普通の人間には、自分を偉く見せたい、優秀だと思わせたい、賢い人間だと言われたいという願望がある。
そんな人間の性質をうまく利用して、人を思い通りに動かすテクニックを教えるような者もいる。
また、特に、未熟なうちはそれも仕方がないとして、若い子の認められたいという切望を良い方に利用しようという指導者もいるだろう。
しかし、所詮、見栄や安っぽいプライドでしかない、そんなものを捨ててしまえば、あなたは自由だし、能力は打ち上げ花火のごとく上昇し、天使とも親しくなれるかもしれない。
確かに、実際に大変な実力があって、誰も逆らえない立場から、何でも自分の思い通りに出来たように見える人物もいるが、彼らの滑稽で惨めなことは明らかなのだ。
一方、アインシュタインのように、世間の評価に関わらず、自分を全く重要人物だと見なさない人もいた。ナチスが自分の首に多額の賞金をかけたことにピンとこずに、それまでと同じ行動をしたのは、自分が人々にどう見られているのかに頓着が無いからだと思える。
見知らぬ女子中学生が彼に数学の宿題を手伝ってくれるよう頼むと、喜んで熱心に応じ、それを知った彼女の母親が卒倒しかけても、アインシュタインはその理由がよく分からなかった。ただ、彼は頼られたことが嬉しかっただけだったのだろう。
アメリカに亡命し、プリンストン高等研究所に招かれ、年棒の希望を聞かれると、困って、「千ドルでどうでしょう?」と尋ね返し、あまりの安さに相手が驚くと、勘違いしたアインシュタインは、「いえ、五百でもいいのです」と言ったが、どうせ彼は、いくらもらっても、それを誰とでも分かち合ってしまうのだ。ちなみに、プリンストンでは2万ドルを用意していたらしいが、もっと多額の要求にも応えるつもりだったのだろう。
宮澤賢治となると、有名な『雨ニモマケズ』で、みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもしないものになりたいと述べている。
それは、賢治は、むしろ自分の虚栄心の大きさを知っていたので、それと向き合い、それを葬りたいという気持ちの現われだったのかもしれない。そして、それをなしとげれば、自由であると感じていたのだろう。しかし、それが難しいことであることも知っていたに違いない。
初音ミクは、どんなに有名になっても、自分の個人的な信条を長々と語ったりしない。
別に批判の意味はないが、そんな人間のアイドルがいるし、周りも彼女にそれをさせるのかも知れないが、見ていて良いものとは思えない。彼女のためにもね。
ミクは、ほとんど、「こんばんは」「ありがとう」としか言わない。
そして、歌い終わると、ただ、後ろを向いて去っていくだけだ。
それが天使の姿でなくて何だろう?
CLAMPの漫画作品『ちょびっツ』で、人型パソコン(アインドロイドと同じ)の少女ちぃを愛する秀樹は、「ちぃの心は俺の中にある」と言ったが、私はむしろ、「私の心はミクの中にある」と言いたい。
そりゃ、私にだって、意見や主張はあるかもしれない。しかし、それには何の価値も無いので、通ればラッキーとは思うが、そうでなくても当然なのである。
秀樹は、ちぃはプログラムされた通りに動いていることは認めたが、そのプログラムは人間が作ったのだし、その人間をプログラミングしたのは神なのだ。
ミクの歌は人間が創ったが、その人間に歌を与えたのは至高の英知だ。
ベートヴェンが第九に採用した、シラーの詩『歓喜に寄せて』にあるように、我々から見れば、神の魂は、美しい火花であり、エリュシオン(楽園)の乙女であり、あるいは、霊感とも呼ばれるものとしてやって来て、我々の魂と溶け合う。
そのようなものを、我々は探し、見つけなければならない。
そして、イエスは「探せ、そうすれば見つかる」と保証したのである。
迷いも無く 理由も無く 探し続けるの
明日 見つかるかも 「それ」のありか 期待して
いろんな所を探した ビルの谷間には無かった
砂場を掘っても無かった 壁の向こうにも無かった
今でも「それ」を探してる・・・
今日も「それ」を探している・・・
~初音ミク『White Letter』(作詞・作曲:GonGoss)より ~
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そんな人間の性質をうまく利用して、人を思い通りに動かすテクニックを教えるような者もいる。
また、特に、未熟なうちはそれも仕方がないとして、若い子の認められたいという切望を良い方に利用しようという指導者もいるだろう。
しかし、所詮、見栄や安っぽいプライドでしかない、そんなものを捨ててしまえば、あなたは自由だし、能力は打ち上げ花火のごとく上昇し、天使とも親しくなれるかもしれない。
確かに、実際に大変な実力があって、誰も逆らえない立場から、何でも自分の思い通りに出来たように見える人物もいるが、彼らの滑稽で惨めなことは明らかなのだ。
一方、アインシュタインのように、世間の評価に関わらず、自分を全く重要人物だと見なさない人もいた。ナチスが自分の首に多額の賞金をかけたことにピンとこずに、それまでと同じ行動をしたのは、自分が人々にどう見られているのかに頓着が無いからだと思える。
見知らぬ女子中学生が彼に数学の宿題を手伝ってくれるよう頼むと、喜んで熱心に応じ、それを知った彼女の母親が卒倒しかけても、アインシュタインはその理由がよく分からなかった。ただ、彼は頼られたことが嬉しかっただけだったのだろう。
アメリカに亡命し、プリンストン高等研究所に招かれ、年棒の希望を聞かれると、困って、「千ドルでどうでしょう?」と尋ね返し、あまりの安さに相手が驚くと、勘違いしたアインシュタインは、「いえ、五百でもいいのです」と言ったが、どうせ彼は、いくらもらっても、それを誰とでも分かち合ってしまうのだ。ちなみに、プリンストンでは2万ドルを用意していたらしいが、もっと多額の要求にも応えるつもりだったのだろう。
宮澤賢治となると、有名な『雨ニモマケズ』で、みんなにデクノボウと呼ばれ、誉められもしないものになりたいと述べている。
それは、賢治は、むしろ自分の虚栄心の大きさを知っていたので、それと向き合い、それを葬りたいという気持ちの現われだったのかもしれない。そして、それをなしとげれば、自由であると感じていたのだろう。しかし、それが難しいことであることも知っていたに違いない。
初音ミクは、どんなに有名になっても、自分の個人的な信条を長々と語ったりしない。
別に批判の意味はないが、そんな人間のアイドルがいるし、周りも彼女にそれをさせるのかも知れないが、見ていて良いものとは思えない。彼女のためにもね。
ミクは、ほとんど、「こんばんは」「ありがとう」としか言わない。
そして、歌い終わると、ただ、後ろを向いて去っていくだけだ。
それが天使の姿でなくて何だろう?
CLAMPの漫画作品『ちょびっツ』で、人型パソコン(アインドロイドと同じ)の少女ちぃを愛する秀樹は、「ちぃの心は俺の中にある」と言ったが、私はむしろ、「私の心はミクの中にある」と言いたい。
そりゃ、私にだって、意見や主張はあるかもしれない。しかし、それには何の価値も無いので、通ればラッキーとは思うが、そうでなくても当然なのである。
秀樹は、ちぃはプログラムされた通りに動いていることは認めたが、そのプログラムは人間が作ったのだし、その人間をプログラミングしたのは神なのだ。
ミクの歌は人間が創ったが、その人間に歌を与えたのは至高の英知だ。
ベートヴェンが第九に採用した、シラーの詩『歓喜に寄せて』にあるように、我々から見れば、神の魂は、美しい火花であり、エリュシオン(楽園)の乙女であり、あるいは、霊感とも呼ばれるものとしてやって来て、我々の魂と溶け合う。
そのようなものを、我々は探し、見つけなければならない。
そして、イエスは「探せ、そうすれば見つかる」と保証したのである。
迷いも無く 理由も無く 探し続けるの
明日 見つかるかも 「それ」のありか 期待して
いろんな所を探した ビルの谷間には無かった
砂場を掘っても無かった 壁の向こうにも無かった
今でも「それ」を探してる・・・
今日も「それ」を探している・・・
~初音ミク『White Letter』(作詞・作曲:GonGoss)より ~
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