愚痴を言ってはならない理由は、
「愚痴を言う者=成功しない者」
という公式が絶対的に成立するからだ。
愚痴とは、「(今となっては)言ってもしかたがない事を、言っては嘆くこと」という意味で、宮本武蔵が、「吾、ことにおいて後悔せず」と決めたのも、愚痴の破滅の力をよく知っていたからだろう。
誰も、時間を巻き戻すことは出来ず、過ぎたことを嘆いても何の意味もない。
たとえそれが、「取り返しがつかない間違い」というものだとしても、もう過ぎたことだ。
教訓にする以外、人間には何も出来ないのだから、ただ教訓にすれば良い。

全財産を賭けた博打で負けるのは、確かに、「取り返しがつかない」ことだ。
しかし、そうなる場合があることは、最初から分かっていたはずだ。
馬鹿な自分が悪いだけなのに、愚痴を言うと(後悔も含む)、さらに馬鹿になるだけなのだ。

ただ、博打と言えば、こんなこともある。
小説・アニメ『灼眼のシャナ』に、こんな話があった。
ヒロインのシャナが、強敵、天目一個(てんもくいっこ)と戦った時、彼女は、捨て身の攻撃で勝った。そうでもしなければ勝てないほど、天目一個は強かったからだ。
勝った後、シャナの師アラストールが、「無茶をするやつだ!」と言うと、シャナは、
「たまたま上手くいったというのは分かっている」
と言う。
その無茶をして勝つ確率は10%だったかもしれないが、やらなければ100%負けていた。
アラストールの「無茶をするやつだ!」という言葉は、叱責ではなく、称賛である。
シャナは死を覚悟していた。
だから、たとえ失敗して死んでも、決して後悔せず、まして、愚痴など言わずに死んだことだろう。
つまり、シャナも博打をしたが、どんな結果になろうと、後悔をしない博打だった。彼女は無我だった。
そんな博打は必ず勝つのである。
そういえば、美空ひばりさんの有名な歌『柔』は、「勝つと思うな 思えば負けよ」と歌うが、これも、シャナが見せたそんな武道の真理を、作詞者の関沢新一氏が明かしているのであると、『死活の書』の中で、五島勉氏が述べている。
『死活の書』は、最高の名著であると私は思っている。

生まれた家が悪かった、親の教育が悪かったというのも愚痴である。これを言う者は、絶対を百回言っても足りないほど、絶対成功しない。
愚痴や、あるいは、言っても仕方がない文句を言いたくなったら、代わりに「ありがたい」と言えば良いが、それに抵抗があるなら「神様の奇跡が起こる」と言えば良い。
愚痴の代わりに「ありがたい」、あるいは、「神様の奇跡が起こる」と言うのは、悪魔の代わりに天使が来るようなものである。
それなら、愚痴を言いたいような状況も悪いものではない。
失敗した時、教訓を得られると共に、悔恨の想いは、「ありがたい」とか「神様の奇跡が起こる」という魔法の呪文を呼ぶ恵みである。
そう思えば、失敗も悪いものではない。