ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

幻魔大戦

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

『幻魔大戦』出来損ないの大逆転劇

『幻魔大戦』は、漫画・小説の、あまりに長い作品で、よほどのファンでない限り実体が掴めないが、一応の一貫性はあるように思う。
作者は、SF作家の平井和正と漫画家の石森章太郎(後に石ノ森章太郎)のコンビである。
作品の大元の大元は、駄目高校生の東丈(あずま じょう)の、高校3年生からのお話である漫画から始まる。
東丈は、野球部のレギュラーと東大入学を目指す高校3年生・・・と言えば聞こえは良いが、野球部では、本人曰く「ユニフォームがボロ雑巾になるまで練習」し、サードのレギュラー確実と丈本人は思っていたが、新入生である1年生にレギュラーを奪われる。そもそも、「小学生にだって俺よりでかいやつはいくらでもいる」ほど、丈はチビだった。
勉強の方でも、教師は常々「東大は諦める」よう、丈に諭していたが、丈は聞き入れず「努力だ。努力さえすれば願いは叶うんだ」と丈に言われた親友は、哀れむ顔で丈を見る。
いくら努力しても報われない駄目人間が丈で、丈が小学生の時、母親が早くに死んだことから、母親代わりで非常に大人びた丈の姉に父が、「家族の中には1人くらいは出来損ないがいるものだ」と言うのを聴いてしまう。言うまでもなく、出来損ないとは丈のことだ。
世の中で、最も子供を否定すべきでない親に完全に否定された丈は、その後、自死を試みるが、おそらく姉に発見されて未遂に終わる。
尚、丈を溺愛する丈の姉の雰囲気が抜群に良いのに驚くが、これは石森章太郎に、若くして亡くなった章太郎が心から敬愛する姉がいたことが大いに関係しているのだろう。

話を飛ばすが、その最初の漫画作品(『幻魔大戦』上下巻)の最後で、宇宙の破壊を目論み、そのあまりに強大な力で易々とそれを成し遂げつつある「幻魔」と戦う宇宙の歴戦の戦士達が丈のことを、「宇宙広しといえども、丈ほどの素質に恵まれた者はそうはいない」と言う。
一高校の野球部のレギュラーすら取れない高校生が、果て無き宇宙のトップなのである。
映画評論家の淀川長治は、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』を400回以上見て、見るたびに必ず涙を流したというが、私は、『幻魔大戦』のあの場面を思い出すだけで、必ず涙を流すのである。
淀川氏には複雑なバックグラウンドがあるのであるが、引きこもりなら、丈の物語に共感出来るような気がする。
尚、地球のエスパーなど、トップレベルであっても、幻魔の下っ端の下っ端にすら大苦戦するほど力の差があるが、幻魔のエリートが「強敵」と言ったのは、丈の死んだ姉の残留思念(ある意味、幽霊に近い)だった。

石森章太郎は、「新しい聖書を書く意気込みで描いた」と述べていたが、それは、物語の派手な部分ではなく、細部に現れている。
丈は我々自身なのであるが、引きこもりや出来損ないは丈に共感し易い分、有利かもしれない。








ひきこもりは『幻魔大戦』を読むべし

ひきこもり、あるいは、そこまでいかなくても、自分を無力だと思っているせいで社会や他人とうまくやっていけない人は『幻魔大戦』という漫画を読むと良い。
原作はSF作家の平井和正さん、漫画は石森章太郎さん(後に石ノ森章太郎と改名)という超大物コンビの作品で、石森さんもかなりストーリーに関わっているはずだ。その石森さんは「新しい聖書を書くつもりで書いた」という力の入れようだった。
この作品後も、『新幻魔大戦』として、平井さんと石森さんコンビで作品を発表したが、その後、『幻魔大戦』を、平井さんは小説で、石森さんも単独で漫画を、長期に渡って壮大な規模で発展させたが、原点は『幻魔大戦』である。

『幻魔大戦』の主人公である東丈(あずまじょう)は、高校3年生で、姉と弟がいる3人きょうだいだ。
丈は、背が低く、腕力もなく、勉強も駄目だった。
父親が「きょうだいで1人くらいは出来損ないがいるものさ」と言うのを聴いてしまったこともあるが、まさに「出来損ない」こそ彼に相応しい名称だった。
そんな丈が、ちゃんとした高校生になれたのは、彼を盲目的に愛する姉のおかげで、この姉は、間違いなく、石森さんの実の姉がモデルだと思う。
姉は、丈には素晴らしいものが隠されていることを信じ、自分が結婚出来なくても、丈が誰にも尊敬される立派な人になるまで支えることを誓っていた。
だが、丈は、劣等感の反動で誇大妄想となり、異常、あるいは、異様な頑張りも見せる。
崇拝するのは、ヒットラーとナポレオンだ。
だが、実力が伴わない。
野球部では、ユニフォームがボロ雑巾のようになるまで練習に励むが、さして熱心でない親友がレギュラーになれたのに、自分のポジション(サード)は新入部員の1年生に取られてしまう。勉強の方も、やはり頑張ってはいるが、思うような成績が取れない。
そんな丈に、超能力が目覚めたのだから、ロクなことにならない。
それも、人間としてはハイレベルな超能力だ。天才と言っても、宇宙の超能力者を知る者すら認める。
さらに、彼の素質は、そんなものではなかった・・・

人類屈指の賢者ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「英雄の物語を読む時は、それが自分について書かれたものだと知れ」と言っているが、あなたは、丈の物語を自分の物語として読めば良い。
その後、数十年に渡る、平井さんと石森さんの作品を考えれば、それは正しいことであることが分かる。
あなたは、実は、とんでもない大物であり、神話のアポローン、天照大神、阿弥陀如来、大日如来に匹敵する。
エマーソンの提案を受け入れれば、あなたは、究極の呪文を自然に唱えることになる。
「私はアポローンである」
「私はアマテラスである」
「私は阿弥陀如来である」
「私は大日如来である」
エマーソンも、自分(あるいはあなた)がユピテル(ジュピター。ゼウス)であることを認め、一休さんも誰もが阿弥陀如来であることを、黒住宗忠も、人間が天照大神と一体であることを、はっきり述べていた。空海もそうではなかったか。
アポローンが、たかが人間社会や、その構成員である人間に負けるはずがない。









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想像力を持つための決定的なこと

最近、このブログで、想像力についてよく書いているが、そもそも、「想像力がある」と「想像力がない」は、何で決まるのだろう?

学校の教義にのみ従う優等生は確かに想像力がないが、学校の教義に逆らうだけの不良は、もっと想像力がない。
では、どんな人間が想像力があるのかを、真面目に細々(こまごま)言ったりしたら、長く退屈なお話になるだろう。
元々が想像力なんてものは、理屈じゃないので、言葉で説明出来ないからだ。
それでも、「想像力があるはずの人」を、あえて言葉で言えば、大体、次の2つと思う。
「生き生きしている」
「神に近付き続けている」
しかし、本当のことを言えば、「神に近付き続けている人」だけで良いのだ。
なぜなら、神に近付き続けているなら、一時的に落胆や絶望を感じることはあっても、常に生命力が燃え、生き生きすることになるからだ。
神は生命の源なのだから、それに近付くほど、生命の炎は強くなるのは当たり前である。

だが、生き生きするというのは、人間的には、野望を持つことに現れる。
野望と言うと、俗っぽく、野卑で下品な感じがするかもしれないが、人間にとって、野望は物凄く大切である。
ちなみに、野望の意味は、「分不相応な望み。また、身の程を知らない大それた野心」であるが、なんて格好良い言葉だろう!

普段、徳川家康や、アポロン神殿の門に書かれている言葉、「身の程を知れ」の重要性を懇々(こんこん)と説いている私が、今度は、「身の程を知らない野心を持て」である(笑)。
これを矛盾と思うことが、すなわち、「想像力がない」のである。
あえて分かり易く言えば、「小さな野心は身の程を知って捨てよ。壮大な野心は身の程を忘れて持て」ということである。
「そうか!一千万円なんてケチなことを言わず、百億円を望めってことか!」
と言うなら、いや、そこはまず、一千万円貯めろよ(笑)。
つまりね、一千万円も出来ない自分の駄目さ加減を本当に思い知り、自分に愛想をつかし、自分を終らせてしまったら高く飛べるのだ。
人間、苦しみは避けられないのである。
このあたりは、昨年(2015年)の1月17日に亡くなられた偉大なるSF作家、平井和正さんの原作で、石森章太郎さん(後に、石ノ森章太郎。1998年没)が漫画を描かれた『幻魔大戦』を読むとよく分かる。
主人公の東丈(あずまじょう)は、子供の時から何をやっても駄目で、親にすら「出来損ない」と言われ、それでもやがて、反発心から無茶な努力をするが、年下の才能に恵まれた者達に、軽く頭の上を飛び越えられてばかりでだった。
まさに、初音ミクさんの歌の『心臓デモクラシー』を地でいっていたようなものだった。

哭(な)いていた 唯 哭いていた
他人眼(ひとめ)につかない世界で
其(そ)して恥を知り 惨めになれば
全てが廻りだした
~『心臓デモクラシー』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌:初音ミク)より~

そして、全てが廻りだし、東丈は、うじ虫のような存在から、「宇宙広しといえども、これほどの者はそうはいない」と言われるまでになる。
そうなった後、丈は、フロイ(犬の形をした偉大なマスター)の息子に言われたのだ。
「あんさんは苦しむ必要があったんや」(なぜか関西弁)

さあ、哭け、恥を知れ、惨めになれ、苦しめ!
石森章太郎さんは、この『幻魔大戦』を第二の聖書を書く意気込みで書いたと述べられていた。
平井和正さんは、元々、漫画家を目指していたが、石森さんを見て、「こんな天才に敵うはずがない」と思ってSF作家に進路変更したらしい。
こんな経験のある者が本物になる。
コンドリーザ・ライスが11歳の天才少年に出会ってピアニストを諦め、ビル・ゲイツがハーバードにうようよいた数学の天才達を見て、数学者を諦めたように。
彼らは、世界一にしか興味がなかったのだ。
平井和正さんだって、世界一か日本一かはともかく、ナンバー1しか考えられなかったのだろう。
普通の人との決定的な違いは身の程を知らぬ野心・・・野望なのである。
それが強烈な想像力になり、神に近付くのだ。

『幻魔大戦』は、文庫版とKindle版(電子書籍)をご紹介しておく。









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あなたがいなくても全て何の影響もなく回る

「お前がいなくても、仕事も会社も何の問題もなく回る」
というのが、サラリーマンに対する、最も効果的な悪口の1つのようだ。
ということは、皆、自分のことを、会社や職場にとって、不可欠な人間だと思っていることになる。
愚かなことである。
間違いなく、
「お前がいなくても、仕事も会社も何の問題もなく回る」
のである。
しかし、それを認めることは、会社人間にとっての死であるかのようだ。
なら、死ねば良い。

私がいなくても、会社も家庭も地球も回る。
当たり前だ。
そんな悪口を言う者も、間違いなくそうなのであり、むしろ、そんな者がいない方が、「全て、より良く回る」のである。

自分が死ぬ夢を見ることは滅多にないらしい。
死ぬ前に目が覚めてしまうからだ。
本当は、自分が死ぬ夢を見ることができれば良いのだが、夢の中でも死を恐がる想いが残っているので、それは難しい。
ならば、自分が死んだ後の世界のことを考えてみよ。
いつもと変わらず、太陽は昇り、風は吹き、人々は会社や学校に行き、スポーツの試合は行われ、コンサートも始まる。
あなたの家族が、いつまでもあなたのことを考えているなら、はやく忘れてくれよと思うだろうし、普通はすぐに忘れてくれる。
世界に、あなたが生きた痕跡は何もないし、もし、そんなものがあったら、消えて欲しいと思うだろう。
あなたが好きだった人は、今日もいつもと変わらない。
あなたは、彼(彼女)にとって、サハラ砂漠の砂の一粒でしかなかったということだ。

ちょっとばかり有能で、自分が重要人物だと勘違いしている人も少なからずだが、これがもう、そいつがいない方が絶対に全てうまくいくのである。
「俺が死んだら社員が路頭に迷う」なんて思っている社長さんもいるかもしれないが、たとえ現役時代の松下幸之助さんだって、そんなことはあり得ないのだ。

ある超人的な武道家に、「ケンカ必勝の秘訣は?」と尋ねたら、彼は、「先に命を捨てた方が必ず勝つ。ケンカでも」と答えた。
それならと、「では、あなたが、命を捨てた素人とケンカしたら負けるのですか?」と尋ねたら、彼は、「もちろんだ」と即答した。
命を捨てた者には、殺すべき実体はない。
それなら、どうにも勝ちよう、負かしようがない。
実際、親の仇、兄弟の仇とやってきた、腕が立つ訳でもない者に剣豪がよく倒されているのである。

『幻魔大戦』(平井和正氏原作の石森章太郎氏が描いた漫画作品)で、地球の強力なエスパー(超能力者)である東丈(あずま・じょう)の挑戦を受けた、幻魔のエリート、ジグは、丈を全く問題にせず、指一本立てる程の労力で、丈を石に変えてしまうが、その直後に自分が倒される。
丈に憑いていた、丈の姉の残留思念のためだった。
生き返ったジグは、「我々幻魔にとっても、ああいうのは強敵なのだ」と言う。
殺すべき実体がないからだ。
だが、丈の姉の残留思念には自我はなく、丈を守ろうとも、丈の力になろうともしないのだと思う。
これは、命を捨てた人間も、なんら変わらない。
無意識の奥深くに潜れば、そこには、死後の世界も原因の世界も全てある。
命を捨てた者には、それがありふれたものなのである。









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我々を最大に鍛える最高の鍛錬

引きこもりの若者というのは、基本的には心が繊細で、普通の人より純粋なものだ。
だが、同時にその心が弱いのである。強くしてやるためには、アメリカでも中国でもインドでもいいから、孤立状態で放浪させることだ。1年もしたら、帰ってきた時はまるで別人というほど立派になっている。
我が国最大の思想家だった吉本隆明さん(2012年3月逝去)は、力道山、カーター元大統領、父親の方のブッシュ元大統領らと同じ年生まれだが、吉本さんは、自分も引きこもり気質だと言い、エッセイの中でも、よく引きこもりについて述べることがあった。ただ、彼の青年時代は戦時中であり、家に閉じこもっていたら、殴って引っ張り出される時代だった。
その吉本さんが、男が強くなる方法としては、好きな女の子でもできたら、彼女を守るために戦うことを始めて逞しくなるといったことを書かれていたことがあったと思う。
私は、それで、『幻魔大戦』という漫画(平井和正さん原作の、石ノ森章太郎さんの漫画)で、長年、大宇宙の中で戦い続けたサイボーグ戦士のベガが、彼から見ればあまりに幼い東丈(あずまじょう)という高校3年生の男子を見て、「女が軟弱な若者を勇者に変える」と言うのを思い出した。
この『幻魔大戦』の原作者で、現在75歳の平井和正さんは、中学生の時、ナイフの決闘をしたことがあると述べていた。そんな経験もかなり少年を変えると思うが、今の時代でそれをやるのは難しい。私は、どんどんやれば良いと思う。「死んだらどうする」とか言っても、神様ってのは、こんなことでは滅多なことで死なせたりはしないものだ。しかし、こう言うと、「あなた、それ保証しますか?」と言う馬鹿がいるものだ。そりゃ、死ぬ者もいるさ。
ベガの言う「女が若者を勇者に変える」というのも、外国を放浪したら逞しくなるってのも、命がかかっているからなのだ。
つまり、所詮、生命の危機しか人間を鍛えないものだ。
社会に出ると、多少でも鍛えられるというのは、働いて金を得なければ食べていけない、つまり、現代では緩い意味ではあるが、命がかかっているから強くなるのだ。
だから、引きこもりが気の毒なのは、命をかけることで自分を鍛えるというチャンスが全く無いってことだ。これほどの悲劇はない。
私はニート時代、身体を鍛えているつもりだったが、その程度では何の鍛錬にもならない。その後、フルコミッション(完全歩合制)セールスをやったが、たかが好きにやれる筋肉トレーニングなど、それの千分の一も鍛えられないことが分かったものだ。

か弱い若者が鍛えられる物語として、上に挙げた『幻魔大戦』よりも私が好きなのは、『灼眼のシャナ』という高橋弥七郎さんの小説だ。
これも、吉本隆明さんが言った、「好きな女の子でもできたら・・・」というところがあって、分かり易い話にもなっている。
この小説を知らない人に分かり易くいうなら、主人公の、平凡な高校1年生の男子が、現代的な、か弱い若者である。ただ、弱いと言っても、平均よりはやや上と言えると思う。しかも、人間的には、かなり好ましい性質である。
だが、例えば、日本が急に戦争状態になって、偶然のなりゆきで、ある普通の若者の周りに、精鋭の戦士や、選挙で選ばれた政治家(総理大臣も含む)とは全く異なる経験豊富で本当に強い軍司令官が現れたら、若者は自分のあまりのひ弱さ、小ささ、つまらなさ、無価値さに嫌というほど気付くだろう。
この『灼眼のシャナ』の主人公、坂井悠二も、そんな惨めなほど弱い少年であったのだが、物語の進行と共に、戦士の中の戦士、精鋭中の精鋭であるヒロインのシャナや、彼女と同等レベルの戦士が束になっても敵わないほど強くなっていく姿が、私は読んでいて、本当に嬉しかった。
悠二は、シャナのところに帰って来た時に言う。
「僕は強くなりたいと思った。そして、強く、強くなった」
私は、電車の中で読んでいて、不覚にも涙が出たのは、私が元の悠二のように弱く、強くなった悠二のようになりたいと思ったからに他ならない。
だが、この物語には別の側面もある。
悠二は超人だと思っていたシャナも、本当は悠二のように弱いところもあるということだ。この物語には、恐ろしく強い存在が沢山出てくるが、みんなそうなのである。一方、ごく平凡な主婦である悠二の母親や、悠二を愛する、美少女ではあるが、やはり平凡な女子高生である吉田一美らが、神すら敬服させる強さも持っている。
ただ、この『灼眼のシャナ』は、終盤には、話が複雑になり過ぎて破綻してしまい、私は投げてしまった。そこまで、この小説に貴重な人生の時間を捧げられる人はいないということに、作者は思いが至らなかったのだろう。残念であるが、途中までは楽しめる(その点、アニメでは上手くまとめていた)。

あなたも、強く、強くならないといけない。
一応言っておくと、念仏以上の鍛錬はないのであるから、数多く念仏を唱えた者が一番強い。それは、実際的に証明もされていると思う。
阿弥陀如来は、坂井悠二(および彼に惚れ込んだ創造神「祭礼の蛇」)と似ていると感じる。しかし、最強に至った坂井悠二の数億倍強い。そんな存在が、自分の名を呼びさえすれば、必ず護るということを、阿弥陀如来自身や釈迦が保証しているのである。
場合によっては、厳しい戦いに巻き込まれるかもしれないが、耐えられるように護ってくれるだろう。
どんな歴戦の武将も、聖人と崇められる高僧も、天下を治める関白も、法然上人に会えば、自分が取るに足りない存在であることが即座に分かった。その法然が、自分の小さな知恵や力を完全に捨て、ひたすら頼りすがったのが阿弥陀如来である。疑う理由は何もない。
尚、『灼眼のシャナ』は、漫画の方もかなり良く出来ていると思う。特に、巻が進むほどに、絵も表現も格段に進歩したように思う。









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