有名なインフルエンサーが、「小学生の時は、足の速い子(男子)がモテる」と断言されていた動画を見たが、私は、走るのはそれほど速い方ではなかった。
しかし、学校の授業レベルなら、走り高跳びでは誰にも負けたことはなく、専門的にやっていたわけではないが、特に、中学1年までは圧倒的な強さだった(それ以降も負けた記憶はないが圧倒的ではなかったと思う)。
ところで、おかしなことに、中学1年の、その無敵だったある時まで、どんな飛び方をしていたのか、全く記憶にない。
実は、中学1年のその「ある時」に飛び方を忘れたのである。
バーの真正面から走って飛んでいたことは覚えているので、普通の飛び方ではない。
そして、その飛び方を忘れて以降は、普通のはさみ飛びやベビーロールで飛び、やはり、誰にも負けなかったが、それまでのような「どんな高さでも絶対に飛べる」という不思議な自信はなくなった。

だが、飛び方そのものは思い出さないが、どうやって飛んでいたかは分かったのである。
飛び方自体は、何でも良かったのだ。
吉行淳之介の『童謡』という短編小説がある。私は、超傑作と思っている作品だ。
走り高跳びが誰よりも得意だった少年が、病気の後、以前のように飛べなくなった。
友人達は、「また飛べるようになるさ」と言うが、少年は、「もう飛べないだろう」と思う。
彼は、飛び方を忘れたのだろう。
だが、私は、飛び方を思い出したのだ。
これは、ある意味、魔法だ。
魔法であるだけに、走り高跳びだけでなく、何にでも使える。

この魔法は、エミール・クーエの自己暗示、ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則、大作詞家の阿久悠の楽曲ヒットのための瞑想、古神道、『ローム太霊講話集』その他を調べるうちに、自然に思い出したものだ。
(『灼眼のシャナ』で、「祭礼の蛇」坂井佑二が似たことをやった時には、ちょっと笑った)
これを使って、私は、子供の時から、あり得ぬ奇跡を何度も起こした。
たとえば、「以前見た時代劇のあの回を録画したいので、今から放送せよ」という馬鹿馬鹿しいようなことまで、実際に起こせた。
やり方はこうだ。
まず、願いを決める。例えば、走り高跳びで「このバーを飛び越える」だ。
息を吸って止め、1秒でいいから無念無想になる。数分や数十秒は無理でも、息を止めれば1秒くらいは誰でも出来る・・・というか、自然に無念無想になると思う。
そして、心で、「なった」と言う。
別に、「なった」でなくても、「出来た」でも、「(痛みが)消えた」「(病気が)治った」「叶った」でも何でも良い。
「(可愛いあの子と)エッチした」みたいな煩悩塗れなことだと、1秒の無念無想も崩れてしまうので、せいぜい、「抱きしめた」「手を握った」程度にすること。
それで終わりである。
原理的には、これで、大抵のことは起こせる。
大きな願いなら、一度で叶わないなら、1日に何度か繰り返すと良い。