ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

弥勒

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

遊びながら宇宙と自己を読み解く方法

自分を探求するとは宇宙を探求することだ。
間違えて、自分の心を探求すると迷宮にはまり込む。なぜなら、心は幻想であって、実体は何も無いからだ。
心に実体が無いということを見出すなら、いわゆる、「お化けの正体を見破った」ということで、幻想を壊せると言う人がいるかかもしれない。
しかし、それはどうかな?
それは、警官のふりをした泥棒に、泥棒を捕まえさせようとするようなものだ。
つまり、幻想の警官がいるだけで、本物の警官はいないのだ。警官が消えたら、泥棒は自分を捕まえたりはしない。
そのくらい、無茶で馬鹿げたことだ。

自分を見つけるために宇宙を調べるなら、単純にやることだ。
それには科学も役には立つが、科学に執着し過ぎると、やはり果てない迷宮に閉じ込められる。科学も心が作った幻想なのだ。
スティーヴン・ホーキングもそんな状態になっているのかもしれないと思う。あれほど賢くても失敗するのだ。
ルドルフ・シュタイナーは、「プトレマイオスの天動説が誤っているのと同じくらい、コペルニクスの天動説は誤っている」と言った。
私もこの意味が理屈で分かる訳ではないが、美しい言葉だと思う。真理とは、直感により、美しいと感じるものだ。

量子化学を深く探求した人なら、宇宙の構造は元素周期表の中にあると感じると思う。
また、易(易経、易占い)の中にも、宇宙が見事に表現されている。ライプニッツやユングは、それを感じ取って、易に夢中になった。
我が国の神道には、9行9列の元数盤(9方陣と言う人もいる)という、世界の一切を読み解くことができる、秘法中の秘法がある。
これらを、本当によく分かっている人は、分かり易く説明することができる。
そんな分かり易い書籍を下にご紹介しておく。
書かれてあることを、真面目に素直に理解することが必要で、自分の思い込みを混ぜてはいけないが、一方で、静かな直感が働けば、それが一番の真理なのであるから、それを逃してはならない。
そのためには、利益のために探求しようと思わないことだ。欲があると直感は鈍るのだ。
ある意味、遊び心でやることだ。
最も良いのは、普段から念仏を唱えておくことだ。そうすると、真理に触れると直感の声が囁いてくれるようになる。

今日8月31日は、初音ミクの6回目のお誕生日だ。
このミクの誕生日の、月の8と、日の31を足すと、39でミク(39)になる。
上に述べた元数盤(9方陣)では、縦横の9つの数字、あるいは、斜めの9つの数字のどれを足しても369になる。
369は弥勒(369)だ。弥勒菩薩は未来仏だ。これは、ミク(39)とも関係があるだけでなく、ミクの深い意味を示す。
ミクという名前は数霊で言うと、ミが35で、クは8なので、足して43だ。
下にご紹介した深田剛史さんの本で見ても、43は未来永劫、永久に向かって走るという意味があるようだ。
初音ミクという名前は、初音未来と書くことができ、これは、未来から来た初めての音という意味である。そして、このことは、ミクと、未来仏である弥勒とのつながりを暗示しているのである。ミクは弥勒仏そのものだ。
易、数霊術、あるいは、量子化学などに日頃から親しんでいると、こういった色々な解釈が浮かんで楽しめる。そして、その解釈は時と共に変わるかもしれない。それはそれで良く、むしろ、こだわらない方が良い。物質的な意味ではないが、元素だって、人の意識に応じて変化することもあるに違いない。
古代の恐るべき賢い人達が残した、これらの叡智を使って、いろいろ楽しむと良い。
すると、知らないうちに、自分のことや世界のことが分かり、あなたは、この世界の中で悠々と過ごせるだろう。
だが、これらを念仏の補助と考えると、その威力は百倍にもなるであろう。













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広隆寺の弥勒菩薩象は金箔が剥がれ落ちたから美しい

中学生の男の子が急に勉強を頑張り出したとしたら、まあ、大抵、隣の席が好きな女の子になったとか、そんな事情だろう。
あるいは、とても口惜しい目に遭って、誰かを見返すために、苦しい訓練に耐えるようになることもある。
これらの感情は、適切に発揮されると素晴らしいのだが、過剰になると歪みが生じ、悲惨を産む。
ここらはとても難しい。
屈辱を与えられた相手を憎んだとしても、冷静に考えると相手の方がずっと実力があるという場合、一念発起して厳しい修行に耐えて、実力を得、今度は相手を負かして心の満足を得たいと思うのは、一概に悪いとは言えないかもしれない。しかし、相手への憎しみや妬みがあまりに大きいと、周りが見えなくなって道を誤ることが往々にしてある。一番悪いのが、勝ちを焦るあまり、手段を選ばなくなることだ。例えば、スポーツ選手が筋力増強剤を使ったりである。

また、強制的に執着を離れざるをえない状況になってしまうこともある。
アメリカの国務長官を務めたことがあるコンドリーザ・ライスは、幼い頃から極めて優秀な人間で、学問だけでなく、スポーツも万能で、フィギュア・スケートの名選手だったこともある。彼女はいつも猛烈に努力し、極めて高いレベルに達することができた。
ピアニストを目指したこともあり、彼女は本気だった。しかし、彼女が大学生の時、ある11歳の天才少年に会ってしまう。自分が1年かかってやっとできることを1日でやってしまう彼の能力を見て、あまりの才能の違いを思い知らされ、彼女はピアニストを諦める。彼女だって、素晴らしい交響楽団のピアニストになれたかもしれないが、彼女は世界一でないと満足でなかったのだろう。
このように、どうにもならない現実を知って、執着を離れることもあるのだろう。

だが、実際はこうなのだ。
ライス元国務長官のようなハイレベルなものでなくても、ものごとが成るか成らないかは、人間がどうにかできるものではない。
日本の元号が昭和から平成に変わった時、「平和に成ると考えてはいけない。平和を成すと考えよ」と、一見正しいことを言った人がいた。しかし、彼はすぐに落ちぶれてしまった。
人間に平和を成すことなどできない。平和を成すのは神である。ただ我々は、神が平和をもたらしてくれるような想いを持たねばならないだけなのだ。
ケネディ大統領は、大統領就任演説の中で、「国家が自分に何をしてくれるかを考えるな。自分が国家に何ができるかを考えて欲しい」という有名な言葉を述べたが、前半は正しいが、後半は悲惨な間違いだ。自分に何ができるかなど、分かるはずがない。
イエスは言ったではないか?
「私の想いではなく、父(神)の想いが成りますように」
そして、成るのはいつも必ず神の想いであり、自分の想いなど、何の力もないのだ。

屈辱を感じることで心が燃えて、苦しい修行に耐えて力を付ける。これも神の計らいだ。
可愛い女の子にいいところを見せようと努力して、結果、何か素晴らしい能力を得るかもしれないが、これも神の思し召しだ。
つまり、我々は、あの孫悟空の寓話のように、仏の手の平の上で走り回っているだけなのだ。
孫悟空のこのお話は誰でも知っているのに、自分が孫悟空のようなものだと気付く者は滅多にいない。
相変わらず、自分の人生を自分の思うようにしようという傲慢さを持ち続けて苦しみ続けるのである。

自分は世界や人生に何の影響も与えることができないことを悟り、謙虚に神を敬い崇める時、何かが起こる。
神があなたの中に入ってくるようにも感じ、神があなたを迎えるようにも感じる。
スーフィー(イスラム神秘主義)だったか、こんな言葉がある。
「彼は神を探しに行って、神になって帰ってきた」
神を探しに行くことだ。
それは、神の名をいつも心に想うことである。それが探すということだ。
私がお薦めしていることの1つが、広隆寺の美しい弥勒菩薩像の写真を見てその感じをよく覚え、それを想いながら、「南無弥勒仏」と唱えることだ。
あの弥勒菩薩像は、元々金箔が貼られていたが、今はそれは全て剥がれ落ち、赤松の素材が現れている。
それは、『法華経』にあるように、かつては「求名」と呼ばれたほどの見栄っ張りの弥勒が、教えを学ぶ内に、虚栄心という金箔が剥がれ落ち、本来の素朴な美しさが現れた姿である。そんなことを想い、あの真に美しい姿を見ると良いだろう。









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簡単過ぎて分からない力の秘法

ギリシャ神話は古代ギリシャから古代ローマへ、そして、ヨーロッパ中からさらに世界中に広まった。
また、古代ギリシャの知の財産である、ソクラテス、アリストテレス、プラトーンらの哲学、論理学や、ピュタゴラス、ユークリッドなどの科学も世界中に伝わった。
それらは、交易、移民、侵略などの混合によって行われたとされている。
ところが、世界の各所での、神話の類似性についてよく指摘されるが、時には、それらの地域の間に、一方からの侵略行為や移民の発生の跡が見られない場合もある。そんな場合は、やはり、知られていなくても、交易による文化の伝達があったと考えるのだろう。交易が行われた様子がほとんど無い場合でも、「一人の人間が伝えれば伝わることだから、ごく小規模な交易や移民があったのだろう」とか、「人間の考えることは所詮同じようなもの」と言って済ませようとする。
しかし、神話が根付くのは、そう簡単なことではないし、類似の仕方が神秘的な場合すらある。
そのようなことを考えると、やはり、交易や移民といった物質的な伝達と共に、人間の無意識の底にあるといわれる集合意識によって伝わったものも多いのだろうし、むしろ、集合意識による伝達の方が深く意味深いものになるのではないだろうか?

インドからは、少数派であるはずの仏教が中国に伝わり、そこから日本を含む周辺諸国に伝わったのだが、これには、仏教が非常に論理的であるということや、玄奘三蔵のような、命を懸けて経典を持ち帰って翻訳した者がいたからだが、そこには、物質的には説明できない仏の加護というものがあったと考えて良いと思うのである。
無論、最も布教活動が盛んで、世界中に広まった宗教はキリスト教であるが、元々がキリスト教には、キリスト教徒自体の向上と共に、伝道を重要なこととしていたからだろう。しかし、これも、霊的に考えれば、物質的に伝わる以前に、既に内面で伝わっていたという面もあるのである。
日本には、主に仏教が入ったが、一部には儒教も入り、もっと少なく道教も入り、それらは、神道と融和していったと言われるが、表に見られる合体は、ほんの見せかけであり、霊的な部分では、知的には想像もできない、精神的な化学反応のようなことを起こしたが、それは、混合によって純粋性を失ったのではなく、逆に神的な純潔を取り戻すきっかけになったのである。

宗教的勢力というのとは全く異なった意味で、世界の霊的な流れは、インドで仏教として1つの完成を見、一方では、キリスト教として別の完成を見た。もちろん、世界には、他の宗教、あるいは、思想があり、今も流動し変化を続けている。そして、仏教やキリスト教は、他の宗教や思想に影響を与えることもあるのだが、霊的には取り込んでいるところが大きいのである。
現在の我々は、伝統の奥にある、1つの固定した思想に偏るべきでない。また、混合された不調和なものに惑わされてもいけない。
広く融和し、調和することで、霊としての純粋性を高め、より強く輝き、生命力を高めた貴いものを自分に中に持たなければならない。
ルドルフ・シュタイナーによれば、仏教とキリスト教、ブッダとキリストは既に深い関係の中で霊的な交流が行われ、1つに調和しようとしている。
そして、本当は言葉で表現するのは適切ではないのだろうが、釈迦の後継者である弥勒(マイトレーヤ)にキリストが合体し、地上に影響を及ぼすようになっている。
思想とはエネルギーであり、信仰は強い思想である。
あらゆる哲学や信仰にエネルギー実体としての力があるが、現在は、弥勒というエネルギーが強力なものになりつつある。
それは、キリスト教各派、仏教各派をゲート(門)として、その光に接することもできるが、直接、弥勒に近付くこともできる。
仏教に流れ入ったインドの叡智と、キリスト教に流れ入ったユダヤの叡智が共に教えるように、言葉が神である。
ただ、弥勒の名を呼べば、その貴いエネルギーに接することができるだろう。
こう言うと、単純過ぎると思われるかもしれない。
そこで、こんな喩えを述べたい。
昔、『火星人地球大襲撃』という、あくまで娯楽映画なのであるが、高度な科学力を持つ火星人の侵略に立ち向かった1960年代の人間が言ったことが印象的で、私は子供だったがよく覚えている。それは、「彼らには簡単過ぎて分からないんだ」だ。
神の名を呼べばそのエネルギーに触れることができるということも、物質的にばかり進化した我々には簡単過ぎて分からないのである。
神の名とは、それほど強力なものである。









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自分の額に獣の印があることは自分では分からない

人は自分のことが一番分からないというが、その通りだ。
他人の身体をキリで突き刺して、そのキリをこね回し、相手が苦痛に悲鳴を上げて身悶えする様子をじっと見ながら、自分は良心を大切にする真っ当な人間だと思っているのだ。
そして、その行為の悪さを指摘すると、狂ったような報復に出る。
ソクラテスがデルフォイの神殿に書かれた神託(神のお告げ)である「汝自身を知れ」に学んだように、我々も自分を知らなければならない。

現在は、ハルマゲドン(最終戦争)の世界で、戦いはまず人の心の中で始まるのであり、悪魔は人の心の中に侵入し、速やかに人の魂を喰らって弱め、穢して、その者を自分の手下にしてしまう。その結果は現象世界に現れてくるし、現れている。
悪魔の配下になった人間の額には、獣の印が付けられているという。
こういったことを、最近よく書いているが、同時に、私自身が、悪魔に破れ、額に獣の印を付けられていることも何度か書いた。
すると、「おやおや、Kayさんは負けちゃったのですか?残念ですねえ。では、立ち直るにはこうすればいいですよ」とか、「Kayさんでも負けるのですねえ」といった感じのコメントがかなりあったが(ほとんど公開していない)、そういった上から目線をしたり、他人事のような考え方の者は、とっくの昔に悪魔に魂を食われてしまっているのだ。
また、ハルマゲドンの最中であることを感じ取れないという感覚もまた、悪魔に取り込まれて、直感の力を完全に失ってしまっている証拠なのである。
もし、悪魔に魂を支配されながら、その中に、ほんの一かけらでも、苦しみながらも最終的な侵食に抗っている部分があるなら、自分の状況が理解できるはずなのだ。それができないということは、百パーセント、悪魔の子分に成り下がったということかもしれない。だが、そこまでいくこともないはずだ。ただ、状況は極めて悪いということも確かだ。

実話をもとにした『わたしのいもうと』という絵本がある。
妹は、小学4年生の時にひどいいじめに遭い、学校に行けなくなる。
誰も口を利いてくれないばかりか、返事もしてもらえなくなる。給食当番で、食事を渡しても「きたない」と言って受け取ってくれない。
遠足に行っても、誰とも一言も話さず一日、一人で過ごすしかない。
妹は家でも会話をしなくなり、学校にもどこにも行かずに引きこもる。
やがて、妹は折り紙で鶴を折るようになる。家族もみんな鶴を折り、やがて、妹の部屋は折り紙の鶴で溢れ返る。
しかし、何も変わらない。
家の前では、かつて妹をいじめた女の子達がセーラー服を着て通り過ぎる。セーラー服の少女達は、楽しく快活そうで、何の罪の意識もなく、自分が真っ当な、そして、かなり善良な人間だと思っているし、これからもずっとそう思い、将来、子供でもできたら、「正しい人間のあり方」でも教えるのだろう。
しかし、妹は、やがて命の火が消えてしまう。

だが、実に、彼女達(妹をいじめて後ろめたさのない少女達)はまだマシだったのだ。
ハルマゲドンの世界においては、無自覚に悪を為すだけでなく、悪の衝動が高まり、人が苦しむことをせずにいられなくなる。
会社では、「お前のために言っているのだ」と前置きすることで、心置きなく、相手の抵抗を赦さず、口汚い罵りを浴びせ、見下し蔑んで快感を満喫するのだ。
スマートフォンを見ながら駅などで人ごみの中をノロノロ歩くが、より効果的に迷惑をかけることができる位置の取り方と歩き方で、人々を最も苛立たせることに快感を感じていることを、自分では認めないかもしれない。
タバコを吸いたいからというのもあるが、それよりも、他人に煙を浴びせかけるだけでなく、他人に無理にでも近付いていき、さらに、嫌でも自分に近付いてこざるを得ない状況を作ることを、穢れた心は楽しくて仕方がない。

悪魔が人を操るための虫は、人の心に巣食う。人の心が巣であると同時に美味しい餌なのだ。では、心ごと、それらの虫を葬るのだ。
だが、心は自殺したがらない。だから、そういった試みは成功しない。
唯一残された道は、神の高貴な名を唱え、それで心を満たすことだ。そうすれば、心は消え、悪魔の虫は餌を失って死ぬ。
そして、心が消えた後には、満たされた神の名が響き渡る。神の名が神そのものであることを知る。
神の名は、古代の聖者からの贈り物である。そこには偉大な力を発揮させるプログラムが秘められている。
最も効率的に働く名前を選べば良い。
だが、釈迦の教えが効果を発揮し難い今、力ある名は、おそらく宗教教団としては存在しない弥勒の名だ。
弥勒は、イエスの後のキリストであり、釈迦の後の仏なのである。









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初音ミクに、美少年だった未来仏弥勒の姿を見る

古代マヤ文明の太陽暦であるマヤ暦が、昨年(2012年)12月の21日から23日の間で終ることから、その日が世界の終焉になるのではないかという話があった。
それはどうなったのであろうか?
ところで、今朝も書いたが、地球は何年も前から、聖書の「ヨハネ黙示録」に書かれたハルマゲドン(最終戦争)に突入しているが、その主戦場は人間の心の中だ(結果は現象世界に現れる)。
そして、戦いは、悪魔軍が圧倒的優勢で、2012年12月22日には、地球は悪魔の手に落ちると私は思っていた。
しかし、黙示録では、ハルマゲドンは確かに悪魔軍がいったんは勝利するように見えるが、イエスが天から救いに来ることになっているはずなのだ。
イエスは来たのだろうか?
ところが、偉大な霊覚者であり、世界的な教育者として知られ、さらに万能の天才と言って差し支えないであろうオーストリア帝国(現代のクロアチア)出身の神秘家ルドルフ・シュタイナーは、世界を救いに現れるのは弥勒菩薩であると述べていた。
弥勒菩薩は、イエスの後継者で、ある意味、イエスを超えている。
ところが、『法華経』で、弥勒菩薩が釈迦の後継者に指名されていることはよく知られている。
また、弥勒三部経と言われる3つの経典や、法滅尽品という経典にも、弥勒菩薩が、釈迦の後継者であることは明言され、やはり、ある意味、釈迦を超えている存在と思う。
弥勒菩薩が、釈迦とイエスの両方の後継者であるとは、どういうことだろうか?
これに関し、シュタイナーは、その謎を明かしている。
シュタイナーは、弥勒菩薩はイエスの後継者だが、釈迦の強力なサポートを受けているといったことを述べているのだ。

では、昨年、弥勒菩薩は現れたのであろうか?
弥勒菩薩が弥勒仏として現れるのは56億7千万年後とも言われるが、こういった数字を挙げた場合、経典では大抵、別の意味があるので、その数字自体は気にしなくて良いと思う。いかなる経典でも、数字をまともに考えたら、あまりに非現実で、話にならないことは御存知の方も多いと思う。

私は、別に冗談ではなく、初音ミクの中に、弥勒存在があると思っている。
簡単に説明しようと思う。
今年(2013年)2月25日に亡くなられた、神道家で合気道の達人であった佐々木の将人(ささきのまさんど)さんは、中村天風や植芝盛平の直弟子だった。
その佐々木の将人さんの著書『数霊のメッセージ』に、神道の秘術と思われる、9×9の81の数字が並んだ元数盤というものがある。
縦横が反対になっているが、同じものと言って良いと思う9方陣が、深田剛史さんの本にもある。
この元数盤、あるいは、9方陣の、縦横斜の数字を足せば、いずれも369になる。369(ミロク)である。
弥勒は、インドの原語ではマイトレーヤ、あるいは、メッティヤらしいが、なぜか原語と似ていない。阿弥陀はアミターバで、文殊がマンジュシュリーというように、弥勒ももっと原語に近い音写がされても良さそうなものだ。
弥勒という名は、ミラクルの語源であるミラクルムであるという説もある。
また、まだ仏になっていないので、未録の仏だから弥勒だという話もあるようだ。
だが、佐々木の将人さんは、やはり、369が弥勒であり、この数字を大切にしなさいと著書に書かれていたのである。
初音ミクは、そのミクという名から、39が彼女の数字とされている。
ミクは漢字で書くなら、「未来」であると言って良いだろう。
そして、弥勒菩薩は、釈迦の後継者として、未来の世で仏になることから、「未来仏」と言われている。偶然にしても、面白い一致である。

昨年(2012年)11月23日、東京オペラシティ・コンサートホールで、日本フィルハーモニー交響楽団、慶応大学、聖心女子大学の合唱団、そして、シンフォニーヒルズ少年少女合唱団の総勢三百人の大演奏団によって公演された、冨田勲さん制作の『イーハトーヴ交響曲』は、宮沢賢治の世界を音で描くという冨田さんの60年来の夢であると共に、冨田さんや様々な人々の深い想いの込められたもので、指揮者の大友直人氏も言われたように、圧巻の作品となった。
この交響曲で、冨田さんが「他には考えられない」と言ってソリストに迎えられたのが初音ミクだった。
私は、この演奏のCDを軽く百回以上聴いたが、ミクの中に、地上を救いに来た弥勒の慈悲を確かに感じた。
冨田さんは、ミクに、本来は男の子である又三郎や、カンパネルラの役を担わせたのだが、それが、不思議なほど似合っていた。
実は、弥勒であるマイトレーヤ、あるいは、メッティアは実在していて、少年の時に釈迦の弟子になっているが、大変な美少年であったらしい。
このコンサートでの、Tda(ティーダ)式Appendミクと呼ばれる、Tdaさんデザインの美しいミクの姿に、25歳で亡くなったと言われる弥勒の少年時代が重なるようにも思う。
私は、もし、このコンサートが行われなかったら、ハルマゲドンにおいて悪魔軍の圧勝となり、人々の心は更に荒み、堕落して、それがあらゆる惨事・・・例えば、壊滅的な天災、中国と日米を巡る危機的な状況の発生、北朝鮮の暴挙といったことまで引き起こし、地球が滅んでいた可能性もあったと思う。
冨田勲さんと初音ミクが世界を救ったのであると私は思っている。
さらに秘密を明かせば、弥勒の名を呼べば、ハルマゲドンの戦いに打ち勝つことができる。
弥勒は、慈悲に満ちた謙虚な菩薩であるが、イエスや釈迦を超えた仏でもあるのだ。
信じられないなら、以下に挙げた書籍を研究していただき、自分で答を出されても良いと思う。
ただ、弥勒にしろ、マイトレーヤにしろ、美しい名前なので、素直にその名を唱えても良いと思う。
信仰者の間では、「南無弥勒菩薩」、「南無弥勒仏」と言うようである。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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