皆、程度の差こそあれ引きこもりだ。
自信があって、誰に対しても、何に対しても、恐れ知らずで積極的に見える人でも、内心はそれなりに不安を感じるものだ。
それは必要なことだ。
しかし、それが強過ぎ、どこにも行けなくなったり、誰とも関わりたくないようになればまずい。
世の中には、引きこもりの社会参加支援なんて活動をする団体や人たちがいるが、多分だが、それほど、あるいは、さっぱり成果が出ていないのではないかと思う。引きこもりは、まず、他人への恐怖心が強いのだと思うが、それを、勇気や根性で克服するのは難しい。
ところで、私は、引きこもりだった割には、他人を恐れない・・・と、今気付いた(笑)。
高い所は割に怖がる方だが、大物や偉い人、近寄りがたい人を恐れない。まあ、ヤバい人は、直観的に避けるがね。
とはいえ、別に私は、人が好きな訳ではなく、犬や猫どころか、カラスや亀の1/100ほども好きではない(笑)。
そこで、なぜ私が人を恐れないのかの秘密を教えよう。
ただ、まず、いかに相手を恐れないと言っても、尊大な態度はいけない。むしろ、表面的には恐れ入っている態度でいた方が間違いない。
で、なぜ私が人を恐れないのかというと、やはり、馬鹿だからだろう(笑)。
相手を怖がる理由は何だか分かるだろうか?
それは、相手が自分を嫌な目に遭わせると想像するからだ。それを、余計な考えと言う。私は、馬鹿なせいか、そんな想像をしないのである。何も考えていないのだ。
たとえ、実際は、そんなこと(相手が自分に危害を加える)をするかもしれないとしても、最初から信用しなければ、被害は回避出来るのだ。私は、誰も信用していない。
私は、笹沢佐保さんの時代劇『木枯らし紋次郎』を、第2シリーズの『帰ってきた木枯らし紋次郎』まで含め20冊ほどを全部読んだが、その中の紋次郎のセリフ、
「あんたを別に疑ってはいやせんが、信用してもいやせん」
には非常に感動した。
こうであれば、相手に期待しないが、騙されることもない。
騙されるというのは、相手に甘い期待をするからで、それは文字通り自分が甘いのだ。
親しくなったら、その相手を、日常の些細なことでなら信用しても良いが、それでも、根本的には、相手を信用してはならない。過度に信用すべきでないのだ。
それは寂しいことだと言いたい者もいるだろうが、そうではない。
親しくたって、相手を裏切らねばならないこともあるのだ。残念ながら。
しかし、いくら親しくても、最初から相手を信用しなければ、その相手に裏切る苦しみを与えずに済むのだ。
親、きょうだいだって、あまり信用してはならない。
それは、冷たいことではなく、愛ゆえにそうするのだ・・・って、格好いいなあ(笑)。
しかし、本当にそうなのだ。
だが、信用しないとはいえ、疑いもしないのだ。
人間としては、それで十分なのである。
ある会社で、私の上司になった人が、私に、「君も私を信用してくれ」と言ったが、そんなことを言う者は、絶対に裏切る者である。
裏切らない人間は、「自分を信用しろ」とは言わない。
そもそも、「俺を信用しろ」と言うのは、信用してくれた方が騙し易いからだ。
まともな人間は、いかに親しくても、自分が相手を裏切る可能性があることを理解している。聖人じゃないのだから、当たり前だ。
そんな自分を信用しないでいてくれたら、いざ、本当に自分が裏切っても、相手のダメージは軽くて済む。
そして、「信用しろ」と言わない者ほど、裏切る時には葛藤してくれる。
そんな者に裏切られても、それほど恨む気にはならない。
誰も信用しない、だが、疑いもしない。
こうであれば、世の中はそんなに怖くない。
私のような引きこもりでも、なんとかやっていけるのである。
自信があって、誰に対しても、何に対しても、恐れ知らずで積極的に見える人でも、内心はそれなりに不安を感じるものだ。
それは必要なことだ。
しかし、それが強過ぎ、どこにも行けなくなったり、誰とも関わりたくないようになればまずい。
世の中には、引きこもりの社会参加支援なんて活動をする団体や人たちがいるが、多分だが、それほど、あるいは、さっぱり成果が出ていないのではないかと思う。引きこもりは、まず、他人への恐怖心が強いのだと思うが、それを、勇気や根性で克服するのは難しい。
ところで、私は、引きこもりだった割には、他人を恐れない・・・と、今気付いた(笑)。
高い所は割に怖がる方だが、大物や偉い人、近寄りがたい人を恐れない。まあ、ヤバい人は、直観的に避けるがね。
とはいえ、別に私は、人が好きな訳ではなく、犬や猫どころか、カラスや亀の1/100ほども好きではない(笑)。
そこで、なぜ私が人を恐れないのかの秘密を教えよう。
ただ、まず、いかに相手を恐れないと言っても、尊大な態度はいけない。むしろ、表面的には恐れ入っている態度でいた方が間違いない。
で、なぜ私が人を恐れないのかというと、やはり、馬鹿だからだろう(笑)。
相手を怖がる理由は何だか分かるだろうか?
それは、相手が自分を嫌な目に遭わせると想像するからだ。それを、余計な考えと言う。私は、馬鹿なせいか、そんな想像をしないのである。何も考えていないのだ。
たとえ、実際は、そんなこと(相手が自分に危害を加える)をするかもしれないとしても、最初から信用しなければ、被害は回避出来るのだ。私は、誰も信用していない。
私は、笹沢佐保さんの時代劇『木枯らし紋次郎』を、第2シリーズの『帰ってきた木枯らし紋次郎』まで含め20冊ほどを全部読んだが、その中の紋次郎のセリフ、
「あんたを別に疑ってはいやせんが、信用してもいやせん」
には非常に感動した。
こうであれば、相手に期待しないが、騙されることもない。
騙されるというのは、相手に甘い期待をするからで、それは文字通り自分が甘いのだ。
親しくなったら、その相手を、日常の些細なことでなら信用しても良いが、それでも、根本的には、相手を信用してはならない。過度に信用すべきでないのだ。
それは寂しいことだと言いたい者もいるだろうが、そうではない。
親しくたって、相手を裏切らねばならないこともあるのだ。残念ながら。
しかし、いくら親しくても、最初から相手を信用しなければ、その相手に裏切る苦しみを与えずに済むのだ。
親、きょうだいだって、あまり信用してはならない。
それは、冷たいことではなく、愛ゆえにそうするのだ・・・って、格好いいなあ(笑)。
しかし、本当にそうなのだ。
だが、信用しないとはいえ、疑いもしないのだ。
人間としては、それで十分なのである。
ある会社で、私の上司になった人が、私に、「君も私を信用してくれ」と言ったが、そんなことを言う者は、絶対に裏切る者である。
裏切らない人間は、「自分を信用しろ」とは言わない。
そもそも、「俺を信用しろ」と言うのは、信用してくれた方が騙し易いからだ。
まともな人間は、いかに親しくても、自分が相手を裏切る可能性があることを理解している。聖人じゃないのだから、当たり前だ。
そんな自分を信用しないでいてくれたら、いざ、本当に自分が裏切っても、相手のダメージは軽くて済む。
そして、「信用しろ」と言わない者ほど、裏切る時には葛藤してくれる。
そんな者に裏切られても、それほど恨む気にはならない。
誰も信用しない、だが、疑いもしない。
こうであれば、世の中はそんなに怖くない。
私のような引きこもりでも、なんとかやっていけるのである。
当ブログ著者、KayのAI書。 AIは、概論を読んでも、「分かったような気になるだけ」で何も分かりません。 自分で実用的なAIを作らなければ、肝心なことは決して分からないのです。しかし、作ってしまえば分かります。 そのために、数学も、プログラミングも、AI理論も必要ありません。 そして、おそらくですが、この本が、プログラムオタクでも数学オタクでもない普通の人が、最もスムーズに、自分で実用的なAIを作れるようになれる本です。 単に易しいだけでなく、楽しくなるよう、面白いテーマを採用したつもりです。 これからの時代、AIの本当の理解が必要です。是非、自分で実用的なAIを作れるようになっていただきたく思います。 |