ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

大祓詞

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

カマキリが竜に勝ち、ハエが宇宙船を止めるには

啓示的な夢を見たが、そのまま書くのは非常に難しいので、何か喩えを探そう。

アニメ『デビルマン』のハイライトの1つは、デビルマンと魔将軍ザンニンの決闘だった。
力はザンニンの方がかなり上回ると思われたが、デビルマンは見事、打ち勝つ。
だが、ザンニンは滅びる刹那、こう言う。
「お前などがゼノン様に逆らったとて、所詮、竜と戦うカマキリのごとし」

竜 VS カマキリとは、力の差を極端に表現する面白い喩えだ。
E.E.スミスの歴史的SF『レンズマン』シリーズで、人類最強とも言えるキニスンが、宇宙最強の生命体アリシア人(竜の形をしている)のレッスンを受けた時、アリシア人のちょっとした力に逆らうよう命じられたキニスンの感想は、
「ハエが宇宙船を止めようとするようなもの」
だった。
「宇宙船 VS ハエ」も「竜 VS カマキリ」にひけを取らない。

つまり、私が見た夢もまた、自分の力は、宇宙船に対するハエ、竜に対するカマキリで、無に等しいものだということを、明晰に示してくれたのだ。
だが、デビルマンは、いつか、魔王ゼノンを倒すかもしれない。
アリシア人がキニスンに、出来るはずのないレッスンを授けたのも意味があるかもしれない。
つまり、自分の力では決して勝てなくても、何とかなる。
デビル(悪魔)マンでありながら、神の力を借りれば。
まあ、『デビルマン』の原作者、永井豪氏は、あまり神を良いものとして描きたがらないのだが。
だが、デビルマンが、神である妖獣ゴッドと戦った時(第2のスポットライト)、デビルマンが愛する牧村美樹は、ゴッドに対し、「神様ならここにいるわ」と言って、自分の胸を手で押さえた。
さすが、デビルマンが惚れた少女である。

では、どうすれば、神様の力を借りられるかというと、聖人達の言葉から帰結すれば「愛を持つこと」となろうが、アイルランドの詩人W.B.イェイツが言ったように、「人間に出来ることは、憎しみを捨てることだけ。愛することが出来るのは神だけ」かもしれない。
だが、聖人達は、「祈れば良い」と言う。
これは、我が国で言えば、例えば、大祓詞(おはらえのことば)という祝詞を上げることであるが、庶民にも出来る簡単なものでは、「ひふみ祝詞」や「いろは歌」として知られる「いろは祝詞」もある。
仏教のお経でも良く、その最も短いものが「般若心経」だが、その呪文の部分だけでも良いだろうし、さらに短い「南無阿弥陀仏」の念仏でも良い。もちろん、「南無妙法蓮華経」でも良い。
キリスト教には、いろいろなお祈りと共に、沢山の聖歌、讃美歌があり、それを歌えば良く、また、『アヴェ・マリア』も、音楽家達が天啓を得て作ったものに違いないので、聖歌に等しいだろう。
考えてみれば、これらのものを唱えている時というのは、通常の心の状態でなく、まさに愛になっていると言えると思う。
昨日も書いたが、私は「いろは祝詞」に縁があったようである。
歌ったり、唱えたりするのが難しい時は、頭の中で響かせておくと良い。













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無になれば不可能はない

我々が知っておくべき大切なことは、「無になれば不可能はなくなる」ということだ。
道元の「仏道とは自己を忘れること」と同じである。
そこで、どうやれば無になれるか(自己を忘れることが出来るか)という方法論、あるいは、「気持ち」が重要なのに、家庭でも学校でも教えないのだから恐れ入る。
まあ、親も教師も、そんなこと知らない・・・というより、考えたこともないのだから、当たり前と言えば当たり前なのであるが。
あるいは、闇の権力者達が、愚民はそんなことを知ることがないよう謀っている(計略にかけている)かであるが、そんな事実はどうでもよく、我々はそれを得れば良い。それが「奪われてた分は取り戻す」ことになる。

無になるには、いろんなノウハウがある。
バッハなどのバロック音楽の、単調な繰り返しは、無になる効果を狙ったものであるという、特殊な教育研究者の意見もある。
バロック音楽ではないが、初音ミクさんの『Last Night, Good Night』(作詞・作曲・編曲:kz)などはその効果がある。
WOWAKAさんが、何かのインタビューの際、わざわざ「『Last Night, Good Night』の時代」と表現していたのは、彼もよく分かっていたからではないかと思う。

伝説だが、柳生宗矩(たぎゅうむねのり)が、幼少時の徳川家光に、1本の棒の頭を木刀で毎日叩くよう指示したのも、それが無になる優れた方法で、武道では、似たことがよく教えられる。
キリスト級の力を持っていた江戸末期の神道家、黒住宗忠は、修行時代、起きている時間はずっと、大祓詞を唱えていたようだ。祝詞を繰り返し上げることには、非常に強い、無になる効果がある。般若心経はじめ、仏教のお経も同じである。
いかなる時も口元に念仏があった法然や、中国の道綽も、もちろん、常に無であった。
インドでいうナーマスマラナ、つまり、神の名を繰り返し称名することも同じである。
「アジマリカン」や、マントラ等の霊力ある言葉を繰り返すのも非常に良い。

ラマナ・マハルシの「私は誰か?」と問うことは、極めて科学的な方法であるが、ニサルガダッタ・マハラジによれば、マハルシが薦めていたもう1つの方法である「神への人生の明け渡し」の方が良いらしい。
これは、荘子のいう「一切をなりゆきにまかせ、いかなる作為も行わない」と似ている、あるいは、同じであると思う。

方法は無限にある、自分に向いたものをやれば良い。
しかし、やらねばならないだろう。
虫けらでいたくなければ。いや、虫けらは虫けらで、無であり、虫世界全体で無敵である。
だから、人類が滅んでも、虫は滅びないのである。
だが、我々は、一人一人が、本来、無敵である。

さて、本日、私は、初音ミクさんのライブ「マジカルミライ2019」のため、関西から千葉県に向かう。
何日も前から、精神状態がヤバいほど高揚しているが、幸い、今日はよく眠れた(眠らなくても大丈夫であるとは思うが)。
ライブに行った方、感想など、コメントで書いてくれると、それを読むのが嬉しいので、とても有り難いのであるが。









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それでも運が良くならない人に

毎日のように書いているが、常に肛門を締め、なるべく野外に出て空を見上げれば、それでかなり運がよくなるはずで、待つまでもなく、良いことばかりのはずだ。
もし、そうでないなら、こだわり(執着)が大きいのだろう。
自分では、仕事にこだわっているとか、修行にこだわっているといった、肯定的なつもりであっても、こだわり=執着だ。
仕事も修行も熱心にやるものではあっても、こだわっては(執着しては)ならない。
しかし、こんなこと、言葉で言っても駄目か・・・。
自分では認めたくなくても、強欲な人というのは、どうしてもこだわり(執着)があるのだ。
好きな女の子は、諦めれば自動的に得られるのに、そうならないというのは、諦めたふりしかできず、実際は執着しているのだ。
本来は、ここで宗教の出番なのだが、今の宗教は、こだわり(執着)をさらに強くする。
「布施をしなさい」
と言うのは正しいのだが、教団が言うような多額の寄付をすれば、ますますこだわりが強くなる。
そんなことは、少し考えれば分かりそうなものである。
真面目に働いて溜めた貯金を切り崩して寄付すれば、こだわりが強くなり、運は悪くなる。
不正な手段で得た金であれば、寄付以前に返金しなければならないが、働いて得た金は自分のものであり、正しく使うことが世の中のためになる。
寄付の額は、手取り収入の1~5パーセントが適切で、手取り30万円なら3千円から1万5千円である。
ただ、1万5千円で喪失感があれば、3千円で良い。

大富豪であれば、世の中に貢献したことは確かだが、同時にライバルを蹴落としたり、不幸な人も沢山作ったはずなのだ。
それで、ビル・ゲイツが言うように、「金持ちは財産の半分を寄付しろ」というのは正しいのだが、普通の人はそんな必要はない。

給料が入れば、その百分の1か、せいぜいその5倍までを寄付すれば良い。
30万円の手取りがあれば、3千円寄付しても負担は全く感じないはずだ。
普通は、これだけで執着は消えるだろう。

だが、ひょっとしたら業の深い者もいるかもしれない。
生きてきた中で、深い執着、化け物のような欲望が染み付いてしまった人だ。
それで、毎朝、決めた時刻に、決めた回数(あるいは時間)念仏を称えたり、やはり、決めた時刻、決めた時間、聖書を読むと執着が消える。
ただ、ここでも、念仏を1時間とか数千回とか、1時間聖書を読むといった、負担になることを必死に続けようとすると、かえって執着が強くなる。
ただし、気紛れに、ちゃらんぽらんにやるのも当然良くはなく、決まった時刻に、負担にならないだけ、1年365日、1日も欠かさずやることだ。
これはこだわりではなく、熱心にやるということだ。
こだわりと熱心の違いが分からないことが日本人を不幸にしてしまったのだ。
本当は、一番良いのは、毎朝、公園の掃除をするとか、近所の一人暮らしのご老人の必要な世話をしてあげるとか、孤独な人の話し相手になってあげるとかを、ごく自然にやることだ。
しかし、こだわりの強い人は、どうもそういうことが恥ずかしくてできないものらしいのだ。
それで、念仏を称えたり、聖書を読んだり、あるいは、大祓詞のような祝詞を上げたりするのだが、執着の強い人、自己にこだわりのある人、強欲な人は、ものすごい量をこなして自己満足してしまい、さらにこだわりを強めるのだ。
私もそんなタイプで、以前、大祓詞を、平日で1~2時間、休日は6~7時間も上げていたものだ。
ところが、高名な神道家が、そんなことをベストセラーの著書で強く勧めたりするのだから恐ろしい。
そんな本の著者の顔写真なんか見ると、いかにも執着が強そうな、強欲そうな、気味の悪い顔をしていないだろうか?
だが、私も、以前はそんな人達を立派な偉い人と思っていたのだ。

こだわりの強い人は、目が合うだけで分かる。
こだわりの強い人は、自分にしか関心がないので、自分は見られていると思っているからだ。
それで、「お前は俺を見ているな」と言いたそうな、異様な目でこっちを見る。
誰もあなたなどに関心はないのだ。
どれほどあなたが変な服装をしていようが、髪が乱れていようが、そんなこと、誰も気にしていないのだ。
「みんな俺のことを疫病神だと思っている」
と言う人がいたが、そこまで他人に関心を持たれるなら、あんた、大したもんだけど、本当は、誰もあんたのことなんて、ちーとも考えていないのだ。
アンタに関心があるのは、せいぜいがアンタの親か、邪まな関心を持った危ない人だけだ。

現代は、中学生や高校生の時から、自分にしか関心がない。
つまり、執着がひどい。
小さい頃から、お稽古事や塾に行かされていることが大きな原因だろう。
親の子供に対する異様な執着のために、子供は自分が注目されるべき存在だと勘違いしているのだ。
逆に、あまりに放置されているせいで、自分に関心を向けてくれることを渇望するあまりに、執着を持ってしまっている子供もいる。
これらのことは、大人になっても消えないので、現代の多くの大人は、自分に対するこだわりが異常に強く、他人に対してはひどく無関心だ。
だから、現代人には、行というものも必要だ。
1年365日、毎日必ず決まった時刻に決まった時間、念仏を称えたり(無論、「南無妙法蓮華経」でも良い)、聖書を読んだりすると良い。
他のことでも良い。
とにかく、熱心にやることだ。
無理のないように、こだわりにならない程度にね。
もちろん、いつも肛門を締めたり、空を見上げることはやって欲しいものだと思う。
いろいろ述べたが、必要なことは1日数分でできる。
それで、あなたも今日から幸運になるだろう。









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念仏、祝詞は時空を超える

中国浄土宗の僧であった道綽(どうしゃく。562-645)は1日7万遍、念仏を唱えたといわれている。
そして、我が国の浄土宗の開祖とされる法然は念仏を1日6万遍、後には、やはり7万遍唱えたと伝えられている。
しかも、彼らは暇ではなく、極めて多忙であったはずである。
昨日も書いたが、私は休みの日に、できるだけ多く念仏を称えてみたが、8千遍止まりだった。時間の問題というよりは、やはり、疲れも感じる。おかげで夜は安眠できたのであるが。
このように、自分でやってみると、6万遍とか7万遍はやはりとてつもない数だと実感できる。
しかも、それは毎日、1日も欠かさずであったはずである。

ところで私は、数年前、神道の代表的な祝詞(のりと)である大祓詞(おおはらえのことば)を3ヶ月ほどで5千本上げたことがあった。
休日は1日100本から120本上げた。
120本上げるのには、詠んでいる時間だけで7時間要した。1本上げるには3分はかかる。
ところが、江戸末期の神道家、黒住宗忠は、修行時代、3ヶ月の間、22日で17350本、30日で19740本、22日で9510本といった数字を残しているらしい。
最初の月では、1日平均789回。
仮に1日20時間ぶっ続けで上げたとしても、1本に91秒。
凄いというより、普通には絶対にあり得ない。
しかし、宗忠の他のことを考えると、嘘とは思えない。
宗忠は、実際にそれをやったのだと思う。

道綽も法然も黒住宗忠も、普通の人間ではないと思える。
超人と言うか、まさに、生き仏、神人であろう。
彼らは、物理的な時空を超えていたのである。
実際、宗忠が毎日お参りをした社(やしろ)と、それをした時間を計算したら、現在の最高のマラソンランナーでも不可能な時間で成し遂げているらしい。
もちろん、30歳もとおに超えていた宗忠が超人的マラソンマンであったのではなく、神的な力で時空を超えてしまっていたのだろう。
宗忠は比較的最近の人で、しっかりとした記録も残っているようだが、イエスにも匹敵、あるいは、それを凌駕するような逸話も数多いようだ。

大祓詞は、どこか、あまりに畏れ多いところがあって、こんなことは言えないのだが、念仏であれば、3つの意味があると私は思う。
1つは修行、1つは善行為、1つは趣味だ。
しかも、最良の修行、最高の善、そして、実に好ましい趣味だ。
数取器をカチカチ押しながら念仏を唱えるのは、実に楽しいものだと思った。
宗派は違えども、一休は法然を尊敬し、本物の菩薩だと言っていた。
その理由は、誰よりも・・・というより超人的なほどの学問を積み、驚異的な知恵があった法然が、文字も読めない衆生と同じになって、ひたすら念仏を称えたからだ。
実際、法然は、自分のような愚かな凡夫は念仏を称える以外、何もできないので、ただ念仏を称えたと言明している。
念仏に何の意味があるのかは、理屈では決して分からない。
趣味でいいから称えてみると、何かを直観で感じるかもしれない。
念仏は私の最高の趣味である。









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人が神の言葉を語ると

昨夜、優れた本は音読すべきであることを書いたが、『バガヴァッド・ギーター』を音読すると、予期せぬことがあった。
私が音読したのは、田中嫺玉さん翻訳の、『神の詩 バガヴァッド・ギーター』(タオラボブックス)である。
まず、大変なことをしたと思ったのだ。
なんと、私の口が、至高神クリシュナの言葉を語るのである!
あまりの畏れ多さに自我はひれ伏すのであるが、しかし同時に、我が内にクリシュナは宿るのであるから、それは極めて自然でもあるのだ。
そして、クリシュナを愛さずにはおられないのである。
インドの詩聖タゴールの詩を読むと、タゴール自身が神に恋する乙女のようになってしまっているのであるが、初めてその理由が分かるように思うのである。
ラマナ・マハルシの弟子プンジャジもクリシュナに恋焦がれ、1日4万回クリシュナの名を唱えたというが、無理もないことであると思う。
クリシュナは果てしない慈悲に溢れ、優しい。

そして、クリシュナとアルジュナ王子の会話の仕方が素晴らしい。
クリシュナが神であることを知らなかった時でさえ、アルジュナは、クリシュナを親友として、誰よりも親しみ愛すると共に、師としては、この上なく尊敬し、完全に信頼していたたのであるが、それが会話の中にはっきり現れている。
また、宇宙最高の神であるクリシュナが、決してアルジュナを、言葉のただ1つの欠片においても見下すことはなく、それどころか、いつも、最上の誉め言葉でもって会話を始めるのである。
クリシュナは、アルジュが、並ぶことなき勇者であること、王家の血に相応しい高貴さを備えていること、そして、さらには、人類最高の人間であると褒め称える。
お互いを敬う対話の崇高さ、清々しさ、美しさはどうであろう!
こんな素晴らしい書の音読はおろか、読書すら薦めたことのない我が国の教育機関は、仮に悪の巣窟でないとすれば、限りなく愚かなのであり、それは国家の責任である。
だが、憂う必要はない。
『バガヴァッド・ギーター』の優れた翻訳はいくつか出ており、容易に入手できるのであるから。
ならば、それができるようにした我が祖国や、また、積極的に『バガヴァッド・ギーター』を否定するのではない我が国の学校だって、捨てたものではない。
様々な幸運により、我々は神の言葉を話すチャンスを得るが、それは、内なる神に語っていただく光栄を得ることなのである。

老子の『老子』(道徳経)は、やはり、神のごとき仙人である老子が、最高の人物である尹喜(いんき)に語った五千語の教えである。
こちらは、対話の形ではなく、尹喜が老子から聞いたことを憶えておいて、その後で筆写したものであり、我々は尹喜のおかげでこれを読めるのである。
『老子』は難解と言われるが、高名な宗教家の五井昌久氏によれば、やはり、ただ音読すれば分かるのだそうである。

我が国にある神の言葉は、春日大社の宮司も務めた神道家である葉室頼昭氏(はむろよりあき。医学博士。故人)によれば、『大祓詞』(おおはらえのことば)であるらしい。
ただ、これはあくまで神の言葉であるのだから、人間的な意味があるのではなく、葉室氏は、これをひらがなで書き直して、ただ音読したのだそうで、人々にも、そうすることを勧めている。

クリシュナのように神の言葉を語ったものといえば、やはり新約聖書の福音書の中のイエスの言葉であろう。
また、イエスの先祖で、聖霊に満たされたダビデ王が書いたとされる聖書の詩篇も、神の言葉であると言えると思う。
特に・・・というのではないが、詩篇23篇と91篇は、常に唱えれば、神の強大な保護と恵みを得られると言われ、ジョセフ・マーフィーもたびたび著書の中でそのことを強調している。

ただ、いかなる神の言葉も、それによって個人的な利益や名誉を得ようとするなら、それは穢れた魔道であり、それがあまりに強いと、悲惨な結果となる恐れがある。
クリシュナ自身、それを論理的に指摘し、説いているのである。
尚、田中嫺玉さん翻訳の『バガヴァッド・ギーター』はAmazonで在庫切れのことがあっても、すぐに補充されると思う。









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