ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

巨人の星

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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昭和の怪奇現象の意味

昭和の時代、梶原一騎原作の『巨人の星』という野球漫画・アニメがあり、大人気だった。
これは、単に人気アニメというだけでなく、「感動の名作」と言われ、子供にアニメを見せない教育熱心な親が、この『巨人の星』だけは無理にでも見せるということも、よくあったらしい。
ところで、このアニメの中で、主人公の星飛雄馬というピッチャーが「消える魔球」という投球術を行い、活躍する。
これは、星飛雄馬が投げたボールが、ホームベース手前で消え、ホームベース後ろで再び現れるという魔球で、当然、バッターは打てない。
では、この魔球は、どうやってボールを消すかを解説する。
まず、ホームベース前で、ボールは、フォークボールのように急降下し、地面に当たることで砂埃を巻き上げ、その砂埃ゾーンを通過する間、ボールは見えなくなる。
しかし、これだけでは、ボールは完全には消えない。
そこで、もう一工夫がある。
星飛雄馬の投球フォームは、脚を真っすぐ上に高く上げる。
すると、砂埃が高く舞う。
星飛雄馬は、その砂埃をボールに付け、ボールを高速回転させると、ボールは、砂埃をまとったまま進む。そして、先程述べた、地面に当たって巻き起こる砂埃の中、ボールにまとわりつく砂埃が保護色になって、ボールは完全に見えなくなる。
いや、こんな話が、冗談でも何でもなく、当時、真面目に語られていたのだ。
つまり、これが、世の中で受け入れられていたのである。
決して、当時の日本人の平均IQが今の1/10だったというわけではない。
この世では、どんな馬鹿な話でも、本当に通ってしまうことが実際にあるということだ。
そして、どれほど馬鹿げていても、通ってしまったら、それに対する批判は、一切無意味になるということが、いくらでもあるのである。
人間の脳には、これほど、どうしようもない欠陥があるという事実を認めるしかない。
アーサー・ケストラーという天才的な哲学者は、そんな人間の脳の欠陥に絶望して自殺したんじゃないかと私は思っている。
少なくとも、ケストラーが人間の脳の欠陥に絶望していたことは確かだと思う。

2020年のアメリカ大統領選挙で、バイデンが8100万票得票して当選したなんてことも、通ってしまったら、それが受け入れられてしまう原理も同じである。
通ってしまったことに対し、いくら騒いでも無意味なのである。
もう仕方がないと思うしかないのである。
世の中には、いかに耐え難きこと、忍び難きことでも、耐え、忍ぶしかないことは沢山ある。
しかし、そんな、耐え、忍ぶしかないことに逆らう者がいる。
絶対にどうにもならないのに。
第二次世界大戦で、昭和天皇の玉音放送を受け入れず、「勝つまで戦う」と言うのと同じだが、そんな者は、やはりいたのである。

手塚治虫さんのアニメ映画に『哀しみのベラドンナ』という作品がある。
貧しい農夫のジャンは、若く可憐な娘ジャンヌと結婚することになった。
しかし、ジャンヌは領主の兵にさらわれ、領主に処女を奪われて返される。
その時、ジャンは「忘れよう」と言う。
もう絶対に、どうしようもないのだ。
だが、ジャンもジャンヌも、どうしようもないと思うことが出来ず、悪魔につけこまれ、操られてしまう。

どうしようもないことは、どうしようもないと認めるしかない。
だが、その心構えのある者に、どうしようもないことは起こらない。
トランプだって、バイデンが大統領になったという事実を認め、まともな行動をしているではないか。
すると、バイデンが大統領になったことは、長い目で見れば、むしろ良かったことになる。アメリカの(と言うよりは世界の)暗部が明るみに出るからである。
「消える魔球」現象がなぜ起こったかを考えると、当時の日本にも、隠れた大きな問題があったのだと分かる。
そして、トランプとは違い、その問題を放置した結果が今の日本なのである。








スポ根は嘘だらけ

「スポ根(スポーツ根性もの)」という言葉は知っていても、「それは昔あったこと」と思っている人も多いと思う。
いや、現代にだって、十分生きている。
スポ根のルーツが何かは分からないが、梶原一騎原作の有名な漫画・アニメの『巨人の星』、『タイガーマスク』、『あしたのジョー』や、一応、ノンフィクションと言われていたが、空手家、大山倍達を少年達のヒーローにした『空手バカ一代』が、スポ根ブームの火付け役で、それらの影響を受けた人達は今は50代、60代になっているのだろうが、それらの人達がどう思ってるかは別として、彼らはきっと被害者だ。

最近では、スポーツではないが、『鬼滅の刃(きめつのやいば)』という漫画・アニメで、大正時代の少年、竈門炭治郎(かまど たんじろう)が、鬼と戦う剣士になるための猛特訓をする姿は、スポ根そのものだ。
要は、スポ根のトレーニングは、誇張もいいところ、簡単に言えば、全部嘘であると言ってしまった方が良い。
梶原一騎原作ものでは、腕立て伏せを千回だの、スクワット一万回だの、うさぎ跳びでグラウンドを何十週だの、そんなこと、本当に毎日やったら、いかに生まれつき身体が丈夫な者でも、身体が駄目になってしまう。
そして、そんな漫画やアニメのヒーローに憧れた、なまじ身体能力の高い少年が、身体を壊したり、ヒーローに近付けなくて自己嫌悪に陥ってグレたり・・・まあ、少数例かもしれないが、確かにいたと思う。
映画『ロッキー4/炎の友情』での、ロッキーの大自然の中での猛特訓は、そもそも、嘘くささプンプンの娯楽であり、笑ってあげれば良いのだが、日本人は、あれを大真面目に見てしまったのだと思う。だが、アメリカ人達は、大いに面白がって満足したのだ。
『スターウォーズ』で、ヨーダがルークをしごく場面も、アメリカでは、まさかあれをやろうなんて馬鹿はいなかったと思うが、日本ではどうか知らない。
『巨人の星』で、花形満が、鉄バットで大きな鉄球を打つトレーニングシーンでは、大爆笑するのが正しい反応なのに、おそらく、今の50代、60代の多くは、熱い眼差しで見ていたのだろう。
プロレスなどは、ギミック(設定)上、人間離れしたトレーニングに耐え抜き、怪物的な力があることになっているが、やっぱり、日本人は信じ易いし、また、営業上、信じてもらった方が良いのだろう。アメリカでは昔から、プロレスは、面白いこと第一のショーであることが常識のはずだ。

しかし、本当の達人、例えば、イチローなんかは、そんな無茶なトレーニングをしたのではなく、1回1回なら誰でも出来ることを、何千回、そして、何年も繰り返しただけなのである。
テッド・ウィリアムズという、メジャー屈指のバッターで、打率4割、生涯出塁率でメジャー記録、三冠王を2度獲得した2人のうちの1人という大選手は、少年時代から、まるで、起きている時間の全てでバッティング練習をしている人だったが、それだって、短期間なら、同じことをやった少年はいくらでもいるのだ。ただ、それを続ける者が滅多にいないだけだ。
そして、どんなスポーツでも、スポ根ほどではないのに、トレーニングのやり過ぎで故障を抱えて苦しむ選手や、引退せざるを得なくなった選手なんていくらでもいる。
まして、スポ根みたいなことを本当にやれば、誰でも必ず身体を壊す・・・まあ、それ以前に無理か、やったら大怪我をする可能性があるだろう。
音楽でも、例えば、一流のピアニストになるためには、確かに大変な練習が必要なのだろうが、実は、練習のし過ぎで手が壊れてしまった人は少なくなく、無茶な練習はいけないという、当たり前のことが、ようやく普通に言えるようになってきているらしい。

今年放送の新しい美少女アニメ『まちカドまぞく』で、主人公の優子が、やる気を見せ、
「鉄のバットも振ります!ゴロゴロしたのも引っ張ります!」
と言うと、魔法少女の桃が、醒めた一本調子の声で、
「修行のイメージ、古くない」
と言うが、作者の伊藤いづもさん、本当、古いこと、よく知ってるなあと感心する。あれは、『巨人の星』のギャグなのだ。
昔、少年達を洗脳して歪めてしまったアニメは、今や、亡霊とも言えない、古びた便所のラクガキだ。
まあ、有名な版画家だった池田満寿夫さんは、「僕の絵は便所のラクガキ」と言っていたが、確かに、彼は、街の似顔絵屋にも馬鹿にされるほど絵が下手だった。だが、彼は世界的な芸術家だった。彼を見ていると、人間らしさこそ、本当の芸術であることが分かるのだ。人間は馬鹿だが、思いやりがあるので、自分勝手もほどほどにやるものだ。
スポ根だって、もっとほどほどにやれば良かったのだ。しかし、手段を選ばず、徹底的に儲けたい人に利用されたのが悲劇だったのだ。








これまでになく感動した漫画・アニメ

最近、『まちカドまぞく』というアニメの第1シーズン全12話を、5回繰り返して観ているが、いまだ、全然飽きない。
ところで、このアニメの第6話は「あすへの決意!!重いコンダラ止まらない」であるが、「コンダラ」と聞いて、「ああ、整地ローラーのことね」と分かる人がどれだけいるだろう?
ちなみに、原作漫画(4コマ漫画)では「重いコンダーラー」と題されている。

整地ローラーには、「コンダラ」あるいは「コンダーラー」という別名は全くない。
わざわざ、「重いコンダラ」と「重い」をつけているのは、やはり、昔のスポ根アニメ『巨人の星』の有名な話からきているのだと思われる。
『巨人の星』のオープニングソングは「思いこんだら試練の道を 行くが男のど根性」という、何やら妙に重々しい雰囲気で始まる。
この「思いこんだら」を「重いコンダラ」と誤解した子供が沢山いて、整地ローラーがコンダラと呼ばれるようになったという説がある。
『巨人の星』のアニメ中、星飛雄馬が、整地ローラーを引っ張るシーンがあったらしいが、それを見て、多くの子供達が、
「あのゴロゴロしたの何て言うのだろう?」「重そう!」
と、2つのことを思った。
そこで、思い出したのが、オープニングの「思いこんだら試練の道を」で、男性合掌の重厚な歌声が印象的だったので、「おもいこんだら」の字幕を真面目に見ていなかったのだろう。
そこで、
「あの道具は、『重いコンダーラー』と歌っていたコンダーラーだ。だって、重そうだから」
となったのだろう(単なる推測であるが)。
「コンダラ(コンダーラー)」に関し、『まちカドまぞく』では、漫画、アニメ、いずれも、何の説明もしていない。

ところで、『まちカドまぞく』は、最近の漫画・アニメで時々あるが、登場人物は可愛い女の子だけで、男は、極めて限定的な場合を除き、一切出てこない。
それでいて、特に萌えや百合(レズビアンラブ)の要素は、全く感じない。
しかし、軽いノリの話のようで、結構、精神的であるし、作者(伊藤いづも氏)の賢さを感じる。

『まちカドまぞく』には、あまりにゆるいスポ根要素があるが、この作品が『巨人の星』が放送されていた、古代スポ根全盛期にあったら、炎上・・・いや、当時はインターネットはなかったので、テレビ局や作者に抗議の電話やハガキ・手紙が殺到していたに違いない。
しかし、ゆるいスポ根と言っても、実際は、これくらいが「丁度良い加減」なのではと思う。
無理、無茶はさせない・・・させようとしても、適切なところで、ちゃんと寸止めする。
まあ、ちょっとしたことでパワハラ扱いされる昨今の事情も影響しているように思うが、とにかく安心出来る。
かといって、大甘とまでは感じない。
見ていて、何か不思議な感覚なのだ。
その理由を考えれば、この作品には、マジに愛があるからだと分かる。
本当の愛を知りたければ、これを読めと言いたいほどだ。
特に、魔法少女、千代田桃の、主人公の魔族、吉田優子に対する愛が凄い。
絶対的に強い桃が、弱者である優子に強い愛を注いでいるのだが、かといって、桃は優子を見下していない。
桃が優子に、こう、シリアスに言う場面がある。
「何か勘違いしてるようだけど、あたし、シャミ子(優子のあだ名)のこと、侮ってなんかいないよ」
それでいて(それだからこそ?)、表面的には、桃は優子に厳しいこともあるが、実は、桃は優子に献身的で、ひたすら優しい。
ああ、桃は本当に優子が好きなんだなあ・・・と感動する・・・なんて、真面目な感想はちょっと合わない気もするが、実際そうである。
そして、優子は桃への劣等感から来ていると思われる反発もあるが、やっぱり、優子も桃を愛しているのだろう。

まさに True Love!
こんなものが見られる作品は、そうはない・・・いや、私が覚えている限り、他に全くない。
ところで、桃は掛け値なしの美少女だし、優子も可愛いと思う。
しかし、ちっとも萌えない。だけど、大好きで、マジで友達にはなりたい。これはまさに新感覚である。








飛雄馬の左腕

『巨人の星』というと、一見、SFのようだが、これは日本の歴史的な野球漫画・アニメ作品のタイトルだ。
いわゆる「スポ根」もののはしり(先がけ)と言える。
優れたサードだったが、第二次世界大戦での戦闘で肩を負傷し、野球が出来なくなった星一徹が、息子の飛雄馬(ひゅうま)に夢を託し、幼い頃からピッチャーの英才教育・・・というか、しごきで鍛え、野球ボール以外、一切の遊び道具を与えず、野球のピッチャーになるためだけに生きるようにするという、今の時代なら児童虐待であるが、当時は、その点で批判されることは、ほとんど全くなかった。
アニメの方だけ(原作漫画にはない)かもしれないが、飛雄馬が中学生の時の、こんなエピソードがある。
クラスで、1人の腕力自慢の男子生徒が幅を利かせていた。
その男子生徒は、負けると、手の甲が当る位置に、生け花の剣山を置いて腕相撲をすることを、他の男子達に強要して、自分と腕相撲をさせ、恐怖を与えていた。
皆が彼を恐れる中、平気なばかりか、彼を小馬鹿にした態度の飛雄馬に業を煮やし、その腕力自慢男子は、飛雄馬に自分と、この恐怖の「剣山腕相撲」をするよう強制する。
その腕力自慢も、飛雄馬同様左利きだった。
自信満々で左手を握り合った腕力自慢の男子は、しかし、腕相撲開始直後、泡を食う。
飛雄馬の、幼い頃からの左腕の鍛えっぷりは半端でない。
少々の腕力自慢などでは全く話にならない強さだ。

正直、私は、『巨人の星』は馬鹿にしていた。
原作者の梶原一騎氏は実は野球が好きではなく、漫画を描いた川崎のぼる氏は子供の時から野球遊びをしたことすらないという、とんでもない組み合わせで作られた作品で、梶原一騎氏特有の奇想天外な馬鹿話も多い(というか大半だ)が、なぜかあまり問題にされず、絶賛する親や教育者もいたように思う。
だが、上記のお話は実に感慨深い。
人間の能力は、かけた時間で決まるという単純な真理を見事に表している。
人気者のチームラボの猪子寿之社長も、夏野剛氏との対談で、「人間の能力に差はない。大切なことは長時間やること」と述べていたし、音楽家の坂本龍一氏と作家の村上龍氏との来談でも、そんな話があった。
私が小学4年生の時、音楽の時間に、クラスの1人の女子生徒がピアノ演奏を披露したが、あまりの上手さに、私は絶句した(他の子達の反応は覚えていない)。
彼女も、幼い時からピアノを、かなりハードにレッスンしていたのだろう。
「これが長い鍛錬の成果か」と私は感動したものである。

何か1つ、長く続けることだ。
私を食べさせてくれているプログラミングの腕前も、所詮、時間をかけて訓練したものだ。
もし、倍の時間をかけていたら、一流プログラマーにだってなれたことだろう。
今、何か徹底的に時間をかけてやっていることがなければ、一刻も早く始めることだ。10年で成果は現れると思う。
念仏や呪文だって、10年もやれば人間を超えるが、まずは、世間で戦い勝って、お金になる何かを続ければ良い。3年もやれば、そこそこ金になると思う。
実力は、どれだけ時間をかけたかで決まる。
このことを忘れないことだ。









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いじめと弱者の論理での対抗法

大手新聞に、いじめられている子供に向け、毎日、有名人達のメッセージが出ているのだが、これが実に下らない。
彼らの言うことは、いかに慎ましさを装っていても、強者の論理、上から目線である。何の役にも立たない。
私は、こんな時こそ、梶原一騎さんに何か言って欲しかったものだと思う。
梶原一騎さんは、1987年に50歳で亡くなった漫画原作者だが、いまだ、『巨人の星』『あしたのジョー』『タイガーマスク』といった作品の人気は衰えず、作品の映画化、漫画の再連載やリニューアル連載、キャラクターのCM採用などが、永遠に続くような雰囲気だ。
梶原一騎さんは、人間的には問題のある人だった。
アントニオ猪木さんをやくざと共謀して監禁脅迫し、刑務所に入れられたこともあるが、そういったあからさまな悪事だけでなく、誰も逆らえないほど売れていた頃の傲慢横暴振りも凄いものだったらしい。
ところが、彼の作品の登場人物達は、よく見ると、弱者の論理で生きている。
いや、タイガーマスクや矢吹丈なんて凄い強いじゃないかと言われるかもしれないが、そうではない。彼らは、最も弱い立場でいじめられたから、やむなく強くなったのだ。
だが、そうはいっても、我々がこれら漫画の主人公達のように、思うように強くなることは出来ない。
しかし、弱者の論理の中に、得るべきものは必ずある。
梶原一騎さんの漫画には少年院がよく出てくる。彼自身が少年院に入れられたことがあるので、リアリティは抜群である。そこでのいじめは、凄惨である。現在はともかく、昔であれば、公表されていないだけで、大怪我や身体的・精神的障害や、ひょっとしたら死に至ったケースなんて結構あったと思う。
その中で梶原さんとて、相当「やられた」経験もあるような気がする。
そんな梶原さんの作品に、『愛と誠』というものがある。
その中で、高原由紀という名の、高校2年生の絶世の美少女が登場するが、これがまた、いわくのある人物だった。
彼女は捨て子で、孤児院で育つが、反抗的な性格で、園長らに殺されそうになる。
小学生の時、ひどい裏切りに遭い、人間不信に陥った彼女は、ますます心を閉ざすことになる。
平坂読さんの『僕は友達が少ない』で、同じ高校2年生の美少女、三日月夜空は、エア友達という架空の友達を作って「トモちゃん」という名前をつけ、そのトモちゃんが唯一の友達という、なんとも哀しい(今流には「残念な」)子だが、彼女が「トモちゃんは、可愛くて優しくて、そして・・・絶対に裏切らないのだ」と言うところに、何か高原由紀と通じるものを感じる。人間とは、容易く裏切るものだ。
やがて、女子少年院に入れられることになった高原由紀であるが、そこでひどいいじめに遭う。その理由には、なまじ顔が可愛いからというものがあった。
さて、そこで、彼女が何をしたかだが、ナイフ投げの特訓だった。
「そのナイフ、どうやって手に入れたの?」なんて聞いてはならない。志あれば道あり・・・と言っても説得力はないが、まあ、そんなものである。
彼女は、ナイフ投げに打ち込み、百発百中の超人的な腕前になった時、支配者に君臨し、実社会(彼女にとっては普通の高校)に戻ってからもそうだった。
ここらは、『あしたのジョー』で、矢吹丈が、独房室で、丹下段平に教わった左ジャブ(ショートパンチ)の特訓に明け暮れていたのとも通じる。
別に、ナイフ投げやボクシングをやれというのではないが、要は、世間の価値評価に関係なく、これはと思うものをやればいいのである。ちなみに、私はナイフ投げを本当にやったものだ。五寸釘を大量に買ってきて、お尻のところを金槌で潰したり紐を巻いたりし、先端を鉄ヤスリで鋭利に磨き、手裏剣よろしく7メートル先の木版に投げ、かなりビシリと刺さるまでになった。幸い実戦で使うことはなかったが、危ないヤツである。まあ、中学生の時のことだ。使いたかった相手は、いじめっこ達よりは、教師であった。
実際に使うかどうかはともかく、いざという時の手段を持っていたり、自分にしか出来ない何かを持っていると、精神的にも違う。
武道家で喧嘩のスペシャリストである堀辺正史さんの本を読み、敵のテンプル(こめかみ)に掌底(しょうてい)を打ち込む攻撃もかなり練習したものだ。力道山が木村政彦をKOしたのもこれであった。
世間でどう言われるかなど気にせず、自分の気に入ったものを毎日磨き上げることである。
また、別にいじめや暴力的被害でなくても、まずい状況になれば、呪文を唱えると良い。
威力のある呪文は「アジマリカン」である。「アーン」だけでも悪を祓う。声に出さなくても、心で唱えても効果は同じである。
『エメラルド・タブレット』にも、力の呪文、「ジーン・ウール」が教えられている。
もしよければ、『古事記』を読むことだ。最初のあたりに、神様の名前が沢山出てくる。面倒臭がらずによく見ると、その名前一つ一つに霊妙な響きがあることが分かる。これについては、霊覚のある人の書を読んで研究しても良いが、理屈ではなく、ただ『古事記』を読めば、自然に分かるだろう。

















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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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