ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
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中将姫の念仏

中将姫(ちゅうじょうひめ。747~775)は、奈良時代に存在したとされる架空の女性である。
名の「中将」は、内侍(ないし)という 三位中将という位を持つ役職から来ていると思われる。
内侍は天皇の近くで、天皇の言葉を仲介したり、天皇に意見を述べたりするのだから、かなりの高位と思える。
中将姫が内侍になったのは13歳の時で、彼女は美貌と才能に恵まれた女性であったという。
折口信夫の『死者の書』のヒロインは、郎女(いらつめ。若い女性のこと)としか書かれていないが、中将姫、あるいは、中将姫をモデルにしているのだと思う。

細かい解説は複雑なので省くが、中将姫は美貌と才能のため、14歳くらいからは不遇の人生となり、当麻(とうま)寺で、念仏三昧で過ごすようになる。
ただ、念仏といっても、中将姫は、法然(1133~1212)よりずっと前の人なので、念仏も「南無阿弥陀仏」を唱えることではなく、まさに「仏を念ずる」というものであったと思われる。
中将姫は、阿弥陀経という、浄土三部経(無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経)の1つを千回写経することで、解脱というのかどうかは分からないが、普通の人間を超えたのだと思う。また、中将姫が阿弥陀経を唱える声は見事で、彼女の殺害を命じられて来た者も、その声を聞くと彼女を殺せなかったようである。
中将姫の念仏とは、阿弥陀経に書かれていることを想いイメージすることであったのだと思う。
仏教のお経全般に言えるが、特に、この阿弥陀経、あるいは、観無量寿経はイメージを掻き立てるもので、観無量寿経となると、イメージトレーニングのためのものとも思われるのである。
ちなみに、法然が浄土三部経の中で最も重視したのは観無量寿経で、空也上人が重視したのが阿弥陀経、親鸞は無量寿経を重視したといわれている。
折口信夫の『死者の書』では、中将姫は「なも 阿弥陀(あみだ)ほとけ。あなたふと(何と尊いのでしょう)阿弥陀ほとけ」と唱えている。これは、中将姫が阿弥陀経を読経、写経する中で、自然に出てくるようになった言葉であると思われる。

朝陽
AIアート697
「朝陽」
Kay


今の時代、南無阿弥陀仏という念仏自体に特別な力があると言うのは無理がある。
だが、念仏に特別な力を与えるのは人間で、言い換えれば、人間は、念仏にしろ、他の言葉にしろ、特別な力を持たせることが出来るのである。
また、仮に特別な力みたいなものはなくても、念仏やマントラ、呪文を繰り返し唱えることで思考を消せば、神的な力を発揮することはありえるというか、むしろ当たり前だと思えるのだ。
それこそが、人間が言葉に与える特別な力である。
中将姫のことを想うと、そんな気がしてくるのである。

◆当記事と関連すると思われる書籍等のご案内◆
(1)死者の書 (折口信夫。角川ソフィア文庫)
(2)死者の書(上) (ビームコミックス)
(3)竹内街道物語 ※中将姫の物語あり
(4)時空を翔ける中将姫
(5)モオツァルト・無常という事(小林秀雄)※中将姫物語の能『当麻』を小林秀雄が美しく描写
(6)浄土三部経(現代語版) 浄土真宗聖典
(7)浄土三部経 下: 観無量寿経・阿弥陀経(中村元)

釈迦と老子の仮想世界制御法

結局、人間は仮想世界の中で生きることになるのではないかと思う人が増えていると思う。
仮想世界とは、夢の世界のようなものだが、夢のように不安定ではなく、数学的に制御された世界で、言ってみれば、極めて複雑で精巧な3Dのコンピューターゲームのような世界だ。
ところが、実は、この世界が既に、そんな仮想世界であるという説もあり、よく聞くところでは、有名な事業家のイーロン・マスクやイギリスの数理哲学者のニック・ボストロムらは、我々のこの世界は、ほぼ間違いなく、コンピューターが作った仮想世界であると断言している。まあ、コンピューターが作ったと言っても、我々が知ってるようなレベルの性能のコンピューターとは全く異なる高度なコンピューターであるのだと思う。

その割には、イーロン・マスクの有名な電気自動車会社テスラの電気自動車の欠陥が明らかになって先行き不透明なのは、イーロン・マスクも、この仮想世界の支配権を持っていない、あるいは、完全には持っていないということか?
あるいは、この仮想世界は、少数者が富をほとんど独占することくらいは出来ても、個人が極端な支配は出来ないアルゴリズムで運営されているのかもしれない。

釈迦や老子は、この仮想世界の仕組みや、これに影響を与えるコマンドの発し方が分かったのかもしれないが、やはり動かす範囲に影響があったのだと思う。
あくまで説であるが、釈迦は紀元前624年、老子は紀元前384年の生まれで、この時代の240年の違いは、ないと考えて良いかもしれない。
老子の唯一の著作『老子』は口述(老子が語ったことを誰かが書き写した)とはいえ、直接の教えが残っているが、釈迦の教えは長く口伝で伝えられ、どれだけ正確かは分からない。
で、老子の教えは、一言で言えば「控えめに」であると言って良いと思う。
「曲がってこそ完全だ」「水のように低いところに行け」「倹約しろ」「自分は無能であると思え」など、一貫して「控えよ」と書かれていると思われる。
ただし、「控えるほど強い」ということなのである。
釈迦の教えは、人間の本性は偉大な仏であるということだが、それは老子も同じようなことを言っているのだと思う。
そして、偉大な存在になる手法が、老子は分かり易く、「控えよ」ということである。
釈迦も同じなのであるが、控えるという意味を、心が静かであることとしたのだ。
それで、心を静かにする特別な方法があるのかと釈迦に聞きたいところであるが、これが意外に伝わっていない。だから、釈迦の教えは、複雑怪奇なものになっている場合が多いのだ。
だが、一説では、釈迦の教えは結局、念仏であると言われている。
ただし、念仏と言っても南無阿弥陀仏だけではなく、要は、仏の名を唱えよということで、唱えるべき仏の名は沢山ある。
ただ、釈迦の時代に、名前のついた仏(如来)があったかは疑問だ。神様ならあったはずだが、釈迦は神様は崇拝していない。
ところが、いろいろな仏の名がでっち上げかというとそうでもない。
何と言っても、釈迦は仮想世界の仕組みを、かなり解明してしまったのだからだ。
それで、何らかのことを語ったが、それは難し過ぎて理解されなかった。
しかし、龍樹という天才が、それをある程度まで解明し、経緯は複雑なので省くが、結局、仏の名を唱えよということになり、それが後に念仏になったのだと思う。
現在は念仏は、日本では葬式にのみ使われるので有難味は薄いが、念仏が仮想世界制御のコマンドであることは案外に実証されている。その1つが、妙好人と呼ばれる、無学だが超人的な人々の存在だ。

川堀
AIアート685
「川堀」
Kay


最近よく書いているように、念仏に限らず、あらゆるマントラは、老子の言う「控える」を容易に実現し、釈迦の言う「心静かに」に導き、結局は、仮想成果をうまく利用出来る。
これは、試してみないと分からない。

◆当記事と関連すると思われる書籍のご案内◆
(1)老子 (岩波文庫)
(2)老子・列子 (徳間文庫)
(3)老子(全)
(4)浄土三部経(現代語版)
(5)華厳経入門 (角川ソフィア文庫)
(6)歎異抄 現代語訳付き (角川ソフィア文庫)
(7)ナーマスマラナ - 神の名前の不思議な力
(8)妙好人(鈴木大拙)

念仏・マントラは黄金の深呼吸法

極楽往生とは、死んでから、阿弥陀如来が作った西方極楽浄土というユートピアに行くということとされるが、それは方便であり、本当は、自らが至高の存在(神や仏と言って良い)になることだ。
完全にそれに至らなくても、それに近づけば近づくほど、神や仏の力と言われる力を持つことになる。
それは仏典(特に浄土三部経)に示唆されてる通りである。

法然は、あらゆる学問を積みながら、自分の極楽往生の方法は念仏だけであると言ったが、それは、庶民を気遣っての(庶民には他に方法がない)ことだけではなく、学問を究めたがゆえに、また、経験上からも、そう確信していたのだと思う。
そして、なぜそうであるのかと言ったら、念仏は深呼吸の手段であるからと言うと、仏教の信仰者に怒られるかもしれないが、私にはそうとしか思えないし、しかも、極めて良い手段であると感動するほどだ。
深呼吸は究極のメソッドでありながら、ただの深呼吸では、なかなか十分に出来ないのである。
しかし、念仏にはそれを打破する鍵がある。
法然は、自分は毎日6万回の念仏を唱えると公言し、人と会っている時も、小さな声で念仏を唱えていたという。

私は以前は、1日6万回の念仏は多いなあと思っていたが、一呼吸で10回の念仏という深呼吸だと思えば何でもない。
鼻から大きく息を吸い、小さな声で念仏を唱えれば、5回から10回くらいで吐き切る。
念仏をよく理解している僧は、「隣の人に気づかれない微かな声で唱えて良い」と言う。
もちろん、大きな声で唱える時は、一息で唱えられる回数はもっと少ないかもしれない。
そして、細く長く吐くという理想の深呼吸のためには、微かな声で唱える方が良い。
とはいえ、大きな声で唱えるのも、十分に良い深呼吸になるので、それも良いのである。

だが、唱えるのは、「南無阿弥陀仏」でも「南無妙法蓮華経」でも「南観世音菩薩」でも「オンアミリタテイセイカラウン」でも「オンバザラダドバン」でも、自分が好きなもの、唱えやすいものなら何でも良いのである。
どの言葉も、リズムがあって唱え易い。
また、般若心経の呪文「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジソワカ」や、そのサンスクリット語版「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディスヴァーハー」でも良いが、これほど長いと呼吸の配分が難しい。
私は、微かな声で、一呼吸で2回唱えることが多いが、一呼吸で1回、ゆっくり息を吐き切りながら唱えるのも良いかもしれない。

故郷の村
AIアート481
「故郷の村」
Kay


さすが法然。
念仏・マントラ式深呼吸は非常にやり易いと思う。
特に、念仏・マントラを唱えながらだと、息をしっかり吐くことが非常に自然に出来る。
私の個人的お気に入りは、昔から唱えている阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」である。
実際には、言霊の力もあるかもしれないので、なるべく真摯に唱えると良いと思う。その方が深呼吸の質も上がると思う。
ただし、私は非常に速く唱える。とはいえ、そこらは自分の好きなようにやれば良いのである。








念仏は最高のアファーメーションだった

「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の念仏は最高のアファーメーションである。
ただし、現代の日本の仏教の念仏はそうではない。
すぐ分かる話なので簡単に説明する。

南無阿弥陀仏の「南無」は、インドの古い言葉の「ナーマス」の音を真似ただけで、ナーマスの意味は、「ゆだねる(=丸ごとまかせる)」である。
(「ナーマス」の訳は「帰依する」だというのが圧倒的多数だが、そんな誰も使わない言葉を使うのは困ったことだと思う)
そして、ゆだねる相手が阿弥陀仏なのであるが、これは本当は、仏画や彫刻、あるいは、昔話に出てくる阿弥陀仏という仏様のことではない。
親鸞だって、「仏に実際に形や色があるわけではない」と言っている。
阿弥陀仏は、元々のインドの古い言葉では、アミターバ、あるいは、アミタ―ユスと呼ばれる仏様で、アミターバの意味は「無限の光」、アミタ―ユスの意味は「無限の命」だ。
つまり、阿弥陀仏は至高者、無限者、絶対神、最高神、至高神・・・なんと言っても良いが、全知全能の至高の存在であり、宇宙そのものと言って良い。
「では、大日如来は、ブラフマンは、インドラは?」などというのは愚問で、至高者を意味する限り違いはない。
黒住宗忠は、そんな至高者を天照大御神(アマテラスオホミカミ)と呼んだだけであり、彼が言う天照大御神は、古事記に登場する女神のことではない。

念仏を現代的に言えば、「私は一切を神にゆだねる」である。
「神」の部分は、信仰する神や仏の名があれば、その神や仏の名前でも良いし、潜在意識でも超越意識でも良い。
無論、「絶対者」「無限者」「至高者」でも良いし、道教や老荘思想であれば「道」でも良い。
だが、この念仏は、「私は一切を神にゆだね、私は何も考えない」がもっと良いと思う。
人間の欠点は考えることだからだ。
人間の悪い頭で考えなければ、神(至高者)が考えてくれる。

薄闇に浮かぶ姿
AIアート425
「薄闇に浮かぶ姿」
Kay


私の場合、神のところは「魂」で、「私は一切を魂にゆだね、私は何も考えない」となるが、これは、神のところを潜在意識と言う人と似たところがある。
それは、絶対者に直接頼むというよりは、個人の魂や潜在意識を仲介者にして絶対者に頼むというニュアンスが少しある。
これは、キリスト教思想にも似ており、イエスは自分を仲介者とせよと言ったのである。
しかし、あくまで、「あえて言えば」そうであるということで、実際は、魂や潜在意識を、至高者、絶対者と見なして良い。
イエスも、自分は仲介者であると共に、完全な存在であるとも言っている。
だがまあ、ここらがキリスト教を複雑にしたのも確かだ。
だから、余計なことを考えず、魂、潜在意識を絶対者とみなして唱えると良いだろう。








念仏、真言などはどれも同じ

『死と生の記録』という京大の教授だった佐藤幸治さんの本の中に、『真実の自己』という本の引用で、こんな話がある。
実際の文章はひどく複雑だが(変に頭が良い人の文章はそんなものだ)、簡単に言えば、肺病で余命が5年ないことを宣告されたお坊さんが熱心に念仏を唱えていたら、ある日、心が消えてしまった。
それで、これも複雑な書き方だったが、やはり簡単に言うと、宇宙全体が自分の中にあることが分かった・・・つまり、本当の自分は宇宙であることが明確に分かったのだ。
岡本太郎が横尾忠則さんとの対談で「おれは宇宙だ」と言うと、横尾さんは、おそらく小馬鹿にした感じで「言うと思いましたよ」と、今流に言えば「ディスっていた(ディス・リスペクト=尊敬の反対。馬鹿にする)」が、スピリチュアル大好きな横尾さんも、岡本太郎に言われたら嫌なのだろうなあと思った(どうも、横尾さんは岡本太郎に抵抗があって、ディスらずにいられないように思う 笑)。

だが、心が消えれば・・・つまり、思考が消えれば、自ずと真実の自分とは何かが分かり、言葉で言うなら、真の自分とは世界そのものなのだから、上の本に出てきた念仏者も岡本太郎も本当のことを言っているのである。
それで、その念仏者は念仏によって思考を消して解脱したのだが、手段は何でも良い。
ここで引用された『真実の自己』の著者は、聖者として有名な弁栄上人の弟子と思われる僧で東大の心理学を出た人だと、いろいろ権威付けされ、念仏を神聖視した扱いなのかもしれず、もちろん、それが悪いことではないが、やはり、念仏が特別なわけではない。
念仏でも、「南無妙法蓮華経」でも、仏や菩薩の真言でも、あるいは、全く別の真言や呪文、祝詞、祈り言葉でも、とにかく、繰り返し唱えれば同じである。
言い換えれば、ある程度の敬虔さを感じる言葉を自発的に十分な数を唱えれば、やがて思考は消え、魂が現れる。
人間の魂というものは、言葉では表現のしようがないが、我々が知る概念で最も近いのは神であると言えるかもしれない(『エイリアン・インタビュー』でも、宇宙人エアルはそのように言ったらしい)。

念仏なり、真言なりを唱えていたら思考が消えるのだが、それを十分にやれば、思考が生じなくなるのだろう。
だから、法然上人が言ったように、起きている時間ずっと念仏を唱えよというのは、良いことなのであるが、当然、そんなことを本当にやるのは相当に難しい・・・いや、不可能だろう。
また、法然の時代なら、念仏に特定したのも仕方がないことであったが、今の時代にそんなことを言うのは、困った宗教者ではないかと思うし、実際、本人が好むものを唱えれば良い。
そもそも、今の葬式と結びついてしまった感がある念仏には抵抗がある人も多いだろう。
本来、念仏は葬式とは何の関係もない。
私の場合、いろいろな事情があって、昔から、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」が唱え易く、今でも自然によく浮かぶので愛用している。
だが、この真言も「テイセイ」のところは「テイゼイ」が正しいとかいろいろ言う人もいるが、そもそも、この真言自体、サンスクリット語を中国語に音写したもので、正確な発音ではない。
だが、そんなことはどうでも良いことである。
ちなみに、阿弥陀如来真言は、サンスクリット語では、「オーン、アムリタ、テジェ、ハラ、フーン」であるらしいが、これも正確ではないかもしれない。

唱える言葉は何でも良いが、唱えるというのとはやや違うかもしれないが、「私は誰か?」と自分に問うことは、ずっと効果がある・・・つまり、早く解脱出来ると思う。
というのは、「私は誰か?」という言葉は、思考する主体である「私」に意識を引き戻し、それが誰かと問うことで、すみやかに思考を消す作用があるからだ。
当然、「私は誰か?」の正しい答えは心、思考に分かることではないが、それもまた、思考を消す優れた効果をもたらす。
よって、本来は、唱える言葉は何でも良いが、私は、「私は誰か?」と自分に問うことを勧めるのである。
確かに、起きている間中、ずっと唱えるのが良いが、それはなかなか出来ないので、なるべく多くということになる。
このあたりは、野球の素振りや佐川幸義流四股と同じであると私は思っている。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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