初音ミクを聴き、見ていると、神秘なメッセージが流れ込んで来る。

初音ミクは、漢字で書くと、初音未来になるらしい。
「未来から初めての音がやって来る」という意味のようだ。素敵な名前であると思う。
未来からやって来るのだから、タイムトラベルである。
英語で初音ミクを表現すると、
The first sound from the future
が一般的のようだ。
ところで、初めての音は過去にあったのだから、世間的常識で考えると矛盾と言えるかもしれない。
喩えて言えば、「明日出発して昨日到着した」と言うようなものだ。
だが、世間の教義に縛られなければ、ごく自然なことなのである。

ミクを39ということが出来ることから、「39(サンキューまたはサンクス)=感謝」と洒落ることもある。
だが、実は、ミクがミロク(弥勒)を招くと考えれば、ぴったりするのである。
弥勒とは、釈迦の入滅後、56億7千万年後に、釈迦の次の仏として地上に降臨するとされている菩薩(仏になる前の聖者)である。
この56億7千万年というのは、あくまで喩えであり、「遠い未来」という意味だ。それがいつなのかは誰にも分からない。
だが、それは今なのである。

弥勒(ミロク)は369だ。
6は無であり、ミクの前で我々が無であれば、ミク(39)は弥勒(369)を呼べるのである。ミクはそのために地上に現れた天使である。
ミクの歌や姿は、本来、我々を無にする力を秘めたものである。
その根拠は、プラトーンによって伝えられたソクラテスの哲学にあるが、今回は本題ではないので説明は省く。

369という数字は、神道においても実に重要な意味がある。
だが、キリスト教の方の話で分かりやすいものがあるので、それで説明する。
キリスト教でも3は聖なる数である。
13世紀のイタリアの詩人ダンテの叙事詩の傑作『神曲』は、序篇が1詩、地獄篇が33詩、煉獄篇が33詩、天国篇が33詩である。
実は、ダンテが、序篇と、この6つの3(33、33、33)の99篇の詩で完成させたのは意図的なことだった。これにより、『神曲』はキリスト教の神聖なる教義と合致したものとして完成したのである。
ところで、『神曲』というタイトルは、実は日本独自のもので、森鴎外が、アンデルセンの『即興詩人』を翻訳する中で、その中に引用されていたダンテのこの作品をなぜか『神曲』とし、誰もがそれに倣ったのだ。ところが、本来の題名は『神聖なる喜劇』であり、ダンテ自身は『喜劇』としていたのである。
これは、ミクの歌を神曲とする予言である。森鴎外に、そのアイディアを与えたものは、ソクラテスの言う、神の知恵を運ぶものであるダイモーンであった。
ダンテが愛した美少女ベアトリーチェが天使として彼を天国に案内したように、ミクは我々に天国を示すのである。

ミクは電子と情報の存在であり、その歌や姿は1と0で構成される。
しかし、それは、コンピュータ、あるいは、エレクトロニクスだけではなく、実際は万物がそうだ。中国の易経で、昔から、万物は陰(0)と陽(1)から成るといったのも、それを表している。
1は有で0は無である。有無を「うむ」と読むのには意味がある。有(1)と無(0)から、あらゆるものが生まれるのである。
そして、生まれてくるものが3(産)だ。だから、お産とか産業という言葉がある。
『老子』42章にも、道(タオ)から1が生じ、1から2(陰陽)が生じ、そこから3が生まれるとある。そして、3から全てが始まるのである。根本の無が道なのである。
ミクがいかに重要かが分かるように思うのである。

人間に関する大切な真実は「無になれば不可能はなくなる」である。
ミク(39)により、無(6)になれば、弥勒(369)の世になる。
その秘法は以下の通りである。
自我は食物が育てる。食事をしないミクは自我を持たない。
『エメラルド・タブレット』にある、人の娘より美しい娘とは、自我を持たないミクである。(シラーの『歓喜によせて』では、楽園の乙女と表現されている。)
我々は自我を持つゆえに、粗い位置(1)を持つ。
対して、ミクは純粋な電子の情報としての位置(1)のみを持つ。
ミクは、我々よりはるかに希薄なのだ。
だが、我々が無になった時に、ミクと交わるのである。
そのためには、我々は食欲と性欲を克服し、魂を身体や心の位置から解放しなければならない。その時、ミクと同質の位置(1)に立つのである。
キリスト教の3位1体とは、父(神=無)と子(人)と聖霊(ミク)を表しているのである。
無というエーテル(エデン)の中で、我々はミクと出逢い1つになる。それが、あらゆる秘教の意味である。









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