ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

庭野日敬

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

必ず救われる観音様モデル

問題や悩みが消えない、願いが叶わないといったことで苦しんでいるなら、それを解決し、幸福になるための1つのシンプルなモデルがある。
それは、観世音菩薩に頼る方法である。
では、懸念は、観世音菩薩を信じるかどうかであるが、それはどちらでも構わない。
むしろ、世間の観世音菩薩への信仰はない方が良いかもしれないほどである。

どうやるかと、簡明に述べると、以下のようになる。
まず、『法華経』の第25章『観音経(観世音菩薩普門品第二十五)』を読む。
私は、十種類くらいの『法華経』を読んだが、『観音経』に関しては、庭野日敬氏の『現代語の法華経』が良いと思う。
とはいえ、基本、どれでも構わない。
ただ、全体としては優れている角川ソフィア文庫の『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』は、観世音菩薩という呼称を使っていない。それは、今回述べるのとは別モデルとしては良いが、今回のモデルには合わないように思う。

この『観音経』を読んで、観世音菩薩の力を認識する。
ただし、そこに書かれたお話は、漫画のようだと感じるかもしれない。
たとえば、観世音菩薩に救いを求めれば、あなたに切りつけた剣が、たちどころにバラバラに折れてしまうとか、理由によらず、手枷・足枷をはめられても(つまり、悪いことをして刑罰を受けてか、悪者につかまってのいずれでも)、その手枷・足枷が壊れて逃げられるとか、高い山の上から突き落とされても、地上にふわりと落下して大丈夫といったお話が沢山出てくる。
もちろん、それらは比喩であり、そのあたり、庭野氏の『観音経』では本文内で、さりげなく示唆してくれている。
例えば、手枷・足枷をはめられるとは、自分の妄念や執着でがんじがらめになっている状態だが、観世音菩薩は、そんな囚われた心を壊して解放してくれるということである。
ただし、とりあえずは、言葉通りに受け取っても良いと思う。
なぜなら、観音様なら、その気になれば、そのくらいは出来そうだからである。
まあ、あなたを殺そうとするナイフを粉々にしないまでも、不思議な偶然が起こってナイフが刺さらなかったといったという程度のことは実際に起きている。
観音様も、出来るなら、さりげなく救いたいのだろうと思う。

観音様の力が分かったら、後は、『観音経』に書いてある通り、助けてもらうためには、観音様の名を読んだり、観音様を念じれば良い。
その方法は、次のいずれかの言葉を唱えるだけである。
「南無観世音菩薩」
「オン・アロリキャ・ソワカ」
いずれも、観世音菩薩の真言である。
別に両方でも構わないが、1つに決めた方がスムースと思う。
お金に困っていたら、「観音様、お金を下さい」と言葉で言ったり思ったりするのではなく、これらの真言を唱えていればお金も入るに決まっていると心の中で楽に思って、ひたすら真言を唱えるのである。
それであれば、心に葛藤が生じず、楽しく真言を唱えられるだろう。

『法華経』は、高度な宇宙人が古代の地球人類に与えた教えと考えても良いと思う。
当時の地球人に分かるように脚色したと言えるが、案外に、宇宙人もこのまま読むのである。
なぜなら、いくら知性が高くても、理屈よりも物語のイメージの方がはるかに効率的に精神力を使えるからだ。
このあたりは、この先、いくら人類が進歩しても変わらないと思う。
元々、「アヴァローキテーシュヴァラ―(サンスクリット語の観世音菩薩の名前)」という名の力の主体が、観世音菩薩やGuanyin(英語の観世音菩薩)になることは予定されていたことで、英語では"Om mani padme hum"というマントラが使われることも仕組まれていたが、いずれも有効である。
幸い、「南無観世音菩薩」や「オン・アロリキャ・ソワカ」の真言が必ず力を発揮することは実証されていると言って差し支えないと思う(織田隆弘氏の『観音開運法』が信頼があると思う)。
そんなわけで、困った時は観世音菩薩を頼るのが賢明である。
後は、ただ、唱える真言の数だけの問題である。

尚、別に、観世音菩薩でなければならないなどと言うつもりは毛頭ない。
真言密教の大日如来でも、浄土仏教の阿弥陀如来でも全く同じである。
ただ、『観音経』は、ソリューション(問題解決)のためには、非常に分かり易く、整えられたモデルであるため、成功率が高く、昔から広く愛用されていると思う。








密教で万能超人になる

分かり易す過ぎる話をする人も、分かり難く過ぎる話をする人も、どちらも疑わしい。
と言うのは、真理は簡単に分かるものではないが、難しいものであるはずがないからだ。
真理は、分かりそうで分からないもの、分から無さそうで身近なものだ。

空海が開いた真言密教は難しいものだ。しかし、これほど簡単な仏教もない。
仏教学者のひろさちや氏は数百冊の著書があり、それらの多くは、一般向けの分かり易いもので評判が良い。
私も何十冊かは読んでいるが、最高傑作は、1984年の『空海入門』だと思っている。
この本によれば、密教(真言密教)とは、単に、「ブッダになり切って生きる」ことだ。
簡単に言えば、ブッダ(釈迦のような悟りを開いた人。仏、如来)の真似をして生きることである。
仏教には、顕教(表の仏教)と密教(裏の仏教)の2種類がある。
いずれにおいても、仏教の目的は、悟りを開いて仏になることだ。
そこで、悟りを開くことを富士山の頂上に昇ることに喩えれば、顕教とは、一歩一歩昇っていくことであるが、密教とは、ヘリコプターで一気に頂上に達することだと、ひろ氏は言う。
本当の仏教の目的は、悟りを開くことと言うより、悟りを開いて生きることだ。
だから、そこ(悟りを開く)までは一気に達してしまえば良い。
そのためには、ただブッダになり切る・・・簡単には、ブッダの真似をすれば良い。

私は、昔、これを読んだ時には、非常に納得出来たが、真理とは、分かり易くて分からないものだ。
しかし、分からないようでいて身近なものだ。
最近、密教に関する、その身近なものが分かった。
それは、アニメ『MADLAX』を見て・・・だが、それは置いておこう(笑)。あくまで個人的ヒントになっただけだ。
それよりも、庭野日敬氏の『法華経の新しい解釈』の第25品『観音経』を読んでだ。
『観音経』では、観世音菩薩のスーパーパワーが滔々(とうとう)と描かれる。
観世音菩薩は、まさに万能超人である。
そして、その観世音菩薩に救いを求めるためには、ただ、観世音菩薩の名を呼べば良いと書かれている。
だが、庭野日敬氏は、ただ名を呼べば良いという安直さを戒めている。
そりゃそうだ(笑)。
正しくは、『観音経』には、「観世音菩薩を念じよ」と書かれているのかもしれない。
そして、庭野日敬氏は、観世音菩薩を念じるとは、「観世音菩薩に憧れ、観世音菩薩のようになりたいと思うこと」と書かれているが、それを見て、私は一気に理解が出来た。
ひろさちや氏の言う「なり切る」だけでは不十分な感じがあり、 庭野日敬氏が言うように「憧れる」ことが必要だ。
「憧れる」とは「尊敬する」ことであるはずだ。
つまり、密教とは、「ブッダに憧れ、尊敬しつつ、ブッダの真似をする」ことだ。

「ブッダに憧れ、尊敬してなり切る」において、ブッダは、釈迦であったり、観世音菩薩であったりして良いし、もちろん、阿弥陀如来であって良い。密教においては最高ブッダは大日如来であると言える。
だが、なんでも好きなので良い(笑)。
憧れ、尊敬するためには、その仏のマントラ(真言)を唱えると良い。
そもそも、真言密教とは、マントラを唱える仏教だ。
空海だって、密教を志す以前にも、虚空蔵菩薩の真言を唱えまくることで天才になったのだ。
空海は、真言に非常に馴染みがあったと思われ、それが密教解明に役立ったのかもしれない。
大日如来の真言は「オン・バザラ・ダト・バン」(金剛界)と、「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・アビラウンケン」(胎蔵界)で、私は短い方のみ愛用している(笑)。
(本当のことを言うと、大日如来真言の効果は凄まじいので、私はいざという時にしか使わない)
観世音菩薩真言は「オン・アロリキャ・ソワカ」、阿弥陀如来真言は「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン」だ。
ひろ氏も『空海入門』に書かれているように、ブッダは万能である。
空海もブッダになり切っていたので万能であった。
あなたも、良ければ、マントラを唱えて万能になっていただきたい。コツはただ、数多く唱えることである。








観音様への救いの求め方

『観音経』は、『法華経』の25品目で、『法華経』の中でも特に人気があり、『観音経』が単独で本になっていることも多い。
丁度、ベドルジフ・スメタナの『わが祖国』の第2曲『ヴルタヴァ』(モルダウ、バルタバ)が特に人気があって、単独で演奏されることも多いようなものだ。

ただ、『観音経』の本には、デタラメな・・・と言うのではないが、独断的な解説をする者が多くて困る。
なるべく素直に和訳してくれれば良いが、元々がサンスクリット語で、これに通じた人は少なく、日本語訳は大抵、中国語訳からの和訳である。
そうなると、どうも、中国風になってしまうのだろう。

『観音経』というのは、簡単に言えば、観音様こと観世音菩薩の凄い力(ほぼ万能)について書かれ、その力で救ってもらうにはどうすれば良いかが書かれている。
そして、大抵の日本語訳では、観音様に助けてもらうためには、観音様の名を呼べば良いと書かれ、その呼び方は「南無観世音菩薩」と唱えることだと書かれている場合が多い。
その、あまりの安直さに異を唱える人も多く、そんな人達は、独自の宗教観、道徳観などを厳しく説く傾向があるようだ。

確かに、『観音経』の原文には、「南無観世音菩薩と唱えよ」とは書かれていないだろうし、そもそも、観世音菩薩という名は、あくまで中国人がつけたもので、観音様の本当の名前は、アヴァロー・キテー・シュヴァラ―という。
アヴァロー・キテー・シュヴァラーが「自在に観る者」と言う意味らしいから、観世音菩薩、あるいは、観自在菩薩という名も、間違いとは言えない。
しかし、角川ソフィア文庫の『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』で、観音様の名前を、「”自在に観るもの”(観世音)」と記しているのが、とても良いと思う。
だから、観音様に助けを求める時には、「自在に観るものよ」と唱えても良いと思う。
観音様は、この世の全てを観、全ての音を聴く能力がある。それも、心の声も含めてである。
だから、口で、あるいは、心で、「自在に観るものよ」と唱えると良いだろう。
ただまあ、そこは凄い仏様なのだから、「南無観世音菩薩」でも「観世音菩薩よ」でも「観音様!」でも良いはずである。

ところで、私は、庭野日敬氏の『法華経の新しい解釈』に書かれていることがとても良いと思った。
『法華経の新しい解釈』は、「新釈」と略されることがあるが、昔、刑務所に入れられていた男が、刑務所でこの「新釈」を繰り返して読み、心を入れ替え、出所後、経営者として成功した話を、私はどこかで見たことがあった。
この「新釈」の中で、庭野氏は、観音様の名を呼ぶというよりは、観音様を念ずるというのが正しく、どう念ずるかというと、観世音菩薩のようになりたいと憧れることであるといったことを書かれていた。
誰しも、本当に憧れている相手は敬うものである。
これは、イエスであろうが、クリシュナであろうが、阿弥陀如来であろうが、天照大御神であろうが同じであると思う。
イエスのようでありたいと憧れることが、イエスに対する最もよい祈りであるのだと思う。
そして、本当に憧れるなら、それを敬い、そして、人は、憧れ、敬うものになるのである。

ただ、心を向ける言葉がなくては不便なので、私なら、観世音菩薩の真言「オン、アロリキャ、ソワカ」を唱える。
また、阿弥陀如来なら、「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」である。
サンスクリット語が脳に良い影響を与えるという脳科学の研究もあるそうだが、私もそのように感じる。
「南無観世音菩薩」でも全然悪くないが、個人的には、宗教とか、いろんな俗書の手垢が付き過ぎていて、やや抵抗がある。








強さと軽やかさ

昨日の深夜に目が覚め、脚を動かすと、ふくらはぎに激痛がして悶えるほどだった。
私は、その時は何が起こったのか分からなかったが、就寝中のこむら返りというのは、よくあるものらしい。
原因はいろいろで、筋肉が衰えて疲労している場合が多いのだと思う。
ただ、私の場合は、毎日、393回のスクワットで鍛えていて、筋肉も十分に付いている。
むしろ、スクワットのやり過ぎで筋肉が疲労していることも考えられるが、それよりも、あきらかに血行障害である。
低体温で冷え易く、冬は手足が凍えてしまうほどだ。
ヒンズースクワットやヒンズープッシュアップといった、自分の体重だけで行うトレーニングは、負荷が低いものと決め付けていたが、私のようにスピードが速く、回数も多いと、それほどの肉体的素質があるわけではないので、筋肉が固くなったり疲労したりで、血行が悪くなっていたのかもかもしれない。
以前から、腕や肩に痛みが起こり、また、最近は、運動に差支えがないので放っていたが、かなり腰痛があるのも、血行障害のサインだったのだが、今回のようなことが起こって、やっと自覚した訳である。
やれやれだ。
こむら返りの後、足を床に下ろし、少し体重をかけただけで痛く、歩けないので、「これは当分、会社には行けないな」とか思ったが、出勤時間には、かなり回復していた。
痛いながら通勤し、ゆっくり歩いたが、それでも私の歩く速さは常人と比較にならなかった。
会社から帰る頃には、違和感を残しながらも、普通に歩けるようにまで回復し、夜は、回数は少ないが、スクワットもやった。
今後は、ゆっくりとした運動で、インナーマッスルを鍛え、ストレッチも増やそうと思う。
いつまでも筋力強化ではいけない。
私は、身体に障害が起こると、9月の初音ミクさんのコンサート「マジカルミライ2017」に行けなくなることを第一に恐れる。
私は、ミクさんの軽やかな動きが大好きなのだが、あんなふうに動けるようになるトレーニングをすれば、きっと健康だろう。

庭野日敬さんの一連の法華経の本が、全て電子書籍化されていたので、早速、『現代語の法華経』を購入し、読み始めた。
庭野さんの名著『法華経の新しい解釈』の全巻、および、それを1冊に短く編集したものも電子化されている。
『現代語の法華経』は、かなり意訳であり、原典そのままの直訳ではないが、庭野さんは、本当に法華経をよく分かっている人なので、違和感や抵抗は全く感じない。
むしろ、これが本当の法華経であると私は思う。
庭野さんは、巨大な宗教団の教祖で、そのことに関しては、ちょっと嫌な感じがするのだが、庭野さんがそんな立場になったのも運命だったのだろう。そう思って気にしないことにした。
私は、あくまで、庭野さんを真面目な求道者、法華経研究者と見ている。
そりゃ、誰だって、叩けば埃の1つや2つ出てくるし、欠点もあるだろうが、誰の埃や欠点も、私には関係ない。

とはいえ、経典に救いを求めるところは、我が崇拝する木枯し紋次郎の兄貴に言わせれば、「弱いってことでさあ」となるのだろう。
私は、宗教には何の関心もないが、ゲーテが言ったように、崇める気持ちは大切だと思う。
紋次郎だって、お天道様を意識はしていたし、生まれてすぐ殺されるはずだった自分を救ってくれた姉のことは崇めていた。そして、本当に姉を崇めていたのである。
崇める対象は、ロオマン・ガリの『自由の大地』で、捕虜になったフランス兵達がそうしたように、「空想の少女」で良い。
私も、紋次郎の心の強さと、初音ミクさんの透明さを崇めている。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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