ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

幸運

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

思い込みの魔力

1959年頃のアメリカの話だが、ある37歳の男が癌になり、医者は数か月で死ぬと確信したが、5か月後、男は完全に回復し、退院した。
医者には、彼が治った理由が分からなかった。
だが、男には、こんなことがあったのだ。
男は、癌が進行する中、国務長官ジョン・フォスター・ダレスが癌で死亡したという新聞記事を読んだ。
記事には、
「ダレスは、食事が進まず体重が減り、そのためついに癌で死亡した」
と書かれていた。
それを見た男は、
「熱心に食べることが、癌を悪化させず、回復を早める方法だ」
と勘違いして、猛然と食べ、そして、見事、癌を克服したのである。
(『トーチェ氏の心の法則』より)

癌が治ると信じて、その信念を潜在意識に刻み込むと、癌は治るかもしれない。
しかし、それは非常に難しい。
アファーメーションや祈りで、癌が治ると信じようとしても、なかなかうまくいかないと思う。
しかし、人間は、変なことを、コロっと信じてしまうものなのだ。
たとえば、斎藤一人さんが「光り物を身に付けると運が良くなる」と言うのを聞いて、それが本当だと思い込み、その気になって光るネックレスか何かを付けて、幸運が舞い込むことがある。
だが、それではまだ足りない。
光るネックレスやブレスや指輪を付けたなら、
「光り物を付けているのだから、幸運がこないとおかしい」
と積極的に思うのだ。
その方が、思い込み易いと思える。
ついでに言うと、「幸運になる」でも別に良いが、具体的な願いを決めても良い。
例えば、その願いが彼氏が出来ることなら、
「これで彼氏が出来ないのはおかしい」
と言っても良い。こっちの方が、集中力が高まるのではないかと思う。
そして、願いを叶えるキーとすることは、別に、光り物を付けることでなくても、自分が思いこみ易ければ何でも良い。
たとえば、さっき述べた癌になった男のように、「沢山食べているのだから、病気が治らないとおかしい」と言っても良い。

私は昔、『灼眼のシャナ』というアニメで、 近衛史菜(このえふみな)という名の美少女が、細い銀のチェーンブレスを付けているのを見て、さっそく真似し(笑)、「これで良いことがあるぞ」と思ったら、全くその通りだった。今なら、「史菜さんと同じものを付けて、良いことがないとおかしい」と思うことだろう。頭の単純さは美徳である(笑)。








増えた悩みを退治するには

『若きウェルテルの悩み』というゲーテの有名な小説があるが、ウェルテルという若い男の悩みとは何かというと、好きな女性に婚約者がいて、恋が叶わないということだ。それで、ウェルテルは自殺してしまう。
私は、それだけ知ったら、もう読む気がしない。
ウェルテルが好きなシャルロッテさんはいい女なのだろうが、もっといい女だっていくらでもいるんだから、他を当たれば良いだけの話なのにね。
しかし、そんなしょーもないことで悩めるのはなぜかという理由は、案外に重要だ。
その理由は、若い時は、悩みごとが少ないってことなのだ。
他に多くの懸案事項を抱えていたら、好きな人に振られたくらいで、そんなに悩まないに決まってるからね。

若い時は、一般的にだが、悩みは少ない。
だが、歳を取れば取るほど悩みは多くなる。
なぜ、そうなるのかというと、歳を取るほど、多くのもの(物質的なものばかりではない)を持つからだ。
それらを失うことを恐れることで悩みが生まれるのである。
そして、もっと歳を取ったら、健康、体力、気力、財力、人脈などが衰え、持っているものを維持出来なくなる。
それは、大金持ちでも同じだ。
だから、沢山持っている金持ちほど、悩みが多くなってしまう。
さらに、悩みが多くなると、以前は「若者の悩みだ」と笑っていたことより、もっとつまらないことで悩むようになる。
このカラクリも説明出来るが、面白くもないのでやめておく。しかし、何となくでも分かると思う。

それで、世の中には、「不要なものを手放しなさい」と教える人が多い。
その際に、「で、お金は私に渡しなさい」と言うわけである(笑)。
確かに、不要なものを手放すことは良いことだが、無理にやろうとして出来ることではない。
不要なものは、自然になくなるようであるべきだ。
そして、先にやるべきことがあるのではないか?

まずは、肩甲骨をほぐして血流を良くすることだ。これを「気の流れを良くする」と言う人もいるが、そう言っても構わない。
具体的には、腕振り運動を熱心にやることだ。
それで大抵、健康になるし、若々しくなるし、難病奇病が治ったという話も多い。
健康で若々しくなれば自信がつく。
それだけでも十分だが、もっと強く美しくなりたいと思ったら、私が勧めるナンバ四股か、あるいは、ナンバ歩きでよく歩くと良いと思う。
強靭で美しくなれば、さらに自信がつく。
自信がつけば、余計なものを欲しがらなくなるし、執着しなくなるので、何でも手放し易い。
大きな自信を持てば、身体以外は全部、不要になってしまう。

次に大事なことは、運が良いことだ。
運が悪いと、悩みは消えないからね。
別に、余計なものを持ったままでも、運は呼べる。
幸運を呼ぶためには、方法はいろいろあるように見えて、実は「きめつけ」しかない。
「俺は運が良い」と決めつけてしまうことだ。
その際、「私は〇〇だから運が良い」と、こじつけるものがあると容易くきめつけが出来る。
その〇〇は何でも良い。
TM(超越瞑想)をやっているからでも、聖書を読んでるからでも、「ありがたい」と唱えているからでも、新月生まれだからでも。
その中でも、日本人が成功し易いのは、実は、『古事記』を読むことや、「十言の神呪(とことのかじり。「アマテラスオホミカミ」と唱えること)」を行うことだと思う。
ただ、本当に、何でも良いのである。












超少食は正しいか?

世の中には、超少食とか、あまつさえ、不食(食べないこと)で、運命が良くなったり、超健康になるなどと主張する者がいる。
そういった輩は相手にしない方が良いと私は思う。
尚、私も一時、超少食を実践し、それが良いことだと言っていたことがあるが、それは間違いであったと反省している。
超少食は、場合によっては、大食より悪い。

食に関しては、『バガヴァッド・ギーター』の、クリシュナ神の教えが適切であると思う。
即ち、「食べ過ぎてはいけない。だが、少食過ぎてもいけない」である。
スウェーデンの科学者、政治家、教育家、宗教家であったエマニュエル・スウェーデンボルグ(スウェーデンボリ)の言い方も良いと思う。
即ち、「満腹するまで食べて自分を甘やかすな」で、要は、食べ過ぎなければ良いのである。

また、クリシュナ神は、こうも述べている。
「惰眠を貪るな。だが、眠りが少な過ぎてもいけない」
クリシュナ神の教えのようなものは、あらゆることに関し、バランスが大切だということかと言うと、そうとも言えるが、もっと大切なことがある。
それは、人間は、「自己制約(自己コントロール)」が何より大切だということだ。
つまり、人間というものは、放銃(勝手気まま)に振る舞いたい・・・欲望のままに好きなことをしたいという性質がある。
美味しいものを好きなだけ食べたい、性的快楽を果て無く求めたい、偉くなって人をひれ伏させたい、もっともっと贅沢をしたい・・・などである。
そういった欲望は、個人的欲望と言って良いと思う。
そして、個人的欲望を適切な範囲に抑えることを、自己制約(自己コントロール)と言い、それが出来る人間が、本当に優れた人間である。
個人的欲望の自己制約のことをモラルというのであり、本当に優れた人間とはモラルがある人間である。

個人的欲望も、ある程度は必要である。
だが、個人的欲望の1つ、あるいは、特定のものを取り上げ、超少食とか完全な禁欲といったことを称賛する者がいる。
そんな主張をする者が世の中に溢れたら大変なことになる。つまり、間違っている者である。
私の推測では、そんな主張をする者は、称賛されたい欲望(名誉欲)、偽物の大きな力を得たいという、個人的欲望のコントロールが出来ないのである。つまり、モラルがないのである。

ある書によれば、「食は少なければ少ないほど幸運になる」と言った江戸時代の有名な観想家である水野南北は、女遊びに関してはどんどんやれと言ったそうだが、それが本当なら、南北は2重の意味で間違っているのである。
無論、食の慎みは、大変難しいながら、その重要性を訴えたことは立派であったと思う。しかし、それも度が過ぎては、そして、他の個人的欲望は放縦で良いというのが、正しいはずがない。
確かに、水野南北には、妻が8人いたという。
しかし、水野南北は、8人全員を正妻とし、妻たちが歳を取っても、ちゃんと面倒を見たのであり、それをする財力もあった。
気に入らなくなったら捨て、若い女をとっかえひっかえというのは放縦であり、自己制約がないが、水野南北の場合は、その点は自己制約があり、モラルがあったと言えると思う。それが出来ない者に同じことを勧めてはならないはずである。

徳川家康や孔子は、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」といった意味のことを重要なこととして守り、人にも教えていた。
あらゆることに対し、そんな態度で挑むことを、自己制約と言い、それを実践する者のことを、モラルがある人と言うのである。
そして、モラルがある者こそが幸運なのである。

例えば、パワハラをするような上司は、尊大に振る舞いたいという、人間だれしも持っている欲望をコントロール出来ない・・・つまり、個人的欲望を自己制約出来ない者であり、モラルがないのである。
そのような者は、一時的に良い状況にあっても、すぐに駄目になり、惨めな状況に落ちる。
パワハラの被害に遭った方は、決して自己制約を忘れてはならない。
そうすれば、幸運に恵まれ、状況は改善すると思う。








天に選ばれる者

自分の夢が、本物か妄想かの区別は難しい。
今は、サラリーマンをしているが、いつか、歌手や女優やモデルやミュージシャン、あるいは、プロスポーツ選手や作家や科学者になりたいと言っても、叶う可能性は、ほぼ・・・と言うより、全くないと断言出来る場合が多い。
しかし、確率としては、ほぼゼロだった夢を叶えた人もいるし、商売のために、そんな稀な例をクローズアップする迷惑なやつも多い(笑)。
また、ジョセフ・マーフィーの潜在意識による成功法則や、その他のニューソート(新思想とか光明思想と訳される)の教えによれば、人間は、内なる無限の力を使えば、叶わない夢はないはずである。
だが、ジョセフ・マーフィーの本の中にも、女優になることを夢見ている若い女性に対し、マーフィーが「子供の夢を卒業しなくてはいけない」と嗜める話もある。

ところで、こんな話もある。
「叶う叶わないは問題ではない。これは生き甲斐であり、この夢があるから、辛い人生を生きていられる」
思わず納得しかけるが、言ってる本人は、その夢が叶わないとは思っていない場合がほとんどだ。
30歳近くにもなって、実業団チームのトップというわけでもないのにプロサッカー選手になるとか、40歳も過ぎてミュージシャンになるため、毎晩、ギターを弾いて近所迷惑になっているとか。
そして、そんな夢を本気で追って、人生を無駄にしてしまうことも多いのである。つまり、やるべきことをせず、無駄なことに時間やお金を使ってしまうのである。

本物の夢と子供の夢(妄想の夢)との違いは、現状認識の違いと言って良い。
たとえば、いい歳をしてミュージシャンになりたいと本気で思っている人は、単に、現実が見えていないだけだ。
傍から見れば、絶対に無理だと一目瞭然であるが、そんな傍の人も、優しいというのではなく、わざわざ反発を食らうのも面倒だしシンドいので、「まあ、頑張れよ」とお茶を濁す(いい加減な言葉で誤魔化す)のであるが、言われた馬鹿は(笑)、「ああ、頑張るよ」と真顔で応えて見放されるのである。
ただ、そんなミュージシャンを夢見る精神的幼児も、実際にオーディションに言ったり、プロダクションに売り込みに行ったりすれば、すぐに現実が見えるのに、それをせず、動画を投稿していれば、いつか注目されて・・・とか思っているのだが、積極的な行動に出ないのは、実際のところ、本人も自分には無理だと分かっているからである。
また、ミュージシャンを目指して、現実的に挑戦する若い人も、諦めるのが遅い人が多いのではと思う。
30歳くらいでやっと諦め、まともな社会人になろうとしても、その歳ではなかなか厳しい。本当は25歳までに諦めるべきだったのだ。
「いや、30歳近く、あるいは、それ以上で成功したミュージシャンもいる」と言っても、それは才能がある人の話だし、ある程度やれば自分に才能がないくらい気付かないといけない・・・のだが、なかなか気付かないと言うより、認めないものなんだなあ(笑)。

こんな事実を知っておくと良いと思う。
「成功した人は、たまたま成功したのだ」
これは、もう絶対に本当だ。
ミュージシャンの才能があるのに、ミュージシャンになれなかった人なんていくらでもいる。そんな人は「たまたま成功する」ということがなかっただけだ。
私は、アインシュタイン並の天才で、普通の事務員や労働者をやっている人なんて、いくらでもいると思う。
アインシュタインだって、「たまたま」がなければ、やっぱり、埋もれたまま一生を終わったのだ。
正直な成功者は、全員が、「私が成功したのはたまたまだ」と言うのだ。
そう言わない不正直な成功者も多いし、あるいは、自分がたまたま成功したことを自覚していない成功者も少なくないかもしれない。

自分に「たまたま」が来そうにないと分かったら、諦めることだ。
だが、「たまたま」を呼ぶことは出来る。
「たまたま」とは、いわば、「神に(あるいは天に)選ばれる」ということだ。
なら、神に(天に)選ばれるような者になれば良いのである。
どうすれば・・・って、そんなこと、分からないはずがないじゃないか?
そんなことを教えてもらおうなんて者は、決して選ばれない。私はそう思う。








どんな人にチャンスがやってくるのか?

成功するためには運が必要だし、その運とは、チャンスという形で訪れる。
ところが、「チャンスを無駄にする」には2つあり、1つは、好機到来で何もしなかったことで、もう1つは、チャンスを生かそうと頑張ったが駄目だったことだ。
そう思われている。
だが、実際に多いのは、チャンスだと思ったが、実は、それは、偽のチャンスで、本当はチャンスでも何でもなかったというものだ。

どうすれば、本当のチャンスがやってくるのか?
それは、あまり賛同してくれる人はいないかもしれないが、チャンスは高貴な心の持ち主のところにやって来るのである。
これへの反論は簡単で、たとえば、プーチンは高貴な心の持ち主かというものだ。
あるいは、ナポレオンやヒトラーは?
彼らも、初めは高貴な心を持っていたのだ。
高貴な心の持ち主がチャンスを掴み、成功したが堕落すると、やがて悲惨が訪れ、地獄の苦しみを味わう。
だが、悪霊とか悪魔とかいったものに支配されて(悪魔に魂を売って)、悪魔の奴隷として人の上に君臨し続ける者も稀にいる。まあ、そんな者の心は牢獄に閉じ込められているのだが。
とはいえ、やはり、チャンスは高貴な心の持ち主にのみ訪れるのである。
そして、成功しても、悪魔の誘惑が来る前に、手放すべき成功は手放すことだ。
だが、肝心なことは、高貴な心がなくては、チャンスも来ないということだ。

高貴な心とは何だろう?
アメリカに、アンナ・メアリー・ロバートソン・モーゼス(1860~1961。101歳没)という名の有名な女性画家がいて、彼女は、グランマ・モーゼス(モーゼスおばあちゃん)の名で通っている。
貧しい家の生まれで、12歳で奉公に出され、厳しい人生であったが、真面目に働いた。
老後は、刺繍が趣味だったが、リュウマチでそれが出来なくなり、代わりに、70歳位で油絵に打ち込むようになり、80歳位で画家で成功する。
だが、画家で大金が入って来るようになっても、アトリエを作ることもなく、台所の隅で、ただ、熱心に丁寧に描き続け、高齢で始めたにも関わらず、最も多作な画家となり、100歳を過ぎても優れた作品を制作した。
ただ、淡々と継続する・・・これをなす心を高貴と言うのだろう。
成功のことなど何も考えず、むしろ、注目されることなど一生ないことを当たり前と思っている。
誰かを見返そうとか、自分の存在を世に示そうなど、努々考えていない。
こんな人のことを、自我が弱い人と言う場合があるが、むしろ、自我が浄化されている、あるいは、昨日も書いたが、自我の周波数が高いのである。
それを達成するための、仕事や日常生活以外の行としては、腕振り運動を、力を抜き、自動的に腕が振れるようにするものがある。
坐禅や瞑想や読経や祝詞、あるいは、真言や念仏などで心の浄化を果たそうとする者も多いが、ほとんど失敗すると思う。
腕振り運動だって、完全に心の周波数を上げるまでには至らないかもしれないが、そこそこまでは誰でも間違いなく可能なところが、他の、じっと座ってやる行との違いである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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