ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
あなたをSE、プログラマー、あるいは、超能力者にするブログ。ひきこもりも歓迎。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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「南無阿弥陀仏」と「アジマリカン」

このブログで度々推奨している、「南無阿弥陀仏」の念仏と、「アジマリカン」の呪文は、どちらが良いのだろうか?
もちろん、これは、あまり、あるいは、ほとんど、あるいは、何の意味もない疑問かもしれないが、気になる向きもあると思う。いや、私が気にしている。
※「アジマリカン」は「神呪」と言うのが正しいらしいが、そのような言葉を使う人はいないので、不遜かもしれないが、「呪文」とした。

「アジマリカン」の呪文に関しては、山蔭基央氏に聞くしかない。
というのは、この呪文は、山蔭神道に伝えられる秘法であり、山蔭基央氏は、山蔭神道の最高位であるからだ。
しかし、山蔭基央氏は2017年3月に亡くなっておられる。
そこで、山蔭氏の著書『神道の神秘』を見ると、この呪文は、「意味は不明」「天地初元の時からある言霊」と説明している。
そして、山蔭氏は、よく知られている祝詞である「大祓詞」に強大な神秘力があると説きながらも、「アジマリカン」は、それに勝ると述べてる。
山蔭氏自身が18歳の時に肺結核に罹り、瀕死の状態(仮死状態にもなったらしい)にあったのを、「大祓詞」を唱えることで治したに関わらず、そう言うのである。
「アジマリカン」を百万回唱えることで神通力を得るとされているようだ。

次に、念仏である。
念仏の効能に関しては、法然が『選択本願念仏集』の中で、自信たっぷりに書いているのであるが、その根拠は、根本的には「経典に書いてある」のみである。
その経典とは、「浄土三部経」と呼ばれる「無量寿経(大無量寿経)」「観無量寿経」「阿弥陀経」である。
ところで、これらの経典のいくつかの翻訳を読んだが、実際には、「南無阿弥陀仏と唱えよ」と書かれているのではなく、「阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名を唱えよ」と書いてあるのだと思う。
阿弥陀仏は、本来の言葉では、アミターバ、あるいは、アミターユスである。
しかし、そこらは、こだわる必要はあるまい。
念仏の効能に関しては、特に、「観無量寿経」に書かれており、それは「何世にも渡る長い罪が消える」ことと「観世音菩薩、勢至菩薩が友になってくれる」である。
結果、悪運が除かれ、幸運に恵まれると思って良いだろう。
このことは、「観無量寿経」の3種類の翻訳書で確認した。
ただ、それはあくまで経典の話であり、客観的な証拠はない。
だが、世界的にも最高の数学者であった岡潔は、ある高僧の教えによって念仏を唱えるようになり、物理学者で湯川秀樹の弟子でもあった保江邦夫氏の著書によれば、湯川秀樹も同じ高僧の弟子であったらしいことから、湯川秀樹も念仏を唱えていたのかもしれない。
別に、偉い学者だからというのではないが、疑うことが重要な仕事である科学者の中でもトップレベルの人達が、少なくとも、念仏の信仰を肯定していたことには意味があると思われる。

一番良いのは、これらの言葉を唱える本物の大師に会い、教えを受けることであるが、なかなかそうはいかないだろう。
だが、いずれも間違いのないものだと言って差し支えないと思う。
なぜなら、商業的な宣伝が一切行われないながら、両者とも確実に生命を保っているからだ。
特に念仏に関しては、国家の権威に拠っている部分もあるには違いないが、それによって、何かを強制されたことがある人も滅多にいないだろう。
他にも、これらを信頼すべき沢山のことが言えるが、以上のことで十分と思う。











呪文はいつ効くか

アメリカの人気テレビ番組『Star Trek(邦題:宇宙大作戦)』の冒頭のナレーションが英語Wikipediaにある。

Space: the final frontier. These are the voyages of the starship Enterprise. Its five-year mission: to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations, to boldly go where no man has gone before.
Star Trek: The Original Seriesより~

これは、宇宙船エンタープライズ号の使命は、
「新しい驚異の世界を探検し、新しい生命、新しい文明を見つけ出すため、誰も行ったことのない未知の世界に大胆に入っていく」
ことであるという意味だ。

何とも、血湧き肉躍ることではないか?
だがこれは、別に宇宙に旅立つまでもなく、人生そのもののことだ。

名前も知らない まだ見ぬ世界を旅するように
時が刻むメロディー 口ずさんで ほら
~『Birthday』(作詞・作曲・編曲:びにゅP。唄:初音ミク)より~

一寸法師だって、旅立つ前に、腕を磨き、学び、針の剣とお椀の舟を用意したように、冒険のためには準備が必要だ。
今は、つまらない学校や会社に行き、退屈な、あるいは、苦しい日々を送っているかもしれない。
ならば、新しい世界に旅立つしかない。
そのための準備を怠らないことだ。
まあ、そんな大したことしなくていいから(笑)、それでも、真面目に。

昔、駆け出し俳優だったバート・レイノルズが、既にハリウッドの大俳優だったクリント・イーストウッドに尋ねたらしい。
「成功するまで何をしていましたか?」
イーストウッドは、
「準備をしていた」
と答え、それを聞いてレイノルズは成功の階段を駆け上った。
何をするかは人それぞれだ。
外国語を学ぶ人もいれば、プログラミングを学ぶ人もいるし、一撃必殺のキックを磨く人もいる。
それで言えば、私は、囚人が刑務所内でいじめられないために筋トレをするというのはあまり好きではない。
それなら、外に出た時のために筋トレをするのだと思えば良い。
ところで、法然や親鸞は、死んだ時に備えて念仏を唱えるよう教えたように言われるが、本当は、よりよく生きるために念仏を唱えるよう教えていた。
念仏や高度な呪文は、一寸先の未来に備えて唱えるものだ。
呪文を唱えれば、数秒後の世界は変わっている。
数秒後は少ししか変わらなくても、連続して唱え、ずっと変え続ければ、全く新しい世界になる。
それを忘れなければ、いかなる不安もないだろう。







霊力を普通に使うには

日本人は、特に仏教徒という訳ではないが、家単位で仏教の檀家(寺に所属すること)というものになってる場合が多い。
だから、「私の家は浄土宗だ」「私の家は臨済宗だ」などと言う。
なぜそんなことになっているのかというと、江戸時代にキリスト教を排除するために、民衆全部を無理矢理仏教徒にするための政策がいまだ残っているからのようだ。

私の家もそうなのだが、浄土真宗が最も多く、次が浄土宗なのだと思う。
この2つの宗派の教えは、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、死後、極楽浄土に行けるというシンプルで解り易く、それは、現在の仏教の主な出番であるお葬式に実にマッチするので都合が良い。

それで、少し真面目に浄土宗や浄土真宗について学ぶ者も、「極楽浄土は死後に行く安楽な世界で、そこに行くためには生きている間に念仏を唱えれば良い」と理解しているのだと思う。
実際、浄土宗や浄土真宗の経典である『無量寿経(大無量寿経)』や『観無量寿経』を見ると、表向きはそう書いてある。表向きはと言ったのは、経典というのは、それほど単純に書かれておらず、解釈が難しいからである。
それでも、「極楽浄土は死後に行く、キリスト教で言う天国のようなもの」「念仏を唱えることで極楽浄土に行ける」というのが、浄土宗や浄土真宗の正統な教えとなっているのだと思う。
これについては、法然や親鸞、あるいは、一遍らの時代、民衆は、生きている間の希望がほとんどなく、せめて死後の世界で幸福になれると説くしかなかったという事情があったのだと学校で教わったものだ。

だが、親鸞より後の(室町時代の)臨済宗の僧侶、一休が、法然や親鸞を大変に誉め、自らも念仏を唱えていたが、彼が、念仏と極楽浄土の正しい教えを説いていることは、本来、もっと理解しておくと良いと思う。
一休は、「極楽浄土は西の遠い彼方にあると言われるが、実際には南、即ち、皆身・・・我々の中にある」と言ったが、これも、民衆に解り易い喩えであり、正確には、極楽浄土は、今、ここにあり、どこにでもあると言ったのである。
スターウォーズで、ルークがヨーダに「フォース(霊的な力)なんてどこにあるんです?」と問うと、ヨーダは「どこにでもある。ここにも、ほら、そこにも」と言うが、ルークには理解出来なかった。
しかし、理解するしないに関係なく、フォースも極楽浄土も同じで、どこにでもあるのである。
だが、それが解るためには、極楽浄土が、この世と重なり合うように存在する異次元の世界であると理解しなければならないが、正確には、重なり合っているという訳でもないだろう。しかし、人間の感覚的には、せいぜい、重なり合うと言うしかないのである。

ジョセフ・マーフィーは、潜在意識のことを、フロイトが言うものとはやや異なる、あらゆる力の源のようなものと言い、ヨーダのフォースに近いと言えなくもないが、『あなたも幸せになれる(原題:THE COSMIC ENERGIZER)』で、潜在意識を「宇宙の活力(THE COSMIC ENERGIZER)」と呼び、それは万能の力であり、宇宙に偏在する、即ち、あらゆるところにあると説いている。

極楽浄土、フォース、潜在意識、宇宙の活力は、全て同じで、最近、物理学者の保江邦夫さんが「素領域理論」で物理学で説明しているのが、解り易いとは言えないながら、一応、それらを統一した考え方になっていると思う。
これらは全て、実用的と言っては下品なのかもしれないが、実際の力になるものであるのだから、そのように習得するべきと思う。








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答は1つ

最近、このブログで、いかなる相談に対しても、同じ答をするという人の話をよくしている。
筋トレ社長Testosteroneさんの、
「人間関係に悩んでる?なら筋トレだ」
「モテない?なら筋トレだ」
「イジメを受けている?なら筋トレだ」
は、実に良く、やる気が出るだろう。
法然なら、
「身体を売る商売をしている?なら念仏だ」
「戦で残酷なことをした?なら念仏だ」
「人妻と浮気している?なら念仏だ」
で、他に何もする必要はない。

ところで、もっとシンプルに答える者の話がある。
倶胝(ぐてい)というお坊さんは、いかなる相談をされても、ただ指を1本(多分、右手の人差し指)立てるだけだった。
ところがある日、自分の真似をして指を1本立てた小坊主の、その指を切り落とした。
そして、泣き叫ぶ小坊主に向かって、指を1本立てた。
小坊主は悟った。
あくまで、禅の公案(思考問題)である。
修行僧は、この公案の意味を説明しないといけないらしい。

そりゃ、私やあなたがTestosteroneさんの真似をして、相談者に「なら筋トレだ」と言ったり、法然の真似をして「なら念仏だ」と言っても説得力はないし、相手を救えないだろう。
なぜなら、自分がやり込んでないからだ。
同様に、倶胝の小坊主も、自分が1本指の禅を使い込んでいないのに、真似をしてはいけない。
倶胝すら、臨終の時、「天竜先生に教わった1本指の禅を、一生で使い切れなかった」と言ったのだ。

あなたも、「なら○○だ」と言えるものを持たないといけないが、それには10年かかる。
10年、毎日欠かさずやれば、言う資格もあるかもしれない。
だが、私は、10年以上、「腕振り運動」「少食」「VBA」をやっているが、「なら腕振り運動だ」とはなかなか言えない。
ところが、まだ10日もやってないのに、「四股だ」とは言えるのである。
無論、腕振り運動も、少食も、VBAも良いが、四股はもっと良かった。
他のことを、しかも、複数やってたから分かることもあるという例である。
ただし、関英男さんのように「なら腕振り運動だ」と言う人や、水野南北のように「少食が一番じゃ」と言う人もいて良いのである。
しかし、佐川幸義系の四股は本当に良い。
脚をやや横方向に適度に上げ、ゆっくり降ろし、腰を落とす・・・これだけで、相撲の四股とはやや違う。
いわゆる、軽い「なんちゃって四股」であるが、1回1回、丁寧にやらないといけないと思う。
「ダイエットしたい?ならSKS(佐川幸義系Kay式四股)だ」
「あの子を射止めたい?ならSKSだ」
「金が欲しい?ならSKSだ」
である。









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最上の真言

宗教は、謙虚さと敬いがあれば良いものになるが、傲慢と蔑みがあるとロクなものにならない。
あるいは、本来の宗教は、謙虚さと敬いを育てるものだが、傲慢と蔑みの心を育てる宗教が多くなってしまった。
いや、芸術や科学も、本来、学べば学ぶほど、謙虚で敬いの心を持つようになるはずだが、学位が上がるにつれて傲慢と蔑みの心を持つ愚か者が多いのだろう。
何かが間違っているのである。
その何かとは、命の誤用で、早い話が、利益優先でやれば、必ずそうなる。

だから、無条件で、芸術や科学や宗教を良いものと思っている人は少ない、もしくは、まずいない。
本来、念仏や神の名の称名を行えば、自然、良い人生になるものだが、そういった「宗教臭い」行いに抵抗を感じてしまうことが多い。
私も、夜、寝ながら念仏を唱えることが楽しみで仕方がなかったこともあったが、いろんな法事でお坊様の口上を聴くと、途端に念仏嫌いになるのはなぜだろう?(笑)
あるいは、宗教家が書い宗教の本などを読むと、もう全然、念仏を唱える気がしなくなる。あるいは、経典を読む気もなくなる。
『歎異抄』は少しも宗教臭くないので好きだが、これも、宗教家が解説したものを読んだら、嫌いになる可能性が高い・・・いや、嫌いになったことがある。

発明家で能力開発のスペシャリストであった中山正和さんのように、般若心経の呪文を、単に妄想を切る手段として使う手もありとしたように、念仏や神の名も使えるかというと、使えない。それらは、観念や感情の雑味を呼び起こすからである。
そこで、ラジカル(主に政治用語の急進性の意味。化学用語のフリーラジカルだと印象が悪い)という訳ではないが、精神に良い作用を与える言葉として、「神」「私」があるということを知っていると役に立つかもしれない。
「なんとかの神」と言うと宗教であるが、「神」と言うと、これも人それぞれだが、「宇宙の意思」に近い意味に感じられる。
宇宙の意思は、無人格という訳ではないが、人間の人格とは差があり過ぎるので、人格がないように感じるのである。
つまり、神が各国の神話に出てくるような程度の低い心を持っている訳がないではないかとうことだ。
宇宙に何らかの意思があることは、何となく、あるいは、微かに感じるのである。
それも感じないと断言する者が、スティーブン・ホーキングやレイ・カーツワイルのような無神論者になるように思う。
カーツワイルは「神は存在しない。しかし、やがて生まれる」と言う。つまり、未来の進化した人間が神なのである。
不遜の極みと思うかもしれないが、それはそれでアリである。
もし、彼らほど徹底してはおらず、神を畏れる気持ちがあるなら、丁寧に「神」という言葉を声、あるいは、心で唱えれば、その威力に驚くことになる。
だが、「神」を呪文にしてはいけない。
一時に一度、真摯に唱えるのである。
呪文というか真言にしたければ「私」を使うことが奨められるかもしれない。
ラマナ・マハルシは、ラーマやクリシュナの名を唱えるように、「私」と唱えても良いと言っていたようだ。
「私」こそが神の名であるのだ。
だから、最上の真言は「私」であり、インドで聖音と言われる「オーム」に優るものであるとも言う。

「神」と一度だけ、出来る限り丁寧に唱え、後はずっと「私」と唱えるという方法である。
ただ、「私」もやはり丁寧に唱えるに越したことはなく、私流には、心の中で微かな声で唱えるのだが、難しければ、呼吸を微かにして心で唱えると良い。
これだけ覚えておけば、まず・・・いや、全く心配はないだろう。









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