ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

宇宙戦争

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
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DSの「家族愛」戦略

普通の権力者からは小物感がはっきり感じられるだろう。
「こいつ、〇〇大臣なのに、どうしてこんなに貫禄がないんだ?」と不思議に思っている人は多いと思う。
表に出ている権力者達は実際に小物であり、真に強力な存在は隠れているものである。
真に強力な存在は「黒幕」とでも言うべきものだが、今は「DS(ディープ・ステート。闇の政府、闇の支配者)」と呼ぶのが流行りのようだ。
ロンダ・バーンの『ザ・シークレット』では、DS(のようなもの)は、「シークレット」という願望達成の秘法を独占し、一般人に隠しているから、権力を維持しており、ロンダ・バーンは、『ザ・シークレット』で、その秘法を明かしたということにしている。
それが嘘とは言わないまでも、「シークレット」は秘法の重要な部分が抜け落ちており、その証拠に、『ザ・シークレット』を読んだり、DVDを見たりしても、「本当に」良いことがあった人はいない。
ただ、ロンダ・バーンに悪意はなく、きっかけとしては良いものだったと思う。
そもそも、DSの手法は、願望成就の秘法を隠すことではなく、自分達以外を、小市民化、奴隷化することだ。そのためには、人々に小市民思想、奴隷思想を叩き込むのである。
もちろん、学校(教育)とマスコミが、彼らの強力な道具だ。
学校で、優等生だったか劣等生であったか、従順な「いい子」だったか問題児であったかは関係ない。それら全ての生徒に、小市民思想、奴隷思想が叩き込まれているのである。

だが、実を言うと、DSが学校とマスコミを使っても、DSの教育(洗脳なのだが)を、完全にとは言えないまでも、免れたような者達がいる。
そういうのがあまり増えるのをDSは良く思わないのだろう。
その中に、意外に優秀な者がいないとも限らないからね。
それで、いくらか前から、新しい手をさりげなく使っているのだ。
その手段も1つではないのだが、1つ重要なものを挙げると、人気映画などを使って、人々に小市民思想をしっかり流し込んでいることだ。
2000年以降くらいだろうか、壮大なSF作品でありながら、家族愛、あるいは、夫婦愛を押し出したものばかりになっていることに気付いている人は少ないかもしれない。
例えば、同じSF小説を原作とする『宇宙戦争』という映画が、1953年と2005年に作られている。
1953年の映画では、地球人より科学技術がはるかに進歩した火星人が地球を侵略するが、圧倒的な力の差を理解しながら、登場人物達は、あらゆる努力をして立ち向かう。しかし、その全てが失敗するが、最後は意外な勝利を掴む。ここには、勇気、英知、運命といったことが描かれている。
しかし、2005年の作品は、最初から最後まで、ベタベタの家族愛が、宇宙人の地球侵略とは何の関係もなく描かれるが、全ての映画がそんなふうなのである。
ハリウッドの監督やプロデューサーが、DSから、家族愛を一番に考えるような作品を作って国民を洗脳しろと命じられているのである。

「いや、だが、家族愛、夫婦愛は大事だろう?」と言いたい人はいるだろう?
これに対して反論しても、どうにもならない。洗脳された相手に、洗脳されて思想について議論しても何の意味もない。
ただ、こんなことでも言っておく。
昔の日本では、庶民達は長屋と呼ばれる、一種の共同住宅みたいなものに住んでいた。
そこでは、家族同士の壁はほとんどなかった。
子供達は皆一緒にいて、夕食時にたまたま居た家でご飯を食べ、寝る時も、必ずしも自分の親のところに居なかった。
いや、生まれた時から、どの大人も分け隔てなく全ての子供達の世話をし、実のところ、どの子が自分の子か分からなかったのだ。
江戸時代後期の庶民は、だいたい、こんな感じであった。
ここには、分離された家族の中の家族愛なんてものはないが、人々のモラルは高く、思いやりがあり、犯罪率は極めて低く、文化も経済も発展した。

「地球は一家、人類は皆きょうだい」という言葉の空虚感が大きく、笑えるとすら感じるかもしれない。
誰もがこんな言葉にピンとこず、「ごく限定された意味で、そう思うのは良いことなのだろう」程度に思っている人ばかりだと思う。
大事なのは自分の子供で、尊いのは自分の夫や妻であると、全く疑わずに信じている。
そんな人間達は弱い。
ごく限定された意味では強いところもあり、庶民には、そのピンポイントの強さが強調され、「やっぱり家族愛は強い」ということになるのだが・・・

家族がいないなら、あるいは、いたとしても、世間的なベタベタの家族愛に吐き気を感じる・・・少なくとも違和感を感じるなら、やはり、神仏の名を唱えると良い。
神仏と称される圧倒的な存在が、あなたの本当の家族である。そして、あなたのきょうだい、子供、夫、妻、親の全てがそうなのだ。
小さな家族の垣根が壊れるほど、人間は強力になる。自分が神仏と一体化していくのだからだ。








ウイルスは物質主義者を倒す

我々が、「世の中がおかしくなっている」と感じる時、日本に住んでいるなら、日本がおかしくなっているということだ。
では、他の国はどうかというと、当然、日本ほどには分からないが、とりあえず、アメリカ合衆国がおかしいということは分かる。
それでは、その他の国はどうかというと、今は、良い指標がある。
それは、新型コロナウイルスの感染規模だ。
経済力が大きな国ほど感染が大きく、貧しい国ほど、感染は小さい。
一部、公表されている情報と実体が大きく違うと感じる国もあるが、GDP上位の、アメリカ、日本、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、ブラジルなどは大きく、ベラルーシやエチオピアなど貧しい国は小さい。
(中国は、ほとんど感染者がいないことになっているが、本当のところは分からないと思う)

それで、感染規模の大きな国は、おかしな国になっているのではないかと、私は推測している。
国がおかしくなるのは、多くの国民がおかしくなっているからだが、では、人がおかしくなる原因は何だろう?
それは、「見えないものより見えるものを優先すること」で、つまり、「心より物質を価値あるものとすること」だ。
経済力が高いことは、一般に、物質主義である傾向の高さを示していると言えるだろう。
イエスが、「金持ちが天国に入るのは、ラクダが針の穴を通るより難しい」と言ったようにである。
しかし、先進国のほとんどの人間は、ラクダになりたがっている。
目に見えない天国のようなものを信じていないからだ。

昨年のアメリカ大統領選挙と新型コロナで、世界の実体が浮き彫りにされ、今、世界がどうなっているかに、多くの人が気付いたと思う(全く気付かない人も多いが)。
そして、新型コロナウイルス感染が大きい国は、このままいくと滅びることになる。
それを免れる唯一の方法が、物質主義を捨て、物より心を優先することだ。
別に、物質を捨てろというのではない。物質より心を大切にすれば良いのである。

物質主義者が絶対にしないことは、ナーマスマラナ(心で神の名を唱えるという意味)だ。
心の中で唱える念仏も同じである。そもそも、念仏とは言葉の通り、仏を念ずることであり、念ずるとは心で想うことである。
神仏の名を心で唱えれば完全に護られると言ったら、物質主義者は笑うだろうし、自分は物質主義者ではなないと思っている人でも、心の中にある物質主義が違和感や反発を感じるだろう。
一方で、神仏の名を心で唱えれば、一切の問題が解決し救われることは、本当は誰でも分かっているのである。

声を上げるナーマスマラナや念仏は、あまり良くない。
ある真面目な宗教漫画で、若者から老人までが集まって念仏を上げている場面があったが、それはもう不気味で、カルト以外の何物でもない。
一方、1953年のアメリカ映画『宇宙戦争』で、火星人の攻撃になす術なく、滅びを待つだけという中、教会で人々が黙って祈る様子は荘厳ですらあった。
『宇宙戦争』の最後は、こう語られる。
「万策尽きた時、賢い神が創った小さな生命が世界を救った」
「万策尽きる」とは、物質的な意味であり、物質主義を捨てたということだ。
すると、物質主義において、火星人が地球人に優ってしまい、ウイルスが火星人を倒した。
そして今、人間の手を使ったかもしれないが、賢い神が創ったウイルスが、物質主義者を戒めているのである。
ナーマスマラナを真摯に行っていれば(単に、心で神仏の名を丁寧に唱えれば良い)、護られ、必要なものは与えられる。
物に関しても、イエスは、「あなた方に必要なものなど、神はとっくにご存じだ」と言った通りである。
何をすべきか、すべきでないか、働くか、働かないか、努力するか、しないか・・・などは神仏が決め、我々はその通りに自然に行えば良いが、つまるところ、何もしていないのである。
自然であること、それは、快適なことである。








現代映画は見ない方が良い理由

映画には、世界的人気シリーズというものがある。
最も歴史の長いものは007シリーズだと思うし、今では、スターウォーズシリーズも人気がある。
原作に依存するハリーポッターシリーズは、以前の勢いはないように感じる。

ところで、私は、007、スターウォーズ、ハリーポッターは、自主的に見たことは一度もない。
以前、たまたまテレビで放送されていた時に見たことがあるが、ハリーポッターシリーズは、1作も見ていない。
どれも、「売れる映画」でしかないと思う。
007やスターウォーズは、見れば面白いと感じるが、特に、近年の007は刺激的だが醜悪で、見れば憂うつになるので、今は、たまたまでも見ないようにしている。

良い映画には、肯定的で印象深い場面がある。
しかし、近年の映画には、それがない。
ほとんど興行収入のことしか考えていないからで、実際、興行収入第一で作らないといけない事情があるのだろう。
もはや、見る価値のある映画は1つもないと思う。
日本の映画に関しては、映画ですらない。
人気タレントを主役にするが、そもそも、それらのタレントは最低限の俳優の修行をしておらず、見るに堪えない。
今はもういないと思うが、素人俳優しか使わない名監督という人も確かにいたが、そんな監督が使うのは無名の人であり、まさに実力勝負で、タレントの人気に依存しない。

ただし、私が知らないだけで、低予算で作られた、あまり知られない映画の中には、近年のものであっても良いものがあるのではないかと思う。
とはいえ、実際には見ていないから分からない。
それで、昔の映画ばかり褒めるのは、単なる懐古趣味のように思えるかもしれないが、これまで知らなかった、俳優の名や原作も知らない古い作品に良いものが沢山あるとしたら、やはり、近年の映画は駄目なんだろうと思う。
近年の映画は、見たら精神が破壊されるものが多いと私は思っているし、それは、おそらく確かだ。

リメーク作品というものがある。
例えば、H.G.ウェルズ原作の『宇宙戦争』は何度も映画化されているが、最も有名なものは、1953年のものと、2005年のトム・クルーズ主演のものだ。
1953年のものは傑作だが、2005年の映画は収益目的だけのものだ。
1953年の『宇宙戦争』は、映像的にも十分素晴らしかったし、中身があった。
この映画の初めの方に、火星人の宇宙船に神父が近付く場面がある。
神父は言う。
「我々より進歩しているなら、より神に近いはずだ」
しかし、宇宙船は神父に熱光線を浴びせ、蒸発させてしまう。
テクノロジーが進歩しているからといって、精神性の高さとは全く関係ないことが示されたわけだ。
それは、1953年でも分かっていたことだが、近年は、それがさらに証明されている。
この映画の最後は、こんなメッセージで締め括られる。
「万策尽きた時、奇跡が起こった。賢い神が作った小さな生命によって」
なるほど、人類の「万策」は実際上は無駄だったが、万策を尽くしたから、別の奇跡が起こったのであるかもしれない。
奇跡は予期せぬところで起こるものだ。
そして、なぜ、万策を尽くせば奇跡が起こるのか?
それだけで、一生のテーマになる。
そのような深い問いを与えてくれる映画は、近年には全くない。








神の視点とは

リチャード・バックの小説『かもめのジョナサン』は、絶賛する人もいれば、全く価値を認めない人もいる。
ところで、『かもめのジョナサン』と、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの『星の王子さま』から、似た視点を感じるには、まさに、この2作品の著者が共に飛行機乗りで、「高空の視点」を持っているからのように思える。

私は、『かもめのジョナサン』は、かなり前に一度読んだだけなのだが、最も印象深く憶えている言葉は、
「最も高く飛ぶかもめが、最も遠くを見通す」
だ。
全くその通りだと思ったのだ。
それは、物理的な高さを指すだけでなく、むしろ、精神的な高さのことだ。
では、精神的な高さとは何かというと、「神との近さ」だ。
1953年の傑作SF映画『宇宙戦争』で、火星人の飛行船に向かって歩きながら、コリンズ牧師は言う。
「我々より進んでいるなら、より神に近いはずだ」
精神的に進んでいるなら、その通りだ。
しかし、テクノロジーの進歩が、必ずしも精神的進歩を示すとは限らない。
コリンズ牧師は、火星人の飛行船のエネルギー光線を受け、消滅してしまう。
(私は、2005年の映画『宇宙戦争』は、悪くはないが、1953年の作品の方がはるかに優れていると思う)

では、高い、あるいは、より神に近い精神を持つ心は何を願うのだろうか?
他のかもめ達より高く飛んだジョナサンは、何を求めていたのだろう?
確かに、ジョナサンは、「かもめの可能性」を探求していたが、その結果、もたらされるものは、「皆が仲良くあること」だ。
なぜなら、皆が本当に高ければ、争う必要などないからだ。
この仲良くは、慣れ合いを指す「グループ内での仲良く」とはまるで違い、むしろ、正反対だ。
「グループ内での仲良し」は、グループ外の者や他グループを攻撃し、排除する。
グループという概念のない仲良し・・・それが「皆が仲良く」だ。
尚、より高い力を発揮するために協力する「チーム」はグループとは全く違うものである。

漫画・アニメ作品『まちカドまぞく』で、ポンコツ魔族(女子高生としてもポンコツ)のシャミ子(優子)に、超強力な魔法少女(女子高生としても優秀)な桃が逆らえないのは、シャミ子の願いが「皆が仲良くなりますように」だからだ。
小説・アニメ・漫画作品『灼眼のシャナ』で、ごく平凡な男子高校生、坂井佑二に、異世界の創造神「祭礼の蛇」がすっかり惚れ込んで一体化したのもまた、この2人(坂井佑二と祭礼の蛇)の願いが、紅世の輩、フレイムヘイズ、人間の区別なく、皆が仲良くなる世界を望んでいたからである(と思う)。
つまり、神の視点に立てば、その願いは「皆が(誰も例外なく)仲良く」である・・・と言って、そう間違えてはいないと思う。
「皆が仲良く」と思い、それを目指すなら、即ち、自分が神である。
そのような者に不可能などあり得ない。
今後の世界は、それを示す世の中になると思う。
「この人を愛す、でも、あの人は嫌い」は、責めはしないが、人の視点であり、その傾向が強いほど、無力と苦難を味わうしかないだろう。








奇跡は起きる

もちろん、新型コロナウイルスの流行は、人類にとって不幸な出来事である。
しかし、不自然なことをやめて正しくさせる力という面もあるのではないだろうか?

みんなが同じ時間に電車に乗って出勤しなければならないのだろうか?
なぜ、そんなことになっているのかというと、勤務時間が長過ぎるのだ。
勤務時間なんて、長くても5時間くらいに十分に出来るはずなのだ。
特に、日本の会社では無駄な時間が多過ぎる。
また、会社に限らないが、重労働をしながら僅かな報酬しか得られない人がいる一方、人々の幸いに貢献している訳でもないのに、とんでもない高給を得る者もいる。
こういった不公平を正さなければ、小さな生命は容赦なく人類を滅ぼす。

子供達を、年齢で分けて閉じ込め、群れる性質を作らせ、恐ろしい偏見を叩き込む教育なんてやってはいけないということではないだろうか?
そんなことを訴える声はあったはずなのに、いつまでも何も改善されないので、ついに小さな生命が人類自体の息の根を止めに来たように思われてしまうのである。

スポーツは素晴らしいという面は当然ある。
しかし、一部の者達が「うなる利益」を貪るために、スポーツ本来の楽しさを殺し、大衆を感情操作するようなことをいつまでも止めないツケが、とうとう回ってきたという考え方は出来ないだろうか?
途方も無い数の人間に同じ考えや感情を持たせる洗脳をして、広い場所に密集するまでに詰め込むことで大儲けをし、あまつさえその富を分配しない。
そんなのは本当のスポーツじゃないってことが嫌でも解ったのではないだろうか?

こういったことを改めない限り、人間の手に負えない大敵は去らないような気がする。
万物を構成する量子は、いかに奇妙に思えても、人間の意志に反応する。
より量子に近いサイズの小さな生命は、人の意識を反映して現われ、小さな目に見えないものが大きなものを動かし、滅ぼしていく。
1953年のアメリカ映画『宇宙戦争』で、最後にこんなアナウンスがあった。
「人類が万策尽きた時、奇跡が起こって人類は救われた。賢い神が作った小さな生命によって」
この映画の中で、確かに人類は無力だった。犠牲も沢山出してしまった。
しかし、人々は心を取り戻したのである。だから神は助けた。
小さな生命が味方になった。
しかし、心をなくした人類に、小さな生命は牙を剥いている。
警告は散々あったに関わらず。

まあ、これはあくまで、私のお話としておく。
私は神のメッセージを受け入れ、考え方を変えよう。
奇跡は起きる。
その代償は少々高くついたが。








プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


当ブログは第1期ライブドア奨学生ブログです。
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