ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

岡本太郎

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

成功するまでどうやって生活するか

画家や作家や音楽家になりたいと思っても、それらでいきなり収入を得るのは難しい。
それらで成功した人達だって、最初からうまくいった人は滅多にいない。
では、彼らは、成功するまで、どうやって生活していたのかだが、それがなかなか面白い。

岡本太郎は、母親の岡本かの子が有名な作家で、父親もそれなりの漫画家で、結構なお金持ちだった。
それで、当時としては貴族的なフランス留学をし、フランスでも、岡本太郎がバイトしてたなんて話はなく、カフェやビストロに入り浸って酒を飲みながら芸術談に花を咲かせ、世界中の美女とのロマンスに忙しかった(とっかえひっかえ同棲してたようだ)。

横尾忠則さんは天才型で、経済的な事情で美大に入れなかったが、デザインやイラストで非凡だったので、デザイナー、イラストレーターとしてきちんと稼ぎ、有名にもなった。そして、ある時に、芸術家に転身したが、その後も、デザイン、イラストでも稼ぎ続けた。

東京芸大の受検に4回失敗した池田満寿夫は、町の似顔絵屋に馬鹿にされるほどの絵の腕前だったが、真面目に働く気はなかった。
しかし、そんな者でも、「求めよ、そうすれば与えられる」で、怪しい絵の仕事でなんとか稼ぎながら、版画作品を作り続け、応募締め切りギリギリに、ひたすら彫刻刀でひっかいて3日で作った版画作品は、誰からも評価されなかったが、ドイツ美術界の権威グローマン博士にだけは、作品を高く評価され、そこから、順風漫歩とは言わないまでも、なんとなくうまくいって、世界的版画家になれた。
さらに、芥川賞作家にもなり、映画監督もやったが、不思議なことに、池田満寿夫というキャラクターが人気になってしまい、芸術論や自伝、作画技法、あるいは、作品集などの本を沢山出し、今だ出版されるロングセラーもある。本当に不思議な天才だ。

こういった華々しい人達のようではないが、あるエッセイストは、身籠った妻がいるのに会社をやめ、「相談業」などという看板を出して独立したが、客などさっぱり来ず、暇だから、1日に原稿用紙1枚をノルマに文章を書いていたら、なぜか、物書きで成功した。最初から文章が書けたわけではなく、毎日、淡々と書いたのが良い修行になったらしい。

有名な投資家で作家の邱永漢は、非常な現実派で、ヒモになる、つまり、女に食わしてもらうのも立派な才能と言っていた。
確かに、地道な仕事をしていたら、自分のやりたいことをやる時間やエネルギーがなくなるので、男の魅力で女に養ってもらうのも1つの手と言うわけだが、同じことを女の方がやるとロクなことにならない。
そもそも、男でも、そううまくやれる者は滅多にいないだろう。確かに、ヒモも才能だ。
だから、別に「ヒモになれ」と言うのではなく、あらゆる手を探せということだろう。

実際、「成功するまで」と地道な仕事をしていると、どうしても、安全志向が強くなり、そのまま、地道な仕事で終わってしまうことが圧倒的に多い。
アメリカの画家グランマ・モーゼスは、地道どころでなく、12歳で奉公に出てから、結婚しても生活は厳しく、働きづくめだった。老後はなんとか余裕が出来たと見えるが、手がリュウマチで、好きな刺繍が出来なくなったので、元々好きだった絵を75歳から本格的に描き始めた。
すると、85歳で偶然、画家として世に出ることが出来た。ところが、そこからも、ひたすら真面目に作品を作り、100歳過ぎまでに千点以上の作品を描き、最も多作な画家の1人になった。絵は売れ、経済的にも裕福になった。

このように、いろんな異端の成功者がいるが、普通に見れば、彼らは、たまたま成功したのであり、彼らと似たようなことをしながら、全く芽が出なかった人の方が圧倒的に多いはずだ。
だが、結果論と言うしかないかもしれないが、彼らには、神の加護を得るだけのものがあったと思えてならない・・・と言うより、間違いなくあったと思う。
それは、巷で言われる成功法則や、引き寄せなどとは全く違う。
実際、彼らの中で、引き寄せの法則を学んで、それで成功した人などいない。
ただ、彼らが全員、目に見えないものを信じていたことも確かと思う。
それは、神秘的なものであったり、敬虔な信仰であったりするのだが、彼らには、普通の人とは違う、高貴とも言える魂を感じるのである。
我々が、そのような魂を持てる、実践可能な方法があるとすれば、いつも言うが、神仏の名を唱えたり、真言を唱えることだけである。
もちろん、年に1回や2回唱えてどうなるものでもない。
神仏の名を心で唱えることを、インドではナーマスマラナと言うが、念仏もその1つである。
直接、教えを受け、釈迦、イエス以来の偉人と評した著名な人もあった岡田虎二郎は、超越を達成する方法として岡田式と言われた静坐を教えていたが、静坐だけでなく、念仏もその方法だと言っていたようである。
そして、岡田は「念仏しながら生活するというのが貴いのであり、生活しながら念仏をするのでは足りない」と言われていたようだ。
そのようにナーマスマラナに励めば、道も開けてくると思う。








デクノボーになる

イタリア映画『愛のほほえみ』(1974)を、私はあまりまともに観ていないが、こんな1シーンだけを印象的に憶えている。
富裕な家庭の8歳の少年ルーカが、同い年くらいの少女オルガに出会う場面だと思う。
タバコを粋(いき)に持ったオルガが、ルーカに「火をお持ちでありませんこと?」と堂々尋ねる。
唖然とするルーカに、オルガが言う。
「あたし、やっちゃいけないって言われることは全部したいの」
私は、言葉ではなく、感覚的に、「良い心掛けだ」と思ったものだった。
これはもちろん、普通の大人や良い子が、盲目的に信じ、ひれ伏している権威や、世間の教義・信条は全部疑うという姿勢の象徴である。
インドの聖者ジッドゥ・クリシュナムルティが言った「私は何も信じない」という言葉に通じている。
ただし、クリシュナムルティのこの「私は何も信じない」は「なんでもかでも疑う」ということではない。
しかし、まずは「全て疑ってみる」という時期も必要であろう。
そうすれば、笹沢佐保の時代劇のヒーロー、木枯らし紋次郎のように、
「別に疑っちゃいませんが、信じてもいやせん」
という賢い態度になる。
木枯らし紋次郎は、明らかに1日も学校に行っていないのだが、紋次郎は自分で学んだのだ。
2014年のTEDの伊藤穣一氏の講演「ナウイストになろう」の大きなテーマは「Learning over Education」だった。
経済産業省のWebサイトでは、この言葉を「教育から学びへ」などと訳しているが、正しくは、「教育より学び」であるはずだ。
木枯らし紋次郎は、教育されなかったから、よりよく学んだのであるが、これは、現在の世界トップレベルの優秀な人材にも当てはまるのである。

もちろん、子供じゃあるまいし、やるなと言われていることを全部やる必要はない。
良いルールは守らなければならない。
しかし、「やるな」と言われていることの中に、本当にやるべきことがある。
また、「やれ」と言われないことの中にこそ、優れた行いがある。
さらには、やると笑われる、やると蔑まれることの中にこそ、真に高貴な行いがある。
まあ、それが「やるな」と言われていることなのかもしれないが、岡本太郎流に言えば、
「笑われてもいい。いや、笑われなければならない」
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「嫌われてもいいじゃないか?いや、嫌われないといけない」
である。

せめて、やれとは言われるはずがないことの中から、やることを見つけてやってみるのが良い。
それで笑われたり、蔑まれたりしたら、それは、とても良いことかもしれない。
米津玄師氏が初音ミクさんの歌を作っていた時が、そんな感じだったかもしれない。
そういえば、上で取り上げた伊藤穣一氏も、自身のテレビ番組で、初音ミクさんのことが好きだと言っておられたようだし。
宮沢賢治の『雨ニモマケズ』に、こんなフレーズがある。

ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

ただ、賢治は理想は持っていたが、徹してはいなかったかもしれない。
イエス流に言えば「金持ちが天国に入るのは難しい」のである。
賢治の家は豊かだったのだ。

とりあえず、呪文や真言を常に唱えるところから始めようと思う。
そんなこと、誰もやれとは言わないし、やっても褒められないし、おそらく、デクノボー・・・かどうかは分からないが笑われる可能性が高い。
ならば、ひょっとしたら、とても良いことかもしれない。
それは自分で確かめるしかない。
本当にデクノボーかもしれないが(笑)。
私はデクノボーを長年やっている(笑)。








洗脳を解くとはこういうこと

信者を騙して大金を得るといった詐欺罪で逮捕された宗教家の中には、実は、罪がないばかりか、本当に偉大な人物もいたかもしれない。
逆に、今、多くの信者に尊敬されている宗教団体の教祖や聖者と言われている人だって、ひょっとしたら、詐欺師として逮捕されていたかもしれない。
そもそも、イエス・キリストや、宗教家ではないが哲学者のソクラテスだって、思想的な罪で死刑になっているのである。
そして、福音書や『ソクラテスの弁明』を見る限り、当時の裁判は民主的だったと思えるのだ。
もちろん、イエスを敵視し、イエスを犯罪者として排除したがった者はいたはずだが、それでも、一応は、イエスが罪人であるという証拠をちゃんと探したし、イエスに判決を下す権限を持っていた、ローマから派遣された総督ピラトは、イエスを死刑にしろと訴える民衆に対し、「イエスが罪人だという証拠はない」として、とりあえず、不敬罪みたいなもので鞭打ちで終わらせようとしたのだ。
ソクラテスについては、当時のギリシアは民主国家で、『ソクラテスの弁明』にある通り、ソクラテスにも十分な弁明の機会が与えられ、実は、ソクラテスの言い方次第では、死刑にまでなることはなかったはずである。

さすがに、オウムのように、凶悪な犯罪を起こしたものには罪を認めざるを得ないが、それでも、私個人は直接には何も知らないのだから、実際は、それほどの確信は持っていないのだ。
私が行った自己啓発セミナーとか、購入した自己開発教材だって、セミナーや教材の問題ではなく、セミナー実施者などが(もしいればだが)闇の支配者の怒りでも買えば、逮捕でも何でも、どうにでも出来るのだと思う。
要は、名が通ってくれば、そのあたり、うまくやらないといけない。
別に、長い物には巻かれろとか、権力者に逆らうなというのではないが、玉砕して終わりというのは、やはり賢明とは言えないのである。

昨年のアメリカの大統領選挙は、個人的には、実際はトランプが圧勝していたが、民主党の不正でバイデンが当選したのだと思っている。
まあ、そう思っている人は、実は非常に沢山いるし、そんな人の中には、トランプは軍隊を使って、戒厳令なり反乱法なりで、選挙結果をひっくり返すべきだったとか、1月6日に行われた、 アメリカ大統領選の投票結果を認定する連邦議会上下両院合同会議で、議長であったペンス副大統領が、バイデンの当選を破棄すれば良かったと思っている人も少なくないと思う。
しかし、結果として、今の状況の方が、アメリカや、日本も含めた世界にとって良くはなかったかと思う。
バイデンがドミニオンパワーで大統領になった(笑…う理由が分かる人だけ笑って)からといって、トランプが宇宙人パワーで大統領に復帰するなんてのではなく、トランプ陣営が地道な戦いをすることで、我々一般人は、アメリカの政治やメディアやテクノロジーの陰の部分を知ることが出来た・・・つまり、私のような凡民が少しは賢くなったのだから、悪いことではないし、何より、時間を巻き戻すことは出来ないのだから、今現在の状況で戦うしかないのである。そして、宇宙人はいない(仮にいたとしても、いないとして行動しなければならない)。

実は、私は今、昔、逮捕された、ある宗教家の本を読んでいるが、この内容が実に良いのである。
まあ、誰の本かは言わないが(笑。関英男博士も推薦文を書いていた)。
ただ、その本の全部が全部良いというのではなく、良い部分があるということで、逮捕され、宗教家人生を終わらせたことには、確かに、彼のミスや欠点もあったと思うのだ。
岡本太郎が、よく、
「認められなくていい、いや、認められてたまるか」
「嫌われてもいい、いや、嫌われないといけない」
と言っていたが、美しい言葉であると思う。
それで、ある意味、逮捕もされない宗教家は、あまり大したことはないのでは・・・などという不遜なことを少し考えたのである。少しだがね(笑)。
今のところ、私は、ヒトラーの『わが闘争』から学ぼうという気はないが、角川春樹氏のようにヒトラーを崇拝する大事業家もいるのだから、それも可能なのかもしれない。だが、幸い、他に学ぶべきことがあるだろう。

私は普段、学校やマスコミの洗脳を捨てられれば良いと述べているが、それは、上に書いたようなことが必要なのであると思う。








2人の超芸術家、岡本太郎と荒木経惟

画家とイラストレーターの違いとは、簡単なことで、
・画家:自分が描きたいものを描きたいように描く
・イラストレーター:お客様が見たいものを描く
である。
たとえラファエロやミケランジェロ並の天才画家でも、読者が喜ぶライトノベルの挿絵を描けないなら、イラストレーターにはなれない。
また、画家とイラストレーターを、「評価する者は誰か」という観点から言えば、
・画家:評価するのは専門家
・イラストレーター:評価するのはお客様
だ。
いかに専門家が高く評価する絵を描く画家であっても、お客様が評価しなければお金は稼げない。お客様は評価しない作品を買わないからね。
で、専門家の感性は、一般人であるお客様の感性とは異なる場合が多いので、原則的に画家は儲からない。
儲かる画家がいたら、「世間に媚びを売る卑しい画家」と言われかねない。
画家は芸術家なのである。

こんなことを考えていたら、天才写真家と言われる、アラーキーこと荒木経惟(あらきよしのぶ)氏のことを思い出す。
彼は芸術家だろうか?
そうではないと思える理由がある。
昔、彼は、「写真家というものは時代にひれ伏す黒子に徹しないといけない」と言っていたのではないかと思う(雑誌で読んだだけだが)。
「時代にひれ伏す」とは、お客様である大衆に迎合するということに他ならない。
売れる写真を撮らないと食べていけない。
写真で食べていけないなら、それは写真家ではない。
私は、荒木さんは、実際に、時代にひれ伏し黒子に徹する写真家であり、お客様を大いに意識していると思う。
だが、他の商業写真家とは「ちょっと」異なる「受ける」ところを見つける天才なのだと思う。
つまり、荒木さんは、独創的な商業写真家なのであり、ビジネスマンとすら言えるが、芸術家だとは思わない。
本当のビジネスマンは、荒木さんを大いに参考にすべきだろう。
私は、荒木さんの『FAKE LOVE』という写真集を持っている。
川崎亜紀さんの写真集である。
「川崎亜紀って誰?」と思うかもしれないが、「浅香唯だ」と言えば、まだ分かる人は多いかもしれない。
1980年代に人気絶頂だったアイドルで、可愛いだけでなく相当な美少女だった。
それが、何かトラブルでもあったのか、芸能界から不意に消えたのだが、ファンがまだよく憶えている1994年の、25歳くらいの彼女の写真集だ。
かつての清純さは全くないが、相変わらず美人の彼女を「本物の悪女」の雰囲気を纏わせ、その中に、少し、かつての彼女を彷彿とさせる写真を入れる。
もう大変な、商業的才覚と思う。
そして、私に分かることではないが、おそらく、撮影技術はしっかりしているのだろうと思う。
運もあったのだろうが、成功して不思議のない写真家だと思う。
もちろん、荒木氏は芸術写真家として評価されているが、私は彼は、天才商業写真家なのだと思う。

そして、面白いのが、日本人なら誰でも大芸術家と認める岡本太郎だ。
私は、岡本太郎の真の名言は、
「認められなくていい。いや、認められてたまるか」
「売れなくていい。いや、売れてたまるか」
といった文言なのだと思う。
「認められてたまるか」というのは、大衆もだが、特に、絵画の専門家を念頭に置いたのだということは、彼のことを少し知っている人なら分かると思う。
そして、「売れてたまるか」で、大衆すら無視する姿勢を見せた。
つまり、岡本太郎は、芸術家でも大衆画家でもないと自分で宣言している。
ところが、彼は、芸術家としても大衆画家としても高く評価されているのだ。
おかしな話であるが、それは、彼のエキセントリック(風変わり)な発言が受けただけかもしれない。
実際、岡本太郎が60歳手前の全盛期に作った代表作「太陽の塔」について、「本物の画家兼イラストレーター」である横尾忠則氏は、
「デザインとしては超一流だが、絶対に芸術作品ではない。岡本太郎はデザイナーになればいい」
と著書に書かれていたが、ちょと分かるような気がするのである。

とはいえ、 荒木経惟氏が、商業的という意味合いもあるが、なんらかの意味で芸術家であるように、岡本太郎もやはり芸術家なのだと思う。
まあ、何が芸術かというのは定義し難いが、「人類を無意味に変容させる」という意味の芸術家は稀有で、この2人は、そんな「超珍しい」芸術家・・・超芸術家なのだと思う。








壁を壊す

アファーメーション(肯定的断言)を行っているのに、なかなか良いことが起こらないとしたら、その理由は、ほぼ間違いなく、これまでに築いてしまった、強固な心の壁のせいである。
フローレンス・スコーヴェル・シンは、この心の壁を、旧約聖書の『ヨシュア記』に出てくる「エリコの壁」に喩えた。
自分のエリコの壁を壊さなければならない。
『ヨシュア記』では、時の声を上げることで、エリコの壁が崩れた。
ところが、時の声こそがアファーメーションであるとフローレンス・スコーヴェル・シンは言う。
つまり、壁があるなら、まだアファーメーションが足りないのだ。

アファーメーションを心掛けていると、本当によく気がつくのは、放っておいたら、頭の中で、マイナスの言葉がいかに多く起こるかだ。
そのマイナスの言葉がエリコの壁を強化しているに違いない。
そして、長年、アファーメーションをせずに放置した怠惰のせいなのかと思うが、すぐに頭の中で、ロクでもないおしゃべりが始まる。
脳科学の研究によれば、人間の頭の中では、1分間に300ものつぶやきが起こるらしく、現代人の場合、そのつぶやきは、ほとんどがマイナスの言葉だと思われるのだ。
そこで、もう何でもいいから・・・例えば、「大丈夫」「勝った」「ありがたい」「絶好調」などのプラスの言葉を、意識的につぶやかないと、マイナスのつぶやきに攻められ続け、エリコの壁はますます強固になる。
ジョセフ・マーフィーは、どうせなら、1つの言葉で百の概念が起こる言葉をという意味で、「成功」「富」「勝利」などの言葉を、最も高い効果を発揮させるために、静かに、ゆっくり繰り返すことを薦めている。
そして、最も良い言葉の1つが、七田眞氏が『奇跡の超「右脳」開運法』で書かれていた、「神様の奇跡が起こる」だ。
良ければ、暇があれば「神様の奇跡が起こる」と唱えることをお薦めする。
無論、自分の信念、あるいは、好みに従い、「南無阿弥陀仏」「アジマリカン」と唱えても良い。

幼い時から、テレビと学校で叩き込まれた奴隷的常識というエリコの壁は、本当に強固である。
我々の使命は、なんとしても、このエリコの壁を崩すことだ。
そうすれば、我々は先に進み、膨大なお宝を得ることが出来るのである。
エリコの壁が崩れるまで、我々は、諦めず、挫けずに、弛まずアファーメーションを繰り返さなければならない。

「常識に囚われてはいけない」というが、長年かけて作ってしまった世間常識に囚われるのは仕方がない。
イエス・キリストは立派な人だという常識を持っているかもしれないが、あんなのが(笑)、もし現代にいたら、教会に立ち入り禁止になるだろうという意見があるが、私もそうだと思うし、また、そうでなければならない。
教会に有難く受け入れられるようなのがイエスであるはずがない。
トランプ大統領のことを皆、「パワフルだが人格に大きな欠陥のあるロクでもない人物」と誤解しているが、偉大な人間が誤解されるのは仕方がない。
だから、岡本太郎は、「誤解されたっていい、いや、誤解されないといけない」と言ったのだ。
岡本太郎は自分のことについても、「認められなくていい、いや、認められてたまるか」と言ったのである。
ところが、そう思っていると認められるのである。
しかし、我々は、一切に構わず、ただ、アファーメーションを繰り返せば良い。
それこそが、「誤解されないといけない」「認められてたまるか」ということであると思う。
「誤解しないで」「認めて」などという奴隷は、アファーメーションなどしないからだ。

ラマナ・マハルシは、仕事について、「働く運命にあれば仕事は避けられない。だが、働く運命になければ、いくら探しても仕事は見つからない」と言ったが、それなら、仕事が見つからなくても、「これでいいのだ」と思わないといけない。
働いてうまくいくこともあれば、働かずにうまくいくこともある。
賢者たちは、必ずしも、「一生懸命働け」なんて言っていない。
あの邱永漢氏だって、例えばだが、「ヒモになって女に食べさせてもらいうのも手」と言ったくらいである。
だが、こう言われて、「じゃあ、僕、働かずに成功します」なんて言うのは馬鹿である。
それを決めるのは自分ではない。
それを決めるのは、運命、カルマ、神、宇宙のパワー・・・なんと呼んでも良いが、自分を超えたものなのである。
スティーヴ・ジョブズだって言ったのだ。「信じるしかない」って。
そして、アファーメーションを唱える限り、信じて良いのである。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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