ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

幸運

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

幸せな操り人形になるには

ここ2回ほど書いたが、人間というものは、自分で考えているのではなく、自分で考えていると錯覚させられているのである。
これは科学的事実であるらしい。
就職活動をしている者が、A社とB社から内定を受ける。そして、熟考の上、A社に入社を決める。この場合も、本人は自分でA社を選んだつもりだが、実は、選ばされただけなのに、自分で選んだと錯覚しているのである。
「いや、客観的に考えて、明らかにA社が良いと判断出来たからA社にした」
と言うかもしれない。
ところが、
「客観的に考えるとA社が良いが、B社に入ろうと思う」
と言う場合もあるのである。
この場合も、「条件は悪いが、私はB社に入る」と自分で決めたと思ってはいても、やはり、自分で選んだと錯覚しているだけだ。

映画『荒野の7人』で、ガンマンの1人がこんな思い出話をする。
「昔、裸でサボテンの中に飛び込んだ男がいた。そいつに、なぜそんなことをしたのかと聞くと、そいつは言った。その時はそれでいいと思ったと」
この話の中の、
「その時はそれでいいと思った」
は、
「なぜか、その時はそれでいいと思った」
と正確に言うと、それこそが、人間の有り様なのである。
これも、本当のところは、
「その時はそれでいいと思わされた」
のである。
何かにね。

ビル・ゲイツは、ハーバード大学生だった18歳の時、発売されたばかりの史上初のパソコンであるアルテア8080用にBASIC言語を作ったら面白いと思い、マイクロソフト社を立ち上げ、友人のポール・アレンとそれ(アルテア8080用BASIC)を作り、それがヒットして金持ちになった。
続いて、IBMがパソコン用の本格OSを作ってくれないかと相談してきた時、ゲイツはそれを引き受け、既にパソコン用OSを完成していた会社から、そのOSの権利を買い取り、技術者も引き抜いて、そのOSを改良し、新しいOSを完成させた。そして、IBMに、このOSの権利を売り渡さず、パソコンが1台売れる度に、マイクロソフトからOS1つを買うというライセンス販売の契約をした。すると、IBMのパソコンだけでなく、IBMのクローンパソコンも販売数は爆発的に伸び、それらのパソコンが売れれば売れるだけ、マイクロソフトのOSも売れ、ゲイツはとんでもない富豪になった。
時が流れ、IBMが、「次のOSは共同開発しよう」と言ってくると、ゲイツは、なぜか、それを受け入れた。そのOSがOS/2だった。
しかし、OS/2開発と並行して、ゲイツは部下にWindowsを開発させ、OS/2がなかなか普及しない中、Windowsが売れまくり、ゲイツはさらに金持ちになる。ここまで、敗北無しのゲイツだった。
しかし、インターネット時代が始まった時、ゲイツは、インターネットの可能性を低く見て、インターネットにあまり多くの力を注がず、インターネット市場をグーグルやアップルに占領されてしまった。
これらのゲイツの判断も、ゲイツは自分で行ったと思っているが、彼も操り人形に過ぎないのである。
それは、アップルのスティーブ・ジョブズも、グーグルのラリー・ペイジも、そして、メタ(フェイスブック)のマーク・ザッカーバーグも、テスラのイーロン・マスクも同じである。

では、我々も、ゲイツやジョブズ、あるいは、マスクのように操られたいものであるが、それが、誰にでも良いこととは思えない。
しかし、間違いだらけの選択をさせられ、惨めで悲しい状況ばかり味わうのも御免である。

では、どうすれば良いか?
それはこうだ。
ギャンブルの秘法というものがある。
決して負けない神がかったギャンブラーがいて、彼は滅多に勝負しないが、希に行う勝負はいつも大金がかけられ、そして、彼は勝つのである。
やり方はこうだ。
勝負は一対一。
敵にとって、負けたら破滅するほどの額を賭ける。
そして、ルーレットの赤黒で勝負をするなら、必ず、相手に選ばせる。
敵は、自分で赤を選んだ気になる。
しかし、敵の頭の中の何者かが、彼に赤を選ばせ、それを彼は、自分が選んだと錯覚するのだ。負ける選択を。

お分かりだろうか?
勝とうと思っていると、あなたの操り主は、負ける選択をあなたにさせるのだ。
好奇心を満たそうと思っていると、英知があなたの味方をするのである。
好奇心を満たすことをやる時は、楽しい、面白い、ワクワクする・・・などと感じるものである。
だから、楽しい、面白い、ワクワクすると感じることを第一にすると、あなたの操り主は、幸福になれる選択を、あなたにさせるのである。








悪童達もこうして成功した

人間の徳には2つある。
1つは、善いことをすることで、もう1つは、悪いことをしないことだ。
だが、全ての善を行うことは極めて難しいか、あるいは、不可能だ。
また、全ての悪を行わないことも、極めて、難しいか、あるいは、不可能だ。
そこで、必ず行うべき善と、絶対に行ってはいけない悪を定め、それだけは守ることにする。
それを、戒律とか掟と言い、「モーセの十戒」もその1つだ。

ところが、実は、必ず行うべき善は1つ、絶対に行ってはならない悪は1つとして良いばかりか、「1つの必ず行う善」か「1つの絶対に行わない悪」を持ち、それを守れば、高次の力に保護される。
法然や親鸞の場合は、言うまでもなく「1つの必ず行うべき善」は念仏で、その他に善いことをする必要はなく、むしろ、その他の善いことをしてはならないし、いかなる悪を行っても構わない。
ただし、念仏を行っていれば、縁のある善いことは勝手にしてしまうし、縁のない悪いことは出来ないというのが親鸞の教えであったようだ。

14世紀のインドにサックバーイーという女性がいたらしいが、私は、彼女のことは、ラマナ・マハルシやサイババの本で断片的に語られているのを見ただけで、正確なことは知らない。
彼女は、クリシュナ神の1つの名である「パーンドゥランガ」の名を唱えることを最も重要なこととしていた。
パーンドゥランガは、彼女が生まれ育った場所で信仰されていたのだが、どんな経緯で、彼女がそこまでの信仰を持つようになったかは分からない。
彼女は子供の時に嫁がされ、嫁ぎ先でも辛い目に遭ったが、パーンドゥランガの名を常に唱えることで、あらゆる困難を克服し、遂には、クリシュナ神が直接、彼女を助けたことで、名を残すことになった。
念仏も、サックバーイーが行ったことも同じことだ。
そして、明治や大正の時代には、日本にも、念仏によってサックバーイーのようになった妙好人と呼ばれる人が沢山いた。妙好人は、見かけはごく普通というか、学問のない貧しい人であった場合が多いと思うが、奇跡のような人々であったと言われる。

念仏やナーマスマラナ(神仏の名を心で唱えること)でなくても、1つの善行をずっと続けることで、実際には人間を超えたような人々もいた。
一方、「これ(1つの悪いこと)だけは絶対にしない」という徳の力も、同じ位大きいかもしれない。
それで思い出すのは、大俳優だった丹波哲郎さんだ。
彼は、子供の時から、常に好き勝手に生きていたが、とにかく、困ることは全くなく、常に良い想いをしたらしい。
例えば、彼が若い頃は、日本は戦争中で、彼も二等兵(最下位の兵)として従軍したが、他の全ての二等兵は、上官の服の洗濯をするなどで上官の機嫌を取っていたが、彼は、面倒だからとそんなことは一切しなかった。ところが、それで酷い目に遭わされたかというと、それは全くなく、それどころか、楽で安全な場所に送られ、そこで女の子と遊びながら終戦までのんびり過ごしたという。
私は、丹波さんが理想で(笑)、かなりうまくやれていると思う。
丹波さんは、自分が運に恵まれる要因は、まあ、後には守護霊に守られているからということを強調し、実際にそうであるとは思うが、子供の時から、自分には「こだわりがない」という美点があったと丹波さんはよく本に書かれていた。
「こだわらない」では、曖昧過ぎて漠然としているが、私が思うに、丹波さんは、「弱い者いじめをしなかった」のだと思う。
強い立場にある人間にこだわりがあると、その者は、意識的、無意識的に弱い者いじめをしてしまうが、丹波さんには、それが全くなかったのだ。
それでさらに思い出すのが、空手家の大山倍達さんだ。
昭和の空手ブームの時、彼の伝記は漫画やアニメにもなり、その際、彼はかなり美化され、少年達のヒーローになった。
だが、実際の大山さんは、感心出来ない部分も多いと言うより、ロクでもないことも沢山やった。
しかし、子供の時から、並外れて腕力が強く、喧嘩で無敵であった彼も、弱い者いじめだけは絶対にしなかった。
弱い者いじめをしないことが、最上かどうかは分からないが、神仏に守られ、幸運を呼ぶ秘訣であると思う。








せめて悲惨を免れるだけの幸運を呼ぶ

人生が順調な者もいれば、そうでない者もいる。
極端に順調な例が、野球のメジャーリーグで活躍する大谷翔平だろう。
そして、彼を応援する者も、概ねでうまくいっている方ではないかと思う。
ところが、大谷翔平を妙に否定的な目で見る者もいるもので、そんな者はきっと、人生がうまくいっていない者だ。
例えば、自分も高校の時に野球をやっていて、プロを夢見たこともあったが、野球部のレギュラーにすらなれなかったり、所属していた野球部自体は甲子園にまで行き、ベンチには入れたが全く出場出来なかった、あるいは、最後にお情けで代打で一打席だけ打席に立たせてもらったが凡退したといった感じだったとする。
ただ、それでも、悔いなくやったと思ったのなら良いが、うまくいかなかったことが重い嫌な記憶になってしまった者は、大谷翔平のような華々しい者を見ると、憎しみの感情を持ったりする場合もあるだろう。
そんな者を「ひねくれたやつ」とか「歪んだやつ」と言うのかもしれないが、そんな者の気持ちも分からないでもない。
そして、そんな者達は、その抑圧された感情のためか、往々にして、何をやってもうまくいかない。

『僕は友達が少ない』というアニメの中で、三日月夜空(性格は悪いが優秀で美少女)が、頭を抱えて「どうしていつも、こう、うまくいかないんだ!」と吐き捨てる場面がある(第2シーズン「NEXT」の方だが)。
そんなものを見て、感情移入する者は、やはり、自分も人生がうまくいっていない者だろう。
実は、私も、なかなかそうだ(笑)。
ミュージシャンになりたくて頑張ったが駄目だった者、科学者になりたかったが大学にも行けなかった者・・・そんな挫折が、深い心のしこりになってしまっている者もいるだろう。
イギリスの作家コリン・ウィルソンも科学者志望だったが、彼の場合は家が貧しくて高校にもいけず、工場労働者になり、陰鬱な日々を過ごし、ついには自殺をしかけた。まあ、それで、青酸カリをまさに口に含もうとした時に、意識の変革が起こり、ついには、世界的作家になったのだが・・・普通は、自殺しないまでも、陰気にうな垂れて一生を送りかねない。

犯罪者になったり、奴隷同然の最低な人生を送る者も、大抵は、子供の時は夢や希望を持っていたと思うのだ。
それなのに、人生の敗北者になってしまったのは、自分の責任であろうか?
そうとしか言えない場合もあるかもしれないが、ほとんどは、単に運が悪かったのだ。
『レ・ミゼラブル』で、ジャン・ヴァルジャンがミリエル司教に会わなかったような人生だ。
ミリエル司教に会うまでのジャン・ヴァルジャンに感情移入し、涙する者なら、やはり、相当についてないやつだ。
私など、涙が止まらない(笑)。

私は、ミリエル司教に会わない場合のジャン・ヴァルジャンの道を進んでいたが、いつも最悪を免れたばかりか、幸運に恵まれ、安楽な良い想いばかりしてきた。それはもう、奇跡のような展開だった。
そして、それはただ、中岡俊哉の『守護霊占運学』という本を読み、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えていたからに違いない。
ただ、唱え方が足りなかったのだろう。偉人になったわけではない(笑)。それでも、威力が絶大なことは分かった。
人間、そんなに苦労するものではない。
そのためには、私のように、仏・菩薩の真言を唱えるのも1つの手だ。
それで十分だが、私は、その恩恵を受けたこともあり、長年に渡って研究を続け、もっと良い方法があることも分かった。
やり方はいろいろである。
ただし、巷にある、引き寄せの本のような難しいものに取り組んだら、何の成果も出ないまま、あっという間に人生が終わりかねない。
法然や親鸞のように、「所詮、人間に出来るのは念仏くらい」と見極められる人は、賢い人であると思うが、その点に関して「だけ」は私も賢くなったようである。
楽をさせる方法であれば、自信がある(笑)。
それ以上のことは、各自の志の問題であると思う。








賢い高校生と愚かな高校生

真言を唱えている人間がいかに優れているかを示そうと思う。
例えば、高校生を例に考えよう。
まず、最も劣悪な高校生とは、どんな高校生だろう?
それは、奇声を上げる者、喚き騒ぐ者、意味のないおしゃべりを大声でずっとしている者・・・等である。
こんな者達は、高校生とはいえ、本当は、世の中に在ってはならない。
一方、優れた高校生とは、どのような者だろう。
確かに、一概に言えるわけではないだろうが、あり得ないほど優れた・・・と言うなら、心の中で優れた真言をずっと唱えている者である。
こんな高校生など滅多に居ないだろうが、もし居れば、貴重な存在であり、世の宝であり、若くてもリーダーである。
このことは、人間に本来備わった悟性による直観で正しいと感じる。

大人になっても奇声を上げ、喚き回る者は、あくまで神仏の慈悲によってだが、苦しみが与えられる。しかし、それでも変化がなければ、何らかの形で世から消えるしかない。
幸い、あまりに酷いレベルでないのなら、そこそこの苦しみが長く続けられるが、そうではなく、度を超していれば、極度の苦しみを与えることで、なんとか変化させようという力が働くだろう。
苦しみを終わらせたければ、真言を唱えれば良いのだが、なかなか、そのような縁に巡り合わない。
一方、静かに心で真言を唱え続ける者には、知恵が与えられ、知恵があるがゆえに安楽である。
ただし、特に知恵がある者の中には、運命によって、あえて苦しみを選び、世界や人々に貢献する者もいるのである。
だが、その運命になければ、世に出ることはない。

よって、僧侶や、それに相当する指導者であれば声で、そうでなければ、心で真言を数多く唱えることが、知恵を得るための、そして、結果として安楽を得るための、最も易しい方法なのである。
真言がなぜ効くのかの根拠は、ヒンズー教やマニ教、あるいは、古代仏教や、その他の宗教、密教、秘教の教えにあるが、調べてみたが難解なので、特に関心のある方のみ研究すれば良いと思う。
あるいは、現代科学の延長として、パイオニアとして、真言の力の解明を行うことも考えられるが、まだほとんど成果は出ていないし、そんなことをやっていると言う者にはロクでもない者も多いので、あくまで参考程度に聞くにとどめた方が良い。

毎日、長時間、心の中で丁寧に真言を唱えている者に、愚か者、運の悪い者が居るとは考えられない。
だが、普通の人が声を出して唱えていたら、小声の場合は良いかもしれないが、そんな者に、あまり賢い人はおらず、まして、耳障りな声であれば、愚か者であると思う。当然、運も悪い。
私は、これしか知らないからという理由で、以下のものを勧めている。
「南無阿弥陀仏」(参照:『選択本願念仏集』『歎異抄』)
「南無観世音菩薩」(参照:『法華経』25章『観音経』)
「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」(阿弥陀如来真言)
「オン、アロリキャ、ソワカ」(観世音菩薩真言)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(般若心経の呪文)
「オン、アビラウンケン」(大日如来真言)
優れたものであれば、どの真言も良く、優劣はない。
1つでも良く、心楽しい限り、いくつでも構わない。
ちなみに、自分が真言を唱えていることを、人に言う必要はないし、今の世の中、言わない方が良いかもしれない。
だが、唱えていれば、幸運に恵まれ、不思議な、そして、大きな力の援助があり、また、自然に、周囲から敬われるようになるだろう。皆、なぜかは分からないが、そんな者を敬わずにはいられないのである。








運を良くしてから始めないと楽しい思いは出来ない

ツイッター上でよく、「これからプログラミングの勉強します」とか「就職するので頑張ります」とツイートする人がいるが、彼らが今後、うまくいくか・・・と言うより、「良い思いが出来るのか」疑問に思うことがある。
どういうことかというと、それらのツイートには、「プログラミングが出来るようになったら良くなる」とか「就職して頑張ったら良くなる」という思い込みが見えるのだ。
そうではなく、「良い状態になったから勉強する」「良い状態になったから働く」でなければ、勉強や勤労が楽しいものにならないのである。
良い状態とは、「運が良い状態」だ。
運が良い時にプログラミングの勉強を始めたら、勉強がはかどるし、勉強をすることで良いことが起こる。
運が良い時に就職したら、職場で良いことが次々に起こって、良い思いが出来るのである。
運が悪い時にプログラミングの勉強をしても、挫折したり、悪いことが起こり易いし、むしろ、ITに弱くなってしまうかもしれない。
運が悪い時に就職したら、職場で嫌な思いをするかもしれない。
だから、まずは、運を良くしなければならない。

で、運を良くする方法は、有名な人や偉い人が、結構良いことも本に書いてくれているが、それらの本は、見栄や偏見が多過ぎて、とてもじゃないが役には立たないものが多い。
良い本であっても、1つの優れたアドバイスに対して、10の余計なことが書かれていて、ウブな読者は、その10に混乱させられて、肝心なことが出来ないのだ。

運を良くするためにすべきことは、たった1つ。
マントラ(真言や呪文等)を唱えることである。
これで終わり。
マントラは何でもよろしい。
「オン、アビラウンケン」でも、「南無阿弥陀仏」でも、「南無観世音菩薩」でも、「アジマリカン」でも、「トホカミエミタメ」でも。
あるいは、般若心経の呪文「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」でも。
差はない。
ある高位のお坊様の本に、「真言を唱えるべき時間は」とか、「真言を唱える時の心構えは」とか、「真言を唱える時の姿勢は」とか、いっぱい書かれていたが、全部、必要ない。
ただ、真言を唱えれば良い。
出来るだけ、数多く。
なぜ、そんなことが言えるのかと言うと、私は、まず、子供の時は、それで良い思いばかりしたし、社会人になってからも同じである。
特に、社会人になる前は、中学、高校時代は暗かったし、大学時代はニートだったが(笑)、中学から大学まではマントラを唱えてなかったのだ。
しかし、そんなニートの駄目人間が、いきなりブラック企業デビューしたのに(笑)、堂々通用した・・・というより、不思議ななりゆきで上手くいったのは、たまたま読んだ、中岡俊哉先生の本で、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を覚え、それをずっと唱えていたからだ。
マントラを唱えると、冗談のようにうまくいった。
そして、直観的に、誰がやってもそうなるはずなのである。
マニュアルとしては、やはり、『歎異抄』をお勧めする。
霊験あらたかということの証拠としては、織田隆弘氏の『観音開運法』が参考になるが、個人的には、この本の細かな部分は、あくまで参考にする範囲に留めることをお勧めする。あくまで個人的にだが。
実は、マントラに関して、当を得たことを書いた良い本は、本当にない。
少しは良いことが書かれている本もあるのだろうが、1冊の本になった時点で長過ぎ、余計なことが9割になってしまうのだと思う。

講談社現代新書の『死と生の記録』に、念仏に関する良いお話が、少しだけだが、いくつか書かれている。
特に、肺病にかかって、余命5年を宣告された青年の話が良かった。
念仏だけで覚醒してしまったのだ。その後のことは書かれていないが、おそらく、病気は治ったのではないかと思う。ただし、そうでなくても、この青年は安らかだったはずである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
Kay Twitter Home

執筆のご依頼




最新コメント


月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ

PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ


タグクラウド
QRコード
QRコード