ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

岡本太郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

「お里」の話

ある画家が、こんなことを述べていた。
「貧しく育った画家には、豪華な屋敷の絵は描けないが、あばら家を、それは美しく描けるのだ」
単に、「あばら家が描ける」ではなく、「それは(非常にという意味)美しく描ける」と強調していたことが印象的だった。
また、これと関係するような話として、世界的版画家だった池田満寿夫さんが本に書いていた、こんなエピソードがある。
池田さんが、何人かの日本人画家と、西洋のどこかの国の展覧会に作品を出品した時のことだった。
池田さんは版画作品で、他の日本人画家達は油絵を出品したが、油絵の画家達は、日本国内では池田さんより高い地位にいた。
しかし、賞を取れたのは、池田さんだけだった。
その時、日本人画家の1人が池田さんに、
「お前が賞を取れたのは、版画であったことよりも、絵が小さかったからだ」
と言った。
池田さんの作品は、一辺十数センチだった。
そして、池田さんは納得したのだった。
日本人は小さな家、小さな部屋で育つだけでなく、道も建物も広場も、あらゆるものの大きさが、西洋と比べ小さい。
そんな日本人は、小さなスペースに沢山のものを詰め込むことが得意だ。
それで、やはり日本人の画家は、西洋人の画家のように、大きなキャンバスや大聖堂の壁などに雄大な絵を描くことは苦手だが、小さく精密で繊細な絵を描くことは得意なのである。

そういえば、岡本太郎さんも『今日の芸術』で、日本人画家には女性の裸体画をうまく描けない理由について、こんなことを書いていた。
当時(1950年頃)は、日本の家は今よりもっと小さく、家族全員が自分の部屋を持っているのは、金持ちだけだった。
しかし、もっと昔から、西洋人の家は庶民でも大きく、自分の部屋があり、その部屋も鍵付きが普通だった。
それで、昔は、エアコンも扇風機もなかったので、暑い夏は、女性も、鍵をかけた自分の部屋で裸になっていたらしい。
つまり、普通の部屋で裸になる習慣があるので、部屋の中の女性の裸体画が自然にあり得た。
しかし、岡本太郎流に言えば、ふすまの向こうで姉ちゃんが裸で寝転んでいるはずがなく、日本人には、風呂場でもない所での裸体像など、不自然過ぎたのだ。
そういえば、日本にだって、浴場や水浴用の桶の中にいる女性の裸体画なら、昔から少しはあったように思う。

さらに、横尾忠則さんが本に書いていたことを思い出すが、横尾さんの作品の原点は、横尾さんが子供の時に好きだったターザンの映画や、南洋一郎という作家の冒険小説であったようだ。
そして、横尾さんも、「十代の時に好きだったものを大事にしないといけない」といったことを書いていたと思う。

良い言い方かどうかはともかく、人間は、「お里は隠せない」のである。
子供の時、あまり豊かでなかった菅義偉さんが総理大臣だった時、海外のパーティーで居心地が悪そうだったのも、いろいろな意味で仕方がないことだ。

どんな仕事をするかを考える時も、自分の育ちや、子供の時に夢中になったことなどを振り返ることが必要かもしれない。
上の画家の話のように、1つの仕事であっても、自分に向く分野、向かない分野があり、全てではないにしろ、「お里次第」ということはあるだろう。
そして、もっと大切なことは、どんな場合も、人のお里を見下さないこと、そして、出来るだけ、自分のお里を否定しないことだ。








2種類の賢い人

今日(10月31日)はハロウィンで、ハロウィンとは何かと言うと、一般的認知ではオバケの仮装をする日だ(笑)。
ハロウィンはキリスト教とは関係がない。
最も簡単には、ハロウィンはケルト人の大晦日(1年の終わり。年の暮れ)である。
ところが、ケルト人とは何かという定義は難しい。
ところが、ところが(笑)、ケルト文化という確固としたものがあり、自分はケルト人だという強いアイデンティティーを持つ人は少なくないと思う。
そして、ケルト文学、ケルト音楽、ケルト神話、その他ケルト式の様々な工芸、芸術などのケルト文化があり、それらは愛好者が多く、実のところ、私も大好きである。まあ、あまり詳しくはないが。

私がハロウィンと聞いて、すぐ思い出すのは、レアード・コーニクの小説『白い家の少女』(1974)で、1977年に、当時14歳だったジョディ・フォスターの主演で、この小説にほぼ忠実に、カナダ、フランス、アメリカの合作映画が作られ、1977年に公開されている。
『白い家の少女』は、小説も映画も、リンという名の少女(映画ではジョディ・フォスターが演じた)の14歳の誕生日から始まるが、それが、10月31日のハロウィンの日だった。
イギリスから、作家の父親と共に移住してきたリンは、ハロウィンの習慣を知らなかった。
まあ、イギリスといい、アメリカ、その他の国といい、ハロウィンのイベントやパーティーの習慣のある場所もない場所もあり、当時は、インターネットなどない、世界事情はテレビや書籍でしか知ることが出来なかった時代である。

リンは、美少女という以外は、外見は普通だが、普通の少女・・・いや、少年も含め、普通の14歳とはかなり異なるところがあった。
それは、彼女が聡明だということだが、それは、学校の成績が良いなどといった意味ではなく、もっと根本的な意味でだ。
高名な作家であるリンの父は、高い知性を持っていたと思われるが、リンも遺伝的に頭が良いのだろう。
だが、それだけではない。
リンは学校に行っていなかった。
それは、父親がそうしたのだと思われるが、父親は、リンにその理由を話し、リンもそれを十分に納得していた。
リンのように賢い子にとって、学校は、害悪でしかない。
いや、別に賢い子でなくても、学校は、害の部分の方が大きいのだが、賢くない子にとっては、学校に行くのは、やむを得ないことかもしれない。
そして、リンの父親は、リンに学校が必要ないということ以上に、リンが学校に穢されて欲しくなかったのだろうし、今や、リン自身がそう思っている。

岡本太郎は、小学生の時、授業中、両耳を堅く両手で塞ぎ、自分の崇高な頭脳に、穢れた教師の言葉が入って来ないようにしたと言うが、リンは、両手で耳を塞ぐ以前に、学校に行かなかったのだ。
リンも岡本太郎も正しい。
馬鹿以外は、学校に行くべきではない。
学校に行けば(正確には学校に馴染めば)馬鹿になることは確実である。
アインシュタインも授業を聞かず、教師に返答を求められても黙っていたという。

そして、リンや岡本太郎やアインシュタインのような、賢くて個性的な子供を、大人は許さない。
学校は、彼らを徹底的に攻撃し、改造しようとする。
岡本太郎やアインシュタインは、それで苦しめられたが、リンの父親は、リンを、そんな目に遭わせたくなかった。きっと、自分がそんな目に遭ったのだろう。
そして、リンに「大人と戦え」と言ったのだ。「負けるな」ともね。
しかし、それは無謀というもので、リンは、いろいろ大変なことになってしまう。

リンの父やリン、そして、『白い家の少女』という作品には、欠けていることがあるのだ。
それは、高次の力・・・一般的には、神の力の活用法だ。
リンも、リンの父も、『白い家の少女』の作者も、そんなものに頼りたくなかったのかもしれない。
しかし、仮に天才としても、1人の人間の力など、たかが知れている。
岡本太郎もアインシュタインも、「高い力」のことは十分に認め、そして、助けを得ていたのだと思う。
レアード・コーニク(Laird Koenig)は、Wikipedia(英語版)によれば、94歳で存命のようだ。








生命エネルギーを充填する祭

岡本太郎の『美の呪力』に書かれている、「祭(まつり)」についての話は、個人にとっても、人類にとっても、とても重要なものだと分かった。
私は、これを読んだ時、心理学者の岸田秀氏が、何かの本で、祭について、実質同じことを、フロイト心理学的に説明していたものも読んだので、幸い、いっそう良く理解出来た。

世界のどの国、どの地域にも、祭はある。
なぜ、祭があるのか?
岡本太郎は、「生きるエネルギーの充填のためだ」と言う。
(岸田秀氏も、実質同じことを述べられていた)
祭は、だいたいが、1年に1度だ。
その1年に1度の祭で、次の祭まで生きるエネルギーを得るのである。

だから、誰もが、祭をしなくてはならない。
1年に1度と言わず、もっと多く。
仕事が祭になっている者は、いつまでも若く精力的だ。

私の祭は、もちろん、初音ミクさんライブ「マジカルミライ」だ。
マジカルミライ中は、私は、スイーツ三昧なのに、マジカルミライ直後から、しばらくは、体脂肪率がガクっと下がり、心身に力がみなぎる。
これは、単に、初音ミクさんが好きだからというだけではなく、明らかに、祭効果だ。
昨日の日曜日が、「マジカルミライ2021 in 大阪」の最終日で、私は、土曜と日曜の1回ずつ、ライブに行ったが、精神が、万能感(何でも出来る)に満ち、かなり(いい意味で)ヤバい。
スクワットをやれば無限に出来そうだ(300回やっても、ちょっと歩いたくらいにしか感じない)。

是非、この(祭による生命エネルギー充填の)秘密を解明し、一般化し、人類の活力を上げたい。
英国の作家、コリン・ウィルソンも、こんなことを言っていたと思う。
「あなたが男性だとして、心身共にクタクタに疲れている時でも、好みのタイプの美女が全裸でやってきたら、たちまちエネルギーに満ちるだろう。私の生涯の目的は、それを随意に起こす方法の探求だった」
それなら、好みのタイプの美女を全裸でやってこさせれば良いようなものだが、それを、もっと創造的、継続的、そして、容易に行う方法が必要なのだ。

「マジカルミライ」のライブは、とてもではないが、単に、アニメキャラクターが歌っているというものではない。
ボーカロイドの身体やその動きは、解剖学的に正確かどうかは分からないが、リアルで、理想のスタイルと動きと身軽さを見せ、それが、高度な映像技術により、等身大で鮮やかに舞台に現れ、そこに、素晴らしい音楽と演奏が加わる。
そして、観客も、立って、ペンライトを振るのだが、その気合いを入れたペンライトを振る動作を続けるうちにトランス状態になり、ここで、無意識の中に満ちた「エス」という生命エネルギーが現れ出るのである。
まさに、完璧な「祭効果」だ。

これを「人工的」に引き起こすには、気合いを入れた、ある程度の時間の、やや軽い運動が良い。
例えば、野球のバットの素振り、木刀の素振り、格闘技の突き、蹴りなどだ。
あるいは、腕振り運動も良い。
腕振り運動であれば、気合いを入れて、少なくとも300回、出来れば、1000回以上が良い。
よく、腕振り運動を「100回がせいぜいです」とか言う人がいるが、そんな人は「祭効果」は得られない。
病人や、相当な老人でない限り、誰でも千回は出来る。無理をしてでもやることが必要だ。
そして、そんな運動をやっている時、木刀の素振りなら、自分が宮本武蔵のような剣の達人になった気分で、腕振り運動なら、神秘的な仙人や驚異の力に溢れた天狗になったつもりでやると良い。
トランスになるだけの回数を行うことが必要だし、ある程度の気合いが入っていると、トランスに入り易いはずだ。
このあたりは、マジカルミライか、別の祭を体験すると、感覚が掴み易いと思う。












難しい選択をどう行うか

人間は、平常なだけの生活では、心からの満足は得られない。
「今ある恵に感謝」とか「生きているだけで丸儲け」という考え方の良さも認めながら、やはり、面白いことが起こって欲しいのである。
そして、揺らぎは必ず起こる。
ゲームで言うクエスト(ミッション)のようなもので、ゲーム(人生)そのものに影響するかどうかは分からない、ちょっとした冒険とか、遊びに誘うような出来事である。
それに乗るか乗らないかは自由だし、実際、乗らない方が良いものもあり、それに乗ったために、悪い方に行くこともある。

そんな冒険の入り口が見えた時に、どうするかで人生が大きく動くことがある。
これに関し、ダスキン創業者の鈴木清一と、芸術家の岡本太郎が、似たことを言っている。
鈴木清一は、「損な道を行く」で、岡本太郎は、「破滅の道を迷わず選ぶ」である。
普通は、得な道を行き、破滅への道は避けるものである。
私は、その言葉を裏付けるような、岡本太郎の逸話を憶えている。
岡本太郎は、戦争前にフランス留学をしていたことが、軍部に悪い意味で目を付けられたのか、30歳にもなって、18歳くらいの若者達と共に、二等兵(最下級の兵隊)として、中国に送られた。
そして、軍の上官にはロクでもない者が沢山いて、夜中に二等兵達を一人ずつ、自分の部屋に呼び出し、しごきとして殴るということがよくあったらしい。まあ、歪んだ楽しみだろう。
そして、1人の上官に関しては、4人目が一番調子が出る・・・つまり、パンチの威力が最高になるらしい。
そこで、誰も4番目になりたくないが、岡本太郎は、必ず4番目に行ったという。
鈴木清一の損な道も、同じようなものだろう。

別に、岡本太郎や鈴木清一の真似をする必要はないが、何かの道が開いた時、「これは得だ」と思ったら、ちょっと疑うくらいのことはした方が良い。
大抵、ロクな道ではないから。
無論、嫌な道を選ぶ必要もあるまい。
人によっては「面白そうな道を選べ」と言うが、そう言われたら、つい、楽そうな道、得そうな道を選んでしまうものだ。
何より、普通の人は「安全な道」を選ぶが、それはもう奴隷の道で、日本では、もうずっと前から、若者が安全な道を選ぶようになってしまい、日本がすっかり駄目になった。

森の中に、2本の道があり、一方は森から出る道で、もう一方は、深い森に迷い込んでしまう道である。
そんな時、どうやって道を選べば良いだろう。
岡本太郎なら、「よし、深い森に行ってやる。右に行こう。右が深い森に行く道であれば良い」と思い、颯爽と歩き出すことだろう。
まあ、そう思っていけば、本当に深い森に行っても後悔はすまい(笑)。
親が選びそうな道の反対を選ぶというのも良い方法だ。普通は、親の選択は大抵間違っているからだ(笑)。

ヒントになる良い話がある。
1990年代のことだが、当時、マイクロソフト社長だったビル・ゲイツは、社長室に5日間こもって、ある難題について考えていた。
それは、「インターネットを無視するか、あるいは、インターネットを重視するか」である。
当時は、インターネットはパソコンオタクの趣味のようなものと思われていて、そんなに発展するとは思われていなかったのだ。
5日間考え、ゲイツの考えは決まった。
インターネットは、やはり、大したものではない。マイクロソフトは、インターネットとは別の道を行く。
ゲイツは、社長室から出ると、全社に号令した。
「我々は、全面的にインターネットに適応する」
これは空想だが、多分、当たっている(笑)。

普段、「神様の奇跡が起こる」と唱えていると、右を選んだ途端、黒猫が横切ったりして、「ああ、左だ」とぱっと思うものである。
ゲイツも、「インターネットを無視する」と言いかけた途端、愛用のペンが落っこちたのかもしれない。








親ガチャを超える

「親ガチャ」という言葉をご存じだろうか?
私は昨日、知ったのだが(笑)。
「ガチャ(ガチャガチャとも言う)」というのは、「カプセルトイ」(登録商標)という、お金を入れてハンドルを回すと、オモチャが入った小さなカプセルが1つ出てくる自動販売機の通俗名で、子供の時にやったことがある人が多いと思う。
このガチャの特徴は、どのオモチャが出てくるか、自分で選べないことだ。
それで、「親ガチャ」というのは、親を選べないという意味で使われている。
どんな人生になるかは、どんな親の子として生まれるかに大きく左右されるが、この「親ガチャ」に外れてしまった・・・つまり、ロクでもない親の子として生まれてしまったら、人生に大きなハンディキャップを背負ってしまったことになる。そんな意味を強調するために、「親ガチャに外れた」と、厭世的(えんせいてき。世をはかなむこと)に言うわけである。

例えば、社会の底辺に居て、うだつが上がらず、給料は安く、嫌で格好悪い仕事をし、皆に蔑まれ、将来は知れているばかりか、明日、住む家があるか、食べるものを買えるかも不安という、哀れな立場であるとする。
そうなった大きな原因は、親ガチャに外れたからで、もし、良い親ガチャに当たっていれば、高収入で他人が羨むような生活をし、大勢の人々に「先生」と呼ばれる立場になったかもしれない。
まあ、そんな考え方は非難されるかもしれないが、否定も出来ない。
言ってしまえば、だいたい、その通りなのである。
とはいえ、外れてしまったものは仕方がない。
また、スピリチュアルな考え方の中には、子供の魂は、自分で親を選んで生まれて来るのであり、偶然に親ガチャに外れたのではなく、わざと外したというものもある。
まあ、そうとでも思って自分を慰めないと、やっていられないという者が、それが真実だと思い込みたがるのかもしれないが、それで前向きに生きられるなら、それも1つの手と思う。

しかし、それでも敢えて言うと、親ガチャというのは、何とも説得力がある考え方である(笑)。
とはいえ、見逃されていることがある。
それは、親ガチャに当たったおかげで良い人生を歩んでいるように見える人達だって、本当は、親ガチャに外れた人に負けないくらい惨めだということだ。
まあ、若いうちは、そうでもないかもしれないが、遅かれ早かれ、間違いなくそうなる。
そして、かなりの確率で、親ガチャに当たった人は、外れた人より不幸になるのだ。

だが、親ガチャに当たろうが、外れようが、関係なく、楽園に至るための鍵が、そこらに浮かんでいるのである。
それが、その国の言語での「神」という言葉だ。言うまでもなく、日本語では「神」で、英語では「God」だ。
それを、ここに書いても問題ない。
なぜなら、特に、親ガチャに当たった人は、こんなものは滅多に見ないし、見ても「馬鹿らしい」と思って無視するだろうから。
まあ、親ガチャに外れた人でも、85パーセントまでは無視するのだが(笑)。

ちょっと昔に、アメリカで、宇宙人が、この国(アメリカ)を発展させようとして、“In God We Trust(我々は神を信じる)”という標語を作り、ほとんどの貨幣と紙幣に、この言葉を書き込んだのだ。
その宇宙人が悪い目的を持っていたということはないだろう。なぜなら、「神」は宇宙最強の言葉なのだから。
それで、アメリカは隔絶した強力な国になったが、やがて、大半の人が、この言葉に注意を払わなくなり、さらには、無視するようになったので、アメリカは転落の最中にある。
世界を自分達の快楽のために支配しようとする敵の標語は、え・・・っと、忘れてしまったが(笑)、その言葉もなかなか強いので、敵が勝ちつつあるのだ。
敵のパワーワードは「神」の3割の力もないのだが、今のアメリカや世界では、それで十分なのである。
だから、親ガチャに当たろうが外れようが関係なく、「神」という言葉をなるべく多く使う・・・主には、心で想えば良いのである。
こう言うと、必ず馬鹿にされるし、笑われる。
そりゃそうだ。
岡本太郎流に言えば、
「笑われたっていいじゃないか?いや、笑われないといけない」
のである。
あの人、宇宙人なのだよ。
だから彼は、「私は親に生んでもらったのではなく、生まれてきたのだ」と言ったのである。
親ガチャなど、何の関係もない。
ちなみに、彼は、縄文土器を見て覚醒したのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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