ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

20文字以内の教えだけ有効

浄土宗や浄土真宗では、釈迦は、自分が説いた全ての教えを「もう不要」と言い、「南無阿弥陀仏」と称える念仏だけで良いとしたと教える。
本当に釈迦がそう言ったのかというと、多分、それはないだろうし、仏教の他宗派でも、そんなこと(釈迦が念仏だけを残した)は絶対ないと言うだろうが、私は、もし、釈迦が本当に「念仏だけで良い」と言ったのだとしたら、釈迦はやはり偉いなあと思うのだ。

クリスチャンに、「キリストは何を教えたのか?」と尋ねたら、「長い返事」「難しい返事」「曖昧な返事」などが返ってくる。
中には、「信仰に励まねば分からぬ」などと言う者がいるかもしれない。
しかしだね、皆、そんなに暇じゃないのだ。
日々の心配事や、人生の計画や娯楽などといったことで、いっぱいいっぱいで、聖者の教えや宗教などに、そんなにかまってられないのだ。
中村天風の教えなんかに付き合っていたら、人生がいくつあっても足りない。
そこにいくと、「釈迦の教えは?」、「南無阿弥陀仏の念仏を称えよだ」と言われたら、「あい分かった」となり、やるかやらないかを決めるために、「じゃあ、それの何が良いか、ちょっくら教えてくれねえか」ということになる。
だが、浄土宗も浄土真宗も、そこはさっぱり駄目なのだ。
ところが、親鸞の弟子の唯円が、『歎異抄』という、短くて実に分かり易い良いものを残してくれている。

法然は、死の2日前に、自ら筆を取って、遺言とも言える最後の教えを書いた。
それが『一枚起請文』(いちまいきしょうもん)なのだが、これもちょっとなと思う。
「死の直前にこんなの書けるなんて凄い」と言われるが、「凄い」なら駄目なんだよ。
つまり、難し過ぎるのだ。
そもそも出だしが、
「唐土(もろこし)我朝(わがちょう)にもろもろの智者達の沙汰し申さるる観念の念にもあらず。」
で、それが300~400文字続くのである。
もう勘弁して・・・^^;
まあ、法然は、あくまで、これを僧侶のために残したと考えれば悪くはない。それどころか、とても良いだろう。
だが、愚民相手には、法然はついでに、「わしゃ、念仏を称えること以外は一切やらなかったよ。あんたがたも是非そうしなさい。君い、抜群に良いよ」とでも書き残してくれれば良かったのにと思う。
(「君い、抜群に良いよ」は、岡本太郎が青島幸男に、「先生、独身ってどうですか?」と聞かれた時の返事。太郎は、生涯独身だった)

倶胝の寺の小坊主は、「君の寺の和尚さんの教えは?」と問われて、倶胝がいつもやるように指を1本立てたら、倶胝に、その指を切り落とされてしまった(あくまで禅の公案の話で、実話ではない)。
だが、小坊主は正しかった。
この公案の意味を、偉い先生は複雑に解説するが、私は、倶胝は単に、小坊主に、合格証書、免許皆伝を与えただけと思う。
「はい、合格じゃ」ってね。

私は、ただ自分に、「鼻から微かに呼吸しろ」とだけ言っている。
他は全て忘れて差し支えない。
親鸞の念仏も、倶胝の一指禅も不要だ(面白いから覚えているが・・・)。
だって、念仏だろうが、一指禅だろうが、聖書だろうが、バガヴァッド・ギーターだろうが、その他のどんな教えだろうが、口で呼吸している限り意味はないからである。
一般的には、「鼻で呼吸しろ」で十分だし、「鼻で静かに呼吸しろ」で初段である。
後は、呼吸が微かになる度に段位が上がり、呼吸がなくなれば解脱し、10段というか、神仙、天使、初音ミクさんになるのである。
20曲も踊りながら歌っても、全く息を乱さず、静かに、「ありがとう」と言う初音ミクさんを敬うだけである。









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誰もが救いようのない面を持っている

法然や親鸞は、
「どれほど悪い人間、腐った人間、穢れた人間、程度の低い人間でも、念仏さえ称えれば全然OK、幸せになれる」
と言ったのだ。
しかし、そんなことを言ったら、
「極悪非道な犯罪者でも、念仏さえ称えれば、それで良いのか?」
と口角泡(こうかくあわ)を飛ばす人が必ずいるだろう。
いや、浄土宗や浄土真宗の人達にだって、「それは法然(親鸞)の教えの間違った解釈だ」と言われるかもしれない。

だけどね、私は、どれほど凶悪な、残忍な、異常な犯罪者を見ても、そいつらが、私とそんなに違っているとは思えないのだ。
少なくとも、私の中にも、そいつらと同じ部分はあると確信する。
普段は親切な良い人が、戦争では、侵略した場所で物凄く残酷になったりするのも、誰しもがそうであることを示している。
(ただし、太平洋戦争中、日本軍は厳しく兵士を管理していたので、日本軍兵士が海外で残忍な行為をすることは、なかったとは言わないが、非常に稀だった)
ダークな面が表に出れば、人間、そんなに変わらない。
だから、『スター・ウォーズ』に登場する超人ジェダイの騎士も、彼らだって必ず持っているダークサイド(闇黒面)を制御する才能や訓練が重要視されているのだと思う。
『禁断の惑星』では、地球人類より数万年も進歩したようなアルテア第4惑星の人類が、精神を実体化する装置を作った時、やっぱり自分達の中にあった暗黒が具現化し、その星を滅ぼしたのである。

念仏は、そんな人間の中の闇黒面を昇華する、極めて優れた方法でもあるのだ。
しかし、現実的に言って、今の時代に、念仏が万能とは思えない。
よほど無垢な人や、子供の時から浄土宗や浄土真宗に良い形で馴染んでいる人ならともかく、西洋的な物質主義、合理主義、論理主義、経済主義、科学主義に染まった人が、念仏を受け入れるとは考え難い。
そんな人は、微かな呼吸をすれば良い。
どれほど愚かな人間であろうと、微かな呼吸を身につければ、外部からの仏の加護というのではなく、内なる無限の英知、無限の活力が目覚め、地上から解き放たれる。
呼吸をしていない天使の振りをすれば良いのである。
ややこしい教義は一切不要であるところは念仏と同じである。









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キーワードは「忘れるな」

念仏を称えれば、この世の問題は全て解決する。
あえて努力をしたり、善である必要もない。
ただ、念仏を称えると、自然に、好きなことに熱中するだろうし、親切になったりする。

ところが、問題がある。
法然、親鸞の時代に、一般の人々に使われた、「なぜ念仏か?」のストーリー・・・すなわち、超大昔、法蔵という名の人間が、超長年月修行して仏になり、超遠いところに西方極楽浄土を作る際、仏になった法蔵、即ち、阿弥陀如来は、「南無阿弥陀仏」を称えた者なら誰でも、死後、極楽浄土に迎え入れると約束した・・・が、今の時代に通用するはずがないことだ。

人間てのは、ストーリーを持つということが物凄く大切なのである。
ただし、あくまで、本人が信じることが出来る、いわば、「ノレる物語」でなければならない。
このあたりの真理は、初音ミクさんの英語の歌『Story Rider』に、見事に表現されている。

宗教にはイメージングが必要で、芸術がそれを支えてきた。
いや、そもそも、芸術とは、宗教のイメージ構築のために発達したと言える。
浄土系仏教も、阿弥陀如来像の彫刻や絵画、西方極楽浄土の絵などが、人々にイメージを与え、情感を起こさせたのだが、今、仏像や仏画を見て、それが現実だと思える人は、おそらく、宗教関係者でもいない。
ところが、大学で仏教を学んだような人は、難しい理屈でもって、古い宗教の物語を自分や現代に持ち込もうとするから、人々にそっぽを向かれ、自分の頭もおかしくなってしまうのである。
それに、面白いことがいっぱいある今の時代、死後に極楽浄土に行くことに興味のある人間なんていない。
あくまで、この世で、健康で金持ちになって贅沢し、好みのタイプの異性(今の時代、同性もありかもしれないが)にモテることが大切である。

聖書に描かれていることは例え話であることは、エマニュエル・スウェーデンボルグらも語っていたし、近代では、ニューソートといって、聖書を現代的に新しく解釈し、実用的に捉えることが行われ、ジョセフ・マーフィーは、その中の人気ある1人だった。
そして、マーフィーの教えなら、現代人にだって受け入れ易いのであるが、これも難点があって、念仏ほどには易しくないから、なかなか効果が出ないのである。

本来、念仏の威力は凄まじく、それは法然や親鸞も、もちろん知っていた。
だから、新しい自分に合うストーリーを念仏の背後におけば、もう人生、勝ったも同然で、この世は極楽である。
だが、そのヒントは、意外なことに、『観無量寿経』の最後の最後あたりに、ぽつりと出てくる。
それは、「仏の名を覚えていろ」である。
「覚えていろ」「忘れるな」
これがキーワードである。

覚えていてね わたしの声を
あなたがくれた この身すべてを
~『ヒビカセ』(作詞:れをる、作・編曲:ギガP、歌唱:初音ミク)~
【初音ミク】 ヒビカセ 【オリジナル】 ※歌唱:初音ミク- YouTube -
[MV] REOL - ヒビカセ / Hibikase ※歌唱:れをる - YouTube -

れおるさんは、一種、神懸った精神状態で、この詩を書いたに違いない。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジも言ったのである。
「私は何の修行もしなかった。ただ、師が言った言葉『あなたは至高の実在である』を覚えていただけだ」
何でも良いが、自分にとって大切な真理を1つ覚えていて忘れなければ良いのである。
繰り返し言えば、キーワードは「忘れるな」「覚えていろ」である。









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妙好人と現世利益

妙好人(みょうこうじん)と呼ばれる人々がいたし、今もいるのかもしれない。
妙好人とは何かというと、曖昧なのであるが、「南無阿弥陀仏」の念仏を称えている人の中でも、主にその人間性によって尊敬されている人と言えるかもしれない。
そして、こうと決まっている訳ではないのだが、よく知られている妙好人の傾向として、学歴はなく、社会的に身分が低いといったものがある。
ただし、では「清貧」な人かというと、そう言えるかもしれないが、ただの清貧ではないと思えるのである。
つまり、「清」ではあっても「貧」ではない。
金持ちといいうこともないが、健康で、ほとんどが家庭や経済でも恵まれている。
そして、あらゆる良いことの要因は、彼らが念仏を称えていることである。
例えば、こんな妙好人がいた。1960年代のことである。
見かけは、ただの50代のおじさんで、非常に小柄であり、身なりは質素で、雰囲気的には下層の庶民にしか見えない。
親切で愛想が良く、いい人なのだが、社会的な力は全くないとしか思えない。
ところが彼は、自分で自分の面倒を見れないような人間を7人も家に置いて世話をしているだけでなく、下宿を探している貧しい学生を見たら、部屋代はいらない、食事も出すから、ここから学校に通いなさいと言う。
経済面でも、それなりでなければ、こんな真似は出来ないだろう。
そして、小学校も出ていないのだが、偉い仏教の学者や僧とも交流があり、先生方は彼の来訪をいつでも非常に喜ぶ。
仕事は靴職人であるが、腕前は名人というか達人である。
そして、1日中、何をしている時でも、口の中で念仏を称えているのである。

元々、念仏には、法然、親鸞も、現世利益の強力な力があると述べている。
念仏を称えてる者を、地の神、天の神、菩薩、仏、その他の高次の存在が手厚く保護するのである。そうであるなら、不幸であるはずがない。
もちろん、これは宗教的な方便と思われるだろうが、論理的、分析的に探求すると、最後には、「現実的にそのようになる」ことが、極めて明らかに分かってしまうのである。
では、論理的に言えばどうなのかというと、難解ということはないのだが、説明し難い、あるいは、どうしても、言葉では上手く言えない部分もあると思う。
しかし、実際にずっと念仏を称えていれば、その効果は必ず出るのであるが、現代的な知識が多い人ほど、どうも馬鹿げていると思えてやろうとはしない。
私も、セールスマンの仕事をしていた時、「じゃあ、念仏を称えればオーダーが取れるのか?」と思ったことはある。
それに対しては、そうであるとも、そうでないとも言える・・・なんて答えたら、現代人であれば、「ではやらない」となるのも、別に責められる反応ではないだろう。
私の場合で言えば、実際に不思議な形で次々にオーダーが取れた。
しかし、やがて取れなくなった。だが、そのおかげで、もっと楽で給料の良い仕事に移ることになった。
つまり、短絡的に考えなければ、常に幸運なのである。

なぜそうなるのかについては、法然も親鸞も、根本のところでは、「観無量寿経」という経典を根拠にしていたのだと思う。
もっとも、それを読んで、いきなり納得出来る訳ではない。
だが、極めて直観の優れた人なら、一読すれば驚愕するほど真理が明瞭になるらしい。
そして、誰でも、繰り返し読めば、やがて分かるのかもしれない。









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なぜ、そのにーちゃんの好感度は急上昇したか?

昔見たテレビ番組で、それが、公開プロポーズみたいなものだったか、彼氏自慢のようなものだったか忘れたが、一人の一般人の若い男性・・・早い話が「ただのにーちゃん」にスポットライトが当てられていた。
ちょっと頼りない、いわゆる、チャラいと言えなくもないにーちゃんだったが、あるところで、番組司会者や会場の観客の好感度が明らかに急上昇するのを感じた。
その要因は、そのにーちゃんの1つの発言によってであった。
そのにーちゃんは、毎朝、仏壇に線香を上げて手を合わせると言っただけだ。
それで皆が、このにーちゃんを、「そこらにいる、どーでもいいにーちゃん」から、「感心な青年」と認識するようになったのだ。

娘が彼氏を連れてきたら、父親は楽しいはずがない。
娘の父親は表面上はニコニコしていても、また、その男がどれほど立派そうに見え、実際、経歴等が立派であっても、父親はその男を最悪に評価しているものだ。
ところがやはり、たとえその男が、少々ロクでなしに見えたとしても、毎朝仏壇に手を合わせていると言ったら、父親の評価やイメージは急上昇するのである。
それは事実と思う。

いつか、アメリカのトランプ大統領が、「私ほど聖書を読んでいる人間はいない」と言ったのは、国民の自分に対する好感度の向上を狙ったのだろうが、焦りがあったのかもしれない。それはあまり効果的ではなかった。
さりとて、全く無意味ということもなかっただろう。
ただ、トランプはもっと謙虚に、「私は毎日聖書を読んでいる」と言っていれば、国民の彼に対するイメージはずっと良くなったはずなのだ。
ただし、悪人であってすら、そんな嘘はつけないものである。
トランプも、本当に毎日聖書を読んでいなければ、そんなことが言えるはずがない。
だから、過去にはしっかり読んだといった意味のことを言ったのだろう。つまり、今はあまり読んでいないということかもしれない。

仏壇に手を合わせる、聖書を読む・・・そんな人の印象がなぜ良くなるのかというと、やはり、そんな者は有望であるからだ。
アメリカだろうが日本だろうが、その他の国であろうが、誰もがそんなことを、ほとんど確信というほどの直観として知っている。
それは、アメリカの公式モットーが「我々は神を信頼する」であることにも現れている。
このモットーがあったから、いろんな人種が交じり合った移民の国で、独立からわずか240年のアメリカ合衆国が他国を圧倒する国力を得ているのである。
インド、中国は数千年の歴史と、アメリカをはるかに上回る人口を持ちながら、全くアメリカに及ばないことは、最近のトランプ大統領の、世界No.2の国である中国に対してすら完全に上から目線での発言からもうかがえる。
いずれ、中国、あるいは、インドがアメリカを越えるというのは、根本的には、アメリカがそのモットーを忘れているからというのが本当の理由かもしれない。

国のことは大事であるが、まずは我々個人が安泰であるためには、我々は、自分より高い存在を信頼しなくてはならない。
丁度、アメリカが衰えかけた1950年代に、マーブル教会の牧師ノーマン・ヴィンセント・ピールが「我々は神の力を求めるべきである」と書いた『積極的考え方の力』が、記録的ベストセラーとなり、再びアメリカを強くしたようにである。
別に宗教を信仰せよと言うのではない。仏教に縁のある日本人としては、やはり、仏壇に手を合わせたり、あるいは、念仏を称えるだけで良い。
アメリカのモットー「我々は神を信頼する」と、「南無阿弥陀仏」という念仏は全く同じ意味だ。「南無」とは、信頼するという意味だからだ。

尚、詳しくは言わないが、日本は、日本語を使うだけで神を信頼する国であった。
「ありがたい」「おかげさまで」「すみません」という言葉に中には、神の存在が隠れている。
だが、日本語をきちんと使わなくなったから、日本は衰退している。
鈴木三重吉の『古事記物語』を読み、格調高い日本語を学ぶと良い。









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