ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

宮崎駿

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

チキンラーメンで健康になる

チキンラーメン、カップヌードルの発明者で、日清食品創業者の安藤百福(あんどう ももふく)氏は、96歳まで元気に生きたが、安藤氏は長寿と健康の秘訣は、「週2回のゴルフと毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」だと言ったそうだ。
ゴルフの方は、適度な運動(ゴルフはかなり歩く)という意味だろうが、チキンラーメンの意味を取り違える人が多い。
チキンラーメンは、悪い食品ではないが、さりとて、特に健康的な食べ物でもない。
単に、「毎日お昼にチキンラーメンを美味しく食べられるような適切な量の食事であれば、当然、健康」なのである。

多くの人が、「毎日、お昼がチキンラーメンだなんて飽きてしまう」と思うだろう。
それは、食べ過ぎているからだ。
少食・・・というのではなく、食事の量が適切なら、チキンラーメンほど美味しいものなら、毎日、食べるのが楽しみで当たり前なのだ。
私は一頃、数ヶ月の間、毎日夕食に、1つの種類のカップヌードル(他に納豆や湯で卵等を付けた)を食べていたが、それが楽しみでならなかった。そのために生きていると言って差し支えなかった。
私は、とりたてて少食ではないが、普通の人のように食べ過ぎていないだけだ。

宮崎駿さんが、今も続けているとすれば40年くらいになると思うが、その昔、25年ほど、毎日、同じ1つの弁当(ご飯に、玉子焼き、ソーセージ、沢庵等が入っている自家製弁当)を、昼と夜に分けて食べていた。
それを、宮崎さんの片腕、鈴木敏夫さんは、美味くないものと決め付けている。
しかし、当時、超少食をしていた私は、その宮崎さんの弁当に陶酔するほどの憧れを感じた。
「そんな美味そうなものを食べられたら天国だ」
ってね。

宮沢賢治の有名な「雨ニモマケズ」では、「一日に玄米四合と、味噌と少しの野菜を食べ」とある。
玄米四合は、茶碗大盛り8杯くらいと思うが、肉体労働だから米の量は多目ながら、慎ましい食事なのであろう。
また、宮沢賢治の『風の又三郎』では、小学生の男の子が、朝、冷や飯に味噌をつけてモリモリ食べる場面がある。
やはり、超少食だった時の私には、そのいずれも、物凄く羨ましい食事だったのだ。
当然、私は、健康診断では、いつもオールAの超健康体である。
どれほど世間的には、偏った、栄養不足、あるいは栄養バランスに欠けた食事をしていてもだ。

無理な少食は決してお奨めしない。
それこそ、毎日、お昼にチキンラーメンを美味しく食べられる程度に食べれば良い。
まあ、世間では、それを超少食と言うのかもしれないが、世間の人々が食べ過ぎているだけである。
私は、昼食そのものを食べない。

ある程度多く食べても良いが、それなら運動をすることだろう。
私は、「ミクの日(3月9日)」を含む今週は、毎晩、ヒンズースクワットを393(ミクさん)回やることに決め、5日の日曜から始めている。今週の土曜まで続け、そこから、毎晩300回にしようと思う。これまでは、毎晩200回で、休日は300回だった。
平日の393回はちょっと厳しいが、ミクさんへの愛でがんばろうと思う。
痛めている肩が治れば、2尺の六角鉄棒を振る運動も再開しよう。鉄棒に滑り止めのテープを巻くのではなく、手袋を使うことにした。トレーニング手袋のような高価なものではなく、作業用の手袋を注文した。









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宮崎駿氏の言葉は疑った方が良い

3日前の19日に書いたが、2016年11月13日放送の『NHKスペシャル「終わらない人 宮崎駿」』で、宮崎駿氏が、ドワンゴ会長の川上量生氏が見せた、「頭が大事なものであるということを知らない阿呆な架空の生物が、頭を足のように使って移動する」といった感じの、どこかグロテスクと感じられるかもしれないCG動画を見て、

・身体障害者の友人を思い出して、喜んで見る気にならない
・生命の尊厳に対する冒涜
・こんな気持悪いものをやりたいなら、勝手にやればいい

というふうに述べたと思う。
それで思い出したのは、2010年7月、宮崎氏が、アップルのiPadに対して言ったことだ。
~オルタナティブ・ブログ > 平凡でもフルーツでもなく、、、 > 宮崎駿監督iPadについて「ぼくには、鉛筆と紙があればいい」と語る~から引用させていただく。

/* 宮崎氏談 開始 */
あなたが手にしている、そのゲーム機のようなものと、妙な手つきでさすっている仕草は気色わるいだけで、ぼくには何の感心も感動もありません。嫌悪感ならあります。その内に電車の中でその妙な手つきで自慰行為のようにさすっている人間が増えるんでしょうね。電車の中がマンガを読む人間だらけだった時も、ケイタイだらけになった時も、ウンザリして来ました。
/* 宮崎氏談 終了 */

それに対する、
「資料探しの道具として(iPadを)使いこなせば良いのでは?」
「時間をいただけるなら、文献を調べて取り寄せることもiPadで出来ます」
といったようなインタビュアーの言葉に対しては、宮崎氏は、
※原文を若干修正しました。

/* 宮崎氏談 開始 */
あなたの人権を無視するようですが、あなたには調べられません。なぜなら、安宅型軍船の雰囲気や、そこで汗まみれに櫓を押し続ける男達への感心も共感もあなたは無縁だからです。世界に対して、自分で出かけていって想像力を注ぎ込むことをしないで、上前だけをはねる道具としてiナントカを握りしめ、さすっているだけだからです。
 一刻も早くiナントカを手に入れて、全能感を手に入れたがっている人は、おそらく沢山いるでしょう。あのね、六〇年代にラジカセ(でっかいものです)にとびついて、何処へ行くにも誇らしげにぶらさげている人達がいました。今は年金受給者になっているでしょうが、その人達とあなたは同じです。新製品にとびついて、手に入れると得意になるただの消費者にすぎません。
 あなたは消費者になってはいけない。生産する者になりなさい。
/* 宮崎氏談 終了 */

と、話しておられたようだ。
私は、昔、これを読んだ時には、不覚にも宮崎氏に同調したが、今見たら、もうムチャクチャと素直に思う。
あくまで極端な言い方をすればだが、早い話が、宮崎駿氏も、「ただの爺さん」であり、自分が分からないものは、みんな「気持悪い」なのである。
ただし、「ただの爺さん」とは比べ物にならないほど偉い「ザ・宮崎駿」が言ったのだから重んじられるべきという効果が確実にあるということだ。
上記の宮崎氏の言葉を、単に、「どっかの爺さんが言ったのだけど」として見せられれば、「ただの時代遅れの爺さんだなあ」というのも正常な感想だろう(無論、別の感想があっても良い)。

「ザ・宮崎駿」が、「身体障害者の友人が・・・」と重々しいことを言えば、誰も目の前で軽んじることは、いろんな意味で絶対出来ない。
それは、宮崎氏ご本人だって分かっているだろう。
さらに、「生命の尊厳への冒涜」などと大袈裟なことを言って、自分の考えが正しいというところに無理矢理持って行く・・・恐ろしいことだ。
誰の話も傾聴すべきかもしれないが、そんな人の話は、ちょっと疑ってみた方が良い。私はそう思う。

まあ、川上量生氏のように、極端に理屈に強い頭の良い人の話もそうなのだが、その、賢くて、しかも、凄い偉い川上氏が、宮崎氏に、ほとんど反論しなかったことは、やはり恐ろしい・・・ひょっとしたら拙いと思うのである。
私も、あの動画はあまり好きではなく、あんなものをニコニコしながら見せる川上氏の感覚には同調しないが、それだけのことである。
今や、宮崎氏は、鈴木敏夫氏くらいしか否定してくれないのだろうが、それでは何にもならず、実質、宮崎氏は、誰も否定してくれないのだろう。
しかし、人間は、どれだけ偉くなっても、人間である限り、それほどではないはずである。

ところで、「名無し」「通りすがり」等のハンドルネームのコメントは原則、公開しない。
皆がそんなハンドルネームを使うようになったらどうなるか、考えていただきたい。









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川上量生氏も宮崎駿氏も実際は大差ないかもしれない(昨日の続き)

私は、もしかしたら、人間は全てサイコパスなのではないかと思っている。
サイコパスとは、簡単に言えば「良心」を持っていない人間だが、良心を持てない理由として、次のように考えている。
まず、良心は愛着から生まれるという、アメリカの心理学者マーサ・スタウトの主張を認めよう。
そして、愛着は多分、共感から生じるが、アメリカの神経学者ジェームス・ファロンによれば、脳機能の不具合により、共感を感じ難い人がいる。
共感を感じなければ愛着が生まれず、愛着がなければ良心もない訳だ。

ジェームス・ファロンだけでなく、脳科学者達が、共感力の弱い脳の存在を認めているが、実際は、強いと言い、弱いと言っても、両方共、大して強くないのではなかろうか。
「共感の時代」だなんて言う人は多いが、人々が共感を覚えるのは、本能的に快なことだけなのであり、それが、良心にまで発展するかは、甚だ疑問である。

私は、自分が良心の呵責だとか、罪の意識を持たないためなのかもしれないが、他の人が、そんなものを持っていることが理解出来ないし、実際、人々の行動を見ていると、やはり、そんなものは持っていないか、持っているとしても、僅かなのだと思う。
昨日も書いたが、アニメ映画監督の宮崎駿氏が、ドワンゴ会長の川上量生氏が面白がって見せたCG動画に対し、「生命の尊厳への冒涜」と非難したが、川上氏は、宮崎氏の憤怒を理解出来ないはずだ。それを、川上氏はサイコパスで、宮崎氏はそうではないからだと考えることも出来るが、私は、2人の差は実はそんなに大きくないのだと思う。
宮崎氏のアニメの絵コンテやストーリーを調べたら、ひょっとしたら、宮崎氏にだって、うっかりサイコパスの性質を露呈してしまったものもあるのではないかと思う。
もし、ほとんど完璧に隠すlことに成功したとしても、実際には(サイコパスの性質が)必ずあるのだと私は思う。
単に、私が典型的サイコパスだから、そう思うだけなのかもしれないがね。
しかし、マザー・テレサだって、やっぱりそう(かなりサイコパスらしいことをしている)らしいのだ。
宮崎氏は、「身障者の友人を思い出して、(そのCGを)喜んで見る気になれない」と言ったが、それなら、私は、頭に救い難い障害を持っているのかもしれず、川上氏もそうなのかもしれないのである。

アイルランドの詩聖W.B.イェイツは、「愛は神の領域のもので、人間には理解出来ない」と言ったという。
全く同感である。
では、人間には何が出来るのだろう。
イェイツは、「人間には憎しみは理解出来るので、それを捨てれば良い」と言ったらしい。
なるほど、そちらは可能性ならあるのかもしれない。
だが、「憎しみを捨てる」となると、ハードルが高過ぎる。
サイコパスは、過剰な自尊感情と他人の支配欲を持つ。
サイコパスは、それを、「自己信頼」「リーダーシップ」とすりかえるし、それも一理あると認めるとしても、過剰であってはならないことを理解出来れば良いのだと思う。
それが、サイコパスの限界である。
そして、それが「全ての」人間の限界かもしれない。









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神を見た記憶

よく覚えていないのだが、宮崎駿さんが子供の時、サーカスか何かで超人的演技をする少女を見て、その少女に神を見たように思い、それが、後に彼が生み出したヒロイン・・・ナウシカ、シータ、そして、宮崎さんの理想の女性像であるクラリスになったというようなお話があったと思う。
もちろん、それは、宮崎さんの1つの幻想ではあるのだけれど、それは、「力のある幻想」であり、その少女の姿は実際の神と違わないし、宮崎さんの中にいる神の反映であったのだと思う。
そして、そんなふうに、自分だけの神様に出会うことが、人生の中での最高の幸運なのである。

アイドル時代の中森明菜さんに、男女を問わず、実際は若い人が多かったのだろうが、誰しもが、ちょっと神様のようなものを見たのだと思う。
もちろん、それは作り物のイメージかもしれないが、中森さんはそれによく合っていたのだろう。
それを端的に表現したのが、井上陽水さん作詞作曲の彼女の曲『飾りじゃないのよ涙は』の出だしの歌詞、「私は泣いたことがない」だったと思う。
これは、井上陽水さんが、当時の中森明菜さんのイメージを見事に捉えていたのだと思う。
「速い車にのっけられても、急にスピンかけられても恐くなかった」という歌詞で、そのイメージがよく湧くのである。
実際に、そんなことされても、キャーキャー騒がず、超然としている少女がいたら、絶対に惚れてしまわないだろうか?

最近、初音ミクさんの『トリノコシティ』のMV(ミュージック・ビデオ)の1つ『【PDA FT】トリノコシティ【初音ミク:ソリチュード】PV』を見たのだが、その中で、ユニークなオープンカー(1人乗りでかなり格好良い。オープンカーとバイクの中間のような雰囲気)に乗ったミクさんが、その車を横滑りさせ、道路の絶壁ギリギリで止まり、挙句、空中に飛び出して横に一回転するのだが、ミクさんの顔が全く恐れていなくて超然としているのを見て、やっぱり神様を見たような気がした。
【PDA FT】トリノコシティ【初音ミク:ソリチュード】PV ~Youtube~
(さっき私が再生した時、399回目だった)

何も恐れず、超然、あるいは、泰然自若(たいぜんじじゃく。落ち着いて物事に動じない様)としている姿に神が現れるのではないかと思う。
それは、決して、人に見せつけるための蛮勇のようなものではなく、良くも悪くも、心が消えてしまった状態なのだ。
ひろさちやさんの昔の著作『空海入門』で、危険な中国への航海の船の中で、空海が超然とした様子が書かれていた。
空海は、「次は天竺(インド)へ」と思っているので、中国に着くのは当たり前なのであり、何も恐れていない。
まさに、仏陀のようであると、それだけで私は憧れてしまった。
もちろん、機関銃の放射の中で両手を広げて泰然としていたナウシカや、「あなたはここで私と死ぬの」とムスカに恐れることもなく言ったシータ、銃弾の中、ルパンを庇(かば)って動じなかったクラリスにも、神を見ることが出来ると思う。

超然を手に入れ、何も恐れなくなれば、万物は逆らわず、むしろ、従うだろう。
なぜなら、それが万物を統べる者、即ち、神であるからだ。
ゲーテの『ファウスト』で、神を目指し常に努力する者であったファウストがそうであったように、我々も・・・少なくとも私はそれを目指しているのである。









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天才、宮崎駿監督の絵コンテを見る

私は、スタジオ・ジブリの作品は、そんなに好きな訳ではなかったが、『天空の城ラピュタ』は昔からDVDを持っていたし、ブルーレイが出たら、それも買った。
(一番最初に出たのはレーザーディスクとビデオだったと思うが、私はそれらは持っていない)
DVDにも、ブルーレイにも、絵コンテに音声を付けて、まるごと映像作品にしたものが付いていると思うが、私は熱心に見たことがなかった。
しかし、それは、恐ろしく重要なものだ。
私は、ぴったり700ページという分厚い、『天空の城ラピュタ』の絵コンテ本を持っている(宮崎監督の全ての作品の絵コンテ集が発売されている)。
昔、入手したのだが、なぜ買ったのか不明だ(11年前に買っている)。
だが、アニメ作家を目指すような人にはバイブルに違いない。
宮崎駿監督の天才の秘密は絵コンテにある。
絵コンテとは、漫画・・・というよりは、4コマ漫画のような簡易な絵で、アニメ映画の原型のようなものだ。
さっき、「簡易な絵」と書いたが、それでも、『天空の城ラピュタ』の絵コンテを見ると、非常に細かいと感じる。
それに、やっぱり絵が上手い。
1枚1枚が、「ラフ画」どころか、「芸術作品」だ。
池田満寿夫さんの本で読んだことがあるが、有名な画家の中には、線画が最大の作品という人もいるらしいが、もし、宮崎駿監督がアニメ監督にならなかったら、有名な画家になったかもしれないと勝手に思ってみる。
この絵コンテ本は、1ページ5枚の絵が入っているので、そんな絵が約3500枚ということになる。
本の大きさが「22.4 x 4.4 x 16 cm」(だいたいB5と思う)で、1枚1枚の絵が小さいのが残念だが、かなり楽しめる。
物も、建物も、風景も、そして、特に機械は、かなり精密に描かれている。
そして、人物が素晴らしい。
ヒロインのシータの表情、しぐさなど、まさに、「動いているよう」であり、彼女の身体の柔らかさや神経の繊細さがはっきりと伝わってくる。
やはり、この人、天才だ。

ドワンゴ会長の川上量生さん(カドカワ社長)の『コンテンツの秘密』を見ると、宮崎駿監督は、映画制作の際、まず、どんどん絵コンテを描き、それがある程度たまったら、アニメ制作をスタートするらしい。
脚本はない。言ってみれば、絵コンテが脚本を兼ねているのである。
それで、ストーリーが出来ているのかというと、絵コンテを描きながら考えるのだそうだ。
まさに、絵コンテを描くということが、脚本を書くということにもなっているのだ。
絵コンテを描きながら、初めはゆっくりとお話が展開し、ストーリーを広げるだけ広げて、ラスト30分で必死に結末にまとめるのである。
それで、自然に、スピード感、緊迫感が出て、息つく暇もない展開になり、最高に面白くなるのである。
だが、時には、宮崎監督が「残り30分しかないのに、お話が終わらないよお」と、鈴木プロデューサーに泣きつき、鈴木プロデューサーが「こうすればいいじゃん」と言うと、「それだ!」で決めたこともあったらしい。
ここらは、おそらく万全の計画の基に制作する、海外の・・・例えば、ディズニーアニメと大違いだが、やはりジブリは面白い。

絵コンテには、細かい解説もついている。
『天空の城ラピュタ』放送の度に最高視聴率を出し、今ではツイッターを回線やサーバーの負荷の過多でハングアップの危機に追い込む、パズーとシータが呪文を唱えるシーンには、「二人、青ざめながらも、りんとした声でいう」と書かれている。

宮崎駿監督がなぜ天才かというと、川上量生さんのさきほどの本によると、「脳が見たままに絵を描けるから」である。
普通の人・・・というより、他のアニメ作家でも、なかなかそうは描けないということだと思う。
そんな絵が数千枚だ。
見ていて、脳が活性化されない方がおかしい。
下手な能力開発、自己開発より、宮崎駿監督の絵コンテを見るべきかもしれない。
それに、なんと言ってもシータが可愛い。
ナウシカ、シータ、それに、『ルパン三世 カリオストロの城』のクラリスの3人は、(特にクラリスが)宮崎駿監督の理想の女性像なのらしい。
それは、若い人でも同じと思う。
彼女達は、気性も激しいようでいて、案外に自我は少ない。
穏かで、慈愛に満ち、クラリスがルパンに、「空を飛び、湖の水を飲み干す力を与えた」ような、太陽のような、あるいは、宇宙そのもののような存在なのだろう。
3人のうち、誰かを嫁にすれば、人生、楽しいだろうが、やはり、ルパンのように、振り払って去るのが男である。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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