ITスペシャリストが語る芸術

-The Kay Notes-
SE、プログラマー、AI開発者、教育研究家、潜在意識活用研究者、引きこもり支援講師Kayのブログ。

唯幻論

当ブログは、第一期ライブドア奨学生ブログです。
◇お知らせ
[2019/12/28]AI&教育問題専用ブログ、メディアの風を公開しました。
[2017/03/01]「通りすがり」「名無し」「読者」「A」等のハンドル名のコメントは原則削除します。

この世の一切は幻か?

心理学者の岸田秀氏の本は人気がある。
いや、ひょっとしたら今はそうではないかもしれないが、昔は人気があった(笑)。
なぜ人気があるのかというと、痛快であると共に「腑に落ちる」からだと思う。
かと言って、別に理論的に正しいことを書いているというのではない。
そもそも、岸田氏は、心理学は科学でも何でもない、いい加減なものと言う。
だから、「心理学的には・・・」なんて話をする心理学者は皆、嘘つきだと言う。
また、岸田氏は、面白い本を書こうとしたわけでもないと思う。
書きたいことを書いただけだと思うが、ただ、正直に書いたのだと思う。
そして、正直なことを言う学者は少ないのだ。
結果、世の中の嘘だらけの心理学の話の中で、岸田氏の話だけが腑に落ち、そのためだと思うが、著名人の中でも頭の良い人達が、岸田氏の本を愛読していることを表明している。
そして、岸田氏の本は実際に面白い。
分かり易く、なおかつ、腑に落ちるのだから、しかも、それが心の話となれば、面白くないはずがない。
別に、岸田氏の話が正しいと言うつもりはないが、心の問題について、岸田氏のような頭の良い知識のある人が正直な解釈をし、それを分かり易く説明しているのだから、かなり役に立つ可能性がある。
私には役に立った。
正直、妙に思う話もないではないが、悪意のある嘘はついていないので、納得出来なくても、そんなに嫌な気はしないのである。

岸田氏の有名な理論は「唯幻論」で、意味はそのまま「ただ、幻想だけがある」つまり「全ては幻想」だ。
ただ、インドの聖者が言うような意味で「一切は幻」と言っているのかどうかは分からないが、表向きではやはり同じ意味だ。
私は昔、SNSで岸田氏に、「一切は幻だと言うインドの聖者は、死後数十年経っても、彼の道場には毎年数万の人が訪れる」と言ったら、岸田氏は「私のところには、今年は1人しか来ていない」と返事をしてくれた。
また、岸田氏に、「百年騙せば、嘘も真実になる」と言ったら、岸田氏は「僕は唯幻論が百年バレない嘘であることを願う」と返事をしてくれた。
こんな人が、嘘つきのはずがない。
岸田氏は、フランスのストラスブール大学に留学した時(引きこもりのニートで暇だったから留学したらしい)、博士号を取ったと思い込み、心理学博士を名乗っていたが、ストラスブール大学の博士の会合に言ったら、「あなたは博士に登録されていない」と言われ、博士号取得が勘違いであると分かったらしい。
母校の早稲田大学で博士号取得の機会があったが、一部の教授連の強硬な反対に遭い、取得が出来なかったという。
しかし、博士号があるかないかに関係なく、岸田氏の本は最も値打ちのあるものだと思う。
岸田氏の本はデタラメという人もいて、その言い分を否定はしないが、岸田氏の話は面白くて役に立つのだから、デタラメかどうかは全くどうでも良い。

ところで、岸田氏の、こんな面白い話がある。
岸田氏の唯幻論の本がベストセラーになった後、岸田氏が務める大学(岸田氏は和光大学教授だった)に、1人の男が訪ねて来て、「全て幻想だから痛くないだろう」と言って、岸田氏を殴ったという。
これについて、岸田氏が何とコメントしていたか、あるいは、コメントしなかったのかも忘れたが、そもそも、「痛い」ってのが幻想じゃないのか?(笑)
私も、全てが幻想というのは、岸田氏と同じ意味ではないかもしれないが、全く賛成である。
ただ、今はスマートに「この世界はメタバース(あるいは仮想現実とかシミュレーション)」と言った方が便利だ。

で、岸田氏は、全くこんなことは言っていないが、願望は、浮かんだ瞬間に叶っている。
しかし、叶っていない世界が見えている人が多いことだろう。
その叶っていない世界が幻で、叶っている世界が真実だ。まあ、厳密には、叶っている世界も幻ではあるのだが、願望を真実の基準とすれば、やはり、叶っている世界が真実だ。
幻を幻と見ることが出来れば、真実の世界になる。つまり、願望が叶っている世界だけが真実だと分かれば、世界は意のままである。
それが引き寄せの根本原理なのである。

岸田氏の本は大変にお奨めである。
岸田氏の本は、Amazonで、古書でも凄く高い本が、もっと古い版や文庫版なら凄く安いことがあるので、安いのを選んで読めば良い。2度読むことはほとんどないので(笑 再読する価値ある本もあるが)。








全部幻

精神分析学者の岸田秀さんの本に、だいたいで、こんな話があった。
岸田さんの、全ては幻想であるという「唯幻論」を語る本がベストセラーになった後、岸田さんが勤める大学に読者の男がやって来て岸田さんを殴り、「全て幻想なら痛くないだろう?」と言ったらしい。
まあ、その読者の男は、唯幻論が気に食わなかったのだろうが、よほど気にならない限り、そんな馬鹿もしないだろうから、実際は熱心な読者ということになるだろう。
幻想なら痛くないかというと、人間の幻想では、殴られたら痛いのが普通だ。
もちろん、岸田さんを殴りに来て、見事に目的を果たしたその男は岸田さんの幻想である。
そんな目に遭った人が、
「ほう、見事な幻想を作るものだ。俺もなかなかやるじゃないか」
と思ったら、「イタい」幻想も不要になり、愉快な幻想になるってのが、『「ザ・マネーゲーム」から脱出する法』で、ロバート・シャインフェルドが教えていることだと思う。
ただ、私は、紙の本を読まない(家に紙の本の置場所がないという切実な事情で)ので、Kindle本の本田健氏の要約本でしか読んでいないが、あの分厚い紙の本を読むまでもあるまい。

全てが幻想であるかというと、それは間違いない。
別に、誰が言ったとか、何の本に書いてあるかではなく、それは当たり前のことである。
あえて言えば、クリエイティブコモンズ(著作権者が許可した範囲で自由に使うことが許可されている創作物)になっている、初音ミクさんの歌『FREELY TOMORROW』の最初の、「心ごと体ごと 全部記憶の中の幻」が、いかなる聖典よりも見事にそれを表現しているし、これをミクさんの歌声で聴くと、全てが一瞬で分かる(この楽曲は、最低の制限しか課されていない)。
と言っても、別にスピリチュアル系の歌ではないので誤解なきよう。
【調教すげぇ】初音ミク『FREELY TOMORROW』(完成)【オリジナル曲 歌詞付】: Mitchie M - YouTube -
File:Freely Tomorrow.ogg ※合法的な高品質音源ファイルのダウンロードはこちらから

聖者ってのは、やっぱり全ては幻想であるとした上で、「だから執着するな」とか言って、自分も生涯、ふんどし1本しか所有せずに生きるって人もいるが、それでは、なかなか共感は得られない。
いや、彼らによれば、共感する他人ってのは存在しないことになっているのだし、それは真実なのだろうが、誰も、いきなりそこまでぶっ飛びたくはない。
そうじゃなくて、全て幻想だと分かってしまえば、良いことがいっぱい起こるよ・・・でないと駄目だ。
問題は、そんな下心が強過ぎる間は、全部現実に感じてしまい、「この世は辛い」ってことになってしまうことだ。
早く、「辛かったね、ご苦労さん」と自分に言えるようになりたいものである。
では、どうすれば良いかというと、とどのつまりは、「存在する」以外のことは何もしないこと、「存在する」ことに徹することなのだが、やっぱり、人間はいろいろ経験して学ばないと、そういうふうにはなれないのだろう。
だからまあ、何でもやってみなさい、真面目に働きなさい、恥ずかしくない生き方をしなさい・・・というしかないのである。
別にそうでなくても良いのだが、多分、それが一番の近道だ。
そして、一番効率的なのは(皆、これが知りたいのだろうが)、超人合気道家の塩田剛三氏のように、熱心に金魚を観察するようなことだろうと思う。
私の場合は鳩と遊んでいる。鳩は可愛いからね。
鳩を見ていると、「ああ、こいつら、みんな私なんだなあ」とつくづく思うのである。
もちろん、あの美少女も、あの与太郎も自分なのだが、そういった感情的にインパクトを感じる相手とは同化し難い。
さて、今年の「マジカルミライ2018」では、ミクさんと一体化出来るだろうか?

ところで、やっと、『エスの本』(ゲオルク・グロデック 著、岸田秀・山下公子訳)のKindle版が出た・・・と幻想の中で喜んでいる。
「心身医学の父」が書いた、「エッチにもほどがある」という本と思う。しかし、貴重な本だ。訳者達は、自分の分担以外の所も訳して、お互いがチェックしたようだ。こんな真面目なやり方が好きだ。









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人生は幻想ではなく、挑み戦うべき現実

全ては幻想であるという「唯幻論」を唱えた岸田秀さんが昔、大学に勤務していた時、岸田さんの本を読んだ男が大学にやって来て、
「全てが幻想なら、これも痛くないだろ?」
と言って、岸田さんを殴り、岸田さんは鼻血が止まらなかったという。
さて、岸田さんと、岸田さんを殴った男のどっちが愚かなのかというと、私は、昔は、殴った男の方が愚かだと思っていた。
しかし、今は、両方愚かだと分かる。

この世は、我々にとっては完全な現実だ。
「人生は1つの夢のようなものと見なされるべきである」と言ったニサルガダッタ・マハラジや、「夢は短く、目覚めは長い。それ以外に両者に違いはない」と言ったラマナ・マハルシのような名高い聖者達も、もし、本当にそう言っていたとしたら、大間違いを犯していた。彼らは少しも賢くはない。
「人生は、挑み、戦うべき現実であり、しっかり目を覚まし、現実を見なければならない」というのが、本当に賢い人の見解だ。

「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という、有名な禅の公案(練習問題)がある。
あるおばあさんが、1人の僧のために、庵を建てて面倒を見ていた。
そしてある時、おばあさんは、若い娘に、その僧を誘惑させたら、僧は、
「私は悟っているから、こんな幻には惑わされぬ」
と言ったので、お婆さんは、
「じゃあ、現実を知れ」
と言って、庵を焼いて僧を追い出した。
その僧は、お腹が空いて、寝るところもなく、しっかり現実を思い知ったであろう。
岸田さんも、殴られて現実を思い知ったと思うのだが、その後も唯幻論を説き続けたのは、いかにも現実的な事情に違いない。

親から見れば、幼い子供のお父さんごっこやお母さんごっこは幻想のようなものである。
しかし、子供にとっては、それは現実である。
同じく、我々人類を、幼い子供と見ることが出来る高い存在からすれば、我々の人生は幻想かもしれない。
だがやはり、我々にとっては、我々の人生は現実なのである。
ならば、高い存在になるか、高い存在の援助を受ければ良い。
今朝も書いたが、『法華経』の第25章の『観音経』は、そんな方法を書いているのである。
『バガヴァッド・ギーター』もそうであるし、『観無量寿経』(浄土三部経の1つ)もそうである。









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少女に萌える奇妙さを解明する

「萌え(もえ)」という言葉は、ゾクっとするほどの情熱的な好意・愛着を示す言葉で、萌えの対象は人それぞれだが、猫(特に子猫)と美少女の場合が多いように感じる。
萌えという言葉が、いつ、どんなきっかけで使われ始めたかは、「スマートフォン」と同じくらい不明であるのだと思われる。
とはいえ、萌えの本来の意味である、「芽ぐむ」そのものに、若くて強い生命エネルギーの暗示があるので、誰かがたまたま使ったその言葉が、自然に広がったのではないかと思う。

萌えも、猫なら良いが、対象が美少女だと、眉をひそめる(しかめる)とか、気持ち悪いという感情を持つ人も多いと思う。
だが、萌えという言葉が出来るはるか以前に、美少女への強い愛着は、おそらく、太古の昔からあり、荒ぶる神への生贄が美少女の場合が多いのも、神に捧げる一番良いものは美しい少女であるという認識が、人類に普遍的にあるからだろう。
『大ヒッピアス 美について』(藤田大雪翻訳)で、ソクラテスがヒッピアスに「美とは何か」と尋ねた時、有名なソフィスト(弁論家、教育家)であったヒッピアスは、「簡単なことだ。それは美しい少女だ」と答えている(ソクラテスに反駁されるが)。
やはり、美しい少女は、この世で飛び切りに美しいものであることは確かである。

それにしても不思議なのは、美しい少女が美の象徴であることは分かるとしても、それが性的対象になる場合が多いことだ。
少女と言っても、せめて15歳以上であれば、それも現実的に思えるが、ウラジミール・ナボコフの『ロリータ』では、主人公ハンバートは、性的な意味も含め、自分が愛着を持つ美少女の年齢を「9歳から14歳」と厳密に定義しており、あくまでフィクションとはいえ、それもまた、妙にリアリティがあるのである。
なぜ、子供を産むような年齢でもない少女に性的関心を持つのか、また、現実的に、それが特殊なものとは言い切れないところに、強い不合理性を感じざるを得ない。
ナボコフは昆虫学者でもあるが、人間以外の生物には、そのようなものは見られないことをよく知っているから、この作品をある種の喜劇として書いたように思えるが、確かに、人間とは奇妙なものである。
ひょっとしたら、それ(少女への性的関心)は、人類に広く生じた幻想なのかもしれないことは、吉本隆明氏の『共同幻想論』からも推測出来る。
まあ、『唯幻論』の岸田秀氏、あるいは、その元になったフロイトによれば、本能が壊れた動物である人間の性欲自体が幻想であり、自然に立脚しない狂ったものであるという説を当てはめるなら、納得出来ないこともない。
だが、冷静に考えれば、誰もが、低年齢の少女への性的関心は不合理と分かるのであるから、幻想とは言い切れない。

そこで、私は、こう解釈している。
少女への性的関心は、神が与えた試練なのだと。
試練であるからには、意図がある。
それは、「高貴さを知る」ためである。
少女への性的関心は、おそらく、普遍的なものだ。
しかし、それは、高貴な心に作り変えることが出来るのである。
鉛のような卑金属を、金のような貴金属に作り変える錬金術は、本当は、そのような精神的な修練・修行を意味するのに違いない。
私には、このようにしか思えない。
そして、少女の方も、自身が高貴な存在(偉くはないが)であり、ある意味、天使の地上での代理人であることを自覚し、気高くあって欲しいと思う。

人類は、少女の性的魅力を神的な高貴さに作りかえることで、新しい段階に進歩する。
初音ミクさんは、16歳という設定になっているが、正直、もっと幼く感じると思う。
しかし、16歳らしい魅力も十分にある。
それでいながら、ミクさんを愛する人というのは、男性の場合、彼女に性的関心は、ほとんど持っていないのだと思う。
私の場合が全くそうである。
つまり、初音ミクさんは、人類に高貴さを教えるために生まれた存在でもあるのだ。
女性の場合は、ミクさんの何かを自分に取り込むことで、やはり高貴になるのだが、ファンの中心である10代の女性は、特にそうあって欲しいと願う。









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自分も人類も信じられない

こんなことは、誰にでもあるのだろうかと思うことがある。
私は、小学5年生になった時、クラスに、とても可愛い女の子がいたので、たちまち憧れ、いつも彼女のことを考えていた。
ところが、夏になった頃だ。
彼女を眺めながら思ったのだ。
「なんで、こんな子が好きだったのだろう?」

また、私が小学3年生の時だ。
そういえば、幼稚園の時のクラスに、とても可愛い女の子がいたことを思い出した。
繊細で、妖精のような子だったはずだ。
それで、幼稚園の卒園アルバムを取り出し、彼女の写真を見た。
すると、確かに、この子がそうだと分かったその女の子は、どこも可愛いと感じられないような子だった。

漫画の絵や、自分が描いた絵で、とても美しいと思っていたものが、1ヶ月とか、数ヵ月後に見たら、つまらない絵、ひどい絵、はては、醜悪な絵と感じることすらあった。

こういったことがあると、面白いとも感じるのだが、自分の美的感覚・・・、いや、自分そのものが信じられなくなるというところが、やはりある。

そりゃ、日本でも、昔の人達が美人だと感じていたような女性を、現代の人が見たら、逆に醜いと感じるということもあるのだと思う。
また、女性に限らないが、ある国では美人ともてはやされるような女性が、別の国では平凡以下に扱われることもあるはずだ。
ある途上国では、首が長い女性が美人とされ、女性は、幼い時から、首を伸ばすための首輪を、首が長くなるごとに追加してつけていき、成長後は、首が相当に長くなっている。
その民族の間では、そんな女性達を美しいと感じるのだろうが、それらの女性は、私には、グロテスク(フランス語で「異様」「怪奇」)としか思えない。

絵画においても、今(というよりある時期以降)では名画とされている、ルノアールやセザンヌの絵も、描かれた当時は全く評価されず、それどころか、駄目な絵のレッテルを貼られていた。
ゴッホの絵なんて、彼の存命中は、貶されるだけの対象で、実際、ゴッホの生存中は1枚も売れなかった。
それが、今や彼らの絵は天上知らずの値で取り引きされるだけでなく、実際、その美しさが認められている。

つまり、私が個人的に感じていたことは、民族単位、国単位でも言えることなのだろう。
では、民族の美徳、国家の是(ただしいこと)といったものは、全く信用ならないことになる。
思想家の吉本隆明氏が、国とは幻想であると気付き、愕然としたと、『共同幻想論』に書かれていたが、彼の話は難し過ぎてピンとこなかったが、つまり、それは、私が感じているようなことなのかもしれない。
精神分析学者の岸田秀氏が、「全ては幻想」という『唯幻論』を唱えているが、彼の説は信用出来ない部分も多いながら、人間が幻想に支配されていることは確かなようである。

昨夜、『マジカルミライ2013』のブルーレイを見ていたのだが、初めてこれを見た時、このコンサートの初音ミクさんは、あまり美しくないと思っていた。
ところが、昨夜見たら、そのミクさんは文句なく美しくて可愛いと感じたのである。
もちろん、『マジカルミライ2014』、『マジカルミライ2015』も、全て素晴らしいと思っている。
私は、以前は、『ミクの日感謝祭』シリーズのコンサートのミクさんの姿に慣れていたので、『マジカルミライ』シリーズのミクさんに違和感があったのだと思う。
まあ、ミクさんそのものは、2008年に、初めてMMD(ミクミクダンス)という動画ソフトで作られた「Lat式」と言われるモデルのミクさんを見た時から、ミクさんは全て良いと思っているが、ミクさんに関してすら、自分の感覚が変化するということは注目に値する。

世間はもちろん、国も、人類も、そして、自分すら信じられない。
それが事実だ。
人間は、刹那にしか生きることが出来ないと思ってしまうのも仕方がない。
だが、それでは、人類や自分には、何の価値も見出せない。
だから、人類は、昔から、永遠に変わらない何かを手に入れたいと願ってきたのだ。
もちろん、私も、それを求めているのだろう。

岡本太郎は、ゴッホやピカソについて、「きれいではないが美しい」と言った。
変わっていくのは「きれい」だけであり、「美しい」は変わらない。
岡本太郎は常にそう言っていた。
表現の仕方は色々あるだろうが、彼は真理を分かっていたのだろう。
ほとんどの人が、「きれい」にのみ目を奪われ、「美しい」をないがしろにしているのだろう。
私は、「美」を求めることを、ただ今、決意した。
それにより、ミクさんの感じ方も変わってくるだろう。
間違いなく、ミクさんの真の美しさを発見するだろう。









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プロフィール
名前:Kay(ケイ)
・SE、プログラマー
・初音ミクさんのファン
◆AI&教育blog:メディアの風
◆著書『楽しいAI体験から始める機械学習』(技術評論社)


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