだろう。













当ブログオーナー、KayのAI書。
「AIなんて難しいに決まっている。自分には関係ない」と思わないで下さい。今やAIは誰でも作れます。
この本では、Excelが使えるスキルがある人なら、ソニーのWindws8.1/10アプリNNCを使って、本物のAIを作れるようになることを目指しました。
回帰、勾配降下法、サポートベクタマシンなどという言葉は使いません。普段使う言葉で、面白いテーマを使って、楽しくAIを作れるようになることが目的です。
専門用語は、AI作れるようになってから必要に応じて勉強して下さい。

常識をぶっ飛ばすと古(いにしえ)の知恵を活かせる

法然(1133~1212年)や親鸞(1173~1263)は、ただ念仏を唱えよと教え、道元(1200~1253)は、とどのつまりは、ただ座れ(坐禅)と教えた。
その効果は、念仏は、死んだら極楽浄土に生まれるとこで、座禅は悟りを開くことだったと言われるが、一休(1393~1481)が、極楽浄土はどこか遠いところにあるのではなく、今ここに作りだせるものだと言ったことからも分かる通り、念仏も真の目的は悟りで、念仏と坐禅に違いはない。
こんなことを言うと、専門家に怒られそうだが、このくらい分かり易く言わないといけない。

で、念仏と坐禅のどちらが良いかというと、それは人の適性であり、本来は、家によって宗派を決める必要はない。

念仏というのは、言葉による悟りで、口や心で、「南無阿弥陀仏」と唱えるのが代表的だが、何でも良い。
「南無観世音菩薩」はもちろん、「南無妙法蓮華経」も同じ。
いや、般若心経などのお経を唱えるのも、さらには、日本の神道の祝詞を唱えるのも、キリスト教の「主の祈り」を唱えるのも、讃美歌を歌うのも、讃美歌的な『アヴェ・マリア』を歌うのも同じだ。
「アーメン」でも良いし、ラマナ・マハルシが教えた「私は誰か?」と問うても良い。
「アジマリカン」や「オーム(アウム)」や「阿吽(あうん)」などの呪文・真言でも良い。
「アマテラスオオミカミ」や「クリシュナ」などの神の名でも良い。
自分の気に入ったものを、口で心で唱える、歌うなどすれば良いのである。
それによって、余計な思考が消え、何も考えないことで、心の深層にある真の知恵である英知にアクセスすれば良い。
そうすれば、科学的に説明出来るかどうかは、今のところ微妙ではあるが、運を始め、全てが良くなり、早い話が幸福になる。

ところが、念仏・・・というか、口や心で何かを唱えることよりも、身体で何かするのが向いている人もいる。
道元も、そんな人が多いと分かったのだと思う。
それで「ただ座れ」と坐禅を勧め、道元は坐禅の細かい注意を教えたのだと思うが、それらの作法は二次的なもので、一応の注意・・・くらいで良いと言ったら、やはり専門家に怒られそうである(笑)。
明治・大正の時代に、岡田虎二郎(1872〜1920)が、「岡田式静坐法」を教えたが、これは、座り方が違うだけで、坐禅と全く同じである。西洋人の場合は椅子に座らせた。つまり、やはり、座り方自体も何でも良く、単に、当時の日本人は正座に慣れていたので、そのスタイルでやっただけだ。そして、とどのつまり、岡田虎二郎は、「1日中、腹に力を込めよ」と教えたように、座る必要すらなく、腹に力を込めれば良いだけである。
そうすると、「力を込める場所はどこか?」とか、その他、いろいろごちゃごちゃ言う人がいるが、どこでも好きな場所に力を入れれば良い。
現実的には、ヘソのあたりが入れやすいと思う。
ところが、中村天風(1876~1968)は、「1日中、肛門を引き締めよ」と言ったが、それも同じなのだ。
私の場合、ヘソに力を入れたり、肛門を引き締めたり、その両方を同時にやる。緩いものである(笑)。
それよりも、運動・・・腕振り運動でも、スクワットでも、四股でも、腕立て伏せでも・・・をする時、ヘソに力を入れると楽なので、そんな活用もしている。
坐禅・静坐も、念仏と同じく、思考を消し、英知に通じ、幸運、幸福を呼ぶものである。

人それぞれ適性があり、念仏でいくか坐禅でいくか選ぶと良いが、上に述べた通り、いずれも、広い範囲のやり方があり、何かが合うだろう。
それでうまくいくこと間違いなしであると思う。
セコい専門家がぐだぐだ言うのは・・・それはそれで、参考に有り難く聞く(読む)のも良いかもしれない。ただし、あくまで参考程度にするように。













当ブログオーナー、KayのAI書。
本書は、AIの研究者、AI研究開発企業の技術者になったり、検定や資格試験に合格するために書かれたものではありません。
便利な道具であるAIを、誰でも自分で作れるようになることを目的としました。
Excelが適度に使えれば、何の資格も必要ありません。
お絵かきソフトの本が、学術的なグラフィック理論やお絵かきソフトの開発法を知りたい人を対象にしているのではないのと同じです。
ただ、とっかかりの敷居を下げ、なるべく面白いテーマで、AIを作るコツを掴めればと思います。
AIは、もう誰でも作れる時代で、Googleが検索能力で人間を拡張したように、AIは推測能力で人間を拡張するのです。

諦めた時に願いが叶うわけ

結局、最後は、何事も「神頼み」しかなくなる。
サミュエル・スマイルズは、名著と言われる『自助論』で、「天は、自分を助ける人を助ける」と言ったが、人間が出来ることは、所詮、自分を助ける程度のことだ。
そして、自分を助けるとは、「堕落し切らない」程度のことなのだ。
後は、神頼みである。
無論、納得出来ない人もいるだろうが、そんな人を説得する気はない(それは難しいので)。

神頼みというよりは仏頼みになるが、それを最も純粋に力強く語っている書は、親鸞の教えのエッセンスを、弟子の唯円が短くまとめた『歎異抄』だ。
『歎異抄』では、「全て仏(ここでは阿弥陀如来)に任せよ」と書かれているが、世の中の普通の教えでは、その上で、「善いことをしろ」「悪いことをするな」「修行せよ」「感謝せよ」と言うのだが、『歎異抄』では、そうではない。
「善いことをせよ」ではなく、「善いことをする必要はない。いや、善いことをしてはならない」。
「悪いことをするな」ではなく、「悪いことをするのは構わないが、別に、無理に悪いことをする必要はない」。
「修行せよ」ではなく、「修行するな」。
「感謝せよ」に関しては、上記の通りで良いのだから、自ずと感謝するはずだということである。
ただ、親鸞やその師である法然の仏頼みの成果は、「死んだ後に極楽浄土に行ける」ということで、今の時代には、有り難味が少ない。
しかし、法然もだが、親鸞ははっきりと、仏頼みすれば、果てのない現世利益があると教えているのである。
そして、仏頼みのやり方は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えることだけだ。
法然は、念仏は多ければ多いほど良いと述べたが、親鸞は1回でもよろしいし、唱えなくても良いと教えている。

「南無阿弥陀仏」というのは、本質的には、「阿弥陀仏に全てまかせる」という意味であるから、特に念仏でなくても良いはずだ。
例えば、こんな話がある。
ある人が末期癌になり、延命するためにあらゆる手を尽くしたが、病状は悪くなる一方で、絶望的な状況になった。
そこで、ついに諦めて、「私はもう一切何もしない。後は神様に任せる」と決めたら、癌が消えてしまった。
これが、高次の存在に全て任せるという念仏の本質を正しく実行した例である。

こういった話をすると、楽でもあるので、賛成してくれる人は少ない訳ではなく、それはそれで良いことである。
しかし、彼らは成果が出ないのだ。
つまり、口では神仏に任せると言いながら、相変わらず、自分の卑小な力に頼っているから、神仏の力が働かない・・・いや、働けない。
「勉強してる」「努力してる」「あつらは馬鹿(俺は賢い)」「あいつらは無能(俺は有能)」という言いぐさは、やっぱり、神仏に任せ切っていないことを示しているのだ。
つまり、他人を見下したり、非難しているということは、自分は見下している相手や非難している相手より何か出来るという思い上がりがあるということだ。

自慢をしなくなった時、他者を一切非難しなくなった時が、完全に神仏に任せた状態だ。
もちろん、そこまで行き着くことは非常に難しいが、過度に思いあがった者が多いのである。
つまり、やたら自慢をしたり、やたら、他者を非難している間は、あんまり良いことはなく、随分、辛いことだろう。
もちろん、ある程度の自慢、ある程度の文句は、未熟な人間であるからには仕方がない。
だが、自分が自慢していることは全く大したものではないし、自分が非難し見下している相手と自分は全く同等なのである。なぜなら、人間は、同等の相手しか馬鹿にしないからである。

上に述べた末期の癌患者のように、人間は、追い詰められない限り、神仏に完全降伏出来ないものである。
特に、自分の力ではどうにもならない困難を経験したことのない「坊や」や「お穣ちゃん」はそうであろう。
とはいえ、世界的教育学者の七田眞氏の本に書かれていた、宝くじで1億円当てた(それも2回)ホームレスのように、1日中、「神の奇跡が起こる」と唱え続けていれば、やがては思い上がりも消えると思う。
あるいは、今朝も書いたように、頭の中でずっと、聖歌、あるいは、『アヴェ・マリア』、あるいは、お経、あるいは、鐘の音、その他何でも、神仏に近いものを、唱え、鳴らして置けば良い。













当ブログオーナー、KayのAI書。近日(5月30日)発売。
AI時代に適応するために、AIを理解するには、自分でAIを作るのが一番の早道です。
しかし、毎日のように出版される、機械学習・ディープラーニングの本は、プログラミング能力を前提とし、難しい数学やAIの理論が延々語られ、ほとんどの人には手も足も出ません。
しかし、AIの基本機能を作るという天才の仕事ではなく、実用的なAIを作るためには、本当は、WindowsパソコンとExcelが適度に使え、ソニーの無料AIアプリNNCがあれば十分です。
本書では、それらを使うための、なるべく易しく面白いテーマを考え、出来るだけ楽しく実習が出来ることを意図しました。

一番立派なお仕事

子供がイメージする「働く大人」とはどんなものだろう?
大昔なら、ツルハシや鍬を振るう姿や、農作業、大工仕事、あるいは、漁をする姿など、イメージし易かったと思うが、今、大多数の大人が働く会社というものの中で働く大人を、子供はどう捉えているのだろう?

『甘城ブリリアントパーク』というアニメで、突然、巨大遊園地である甘城ブリリアントパークの総支配人になった男子高校生、可児江西也(かにえせいや)は激務に追われるが、その中で、机に積み上げられた大量の書類に、次々にハンコを押す場面がある。あれが、子供にも解る「働く大人の姿」ではないかと思う。それで思い出したのだが、私が子供の時に見た子供向けアニメでも、会社の中で社長が「忙しい!忙しい!」と言いながら働く場面がまさに、社長が大量の書類にハンコを押すというものだった。
いくら子供の時の私でも、ハンコを押すだけが仕事と思った訳ではない。しかし、逆に、私は今だって「ある意味、仕事って、せいぜいこの程度」と思うのだ。
アニメ『ゼロの使い魔』で、若き女王アンリエッタに、重鎮が「女王様、ご署名を」と言って、誓約書を差し出す場面があるが、あれがまさに女王様の仕事で、実際、女王様の意思はどうでも良く、ただ、女王様が署名・・・つまり、サインとかハンコを押すことだけが仕事である訳だ。

ハンコを押す、署名するというのは、「同意する」という意味で、許可を与えたり、自分が何かに従うことを「はっきり約束する」ということだ。
署名、押印する者の意思がどうであるかは、実は、どうでも良い。
署名した者の考えより、署名したという事実に意味がある。
そして、確かに、高レベルの仕事には、そんな面があり、子供がイメージする「働く大人の姿」は、それほど間違っていない。

法然や親鸞は、「大切なことは念仏をすることだけ」と言ったのだから、人間の仕事は念仏だけということになる。
馬鹿らしく聞こえる向きもあるかもしれないが、そういうことなのである。
そして、この世界とか人間の究極が解ってしまった者にとっては、念仏とは言わないまでも、そういったことが全くの真実だと言うのである。
念仏というのは、「阿弥陀如来に全ておまかせする」という意味で、阿弥陀如来とは、宇宙最大の力の持ち主をイメージ化したものだ。
こんな話がある。
ある者が末期癌になり、余命数ヶ月と宣告されるが、諦めず、辛い治療を受ける。しかし、効果がないので、正統医学では認められていないが「奇跡の効果があった」と言われる治療法、さらには、オカルト、宗教にまで頼るが、全く効果がない。それで最後、「神様に全部まかせる」と決めたら、治ってしまった。
原理としては、念仏と全く同じである。
神様や仏様との誓約書には「全部、あなたにおまかせします」と書かれていて、それに署名したり、ハンコを押すようなものだ。
荘子の教えも、全くこのようなものである。
また、ここでよく取り上げる「神様の奇跡が起こる」と唱え続けて、1億円を2回当てたホームレスも同じことをしていたのだが、念仏のような精神でやらないと起こらなかったことである。

まあ、大人の社会では無闇にハンコを押してはいけないが、私は子供の時、頭の中でよくハンコを押していた。
そして、何度も書いたが、ありえない奇跡がいくらでも起きた。
インドの聖者ラマナ・マハルシが「財務長官は責任感を持って仕事をしているが、実は何もしていない」と言っていたと思う。
彼もまた、「同意」というハンコを押しているだけであり、だからこそ、彼の仕事に間違いがないのだ。
キリスト教の「アーメン」も、同意という意味であるらしい。

要するに、基本的な考え方の一例は、「南無阿弥陀仏と唱えて、阿弥陀如来に全てまかせると決める」ことで、自分の仕事は終りである。
いかなる偉大なビジネスマンも、芸術家も、政治家も、バリエーションはあっても、原則はそうしているのである。







プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


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