仏教の目的は「大安心」だと思う。
他の目標があったって、大安心がなければ何の意味もないからだ。
神道にしろ、キリスト教にしろ、同じであるはずなのだが、小難しいことを言う者が多く、そう思えない気もする。まあ、仏教にだって、そんなところはあるが。
宗教のようで宗教ではないもの・・・というなら、神道もそうなのだが、道教(主には老子と荘子の教え)も、やはり、目的は「大安心」であると思う。

人間というのは、「大安心」が欲しいのだ。
しかし、「いや、若い俺達が求めるにはパッション(情熱)だ」と言う者は多く、ビートルズの「人生は辛いが、激しく生きるべきだ」という歌が若者を熱狂させた。
だが、隠してはいたが、ビートルズの人達も疲れていった。
「20世紀最大の詩人」と言われたアイルランドの詩人W.B.イェイツは、死の直前でも安らぎを求めず、不良老人・・・つまり、激しくあることを望んだが、さあ、それが幸せだったろうか?
実を言うと、イェイツは、ある時期は円熟に向かっていたが、老いる恐ろしさに反発して、不良老人になったようにも思える。まあ、本人からすれば、そうは言って欲しくないだろうが(笑)。
イェイツは、「老人は皆、本当は、もう一度若くなって、あの娘を抱きたいと思っているのだ」と言うが、まあ、それはそうだろうが(笑)、それに飲まれると苦しいのだと思う。

そこで、やはり、仏教と道教の目的は大安心だとする。
大安心とは、老熟ではあっても、老衰ではない。
そして、何と、そのエネルギーは、若者が願うパッションの比ではない。
それで、どうやれば大安心を得られるのかと言うと、仏教では宗派により異なり、念仏を唱えろとか、坐禅をしろとかあるが、真言密教では、身口意の三密、即ち、手は印を結び、口は真言を唱え、意(心)は仏をイメージしなさいと言う。まあ、真言密教は専門家向きだから難しいせいもあり、一般の人の修行は、専門家ごとに言うことが違い、それが一番困る。だから、流行らないのだと思う。
また、ひたすら坐禅をしろというのも、結果的には難しかった。
とはいえ、ひたすら念仏を唱えろというのは、テレビもネットもない時代では、それで大安心に達した人達もいたが、それでも、ごくわずかだったのである。

私は、『荘子』の教えが最後の希望と思うことがある。
理由は、単純に「分かり易い」からで、また、荘子は相当に頭が良いらしく、2400年も前の人なのに、思考パターンが現代でも全然古くない。
ただし、荘子の時代は、社会が不穏で、圧制の時代でもあったから、「俺の言う通りすれば、引き寄せが出来るよ」みたいなことは言わなかった。当時の庶民が希望を持つことは難しかったからだ。
とはいえ、明らかに、荘子は、「人間は引き寄せが出来る」と知っていたのだろう。それは、書いてあることから想像出来る。
よって、荘子の教えを生かせば、引き寄せは楽々である。
ところが、荘子の教えとは、「差別するな」だけである。
本当は、差別どころか、区別すら駄目なのだが、それは上級編である。
差別とは、「優と劣」「好きと嫌い」「是と非」「大と小」「美と醜」であるが・・・それなら、我々は、差別しまくりで、「差別するのが私」と言うようなものだ(笑)。
だって、「あれは素晴らしくて、あれは駄目」「あれは好きで、あれは嫌い」「あれは大きいが、あれは小さい」「ミクは可愛いが、あんたはブス」とか言ってばかりだ(笑)。
つまりね、これで、我々が大安心と真逆に突っ走っていることが明白なのである。
だからね、せめて、「優れている」「好き」「正しい」「美しい」を、考えなくて済むなら考えないようにすれば、大安心に近付き、引き寄せもバリバリになり、若くもなるのである。
分かるようになるために、『荘子』『猫の妙術』をお勧めする。
『猫の妙術』は、『荘子』のエッセンスをニャンコに語らせたものだ(笑)。
尚、『荘子』は、小難しい解説書を読むと、大安心から遠ざかるのでご注意を。