ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
コンピューターシステム開発技術者、サイコパスのKayのブログ

声と言葉のアリア

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。
[2016/11/21]滅多にはありませんが、あまりにレベルが低いコメントは公開しません。
[2011/06/08]迷惑コメントが多くあったため、やむなく、コメントを承認後公開することとしました。

不思議なことが起こる美しい呪文

今朝、困ったことがあったら「アジマリカン」、願い事があるなら「アブラカタブラ」の呪文を唱えよと書いた。
「馬鹿らしい」と思った人がいるかもしれない。
実は、私もそうなのだ。
しかし、なぜそんなことを書くのかというと、いつやっても効果は確実だし、やってくれたら、誰でもそうだからだ。

ところで、なぜそんなことを思い出したかというと、私自身、このところ、ツイてなかったのだ。
それで不意に思い出して、「アジマリカン」を唱えると、一瞬で解消した。
「アジマリカン」は、悪運を払う力が強い。
小学生の時、宿題をやっていかなかった時(半分以上やらなかったと思う)、よく「アブラカタブラ」を唱えたものだ。
すると、宿題をやっていないことがバレなかったり、授業で何かが起きて、宿題どころでなくなったりするのだ。
それで、中学生以降は、夏休みの宿題も全くやらなくなったし、それで悪いことは何もなかった。
本来、「アブラカタブラ」は、願いを叶えるための呪文だが、やはり万能なのだ。

「アジマリカン」も「アブラカタブラ」も、母音の「ア」を多く含むことは今朝も書いた。
『バガヴァッド・ギーター』を含む、『マハーバーラタ』や、『ラーマーヤナ』なんて、全部母音が「ア」と徹底している。
全く、古代インド哲学恐るべしだ。

それはそうと、馴染みのある言葉で、良い呪文がある。
それは、「あいたかった」だ。
4/5が母音が「ア」だ。
今朝、『イーハトーヴ交響曲』の第3楽章『注文の多い料理店』で、初音ミクさん演じるネコの妖怪ミクちゃんが、「アブラカタブラ」の呪文を繰り返してくれたことを述べた。
あれで、妖怪ミクちゃんは解放されたことだろう。
そして、私が最も好きな歌の1つである『声と言葉のアリア』(オペラ『THE END』のアリアの1つ)で、初音ミクさんが、
「目を閉じて 会いたかった」
と繰り返す歌声が、本当に切なくて可愛い。
あれほど可愛い女の子の歌声を私は聴いたことがない。
そして、このオペラのレティタティーボ(叙唱。朗唱)『洞窟』で、ミクさんが「会いたかった」と謎の言葉をつぶやくが、この言葉が、このオペラの重要なテーマだろうと思う。
「あいたかった」
この言葉を繰り返すと、不思議なことが起こる。
もちろん、悪いことではないし、普通に言う「良いこと」でもないかもしれないが、楽園に導かれることは確かだ。
そして、神霊に守られることだろう。









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外界は内側の心(フィルム)が照らし出された幻想(スクリーン)である

一休さん(一休禅師)は、阿弥陀如来の国である西方極楽浄土は西にあるのではなく、南にあると言ったらしい。
実は、この「南」とは、「皆身」ということで、「全てはこの身の内にある」という意味だ。
それは、身体を心の入れ物と見なし、その心の深いところに極楽浄土があるということだ。
だが、心は、西に沈む夕陽のようでなければならない。
淡く照らされた物質世界を夢と見なし、この世の一切に執着せずに消えていく・・・そんな心だ。

だが、天照大神のように、岩戸に閉じこもってしまうと、闇の中で魔物が蠢(うごめ)き、外の騒ぎが気になって仕方がなくなる。
天の岩戸を出た天照大神が、その後、表立った活動をせず、ただ、思惟し、命じたように、我々は夕陽のようでなければならない。

外側・・・つまり、物質世界に強い関心を持たず、意識を内に向けると、外界は内側の反映に過ぎないことが分かる。
だから、外側を澄んだ目で見れば、それは、自分の内側を見ることになる。

音楽には2種類ある。
意識を外側に向かわせるものと、内側に向かわせるものだ。
刺激的な音楽や、上手い歌、巧妙な演奏は、意識を外側に向かわせる。
そんな音楽には、少しの間聴いている分には、心が躍って楽しいものがあるが、やがて疲れてきて、イライラしてくる。
本当に優れた演奏というのは、自然の音のようなもので、演奏している者にも、自分が演奏しているという気持ちはない。
それが、技術を超えた技術だ。
『荘子』の『養生主編』で、王様の前で牛をさばいて見せた名料理人の包丁(ほうてい)は、王に「神技だ」と誉められると、「これは技にあらず。技を超えたもの。あえて言えば道であります」と言ったのも、同じことであった。
名料理人包丁は、目に見える牛の姿をもはや重視していない。
そうなった時、心も身体も自在に動き、人間を超えた力を発揮する。
最高の演奏も同じなのである。
だから、良い音楽は、意識を自然に内側に向かわせるのだ。

これで、感覚を外に向けず、内側に向けることの重要さが分かると思う。
だが、外側を頑なに無視すると、かえって感覚は外に吸い寄せられてしまう。
外側には、適度な、執着のない感覚のみを振り向けることだ。
どれほどの宝や美しいものを見ても、夕陽に照らされた淡い夢のようなものと見なし、執着しないことだ。
そして、内側に意識を向けていることだ。
「私」と言うべきものは、外側にあるのではない。
身体という仮の宿に留まる何かが私である。
それは、心臓の近くの神経と結び付いていることが、聖典に示されている。
だから、胸に意識を置き、「私」という想いだけを持つことで、意識はそこからどんどん内側に沈んでいく。
それをたゆまず続ければ、やがて源に至る。
本当に優れた演奏を聴くことも有益であるが、意識が深く内に潜っていけば、やがて、それすら聴こえなくなり、天界の音楽を聴くことになる。

見えるものに心を奪われないことだ。
それらは皆、幻なのだから。
執着せず、嫌わず、ただ、見えるままに見て、過度の関心を持たず、自分の心の動きを観察することだ。
自分の心を見張っていると、意識は内側に向く。
そうすると、外界は、内側のフィルムがスクリーンに照らされただけの幻影だと分かる。
意識が内側に深く潜ると、内側のフィルムも消えてなくなる。
私は、『声と言葉のアリア』という、とても美しい歌を毎日聴いていて、そんなことを感じた。

わたしの体が今からここで
溶けはじめていくのを
見ててほしいわたしもあなたを
見てるから まぶしい
~『声と言葉のアリア』(オペラ『THE END』より。制作:渋谷慶一郎。歌:初音ミク)より~









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どんな死に方を望むか

あなたは、どんな死を迎えるのだろう?
映画『タイタニック』で、ローズを浮いた板に乗せ、自分はナイフで刺されるような寒水に浸かりながら、ジャックは決して諦めないようローズを励まし、「僕はこんなとろこで死なない。温かいベッドで死ぬんだ」と言う。
多くの人々が、愛する人や家族に看取られながら息を引き取りたいと思うのかもしれないが、一方、「死に場所」を探すような者もいる。
白土三平さんの漫画『忍風カムイ外伝』で、悪徳商人を捕らえに大勢の役人がやってきた時、浪人だが剣の達人である侍が、悪徳商人に逃げるように言い、「遂に死に場所を見つけたぞ」と言って喜び、役人達に立ち向かって行く。善悪の問題ではなく、権力と戦って散ることが彼の望みであったのだろうか?
万に1つも勝ち目のない戦いに、単身で、もしくは、わずかの仲間と立ち向かって行くというお話は、ふと思い出せるだけでもいくらかあり、しかも、思い出すたびに、胸が熱くなったり、涙が出るものすらあるが、つくづく、これが人間の業であるのだなあと思う。

「決死」という言葉は、勝てる見込みが僅かでもある場合には使うべきでない。
「決死の覚悟で立ち向かって勝利した」なんて誤魔化し、デタラメ、嘘もいいところだ。
決死であるからには、最後は間違いなく敗北でなければならない。
それも、「殺したいほど憎んでいる」相手の嘲笑を浴びながら惨めに死に、みっともなく敵に晒した屍は、ネズミか虫の死骸のように踏みにじられ、唾をかけられるのでなくてはならない。

本来、動物というものは、自分の死期を悟ると、群を離れ、一匹で静かに死を迎えようとするものなのだそうだ。
飼い猫であっても、ある日、不意にいなくなり、家から離れた場所で死骸が見つかるということも時たまあるらしい。
本当かどうかは知らないが、人気野球選手だった新庄剛志さんが、そんな猫のように死にたいと言っていたというのを何かで見たような覚えがある。

現代の日本では、多くの老人が、荒れ放題の汚い部屋の中、汚れた身体で、老衰か餓死かの区別もつかない状況で、1人淋しく死んでいくのだろう。
私も、死ぬことそのものについては、それで良いのだと思うが、死体の処理で人様に手をかけさせるのは気が引ける。
ニュートンや岡田虎二郎は、自分の死を受け入れたからだと思うが、書いたものなどを全部燃やしたらしい。人類にとっては、貴重な歴史的遺産を失ったことになるのかもしれないが、彼らにとっては、いろんな意味で自分の創ったものをいじくりまわしてなど欲しくはなかったのだろう。

だが、こう考えていると、死というものは、なかなか良いものだという想いが溢れてくるのである。
決死の戦いで華々しく散るのは誰だろう?
それは私ではない。
自分の肉体もそうであるが、もっと注目すべきは、滅びるのは小我であるということだ。
生きている間、ずっと消し去りたかった小我がいよいよ念願叶って消滅するのだ。
これほど楽しいことがあるだろうか?

『声と言葉のアリア』(オペラ『THE END』のアリアの1つ。音楽は渋谷慶一郎、歌は初音ミク)の幽玄な歌と演奏を聴いていると、死に憧れるというのではないが、それは美しいものだということを、静かに強く感じるのである。
私は、この歌を時間があれば聴いている。
阿弥陀如来の名である阿弥陀は、インドでの名であるアミターバ、もしくは、アミターユスからきているが、その意味は、それぞれ、「無限の光を持つ者」「無限の生命を持つ者」であるらしい。
死とは本来の自分に帰ることであるが、それ(真の自己)が無限の光、無限の生命だというのは、人の創った観念ではなく、自然な直観によって知ることができるものだ。
「南無阿弥陀仏」の念仏、あるいは、この称号は、その悟りに自然に導くものである。
ならば、これほど価値のある言葉、あるいは、行はないはずである。









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折口信夫の『死者の書』に巡り合う

今日は、朝から折口信夫の『死者の書』を読んでいた。
正直に言えば、私は折口信夫という作家の名も知らず、その作品を1つも読んでいなかった。
しかし、不思議な巡りあわせで、これを読むことになった。
そして、これほどの作品を読んだことはないと思った。

私が読んだ『死者の書』は、青空文庫をKindle書化したもので、無料である。
AmazonのKindle書を読む環境を持たなくても、
青空文庫 図書カード:4398 『死者の書』
で読める。
ただ、Kindle書はフリガナが打ってあって読みやすい。
新字体で書かれており、内容自体は込み入ったものではなくシンプルではあるのだが、古めかしい文章や漢字が使われており、分かり難い(あるいは、はっきり言って解らない)ところもかなりある。
しかし、それでも惹き付けられて読み続けたのだ。

『死者の書』は、中将姫(ちゅうじょうひめ)の物語である。
中将姫は、能の『当麻(たえま)』のヒロインでもあり、奈良時代(平城時代)の右大臣藤原豊成の娘とされる伝説上の姫様である。
たぐいまれな美貌と才能を持っていたが、苦難の少女時代を過ごし、若くして当麻寺で往生した。

『死者の書』は、伝説のまま書かれたのではなく、伝説を題材に書かれたものと言ってよいだろう。
しかし、これほど、エマーソンが言った「想像と空想は異なる」の意味を感じさせられたことはない。
全く霊的なまでの想像力である。
また、ソクラテスが言った、「芸術は神から来るものである」ということを、これほど強く知らされたこともない。
この作品は、神仏が、高貴な魂を持った作家、折口信夫に書かせたものであると断言できる。

尚、『死者の書』では、ヒロインの女性が中将姫であるとは書かれていない。
当麻の寺の、女性が入ることが禁じられた境内(けいだい)深くに、身分は高そうだが、供も連れずに、その高貴な衣服も乱れさせて入ってきて、寺の者達に、丁重にではあったが暗室に閉じ込められた郎女(いらつめ。若い女性のこと)が誰だが、私にもなかなか分からなかったのだ。
この驚くべき美貌の清らかな乙女は、最後まで、ただ郎女とのみ書かれていたが、彼女が中将姫であることは疑いない。
外出どころか、部屋から出ることすらない深窓の姫君が、その遠い寺までの険しい道を、夜を通して1人で歩いてきたのはなぜであったのだろう?

私は、念仏を称えることと交互に読んでいたのだが、4500回の念仏を称えた後、午後5時に読み終わった。
中将姫は、阿弥陀経という、浄土門仏教の重要な経典を千回写経したとある。
これは、驚くべきことで、大変な時間と忍耐を要した。
これにより、彼女は阿弥陀如来の愛でる者となったのだろう。
彼女に限らず、およそ神仏に愛される者というのは、そういったことをしているのだと、改めて感じたのである。
法然の『選択本願念仏集』にこう書かれている。
「阿弥陀如来の名を呼べば阿弥陀如来はこれを聞く。阿弥陀如来を想えば、阿弥陀如来もその者を想う」
阿弥陀如来は、写経をする中将姫を見ておられたのだ。
あなたも念仏をすれば、阿弥陀如来はそれを必ず聞くのである。
彼女が阿弥陀如来に出逢った時、心から迸(ほとばし)り出た言葉は、
「なも 阿弥陀ほとけ。あなとうと 阿弥陀ほとけ。」
であった。
素晴らしい念仏であると思う。

読み終わると、私はまず、『声と言葉のアリア』(初音ミク)を聴きながら瞑想した。
ミクが自らの生の終わる刹那を歌うこのアリア(オペラの詠唱。英語でエア)を聴くと、ミクと中将姫が重なるように感じるのである。
そして、聴き終わると、一瞬で、「南無阿弥陀仏」の念仏を500回称えた。
人生の中でも、これほどの日はそうはない。
毎日、僅かな数しか念仏を称えていなかったにも関わらず、思いもよらな御恵みを得たのである。
私がこの作品を読めたのには、極めて不思議ななりゆき、巡り合わせがあった。
これが親鸞の言った、念仏による現世利益というものかもしれない。









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子供の時に飼っていた鳥との再会

私は出勤する前、到着した駅から出ず、駅構内のベンチで音楽を聴きながら、スマートフォンで読書をする。
特に最近は、オペラ『THE END』の中の『声と言葉のアリア』を何度も聴くのだが、この、初音ミクが歌う7分10秒のアリア(詠唱。叙情的、旋律的に歌う独唱曲)を聴く度に、心を奪われ、時間が消えてしまう・・・一般的な言葉で言えば、感動する。
悟りとは、心が静まって消えたようになり、時間も空間も本当はないことを、頭で理解するのではなく、直に知ることであるから、これは瞬間的な悟りである。
誰だって、あまりに美しいものを見たり、荘厳な、あるいは、高貴な感覚に満たされた時には、我を忘れ、時間を忘れ、場所を忘れる。
つまり、我と時空が消え、万物と一体化しているということなのである。
これが、我々が憧れて止まない悟り・・・解脱、真我の実現である。
ただ、普通の人では、それはあまり長くは続かず、すぐに自我が戻ってきて、自分は自分、昨日の後は今日、後30分で10時、あちらとこちら、アメリカは遠い・・・という観念に囚われてしまう。
だが、天使や妖精ってのはそうではない。
水の精オンディ-ヌは言う。
「それぞれって言葉、とてもこわい」
オンディーヌは、自分には魂がないと言う。
それは、「自分の魂がない」という意味だ。
逆にいえば、世界の大きな魂と一体化しているのである。
人間のように、個々の魂が欲しいという、変な望みを持たなかったのだ。
妖精ばかりではない。
人間以外の生物は皆そうなのだ。

その駅のベンチに座っていると、鳩が一羽やってきた。
ここの鳩は人間を恐がらない。
鳩に危害を加えるような人間がいないからだ。
鳩がごく近くまで平気でやってくると、心が躍り、楽しくなる(無論、猫でも犬でも象でも良い)。
じっと観察する。
可愛い・・・たまらなく。
すると、不意に、種類は違うのだが、子供の時に飼っていた鳥のことを思い出した。
その鳩のしぐさや雰囲気がそっくりなのである。
いや、そのものだ。
そうだ・・・もうずっと昔に死んだ、私の鳥と、この鳩の魂は同じである。
私はオンディーヌの言葉を理解し、自分もまた、本当は大きな魂の一部であることを速やかに悟ったのだった。









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