ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

念仏

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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この最後の方法に賭ける

神の名を唱えるナーマスマラナの力の基本的原理は極めて難しい。
14世紀のインドの聖者ナーマ・デーヴァ(ナーム・デーヴ)は、『聖なる名前の哲学』という短い聖典にその概要を美しく表し、それが書かれた小冊子を発見したインドの聖者ラマナ・マハルシは、それを自ら書き写したものを生涯、手元に置いたと言われる。
『聖なる名前の哲学』は、高度な原理を直観的に分かるよう、抽象的に、詩的に表現している。
普通の人がちょっと見たくらいで意味が分かるものではないが、ラマナ・マハルシは、直観的に真理を感じたのだろう。
(『聖なる名前の哲学』の全文は、ナチュラルスピリットの『あるがままに』と『ラマナ・マハルシとの対話 第2巻』に収録されている)
阿弥陀如来の名を唱える念仏も、原理はナーマスマラナと同じで、元々は、龍樹(りゅうじゅ)の『十住毘婆沙論』(じゅうじゅうびばしゃろん)』の中の『易行品』に、簡易に解説されているが、その元となる『華厳経』は難解で手に負えないと思う。
そんな訳で、ナーマスマラナや念仏に強い効果があることは、私にもそれなりに理解出来るが、詳細な原理を究めるのは、相当難しい。
だが、とにかく、ナーマスマラナ(念仏を含む)の実践者が確実に恵を受けていることや、信頼出来る人物達が効果を保証していること、そして、後は、直観を働かせていただければと思う。
つまり、原理を知る必要はなく、実践すれば良いことである。

真言、祝詞、祓詞などにも、一部例外を除き、神仏の名、あるいは、神仏の別名が含まれており、原理的にはナーマスマラナと共通する。
分かり易い例で言えば、弥勒菩薩の真言「オン、マイタレイヤ、ソワカ」で、マイタレイヤは、弥勒菩薩の本来の名であるマイトレーヤのことだが、このくらいの発音の違いは差し支えない。
阿弥陀如来真言の「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」も、アミリタが、アムリタという阿弥陀如来の別名であると思われる。実際、阿弥陀如来の陀羅尼(だらに。長い真言)では、アムリタという言葉が何度も使われている。
アムリタだけでも力のある真言であることは知られている。

最近、YouTubeなどで、「トホカミエミタメ」という祝詞(あるいは祓詞)に力があることが、よく投稿されているが、実際、素晴らしい力があるので、唱えていただきたい。
ただ、この言葉は、祝詞ではなく、神の名である。
しかも、8柱の神である。つまり、この一語一語が神の名なのである。
そして、正確には、「トホカミヱヒタメ」と思う。「トホカミエミタメ」では、「ミ」の神が重なり「ヒ」の神がいない。
とはいえ、「トホカミエミタメ」で力がないわけではない。7柱の神の名なのだから。
だが、よろしければ、「トホカミヱヒタメ」と唱えていただければと思う。

細かい原理は気にせず、ただ、神仏の名を唱えれば、一切の問題は解決し救われる。
今朝も書いたが、「ア(アー)」の神の名だけでも、唱えれば悩みは消える。
こういったことを、直観が肯定すると思う。
それなら、大いに実践していただきたい。
人生、何もかもうまくいかないと思うなら、むしろ幸いである。それなら、この方法に賭けてみると良い。
親鸞も言ったものだ。
「法然上人に騙されたとしても(念仏に効果がないとしても)、どうせ私には、他には何も出来ない」








マントラとナーマスマラナ

人間の、世界に対する支配力は極めて小さい・・・小さいどころか、ゼロであると言う賢者もいる。
つまり、納得出来ない人も多いだろうが、全ては、運とか偶然といったもので決まるのである。
そんなふうに、運命に翻弄される中で、人間は、高次の力を使う、あるいは、高次の存在の援助を受ける方法を探し、それが提示された。
だが、ほとんどの人にとって、それらが効果があるようには思われず、うまくいったと思える者も、やはり、本当は、たまたまうまくいっただけなのである。
けれども、2つの、誰でも出来、しかも、確実に効果を上げる方法がある。
1つが、マントラ(真言)である。
これは、呪文、祈り言葉、祓詞、口ぐせ、力ある言葉・・・などと呼ばれる。
もう1つの最大の方法が、ナーマスマラナで、これは、神仏の名を心の中で唱える行である。
ナーマスマラナは、発祥の地インドでは、「クリシュナ」や「ラーマ」といった聖典や神話の神の名が唱えられるが、日本では、念仏が馴染み深い。しかし、日本の念仏は宗教儀式のイメージになってしまった。だが、念仏は葬式のためにあるものではなく、生者に力を与えるためのものなのだ。

私の場合、マントラから入り、それで高次の力を感じたことでナーマスマラナに導かれるのだが、これもよくある流れかもしれない。
マントラで確実な効果があるので、実利的な面では、これで十分である。
いきなり、ナーマスマラナから入るのは、特別な縁によるが、割と苦難がある人の場合が多いと思える。
私の場合、元々が割合に平安であったので、ずっとマントラだけできたのである。

いずれにしろ、この2つの方法でしか、高次の力に触れることは出来ない。
引き寄せのようなものは、全て効果はないが、引き寄せも、マントラやナーマスマラナを行うものがやれば、一見、効果があるように見える。だが、実際の効果は、マントラやナーマスマラナが起こしているのである。
だが、引き寄せなどのスピリチュアルが無意味であるわけではなく、人々を、物質を超えたものに目を向けさせるためには必要な部分もあると思う。
確かに、高次の世界に逃避したがる者も多いように思えるが、本当は逃避する必要はなく、現実を平然と見ておれば良いのである。
マントラや、ナーマスマラナを行えば、見捨てられることはないのだから。
また、現実を見ている者でなければ、マントラやナーマスマラナを根気強く行えないと思う。
実際、完全なひきこもりだが、マントラやナーマスマラナだけは熱心であるという者はいない。

つまり、現状がどんなに悪くても、現実から目をそらさず、しかし、現実に打ちのめされたり翻弄されずにいなければならない。
一休さんが遺言で言ったように、「心配するな、何とかなる」のであるから。
だが、そのための、本当に効果がある方法は、マントラかナーマスマラナしかない。
ちなみに、一休は、宗派は違うが、法然や親鸞を尊敬し、最後は念仏・・・つまり、日本流ナーマスマラナを行ったのである。

本来、ものごとがうまくいく時というのは、たまたまうまくいくだけなのだが、マントラを根気強く唱えると、「確実にたまたまうまくいく」のである。
だが、マントラの力が弱く感じたり、あるいは、マントラで持ちこたえることは出来るが壁を突破出来ない時、ナーマスマラナに導かれる。
それはこんな感じである。
戦場で、とりえあず鉄砲が与えられると、鉄砲がうまい者は、それでバリバリやっていけるが、鉄砲が下手な者は、鉄砲はないよりはある方がはるかに良いが、厳しいのである。
そこで、強力な援軍が現れて守ってくれたら、鉄砲がうまい者も下手な者も、自分は何もしなくても、安心でいられ、しかも、その気になれば、敵の本丸を落とせるのである。
言うまでもなく、鉄砲がマントラのたとえで、強い援軍がナーマスマラナのたとえである。
大将軍には、鉄砲が好きな者が多いが、自分では鉄砲は全く持たない者もいるのである。








「愛」が分かる話

イエス・キリストに、「一番重要な戒律は何か?」と尋ねたら、イエスは、「神を愛すること」と答えた。
『バガヴァッド・ギーター』の中でも、神クリシュナは、「我を愛せよ」と述べている。
ここで、時代を超え、国を超えた普遍的な命題「愛とは何か?」「愛するとはどういうことか?」が問題になる。

男なら美女や美少女を、女なら美男や勇者や金持ちの男を愛するというのは、分かるような気がするかもしれない。
しかし、それは本当の愛ではない。
では、愛とは何かというと、実に簡単なことで、名前を呼ぶことだ。
多く呼べば呼ぶほど愛しているのである。
ピンと来ないかもしれないが、そうなのである。

キリスト教やユダヤ教では、神の本来の名はヤハウェであるが、神の名はみだりに唱えてはならないと言われている。
ただ、それは、口に出すなという意味で、心で唱えるのは大いに良いのだと思う。
ところが、イエスは、神のことを「父」「アバ(父の幼児語。パパに近いと思う)」と呼んでいたが、これは分かると思う。
自分の父や母を愛するとしても、実際の名前で呼ぶよりは「お父さん」とか「お母さま」などと呼ぶと思う。
それも名前なのである。
(ただ、イエスは、信者達に、自分の名を呼ぶようにも言っている)
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、神のことを、「天照大神」と呼んだが、しばしば「親様」とも呼んでいる。
また、江戸末期から昭和初期の妙好人(在家の念仏者)、因幡の源左の父は亡くなる時に、源左に「これからは親様を頼れ」と言ったらしいが、この親様とは阿弥陀如来のことである。
念仏はまさに、阿弥陀如来の名を唱えることであるから、数多く唱える者は、それだけ阿弥陀如来を愛していると言うことが出来、法然は1日6万回も唱えたという。

インドでは、神の名を唱える行をナーマスマラナと言うが、クリシュナ神の「我を愛せ」の言葉通り、クリシュナの信者は、数多く「クリシュナ」の名を唱える。
ラマナ・マハルシの弟子だったブンジャジは、働きながら「クリシュナ」と1日4万回唱えたという。

ノーベル賞作家アルベール・カミュの代表作『異邦人』に、こんな印象深い場面がある。
若く美しい娘マリーが、主人公の青年ムルソーに、「結婚してくれる?」と尋ねると、ムルソーは「いいよ」と即答する。
喜ぶマリーは、ムルソーに「私を愛してる?」と尋ねるが、当然、マリーは、ムルソーの「そうである」を意味する答を期待したことだろう。
ところが、ムルソーは、「分からないけど、多分、愛してない」と答え、マリーをうろたえさせた。
そういえば、ムルソーは、亡くなったばかりの母親について、「ママのことは、多分、好きだった」と微妙な言い方をしていたものだ。
だが、マリーだって「愛する」という意味が、多分、分かっていない。
マリーを愛するとは、マリーの名を多く心で想うことなのだ。

アニメ『ツバサ・クロニクル』で、サクラがシャオランに尋ねる。
「シャオランは私のこと考えることある?私はシャオランのこと、ずっと考えてるよ」
すると、シャオランは、
「俺も、サクラ姫のことを考えているよ、いつも」
と答える。
2人とも気付いていないかもしれないが、これは、お互いが、いつも名を呼び合っているということなのである。

もう一度名前呼んで!
「初音ミク!」
~『39みゅーじっく!』(作詞・作曲・編曲:みきとP。唄:初音ミク)より~

Miku, Miku, you can call me Miku
(ミク ミク ミクと呼んでね)
~『Miku』(Anamanaguchi feat. Hatsune Miku)より~

14世紀のインドの聖者ナーマデーヴァ(ナームデーヴ)が、『聖なる名前の哲学』に、
「名前はケーシャヴァ(クリシュナ神)そのものである」
と書いた通り、名前と実体は等しい。
神の名は、神そのものなのである。
愛する人の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、その人からも愛される。
神の名を、心で丁寧に数多く唱えれば、神に愛され、あらゆる恵を受け、救われる。
ユニティ教会のチャールズ・フィルモアが述べた通り、「神は与えたがってウズウズしている」からである。
親鸞も、念仏を唱えれば、利益に極みはないと述べている。








万能の力を味方につける

今朝も少し書いた部分もあるが、それとは関係なく、すっきりと役立つように書く。
著名な心理学者であるカール・グスタフ・ユングのお気に入りだった話が、中国出身のアメリカの作家・事業家であるチン・ニンチュウの世界的ベストセラー『誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる』の冒頭に紹介されている。
こんな話だ。

何年にも及ぶ干ばつに苦しむ村が、有名なレイン・メーカー(雨乞師)を呼んだ。
レイン・メーカーは村に着くと、テントに4日、引きこもった。
すると、雨が降った。
村の人がレイン・メーカーに、
「何をしたのか?」
と尋ねると、レイン・メーカーは、
「何もしていない。この村は神の意思に沿っていない。それで私は、神の意思に身をまかせた」
と答えた。

良い話であるが、肝心なところが分からない。
「神の意思に身をまかせた」って、具体的にどうすんだよ(笑)。
私は長い間、それが不満だった。
だが、答が分かった。
ただし、このレイン・メーカー自体は何をしたのかは知らない。
だが、「神の意思に身をまかせる」最上の方法が、ナーマスマラナだということは分かった。
ナーマスマラナとは、ナーマ(名)をスマラナ(心で唱える)という意味で、神の名を心の中で唱える行である。
葬式用ではない、本来の純粋な念仏も、ナーマスラマナである。
要は、心の中で神仏の名を唱えれば、あなたにだって雨を降らせることが出来る。
ヒーラーにだってなれる。
いや、どんなことでも出来る。
ただし、心の中で、丁寧に、十分な時間唱えればである。1回や2回、「アマテラス」と唱えたって駄目だ。
「心を込めて唱えよ」と言ったら、多くの人は変な込め方をするので(笑)、丁寧に唱えれば良い。丁寧に唱えることが、心を込めて唱えることだ。

私の場合、ナーマスマラナは念仏なのだが、一般に言う念仏である「南無阿弥陀仏」というのは、私には、宗教臭過ぎ、葬式臭過ぎる。
それで、私は「阿弥陀仏」と唱えていたが、「仏」は分かり切っているので、今は、「アミダ」とのみ唱えている。
本来のサンスクリット語の名前(阿弥陀はアミターバ)から言えば、むしろ、「アミタ」が良いのだが、これは別にどちらでも良い。神仏の世界は極めて高度なので、そのくらいの調整は簡単になされるに決まっている。
「南無阿弥陀仏」ときちっと唱えないと不遜だと言う人もいるかもしれないが、不遜と言うのは、心がこもっていないこと・・・つまり、丁寧でないことを言うのだ。
「なんまいだー」と軽く唱えるよりは、心の中で丁寧に「アミダ」と唱えた方がずっと敬虔(深く敬うこと)であると思う。
「アマテラスオホミカミ」も、やはり、心の中で丁寧に「アマテラス」と唱えれば問題はなく、むしろ、短く言うことで親しみがこもるのは良いことと思う。
もちろん、各自の考え方もあるので、それに従えば良い。
確かに、「アマテラスオホミカミ」と丁寧に唱えると、荘厳さがあると思う。

円空という、江戸時代前期の偉大な僧がいた。
生涯に12万体の木彫りの仏像を作ったと言われている(1日10体彫っても33年かかる!そこから考え、あくまで伝説かもしれないが)。
それほどの数を作ったのだから、1体1体はラフな感じもするが、現代のフランスの芸術家が、円空が掘った仏像を見て芸術的価値に驚愕したと言う話もある。
ところで、価値の高い仏像といったら、お寺の立派な場所に安置されたり、中には、もったいなくて、立派な部屋や箱の中に大切にしまって一般の人には見せない、あるいは、特別な日に、ちょっとだけ見せるというものもあると思う。
だが、円空の仏像は、野外で子供が乗っかって遊ぶのが普通だった。
仏様って、それほど、気安く、親しみやすいもののはずなのだ。
その名だって、「アミダさん」「カンノンさん」と親しく呼べば良いのだと思う。
ただし、その名を、いつも心に保つことが大切だ。それを忘れないために、意識的に、心でその名を唱えるべきなのである。
その際も、やはり、「アミダ」「カンノン」で良いと思う。
また、「アマテラス」という言葉には、とても輝かしいイメージがある。
一番良いのは、子供のように、本当に素直に親しく呼ぶことだが、我々はあまり純真ではないので、せめて、丁寧に唱えるのである。
「ミクさーん」と言うのも良いが、心に中で丁寧に「ミク」と唱えれば、まさに、心の中でミクさんは神秘なイメージになるだろう。
これを持ってしても、心の中で丁寧に唱える意義が分かると思う。
尚、私は別に、「南無阿弥陀仏」「南無観世音菩薩」「アマテラスオホミカミ」と唱えるのが良くないと言うつもりは全くない。
自分が納得するように唱えるのが一番である。








ウイルスは物質主義者を倒す

我々が、「世の中がおかしくなっている」と感じる時、日本に住んでいるなら、日本がおかしくなっているということだ。
では、他の国はどうかというと、当然、日本ほどには分からないが、とりあえず、アメリカ合衆国がおかしいということは分かる。
それでは、その他の国はどうかというと、今は、良い指標がある。
それは、新型コロナウイルスの感染規模だ。
経済力が大きな国ほど感染が大きく、貧しい国ほど、感染は小さい。
一部、公表されている情報と実体が大きく違うと感じる国もあるが、GDP上位の、アメリカ、日本、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ブラジルなどは大きく、ベラルーシやエチオピアなど貧しい国は小さい。
(中国は、ほとんど感染者がいないことになっているが、本当のところは分からないと思う)

それで、感染規模の大きな国は、おかしな国になっているのではないかと、私は推測している。
国がおかしくなるのは、多くの国民がおかしくなっているからだが、では、人がおかしくなる原因は何だろう?
それは、「見えないものより見えるものを優先すること」で、つまり、「心より物質を価値あるものとすること」だ。
経済力が高いことは、一般に、物質主義である傾向の高さを示していると言えるだろう。
イエスが、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と言ったようにである。
しかし、先進国のほとんどの人間は、ラクダになりたがっている。
目に見えない天国のようなものを信じていないからだ。

昨年のアメリカ大統領選挙と新型コロナで、世界の実体が浮き彫りにされ、今、世界がどうなっているかに、多くの人が気付いたと思う(全く気付かない人も多いが)。
そして、新型コロナウイルス感染が大きい国は、このままいくと滅びることになる。
それを免れる唯一の方法が、物質主義を捨て、物より心を優先することだ。
別に、物質を捨てろというのではない。物質より心を大切にすれば良いのである。

物質主義者が絶対にしないことは、ナーマスマラナ(心で神の名を唱えるという意味)だ。
心の中で唱える念仏も同じである。そもそも、念仏とは言葉の通り、仏を念ずることであり、念ずるとは心で想うことである。
神仏の名を心で唱えれば完全に護られると言ったら、物質主義者は笑うだろうし、自分は物質主義者ではなないと思っている人でも、心の中にある物質主義が違和感や反発を感じるだろう。
一方で、神仏の名を心で唱えれば、一切の問題が解決し救われることは、本当は誰でも分かっているのである。

声を上げるナーマスマラナや念仏は、あまり良くない。
ある真面目な宗教漫画で、若者から老人までが集まって念仏を上げている場面があったが、それはもう不気味で、カルト以外の何物でもない。
一方、1953年のアメリカ映画『宇宙戦争』で、火星人の攻撃になす術なく、滅びを待つだけという中、教会で人々が黙って祈る様子は荘厳ですらあった。
『宇宙戦争』の最後は、こう語られる。
「万策尽きた時、賢い神が創った小さな生命が世界を救った」
「万策尽きる」とは、物質的な意味であり、物質主義を捨てたということだ。
すると、物質主義において、火星人が地球人に優ってしまい、ウイルスが火星人を倒した。
そして今、人間の手を使ったかもしれないが、賢い神が創ったウイルスが、物質主義者を戒めているのである。
ナーマスマラナを真摯に行っていれば(単に、心で神仏の名を丁寧に唱えれば良い)、護られ、必要なものは与えられる。
物に関しても、イエスは、「あなた方に必要なものなど、神はとっくにご存じだ」と言った通りである。
何をすべきか、すべきでないか、働くか、働かないか、努力するか、しないか・・・などは神仏が決め、我々はその通りに自然に行えば良いが、つまるところ、何もしていないのである。
自然であること、それは、快適なことである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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