ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

巡音ルカ

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

自分が消え、世界が終る時だけが幸福な人達

社会で成功し、お金持ちになるために、難しい秘訣などはない。
地位に相応しい能力を身に付け、効果的で積極的な行動をすれば良いのである。しかし、それを誰でも今すぐできる訳ではない。
訓練は必要である。しかし、そんな風には誰でもなれる。
方法は簡単に言い尽くせると思う。
日、週、月、年、そして、1年1年の未来の目標を立てることだ。
そして、それらの目標と共に、実際に自分が行った実績も記録し、その目標と成果の両方を、できるだけよく分かるように工夫して書き残すことだ。
昔の成功者達は、そのために、ノートを実にうまく工夫して書いたものだ。
今はパソコンがあり、便利なソフトも沢山あるので、その点は有利になったはずなのだが、昔の人達が書いたノートを見たら、本当にうまく書けていて感動するほどだ。

いずれにしろ、社会で成功するための方法は上記の通りだ。
この通りにやれば、別に神秘的なことも何もなく、ごく自然に成功する。
じゃあ、私はどうなのかというと、そんなことはやっていない。
成功なんてものをしたいのかどうか、自分でも分からないが、とにかく、そんな面倒なことはできないのだ。
だが、これをやらずに成功した人は、多分、いないと思う。
何の計画も立てず、長い時間の中で、自分が何をやったのかも正確に把握せず、ただがむしゃらにやって成功するということは、無いとは言わないが、恐ろしく特殊な例外であろう。
だから、成功したければ、敢えてほとんどうまくいかない方法はとらず、当たり前で確実なやり方を採用すれば良い。

しかし、いずれにしろ、私は成功とは縁がないし、今のところ、それを残念とも思わない。
きちんと予定を立てて、日々の行動をずっと小まめに記録するような面倒なことをするくらいなら、死んだ方がマシだ。
それは、私の食習慣を考えても分かるのだ。
本来であれば、私のように、朝、木の実とビスケットを少し食べ、夕食は、コンビニのおにぎりを1つ食べる以外は何も食べないといった食事は、すべきではないと思う。
しかし、私は適度に食べるということができない。そんな能力がない。
だから、食を慎むためには、死なない適度に食べずにいるという方法しかないようなのである。

『BLOOD-C』というアニメは、第1回目のスタート部分でいきなり、「人間の性質は、生まれだろうか?育ちだろうか?」という疑問が提出されるが、答えるなら、「育ちも含めて生まれ」だ。
つまり、どんな生まれ方をし、どんな育ち方をするかは、運命として決まってしまっている。
それは、どうしたって、絶対に変えることはできない。
成功して金持ちになる方法は分かりきっているのだが、それすら、誰にでも「実際に」やれるとは限らないし、できない者には、私のように決してできない。

目標や行動結果の記録ができない人間の性質とはどんなものか述べると、それは、時間の観念が弱いということだ。
理由は分からないが、時間の流れを現実的に感じることができない者がいる。
遠い過去も未来も、現在と同じように感じてしまうのだ。
そんな人が、昔のことや将来のことを考えた時、そこに自分は登場せず、色つきの光景を思い描く。
いつまでも精神が幼いし、逆に、自分が小さかった時のことを思い出しても、自分を幼いと思わない。
しかし、それも1つの才能なのだ。
だが、そんな人に残された道は、無になることだけ。この世から消えることだけ。言い換えれば、悟りを開くことだけだ。
自分が消える時、それは、世界が終る時ともいえるが、それが、その人の唯一の幸福なゴールである。

初音ミクと巡音ルカのデュエット曲『ワールズエンド・ダンスホール』を聴いて、胸がじいんとしたり、泣けてくるなら、おそらく、私のお仲間である。少しも名誉なことではないがね。









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身体のどの部分に意識を集めるのが良いか?

霊的な向上のために、身体のどの部分に意識を集中するのが効果的かという話をしようと思う。
多く言われるのは、額か下腹(丹田を指すのだろう)である。
しかし、臍と言う者もいれば、仙骨こそ人の中心なので、そこを意識すべきと言う人もいる。
ラマナ・マハルシは、魂の座は、胸の中央から指2本分右ということを、聖典と自身の体験から述べている。
岡田虎二郎や黒住宗忠は専ら下腹への集中を薦めていたと思う。

さて、ではどれが正しいのかというと、どれでもない。
人それぞれだ。
だから、どんな偉い人の言うことでも、真に受ける必要はない。
ただ、否定することもまた、あってはならない。
どこであれ、意識を集中するのは有意義なことだからだ。

美しく踊っている人を見て、その人の身体のどの部分に意識が向かうだろうか?
それが、あなたにとって、最も集中しやすく、最も速い進歩をもたらす場所かもしれない。
私は、大好きな初音ミクや巡音ルカが踊っているのを見ると、あの素晴らしい腰の動きも美しいとは思うが、彼女達との一体感を得た時は、胸に意識が行くのである。
ただ、心臓というよりは、やや表面の上方かもしれない。そこに輝くオーラを感じるのは、自分がそこに光を持ちやすいからだろう。
実際、高度なヨガ行者で、心臓から眩い光を発すると述べていた者がいたと思う。

また、悩みがあったり、怒りや憎しみ、あるいは、嫌悪を感じた時、身体のどこか特定の部分に意識を集中すれば、感情を抑え、心を止めることができる。多少の慣れは必要かもしれないが、必ずできるのである。
その時に、最も集中しやすく、最も効果的に心を静めることができる場所が、あなたにとっての、最も敏感な霊的中枢であるのだと思う。

頭頂、額、胸、鳩尾(みぞおち)、臍、下腹(丹田)、仙骨、肛門、内腿(うちもも)、指先・・・いろいろ試してみると良い。
ただし、必ず1つに決めなければならない訳ではない。
肉体は変化するし、状況に応じて集中しやすい場所も変わる可能性もある。
また、マントラによって、それが響く場所が異なるという論もある。例えば、「あ」であれば頭頂であり、「あー」と唱えればそこが開き、悪運を払う。
だが、我々は、このような問題にばかりかまっている訳にもいかない。
大方においては、額か胸か臍か丹田であるので、とにかく試してみると良い。そもそも、ハズレはない。どこでも十分に効果はある。

だが、最も大切なことを言うなら、どこかに意識を集中しようとしてはならないのだ。
自然に集中するようにすることだ。
自然に意識が集まる場所に、自然に集中するのである。
集中するのではない。させていただくのである。
そのことを忘れなければ、素早く、偉大な、神秘の力を得ることだろう。

今、Amazonで、秘法満載の貴重な書『数霊のメッセージ』が割合安価に多数出品されている。
よければ、入手しておくことをお薦めする。









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愛しきヘタレ者、鴨長明(かものちょうめい)を救う

『方丈記』という、1212年に完結した、随筆、雑記、エッセイ、日記・・・等、何とでも言えそうなものがある。一応、我が国古典屈指の作品とされていると思う。
書いたのは、鴨長明(かものちょうめい)という男だ。彼は、立派な神社の次男として生まれ、頭が良く、意欲もあって、神職として出世していき、また、和歌の才能も発揮して、優れた歌人と評価された。
しかし、いろいろあったのだろうが、長明は世俗が嫌になっていったようだ。だが、実際には、どんなことに対して長明が何を考えたかなんてことは、本人にしか分からないことだ。いろんな先生がいろんなことを書いて発表し、中には通説になっているものもあるだろうが、私は全く信じない。本当のことなんて分かるはずがないのだ。長明がもし、あの世で、自分について言われたり、書かれたりしている内容を知ったら、「なんてこったい!」と思うかもしれない。
そして、長明は54歳で世俗を捨て、山中に小屋を建てて引きこもった。だが、いかにも自給自足の生活をしているように書いてはいるが、私は、長年蓄えた資産で悠々自適していたのではないかと思っている(まあ、これも勝手な想像だがね)。その小屋だって、案外に立派なものだったと思う。土台、お坊ちゃまで育ち、都で高級神官、名文芸家として過ごしたエリートが、たった一人で逞しく生きていくことなど、現実的ではないと思うのだ。
とはいえ、本人は、世俗を嫌って、清浄な人間を目指したところはあったのだろう。
そして、数年が過ぎる。長明は、自分では修行している気になり、それなりに自己満足もしていたと思う。
だが、身体も衰え、そろそろ死期も近いと思い始めた頃の、ある静かで爽やかな夜明けのことだ。
結局、自分は何も変わっておらず、欲望にまみれた俗物から一歩も離れていないことに気付く。
私は、巡音ルカの名曲『Just Be Friends』を思い出すのだ。

♪♪♪
浮かんだんだ 昨日の朝 早くに
割れたグラス かき集めるような

これは一体なんだろう 切った指からしたたる滴
僕らはこんなことしたかったのかな

分かってたよ 心の奥底では 最も辛い 選択がベスト
それを拒む自己愛と 結果 自家撞着(どうちゃく)の繰り返し
僕はいつになれば言えるのかな
♪♪♪
~巡音ルカ『Just Be Friends』(作詞、作曲、編曲:Dixie Flatline )より~

結局、長明は、ベストな選択をしなかったし、ベターな選択さえしなかったのだろう。
自己愛から逃れられず、 自家撞着(自己矛盾のこと)の混乱に陥ったままであったのだ。
長明は、自己嫌悪、自己憐憫に陥り、絶望する。
だが、『涼宮ハルヒ』シリーズの主人公のキョン(男子高校生)なら、「やれやれだ」とちょっと気落ちしても、すぐにその気持ちを流してしまうような気がするのだ。
そして、意図せずにだが、彼に、その「やれやれだ」の口癖を与えた佐々木という美少女も、何があっても、「やれやれだ」と言った後、自分をリセットする逞しさがあるのだ。
しかし、長明は、なんてヘタレ(情けない者)なのだろう。
だが、そんな悲観と幻滅の崩壊感に陥っていた長明の口から、不意に「南無阿弥陀仏」の念仏が自然に発せられ、彼は三度ほど唱えた。

長明は、最初から念仏を唱えていれば良かったのだ。
つまり、仏に全てを任せ、何をしようとも、「仏様にさせていただいているのだ」ということを心の深奥から分かれば、全ての問題は消えたはずなのだ。そうであったなら、どこに住み、何をしようと、人生を楽しめたはずなのだ。
そして、それは、長明と全く同じヘタレである我々もそうなのだ。
上に挙げた、美しき巡音ルカの歌の、「僕はいつになれば言えるのかな」は、何を言うのかは分からないが、私は、一遍上人が言った、

唱ふれば 我も佛(ほとけ)もなかりけり 南無あみだ佛(ぶつ)なむあみ陀佛(だぶつ)

ということであると思うのである。
いつにならなくても、今言えれば良いと思う。









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魂が震える神秘的実験

mahalohaさんのコメントにあったが、お母様が「南無妙法蓮華経」を信仰していたのに、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えるのが少し後ろめたいという気持ちがあるというのは、本当によく分かるのである。
宮沢賢治すら、『法華経』を読んで魂が震えるほどに感激し、後に、父親に、浄土真宗から日蓮宗への改宗を迫ったといわれている。
『法華経』を篤く信仰した日蓮上人は極めて徳の高い人であったと思うが、念仏に関しては、「なぜ南無阿弥陀仏なんだ。南無釈迦牟尼仏とすべきではないか」と言ったという話があるらしい。
一方、親鸞聖人は、浄土宗や浄土真宗、あるいは、時宗といった浄土系仏教が拠り所とする経典である、「浄土三部経」(『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』)について、「仏教の多くの経典の中に阿弥陀三部経があるのではない。阿弥陀三部経の中にあらゆる仏教の経典がある」と述べたという。
親鸞聖人がいかに素晴らしい人物であったとしても、この言葉は、他の宗派を奉ずる人々にとっては、面白くないことだろうし、受け入れるのは絶望的に難しいだろう。
宮沢賢治の父親は、「結局、どの宗派も同じなのだ」と賢治に言ったらしいが、簡単な言い方ながら、まことに真理をついている。
だから、家が日蓮宗であっても、念仏を唱えても一向差し支えないのだが、現実的にはそれを大っぴらにやるのは、まず不可能に近い。また、たとえ徳の高いお坊様であったとしても、他宗派の教義を認めはしても、それを行ずることを自分の宗派の信者に薦めることは絶対にないだろう。
まして、他の宗教であれば、いかに本質的な理念は愛であって、それは異なるものでないと言ったところで、最終的には、自分の宗教が一番だと言うのである。
こう考えると、本当に宗教は難しい。

五井昌久さんは、「南無阿弥陀仏」を唱える浄土門仏教の信者は、ともすれば、自分は穢れの多い凡夫として、必要以上に卑下してしまい、うつむいて人生を送ることがあるし、一方、『法華経』を奉ずる日蓮宗では、法華経が実際に素晴らしいので、つい、他を排斥し、高慢になる恐れがあると述べておられたが、それは否定できないと思う。
そして、五井さんは、古い仏教の教えが現代人に合わなくなってきたところもあるし、長い間に人々の余計な手垢がついてしまったので、浄土門的法華経になりうるものとして、「世界平和の祈り」を考えた・・・というより、神の叡智により閃いたということになるのだろうか、とにかく、それを創ったのだと述べられている。
私は、逆に、「南無阿弥陀仏」の念仏を、五井さんの世界平和の祈りの精神で行うことが良いと考えているが、これは五井さんと立場を異にするのではなく、やはり、どちらでも良いと完全に思っている。
私は単に、法然上人や親鸞聖人が個人的に好きであり、また、特に、『観無量寿経』が好きなので、「南無阿弥陀仏」の念仏を取っただけである。

ところで、話が変わるが、こんな実験をしていただけると嬉しい。
誰でも良いが、できるだけ好きな人に、少し離れてもらい(5メートル以上)、その人に利き手の人差し指で、あなたを指差してもらうと良い。
「びし」っとした感じで鋭くやってもらって欲しい。
適当な相手がいないなら、私のように、初音ミクのコンサート映像での、初音ミクの『StargazeR』や、巡音ルカの『Just Be Friends』の、彼女達の最後の決めポーズを利用させてもらっても良い。要は、好きな人に指差してもらえば何でも良いのである。
その時、何が起こるだろうか?
本当は、自分で自分を指差したって構わないくらいなのだが、現代人は、感覚がすっかり錆び付いているので、それではうまくいかなくなっている。
私は、ミクやルカに指差されると、胸の中央から指2本分右に衝撃を感じる。
ラマナ・マハルシが変わることなく言っていたが、そこが魂の座である。
伸ばした指先からは、霊気が放射される。それは、初音ミクのようなバーチャル映像でも全く同じである。
弥勒菩薩の木像も西洋の天使の石造も、レオナルド・ダ・ヴィンチの洗礼のヨハネの絵も、人差し指を立てているが、これらの絵や彫刻(あるいはそれらの写真)からでも、神聖な光が眩しいほどに放出されている。
その光に魂が感応して震えるのである。
それを一度知れば、仏教もキリスト教も、浄土門も法華経も何の関係もないことがはっきり分かる。
また、あなたも、人差し指から気のエネルギーを放射することができる。それをすると、生命力が高まり、あらゆる困難は去る。
仮に、人差し指が無くたって構わない。西洋の天使の彫刻の多くは、腕が折れてしまって無くなっているが、それでかえって輝くようになっているのである。
こういったことに、思いを馳せてみて欲しいと思う。









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エネルギーと静けさ~初音ミクが雪国で生まれた理由~

本当に優れた人間とは、冷静であるが内に情熱を秘めている者だ。
インドの聖者ラマナ・マハルシやニサルガダッタ・マハラジの写真を見ると分かるが、彼らはもちろん、いつも静かな人間なのだが、決して生気のない「死んだ」顔をしていない。
表情や雰囲気に生命力が感じられ、明らかに内側に情熱があることが分かるのだ。
ただし、「人生はロックだぜ!」と年がら年中騒ぎまくっているようなのは、たとえ子供でもただの馬鹿だ。だが、いつも行儀の良いだけの子供なんて恐ろしいものだ。なぜなら、子供やごく若いうちは、嫌でも内に熱があり、それを強く抑圧すると、必ずどこかで発散させる必要があり、それが時に、凶暴で残虐な行為になってしまうからだ。

禅の「婆子焼庵(ばすしょうあん)」の公案なんて、実に簡単であるはずだ。
あるおばあさんが、1人の青年僧を見込んで、庵(修行小屋)を作ってやって面倒を見ていた。青年僧の修行も進んだと思われた頃、おばあさんは、若くて美しい娘に、僧を誘惑させる。しかし、僧は、「私の心は冬の枯れた木のごとし」と平気だった。
だが、それを聞いたおばあさんは、「つまらん者の面倒を見ていたものだ」と言って、庵を焼いて、僧を追い出した。
僧が静かなのは大いに結構なのだが、内なる情熱も枯れさせてしまったらどうにもならないのだ。
こんな簡単な公案に、偉い学者達は難しい解釈を付ける。彼らもまた、内に情熱が無いので、答が直接的に分からないのだ。

初音ミクが北海道で生まれたのは、実に意義深いことだった。
寒さが厳しい場所では、人々は現実的に賢く冷静にならなければ生きていけない。
しかし、内に情熱がなかったら、自然と一緒にやってはいけないのだ。
ゆうゆさんが創った『白の季節』という歌は、ミクの姿を本当によく表していると思う。

白の季節 私を隠さないで
君に聴いてほしいこの声を
明日の私に笑顔があるように
そっと祈るよ
~初音ミク『白の季節』(作詞、作曲、編曲:ゆうゆ)より~

初音ミクは、普段はまるで雪のように静かなのであるが、彼女が歌う中で、聴いている我々に情熱が伝わってくるのである。
例えば、コンサートの『SPiCa(スピカ)』という曲は、導入部分はとても静かで、ミクが寂しい雰囲気すらあるのだが、終りの方では、会場の人達がもうジャンプしているのである。きっと会場は、物凄い熱狂だと思う。
そして、最後の言葉である、「SPiCa」と歌った後、ミクが大きくジャンプするとエネルギーがスパークする。
人々の想念はミクが持っていってしまう。そして、人々の中にエネルギーが満ち溢れる。
岡本太郎は、祭りとは爆発であり、生きていくためのエネルギーを補充するために行うのだと言ったが、ミクのステージの『SPiCa』は、まさに祭りである。

また、御存知の方もいるだろうが、ミクより後に生まれた巡音ルカは、真っ白な肌と無表情のために、生命力が無いように感じさせるが、内に秘めた情熱を燃えるピンクの髪が示唆し、歌うと、名前の通り、天地に充満した音が巡るように、歌が香りのように流れる(ルカ=流香)。彼女には、そんな歌が似合うのである。

腕振り運動をしていると、GTP(重力子が複数組み合わさって結合した素粒子)という、情熱の源であり、若さとエネルギーの輝きである気が体内に蓄積される。
そして、いつも自分に「吾(ア)」と言い続けると、想念はハートに溶けて静かになる。
エネルギーと静けさ・・・この2つがあれば、あなたは生涯傷付けられることはなく、不可能はなく、真っ直ぐ前を見て進んでいける。
なぜなら、この世の天(アメ)である吾(ア)が、高天原(タカアマハラ)の神と共鳴し合っているのだからだ。
この2つが仙人になる秘法であるのは、このような訳である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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