何年か前の1月に、親を神社の十日えびすという行事に連れて行ったことがある。
私は、神道や古事記には、それなりに興味があったが、こういった行事のことは、さっぱり分からない。
ところで、その時、神社の境内の建物の中で、1人の参拝者が座り、周囲を、剣(つるぎ)を持った巫女さんが舞っていたのだが、おそらくこれは、その参拝者の祈念の成就を神に祈る儀式のようなものであると思われた。
宗教や信仰は、時代や地域を問わず、様々な願いを神に祈念することを必ず含むのだと思う。
そして、正統な方法で祈れば、願いが成就すると信じられているのだと思う。
そうでなければ、信者を集めることは出来ない。
そして、神職にある者は、信者の願いを叶えるための力を得る修行や勉強もしているはずで、特に、修行の進んだ高位の僧や神官であれば、願望成就の霊験も、必ず起こせると期待されているだろう。

ところが、厳粛な作法に則り、修行を積んだ神主や神官、あるいは、僧などが力を尽くし、また、祈願者自身も、身を清め、時には金もかけ(祈念料がそれなりに高いことは珍しくないと思う)、真面目に儀式に挑んでも、必ずしも願いが叶うとは限らない。
いや、実際のところは、願いが叶うかどうかは、さほど芳しいものではないと思うのだ。
また、一度切りの儀式ではなく、生涯をかけた、情熱的な祈念を行う者もいるだろう。
しかし、それでも叶わずに一生を終えることもザラなのだろう。
だが、人間には、内に神のような力があるはずで、本質的に、どんな願いでも叶えられるはずなのである。
それなのに、そこまでやって、なぜ、願いが叶わないのだろう。
そういった問いをすれば、沢山の答があるだろうが(どんな答かは、かなり予測出来る)、あまり説得力のあるものはないと思われる。

だが、本当の答は1つだ。
願いの内容が、善か悪か、清廉(私欲がなく清らか)か邪(よこしま)かは関係がない。
願いが叶うか叶わないかを分けるのは、祈念者の気分が良いか悪いかだ。
国家的規模の壮大な儀式を行ったところで、祈念する者の気分が良くないのであれば、願いは叶わない。
例えば、敵国の滅びを膨大な人民が祈念したところで、それらの人々の気分の平均値が悪いものであれば、叶うことはない。
(そもそもが、敵の滅びを祈れば、敵が受ける災いを自分達の身に呼び込むものであるが、それは今回は置いておく。)
だが、たった1人の願いであっても、気分が良く、願いが叶った喜びに満ちるようであれば、願いは叶うはずである。
そして、敵の災難ではなく、自分の発展を願う時に、気分が良くなるものである。
これが解れば、あなたに関しては、本質的に、宗教も祈祷師も必要はないのである。
ただ、宗教が、信者の気分を高めるサポートが出来るものであれば、価値を上げることだろうし、その可能性は大いにあると思う。