ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

徳川家康

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

一番賢い人間の態度

「自分の頭で考える」ことを、優れたこととする誤解が完全に定着してしまい、それを愚かなことであると言ったら排除されかねない。
しかし、本当のことだから言う。
自分の頭で考える者は馬鹿だ。
なぜか?
人間の頭は馬鹿でしかないからだ。

電波工学の世界的権威であった関英男博士は、人間の脳は、想像も出来ないほど高性能なスーパーコンピューターに接続されたダム端末(表示するだけのコンピューター)に過ぎないと、極めてまっとうなことを言われていた。
また、UFO研究家の矢追純一氏も、人間の頭は大した性能ではないパソコンで、やはり、超高性能なコンピューターに接続されているようなものだと言われていたと思う。
矢追氏は「僕は頭が悪いので、考えることを放棄した」と、実に「賢い」選択をしていたようだ。

月下の花
AIアート91
「月下の花」
Kay


一見、考え深く、思慮があり、馬鹿な振る舞いをせず、賢明に事を運ぶ人間は、実は何も考えていない。
人間は、関博士が言うダム端末、矢追氏が言う性能の低いパソコンであるという分をわきまえず、自分で考えて問題を解決しようとしたら悲惨な目に遭うのである。
孔子や徳川家康が言い、そして、デルポイ島のアポロン神殿の扉にも書かれている。
「身の程を知れ」

アニメで、ヒーローが窮地に陥り、絶体絶命の状況である時に言う。
「考えるんだ。何か手があるはずだ」
そして、素晴らしいアイデアを得てピンチを切り抜ける。
この時、ヒーローは考えたのではなく、考えることを止めたから素晴らしいアイデアを得たのである。
試験ですら、考えると間違え、ミスをする。
だが、考えることを止めると、知らない問題でも解答出来る。
ところが、学生達は、徹底的に考える癖をつけさせられ、思考を消すことを完全に忘れさせられている。

私は、やはり、一番賢い人間の態度とは、矢追氏の態度と思う。
つまり、「僕は頭が悪いから考えることを放棄した」である。
だが、愚か者ほど、自分は頭が良いと思いたがり、そして、思ってしまっているのである。
たかがダム端末、低性能のパソコンが、自分はスーパーコンピューターだと主張する愚かさ、滑稽さに気付けば幸いだ。
家康が言ったように、アポロン神殿に書かれソクラテスが大いに信奉したように、「身の程を知れ」である。








天下取りの秘訣がこんなに簡単になった

私が好きな話であるが、天下を統一した徳川家康に、大胆にも若い・・・というか少年の小姓(雑務・警護を務める武士)が、「天下を取る秘訣」を尋ねた。
一応は「天下を取る秘訣」であるが、これは、物質的には最も大きな望みと言えるので、「成功のための究極の秘訣」を尋ねたのだと言って良いだろう。
そして、家康はそれを知っているはずである。
その問いに対して、家康は、「長い方と短い方、どっちが良いか?」と尋ねるので、小姓は「両方」と答えた。
すると、家康は、「短い方は『上を見るな』、長い方は『身の程を知れ』である」と述べた。

「上を見るな」とは、自分より良い状況にある者を羨ましがるなということで、「持っているもので満足しろ」ということだ。
「身の程を知れ」とは、「己惚れるな」ということで、自分が大したものではないことを自覚しろということだ。
結局、この2つは同じことを言っている。
そして、もっと根本的な言い方で言い換えるなら、「余計なことを考えるな」ということで、さらに言えば「何も考えるな」ということだ。
考えなければ、羨ましがることも己惚れることもない。
そうであれば、どうなるかというと、心が消えるのである。

つまり、家康は、「心が消えれば無敵である」と言ったのである。
そのためには、羨んだり、己惚れたりしなければ良い。
これは家康が、何度も絶体絶命に追い込まれたり、判断出来ないことを判断する中で、自ずと分かったことであろう。

天女
AIアート63
「天女」
Kay


ところが、何と、我々には、思考を消し、心を消す、最上にして簡単な秘法がある。
それはもちろん、「私は誰か?」と自分に問うことである。
これにより、家康が言った究極の秘法を誰でも即座に、そして、確実に実践出来るのである。
それなりの繰り返しは必要であるが、その程度は何でもないはずである。








『老子』第56章を一言で言えば「真に貴い存在」

今回は『老子』第56章である。
この章を一言で言えば「真に貴い存在」である。

『老子』を語ることは、適当にやるつもりだったが、あまりの楽しさに止められなくなった。
なぜなら、『老子』が全81章あるといっても、81の教えがあるわけではなく、たった1つの本当に貴い教えを調べを微妙に変えて語っているのだからだ。
そして、正真正銘、万能の教えである。
これほど良いものがあろうか?

この章でも、本当に貴い人とは、思考しない人であることを美しく語っているのである。
思考しないからこそ、自動で起こる思考は全て無理がなく自然で美しいのだ。
世間では、「思考停止する馬鹿」とか言うが、思考が停止すれば賢者であり、馬鹿な思考をする者が馬鹿なだけである。

異星の少女

AIアート3
「異星の少女」
Kay


徳川家康が、天下取りの秘訣は「上を見ないこと」と言い、『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神が感覚を外部に向けないよう教えたのも、煌びやかなものを見てしまうと、それを欲することで余計なことを考えてしまうからだ。
だが、最も効果があるのは、目や耳自体は自由にしていても、意思を内に向けることだ。
そして、その最も易しい方法が「私は誰か?」と自分に問うことである。
「私は誰か?」と自分に問う者を、誰も傷付けることは出来ない。
なぜなら、「私は誰か?」と問えば、思考する主体である自我としての私がロックされ、思考を起こせなくなるからだ。
自我の思考を起こさない人は極めて貴く(いわゆる、良い意味で自分がない人)、誰も神に対するのと同様、ただひれ伏すしかないのである。








『老子』第48章を一言で言えば「絶対的に止まれ」

今回は『老子』第48章である。
この章を一言で言えば「絶対的に止まれ」である。

この章は短いが、恐ろしいことが書かれている。

徳川家康は、天下取りの秘訣は、「上を見るな」「身の程を知れ」だと言ったらしい。
そして、老子は、同じことの秘訣を「常に何もするな」だと言った。
「何もするな」ではない。
「常に何もするな」である。
いつも何かするのは、身の程を知らないからである。
つまり、自分は有能だと己惚れている馬鹿が、いつも余計なことをするのだ。
たまにでも何かするのは、上を見るからである。
せっかく身を慎んでいても、弱いところを突かれると誘惑に負けて、つい上を見てしまい、身の程を知らずに動く。
だから、老子は「絶対的に止まれ」と言ったのである。

アメリカでは、銃で脅す時「フリーズ(凍れ=動くな)」と命じるらしい。
だが、銃を向けられても、自分には、それを跳ね返す機知(とっさの鋭い判断)があると己惚れて動けば撃たれて死ぬ。
だが、身体も心も止まっていれば、意思を働かせなくても、知らないうちに攻守逆転する。
さらに、絶対的に止まっている者に銃を向けた時点で、銃を向けた者は滅びる。

絶対的に止まる者には、それほどの力があり、無敵なのであるが、世の中の人は誰もそれを知らない。
だが、どうすれば絶対的に止まれるかなどと考えてはいけない。
そんなことが分かると思うことこそが、救い様のない己惚れである。
絶対的に止まるには、「私は誰か?」と自分に問えば良い。
問い続ければ、無為の世界に招待され、その世界の神秘なる住民となる。
そうなると、自分が動くのではなく、神に動かされ、神の技を為すのである。








『老子』第44章を一言で言えば「ほどほどに」

今回は『老子』第44章である。
この章を一言で言えば「ほどほどに」である。

実を言うと、「この章を一頃で言えば」なんて、どの章も同じになっても全く不思議はなく、もう何度か、同じものを使ったかもしれない。
それほど、『老子』の主張は一貫しており、しかも、とてもシンプルなのである。
だから、どれか1つの章がピンとくれば、後は全部分かるのだと思う。
ただ、同じことを、微妙に言葉を変えて言うのも、感じ方が変わって良いところがあると思うので、もう少し、あるいは、最後まで続けようと思う。
とにかく、『老子』は本来簡単である。
あなたが、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の支配下に置かれていなければね。

超実用的な哲学や行動原理が必要な時・・・たとえば、戦国時代や戦争中によく言われるのが、孔子や徳川家康が重要なことであると言った「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」や、「何事もほどほどに」ということである。
言い換えれば「極端はいけない」ということで、仏教ではそれを「中道を行く」と言うのである。
たとえば、コーヒーに砂糖を入れると美味しいと思ったとしても、入れてもせいぜい3個までで、10個も入れたら飲めたものではない。
あるいは、いくら酒が好きでも、意識不明になるまで飲むのは飲み過ぎである。
ところが、世の中には、限度を知らない者が多い・・・ではなく、「ほどほどに」が金言になるほど、やり過ぎてしまう者が多いのだ。
上司が失敗した部下を叱る時や、親がいたずらをして人に迷惑をかけた子供を怒るのだって、限度がある。
ところが、多くの者が、その限度を簡単に超えてしまい、弱い者を傷付け、駄目にしてしまうことが多い。
これらは、つまるところ、精神が未熟ということであるが、実のところは、悪の宇宙人のマインドコントロール装置のせいである。
我々は既に、数万年以上の修行をしているのに、生まれ変わるごとに記憶を消されてしまい、1から修行をしなくてはならない。
だが、人間は、たかだか数十年では、なかなか人格が高度になったりはしない。
しかし、地球上では、せいぜい数十年しか修行が出来ないのだ。
いわゆる人格者と言われる人達は、前世以前の記憶を、無意識にでも保持していて、過去生での修行の成果が現れているのである。
言い方を変えれば、自分が本当は何者であるかを少しでも思い出せば、ただちに人間性が向上し、自分にも周囲の人達にも好ましい存在になる。
それには、いつも言う通り、「私は誰か?」と自分に問うだけで良いのである。
ということは、「私は誰か?」と問うているのに、人格が幼稚であるのは、問い方が足りないのである。
1日10分も問うていないのではないかと思う。
というのは、1日10分も問うていれば、そこそこには向上するし、引き寄せの力もついているはずなのだからだ。
いわゆる発達障害というのは、悪の宇宙人のマインドコントロール装置の影響をモロに受けている者の特徴と思う。
しかし、全ては「私は誰か?」と問うことで解決すると思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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