ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

宮本武蔵

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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武蔵流思考消去法(自信作)

不安や後悔が胸に渦巻いている間は、望ましい引き寄せは出来ない。
宮本武蔵は、「吾ことにおいて後悔せず」と言い、一切の後悔を持たないと宣言したが、その通りに違いない。
彼については、いろいろ否定的なことも言われているが、彼は大した引き寄せの達人だった。
武蔵には、弟子はもちろんだが、地位の高い武家の支持者も沢山おり、意外かもしれないが、経済的には非常に恵まれていた。
ここらからも、武蔵が一介の武芸者でなく、精神の力を開発したマスターであることが伺える。
確かに、武蔵は、江戸の一流の剣術家と試合ったことはなく、このことからも、「宮本武蔵は本当に剣豪だったのか?」と言われることすらある。
しかし、例えば、武蔵が、柳生流の・・・柳生宗矩に試合を申し込んでも、武蔵と戦うメリットのない柳生が受けるとは思えない。また、もし、宗矩が武蔵の挑戦を受け、武蔵が勝ちでもしたら、武蔵は生きて帰してもらえるはずがない。

武蔵には、不安も後悔もなかったと言って良いだろう。
では、不安や後悔を消すにはどうすれば良いかというと、思考を消すしかない。
不安や後悔と戦うと、ますます、それらは大きくなる。
それなら、武蔵は、どうやって思考を消したのか?
それは、何と、『五輪書』に書かれている。
また、有名な「宮本武蔵肖像」という絵を見て、それが分かった人もいる。
実に、この絵は、宮本武蔵自ら描いた自画像なのだから、剣の極意だって封じてある。
【外部リンク】宮本武蔵肖像
この絵を見ながら、『五輪書』の「水の巻」の次の1文を読むと良い。
ここには、戦う時に心掛けるべきことが書かれている。
「額に皺を寄せず、眉の間に皺を寄せて、目の玉を動かさないようにして、瞬きをしないように思って、目を少しすくめるようにして、周りを広く見るようにする」
~『宮本武蔵「五輪書」』(魚住孝至訳。角川ソフィア文庫)より~

目をすくめるとは、半眼にする・・・つまり、薄目にするということだ。
つまり、心持ち、薄目にするのだ。
見事だ。
戦いに勝つ最上の方法は思考を消すことだ。
そのためには、このように、目玉を動かさず、半眼となり、周辺視野で見なければならない。
前を見ている時、前にあるものははっきり見えるが、横にあるものほど、ぼやけてはっきり見えない。
しかし、なるべく広く見るよう心がければ、広い範囲がはっきり見えるようになり、それと共に思考が消えるという、脳の性質を、武蔵は知っていた。
武蔵に師匠はいないとされているので、おそらく、武蔵は経験から知ったのだろう。
一点に集中して見るというのも、集中力の訓練としては良いが、無思考になるまでには時間がかかるし、うまくかない方が多いだろう。
このあたりの仕組みは、私にもよく分からないが、広く見る・・・周辺視野を使うことは、思考を消す優れた方法だ。
ちなみに、『荘子』にも、視線の持ち方について書かれた箇所があるが、武蔵のやり方でやればうまくいく。








狂いのすすめ

宮本武蔵は悲運の武芸者だった。
彼は、自分の実力に見合った地位と栄誉を強く望んだ。
だが、それは得られなかった。
とはいえ、全く悲惨かというと、そうではない。
武蔵は、生涯、金に困ることはなかった。
武蔵を心から崇拝する弟子達がいただけでなく、武蔵を敬う、身分の高い武士や大名もいて、相当な援助を受けていたからだ。
武蔵を召し抱えたいと思う大名もいたが、武蔵は法外な報酬(当時では石高)を要求するので、武蔵の士官は叶わなかった。
それだけでなく、武蔵の山賊のような風袋(見かけ)にも問題があった。
武蔵は、髪を切らず、髭を剃らず、着物を洗わず、風呂にも入らなかった。
加えて、長身で強面の武蔵は、女子供なら、鬼だと思って、泣いて逃げ出すほどであった。
ところが、ある大きな藩の大名が、武蔵に興味を持ち、城に招くと、試合をするよう武蔵に願い、武蔵は了承した。
武蔵が、40歳をいくらか過ぎた頃である。
その大名の他、家臣達や武芸者達・兵法家達が見守る中、試合が行われた。
選び抜いた強豪剣士が打ち込むのを、武蔵は軽く交わし続けた後、武蔵が歩み寄ると、相手の剣士は後ずさるばかりだった。
相手は、蛇に睨まれた蛙のように、何も出来ず、そして、武蔵が気合いを込めると、バッタリ倒れた。
見ている者達は皆、武蔵の強さに感動した。
だが、武蔵を招聘した、若いが極めて優れた藩主は考えた。
武蔵は、単に剣の腕が立つのではなく、先天の強大な気力を持っている。
そんな者に人を育てることは出来ない。つまり、武蔵を藩の剣術の指導者にしても、誰もついてこれない。
また、こんな男は、他の人間とうまくやれず、必ず諍(いさか)いを起こす。
よって、武蔵が召し抱えられることはなかった。

どうすれば、武蔵のような気力…つまり、その本質である精神エネルギーを持てるだろうか?
武蔵直筆の『五輪書』を丹念に読めば良いのか?
私はそうは思わない。
『五輪書』は、名文の誉れ高いし、優れたことも書かれているが、所詮、表面的なことが書かれているだけだと思う。
武蔵は生まれつきの天才か?
そうかもしれない。
しかし、私は、武蔵の気力は、育ちと関係があると見る。
武蔵の父、新免無二(しんめんむに)は、優れた武芸者であったが、奇人変人というより、常軌を逸した狂人と言えるほどであった。
無二は武蔵を嫌っていたが、武蔵もこの父を蔑み、しかも、平気で罵倒したようだ。
すると、父は武蔵に小刀を投げつけ、武蔵も投げ返す。
そんな狂った家庭であった。
そんな中で、武蔵の常識の枠にはまらない、狂気じみた精神が作られたのだと思う。
突き抜けた狂気こそ、天才を生む強大な精神エネルギーではないだろうか?

これで、私は、良いことを思い出した。
うまくいけば、武蔵の気力の説明がつく。
西尾維新の小説『刀語(かたながたり)』という作品がある。私は、アニメで見ただけだが。
全国にその名を轟かせた、虚刀流(きょとうりゅう)という武術の流派の6代目当主の男には、2人の子供がいた。
姉の七実(ななみ)と弟の七花(しちか)だ。
当主は、姉の七実を7代目当主にしたかった。
七実の実力というか、素質が、弟の七花とけた違いに大きいからだ。
しかし、当主は、弟の七花を、次代の当主にすることに決めた。
七実が女だからではない。
七実が強過ぎるからだ。
その強さは、化け物と言って良かった。
当主は、そんな化け物を、自分には育てられないことを悟ったのだ。七実と比べれば、達人・超人と言われる自分も凡人に過ぎない。
では、七実は、生まれながらの天才なのか?
そうかもしれない。
だが、話が進むうちに分かってくることがある。
それは、七実の狂気である。
七実は、一見、しとやかで美しい娘だが、寺1つ、村1つを笑って滅ぼす狂気があるのだ。
敵の忍者を平然と殺すが、簡易ではあるがちゃんと墓を作り、線香を立てて弔う。その島には誰もいないのに。
そんなしびれる狂気に私は萌え萌えで(笑)、たちまちファンになった。

英国の世界的作家コリン・ウィルソンは、「天才とは所詮、内なる衝動なのだ」と書いていて、それには納得出来るが、むしろ、「天才とは狂気」なのであると思う。
言い換えれば、狂気のない天才、狂気のない偉人は存在しない。
アインシュタインは温厚な人格者であったと伝えられているが、それは作り話だし、少なくとも、彼の胸に狂気が宿っていたことは間違いなく、その片鱗も知られている。
狂気を、欲望のまま暴虐に振る舞うことと思い違えてはならない。
狂気とは、桁外れな憧れや願望だ。それが大きければ大きいほど精神エネルギーは大きくなる。
ただ狂え(笑)。
それであなたも天才だ。
逆に、狂わねば凡人である。








腕振り運動で良い状況を引き寄せる原理

何も言わず、何もしなくても、そして、特に目立ったところのない外見と身なりであっても、周囲に強い雰囲気を感じさせる人がいる。
それを、「強い気を発している」と言うことがあり、気という不思議なエネルギーがあるように言われることもあるが、それはおそらく間違いである。
そうではなく、電子などの素粒子は意思を持ち、素粒子同士がコミュニケーションを行い、また、人間の意識(あるいは脳)も素粒子とコミュニケートすることは、科学的に(量子力学で)分かってきているので、こちらの理屈によるものだと思われる。

アメリカ最大の賢者で哲学者であるラルフ・ウォルドー・エマーソンは、「人間は、自分がどんな人間かが書かれた看板を、頭の上に掲げて宣伝しているようなものだ」と言ったが、それは事実であり、上のような仕組みで成されているのだろう。
つまり、自分がどんな人間かは、隠したってバレているのである。
ただ、現代の人間は、素粒子とのコミュニケーション能力が衰えているので、感じる力が鈍くなっているのだと思う。
まさに、「考えるな、感じろ」という意識を持たねばならないのだろう。

素粒子とのコミュニケーション能力が高ければ、強い影響力を持ち、現実を創造したり、引き寄せを行う能力が高い。
司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』に、こんな話がある。
宮本武蔵が、京の吉岡道場への果たし状を、吉岡道場の門番の老人に渡し、誰とも会わずに去った。
吉岡道場の当主、吉岡直綱は、その門番の老人に、「宮本武蔵はどんな男であったか?」と尋ねると、老人は、武蔵の外見と共に、
「武蔵が近付いてきたとき、声もかけられるのに身のうちがわなわなと震えた」
と言った。
それを聞き、直綱は武蔵のただならぬ実力を見抜いた。
武蔵は、素粒子に強い影響を与える大きな意思の力、すなわち、精神エネルギーを持っていたのである。
尚、量子力学の知識があるはずがない直綱は、これを「武蔵は強い気を持っている」と表現した。
便宜上は、「気」という考え方も良いと思う。

自分の意思は周囲どころか、宇宙全体に伝わっており、反作用も受けることから、悪意ある想念は持たないようにしたい。
イエスが言った「邪な目で女を見れば姦淫したも同じ」は、道徳的な意味だけでなく、事実であり、女性に悪い反応を起こさせる。
邪悪でも精神エネルギーが強ければ、一時的に世界を思うままに操れるが、例外なく、いずれ反動を受け、悲惨な最後を遂げることになる。
精神エネルギーを強くすると共に、良い精神波動を発する方法は無になることである。
瞑想したり、マントラを唱えたり、聖典を読むのも、そのための方法であるが、じっと座ってやることは、なかなか長続きしない。
そこで、腕振り運動のような、自然な運動を淡々と繰り返すことが勧められる。
数多く淡々と行うことで、無に近付くのである。
腕振り運動で難病が治ったり、幸運になるのは、上に述べたような原理によるのだと思う。








宮本武蔵になる方法

日本人に、「日本の歴史上、最強の剣豪は誰か?」とアンケートを取れば、ぶっちぎりで宮本武蔵が一番になるはずだ。
もちろん、そうなる理由は、単に宮本武蔵が有名であるからに他ならない。
本当に宮本武蔵が強いかどうかより先に、宮本武蔵以外の剣豪の名を挙げられない者も多いに違いない。
なぜ、宮本武蔵が有名かというと、吉川英治の小説が戦争中に大ヒットし、その後も人気があるからで、その大ヒットの理由は、もちろん、吉川英治の小説が面白いという面はあるが、国が意図的にこの小説を国民に普及させようとしたという話がある。このあたりの事情はよく分からないが、簡単に言えば、国による国民の思想統制…早い話が、洗脳のために、吉川英治の『宮本武蔵』が使われたらしい。
私は、吉川英治の『宮本武蔵』を1巻の途中までしか読んでいない。面白くないと言うより、読んでいて気持ち悪いし、テンポも悪いので、嫌になって、読むのをやめたのだ。だから、この作品がどう、国威発揚に使われたのかは不明だ。
だが、確実に言えることは、吉川英治の『宮本武蔵』はフィクション…つまり、吉川英治の創作であり、宮本武蔵の実像を伝えてはいないということだ。

実は、宮本武蔵が本当に剣豪であったかどうかは疑わしいようだ。
その理由は、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』で指摘している通り、武蔵は、江戸に数多くいた一流の剣豪の誰とも試合をしていないからだ。
そもそも、宮本武蔵の真実は、武蔵が著したと言われる(これも諸説あるが)『五輪書』に書かれたことのみであると言われる。だが、この中で武蔵は、数多くの剣士と戦い全勝したと書いているが、エビデンス(証拠)はない。
宮本武蔵の試合で最も有名な、佐々木小次郎との決闘は、まさに、吉川英治の小説が、そのまま伝わっている。試合そのものは本当にあったという説もあるが、その内容はあくまで吉川英治の作り話である。

ただ、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』によれば、武蔵が剣豪であったかどうかはともかく、実戦が強かったのは間違いないようだ。でなければ、いくら何でも、名前が残らないし、名前が残っているからこそ、吉川英治の小説のヒーローにもなったのである。

吉川英治の小説にある、宮本武蔵と吉川道場との決闘の話は、全くのフィクションだが、司馬遼太郎の『真説 宮本武蔵』によれば、武蔵は、吉岡道場の当主、直綱と試合をしてはいるらしい。
吉岡道場では、挑戦者をことごとに退け(大抵は試合中に撲殺)、名を上げていたが、試合は、直綱の弟の又一郎が行っていた。
兄の直綱は、試合を弟にまかせて、自分は稽古もしないようになり、遊び歩いていた。
しかし、宮本武蔵が挑戦してきた時、直綱は、弟の又一郎に「お前では勝てない」と断言し、自分が試合をすると言う。
又一郎は、昔は強かったかもしれないが、ロクに稽古もしていない兄に自分が劣ると言われて気分を害し、兄に真剣で挑むが、これが、手も足も出ないと言うより、打ち込むことすら出来ない。
直綱は又一郎に「剣の腕ではお前の方が上。だが、気で俺に劣る」と言う。
今でもだが、「気」という言葉は、武術や仙道などでよく使われるが、気という実体があるわけではなく、これは、言ってみれば、精神エネルギーのことだ。
簡単に言えば、又一郎は、兄の直綱に、精神の力とか、その使い方で劣るのだろう。
そして、直綱は、宮本武蔵が、大きな気の力を持っていることを見抜いたので、弟では全く敵わないと確信したのである。
また、直綱は、自分が武蔵に勝てるかどうかも分からなかった。ただ、確実なのは、又一郎では確実に負けることだ。
直綱は、武蔵の気の力は、天性のもの、すなわち、生まれつきの才能と感じたようだ。しかし、武蔵は、修行でそれを得たのかもしれない。ただ、それは『五輪書』には書かれていないので、やはり、直綱が感じたように、武蔵の天賦の才能かもしれない。

ちなみに、直綱は、気の力を修行で得たフシがある。それを、又一郎には教えなかったのかもしれない。
あるいは、又一郎には、その素質がないと思っていたのかもしれない。
ちなみに、直綱が言う、気の修行は2つあり、1つは、柳生新陰流がやったと言われる坐禅である。
坐禅により、心を無にするのである。
一方、直綱は、「止観」を重視していた。
これは、坐禅のように想念を無にするのではなく、むしろ、想念を妄想に集中し、心を操る術を見い出す。
これは、天台宗の教えを元にしているらしいが、浄土宗・浄土真宗の経典『浄土三部経』の1つ『観無量寿経』で、釈迦が丁寧に解説している。
早い話が、止観とはイメージ法で、夕陽とか水とかをイメージして、心を鍛えるのである。

ただ、私はむしろ、『猫の妙術』の、古猫の教えの方が、気の鍛錬になると思う。
『真説 宮本武蔵』と『猫の妙術』を併せて読むと、面白くて仕方がないのである。
それにより、気、即ち、精神エネルギーの使い方のコツや、その鍛え方が分かると思えるからだ。
気を使いこなせば、引き寄せなども思いのままであると思う。








煌めきを纏(まと)うための修行

想像力がある人なら、自分に合った霊的な修行を何か1つしたいと思っているものだ。
それをやっていれば、時間が味方し、日が経てば経つほど霊的に向上し、精神が安定し、引き寄せがうまくなり、自由になる。
確かに、甘い考えと自己中心的な思いで、人を超えた力を安直に求めることが良くないのは当然である。
だが、霊的修行自体が楽しく、毎日の生活に欠かせず、多少の根気を持って、1年365日継続出来るなら、効果は保証されるし、人生は生き甲斐のあるものになる。

言うまでもなく喩えであるが、この世界は漫画で、我々は漫画の登場人物だ。
多少は仕方がないが、少なくとも、あまりに自己中心的にならないよう自制し、モラルを持ち、真面目に修行する登場人物が不幸になる漫画(小説、劇、映画、紙芝居)はない。

我々はなぜ、五感を働かせて外界を感知し、それに反応して何かを思うのだろう?
それは簡単なことで、この世という漫画の作者が我々を通して、自分が、漫画の世界を楽しむためだ。
誰だって、一度は、漫画や小説、あるいは、紙芝居を書いたことがあるだろう。
その作品の中で、ある登場人物が、夏の美しい海で遊んでいることを描いた時、自分が、その登場人物になったつもりで、夏の海を感じているはずだ。
それに熱中すれば、自分は漫画の登場人物と一体化し、自分が作者であることを忘れるかもしれない。少なくとも、瞬間的には、自分が作者であることを忘れているのだ。
この世という漫画は、もちろん、我々が知る漫画と完全に同じではなく、とても高度なシステムで成り立っているが、そのあたり(作者が登場人物と一体化すること)は、やはり似ているのである。
つまり、我々を通して、作者は、漫画の世界を感じ、それに反応し、様々な想いを味わうのである。
誠実な登場人物には、好ましい恋愛の相手と出逢うよう、ストーリーを導き、冒険を楽しませ、いくつかの敗北と静かな満足がある勝利を与えるだろう。
よって、毎日、自分のためでなく、自分に高貴さを纏(まと)わせるために修行するのである。
修行によって、煌めきを纏った登場人物は作者に愛される。それが我々の言う、神に愛されるということである。

そういえば、最近、私は修行していないなあ(笑)。
腕振り運動や、様々な運動は、ゴリゴリ自分のためにやっているし(笑)。
ところで、自分が描く漫画の美しい魔法使いには、精神集中の修行をさせるのではないだろうか?
それを怠っている時、ヒーローやヒロインであっても、困難に巻き込まれる。
精神集中とは緊張することではなく、集中を通して、心を静かにすることだ。
司馬遼太郎の『真説・宮本武蔵』の中で、吉岡道場の当主、吉岡直綱が、毎夜、そのような修行をし、力で勝る弟の又市郎をはるかに超えていた。
このあたり、吉川英治の『宮本武蔵』は、全く異なった内容であるが、司馬遼太郎のものの方がきっと良い気付きが得られる。
修行の内容は何でも良いが、あなたの上位存在である作者が好ましく思うものであるよう工夫すると良い。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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