ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

堀についたドア

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

ある異次元世界に入る

イギリスの偉大なSF作家、ハーバード・ジョージ・ウェルズの『堀についたドア』という短編がある。
とてもミステリアスなお話だ。
ある、子供の時から優等生で、学業で成功した後、政治の世界に入り、有力な政治家になった男が、ある日不意に、子供の時からの友人に、とても奇妙な話をする。
それが「堀についたドア」の話だ。
その男は、そのドアを生涯で数度、見たことがあり、最初に見た、まだ小さな子供だった時、一度だけ、ドアを開けて中に入っている。
そのドアは、不意に現れるのだ。
そのドアの中は、神秘的で、静かな情景が広がり、懐かしい柔らかな風が吹く、とても美しい世界だ。
沢山の美しい花が咲き、丁寧に作られた建物は調和と安らぎを感じさせ、道は綺麗で広々とし、木々は不思議なほど心地良く感じるよう配置されている。
そこには、子供達がいたが、彼らは親しみ易く、すぐに仲良くなって遊べたし、美しく優しいお姉さんが気遣って世話を焼いてくれる。
動物は人間を恐れず、懐いているし、猛獣もいたが、穏やかで恐れを感じさせず、平気で近寄ることも触ることも出来た。
・・・ああ、断っておくが、この光景は、実は『堀についてドア』に書かれていたのと近いかもしれないが、実は私が見たものなので、この小説の中とは少し違うかもしれない。
私も、小説での描写は細かく覚えていない。
小説では、初めてこの世界に入ったその子は、やがて、後ろ髪を引かれる思いだったが、やむなく、元の世界に戻ったのだった。
この子は、成長する中で、何度か、この「堀についたドア」を見たが、受験に行く途中だったりなど、いつも世間的な用事があり、もう一度、中に入ることはなかった。
そして、歳を取り、人生や世間に疲れて来ると、子供の時に入った、「堀についたドア」の中の世界が、強い憧憬になってきたのだろう。
何としても、もう一度入りたいが、「堀についたドア」は、なかなか現れてくれない。
そのドアや、その中のことが、子供の時に見た幻であったかというと、そうでないことは間違いないと確信が持てるのだった。

このような世界を、次元界、桃源郷、シャングリラ、エリュシオン、・・・等々と呼ぶことがある。
それらが同じものかというと、実際は、少しずつ異なると思う。
例えば、次元界は、この世と桃源郷の間にあるといった感じだ。
「堀についたドア」の中の世界は、この次元界なのかもしれない。
次元界には、幼い時は、誰でも何度か入っているし、大きくなっても想像力のある子供であれば、空想の力で入っていける。
大人になっても、絵を利用して入る方法というものもあり、中国とかペルシャあたりでは、そんな世界に入るために描かれたと思えるような絵も多い。

だが、とりあえず分かっていることは、そこは、頭を使い過ぎる者には行けない世界だ。
ウェルズのこの小説の男も優等生だったから、いつも思考することを強要されていたので、なかなか「堀についたドア」が現れなかった。
半分眠っているような時に、現れることがあったが、すぐに現実に引き戻されて、その中に入ることが出来なかった。
だが、頭の中が沈黙すれば、大人だって、そんな世界に入って行くことが出来る。
美しい仙女と遊んだり、術を心得た仙人と酒を飲み、術を教わることも出来る。
稀な例では、その世界の物を持ち帰った人もいるが、それを意図的にやる意味はないし、おそらく、やるべきでない。それに、ほとんどの場合、そんなものを持ち帰っても消滅してしまうと思う。

その世界に長くいれば、17歳くらいになってしまうように、そこにいれば生命力が蘇るし、そして、術というか、不思議な力の使い方が上手くなる。
記憶にはないが、眠っている間に、そんな世界に行き、術を身に着け、この世界で活用している者もいる。
美しい絵画に親しんでおくことは、その世界に入るための準備になる。
だが、眠っていても思考は続いている場合が、特に現代人には多い。
だから、普段から、意図的に頭の中を沈黙に保つようにすれば、その世界に参入し、良い成果を得られると思う。








いつでも楽園の乙女に逢える

尊い教えを残した聖者は沢山いるが、彼らの教えはどれも難しい。
この難しいというのは、難解という意味ではなく、彼らの言った言葉の微妙なニュアンスを捉えることが、彼らが既にいない今となっては難しいのだ。
ラマナ・マハルシは、神になるには、「私は誰か?」と問えと言ったが、あるところで彼は、「私は誰か?」を呪文のように繰り返してはいけないと言う。
また、「私は誰か?」を問うにはまだ早過ぎる人もいるという。
そうなると、我々は途方に暮れてしまう。
さらに、ラメッシ・バルセカールによれば、マハルシの使ったタミル語のことを考えれば、マハルシの「私は誰か?」は、「自分とは何か?」という意味に近いと言う。
いや、その「『自分とは何か?』に近い」という言葉自体が、本当はどういう意味かといった問題もある。
つまり、「私は誰か?」という意味の解明自体が、博士論文並の研究が必要なのかもしれないと思うと、気楽に「さあ、やっていよう」というものでもないように思える。

だが、私は、ニサルガダッタ・マハラジの「常に、『私は在る』という感覚にしがみつきなさい」という教えに、直感的に心を惹かれた。
ここでも確かに、「在る」のは、身体なのか心なのかという定義すら示されていなかった。
しかし、身体でないのは確かであろう。
そして、心でもない。
それが心であるなら、欲望や、恨みという心の働きをもって、「私は在る」になってしまう。
だから、「在る」のは、心の表面的な現れである心の働きではなく、心の中核のようなもの・・・魂や霊のようなものであると思う。
これに関しては、昔、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と言ってくれたことが大いに参考になる。
ところで、デカルトのこの言葉に対し、「『我歩く、ゆえに我あり』でいいじゃないか?」と言った学者だっていたのだ。
しかし、そうじゃなく、デカルトが問い詰めたのは、「確かに存在する」という、「決して疑うことのできない、果てしなく明晰なもの」なのだ。
「我歩く」と言ったって、本当に歩いているかどうかは分からないのだ。
夢の中で歩いているのかもしれない。
他にも、何らかの意味で、自分が歩いていると誤解しているのかもしれない。
自分が「歩いている」ことを疑うことなど、いくらでもできる。
その疑いは、どうしたって、絶対に晴らせない。
しかし、「疑っている(思っている)我」だけは、疑いようもなく存在する。だから、「我思う、ゆえに我あり」なのだ。
デカルトは、彼なりに、自分の存在の中核を突き止めた。
それなのに、傲慢にも気楽に、「我思う、ゆえに我あり」を否定することを認める訳にはいかない。

疑わせる何か、思いを生み出す何かは、確かに存在する。
それが「我」なのだと思う。
その感覚にしがみつくのは難しくはない。
その感覚に注意すれば、自分は果てなく広がっていく。
岡本太郎の「爆発」のようなものかもしれない。

ところで、ニサルガダッタ・マハラジは、「在るという感覚」は、朝、眠りから覚めて、思考がやってくるまでの間の感覚だと言う。
これに関し、『アラビアのロレンス』で知られる、トーマス・エドワード・ロレンスが、『知恵の七柱』という書で、自分が神の国に参入する体験を描いているのが、まさに、この「在る」感覚だ。
ロレンスが、そのような神秘の世界に行くのは、砂漠の朝だった。
どういう訳か、眠りからは確かに目覚めているのに、思考が頭に戻ってこない朝があるものだが、そんな時、見慣れた砂漠が神秘の世界、神の王国に変わっているのだ。
いや、本当は砂漠だけじゃない。
いやいや、砂漠だけじゃないどころではない。
そんな時は、神の王国、楽園でないものなど何もない。
そこいらに楽園の乙女が微笑んでいる。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』で、あの超エリート政治家が、幼い時に一度だけ訪れ、再びそこに行くことを憧れ続けた、その「堀についたドア」の向こうの世界は、何のことはない、どこにでもあるのだ。
あの時に優しい眼差しを向けてくれた楽園の乙女もどこにだっているのだ。
「私は在る」という感覚さえ大切にすれば、神の王国は、楽園の乙女はいつでもあなたのものなのだ。
尚、『知恵の七柱』は膨大な書物なのだが、上に述べた部分は、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』に引用されているのを見ても良いと思う。









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気晴らしは必要か

人間に気晴らしが必要かというと、私は必要ないと思っている。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』というお話は、あるエリート政治家が、幼い頃に偶然に迷い込んだ不思議な異世界に一生憧れ続けるが、再び訪れることが叶わないまま死んでしまうというお話だ。彼は、世間的には羨望される身分でありながら、いつも惨めで、日に日に活力を失い、安らぎを求めていたのだろう。
『堀についたドア』の向こうにある世界は、全てが調和した美と静寂の理想世界だ。
一度、そこに入れば、世間の気晴らしなど、何の意味もないことが分かるだろう。
そして、人間は、そんな世界に入ることが出来る。
そして、どうすればそこに入れるかではなく、どうして入れないのかと考えた方が良いのだ。
『堀についたドア』の、その、子供の頃からずっと優秀だった男は、なぜ、幼い頃に入れたその世界に、二度と入れなかったのだろう?
実は、彼にはチャンスが何度もあったのに、自ら、それを潰してしまったのだ。
我々も同様である。
だが、その入り口を自分で逃した後で、それを忘れてしまうのだ。自分には、そんなチャンスはなかったと思いたがるのだ。
それよりも、もっと大事なものがあると思い込んでいるからだ。
その世界に出入りする者は、本を読んでも、音楽を聴いても、身体を鍛えても、修行をしても、無目的だ。
それが、その世界に近付く者が持つべき性質なのである。









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加速すれば天使にも逢える

昨日から、ライトノベル(表紙画や挿絵が漫画的な小説という程度の意味)の『アクセル・ワールド』を読み始めたのだが、思わず、自分が書いたのではないかと思った。それほど、私がよく考えたり、やっていることが書かれている。
もっとも、ラルフ・ウォルドー・エマーソン(アメリカの偉大な哲学者、詩人)が、本を読む時は自分が著者であることを知れと言い、シェイクスピアを読んでいる子供をよく観察すると、シェイクスピアそのものなのだと述べている通り、特に私に限ったことでもないだろう。
この作品の主なテーマとして、加速世界というものがあり、通常の世界の数千倍の速さで進行する世界なのだが、我々にとっては、浦島太郎のお話で馴染みのある概念でもあるだろう。
だが、いきなりおかしな・・・つまり、通常の概念に合わないことを言うなら、時間というものは本当は無いのであり、ただの観念なのであるから、浦島太郎にしろ、アクセル・ワールドにしろ、別段、荒唐無稽なお話でもない。
時間の観念に関しては、アインシュタインが相対性原理を発見してから格段の変化があった。しかし、この極大な世界を扱う理論を極微な世界の理論である量子力学と結び付けることに四苦八苦している状況が長く続いている。
英国の数学者・物理学者で、あのスティーブン・ホーキングと決別してしまったロジャー・ペンローズが、その2つを結び合わせる鍵は脳にあると思うと述べていたが、古代の人達はとおにそれを知っていたのだと思う。
我々も、それが分かれば、アクセル・ワールドと馴染みになるだろう。
ただ、その世界を何と呼ぶかはこだわらないことだ。
一般的には、「異世界」とでもいう世界は、そこかしこにあり、象徴的な言い方をするなら、その入り口もまた、そこかしこにある。
中国の仙道から漏れ出た教えには、そんな異世界に入り込む方法がいくらかある。
異世界のことを言った言葉としては、桃源郷、ザナドゥ、シャンバラなどが昔からよく知られ、仙境、次元界というものもある。
それらは、想像といえば想像であるし、現実であるといえば現実である。
ただ、エマーソンも強調したように、想像と空想は異なるものだ。
宇宙を創造するものは意識なのであり、現実を創るのは想像なのだ。
H.G.ウェルズの『堀についたドア』という短編小説には、実に美しい、誰にとっても永遠の憧れとなる異世界のことが書かれている。ウェルズが、どうやってあの世界のことを知ったのかは分からないが、あれが現実でなくて何だろう?あれが純粋な想像でなくて何だろう?

速読とか速聴といったものを御存知の人は多いと思う。
ただし、あまりうまくいった人はいないと思う(いったと思い込んでいる人ならいるかもしれない)。
失敗も経験のうちなので、やってみることは悪いことではないかもしれないが、さあどうだろう?
うまくいったところで、せいぜいが、2~4倍程度の加速だ。時速20キロに制限された自動車に乗って何が嬉しいのかというようなものである。
私は、政木和三さんに、少なくとも数万倍の加速についてよく教わったが、それでもまだまだ初歩的なのだ。
ただ、政木さんは、色々な理由から、このことはあまり話さなかったように思う。
1つ教えておくと、加速のポイントは速度を下げることだ。
この言い方が、昔から普通の人を混乱させてきたが、分かり易く説明しよう。
上で速読や速聴のことを書いたが、「速く読もう」「この速い音声を理解しよう」と思うほど、それが出来ないのだ。
つまり、心が速度を上げようとするほど、我々の実際の速度は低下するのだ。
これについて、コリン・ウィルソンの『右脳の冒険』では、これ以上はない愚かな誤解された表現がされていた。「右脳は遅いので、左脳が速度を落とさないと右脳が協力できない」といったものだ。これほど馬鹿なことはない。右脳は、左脳の数万倍の速さがあるのであり、左脳が邪魔をしさえしなければいいのだ。ただ、ウィルソンは、「それでは左脳の価値は?」と思ったのかもしれない。それは、「心の価値は?」「自我の価値は?」と言うのと同じだ。確かに難しい問題だ。
だが、それについては、こう考えるべきなのだ。「知らん。しかし、あるものは仕方がない」と。
ギリシャのデルフォイにあるアポロン神殿にこう書かれている。「身の程を知れ」。神がそう決めたのだから、それで良いのである。その意図を知ろうなどとは、身の程をわきまえねばならない。
天使というものも、加速世界の住人だ。加速すれば逢える。つまり、逆説的に、減速すれば逢えるのだ。
中国で仙境と呼ぶ世界に入れば、アクセル・ワールドの黒雪姫(スノー・ブラック)のような美しい仙女にも逢える。ただ、時間の観念が希薄な世界なので、楽しんでばかりいると、あっという間に現界でいう百年やそこらは経ってしまう。それを描いたのが浦島太郎のお話という訳だ。あれも、一種の仙境のお話である。
具体的にどうやるかというと、ヒマラヤの聖者が、『バガヴァッド・ギーター』の一章、あるいは、一行を、一日かけて読む意味を考えればいい。
限りなく速度を落とすことが、限りなく加速することだ。
何、やってみれば分かることである。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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