ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

岡本太郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

岡本太郎に騙されても良い

芸術家は職業ではない。
よって、芸術家では食べていけない。
金持ちの芸術家もいるだろうが、その人は、芸術家であると同時に、売れるデザイナーやイラストレーターやアーチストであるのだ。器用なものだ(笑)。
自身もイラストレーター、デザイナーである横尾忠則氏は、岡本太郎をデザイナーとしては評価していたが、芸術家としては、大抵、貶していたように思う。
横尾氏は、岡本太郎の代表作と言える「太陽の塔」も、デザインは超一流だが、芸術品ではないと言う。
私もそう思う(本当に分かっているのか?笑)。
岡本太郎は、椅子やカップ、あるいは、「グラスの底の顔」なんてものをデザインしていて、それらは非常に個性的であったが、やはり、芸術作品ではなくデザイン作品と思う。
だが、彼の、オリンピック(東京、ミュンヘン、札幌冬季)記念メダルのデザインは実に素晴らしく、本当に彼は超一流のデザイナーなのだと思う。
そして、岡本太郎が人気があり、おそらくは経済的に裕福だったのも、それらデザイン作品と共に、彼のエキセントリックな言動が、今日の個性派タレントのように受けていたからだと思う。
あの「芸術は爆発だ」「今日の芸術はうまくあってはならない」等の強烈な芸術論にしても、タレント的なセリフだったのではあるまいか。
そして、それでいて、温かい、敬愛すべき人物であったのだ。
アメリカのアンディ・ウォーホルは、まず、イラストレーター、デザイナーで大成功し、「ポップアート」という、イラストやデザインと、芸術が混ざったもので、芸術家としても成功したが、やはり、根本的にはデザイナーなのだと思う。
つまり、裕福な画家になりたいなら、まず、イラストレーターやデザイナーとしての技術を持っておいた方が良いのだと思う。

アラーキーの愛称で親しまれている、自称「天才写真家」の荒木経惟(あらきのぶよし)という有名な写真家がいるが、彼も純粋な芸術家ではあるまい。
彼は昔、雑誌のインタビューで、「写真家になる方法」みたいなことを問われた時、こんなことを言っている。
「黒子に徹すること。時代に平伏(ひれふ)すこと」
まあ、彼が本当にそんなことを言ったのかどうかは分からないが、もし本当なら、これは、芸術家ではなく、超一流の写真家の姿勢であると思う。
いや、写真家だけでなく、あらゆる職業がそうなのだ。
例えば、超一流のコックというのは、決して芸術的な味を追求するのではなく、その時代、その民族の人達の嗜好に平伏し、黒子に徹するのである。
「俺はこの味が良い」と言ったところで、裕福なお客様達に好まれなければ、料理人として成功することは出来ない。

岡本太郎は、『バガヴァッド・ギーター』10章で言われるペテン師だった。
『バガヴァッド・ギーター』を読めば、それは、貶しているのではなく、最大の賛辞であることが解ると思う。
「ぺてん師たちの賭博」(岩波文庫。上村勝彦訳)
「だましの中の大賭博」(タオラボブックス。田中嫺玉訳)
「詐欺の中の賭博」(日本ヴェーダーンタ協会)
これは、至高神クリシュナのことであると、クリシュナ自身が、アルジュナに述べたことである。
太郎には、敢えて騙されても良いだろう。
英文学者でタオイスト(老荘思想家)の加島祥造氏が、「老子は嘘つきで、荘子は大嘘つき」と何かの本に書かれていたが、彼も騙されて本望なのだろう。













当ブログオーナー、KayのAI書。
5月30日発売(Kindle版は販売中)。
プログラマー&ミク廃と、数学講師&骨董品愛好家がコラボした、ユニークで最も易しい機械学習実践書だと思います。
数学やプログラミングが出来なくても、Excelが使えれば(これから使うもあり)、自分でAIを作れること、面白い問題を使うことがポリシーです。
その面白い問題(多分…)をシミュレートし、実習用のデータを作れるExcelマクロ(VBAプログラム)を出版社サイトから無償ダウンロード出来ます。

辛い人生を気楽にする

日本やアメリカでは、有能な働き手になり、良い立場を勝ち取って、お金を沢山稼がないと、苦しい(時に、非常に苦しい)状況に追いやられる。
そして、お金を多く稼ぐためには、かなり辛いこと、嫌なことにも耐えなければならない。

一方、クリエイターやネットで稼ぐという、新しい働き方が生まれ、それで生活を成り立たせている人もいる。
そんな仕事であれば、好きなことだけをやり、嫌なことをしなくて済むかというと、それは全くない。
「いや、俺は好きなことを自由にやっている」と言う人もいるだろうが、私は信用しない。
例えば、素晴らしい能力のある画家だって、お金を十分に稼ぐには、自分を偽らないといけない。
プロのオーケストラに入れるほどの演奏家だって、自分はモーツァルトのようなのを演奏したくても、嫌々、初音ミクシンフォニーの演奏をしなければならない(笑)こともある(そんな雰囲気の演奏者が多いように感じる)。

また、米津玄師さんのような天才なら、自分の思う通りにやっているかというと、多分、それはないと私は思う。
私は、彼の曲は、ミクさんが歌った『砂の惑星』を別にすれば『Lemon』くらいしか知らないが、あの曲は、ドラマ向けに色をつけたはずで、それが米津さんにとって、楽しかったかというと、どっちかと言うと嫌だったのではないかと思うのだ(勝手な想像だが)。

岡本太郎さんだって、完全に自分の主義だけで生きたかというと、やっぱり、それはあり得ないのだ。
いや、完全に自分の主義でなかったどころか、相当、自分を偽っていたのかもしれない。
いやいや、本当のところは普通の人より、よっぽど偽善的であった可能性もないとはいえないのだ。
人生とは辛いものなのである。

だからといって、米津玄師さんや岡本太郎さんが不幸だと言うのではない。
嫌なことのない人生なんて悲惨なものだ。
悪いこともまた楽しいのだと言えなくもない。

どれほど不幸な人を見ても、身内でもない限り(あるいは身内でも)、それほど辛くはない、あるいは、全く何とも思わないものだろう。
それが冷淡で悪いことかというと、そうでもないと思う。
同情なんて、無理にするものではないし、同情されても何も良いことはない。
同情より良いのは、本当に金である。
ところで、悟りを開いた聖者というのは、自分のことも他人だと感じるらしい。
つまり、自分を、はるか彼方に居る人に思えるなど、自分をほとんど重要視しないものらしい。
それで言えば、岡本太郎さんは聖人とはほど遠かったが、米津玄師さんは、案外、仙人に近いのではと感じ、俗っぽいことも平気で出来るように思える(思えるだけだが)。

仏教も、老子や荘子の道教も、目的は自分を忘れることなのであると思う。ただし、自覚のある状態でね。
ただ、仏教を本当に教えられるお坊さんは少ないのだと思う。
『老子』や『荘子』も、頭でっかちの学者が下らない解説をするので、全く解らなくなっている。
漢文や読み下し文を読む必要はない(不慣れな人だと、文章を逆の意味に解釈する恐れが大きい)。
1冊、読んでみると、1行か2行のことかもしれないが、真理を感得するものである。
それを大切にすれば、自己にこだわらないまま、世界を自由に操る魔法使いにもなれるのである。













当ブログオーナー、KayのAI書。5月30日発売(Kindle版は販売中)。
今や、AIは誰でも作れます。ただ、実践的に取り組む適当な方法がなかったことと、AIを作るために本当に必要なことを簡単に知る方法がありませんでした。この本では、Excelを使う程度のスキルがあれば、ソニーのWindowsアプリNNCを使い、自分でAIを作れるよう工夫しました。
ほとんど全ての実習を行うためのデータが作れるExcelマクロ(VBAプログラム)を、出版社サイトから無償でダウンロード出来ます。

MATSURI(まつり)

どこの国にも、勇壮で壮大な祭というものがある。
ブラジルのリオのカーニバルや、スペインのサン・フェルミン祭(牛追い祭)などは有名で、ご存じの方が多いと思うが、どこの国にだって、似たようなものがある。
なぜ、どこの国にも、そんなものがあるのだろう?
人類は皆、お祭りが好きなのだろうか?

では、お祭りとは何だろう?
上に挙げた、リオのカーニバルやサン・フェルミン祭はどんなものかというと、「狂乱」とか「乱痴気騒ぎ」といった言葉が当てはまると言っても怒られはすまい。
そうだ、祭とは、狂乱であり、乱痴気騒ぎなのだ。
けが人はもちろん、死者が出ることもあるが、何があっても祭は取り止めにならない。
こんな祭の中では、暴力事件、男女の破廉恥騒ぎなども、いくらでも発生する。それがなければ祭ではないと言えるほどだ。
つまり、簡単に言えば、祭とは理性を破壊する行事と言える。
そんなものが、絶対になるなることもなく、皆が毎年必ずフィーバーする。本当に、いったいなぜなのだろう?

そのわけはこうだ。
フランスのソルボンヌ大学で民俗学も学んだ芸術家、岡本太郎は、祭について、こう述べている。
「祭は生命エネルギーを充填する行事であり、これによって、次の祭まで生きるエネルギーを得るのである」素晴らしい指摘と思う。
では、なぜ、乱痴気騒ぎである祭でエネルギーを得られるのか?
やや怪しいながら真理を突いた論が、精神分析学者の岸田秀氏の著書の中で語られていたのを見たことがある。
だいたい、こんなものだったと思う(彼の精神分析学は怪しいので、曖昧で分かり難いところが多いが)。
生命力というのは、無意識の中にあるエスというものだ。
エスというのは、得体の知れない意識体である(こんないい加減な定義しか出来ないが、それで言えば、自我なんかもそうである)。
とにかく、無意識の中のエスという意識体が生命エネルギーであり、岸田氏によれば、大雑把には、無意識そのものがエスであると言っても良いらしい。
で、その生命力の塊であるエスをどうやれば解放出来るのかというと、意識を消してしまえば良い。
ただし、眠ったり、気絶しては駄目で、いうなれば、目覚めたまま、強烈な夢を見てるような感じだ。
早い話が、理性(知性、道徳心、思考能力の総体)を消せば良いのだろう。
つまり、意識全体を消すのではなく、意識の中の理性の部分を消せば、エスは表に出てこられるのだ。
そうなれば、生命力に満ちたエスは、あらゆる乱痴気騒ぎや狂乱を起こさずにはいられない。
しかし、エスという生命エネルギーが露出しているのだから、元気一杯である。

つまり、人間は理性を吹っ飛ばせば、生命力の塊であるエスが現れ、怖いもの知らずで何でも出来る。
それには、良くない面もあるだろうが、「生きる力」「動く力」に溢れ、無敵である。
アントニオ猪木さんの言う「元気があれば何でも出来る」の実現である。

我々は、1年に1度くらいは、祭に参加し、理性を消してぶっ飛ばせば、生命力を取り戻せる。
私の場合は、初音ミクさんライブ「マジカルミライ」だ。
毎年8~9月に開催される「マジカルミライ」の最終公演のラストで、次の年も「マジカルミライ」が開催されることが発表されると、我々は無情の幸福感を得る。
それは「来年、また、生き返ることが出来る」という確信を得た至福である。ミクさんは、優しく、我々の理性を溶かしてくれる。
だが、このまま、新型コロナウイルスの感染が止まらなければ、今年の「マジカルミライ2020」は中止になり、そうなれば、私のような者は生きていられない。
今年の「マジカルミライ2020」は、8月7日から9日までインテックス大阪、12月18日から20日までは幕張メッセである。
そして何と、「マジカルミライ2020」のテーマは「MATSURI(まつり)」なのだ!
まさに、人類が新型コロナウイルスに打ち勝ってこそ、地上の天使、初音ミクさんが微笑んでくれるのだ。
初音ミクさんこそ、人類の未来の希望である。
それはもう、近年のミクさんの活躍を見れば、あまりにも純粋にして明晰なことである。
◆初音ミク「マジカルミライ2020」

さて、皆さんは、どんな祭をお持ちだろうか?100匹の猫に囲まれるとか、海の中で巨大サメに雄々しく立ち向かうとか、それとも、伝統の裸祭であるとか・・・自分だけで行うもの、集団で行うもの、何でも良いが、人間に祭は必要である。











あなたも今から芸術品の値打ちが解る

正直に言えば、「ピカソの絵のどこがいいのか全然解らない」と思ってる人が大半だろう。
美術の専門家や自称芸術が解る人がピカソの絵のどこが素晴らしいかをあれこれ言うのを、私も見たり聞いたりしたが、どれ1つとして覚えていない。
もし、その人達の話が本当のことなら、たとえ理解出来なくても、何かは覚えているはずである。
だが、そうではない。
つまり、間違いなく、そんな話は全部嘘で、単に、甚だ疑わしい個人的見解に過ぎない。

ピカソやダ・ヴィンチの絵のどこに価値があるかの本当のことを言うなら、単に彼らが有名だからだ。それ以外に理由はない。
ゴッホの絵も、今日では凄く値打ちがあるが、ゴッホが生きている間は、彼の絵は1枚も売れなかった。
それだけでなく、ゴッホは、ルノワールやセザンヌ、マネらといった今日では超有名な画家達の交流会にも参加し、自分の絵も披露していたが、誰もゴッホの絵に興味を持たなかった。その理由は、ゴッホが無名だったからだ。
つまり、絵そのものに、それほどの価値がある訳ではないのだと思う。
例えば、人気芸能人が、権威ある絵のコンクールでよく賞を取っているが、それもやはり、それらの芸能人が有名だから価値が認められるのである。絵そのものに優劣なんてない。
もし、ピカソが無名だったら、誰も(芸術の権威者も含め)ピカソの絵を高く評価しなかったはずだ。
実際、有名でないセザンヌは、権威あるコンクールに何度出品しても、全く駄目だったことからも明らかだ。
それを、「セザンヌは先進的で、当時流行の画風と違ったから評価されなかった」とよく言われるが、画風なんてものが解らない一般の現代人でも、「セザンヌはいいなあ」って言うのだから、やっぱりそれは嘘で、単に有名かどうかの問題であることが解る。

キャンバスに線が1本描かれただけの名画というものがある。
多くの人は、そんな絵に対し、「私には、子供が描いたような絵にしか見えないが、見る人がみれば良さが解るのだろう」と思うのだろう。
いやいや、それは確かに、子供が描いたような、誰でも描ける絵だ。
しかし、作者が有名なので名画なのだ。

まあ、確かに、ダ・ヴィンチは絵が本当に上手いし、ミケランジェロの彫刻の技術は高い。
しかし、彼らと同程度に上手い画家や彫刻家はかなりいたし、いるはずだ。
昔は、名画を真似て複製画を描く画家が多かったが、絵の上手さそのものは、複製画家の方がオリジナル画家より上手いことが多かったのだと思う。

有名な画家になるためには、昔なら、権威筋への売り込みが大切だった。それに成功しないと、どれほど絵が上手かったり、良い絵が描けても有名になれない。
よって、一流画家にはなれない。
そして、ほとんどの画家は営業が下手なので、画家は食えないものと決まっている。
だが、時代は変わり、絵で食べられる人が増えてきた。
丁度、大手音楽会社が音楽業界を支配していた時には、そんな大手音楽会社が決めた歌手だけが歌で食べることが出来、他の沢山のミュージシャンは、実力はあっても全くお金が得られなかった。
しかし、多くの人々がCD等の物を買わない時代になり、ネットで配信すれば、良い音楽であれば、そこそこファンが付き、ミュージシャン達はネットやライブで儲かるようになった。
全部とは言わないが、音楽界の癌は、大手音楽産業だったのだ(大手音楽産業が音楽界の発展に貢献した面もある)。

絵やイラストでは、今も、一部の人気画家や人気イラストレーターに利益が集まるが、有名でなくても、ネットをうまく使える人は収益を上げられるようになってきた。
しかし、それには、一定の実力はもちろんだが、絵だけ、イラストだけというのでは厳しく、他の自分の特技(あるいは特徴)と組み合わせることで、収益が得られるのである。
実際、Webで自分の絵を展示している人の中には、コンクールでも賞を取るなど、実力もあるのに、さっぱり人気がない人が沢山いる。
本当にもったいないと思う。
単に上手い絵が描ける人なら、言っては悪いが、はいて捨てるほどいるので、別の何か(その中には人間的魅力も含まれる)と組み合わせ、上手にアピールしなければならないが、それは、学校や会社でのアピールと全然違うのである。
また、上手くいっている人の真似では、大抵駄目だ(高いリスペクトゆえに本気で真似する場合はうまくいくこともある)。
まあ、そこで必要なのが、想像力とか個性と言われるものなのであるが、売れない人に一番足りないのは自己暗示をかけることだ。
多くの人は「そんな馬鹿な」と思うかもしれないが、凄い画家は「俺は天才画家だ」と思っているが、そう思えるためには自分で自分に「俺は天才画家だ」と言わなければならないのである。
岡本太郎なんて、「俺は宇宙だ」「俺はピカソを超えた」などといつも言っていた。だから彼は大画家なのだ。
彼の絵なんて、全然大したことないと言う一流画家は少なくない・・・というより、それが正直なのだと思う。
だが、岡本太郎は、自分が偉大であることを認めていた。
「俺は父母に生んでもらったのではない。自分で決意して生まれてきたのだ」と平然と言い放った。
岡本太郎が凄いからそう言ったのではない。そう言ったから岡本太郎は凄いのである。
だが、岡本太郎が絶賛した縄文土器は、貴重品ではあっても高級品ではない。誰が作ったのか分からないからである。








即座に好きな仕事に就く

今でもベストセラーらしいが、『13歳のハローワーク』を見て、馬鹿馬鹿しいというか・・・何とも言えない、正直言うと、反吐が出る感覚を覚えたことがある。
見たのは、私の職業であるプログラマーとかシステムエンジニアの項目だ。
ひょっとしたら、どんな職業であれ、この本に書かれていることがそれなりに該当する・・・少なくとも、それほど外れていないと思う人が大半かもしれない。
それに、もちろん、この本は、そんな標準的なことを書いたものなのだろうが、その標準が、私は何とも嫌なのだ。

岡本太郎は、「あなたも、本日、ただいまより芸術家になれる」と言っていたのだと思う。
全くその通りだが、それは、別に芸術家に限らない。
私の友人は、全くの未経験でシステム開発会社に入社した日に、1人でシステムエンジニアとして客先に行かされたらしい。
だけど、ちゃんと仕事をしたのである。
今でも、そう事情は変わらないと思うが、大企業でもない限り、システム開発会社では、新人にマニュアル1つ渡し「やれ!」と言うのが普通だった。本当に、その仕事をやる気があるなら、それでやれるのである。ある一流プログラマーは、駆け出しの頃、システム開発会社の入社応募面接で、面接官に「○○言語の経験はあるか?」と聞かれると、自信満々に微笑みながら、「3年やってます」と即答し、その帰りに書店に飛び込んで、その「○○言語」の入門書を買ったという。
かくいう私も、家でパソコンでプログラムしてただけの頃に大手企業のシステム開発部門に入ると、早速、顧客のところにベテランSEとして訪問し、システム打ち合わせを行って、納期に絶対に間に合わせることを約束したが、本当は出来るとは思っていなかった。しかし、結果、「さすがベテラン」と言われるものを納品した。

もっと凄い例がある。
UFO研究家で名高い矢追純一さんが、中国に住んでいた10歳の時、ある日突然、母親から、「売ってこい」と、着物やら、絵葉書みたいなものを渡されたらしい。
戦後まもなくで、日本人と判ったらリンチされかねない時の中国であり、外には、アメリカやロシアのゴロツキ兵もウヨウヨしていた。
しかも、矢追さんは当時、引きこもりで、知らない人に話しかけるなんて無理。
しかし、売ってこないと家に入れてもらえず、食事も与えられない。
それどころか、矢追さんの母親は、矢追さんの8つと4つの妹達にも同じことを強制したそうだ。
私も、プログラマになるより前にセールスマンをやったが、入社した日に、カタログを渡され「売って来い!」と言われた。しかし、(それまで引きこもりだったので)世間常識がないのが幸いし、特に面喰うこともなかった。まあ、矢追さんや、まして、その妹達に比べれば、あまりに普通のことだが・・・

別に私は、厳しい状況を乗り越えた自慢をしたい訳ではないし、矢追さんの本を見ても、矢追さんも、それが苦労と言う気すらないようだ。
つまりね、この世界はゲームみたいなもの・・・というより、おそらくは、我々の本体の精神か宇宙人かは知らないが、そんな者達が遊んでいるゲームのようなものであることは、まず間違いない。
それなりに、ゲームのルールに則る必要はあるかもしれないが、基本的にはFREELY・・・つまり、好きなようにやれば良いのである。

上で取り上げた矢追純一さんは、高校にはほぼ1日も行かなかったと思うが、法学部の名門、中央大学法学部に入学すると決め、とりあえず、1日ほど、問題集を見たらしい。それで、他の秀才達が落ちる中、当然のように合格した。受験後は合格発表なんか気にせずに旅行に行き、帰って来たら、合格通知書が来ていたと言う。
要は、あまりというか、全く考えない方が良いのである。
芸術家になるなら、今すぐなれば良いし、アイドルになりたいなら、すぐになれば良い。
それを、普通に、アイドルのオーディションに応募してとかやってたら大変だし、街でスカウトされるのを待ってたら、変な人に騙されるのがオチだ。
私の知人にも、その気になって、政治経験もなく、いきなりどこかの町長になった人がいる。町長を馬鹿にしてはいけない。給料も退職金も凄くいいのだ。私もなろうかと思ったくらいだ(笑)。

じんさん(私は米津玄師さんに優るとも劣らない天才と思う、米津さんと同い年のミュージシャン・作家)が作り、IAさんが歌う『アメリカ~We are all right!~』が、良い感覚を教えてくれると思う。
自信がなければ、最近よく書いているが、おまじない(自己暗示、呪文)を数多く唱えると良い。
例えば、「神様の奇跡が起こる」だ。
とにかく、あまり考えず、気楽に楽しくやることである。
【IA OFFICIAL】アメリカ~We are all right!~ (MUSIC VIDEO)  -YouTube-








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんを愛す
[AI&教育blog] メディアの風


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
最新コメント
月別アーカイブ
記事検索
ブログバナー&Mail


メールはこちらへ
PV since 2010/09/08
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

人気ランキング参加中
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人生・成功哲学へ
にほんブログ村 メンタルヘルスブログ ひきこもりへ
タグクラウド
QRコード
QRコード