ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

座右の銘

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
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座右の銘

座右の銘とは人生の指針であるが、出来れば子供の時・・・それが無理でも、出来るだけ若い時に、それを決めることが出来た者は幸せだ。
ただし、それは、決して他者から与えられたものではなく、自分で決めることが大切だ。
私の座右の銘は「節制」だが、残念ながら、それを明確にしたのは最近だ。
だが、子供の時から、天使はそうささやき続けてくれていたのだ。
それを聞き逃していた。
あなたは、そんな愚かな間違いをしてはならない。
だが、聞き逃していたとはいえ、確かに影響はあった。

節制とは、言い換えれば、「ほどほどに」「過ぎたるはなお、およばざるがごとし」である。
私は、小学4年生の時だろうか、正月に凧(たこ)揚げをしていて、凧に紙の脚を付けるとよく上がることに気付き、長めの脚を付けたら思った通り、よく上がったので、もっと長い脚を沢山付けたら、重くて飛ばなくなった。
その時に、「過ぎたるはなお、およばざるがごとし」と実感した。
そして、その時、私はこれを座右の銘にしようと思ったのだが、そうしなかった。

最近、「節制」を座右の銘にしようと思った、あるきっかけがある。
『1976年のアントニオ猪木』は、プロレスラー、アントニオ猪木の伝記で、これには、猪木さんの悪い部分も沢山書かれている・・・いや、印象では、悪いところ9割といった感じで、圧倒的に、猪木さんの欠点が書かれている。
しかし、これが良いのである。
私は、それまで、あまり好きでなかった猪木さんが大好きになった。
そして、猪木さんに一環して感じられるのが「節制」なのだ。
猪木さんは、まず、プロレスラーとして、美しい身体を維持することに余念がなかった。
パキスタンで、地元の英雄アクラム・ペールワンに勝った時、報道だったか何だったか忘れたが、「アクラムは、日本の美しいペールワン(レスラーのこと)に何も出来なかった」と言われたらしいが、これこそ、猪木さんに相応しい賛辞と思う。
アクラムは、猪木さんを初めて見た時、猪木さんの身体を「シェイプされている」と感じ、アクラムの弟のゴガは、猪木さんの身体が、節制され訓練を怠っていない身体と見抜き、47歳の兄アクラムが勝てるはずがないと思って、39歳の自分が代わりに戦おうとしたという。

大我ドラマ最高視聴率の『独眼竜政宗』で、秀吉の要請に対し、かなり遅れて小田原に参陣した伊達政宗に未来はなかったが、徳川家康は息子を政宗のところにやり、さりげなく「ほどほどに」と伝言したとされていた。
家康の座右の銘がまさに、「過ぎたるはなお、およばざるがごとし」「ものごとはほどほどに」であり、それが政宗を救った。
・・・というのは、おそらく、私の湾曲された記憶であるが、私は、そのように考えるのが正しいと思っている。

節制には、基本的なものとして、食の節制、睡眠の節制、性の節制がある。
ただし、私は、あまりに厳しい規制は、節制ではなく、恐怖から来るこだわりか、権威による強制と思う。
『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ神は、アルジュナにこう教える。
「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎてもいけない。惰眠を貪ってはならない。だが、眠りが少な過ぎるのも良くない」
私は、これが正しいと思う。
エマニュエル・スウェーデンボルグは、食について、天使に警告を受けた。その言葉は訳者によって異なるが、次の2つがある。
「汝、食を過ぎるなかれ」
「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」
これに全く同意である。
食の節制は、そのようにすれば良い。
ある、超少食を説く医師がいて、私も一時はそれに傾倒したが、その医師の教えを実践していたミュージシャンは、明らかにパワーがなくなって肉体は老化した。
そして、その医師自身、亡くなったのが82歳くらいだったから、短命とは言わないが、本当に超少食が良いなら、もっと長生きすべきだったと思う。

「節制」を座右の銘にした時から、不安は一切消え、明るい未来しか見えない。
もちろん、これは私の座右の銘であるが、人類全てに「節制」が極めて有益であることは間違いない。
もし気に入るなら、「節制」を座右の銘にするなら、無敵への道が開けたと言って間違いないだろう。
「日本節制党」を作ろうと思う(冗談だ)。









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最強の座右の銘

座右の銘を持っている人もいるだろう。
しかし、「いい言葉」なんて、いくらでもある。
「あれもいい」「これもいい」とか言って、沢山の座右の銘をとっかえひっかえしている人が成功することは、まあない。
座右の銘がその人に力を与える条件は、「それが長期間(本質的には一生)、1つである」ことだ。
座右の銘を1つだけ選んで、後は捨てるのは、かなり難しい。
だが、その難しいことをやれば、必ず成功する。
だって、それは、心の方向性が定まるということで、1つの方向に向かう心は、良くも悪くも強力なものだ。
言葉が2つなら、心の力は2つに分かれ、威力は半分になるどころか、互いに干渉し合えば、効果はさらに減じ、最悪、真逆に作用し合ってゼロになることすらある。

昨日、ネットでちらと見たが、Facebookの元役員が、「プログラミングを学べば、一生、仕事に困らないことを保証しよう」と言ったらしい。
この言葉が真実か暴言かというと、どちらでもあり、どちらでもない。
そう思えばそうなるし、嘘だと思うなら、プログラミングが出来ても仕事は得られない。
そもそも、プログラミングの仕事が全部楽しい訳ではないし、それどころか、楽しくない仕事の方が圧倒的に多い。
そもそも、プログラミングは飽きる。
しかし、この元役員は、「プログラミングを学べば」と言ったのであり、「プログラミングをしていれば」と言った訳ではない。
プログラミングが出来ても、プログラミングを学んでいない人は多い。そんな人達は、確かにロクな仕事を得られない。
営業の仕事をしていても営業を学んでいない人、清掃の仕事をしていても清掃を学んでいない人が・・・そんな人が多い。
そんなことを考えていたら、確かに、この人の言うことは真実である。

私の座右の銘だが、昨日書いた、大山倍達氏の言葉にしようと思う。
「空手が最強であるのは、目潰しと金的攻撃があるからだ」
なんと実際的で、嘘のない、逞しい言葉であるのかと感激する。
きれいなだけで、役立たずで、嘘で、ひ弱な「いい言葉」なら沢山あるが、この「汚い言葉」こそが本物である。
この言葉を座右の銘にしている者を絶対に敵に回してはならないという恐ろしさ、狂おしさ、迫力を感じる。









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真に座右の銘とすべき言葉の選び方

人間の心には、「侮る(あなどる)」という愚かな性質がある。
簡単に言えば、自分を高く評価し、他人を低く評価するというものであるが、普通の人ではその傾向が大き過ぎる。
たとえば、チンピラヤクザが格闘技の達人にケンカを売るようなことがあるが、そのチンピラは勇気があるのではなく、愚かにも、本当に自分は勝てると思っているのである。
会社の中でも、本当に能力のある人というのは静かなものであるが、そんな人を侮って、自分の方が優秀だと思い込んでいる、チンピラヤクザのような馬鹿は多いものである。まあ、自分で言っても耳が痛いのであるが・・・

逆に、「俺は駄目なやつだ」「私には人並のことなんて何も出来ない」と思って萎縮し、いつも不安でびくびくしているような者もいる。
そして、大半の人間は、他人を侮り過ぎる高慢な者か、自分を全く信頼出来ない卑屈な者かという、どちらかの極端なのだ。
イエス・キリストは、いつも、このいずれでもいけない、バランスを取れなければならないと教えたのだ。

私は、高校生の時、ある大学生と腕相撲をしたことがあった。
相手は大学のボート部の主力メンバーで、毎日ウエイトトレーニングで鍛えていることを知っていながら、私は愚かにも自信たっぷりだった。
当時、プロレスラー志望だった私は、ちょっとトレーニングの真似事をしていたというだけで、そこまで傲慢になっていたのだ。
結果は、全く相手にならずに軽く負けた。
悔しかった私は、ちゃんと研究して、毎日真面目にトレーニングし、1年後の再戦では全く勝負がつかず引き分け、その1年後に初めて勝った。ただし、相手は腰を痛めて現役をとっくに引退し、ほとんどトレーニングをしなくなっていたのであるが。
プロレスラー志望という熱狂も必要だが、自分を低く見て、地道な努力をすることも必要なのであり、結果、自分にはプロレスラーは無理だと悟っても、また新しい熱狂を持てば良く、その時の熱狂は、多少は幼稚さを脱却しているのである。
もっとも、少しは幼稚でないと熱狂も出来ない。

過信とか傲慢というのは、本来は若い熱狂からくる愚かさである。
だが、そのような熱狂は、特に若い間は、ある程度は必要であり、見ていて馬鹿だとは分かっても、それほど悪いものとは感じないだろう。
ところが、ある程度の年になっての傲慢というのは、これとは違うのである。それは醜悪で気味の悪いものだ。
普通の人は、年を取るほど自信を失くし、卑屈になる。
なぜかというと、熱狂を失い、物質主義者になり、肉体の衰えと共に、自分を弱いものと見るのである。
それで謙虚になれば良いと思うかもしれないが、自我というのは思い上がるということをやめない。
若い人は熱狂でもって根拠のない自信を持つのだが、年寄りは幻想の自信を持つのだ。
どういうことかと言うと、金持ちであれば、金の力を自分の力と同一視し、会社の中での役職や、会社以外でも何かの地位があればそれを人間としての自分の位置だという妄想を持つのだ。
金も地位もある者というのが一番厄介であるというのは、御存知の方も多いだろう。本人は能力も衰えきった上、偏見が多い分、判断もデタラメなのに、自分が正しいとして主張を押し付けるのであるから、いくら偉くても、周りの者にとっては、ただ迷惑な老人である。あなたにも、思い当たる人が1人や2人はいるだろう。
ところが、金も地位も名誉も無い年寄りというのは、それでも、何かの自分の美点を探すのである。過去の栄光とか、個人的な趣味の特技であっても、それによって、自分が立派で優れているとして、傲慢になるのだ。
そして、現在は、30代や40代から、この老人的傲慢さに満ちた者がひどく多くなっている。有体に言えば、ほぼ全員がそうだ。

若い熱狂からくる傲慢さ、年寄りの妄想からくる傲慢さ・・・いずれも、イエスが戒めたものである。
イエスは、それらのバランスを取れと教えたのだ。
若い熱狂も必要である。
それは憧れや夢になり、人を向上させる原動力になる。
だが、年寄りが、長年やっている書道でそこそこの実力があるという自負心を持つといったことも良いことなのである。
熱狂ばかりしている者は、1つ位は、地味でも、実際的な特技を持たないといけないし、年寄りは自慢ばかりしていないで、時には熱情を持って未知のことに挑まなければならない。
イエスは、宗教なんか教えたのでは全くなく、そういったバランスの取れた考え方や行動を教えたのだ。
「ヨハネ(洗礼のヨハネと呼ばれた者のこと)は人間の中では最も偉大だった。しかし、天の国では最も劣る者でも彼よりはるかに偉大である」
と言って、ヨハネの足元にも及ばない普通の人々は、極めて卑小な存在でしかないと教えた。
(だが、ヨハネの教えに従うなら、現実的に最低限の価値はあることを示唆した)
一方、
「お前達は、父(神)に髪の毛1本1本まで数えられている。それほど、父はお前達一人一人を気にかけておられるのだ」
と言って、熱情による自信を与えたのである。

私は、ジョージ・アダムスキーが次のように言ったことが好きで、彼の宇宙人とのコンタクト(接触)の話を半分は信じている。
「一度に着れるスーツは一着だけだ。私はそれ以上欲しいとは思わない。だが、それが得られないとしたら、私は愚か者だということだ」
これは、スーツで表す物資的なものは必要なだけあれば良く、それ以外は熱狂に目を向けるが、物質的なこととのバランスが大切だということを、見事に言い表している。
真に座右の銘とすべき言葉とは、このようなものである。
また、スーフィー(イスラム神秘主義)にこんな言葉があるらしい。
「神を信頼しろ。だが、驢馬はちゃんとつないでおけ」
だが、ほとんどの者は、熱狂的、夢想的なだけの言葉や、現実的だが年寄りじみた言葉を有り難がるのである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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