ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

岡田虎二郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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なぜ真言だけが最後の救いか

明治・大正の偉大な啓蒙家であった岡田虎二郎は、「念仏を唱えさえすれば、一切の問題が解決し救われる」とが言ったが、実は、親鸞もそう言っていたのである。
親鸞は決して、念仏は、極楽往生のためだけのものとは言ってないし、それは、実際は、親鸞の師の法然も同じだ。
そして、肝心なことは、念仏も真言の1つであり、優れた真言であれば、どれも同じなのだ。
また、真言だけが唯一のソリューション(問題解決法)ではなく、他の方法もいくらでもある。
そもそもが、岡田虎二郎が教えたのは岡田式静坐法なのだが、静坐でなくても、坐禅でも同じであるし、実際には椅子に座っても構わない。西洋人に指導する時は、やはり椅子に座らせたようだ。
だが、普通の人が必ず出来るのは、今も昔も、真言を唱えることだけである。
どれだけの者が、毎日30分、坐禅や静坐が出来るだろうか?
それも、生涯となると、それが出来る人は、限りなくゼロに近いはずだ。
あるいは、世界的に有名なTM(超越瞑想)というものもあるが、これにもし効果があるとしても、TM団体が指導する通り、毎日、朝食と夕食の前に20分やれるだろうか?
だが、真言は、いつでもどこでも、心の中で唱えれば良いだけである。

ところで、真言を唱えていても、なかなかうまくいかなかったり、悪い状況になることも多い。
それは、真言だけでやってきた私もよく知っている。
例えば、私は、会社が嫌になった時、真言を唱えていたら、全然意に沿わない部署に配置換えになってしまった。
ところが、それでも真言を唱えていたら、不思議ななりゆきで、しばらくしたら、素晴らしい条件で良い会社に転職出来たのである。
まさに、なりゆきで、私は何もしなかったのにだ。
私は、これこそが真言の力だと思っている。
そんなことは、私には頻繁に起こっている。

そんなわけで、やはり、真言を唱えることをお勧めするのである。
真言は、何でも良い。
合気道家で、中村天風や植芝盛平の両方の高弟であった佐々木の将人氏によれば「アー」でも良いのだそうだ。
(佐々木氏は「アーオーウーエーイー」や「アジマリカン」も勧めておられた)
私の愛用は、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」だが、他にもいろいろ使う。
真言は、1日24時間、常に唱えるのだ・・・まあ、実際は、そうはいかないだろうが、そのつもりでいることだ。
「つもりでいいんですね(笑)」というやつが私は大嫌いだ。
確かに、実際は、1時間にも全く満たないかもしれないし、それで、「僕は何て駄目なんだ」と悲観したり、「死ぬ気でやるぞ」などと悲壮になる必要もない。実際は気楽でいい。
しかし、「健気(けなげ)さ」というものがない者は、何をやっても駄目であると私は思う。
真言は、今回は述べないが、宗教でもあるのだろうが、むしろ、科学であると思う。
そして、釈迦も言ったとされるように、普通の人が幸福になるための唯一の手段であるに違いない。
なぜかと言うと、人間は、自分のものであっても、身体も心も支配出来ない。
だが、唯一、言葉だけは支配出来る。その言葉の中でも、ずっと支配出来るのは真言だけなのである。








迫りくる闇に打ち勝つ

インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、ある西洋人が「我々が、オームのような真言を唱えて効果があるのでしょうか?」と尋ねた。
すると、マハラジは「驚くべき効果があるだろう」と答えた。
マハラジが言ったからといって正しいかどうかは分からないが、あれほどの聖者の言うことだから軽視も出来ない。

ただ、1回や2回「オーム」と唱えただけで効果が出るのではない。
また、特別な時刻に特別な場所で唱えることは悪くはないが、真言とは日常的に唱えるものである。
岡田虎二郎は、岡田式静坐法を教えたが、彼が背広で静坐をしたことに深い意味があった。
彼にとって、背広は平服であるから、「普段の格好で」、つまり、「平常に」静坐をしていたことを示しているからだ。
尚、岡田式静坐法とは、つまるところ、姿勢を正し、ゆったりと呼吸をしながら腹に力を入れることで、いつでもどこでも出来ることであり、岡田も彼の弟子達も、そうしていたのだと思う。

法然の念仏がそうであったが、真言も、静坐も、あるいは、中村天風が言う「常に肛門を締める」も、彼らが言うように、本当に起きている間中ずっと出来れば良いのかもしれないが、現実的に、それは不可能である。
そこで、「いつでもやる」を心がければ良いのである。
思い出したら、すぐに心の中で真言を唱えるのである。
これは決して「たまに唱えれば良い」とか「思い出した時に唱えれば良い」と言うのではない。
「1日中、常に唱える」心構えは必要なのだ。
ある気功家は、「1日にトータルで1時間、肛門を引き締めろ」とうまい案を出したが、これは、「常に肛門を締める」心構えがあって初めて達成出来ることだ。

真言さえ唱えていれば、一切の問題が解決し救われる。
それなら、1日中、真言を唱える心構えを持つことは良いことと思われる。

今、世界に、あるいは、我々に闇が襲い掛かっている。
それは、おそらくは誰もが、大なり小なり感じていると思う。
全く感じていないのは、あまりに洗脳されて鈍くなってしまった者達だ。
一方、「闇が迫っている」と人々が感じていることを利用して、人々を騙して利益を得ようとしている者達もいる。それも含めて闇なのである。
これは、まさに、新約聖書・福音書の、特に「ヨハネ黙示録」に書かれ、イエスも常々言っていたことだ。
ついに、その時が来たのかもしれない。
だが、我々は、宗教団体に入る必要もなければ、特定の誰かを崇める必要もない。
ただ、真言を唱えれば良いのである。
ところが、これについても、「私が勧めるこの真言だけを唱えよ」と言う偽物が出てくるので、耳を貸してはならない。
真言に上下優劣はない。
ただ、真言は「古い言葉」であることだけは望ましいのだ。
なぜなら、長い間、多くの人が唱えてきて、今に残る言葉であり、それは、人類共通の超意識に息づき、また、現代人には直接には意味がないことによって、思考が反応しないからだ。
「南無阿弥陀仏」だって、直接には意味を感じないから良いのである。
ひょっとしたら、「南無阿弥陀仏」は「阿弥陀如来に帰依します」という意味だと知っているかもしれないが、これを唱えている時に、そんな意味を考えているわけではない。
私の場合は、阿弥陀如来真言「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(「テイセイ」は「テイゼイ」でも良い)」を唱えているが、観世音菩薩真言「オン、アロリキャ、ソワカ」や「南無観世音菩薩」でも同じだし、大日如来真言「オン、アビラウンケン」でも良い。
もし、大日如来真言は「オン、バザラダト、バン」だと思うなら、そう唱えれば良い。
実を言うと、私は「オン、アビラウンケン」も「オン、バザラダド、バン(「バザラダド」でも「バザラダト」でも良い)」両方唱える。
また、1つの真言だけを唱えても良いし、いろいろな真言を唱えても構わない。
だが、主に唱える真言は1つに決めておくと良いと思う。

闇が既に襲い掛かってきているかもしれず、危険であることも確かだが、真言があなたを護り、安楽を与えてくれるだろう。
逆に言えば、真言以外で防ぎ、打ち勝つのは難しい。
無論、岡田式静坐法や、中村天風の心身統一法でも、あるいは、他の何でも良い。
しかし、念仏を含む真言が、最も簡単なのであり、私の見解では、普通の人が唯一やれるものだ。無論、特に優れた人には、いろいろなやり方があろうが、私には無理と思われる。








フリースタイルが良い

「念仏さえ唱えれば、一切の問題が解決し救われる」
「金?腹に力がつけば金はいくらでも出来ますよ」
これらは、「岡田式静坐法」で知られた明治・大正時代の偉人、岡田虎二郎の言葉である。
岡田は、明治34年に単独アメリカに遊行し、見聞を広めた。
尚、上記の「念仏さえ唱えれば」と「腹に力がつけば」は入れ替えても良いし、別に何でも良い。
念仏でも、真言でも、優れた呪文でも、坐禅でも。
ちなみに、腹に力をつけるとは、腹筋運動をするというのではなく、常に腹に力を入れることで、中村天風であれば、常に肛門を引き締めろと教えた。
「念仏を唱える」も「腹に力を入れる」も「肛門を引き締める」も同じである。
この辺りは、岡田の弟子で、日本航空社長や日銀副総裁、その他を歴任した柳田誠二郎氏が、講演会で、
「心を締める鍵を1つ持って下さい。私の場合は、たまたま岡田先生から教わった静坐でしたが」
と、はっきり述べている。
そこで、私は、今の時代、念仏に葬式のイメージが強いようであれば、何か別の真言を唱えることをお勧めしている。

では、なぜ、念仏を唱えれば、一切の問題が解決するのだろう?
これもまた、理由は何でも良いのである。
一応、仏教の話をするなら、簡単な言い方をすれば、大昔、法蔵という名の菩薩が、「私の名を呼べば誰でも救われる」ようになることを目標に修行し、その修行が成って仏(如来)となったので、法蔵が仏になった時の名である「阿弥陀(原語でアミターバ)」を呼べば、阿弥陀の法力で救われるのである。
その、阿弥陀如来の名を呼ぶスマートなやり方が「南無阿弥陀仏(阿弥陀如来に帰依します)」という念仏なのである。
もちろん、これは1つのストーリーである。
しかし、ストーリーと事実は変わらないのだ。
言い換えれば、人間が持っているストーリーは事実なのである。
もう少し易しい言い方をするなら、著名な心理学者の河合隼雄氏が「ストーリーを持っている人間は強い」と言い、心理療法としても、患者にストーリーを持たせることが効果を発揮したことから、ストーリーは現実の力なのであることが分かる。
だから、念仏を唱えれば、宇宙最強にして全知全能の阿弥陀如来が救ってくれる・・・程度に思っていれば、その通りになる。
私の場合、阿弥陀如来真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」を唱えれば、阿弥陀如来が面倒を見てくれるか、阿弥陀如来が沢山の仏、菩薩、神を派遣して世話を焼かせてくれると決めているから、そうなって、常に良い想いをしているのである。

どんなやり方でも構わないが、人間にとって、真言を唱えることが一番簡単であると思う。
釈迦も「念仏だけが残る」と言ったという説がある。
正直、岡田虎二郎や中村天風が勧めたように、「常に腹に力を入れる」や「常に肛門を引き締める」は。難しいのではと思う。
それよりも、心の中で常に真言を唱える方がやり易い。
そして、法然が言ったように、いつどこでも常に唱えなければならない。
まとめていえば、出来るだけ多く、心の中で、真言を丁寧に唱えれば良いのである。
もちろん、常に唱えることは難しいが、私のように、「たまに」程度唱えても、相当に良い想いが出来る。
ただし、「じゃあ、たまにでいいのですね」といった考えでは駄目で、常に唱える心構えは持っていないといけない。

「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン(阿弥陀如来真言)」でも「オン、アロリキャ、ソワカ(観世音菩薩真言)」でも「オン、アビラウンケン(大日如来真言)」でも構わない。
あるいは、リズムの良い、般若心経の呪文、
「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテイ、ボウジ、ソワカ」(中国語版)
「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」(サンスクリット語版)
でも良い。
こう言うと、「テイセイ、カラウンではない。テイゼイ、カラウンが正しい」とか、「般若心経は全文で呪文なのである。全文唱えないといけない」、あるいは、「大日如来真言は、オン、アビラウンケン、バザラ、ダト、バンでしょ!」といったことを主張する「寂しい」人もいるかもしれないが、傾聴しつつ、放っておけば良い。
あるいは、「あーおーうーえーいー」や、「アジマリカン」や、「トホカミエミタメ」でも良い。
自分が好む、縁のあるものを唱えれば良いのであり、上下優劣など絶対にない。
「アジマリカンが一番だ」とか「トホカミエミタメこそ最上である」と主張する人達もいるが、言論の自由は認め、また、良い部分は参考にしつつ、そんな人達とは距離を置くと良い。
何かに縛られては、せっかく持っている力が制限されてしまう。
フリースタイルが良いのである。

尚、上記の、「ストーリーの力」について、初音ミクさんが可憐に歌った『Story Rider』という歌(英語)が良いと思うので、下にご紹介した。








極道の妻の教え

昨夜も書いたが、 岡田虎二郎(啓蒙家。1872~1920)が、「 念仏を唱えるだけで、一切の問題が解決し救われる」と言ったことは重要なことだと思う。
岡田虎二郎ほどの人物が言ったから・・・という面も確かにあるのだが、それよりも、誰でも知っている事実を、あえて指摘されて、はっとする感じがするのである。
たとえば、「本当に大切なものは目に見えない」というようなものだ。
これは、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』の中の有名な言葉だが、世間的な考え方に染まった人なら、
「本当に大切なものは目に見えないだって?そんな馬鹿なことがあるかい。目に見えるものが大切に決まってるだろ」
とでも言うだろう。
しかし、人間らしい知性の欠片でも残っている人なら、その言葉の美しさにはっとするのである。

だが、法然は表向きには、念仏は、死んだ後に極楽浄土に生まれるための手段であると説いた。
しかし、それは当然だと思う。
もし、念仏を唱えれば、病気が治るとか、良い結婚相手が見つかるとか、お金が儲かるなどと言ったら、愚か者が、「金が入ってきますように」と思いながら、数分、必死で念仏を唱えた後、数日してお金が入って来ないと、「なんだ!念仏なんて効き目がないじゃないか」と言い出すのである。
岡田虎二郎も法然も、「一回、あるいは、ちょっと念仏を唱えれば、一切の問題が解決し救われる」と言ったのではない。
常住坐臥(じょうじゅうざが)、念仏を唱えよと言ったのである。
常住坐臥(じょうじゅうざが)とは、「日常、座っているときでも寝ているときでも、いつも。ふだんの生活で。四六時中」という意味である。
もちろん、厳密にそんなことが出来るわけではないが、そんな意思を持っていることが大切ということだと思う。

ただ、当然分かることであるが、別に、念仏に呪術のような力があるわけではない。
それに関しては、岡田虎二郎も、虎二郎の意思を受け継ぐ弟子も、あっけらかんと「何でも良い」と言う。
そもそも、虎二郎が四六時中やることを勧めたのは「腹に力を入れる」ことだった。
中村天風の場合は、四六時中、肛門を引き締めよと教えた。
だが、常に腹に力を入れるとか、常に肛門を引き締めるというのは、なかなかやれないのである。
ところが、念仏のように、言葉で唱えることは、比較的やり易い。
そして、別に念仏である必要はなく、短く、リズムがあり、敬虔さ、高貴さ、生命力のある言葉が良い。
それで言えば、念仏もそうなのだが、仏教の真言は、敬って仏を褒め称える言葉であり、活気やリズムがあり、そして、高貴なサンスクリット語を元にしていることから、唱える言葉として理想的である。
沢山ある真言から、好きなものを選べばさらに良い。
その際、「私の家は真言宗だから大日如来の真言が良いだろうか」とか「浄土真宗の家だから、やはり念仏かな」といったことは、考える必要がない。
葬式の時などは、周囲に合わせておけば良いが、自分が常に唱える真言は、自分で選ぶと良い。
どれを選ぼうが同じなのである。その意味では「家が浄土宗なので念仏を」でも全く構わない。

私の場合、四六時中どころか、本当にたまに真言を唱えただけであった。
だが、たまには唱えていたのである。
それでも、驚くべき効果があり、奇跡としか思えないことが数多く起こり、いつも良い想いばかりさせてもらってきた。
こう言うと、「じゃあ、たまにで良いのですね(笑)」と反応する者が、おそらくいることが残念なのである。
そういった、ひねた、薄汚れた、下種な、悪霊に憑りつかれた心を持った者が多く、そのままでは、そんな者達は、惨めな死に方をするしかない。
だが、そんな者達でも、真言を唱え続ければ救われるのである。
法然や親鸞が、並々ならぬ苦心をしたのは、そんな者達に念仏を唱えさせることであった。

あるヤクザ映画で、高位のヤクザの年配の妻が、「神仏に手を合わせる気持ちがなくなったら終わりですよ」と言ったのを、私は憶えている。
逆に、それを忘れない限り、神仏は見捨てない。
私は、人間的に低レベルなため、結果としては、たまにであったが、どこかで、「常に」唱える気があったのだと思う。
しかし、常に、腹に力を入れるとか、肛門を引き締める気には、なかなかなれないと思う。
そんなわけで、「真言を唱えるだけで、一切の問題が解決し救われる」のである。








一切の問題が解決し救われる真言

「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎(1872~1920)は本当の本物で、仏陀やキリストのような存在であったと私は思う。
だが、岡田自身は、文字になると、自分の教えが誤解されると考えたのだと思うが、死の直前に書いたものを全部燃やしたそうだ。
けれども、弟子達が、どうしても伝えずにいられなかった岡田の語録や逸話は、どれも、ほんの一言を読む度に無意識の状態になってしまうほどだ。
しかし、岡田が49歳の若さで急死したことで、彼の門下に居た者達のほとんどが、彼の教えに見切りをつけた。
ところが、学生の時、本当に僅かの期間、岡田に師事した柳田誠二郎氏は、岡田式静坐法により、病的だった身体を頑健にし、日本航空社長や日銀副総裁などの要職を歴任しつつ、生涯に渡って静坐を続け、百歳過ぎまで健康に生きた。

どれかの本で見たが、私は、岡田虎二郎に関する、こんな話を、印象的に憶えている。
金に窮していることを訴える男に岡田がこう言ったそうだ。
「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ますよ」
岡田式静坐では、腹に力を入れるが、岡田は、いついかなる時でも、腹から力を抜いてはいけないと言う。
それにより、腹に力がつくのである。
そうすれば、お金など、求めなくても入って来るようになるのだということである。
ところが、岡田も、柳田も、静坐だけが神人になる方法であるとは全く言っていない。
柳田は、講演会の中で、特に若い人々に、
「何でもいいから1つ、心を締める鍵を持ちなさい。私の場合は、それがたまたま静坐であった」
と言ったくらいである。
そして、岡田すら、法然の「ひたすら念仏を唱えよ」という教えを称賛し、
「念仏を唱えるだけで、それで一切の問題が解決し救われる」
と断言しているのである。
だが、念仏であれば、やはり、常に念仏を唱えなければならない。
仕事をしながら念仏するのではなく、念仏をしながら仕事をしなければならない。
生活しながら念仏をするのではなく、念仏をしながら生活をしなければならない。

実際は、静坐や、腹に常に力を込めるよりは、念仏を唱える方が易しい。
だが、何でも良いのである。
それなら、念仏にしろ呪文にしろ、何かを唱えることが一番簡単で、どんな人間にでも出来るということは、法然や親鸞が常々述べていた。
それなら、やはり、我々は、真言を唱えるべきである。
出来るだけ多く、心の中で、丁寧に真言を唱えれば、「一切の問題が解決し救われる」のである。
もちろん、念仏が好きなら念仏で良い。
私の場合は、単に葬式臭いという理由で、念仏に良いイメージを持たなくなっただけである。
それで、同じ阿弥陀如来の真言である「オン、アミリタ、テイセイ、カラウン」と唱えているのである(「南無阿弥陀仏」の念仏も阿弥陀如来の真言と言える)。
観音様が好きなら「オン、アロリキャ、ソワカ」、あるいは、「南無観世音菩薩」と唱えれば良い。
弥勒様なら、「オン、マイタレイヤ、ソワカ」、あるいは、「南無弥勒菩薩(あるいは「南無弥勒仏」)」だが、私は、個人的に「オーン、マイトレーヤ、スヴァーハー」が気に入っている。
何でも良いし、複数好きなものがあれば、全部、唱えても良いと思う。
それで、「一切の問題が解決し救われる」と思う。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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