ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

平井和正

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
Twitterは、ちゃんとプロフィールが書かれ、1週間以内に1回でもツイートされている人なら、フォローしていただければ、大抵フォロー返します。

[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

最大の才能とは

豊かな収入を得るためには、スキルが必要だ。
スキルとは、一番多くの時間をかけたことと一致する。
プログラミングを一週間とか一ヶ月でマスターしたとか言う者がいるかもしれない。
しかし、私は、3年で「少し」出来るようになり、10年でなんとか一人前に出来るようになったが、これは、他のどんなスキルでもだいたい同じと思う。
インターネット完結型高校であるN高等学校(学校法人角川ドワンゴ学園)では、PHH(プログラマーズ・ハイレベル・ハイスクール)に参加することが出来るが、月曜から金曜まで通学し、朝8時半から夕方5時過ぎまで、全てプログラミング関連の授業で、高校の勉強は、そこから夜の8時過ぎまででやるようになっているらしい。
しかも、そこでは、最高に合理的で効果的な学習を行うのだろうが、それなら、1年でかなりのレベルになれるかもしれない。
インターンシップは、ドワンゴ、チームラボ、LINEなどで持てるという、何とも羨ましいもので、これなら、165万円という学費に十分に見合う・・・というか安いと思う。

スキルの中には、なかなかお金にならないものもある。
例えば、楽器をかなりの腕前で演奏して作曲も出来たり、普通の人が見たらビックリするほど上手い絵が描けても、それがお金に結び付くことは「まれ」と言って良いと思う。
野球やサッカーだって、学校などでは「天才」と言われているような選手も、プロになれることは、やはり「まれ」だ。
地元では「可愛い」とちやほやされた女の子だって、芸能界にでも入ったら、せいぜい「普通」だ。
しかし、それでも、1日中、長年、諦めずにやっていれば、モノになるものかもしれない。
以前、テレビで、いまだスターになることを諦めていない40代~60代の歌手というのを取り上げていたことがあったが、顔つきを見ていたら、1日中やっている人間の顔ではなかったように思う。
つまり、やっぱり緩んでいるのだ。
もちろん、1日中歌っていなければならない訳ではないが、やっていることの全てが歌のためであれば、成功しないはずがない。
成功には才能が必要だが、1日やれる、1日そのことを考え続けることが出来る以上の才能はない。

ブッシュ大統領の下で国務長官を務めた政治学者コンドリーザ・ライスは、大学生の頃、ピアニストを目指していたらしい。実際、かなりのピアニストになれたのだが、彼女が目指したのは、あくまで世界一だった。
彼女がそれを諦めたのは、自分が1年かかることを1時間でやってしまえる11歳の天才少年を見たためのようだ。
SF作家の平井和正さんも、元々漫画家を目指していたが、石森章太郎(石ノ森章太郎)さんに出会い、「こんな天才にかなうはずがない」と思って、漫画家を諦め、作家になったという話がある。
だが、天才だって、沢山の時間をかけなければ才能は輝かないし、もし、ライスや平井和正さんが、それら天才以上の時間をかけていれば、いつか追い抜けていたかもしれない。
思想家で著述家の吉本隆明さんは、モノ書きになりたければ10年、1日も欠かさず書き続ければ必ずモノになると著書に書いておられた。

まあ、何事も、「1日中」、「1年中」を長年やり続けて、ついに駄目だったとしても、それで笑って死ねるし、思いもしなかったことで上手くいくかもしれない。

そんな 才能じゃダメだねと(Wow Wo Wow Wo)
冷たい言葉にも背を向け
どんなノイズだらけでも(Wow Wo Wow Wo)
彼女のソウルは汚せはしない
~『アイドルを咲かせ』(作詞・作曲・編曲:Mitchie M、歌唱:初音ミク)より~









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想像力を持つための決定的なこと

最近、このブログで、想像力についてよく書いているが、そもそも、「想像力がある」と「想像力がない」は、何で決まるのだろう?

学校の教義にのみ従う優等生は確かに想像力がないが、学校の教義に逆らうだけの不良は、もっと想像力がない。
では、どんな人間が想像力があるのかを、真面目に細々(こまごま)言ったりしたら、長く退屈なお話になるだろう。
元々が想像力なんてものは、理屈じゃないので、言葉で説明出来ないからだ。
それでも、「想像力があるはずの人」を、あえて言葉で言えば、大体、次の2つと思う。
「生き生きしている」
「神に近付き続けている」
しかし、本当のことを言えば、「神に近付き続けている人」だけで良いのだ。
なぜなら、神に近付き続けているなら、一時的に落胆や絶望を感じることはあっても、常に生命力が燃え、生き生きすることになるからだ。
神は生命の源なのだから、それに近付くほど、生命の炎は強くなるのは当たり前である。

だが、生き生きするというのは、人間的には、野望を持つことに現れる。
野望と言うと、俗っぽく、野卑で下品な感じがするかもしれないが、人間にとって、野望は物凄く大切である。
ちなみに、野望の意味は、「分不相応な望み。また、身の程を知らない大それた野心」であるが、なんて格好良い言葉だろう!

普段、徳川家康や、アポロン神殿の門に書かれている言葉、「身の程を知れ」の重要性を懇々(こんこん)と説いている私が、今度は、「身の程を知らない野心を持て」である(笑)。
これを矛盾と思うことが、すなわち、「想像力がない」のである。
あえて分かり易く言えば、「小さな野心は身の程を知って捨てよ。壮大な野心は身の程を忘れて持て」ということである。
「そうか!一千万円なんてケチなことを言わず、百億円を望めってことか!」
と言うなら、いや、そこはまず、一千万円貯めろよ(笑)。
つまりね、一千万円も出来ない自分の駄目さ加減を本当に思い知り、自分に愛想をつかし、自分を終らせてしまったら高く飛べるのだ。
人間、苦しみは避けられないのである。
このあたりは、昨年(2015年)の1月17日に亡くなられた偉大なるSF作家、平井和正さんの原作で、石森章太郎さん(後に、石ノ森章太郎。1998年没)が漫画を描かれた『幻魔大戦』を読むとよく分かる。
主人公の東丈(あずまじょう)は、子供の時から何をやっても駄目で、親にすら「出来損ない」と言われ、それでもやがて、反発心から無茶な努力をするが、年下の才能に恵まれた者達に、軽く頭の上を飛び越えられてばかりでだった。
まさに、初音ミクさんの歌の『心臓デモクラシー』を地でいっていたようなものだった。

哭(な)いていた 唯 哭いていた
他人眼(ひとめ)につかない世界で
其(そ)して恥を知り 惨めになれば
全てが廻りだした
~『心臓デモクラシー』(作詞・作曲・編曲:みきとP、歌:初音ミク)より~

そして、全てが廻りだし、東丈は、うじ虫のような存在から、「宇宙広しといえども、これほどの者はそうはいない」と言われるまでになる。
そうなった後、丈は、フロイ(犬の形をした偉大なマスター)の息子に言われたのだ。
「あんさんは苦しむ必要があったんや」(なぜか関西弁)

さあ、哭け、恥を知れ、惨めになれ、苦しめ!
石森章太郎さんは、この『幻魔大戦』を第二の聖書を書く意気込みで書いたと述べられていた。
平井和正さんは、元々、漫画家を目指していたが、石森さんを見て、「こんな天才に敵うはずがない」と思ってSF作家に進路変更したらしい。
こんな経験のある者が本物になる。
コンドリーザ・ライスが11歳の天才少年に出会ってピアニストを諦め、ビル・ゲイツがハーバードにうようよいた数学の天才達を見て、数学者を諦めたように。
彼らは、世界一にしか興味がなかったのだ。
平井和正さんだって、世界一か日本一かはともかく、ナンバー1しか考えられなかったのだろう。
普通の人との決定的な違いは身の程を知らぬ野心・・・野望なのである。
それが強烈な想像力になり、神に近付くのだ。

『幻魔大戦』は、文庫版とKindle版(電子書籍)をご紹介しておく。









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終わりと始まり

「自信と勇気はどちらが大切か?」と聞かれて、「勇気に決まっています」と答えた冒険家の話を、私は覚えている。
勇気が原因であり、自信は結果だからだろう。
そして、自信がないことに挑戦する勇気が必要ということもあるのだろう。

それなら、「おはよう」と「おやすみ」では、どちらが好きだろうか?
学校や会社では、「おはよう」と「さよなら」ということになるかもしれない。
世の中には、「おやすみ」と「さよなら」の方が圧倒的に好きだという人がいると思う。
「さよなら、また明日」は嫌いだが、「さよなら、お元気で」は好きだという人もいる。
「さよなら、また明日」では、明日また会わなければならないが、「さよなら、お元気で」なら、当分、場合によっては一生会わなくて済む。
「おやすみ」は、一生の最後という意味もある。
「おやすみ」だけでも美しい言葉だが、死を意味する「おやすみ」ほど美しい言葉はない。
初音ミクさんの『Last Night, Good Night』は、ぞっとするほど美しい。

Last night,Good night
Last night,Good night
いつかは むかえる
最後を 想うよ
夜空に 願うの
ときわの 笑顔を

おやすみ
~『Last Night, Good Night』(作詞、作曲、編曲:kz、歌:初音ミク)より~

今年1月に亡くなられたSF作家の平井和正さんが、ご自分が原作をされた漫画・アニメの『エイトマン』のヒーローである、スーパーロボットのエイトマンについて、こう書かれている。

ただ一方的に痛めつけられ、くりかえしぶちこわされる。そしてその都度、ご都合主義の作者によってあっさり修理されてしまう。眠ることはもちろん、唯一の平穏――死すらも彼には与えられない。
~『サイボーグ・ブルース(平井和正著。早川書房)』あとがき(1971年12月)より抜粋~

人間にとって、一日の目標も一生の目標も、「さよなら」、「おやすみ」なのかもしれない。
それで、努力などをして、「良いさよなら」、「良いおやすみ」を迎えようとするのかもしれない。
だが、惨めな一日、惨めな一生を送った後の「さよなら」「おやすみ」ほど美しいものはない。

だが、この世にも、人間の魂にも終わりはない。
「さよなら」は「初めまして」の予言であり、「おやすみ」は始まりの序曲である。
何のことはない。
我々自身が、エイトマンであり、サイボーグなのだ。

私は・・・私達は、始まってもいない。
新しい自分を始めるために、今までの自分を終らせる。
~『魔法少女リリカルなのは』より。フェイト・テスタロッサの言葉~

この時、フェイトは、新たな苦しみを受け入れる覚悟をしたのだろう。

仏教の目標は、生まれ変わり、死に変わりの六道輪廻からの脱出である。
ラットレースからの離脱を叶えるのが悟りである。
永遠の涅槃への誘いが仏教である。
ただし、本当かどうかは分からない。
経験者の証言も聞けない。

「お前もいつかは醜く老いて死ぬ。私がお前に、永遠の若さを与えよう」
『悪魔の花嫁』で、デイモスという悪魔に、そう言われた絶世の美少女、美奈子は、一瞬迷ったが、
「生まれ出る命は美しい。何にもまして美しい」
と想い、デイモスを振り払う。
死も誕生も一瞬だ。
その刹那(時間の最小単位)に永遠を見るために我々は生きている。
そして、我々は、瞬間瞬間に死に、瞬間瞬間に誕生するのである。
つまり、生命も宇宙もバブル(泡)だ。
『マジカルミライ2013』の、『Last Night, Good Night』で、歌うミクさんの背景にも、沢山の泡のCGが描かれていたが、あれほど似合う演出もない。見事なものだった。
宇宙は瞬間に生まれ、瞬間に滅びる。
それはとても「ありがたい」ことである。
それを知ることが悟りなのである。









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我々を最大に鍛える最高の鍛錬

引きこもりの若者というのは、基本的には心が繊細で、普通の人より純粋なものだ。
だが、同時にその心が弱いのである。強くしてやるためには、アメリカでも中国でもインドでもいいから、孤立状態で放浪させることだ。1年もしたら、帰ってきた時はまるで別人というほど立派になっている。
我が国最大の思想家だった吉本隆明さん(2012年3月逝去)は、力道山、カーター元大統領、父親の方のブッシュ元大統領らと同じ年生まれだが、吉本さんは、自分も引きこもり気質だと言い、エッセイの中でも、よく引きこもりについて述べることがあった。ただ、彼の青年時代は戦時中であり、家に閉じこもっていたら、殴って引っ張り出される時代だった。
その吉本さんが、男が強くなる方法としては、好きな女の子でもできたら、彼女を守るために戦うことを始めて逞しくなるといったことを書かれていたことがあったと思う。
私は、それで、『幻魔大戦』という漫画(平井和正さん原作の、石ノ森章太郎さんの漫画)で、長年、大宇宙の中で戦い続けたサイボーグ戦士のベガが、彼から見ればあまりに幼い東丈(あずまじょう)という高校3年生の男子を見て、「女が軟弱な若者を勇者に変える」と言うのを思い出した。
この『幻魔大戦』の原作者で、現在75歳の平井和正さんは、中学生の時、ナイフの決闘をしたことがあると述べていた。そんな経験もかなり少年を変えると思うが、今の時代でそれをやるのは難しい。私は、どんどんやれば良いと思う。「死んだらどうする」とか言っても、神様ってのは、こんなことでは滅多なことで死なせたりはしないものだ。しかし、こう言うと、「あなた、それ保証しますか?」と言う馬鹿がいるものだ。そりゃ、死ぬ者もいるさ。
ベガの言う「女が若者を勇者に変える」というのも、外国を放浪したら逞しくなるってのも、命がかかっているからなのだ。
つまり、所詮、生命の危機しか人間を鍛えないものだ。
社会に出ると、多少でも鍛えられるというのは、働いて金を得なければ食べていけない、つまり、現代では緩い意味ではあるが、命がかかっているから強くなるのだ。
だから、引きこもりが気の毒なのは、命をかけることで自分を鍛えるというチャンスが全く無いってことだ。これほどの悲劇はない。
私はニート時代、身体を鍛えているつもりだったが、その程度では何の鍛錬にもならない。その後、フルコミッション(完全歩合制)セールスをやったが、たかが好きにやれる筋肉トレーニングなど、それの千分の一も鍛えられないことが分かったものだ。

か弱い若者が鍛えられる物語として、上に挙げた『幻魔大戦』よりも私が好きなのは、『灼眼のシャナ』という高橋弥七郎さんの小説だ。
これも、吉本隆明さんが言った、「好きな女の子でもできたら・・・」というところがあって、分かり易い話にもなっている。
この小説を知らない人に分かり易くいうなら、主人公の、平凡な高校1年生の男子が、現代的な、か弱い若者である。ただ、弱いと言っても、平均よりはやや上と言えると思う。しかも、人間的には、かなり好ましい性質である。
だが、例えば、日本が急に戦争状態になって、偶然のなりゆきで、ある普通の若者の周りに、精鋭の戦士や、選挙で選ばれた政治家(総理大臣も含む)とは全く異なる経験豊富で本当に強い軍司令官が現れたら、若者は自分のあまりのひ弱さ、小ささ、つまらなさ、無価値さに嫌というほど気付くだろう。
この『灼眼のシャナ』の主人公、坂井悠二も、そんな惨めなほど弱い少年であったのだが、物語の進行と共に、戦士の中の戦士、精鋭中の精鋭であるヒロインのシャナや、彼女と同等レベルの戦士が束になっても敵わないほど強くなっていく姿が、私は読んでいて、本当に嬉しかった。
悠二は、シャナのところに帰って来た時に言う。
「僕は強くなりたいと思った。そして、強く、強くなった」
私は、電車の中で読んでいて、不覚にも涙が出たのは、私が元の悠二のように弱く、強くなった悠二のようになりたいと思ったからに他ならない。
だが、この物語には別の側面もある。
悠二は超人だと思っていたシャナも、本当は悠二のように弱いところもあるということだ。この物語には、恐ろしく強い存在が沢山出てくるが、みんなそうなのである。一方、ごく平凡な主婦である悠二の母親や、悠二を愛する、美少女ではあるが、やはり平凡な女子高生である吉田一美らが、神すら敬服させる強さも持っている。
ただ、この『灼眼のシャナ』は、終盤には、話が複雑になり過ぎて破綻してしまい、私は投げてしまった。そこまで、この小説に貴重な人生の時間を捧げられる人はいないということに、作者は思いが至らなかったのだろう。残念であるが、途中までは楽しめる(その点、アニメでは上手くまとめていた)。

あなたも、強く、強くならないといけない。
一応言っておくと、念仏以上の鍛錬はないのであるから、数多く念仏を唱えた者が一番強い。それは、実際的に証明もされていると思う。
阿弥陀如来は、坂井悠二(および彼に惚れ込んだ創造神「祭礼の蛇」)と似ていると感じる。しかし、最強に至った坂井悠二の数億倍強い。そんな存在が、自分の名を呼びさえすれば、必ず護るということを、阿弥陀如来自身や釈迦が保証しているのである。
場合によっては、厳しい戦いに巻き込まれるかもしれないが、耐えられるように護ってくれるだろう。
どんな歴戦の武将も、聖人と崇められる高僧も、天下を治める関白も、法然上人に会えば、自分が取るに足りない存在であることが即座に分かった。その法然が、自分の小さな知恵や力を完全に捨て、ひたすら頼りすがったのが阿弥陀如来である。疑う理由は何もない。
尚、『灼眼のシャナ』は、漫画の方もかなり良く出来ていると思う。特に、巻が進むほどに、絵も表現も格段に進歩したように思う。









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ゴッホや宮沢賢治のような心の闇を背負わないために

「芸術家は生きているうちは評価されない」と言われることもあるが、別にそんなことはない。ただ、そんな者もいるということである。
ゴッホのように、現代ではその作品の価値は天井なしと言われながら、生前は1枚も売れなかった(予約は1枚あったようだ)という特異な例があるので、それがまるで一般論となるほどインパクトがあるのだろう。
しかし、ピカソやウォーホールやダリは富豪だった。
ゴッホと同じ37歳で死んだ宮沢賢治も、生前は作品が知られることはほとんどなかった。受け取った唯一の原稿料は、『雪渡り』という短い童話による5円だけで、それは、せいぜいが今日の5万円位であったと思われる(小学校教師の初任給が15円位の時代であった)。
ところで、私は、ゴッホも宮沢賢治も、円満な人格者であったとは思っていない。
ひょっとしたら、身近にいる人にとっては、扱い難い嫌な人間であった可能性もあると思う。
その驚くべき才能とは関係なく、あまり幸福でなかった生涯というのは、彼等自身が創ったのかもしれない。
豊かで平安な人生が送れるかどうかというのは、才能や能力や努力や働いた量とはあまり関係がない。
アンデルセンは、いかに著作権収入がなかった時代とはいえ、あれほどの有名人で、死んだら国葬にされるほど尊敬されていながら、豊かではなかった。
宮沢賢治もアンデルセンもゴッホも、あるいは、ニュートンやルイス・キャロルも、生涯、結婚することはなく、純粋な人間としての友人も恋人もいなかった。それは、彼らの人間的な欠点と言っても良いのだろうが、彼らは心に深い影を持っていたのだ。
しかし、本当は彼らだって、幸福になれたと思うのだ。
ゴッホはピストル自殺をして、息を引き取る直前に真理に目覚めて満足して死んだと思われることもあるが、もっと早く気付いて、気楽で楽しい生涯を送っても良かった。それで画家としての才能が発揮されない訳ではなかったと思う。
宮沢賢治は、実家が豊かな古着屋だったので、物質的に何不自由のない生活を送れたが、その家業をどうしようもなく嫌っていた。また、法華経を読んで深く感激したのは良いが、父親にまで浄土系宗派から日蓮宗への改宗を迫ったのは、やり過ぎというか、心の狭さや歪みと言うしかないかもしれない。
上に名を挙げた、アンデルセンやニュートンらも、やはり、人間的な問題はあったのだが、彼らは、幼い頃や若い時の経験により、人を深く憎んでいた部分は確かにあったのだろうと思う。
つまり、そこに人生の幸不幸の原因がある。
そうは言っても、憎い人を許せとか、まして、愛せよなどと言う気はない。
イエスはそんなことを一応言ったが、それは、当時の人々の慣習や宗教を考えれば、そう言うしかなかったのではないかと思う。
ただ、こう考えれば良いのである。
アンデルセンは、子供の頃、他の子供達に酷い目に遭わされたし、ニュートンも同じだったと思う。
宮沢賢治は、家業が嫌いと言うよりは、父親を嫌っていたのかもしれない。ゴッホも社会をすねていたし、同じ売れない画家であった、セザンヌやモネ達に無視されて辛い目に遭ったこともある。
だからと言って、恨んではいけないのだ。なぜなら、自分を嫌な目に遭わせた連中というのは、そうするより他になかったからだ。

私は、1964年6月25日に放送されたという、アニメ『エイトマン』の第34話『決闘』は、実に素晴らしい名作で、全国民が見ておくべきと思うほどなのである。
私はこれのDVDを保有し、定期的に見ているのである。この第34話は原作にはないお話だが、原作者の素晴らしいSF作家である平井和正さん自身が脚本を書いている。
エイトマンというスーパーロボットは、谷という天才的な日本人(あるいは日系)科学者がアメリカ(アニメではアマルコという架空の国にしているが、明らかにアメリカのこと)の軍事研究所で造ったが、彼は、エイトマンを軍事兵器にしたくなかったので、エイトマンを持ち出し日本に亡命する。アメリカに残された谷博士の妻子はそのために辛い目に遭い、息子ケンは父親に復讐することを誓う。そしてケンは、生体実験に志願してスーパーロボットに生まれ変わり、日本にやってきて、エイトマンと決闘する。
対決が避けられないと悟ったエイトマンは自分が滅びてケンを救おうとするが、谷は迷った末に、エイトマンに戦うことを命じ、ケンは倒れる。
死に行く息子ケンに、谷博士が言う。
「許してくれ息子よ。こうするしかなかったのだ」
すると、虫の息のケンも言う。
「僕もだよ、パパ。こうするしかなかった。苦しかったよ」
平井和正さんは、人間や人生をよく知る作家だ(75歳の現役作家である)。
戦争中に青春時代を過ごし、世界の悲惨や不条理を嫌と言うほど見たようだ。ほんの1つの小さな例でしかないが、彼が中学生の時、クラスメイトの1人の女子が学校に来なくなったと思ったら、ある日、毒々しい化粧をして米兵の腕にぶら下がっているのを見る。もし、彼が、その女子生徒に好意でも持っていたのだとしたら、多感な年頃のことであり、悲劇的と言えることかもしれない。
だが、平井和正さんは、心に影を背負いながらも、愛を出すことができたのだと思う。
彼は、作家として、宮沢賢治や太宰治や、あるいは、三島由紀夫のように、何か、あるいは、誰かを恨み続け、押し潰されることはなかったのだと思う。

我々も、人や出来事を恨んではならないのだ。
あなたを酷い目に遭わせた人は必ずいるはずだ。彼を赦せとか、愛せというつもりは毛頭ない。そんなことは不可能だ。
しかし、彼(あるいは彼女)は、そうするより他になかったのだ。
谷博士とケンの最後の会話をよく味わうべきである。
人は自分の意志で自由に何かをできる訳ではない。ただ神が決めた通りに考え、行為するのである。
すると決まってしまっていることはすることを避けられない。釈迦は言ったのだ。「行為はあっても、行為者はいない」と。

しかし我々の本質は、天(アマ)である吾(ア)なのである。
自分を吾(ア)と呼び、少なくとも、まずは吾(われ)と呼び、「吾は誰か?」と問い続けなければならない。
常に、自分に「吾」と言い続け、自分に帰り続けなければならない。
そうすれば、心は純粋になり、憎むことも恨むことも妬むこともなくなる。後悔も自己嫌悪も無用である。
それができない人を憐れみ、五井昌久という本当に聖者であった宗教家は、「世界平和の祈り」というものを創ったので、それに頼っても良いと思う。
あなたは才能のあるなしに関わらず、悲惨であってはならず、平和でなければならないのだ。









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