ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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神になる方法は最も簡単である

混じりけがなければ神である。
個性のことをカラーと言うことがあるが、どんな人間にも、なんらかのカラーがある。
個性が強いことは、良いこともあるが、度が過ぎると悪くなる。
個性のない人間が蔑まれることがあるが、個性のない人間などおらず、むしろ、個性のなさが欠点とされる者は、どこか好ましくない個性を持っているのだ。
もし、本当に個性のない人間がいれば・・・いや、絶対にいないのだが、それに近ければ、畏怖するほどの神聖さがあるに違いない。

イチローという野球選手は、どこが一番凄かったのかというと、トータルバランスで、ある意味、非常に無個性な選手だった。
脚が速いとか、レーザービームと言われる遠投が凄かったと言われるが、特に筋力が強い訳ではなく、むしろ、脚の速さを阻害する個性、遠投を阻害する個性がなかったのだと思う。

ソクラテスが、人気哲学者のヒッピアスに、「美とは何か?」と尋ねたことがある。
ヒッピアスが「美しい少女だ」と答えると、ソクラテスは、「いかに美しい人間の少女でも、女神の中に入れば美しくはない」と言い、ヒッピアスも、それはそうだと同意した。
なぜ少女が美しいのかというと、大人の女性に比べて個性がないからだ。
そして、特に少女と言わなくても、究極の美女の顔というのは、全ての女性の顔を平均化した顔で、全くの無個性が最も美しいことが、デジタル技術で実証出来る。

無個性は純粋であり、純粋であれば、神がそのまま出てくるので無敵であり、最も美しい。
美の女神ヴィーナスの絵は多いが、どれも、画家の個性が出ていて、実は醜い。
画家が個性を消せば消すほど、本物の美の女神に近付く。
そして、本物の美の女神は、全くの無色透明だ。

人間の個性は自我が作る。
よって、自我を消せば神になる。
つまり、無になれば不可能はなくなる。

では、純粋になるにはどうすれば良いだろう?
ここが核心である。
キリスト教では、3が神秘数と言われているが、実を言えば、キリスト教以前から・・・つまり、ギリシャ神話の時代からそうだった。
アリストテレスは、「2は両方とは言うが、全部とは言わない。3つで全部と言う」と、3の完全性を説明した。
あらゆる色がRGB(赤、緑、青)の混合で作れるようなものだ。
そして、人間存在というのは、身口意(身体、言葉、精神)の3つで成り立っている。
仏教では、純粋な存在である仏になるために、そのどれかを停止させることで、3つ全て停止させるというのがカラクリだ。
座ることで身を止め、お経を唱えることで口を定常化させ、仏や仏国土を観想することで精神を定常化させる。
しかし、仏教以前のヒンズー教の時代から、マントラ(真言)を唱えれば、身口意の全てが純粋になることが分かっていた。
だが、この簡単なことが隠されたか、退屈に思えるので嫌われたのである。
よって、呪文、マントラ、念仏、真言、ナーマスマラナ・・・何と呼んでも構わないが、呪文のようなものをずっと唱え続ければ純粋になる。
つまり、神(あるいは仏)に近付くのである。
尚、ラマナ・マハルシが指摘したのは、最も効率よく純粋になる言葉は「私」である。
ずっと「私」と唱えると、悟りを開くということもあるが、超人化するのである。ただ、本人にそれを誇る気がないので分からないのである。








会社や学校や政党等のスローガンは全部完全に捨てる

Excel VBAを勉強している上(もちろん、他のことでも良いが)、念仏や「アジマリカン」の呪文を唱えているのに、思うようにいかない人がいるが、それはなぜだろう?
私もとても疑問だった。
うまくいかない理由は運がないからだが、呪文を唱えれば運が良くなるはずである。
表面的には、経験が足りないとか、コミュニケーション能力がないということだろうが、そんなもの、最初は誰にもない。しかし、うまくいく人はうまくいく。
マイケル・J・フォックスの主演映画『摩天楼(ニューヨーク)はバラ色に』で、カンザス州から成功を夢見てニューヨークにやって来た若者ブラントリーは、ある会社に行き、「働かせてくれ」と言うが、即座に断られる。
ブラントリーが、なぜ駄目なのか尋ねると、「経験がないから」と言われる。
そこで、「働かないと経験出来ないでしょう」と食い下がると、相手は、「経験積ませると辞めちゃうので雇わない」と言う。
そんな中で、経験のないブラントリーに道が開けたのは、前向きな姿勢があったからだ。
前向きであれば、運も開ける。

だが、人間というのは、無理に前向きにならなくても、元々、前向きなものだし、そうであれば、運を掴める。
そうでないのは、余計なことを考えるからだ。
呪文を唱えていれば、余計な思考が消え、本来の状態になる。
そうすれば、嫌でも良いことが起こる。

早い話が、うまくいかないのは、呪文が足りないのだ。
嘘みたいだが本当だ。
呪文が足りない人は、余計なことを考えて思考が乱れている。
脳科学の研究によれば、人間は、1分に300もの言葉を頭の中でつぶやいている。
なら、呪文(「大丈夫」程度の言葉でも良い)で統御しなければ、思考が乱れて当たり前だ。
だが、嫌々呪文を唱えても長続きしない。
「何か楽しい」って思えないことは続かない。
では、どんなことが楽しいのかというと、どこかロマンを感じることだ。
キリスト教徒なら、聖書の中に、ロマンを感じる言葉の10や20はすぐに見つかる。
彼らは、単に、それを真面目に唱えれば、必ずうまくいく。
かつてのアメリカ人は、それでうまくいっていたのだ。

日本人の庶民の多くが幸せが薄いのは、会社や学校のスローガンはよく覚えているのだが、そんなものにロマンを感じないので、心が前向きにならないからだ。
そこで、会社や学校、あるいは、何であれ、組織のスローガンは、全部、きれいさっぱり忘れ、絶対に唱えないことだ。
そして、自分がロマンを感じる言葉を選び、唱えることだ。
くれぐれも言う。
会社のスローガンも、学校のスローガンも、地域のスローガンも、政党のスローガンも、アイドルのスローガンも、家庭のスローガンも、人気者のスローガンも、宗教団体のスローガンも、ボランティア組織のスローガンも、何かの宣伝の中のスローガンも、アニメのスローガンも、インフルエンサーのスローガンも、とにかく、押し付けられたもの(押し付けてきていると感じるもの)は、例外なく拒否しなければならない。
うまくいかない人は、何かしらの、組織や他人のスローガンを受け入れているのだ。
自分で選んだものでさえあれば、他人と同じものでも、同じものを唱えている人が沢山いても構わない。
しかし、自分で選ぶことだ。

例えば、「初音ミクは俺の嫁」はどうかというと、この言葉で本当にロマンを感じる人は少ないのだ。
ただ、「ミク」だけなら、案外にうまくいく。
あるいは、「愛」とか「調和」といった言葉(あるいは、そのいくつかの繰り返し)は、選びやすい。
だが、とにかく、言葉は何度変えても良いが、自分で選ぶか作ること。
そして、言葉が決まれば、ひたすら唱えれば、運に恵まれることは間違いない。








アメリカの公式標語と念仏に共通する全てを得る鍵

アメリカの公式な標語は、「IN GOD WE TRUST(イン・ゴッド・ウィー・トラスト)」で、意味は「我々は神を信じる」だ。
だが、この標語は、日本の学校英語では「?」ではないだろうか?
調べれば、trust(信じる)という動詞の使い方として、「人や神を信頼する」という場合には、このように、inという前置詞を使うようだ。
学校英語では、We trust in god一辺倒だが、多少の英語の原文をいろいろ見ていたら、強調したいものを前に持ってくることがあるらしいことが分かる。

私は、ビートルズの『And I love her』を聴いた時、「Dark is the sky」という歌詞で、「うわ!かっこいい」と思ったことがある。
もちろん、普通には「The sky is dark」だろうが、ひっくり返す(倒置法と言うのだろうか)ことで、とても印象深くなるのである。ここらは、イギリス人も日本人も同じなのだろう。

ところで、「我々は神を信じる」は、とても重要な言葉なのだが、よく考えると、そんなに分かり易い言葉でもない。
特に日本人の場合、「神を信じる」と言ったら、「神の存在を信じる」というふうに思ってしまうと思う。
そこで、「In God we trust」の場合は、「神を信頼する」と訳した方が良いと思う。
そこには、「神の恵みを信頼する」といった意味合いがあるのだと思う。

仏教の念仏である「南無阿弥陀仏」の意味は「阿弥陀如来に帰依します」らしいが、「帰依」などという、普段、絶対使わない言葉を出すことは、私は好きではない。
普段、絶対使わないどころか、将来も絶対使わないだろう。
こんな言葉を使う限り、仏教は発展しないし、実際、衰退している。
「南無阿弥陀仏」はやはり「阿弥陀如来を信頼する」と訳すべきなのだ。
すると、「In God we trust」と同じで、「阿弥陀如来の恵みを信頼する」という意味を込められる。
アメリカの硬貨には、「In God we trust」と必ず刻印されているが、アメリカ人が、この言葉を意識していた頃は、アメリカは経済的に強大だっただけでなく、精神的、そして、道徳的に偉大だった。
今のように、トップの政治家が自分の利益のために、平然と国を裏切ることはなかった。

さて、何度か述べたことがあるが、スーフィー(イスラム教神秘主義)の、非常に重要な格言がある。
これを知っていれば、引き寄せが自在に出来る。
それは、
「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
である。
私は、この意味をずっと、
「神の恵みを信じろ。だが、人間が出来ることはちゃんとやれ」
という意味だと思っていたし、それで別に間違いではない。
神を信頼して全てまかせるというのは、偉大な神道家、黒住宗忠の教えでもあるが、だからといって、ラクダをつなぐくらいのことは人間がしなければならない。
言い換えれば、人間に出来ることは、その程度のことだが、それはそれで真面目にやらないといけないのだ。
だが、「ラクダをつなぐ」には、もっと深い意味がある。
ラクダは放っておいたらさ迷うものである。
このラクダは、心の象徴なのだ。
つまり、心はふらふらとさ迷う性質がある。
さ迷う心には、引き寄せは出来ない。
いや、正しくは、さ迷う心を持った者には、神は恵みを与え難いのだと思う。
つまり、自分は何が欲しいか分からず、呆然と、「いい暮らしがしたい」程度のことを思っているような者に、神はあまり恵みを与えないのかもしれない。
そこで、さ迷う心を静め、また、目標を明確にしなければならない。

「神を信頼しろ。だが、ラクダはつないでおけ」
は、本当に重要な言葉だと思う。
念仏の場合は、阿弥陀如来という宇宙最強の存在を信頼すると共に、念仏を唱えることで、さ迷う心をつなぎとめておくことが出来る。
非常に合理的な行である。
だが、目標が明確でない。
いや、目標は「死後、極楽浄土に生まれる」であると言われていたが、一休は、「今、この場を極楽にすること」といったことを教えた。
だが、阿弥陀如来は万能で、しかも、限りなく慈悲深いので、どんな願いも叶えてくれるはずだ。

スーフィーの格言と念仏は、本当に深い。
理解すれば、全てを得るだろう。








意外な最強の引き寄せ書とは

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は、罰する神で、悪いことをしたら罰が与えられる。
ただ、イエスは、「人を許せば、神もあなたを許して下さる」と教えている。

映画『パピヨン』で、パピヨンが裏切ったら、自分が窮地に立たされる可能性があったドガが、「パピヨンが裏切ったら彼を罰したいか?」と尋ねられ時、穏やかに笑い、「罰するのは神の仕事だ(私の仕事ではない)」と感動的なことを言う。
ドガは、パピヨンへの神の罰を望んでいる訳でもない。
つまり、たとえパピヨンが裏切っても(結果、自分が死ぬことになっても)、ドガは許すつもりだった。
そして、パピヨンは、ドガを裏切らなければ死ぬほどの苦しみがある中でも、決して裏切らなかった。
ドガは大詐欺師で、多くの人に苦しみを与えたが、神に許されたかもしれない。

引き寄せがうまく出来ない原因に、罪悪感・・・つまり、罪の意識がある。
罪悪感にもいろいろあるが、特に多いのが、「自分には罪があるので、願うものを受け取るに値しない」といったものだ。
そう思わせるものは、心の中にある、過去に自分が行った悪いことに対する後悔だ。
もちろん、罪悪感は悪いものではなく、悪いことをしたなら、後ろめたい気持ちを持つのは必要なことである。
しかし、自分を許せないと、そのように、自分には良いものを受け取る値打ちがないように思えてしまい、そうであれば、願いは叶わない。

キリスト教をベースにした引き寄せでは、人の罪を許すことの重要性を訴えているが、それは、引き寄せを行う上で必要なことなのだろう。
しかし、実際にはそれは難しい。
凡人には、恨みがある相手、憎い相手をなかなか許せない。
だから、自分も許せない。
ところが、浄土仏教の場合は、非常に簡単なのである。
法然や親鸞の教えなのであるが、いかなる罪を背負っていても、念仏を唱えれば、無条件でたちどころに許されるのだ。
いや、罪が消えてしまう。
ただ、いきなりそう言われても、良心を持った人間は、なかなか納得出来ない。
だが、親鸞の教えを弟子の唯円が記した『歎異抄(たんにしょう)』を読むと、念仏で罪が許されることを受け入れられるのである。
それを考えると、親鸞は、『現世利益和讃』で、念仏を唱えれば、あらゆる利益を得られる・・・つまり、引き寄せも自在であると述べていることが、確かであると思われるのである。
ひょっとしたら、『歎異抄』こそ、最強の引き寄せ書かもしれない・・・と言ったら、浄土系仏教信者に怒られるかもしれないが(笑)。








洗脳から何とか逃れよ

どんな人であっても、自分は強烈に洗脳されていると思った方が良いと思う。
「少しは洗脳されている」なんてものではない。
どこぞの悪名高い専制国家の国民と同等・・・ひょっとしたら、もっとひどいかもしれない。

それならもう、インドのジッドゥ・クリシュナムルティのように、「私は何も信じない」と決心した方が良いとも思うが、そのクリシュナムルティだって、かなりの部分で洗脳を免れていないかもしれない。
クリシュナムルティは、ガンジーやマザー・テレサのように、皆が泣いて褒め称える人達だって、悪の根源と言うような人である。
まあ、本当は、善いとも悪いとも言いたくないのかもしれないが、そのくらいの言い方をしないと、普通の人には話の要点が伝わらないのだと思う。

ルネ・デカルトも、絶対に何も信じないと決めた人だった。
しかし、それでは社会で生きていけないので、法律と伝統的な道徳にだけは従うことにした。
それで、大体うまくいってたのだと思う。

洗脳されると頭が悪くなり、今や、普通の日本人で、本当の頭脳の力の3割も使えないようになっていると思う。いや、実は、数パーセントしか使えていないという話もある。
そして、頭脳そのものより、精神の力を奪われていて、不満が多く、不安に苦しみ、直観で分かって当たり前のことが分からず、精神を媒介する引き寄せも全く出来ない。
洗脳が強いほど社会の下層にいるのかというと、必ずしもそうではなく、一見、上層にいながら下層の人々より苦しい者も多いのだ。

イエス・キリストは、洗脳を免れることが出来るよう人々を導いたが、それは、神と天国という害の少ないストーリーで、悪意のない洗脳を行うことによってだった。
イエスが、「神と悪魔の両方に仕えることは出来ない」と言ったように、人間は、2つの異なる洗脳を受け入れるようには出来ていない。
それなら、害がない洗脳を先に入れておけば良く、既に、害のある洗脳を受けている者は、良い洗脳と入れ替えれば良い。
そのためには、何を信じれば良いのだろう?
それは福音書に書かれている。
誰かがイエスに「第一の掟は何か?」と尋ねると、イエスは、「神を愛せよ」と即答した。
これが、トランプ大統領やウッド弁護士の言う、「政府や大統領を崇拝する国ではなく、神を崇拝する国にする」ということだ。
だが、ある巨大な勢力である敵は、アメリカ人に別のものを崇拝させようとしている。
それが何か分かっているが、私も恐くて言えない(笑)。

我々は、経典と言うよりは、法然の『選択本願念仏集』や、親鸞の教えを書いた『歎異抄』を理解することで、阿弥陀仏を崇拝して念仏を唱えた方が良いかもしれない。
数学者の岡潔や、おそらく、物理学者の湯川秀樹もそうしたのだと思う。
もちろん、他に好ましく思うものがあり、それが害のないものなら、それを信じれば良い。
そうすれば、頭も良くなり、引き寄せもうまくなると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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