日本独自の仏教の形に修験道(しゅげんどう)というものがある。
「修験道」とは、「修」、すなわち、「修行」して、「験」を得るのであるが、「験」とは「効験」である。「効験」は、現代的な意味では、「効果、効能」で、平たく言えば、「願望の成就」とか「お恵み」「霊験」、あるいは、「神通力(超能力)の獲得」みたいなものと言って良いと思う。
修験道の修行者を、修験者とか山伏と言う。もっぱら、山で修行することが多いのである。

修験道の開祖は、誉れ高き、役小角(えんのおづぬ。634~701)で、大変な神通力を備えていたと言われている。
役小角について、少しでも書き出すと量が半端でなくなるので、とにかく、凄い人とだけ言っておく。大変な神通力の使い手であったことは間違いないと思う。

修験道でも、重要な修行は、やはり真言である。
ところで、私が真言を唱えるようになったきっかけは、これも、あまりに多才で、肩書きを何と言えば良いか迷うので省略するが、中岡俊哉氏の著書を読んでであった。
それほど熱心ではなかったが、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えているうちに、あり得ない出来事が沢山起こり、良い想いばかりで安楽に人生を生きている。
ところが、この中岡氏が、役小角を大変に崇拝していて、ある意味、目標としていた。
その理由について、中岡氏は、小さい頃から、お経や真言を聞く環境にあったことが、大きく影響したのだろうと、著書で語っておられた。
やはり、真言が重要である。

我々が、修験道の厳しい修行をすることは出来ないが、修行の中でも特に重要なものである真言を唱えることは簡単に出来る。
この真言が極めて大きな効験をもたらすのである。
役小角は、大変な修行をし、膨大な経典を読み覚えていたので、多くの真言を唱えていたはずである。
だが、普通、修験道で使われる真言は、ほぼ般若心経であるらしい。
般若心経全体を唱える場合もあろうが、我々の場合、最後の呪文を唱えると良いと思う。
なぜなら、般若心経の中で、この呪文こそ、最高最上の呪文であると説かれているからだ。
呪文は、中国語の音写版では、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」
で、サンスクリット版では、
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」
だ。
私は主に、サンスクリット版の方を唱え、効験の方も十分である。
もちろん、中国語音写版の方でも、効験は全く同じである。

修験道で、もっぱら般若心経が使われる理由は、もちろん、これが優れているからだろうが、現実的には、今と違い、やはり、いろいろな真言の情報を得難いということもあったと思う。
それで言えば、どんな真言でも簡単に入手出来る我々は幸運である。
効果は凄いが秘密にされているといった真言などない。
もちろん、一般公開されない真言、呪文はあるだろうが、我々が知っている真言が、それに劣ることは決してないのである。
どの真言にも、上下、優劣はなく、自分が気に入った真言を唱えると良い。

役小角が66歳の時、計略にはめられ、朝廷から逮捕命令が出されたことがあった。
300人ほどの役人が役小角を捕らえに来たが、役小角は孔雀明王の真言を唱え、役人達は全く手出しが出来なかった。
孔雀明王の真言は、「おん、まゆらきらんてい、そわか」である。
孔雀明王は、元来はインドの女神マハーマーユーリーで、菩薩型の明王であり、観音様のように、衆生を助けてくれるとされている。

修験者の力に関しては、私もいろいろなものを読んだが、仙人や天狗と見まごうような力の持ち主もいたらしく、そもそもが、仙人、導師、天狗の中には修験者もいたのかもしれない。
我々も、好きな真言を唱えることで、その力の一端でも得れば良く、それにより、世の中を悠々と闊歩出来るようになると思う。