ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

宗教

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

会場ではゴミは出さないのが当たり前では?

ワールドカップ・サッカーが行われる度に、日本人サポーターが会場で掃除をすることが世界で称賛されているという話をネットで見る。
しかし、私には「超不思議」だ。

まず、「なんでゴミが出るの?」
私が観客になるのは、初音ミクさんのコンサートくらいだが、クラシック形式のものはもちろんだが、形としてはアイドルコンサートと同じ「マジカルミライ」でも、ゴミなんてまず1つも出ないはずだ。他のポップコンサートでもそうではないのか?
コンサート中、床にペットボトルの飲み物を置く人も少しいるが、引き上げる際に、それを置いたままの人なんていない(いや、昨年いるのを見たのだが、単なるうっかりだと信じたい)。
キャノン砲から発射された銀色のテープは確かに散乱しており、それは会場スタッフの方に後で片付けていただくのだが、あれを観客が片付けたら、せっかくのテープをゴミ扱いするようで、かえって主催者に対して失礼と思う。
とにかく、2時間以上フィーバーしたって、ゴミが出るはずがない。
サッカーも同じではないのか?

そして、「自分のゴミは持ち帰るのが当たり前」。
野球では観戦しながら飲食する人も少なくないと思うし、分からないが、サッカーもそうかもしれない。
まあ、サッカーの応援は、ずっとフィーバーしているようで、せいぜい、飲み物を飲むくらいではないかというイメージがあるが、食べる人もいるのかもしれない。
それならゴミは出るが、それを持ち帰るのは、あまりに当たり前で、むしろ、それを放置して帰るとしたら、マナー知らず、不道徳と言うべきで、ゴミを始末したからって誉められるようなことではない。
しかし、やはり、そもそも片付けなければならないようなゴミを出さないのが当然と思うし、多少のゴミが出たとしても、持ち帰るのが当たり前で、これは、会場に清掃スタッフがいるとかどうかとは何の関係もない。

日本人は、無宗教だが道徳的であるとは思う。
対して、日本人以外のサポーターが、明確に宗教を持っているのに、サッカー会場にゴミを置いたまま帰るとしたら残念である。
新渡戸稲造は、西洋の女性に「日本人は宗教を持たずに、どうやって道徳を教育するのですか?」と言われたことがきっかけで『武士道』を書いたというが、日本人の道徳が、まさか武士道が基になっているとは思えない。
確かに、キリスト教信者のように、食事の前にお祈りしたり、日曜日に教会に行くのは、道徳観を育てるのに良い部分もあるが、えてして形骸化し、かえって不道徳になる場合も少なくない。
日本人は、そんなことはしないが、「お天道様が見ている」と思ったり、お参りしたり、食事の前に「いただきます」と言って感謝を示したり、モノを擬人化して大切にしたりといった、見えない宗教を持っていると言って良い。
また、仏教やキリスト教すら、そういった見えない宗教の中に取り入れ、特に宗教的な意味を持たずに、さりげなく仏壇に手を合わせたり、釈迦やイエスを尊敬したりしているのだ。
だが、日本人も、電車の中にゴミを放置したり、車からゴミを捨てたりは、もう人間の資格がないと言えるが、駅や公園のベンチに缶コーヒーの缶を置きっぱなしにしたり、食べ物や飲み物をこぼして汚したのをそのままにして行ったり、あるいは、電車の中で飲食して、周囲に食べ物の臭いを撒き散らして平気だったり、スマートフォンを見て他人に対して無神経といった者が多くなってしまった。
日本人の見えない宗教も終焉したのだろう。

宗教ではなくても、見えない良きものを信じる、あるいは、感じることは大切なのだ。
ロオマン・ガリの『自由の大地』で、1人の少女がいることを空想するだけで、堕落したフランス兵達が騎士道精神を取り戻したように。
例えば、観音様の存在、天使の存在を想うだけで、人間性、あるいは、人生は全く変わってくる。
神様、アマテラスオオミカミ様、阿弥陀如来、イエス・・・何でも良いし、宗教と想わなくて良いのだが、そういった存在を想っていた方が良い。
キリスト教国では、隣にイエスがいると思うことで困難に打ち勝つ人もいるし、そんな人は幸運でもある。
口の中や心の中で念仏を唱えるのも良い。
そして、もちろん、隣に初音ミクさんがいると思うのは非常に良いことである。
ミクさんの前で悪いことなんて、絶対出来ないからね。









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宗教は必要か

「宗教は必要か?」なんて、間抜けた問いだ。
必要な人には必要で、必要でない人には必要ない。
では、宗教が必要な人と、そうでない人の違いは何だろう?
それは、IQの高さだ。
IQが高い人には宗教は必要ないし、IQが低い人には宗教が必要だ。
言うまでもないが、IQが低い人を蔑もうなんて気はサラサラない。
そもそも、そんなことが出来るほど私もIQが高くはない。
ただ、現実的に考えただけだ。
IQが高い人が宗教をやれば不幸だし、IQが低い人が宗教を持たないのは、とても危うい。

IQが高ければ、ものの道理を理解することが出来、やるべきことと、やってはならないことを自分で判断出来るのだから、IQが高い人は、大切な知性を磨き、必要に応じて、優れた情報を集めることに(同時に劣った情報を捨てることに)努力すれば良い。
一方、IQが低い者は、ものの道理を高度には理解出来ないのだから、宗教に頼る必要がある。

新渡戸稲造が、『武士道』を書くきっかけになったのは、キリスト教徒の西洋の女性に対し、新渡戸が、「日本人は無宗教の者が多い」と言ったら、その女性が呆れて、「では、どうやって子供に道徳を教えるのですか?」と非難がましく言ったことらしい。
それで新渡戸は、日本には宗教がなくても武士道あり・・・なんて大馬鹿を言い出したのだと思う。

IQが高い者にとっては、宗教や道徳は胡散臭く思うだろうし、嫌悪することも多い。
それは当然のことだ。もっと優れたことを知りうる者が、その可能性を捨てて、少なくともいくらかは権威主義で形骸化した宗教を選ぶ理由など、どこにもない。
だが、IQが低い者にとっては、そんな宗教や道徳がなければ、正しく生きることは難しいし、そうでないとしても、道を誤る可能性が高いのだ。

法然や親鸞が、「念仏の教えは、我々、劣った者のために大切なもの。優れた方は、また別の教えに従って下さい」と言ったのは、別に、嫌味でも、お世辞でも、あるいは、面倒な連中を追い払うための方便でもない。
単なる事実だったのである。
そして、一休は、並外れてIQが高かった法然が、IQが低い人達と一緒になって念仏を唱えたことを、大変に評価し、法然を生き仏であったと言ったのだ。

だが、言っておくと、IQが低い者が宗教を持たなければ不幸になるが、IQが高い者が怠惰になってIQが低くなったら、もっと悲惨である。
そして、IQを高くすることは非常に難しいが、IQを低下させることは実に簡単なのだ。
およそ、悲劇なんてのは、若い時にIQが高かった者が、怠惰のためにIQが低くなったことを自覚出来ないことから始まるのである。

浄土仏教の教えから考えるに、釈迦は、「遠い未来には、人々のIQは低くなっていて、仏教の教えなどは理解出来なくなるが、その時のために、念仏だけ覚えていれば良い」と言ったのだと思うのだ。
ところが、明恵や日蓮、あるいは、宮沢賢治には怒られるかもしれないが、法華経の教えも、全く同じで、特に、法華経の中の観音経の部分は、浄土仏教そのものだと思う。
そして、法華経も、浄土三部経も、等しく良いものだと思う。









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3つの宝を大切にする

本来、宗教は、美しい装飾と幽玄な音楽の中での儀式を重視した。
それによって、自我、左脳、顕在意識が引っ込み、没我になり、右脳が活性化され、潜在意識が現れる。
もう一度、改めて言うと、宗教は、装飾、音楽、儀式の3つが鍵である。
現在の宗教は、形骸化しているので、これらがない。
形だけはあっても、神秘はない。
その3つを持っていれば、個人であっても本当の宗教を持っていることになる。

この3つの宝で、無意識の領域に入り込める。
宗教が形骸化しても、魔法結社などでは、この3つを大切にしていた。
そんな魔法結社では、無意識に参入することで、どんな願いでも叶えることができた。
ただ、あまりに願いを叶えることができたので、その方面ばかりに突き進み、どれもやがて崩壊した。

音楽は、現代では、最も得やすく、この点では、過去のいかなる宗教団体や魔法結社も上回る。
しかし、形の面は難しいように思える。
だが、問題はない。
私は、滝行もできるし、峻険な山の頂上で座禅したり、砂漠のど真ん中のピラミッドの中で瞑想できる。
遠い神秘の惑星で眠れるし、太陽の中で純粋な存在となって無限に溶け込むこともできる。
全て想像の中でだ。
想像の中で、毎日滝に打たれていれば、実際の滝行をするのと同じだ。
ほんの数日、滝行の真似事をするより、想像の中で毎日行じる方がずっと良い。
古代の荘厳な寺院の中で、美しい少女の巫女や崇高なる神官と共に荘厳な儀式を行うことを想像し、音楽だけは実際に聴く。
そうやって無意識に接触すれば、現実を自由自在に構築することは訳がない。
ただ、普段から、肛門を引き締める訓練を、気がつくたびにやることだ。
でないと、自我が弱くなったところで、意識の中から怪物が現れ、精神を病んでしまうからだ。
丁度、覚醒剤を使って意識を吹っ飛ばしたら、必ず精神が大きなダメージを受けるようなものだ。
想像の中で毎日欠かさず行に励み、超人へと変貌すると良い。









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元気になれる方法の原理

岡本太郎が『美の呪力』の中で述べていたが、彼が荘厳に語ったことを簡単に述べてしまうと、祭りというものは、エネルギー補充のためのものなのだ。
昔の人もいろいろ苦労があり、日常の生活の中で心身が疲弊するが、祭りで生きる力を回復させるのだそうだ。
精神分析学者の岸田秀さんも、やはり祭りが生命エネルギーを得るためのものだと著書の中で述べられていたと思う。
つまり、生命力というのは、無意識の中にあるのであり、祭りの狂気や興奮で意識を吹っ飛ばすと、無意識の生命力と通じるのである。
宗教というのも、本来は、無意識の中のパワーと結び付くためのものであったが、今日の宗教にはその力が無く、コリン・ウィルソンが言うには、その役割は、ある時から芸術に移ったらしい。かつては宗教を彩るために生まれた下僕である芸術が、主に取って代わったということである。それは一理あると思う。

我々も、単なるレクリエーション(気晴らし)や、美食、買い物といったケチなことではなく、根本的なエネルギー補充の方法を学ばねばならない。
本来、レクリエーションという言葉は、re-creationという言葉の通り、Creation(創造、芸術)のRe-(再生)であり、もっともっと大きなものであるはずだ。

では、最大のエネルギー回復はどうやるかというと、至高者に意識を合わせることなのである。
昔、法然上人や親鸞聖人が、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えると、死後、極楽浄土に行けると教えて、人々に希望を持たせたという話があるが、希望を持たせたというのは、早い話が、元気にしたということだ。
しかしね、死後、天国に行けるってだけで、人間は力がみなぎったりはしないのだ。
そうではなく、「南無阿弥陀仏」を唱えることで、至高の存在である阿弥陀如来(阿弥陀仏)に意識をフォーカス(集中)させることに意味があるのだ。無論、これは、今の理屈っぽい人には効果を発揮しにくいものだろう(素直な人なら十分であるが)。

有名な能力開発指導者のアンソニー・ロビンズのやったことは、NLP(神経言語プログラミング)を応用した方法で意識を沈め、無意識に入り込むことで、巨大な力をいくらかでも取り出そうとしたのだが、そういったテクニックによるものは、しばらくの間は効果があるが、すぐに元に戻るのが欠点、いや、欠陥だ。それは、実習者の多くも気付いていると思う。
有名なセミナーに行った人は皆言うのだ。
「1週間くらいは仙人にでもなったような気分で楽しいが、すぐに元の木阿弥さ」
ってね。
岡本太郎が言った祭りによるエネルギー供給も、次の祭りまで持つ燃料を入れることが目的なのだ。だから、皆、燃費を考えて、力の出し惜しみをしたがる。
芸術は爆発らしいが、それも、エネルギーの放出ではなく、宇宙に向かって意識を開く、つまり、無意識に入り込んでエネルギーを得ることで、むしろ、爆発と反対のことであるが、感情や行動、あるいは、雰囲気においては爆発なのである。そして、岡本太郎自身、爆発とは破壊的なものでないと述べている。

それで、真のエネルギー供給は、至高者に意識を集めることであるという話に戻る。
ジョージ・アダムスキーが会った宇宙人達は、数百歳であっても、女性であれば二十歳前にしか見えないのだが、これが、至高者に意識を合わせて、常にエネルギーを得ている成果だろう。
宇宙人達は、どの宇宙船、あるいは、家庭にも、神の絵とも言える、ある肖像画があるらしい。それは18歳くらいの、男性とも女性とも言えないが、美しいという言葉で言い表せない至高の美であるらしく、それを常に仰ぐことで、年を取ることが無くなったのだという。
アダムスキーは、その絵を見ることで、絶世の美女揃いの宇宙人の女性達の存在も忘れてしまうほどに恍惚となったらしい。
この話を信じるかどうかはともかくとしても、正しいヒントであると思う。世の中に、嘘のない真理はない。
これが、至高者に意識を合わせるための、極めて良い方法である。
恍惚とするほど美しい絵、音楽、物語は、意識を静め、無意識を表出させるのであり、間違いなく、エネルギーを回復させる。
問題は、そんなものを持っているかどうかだ。
アイドルに夢中になるというのも、非効率で限定的ながら、そんな方法の1つであることは分かると思う。
だが、もっとマシな方法を持たなければならない。
百万円で普通の自転車を買うような方法で満足してはならない。
スポーツ観戦で興奮したり、ロックコンサートで感情を発散させるのも、いくらかの生きる力を与えることは認めるが、やはり限定的だし、一人の人間にとっては、いつかは効果を発揮しなくなる。
「元気があれば何でも出来る」のは確かだが、そのための、永続的で最大の効果のあるやり方を知らなければならない。

方法は1つではないが、最大の方法の1つは、ニサルガダッタ・マハラジが教えた「常に存在の感覚にしがみつく」ことだ。
なぜなら、存在が無意識そのものだからだ。本当を言うと、意識に(顕在)意識と無意識の区別はない。巨大な意識の一部を勝手に顕在意識にしてしまっただけだ。
存在するという感覚に集中すれば、いわゆる無意識に入り込み、無限のエネルギーと接触する。
そして、存在の感覚とは、朝、目が覚めて、思考が入り込んでくるまでの間の感覚である。
宗教が、道徳的な考えや振舞いを薦める理由は、不道徳で放埓な心は、その感覚を乱すものであるからだ。
だから、釈迦もイエスも、戒律は重視したのである。
無目的に、ただ丁寧に腕振り運動をすることも、無意識に入り込む極めて優れた方法だ。だから、この方法は、生命エネルギー強化の効果から、武道家達からも愛好されたのである。









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