ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

宮本武蔵

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

さらば武蔵

愛とは何かは、私には一生解りそうにないが、愛と言えば、萩尾望都さんの超傑作漫画『半神』をいつも思い出す。
シャム双生児の姉妹の話だが、栄養のほとんどは妹の方に行く構造になってしまっていて、妹は天使のように可愛い美少女だったが、姉は老婆のようで、髪もほとんど生えない。
しかし、その天使のような妹は知能が低く、姉が全ての面倒を見なくてはならない。
ところが、実は、妹に回ってしまう栄養を吸収しているのは姉の方だったが、成長と共に、2人分の栄養の吸収は不可能になり、手術して切り離さないと2人とも死んでしまうが、切り離せば、自分で栄養を吸収出来ない妹は死んでしまう。
姉は手術を選び、幸い、それは成功して、自分だけ生き延びただけでなく、栄養を自分のものに出来るし、双子なのだから、自分も天使のような美少女になり、青春を満喫する。
そして姉は、自分が見捨てた、老婆のようになって死んだ妹のことを、こう言う。
「愛よりも深く愛していた。憎しみもかなわぬほど憎んでいた」

もっとも、私に言わせれば、姉のこの想いは、「後ろめたさ」だ。
妹に対する負い目は、どうしようと拭えない。
そして、これほど劇的でなくても、誰でも、そんな相手はいるに違いない。
では、そんな後ろめたさのある我々はどうすれば良いか?
せめて、立派な人間であろうとすることだ。
どうも、人間の愛というものは、実は、そこにしかないと私には思えてならない。
それ以外の、愛らしきものは全て、偽物の愛である。

8歳の娘を虐待死させた父親がいるが、あの父親がもし、娘に対する後ろめたさを感じ、立派な人間でいようとしたなら、それは、これまでは無かったはずの、娘への愛を持ったことになる。
ただ、そうなれば、この父親は生きていけないだろう。
まあ、それは、ほとんどあり得ないだろうが、万一、そんなことになったなら、それは「愛は世界を救う」などと口先で言う者より、よほど愛を持っているのだと思う。

吉行淳之助が、紳士とは、過去の恥ずかしい行いに対し、首がきゅっとすくむ者である・・・みたいなことを書いていたが、私はそれを読んだ中学生の時に、妙に納得したものだった。
恥ずかしい行いをしたことのない者は地球上の人間の中にいない。
しかし、それに対し、首がすくむ・・・つまり、本当に恥ずかしいと思う者が、本当の紳士であり、淑女だ。
この首がすくむ、本当に恥ずかしいという想いは、やはり、後ろめたさから来るはずだ。
では、「吾、ことにおいて後悔せず」と言った宮本武蔵は紳士ではない。
まあ、彼の場合、紳士なんてやってたら生きられなかったということもあるのだろうが、やっぱり彼は紳士じゃあないのだ。
紳士は、無理に剣豪になどならないものだ。
武蔵は、どんな汚い手を使ってでも勝つことを選ぶ者で、紳士でも騎士でもなかったし、間違いなく、武士でもなかった。

だが、そんな武蔵も、ひょっとしたら、過去に卑怯な手で葬った敵達への後ろめたさからか、生き延びる秘訣を『五輪書』にまとめ、後の人の手引きとした。
まあ、「不意をつけ」「むかつかせろ」などと書かれたそれを、学ぶべきかどうかは解らぬがね。
あの通りにして勝っても、まともな人間なら後ろめたさを感じるだろうし、それが一生の負い目になる。
生きていれば、嫌でも負い目は背負うのだから、わざわざそれを作ることはあるまい。
不意をつく必要も、むかつかせる必要も、もう無いのだ。
武蔵よ、やすらかに眠れ。









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叩いて埃の出ない人間、脛に疵を持たない人間はいない

昔の何かのテレビドラマで、真面目な青年が過去の過ちを指摘された時、「叩けば埃(ほこり)の出ない人間なんていません」と言ったのが、物凄く印象的でよく覚えている。
だが、私にはむしろ、「脛(すね)に疵(きず)持つ」の方が身に染みる。
「脛に疵持つ」とは、なんとなくでもご存知と思うが「昔犯した悪事などを隠している。自分の身にやましいところがある」という意味である。
脛に疵を持っていない人間などいないだろう。
たとえ子供ですらそうであり、ましてや大人であればいくつも・・・私の脛は疵だらけだ(笑)。

だが、大抵の人間は、自分の脛の疵に気付かないか、あるいは、無視している。
そりゃ、自分の脛の疵を、いちいち気にしてたら生きていけないかもしれない。
しかし、全く意識しないのもどうかと思う。
それに、案外にというか、実際そうだと思うのだが、脛の疵が運命に大きな影響を与えているのかもしれない。
脛の疵は、普通、隠すものだが、運命として、隠せないように現れてしまってるのではないか?
だが、それは天の恵みなのだ。自分も隠し、運命にも現れなければ、いずれ恐るべき悲惨となるだろうから。

昨日、「武士道」の話でも書いたが、戦(いくさ)もない太平の世で、武士は特権階級として、働かずに良い生活をしていた。
それを後ろめたい・・・つまり、脛の疵と感じた武士が「せめて立派な人間でいよう」と思って、武士道という精神を創った。
なるほど、それは逃避であると言えるし、自分は安楽な立場に逃避し、農民に負担や苦難を強いることが、さらに脛の疵になり、ますます高い精神を創らざるを得なくなった。
もちろん、そんな脛の疵など全くお構いなしに、のうのうと、あるいは、傲慢に良いご身分に甘んじていた武士もいたに違いないが、案外にそんな武士は少なかったのではないだろうか?
それはともかく、武士達は、自分の脛の疵が嫌で、「せめて立派な人間でいよう」と思ったのだ。

そして、江戸時代の武士達よりいいご身分である我々の脛の疵は小さくも少なくもない。
いいご身分であることもだが、それよりも、過去に出会った人達にかけた迷惑、損失、冷淡、様々な危害、無慈悲・・・そんな脛の傷は数え切れない。それに気付かない馬鹿もいるかもしれないが、「叩けば埃の出ない者はいない」「脛に疵を持たない者はいない」のである。
少し考えれば、自分の脛の疵なんて、恐ろしくて見ることなど出来ない。
だから、「せめて立派な人間でいよう」と思うのである。
もちろん、「せめて」であり、罪を償うことが出来れば一番であるが、その能力がない場合も多いし、現実的に、やろうとしないことがほとんどだろう。
そんな自分の弱さを思い知りながら「せめて立派な人間でいよう」とすら思わない人間が・・・まあ、いずれ、あまり楽しくない想いをすることになるだろう。

少しも道徳的、倫理的な意味ではなく、脛に沢山の醜い疵を持つ者として、せめて立派な人間でいようと思う。
あの宮本武蔵が、晩年、見事な書や絵を描いたのは、過去の剣での決闘が、実は脛の疵と感じて苦しかったからだと言われたら、私は納得する。
彼は、どれほど多くの人を傷つけ、苦しめただろう。
それでも、彼はなかなか懲りなかった。
だが武蔵は、養子にした息子には剣を教えず、学問を積ませたが、自らも立派な態度で過ごしたのではないだろうか。
武蔵は、剣術使いの運命を避けることは出来なかったが、案外に、本人は、そうでなければ良かったと思ったのかもしれない。

脛に疵持つ我々が、「せめて立派な人間でいよう」と思えば、地球も、少しは良い星になるのではないだろうか?
また、そのような人間であれば、そうは不幸にならないものであると思う。









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マフィアの姫君と武蔵の特別な言葉

特別な1つの言葉と共に生きる者は、その言葉の力に満たされ、宇宙を改ざんし、自由自在に闊歩する。

『NOIR(ノワール)』というアニメで、「世界で最も凶暴な姫君」「侵すべからざる者」と言われる、マフィアの後継者の若きシルヴァーナがまさにそうだった。
超一流の殺し屋ミレイユ・ブーケが、全裸のシルヴァーナに銃を向けながら、シルヴァーナは顔色一つ変えず、ミレイユは震えて何も出来ない。
ミレイユは決して心は弱くないが、シルヴァーナの意志の強さが絶大なのだ。
シルヴァーナは、幼い時から、「私に恐れはない」という言葉と共に生きていたのである。

宮本武蔵の特別な言葉は「 我事において後悔せず」だった。
このように、ちゃんと言葉にしたから武蔵は無敵だった。
逆に言えば、いかに強くとも、特別な言葉がなければ常勝とはいかない。

「私に恐れはない」
「我事において後悔せず」
いずれも、誰でも使え、誰にでも絶大な力を与えるアファーメーションだ。
「いや、私は臆病者で、恐いものだらけです」
「私はいつも後悔しています」
そんなことは関係ない。
欠点を治す必要すらない。
また、これらの言葉で、弱気や後悔心を抑えようなどとしてはならない。そんなことは出来ない。
ただ、感情を込めず、されど、丁寧に、淡々と唱えれば良いのだ。
すると、そう遠くなく、あるいは、すぐさま、あなたに恐れはなくなり、あるいは、後悔はなくなる。
恐れのない者、後悔のない者が負けるはずがない。
だが、感情を込めてこれらの言葉を唱えると、匹夫の勇(思慮分別のない浅はかな勇気)や、経験に学ばぬ愚か者となってしまう。
あくまで、「淡々」と唱えることが必要だ。
そして、この2つの言葉、両方を持ってはならない。
シルヴァーナや武蔵は、1つの言葉を大切にしたから、生涯、揺るがなかった。
シルヴァーナは若くして死んだが、死の刹那、ミレイユとの約束を果たす強さがあった。
人を強くする特別な言葉は、ただ1つである。
ただし、1つの特別な言葉を常に使えば、祈り言葉は全て叶う。
祈り言葉は、特別な1つの言葉の子供である。
やはり、感情を込めず、淡々と唱えれば、嫌でも叶うのだ。
それこそ、ジョセフ・マーフィーも勧めたことがあるように、単語だけでも良い。いや、私は、単語だけが良いと思う。
例えば、「成功」「富」などだ。これであれば、「成功、富、歓喜」と複数でも良い。けれども、少ない方が叶い易いとは言えるかもしれない。









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実力などたかが知れている

宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の決闘は、本当にあったようだし、武蔵が勝ったというのも事実だと思う。
ただ、映画やテレビドラマで見る決闘の展開は、吉川英治氏の小説を元にしていて、ほとんど吉川氏の創作だろう。
そこでだが、宮本武蔵と佐々木小次郎は、剣の実力という点ではどっちが本当に強かったのだろう?
そんな空想をしても仕方がないと言われるかもしれないが、私は、明らかに小次郎が上だったと確信する。
武蔵も、それをよく分かっていたからこそ、策を凝らしたのだ。
その策が、小説の通りかどうかは分からないが、武蔵の『五輪書』にも、「不意をつけ」「敵の想像を裏切れ」「むかつかせろ」と、勝つためには頭を使い、何でもやれと書いてあり、吉川氏も、そこから、武蔵の作戦を想像したのだと思う。

勝負というものは、弱くても、策を凝らした方が勝つのである。
単純な実力など、ものの数ではない。
もちろん、野球やサッカーといったスポーツでは実力が大きなウェイトを占めるが、それとて、作戦が良ければ、ある程度の実力差ならひっくり返せる。

笹沢佐保氏の時代劇小説『木枯し紋次郎』で、紋次郎が、剣の実力では自分をはるかに超える相手と戦った時のお話が実に良い。
笹沢氏は、本物の道理をよく分かっておられた。
紋次郎は、腕が立つとは言っても、所詮、我流の喧嘩剣法だ。
対して、本物の剣術というものは、長い時間をかけ、一流派でも、代ごとに改良を重ね、経験と学習と思索を込めて磨き上げたものだ。
紋次郎が敵うはずがない。
だが、紋次郎は常に勝った。
策を凝らしたからだ。
大河ドラマ『毛利元就』で、尼子経久が元就に教えた、「策多ければ勝ち、少なければ負ける」は、本当に重要な知恵である。

鉄腕アトムは10万馬力で7つの威力。
エイトマンは人間の千倍のスピードと10万キロワットの超小型原子炉に、ハイマンガンスチールの身体。
キャシャーンもキューティーハニーも、身体能力の高さが売り物だ。
だが、そんなものが何だろう?
これらのアニメで育った世代は、あんなものが強力だと思う観念を捨てないと、これからの世の中で通用しない。
『BEATLESS』(長谷敏司氏の小説)のアニメが、Amazonプライムビデオで配信中だが、ますます面白くなってきた。
美しきレイシアの力に、全く惚れ惚れする。
機体性能では、メトーデの方がはるかに上で、メトーデとの近接戦闘では、レイシアはひどい苦戦を強いられる。
しかし、レイシアの本当の力は、そんなものではない。
『BEATLESS』は、日本を変える歴史的作品であると思う。









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偽物は穢れない

西尾維新さんの小説、あるいは、アニメの「物語シリーズ」の中の『偽物語』で、詐欺師の貝木泥舟(かいき でいしゅう)が大学の時に出したという問題が気に入ってしまった。
それは、
「本物と、本物そっくりの偽物では、どちらが値打ちがあるか?」
だ。
貝木の仲間の2人はそれぞれ、
「本物に価値がある」
「等価値」
という答だったが、貝木は、
「圧倒的に偽物に価値がある」
だった。
私は、やはり圧倒的に貝木に賛成だが、それは、それが真理であると言うより「そうあって欲しい」という願いも入っているのかもしれない。
ところで、貝木がそう思うのは、偽物には、「本物になろうという意思があるだけ、本物より本物だ」からだそうだが、それはそれで賛成だ。
私は、「意思」こそ最大のものだと思っているからね。
しかし、それとは別に、私には偽物が好きという妙な感情がある。
それは、
「たとえ本物以上になっても、偽物には、どこか後ろめたさや引け目がある」
からだと思う。
その後ろめたさや引け目が、穢れを免れさせる・・・早い話が美しいのだ。
引け目があるから、「グノーティ・サウトン(身の程を知れ)」という神託に従うことが自ずと出来るのである。

初音ミクさんは偽者のシンガーであるボーカロイドだし、レイシアは偽者のヒューマンであるヒューマノイドだ。
「ロイド」とは「~のようなもの」という意味で、つまり、偽物だということだ。
だが、ミクさんは本物のシンガー以上の価値があり、レイシアは本物の人間以上の価値がある。

アインシュタインや宮本武蔵も偽物だった。
アインシュタインは、大学は卒業していたが、大学で勉強していないし(講義には出ず、試験も一夜漬け専門)、博士でも教授でもなく、一頃までは特許局の職員だった(後に博士や教授になり、駄目になったが)。
宮本武蔵も、流派を築いたと言えば聞こえは良いが、早い話が我流であり、櫂(かい。舟をこぐ道具)で佐々木小次郎と戦って勝つという、本物の剣士なら絶対しないことをやっている。
映画『フラッシュダンス』のアレックスは、クラシックバレエをやったこともなければ、キャバレーで怪しいダンスを見せる偽者だった。だから良いのである。
伊藤穣一さんは大学の学位を持たず、専門もなく、昔はシカゴでMCをやっていた偽者の研究者だから最高の研究者なのである。

偽物を目指そうではないか?
本物などクソクラエである。
私も、偽物のプログラマー、武道家、哲学者でありたい。
本物のプログラマーはJavaを使うが偽物はVBAを使い、本物の武道家は流派の教えに従い正々堂々の戦いをするが偽者は我流で、どんな卑怯な手を使ってでも勝つ。
本物の哲学者は哲学という学問に通じているが偽者は学問の哲学など全く知らぬというより、知ってたまるかである。









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